第十章「黒幕登場」
穏やかな日々は、長くは続かなかった。
最初の予兆は、小さなことだった。
屋敷の周囲を、見知らぬ人物がうろつくようになった。
商人の格好をしていたが、荷物を持っていなかった。
物乞いの格好をしていたが、物を乞わなかった。
ただ、屋敷を遠巻きに眺めていた。
クロード卿がそれに気づいたのは、私より早かった。
「ローゼン嬢、しばらく外出を控えてください」
ある朝、護衛に来たクロード卿はそう言った。
いつもより声が低かった。
「何かありましたか」
「確認中です。ただ、念のため」
「念のため、とおっしゃるときは、念のためではない場合が多いですわね」
彼は少し間を置いてから、
「……鋭いですね」
と言った。
◆
事態が動いたのは、三日後だった。
その日、私は屋敷の書庫で本を読んでいた。
クロード卿は一階の応接間で報告書を確認していた。
リナは買い出しに出かけていた。
父は王宮への用向きで外出中だった。
書庫は屋敷の二階にあり、窓からは庭が見渡せた。
本に集中していたその時、実況が流れた。
『おっと庭の東側、植え込みの奥に人影が二つ! 屋敷の壁を確認しています! あれは通常の訪問者の動きではありません! さらに西側の門扉付近にも一名! 三名が連携して動いています! これは侵入の準備では!?』
私は本を閉じた。
立ち上がると同時に、窓に近づいた。
実況が言う通り、植え込みの奥に人影があった。
「ヴァルナー卿——!」
声に出すより早く、一階から足音が聞こえた。
クロード卿がすでに動いていた。
二階への階段を駆け上がってきた彼は、書庫の扉を開けた瞬間、私の位置と窓の外を素早く確認した。
「実況が聞こえました。離れてください、窓から」
「はい」
私は壁際に下がった。
クロード卿が窓の端から外を覗いた。
「三名、確認します。……訓練を受けた動きです。民間人ではない」
「どういう方々でしょう」
「わかりません。ただ——」
その時、一階の扉が蹴破られる音がした。
◆
実際の侵入は、あっという間だった。
三名が屋敷に入り込み、二名が一階で使用人たちを押さえた。
一名が、真っ直ぐ二階へ向かってきた。
クロード卿が書庫の扉の前に立った。
剣を抜いた。
侵入者が扉を開けた瞬間、二人の剣が交差した。
私は書庫の奥で、息を殺していた。
戦闘は静かだった。
金属が触れ合う音と、素早い足音だけが聞こえた。
クロード卿の動きは無駄がなく、迷いがなかった。
やがて、侵入者が後退した。
クロード卿が一歩前に出た。
「目的を言え」
低い声だった。
私が聞いたことのない、そういう声だった。
侵入者は黒い覆面をしていた。
答えなかった。
代わりに、懐から何かを取り出した。
煙幕だった。
白い煙が一瞬で書庫を満たした。
『おっと煙幕展開! 侵入者の目的はやはり主人公の確保! 煙の中、侵入者は主人公の位置を把握しています! 右後方から接近中! 危ない!』
実況が先に気づいた。
私は右側に咄嗟に動いた。
すぐ横を、何かが通り過ぎた。
腕を掴もうとした手が、空を切った音だった。
「ローゼン嬢!」
クロード卿の声が煙の中から聞こえた。
「こちらです!」
声で場所を知らせながら、私は本棚の間を移動した。
実況が続く。
『侵入者、位置を修正して再接近! 騎士団長は煙で視界が遮られています! 主人公、本棚の端まで移動して——左に!』
「左!」
自分で実況を聞きながら、自分で動いた。
初めてのことだった。
実況を、自分のために使った。
左に身体を倒した瞬間、再び手が空を切った。
今度は強い風が頬をかすめた。
煙の中でクロード卿の足音が近づいてきた。
それと、もう一つの足音が遠ざかった。
窓が開く音がした。
煙が薄れた頃、書庫には私とクロード卿だけが残っていた。
侵入者は逃げていた。
クロード卿が私のそばに来て、状態を確認した。
「怪我は」
「ありません。実況が教えてくれたので、避けられました」
彼の目が、わずかに細くなった。
怒りとは少し違う、もっと鋭い何かがそこにあった。
◆
事件の後処理には、半日かかった。
騎士団の部下たちが呼ばれ、屋敷の周囲が封鎖された。
逃げた侵入者のうち一名が近くで取り押さえられ、尋問が行われた。
その結果を、クロード卿は夕方に私へ報告した。
「侵入者は、『ラーゼン結社』という組織の構成員です」
「ラーゼン結社、とは」
「古い組織です。表向きは古代遺物の研究団体ですが、実態は——古代の特殊能力を持つ人間を確保し、利用することを目的としています」
私は少し黙った。
「わたくしの実況を狙って、ということですか」
「古代の記録によれば、実況の力を持つ者は『神託使い』と呼ばれ、国家規模で争奪される存在だったそうです。戦の帰趨を変えられる、国家兵器として」
国家兵器。
その言葉が、胸の中に重く落ちた。
『おっと主人公、今ここで実況スキルの本当の重さを実感しています。笑えない話になってきました』
実況も、珍しく静かなトーンだった。
クロード卿が続けた。
「今回は未遂に終わりましたが、組織の規模は相当なものです。次は更に人数を集めてくる可能性があります」
「……はい」
「護衛を増員します。また、屋敷の警備も見直します」
「わかりました」
私は静かに答えた。
怖くないと言えば嘘だった。
でも、それより強く感じたのは——迷惑をかけているという気持ちだった。
クロード卿に。
父に。
屋敷の使用人たちに。
「ヴァルナー卿、今日は——怪我はありませんでしたか」
「かすり傷程度です」
「かすり傷でも——」
「問題ありません」
いつもの答えだった。
いつもの答えなのに、今日は少しだけ違って聞こえた。
「……わたくしのせいで、危険な目に遭わせてしまって。申し訳ありません」
クロード卿が私を見た。
長い沈黙の後、彼は静かに言った。
「謝らないでください」
「でも」
「これは任務です。ただ——」
また、少し間があった。
「任務だからここにいる、とだけではなくなっています」
部屋が静かになった。
窓の外では、騎士団の部下たちが警備を続けている音が聞こえた。
遠くで犬が吠えた。
私は何も言えなかった。
『おっと騎士団長、二度目の本音をこぼしました! 今回は一度目より明確です! 主人公、心拍数が上がっています! 実況令嬢、珍しく無言です!』
「……」
「……」
クロード卿が、静かに立ち上がった。
「今夜は私も屋敷に残ります。父上にも許可をいただいています」
「……はい」
「休んでください。今日は疲れたでしょう」
扉へ向かおうとした彼の背中に、私は小さく声をかけた。
「ヴァルナー卿」
「はい」
「……今日、助けてくれてありがとうございました」
彼は扉の前で少し止まった。
振り返らなかった。
ただ、
「どういたしまして」
とだけ言って、静かに扉を閉めた。
残された部屋で、私はしばらく動けなかった。
『本日の実況、以上となります。なお主人公、今夜はなかなか眠れない予感がします』
「……その予感は、当たりそうですわ」
呟いた声が、誰もいない部屋に静かに溶けた。




