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観測者と未定義領域

アスファルトを蹴る自分の足音が、やけに大きく鼓膜に響いた。一歩、また一歩。まるで処刑台へ向かう罪人のようだ。隣を歩く詩織は何も言わない。ただ、俺の半歩後ろを、同じリズムでついてくる。その気配だけが、今にも逃げ出しそうな俺の背中を押しとどめていた。

昨夜、黒田仁に返信してから、一睡もできなかった。まぶたの裏で、あの男の冷たい目がちらついて離れない。待ち合わせは新宿の西口から少し離れた、ビル風が吹き抜ける小さな公園。約束の時間まで、まだ一時間以上もある。



「……なんで、ついてきた」



喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。詩織は数秒の間を置いてから、短く答える。



「魂が、そっちに行きたがってた」



それだけだった。俺の心配も、黒田への恐怖も、何もかも見透かした上で、全く意に介さない、いつも通りの答え。アパートを出る俺を、玄関でただじっと見ていたこいつに「来るな」と言えなかったのは、この静かな眼差しに、心のどこかで縋りたかったからかもしれない。



一度目の人生で、俺はたった一人で逃げ続けた。だが今は、隣に最高の相方がいる。この事実だけが、震える膝を支える唯一の杭だった。



「……少し、寄るとこある」



俺は、待ち合わせ場所とは逆の方向を指した。



 ◇



ライブハウス『ステージ・エンド』の重い扉は、鍵がかかっていなかった。昼間のこの時間、オーナーの矢崎さんはたいてい二日酔いで眠っているか、どこかで飲んでいるかのどちらかだ。案の定、カウンターにも楽屋にも人の気配はない。



薄暗いフロアに足を踏み入れると、消毒液と埃の匂いが混じり合った独特の空気が肺を満たした。

客のいない客席はがらんとして、墓場のように静かだ。

俺は一番後ろの席に、崩れるように腰を下ろす。詩織は何も言わず、少し離れた席に同じように座った。



スポットライトの当たらないステージは、ただの薄汚れた木の台だ。



だが、俺には見えた。

そこに立つ、10年前の俺の幻影が。誰にも笑われず、嘲笑と憐憫の視線に射抜かれ、惨めな思いだけを抱えて舞台を降りた、一度目の人生の俺の姿。あの時の、内臓が凍るような絶望。全てを諦めた瞬間の、耳の奥で鳴り響いた静寂。何もかもが、昨日のことのように蘇る。

あの失敗の記憶こそが、俺の魂の原点だ。



奥歯を、血が滲むほど強く噛み締める。

(今度こそ、俺は……)



今度は違う。俺には未来の記憶があったはずだった。だが、そのカンペはノイズにまみれ、もはや何の役にも立たない。残された武器は、あの惨めな過去だけ。



俺は、一度目の人生と同じ選択を決して繰り返さない。



その誓いを臓腑に刻みつけ、俺は立ち上がった。



 ◇



夕暮れの公園を、帰路を急ぐ人々の影が足早に通り過ぎていく。その流れから切り離されたように、指定されたベンチに、男は座っていた。



黒田仁。



シワひとつないモノトーンの服装に、銀縁のメガネ。その佇まいは、周囲の生きた人間たちから色と温度を奪い取ったような、精巧な機械人形そのものだ。俺と詩織の存在に気づくと、彼はゆっくりと顔を上げた。



「時間通りか。感心だね、風間悟くん」



声に温度がない。値踏みするような視線が、俺を通り越し、隣の詩織に向けられる。



「そちらが、君の新しいパラメータか。興味深い組み合わせだ」



「……用件は、メッセージの通りだ。あれは、どういう意味だ」



腹の底から湧き上がる恐怖を、怒りで塗りつぶして切り出した。これ以上、こいつのペースに付き合う気はない。黒田は、待ちかねていた質問に答える教師のように、わずかに唇の端を吊り上げた。



「ああ、『ノイズ』について、だったね。君がカンペ――未来の記憶を使えなくなった理由でもある」



こともなげに告げられた言葉に、喉がひゅっと鳴った。



「単刀直入に言おう。君の『魂』などという非合理なものと、君が持つ『未来情報』が結びついた結果だよ」



黒田は、世界で一番簡単な数式を解説するかのように淡々と語り始めた。俺の理解など置き去りにして。



「過去の経験という不確定なデータと、確定しているはずの未来データが衝突し、システム内に予測不能な変数を生み出した。それが『ノイズ』の正体だ。本来、君のタイムリープは、一度目の人生を完璧にトレースするための、再現性の高いシミュレーションだったはずだ。だが、君は『一度目の人生と同じ選択をしない』と決めた。その意志が、私の観測システムにおいて特異点シンギュラリティとなった。君の意志が強ければ強いほど、ノイズは増幅し、安定した未来予測――つまり、カンペへのアクセスを阻害する」



脳を直接かき混ぜられるような衝撃だった。俺が必死で足掻いてきた全てが、こいつの言葉一つで、ただのシステム上の現象として無機質に定義されていく。



「一度目の人生の君は、実に予測しやすい、美しいデータだった。退屈ではあったがね。だが、今の君は違う」



黒田の目に、初めて明確な感情が宿った。

ガラス玉のようだった瞳の奥で、仄暗い炎が揺らめいている。



それは、純粋な愉悦だった。



「私の完璧な理論を、唯一揺るがすことができる。私の退屈な世界を、根底から破壊してくれるかもしれない……最高のライバルだ」



彼は俺の『魂』を否定しなかった。ただ、冷徹に定義した。昆虫学者が新種の虫に学名をつけるように。



「君の『魂』は、私の理論体系における、最も美しい『未定義領域』だよ、風間悟くん」



そして、彼はこう続けた。その言葉が、俺の世界の時間を、完全に停止させた。



「君はバグだ。観測史上、最も美しいバグだよ。そして、バグは修正されるか、システム全体をクラッシュさせるかのどちらかだ」



世界から音が消えた。

俺が立っている地面が、足元から砂のように崩れていく。必死に積み上げてきたもの、俺の魂の叫び、詩織が見つけてくれた唯一の価値。それが、この男のたった一言で、『バグ』というラベルを貼られ、陳列ケースに並べられた。

(バグ……? 俺が死ぬ気で捻り出した魂の叫びは、こいつにとってはただのシステムエラーかよ……)

解剖されるのを待つだけの、ただの標本にされた屈辱で、腹の底が急速に冷えていく。



黒田は満足げに立ち上がると、去り際に、爆弾を一つ落としていった。



「ああ、言い忘れていた。君と同じ『ノイズ』を持つ個体を、かつて観測したことがある。実に興味深いサンプルだったよ」



その言葉の意味を考えるよりも早く、彼の姿は雑踏に溶けて消えていた。



夕闇が公園を包み込む。隣にいる詩織の体温だけが、やけに生々しい。俺は冷え切ったベンチに座り込んだまま、アスファルトに長く伸びる自分の影を見つめた。地面に張り付いた、醜い染みだった。



強く、拳を握る。爪が掌に食い込む痛みだけが、今の俺がここにいる唯一の証明だった。

「俺の魂は……俺の笑いは、お前の理論の実験台じゃない……!」

声にならない叫びが、暗い胸の奥で木霊した。



ふと、隣から小さな声がした。

「……あの人の言葉、魂が、なかった」



詩織だった。俺と同じように、黒田が消えた闇を見つめている。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。ただ、事実を口にしただけ、というように。



「……魂の、燃えカスすらなかった。全部、からっぽ。だから、ノイズ」



「ノイズ……」



俺はオウム返しに呟く。黒田は俺の魂を『ノイズ』と呼んだ。だが、詩織は黒田の言葉そのものを『ノイズ』だと言う。どっちが正しいとか、そういう話じゃない。俺の世界の中心は、いつだってこいつの言葉だ。



「……でも、あいつは言ってた。俺の魂は『バグ』だって。修正されるべきエラーだってな」



自嘲気味に吐き捨てると、詩織はゆっくりと首を横に振った。



「魂は、バグじゃない」



きっぱりとした、短い言葉。



「魂は……魂。それだけ。形が違うだけ。あの人は、丸い魂しか知らない。四角い魂を見たら、エラーだって、言う。それだけ」



丸と、四角。あまりに単純な比喩。だが、黒田の小難しい理論よりも、ずっと深く俺の胸に突き刺さった。そうだ。あいつは、自分の理解できる範疇のものしか認めない。自分の数式に当てはまらないものは、全てエラーとして切り捨てる。俺のこの、歪で、惨めで、孤独に死んだ魂の形なんて、あいつの完璧な世界には存在してはいけない異物なんだ。



「……同じノイズを持つ個体を、観測したことがある、か」



黒田の置き土産が、脳内でじわりと溶け出す。俺と同じ? タイムリープして、未来の記憶に汚染された芸人が、他にもいたっていうのか? 一度目の人生の記憶をまさぐろうとするが、頭の奥で砂嵐が吹き荒れるだけで、何も像を結ばない。



カンペは、もうあてにならない。未来だけじゃない。俺が生きてきたはずの、過去の記憶さえも。



思考の渦を、唐突な音が断ち切った。

「ぐぅぅ〜……」



静寂を切り裂いて、盛大な腹の虫が鳴った。音の発生源は、もちろん俺の隣だ。



詩織が、腹を押さえながら、こっちをじっと見ている。



「……お腹、すいた」



さっきまでの真剣な表情はどこへやら、その顔にはただ一文字、「空腹」と書いてある。この落差。この、どうしようもない生命力。



俺の深刻な悩みも、存在価値を揺るがすほどの屈辱も、こいつの腹の虫の前では、どうでもいいことになってくる。



「……ははっ」



乾いた笑いが漏れた。



「……だよな。腹も減るよな」



ベンチから立ち上がる。足が少し、ふらついた。でも、さっきまでの絶望的な重さはない。



「何か食いに行くか」



「……うん」



詩織はこくりと頷き、俺の隣に並んで歩き始めた。行き先なんて決めていない。ただ、夜の街の光に向かって、二人で並んで歩く。



街灯が、俺たちの影をアスファルトに長く引き伸ばす。一つは猫背でよろりとしていて、もう一つは小さくて真っ直ぐだ。不格好で、ちぐはぐな二つの影。



「なあ」



俺は、前を向いたまま尋ねた。



「俺の魂って、今、どんな形してんだ?」



「……うーん」詩織は少し考え込む。「……今は、もっと、こう……ぐちゃぐちゃ。粘土みたい」



「粘土かよ」



「でも、色は綺麗。……虹色」



虹色の、ぐちゃぐちゃな粘土。最悪なんだか最高なんだか、さっぱり分からない。だが、それが今の俺だと思った。



黒田の言葉が蘇る。――君は美しいバグだ。



(ああ、そうだよ。俺はバグで結構だ)



お前の申し分ないシステムを、クラッシュさせてやる。俺と詩織の、この虹色でぐちゃぐちゃな魂で。それは、復讐なんかじゃない。ただの、証明だ。俺たちが、ここにいるという証明。



「……なあ、詩織」



「ん?」



「面白いもん、作るぞ」



俺の言葉に、詩織は顔を上げた。その大きな瞳が、街のネオンを映して、きらりと光る。



彼女は何も言わずに、ただ、小さく、本当に小さく、唇の端を上げた。



俺には、それが何よりの答えに思えた。

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