第九章「実況、国外進出」
事の始まりは、外交官の訪問だった。
ある朝、王宮から使者が来て、翌日に隣国ヴァルダン公国の外交使節団が王都入りすること、その歓迎の場に私の同席を求めるという知らせを持ってきた。
私の同席を、求める。
「……なぜわたくしが」
使者は少し困った顔をして答えた。
「ヴァルダン公国側からの、ご指名でございます」
「指名」
「はい。是非ともローゼン嬢と会いたいという——その、実況令嬢とのご会談を、公国側が強く希望されておりまして」
私は使者の顔を見た。
使者は視線をやや横にそらした。
申し訳なさそうな顔をしていたが、それは私への同情なのか、自分の役回りへの同情なのか、どちらとも取れた。
『おっと実況令嬢の名声、国境を越えました! 隣国からのご指名という形で国際デビューが決定! 主人公、今朝起きてから最大のため息をついています!』
「最大のため息、という表現は少し悲しいですわ」
使者がまた困った顔をした。
クロード卿は無言で使者の言葉を聞いてから、静かに言った。
「詳細を確認させてください。どのような経緯で、ローゼン嬢の名が隣国に届いたのですか」
使者は少し声を低くして答えた。
「その……実況の内容が、国境を越えた商人たちの口から伝わり、ヴァルダン公国内で写しが出回っているそうで。特に宰相の件と、軍議の件が——」
「写し、とは」
「実況の言葉を書き留めた者がおりまして、それが手紙で広まったようです。公国の上流階級の間では、実況令嬢の最新情報を集めることが一種の流行になっているとのことで」
流行。
私の心の声が。
流行。
『おっと主人公の実況、国際的な読み物コンテンツとして流通中! ラジオ番組のような感覚で楽しまれているようです! 人気コンテンツのクロスボーダー展開、という形になりました!』
「コンテンツ……わたくし、コンテンツになっていましたの」
クロード卿がこめかみを押さえた。
押さえてから、深呼吸して、使者に向き直った。
「わかりました。護衛の体制を整えたうえで、同席の手配をします」
「ありがとうございます。では明日、王宮の第三謁見室に——」
「待ってください」
私は口を挟んだ。
「何か問題があれば、わたくしが実況でまた何か暴いてしまう可能性が……ありますが、よろしいのですか」
使者が少し笑った。
苦笑でも嘲笑でもない、素直な笑いだった。
「実はそれも含めて、向こうが望んでいるようです」
◆
翌日、王宮の謁見室はほどよい緊張感に包まれていた。
ヴァルダン公国の使節団は五名で、先頭に立つのは壮年の男性——外交官のルノー・デュバル卿だった。
銀縁の眼鏡をかけた、細面の人物で、物腰は柔らかいが目が鋭かった。
互いの紹介が終わると、デュバル卿はまっすぐ私を見た。
「ミレイユ・ローゼン嬢。噂は届いております。実際にお会いできて光栄です」
「ありがとうございます。ただ、噂の内容については……あまり誇れたものではございませんので」
「謙遜なさらず。我が国でもあなたの実況を心待ちにしている者は多い」
デュバル卿は微笑んで続けた。
「実は本日、公式の外交交渉に加えて、一つ相談があってまいりました。我が国と王国の間に、長年解決しない問題がございます」
「問題、とは」
「国境付近の水利権をめぐる争いです。二十年以上、交渉が続いていますが、双方の主張が折り合わず——現地では小競り合いが絶えません」
王国側の外交担当官が、少し顔をこわばらせた。
確かに長年の懸案だと、私も父から聞いたことがある。
デュバル卿は私を見た。
「あなたの実況は、真実を暴くと聞いています。ならば——この問題の核心を、見ていただけますか」
『おっと外交問題の核心を実況で見てほしいという依頼! これは異例の展開ですが、なかなか興味深い試みです! 主人公、今少し緊張しています! でも同時に、知的好奇心も顔を出しています!』
デュバル卿が微かに笑った。
「正直な方ですね」
「……実況がそう言ってしまうもので」
「構いません。では、この地図を見ていただけますか」
広げられた地図には、国境付近の地形と、川の流れが描かれていた。
両国の主張するルートに、それぞれ色が塗られている。
私はじっと地図を見た。
見た、というより——眺めた。
実況任せにする、というと語弊があるが、自分の頭で考えるより、流れてくるものを待つ方が正確だと最近わかってきていた。
しばらくして、流れてきた。
『この地図、二十年前の測量データを元にしています。ところが現在、上流に新しく作られた堰の影響で川の流れが変わっている可能性があります。王国側の主張ルートには実際にはもう水が流れていない区間があり、公国側の主張ルートには以前なかった支流が生まれています。つまり両国とも、現在存在しない川を巡って争っている可能性があります! 現地の再測量を行えば、双方にとって有利な新しい合意点が見つかるはずです!』
謁見室が静まり返った。
王国の外交官が、地図を覗き込んだ。
デュバル卿が眼鏡を外して目を細めた。
「……二十年前の測量、とは確かです。我々は最新の測量を行っていなかった」
「我が国も同様です」
王国の外交官が、少し呆然とした顔で答えた。
「二十年間、実在しない川を奪い合っていた可能性があると?」
『可能性ではなく、ほぼ確実です! 実況令嬢、断言します!』
デュバル卿が、今度は声を立てて笑った。
柔らかい、本物の笑いだった。
「素晴らしい。合同測量チームの編成を、改めて提案したい」
会議室の空気が、ほぐれた。
二十年続いた膠着が、一枚の古い地図を眺めただけで動き始めた。
私は何をしたのだろう、と少しぼんやり思った。
◆
謁見室を出た後、廊下でクロード卿が静かに隣を歩いていた。
「……ヴァルナー卿」
「はい」
「わたくし、今、外交問題を解決しましたか」
「した、と思います」
「なんということでしょう」
「同意します」
しばらく歩いた後、クロード卿がまた口を開いた。
「ただ、あなたが古い測量データに気づいたことは、偶然ではありません。地図を見た瞬間にわかったのでしょう」
「……はい」
「あなたの実況は、見えているものから正確な結論を導きます。それは、外交の場でも有効だということが、今日証明された」
彼は淡々と言った。
淡々としているが、言葉の中に、何か確かなものがあった。
「……ヴァルナー卿はわたくしの実況を、認めてくださっているのですか」
「最初から危険視していたわけではありません。正確には——制御できないことが危険だと思っていました。ただ、あなた自身は善意で動いています。それは最初の日からわかっていた」
「最初の日から」
「婚約破棄されて、それでも礼儀を崩さなかった。動揺していても、丁寧に謝った。制御できないことへの苦悩も、本物でした」
私は少し黙った。
「……そんなところを、見ていましたの」
「護衛の仕事ですから」
そう言ってから、彼は少し間を置いた。
「それだけではありませんが」
最後の言葉は、少し小さかった。
聞き取れた。
聞き取れてしまった。
『おっとここで騎士団長、ほぼ独り言のように本音を漏らしました! 本人は聞こえなかったと思っているようですが、聞こえています! 実況令嬢、しっかり聞こえています!』
「……」
「……」
廊下に、しばらく沈黙が続いた。
クロード卿は前を向いたまま、歩き続けた。
私も前を向いたまま、歩き続けた。
頬が熱かった。
熱かったが、今度は自分から何かを言う勇気が、少しだけあった。
「……わたくしも、あなたに護衛してもらっていることが、怖くないのは——それだけではないかもしれません」
声が少し震えた。
言ってから、ものすごく恥ずかしくなった。
クロード卿の歩く速度が、ほんの少しだけ落ちた。
『おっと主人公、本音を口にしました! 双方の感情、急接近中です! 実況中継、目が離せません!』
「……目を離してくださいませ」
私が蚊の鳴くような声で言うと、クロード卿がわずかに、本当にわずかに、
「同意します」
と答えた。
声が、少しかすれていた。
王宮の廊下に、夕方の光が長く伸びていた。




