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ノイズと喝采

祭りの後の気怠い熱が、楽屋の空気に澱んでいた。汗と安い消毒液の匂いが染みついた壁で、色褪せた無数のフライヤーが俺たちを見ている。パイプ椅子に深く沈み込み、まだじんじんと痺れる舞台の興奮に身を任せる。魂が引き裂かれるような、激しい疲労感が全身を支配していた。その奥で、こめかみのあたりに今までとは質の違う、微かな痛みの残滓が燻っている。

「……ん」



向かいの席で、詩織が満足げな声を漏らした。プラスチックのスプーンで、コンビニのプリンの最後の一口をすくい、ゆっくりと口に運んでいる。その人形のように整った顔には、何の感情も浮かんでいない。だが、俺にはわかる。彼女の魂が、満腹だと笑っているのが。



最高の相方との、最高のスタート。

これでいい。これが、俺が欲しかったものだ。



(……次だ)



充足感に浸る身体とは裏腹に、腹の底で飢えた獣が唸る。次の舞台。もっと、こいつを笑わせるネタを。俺は無意識に、頭の中の『カンペ』を探っていた。一度目の人生で蓄積した、未来のエンタメの成功法則。その膨大なデータの中から、次のヒントを――。



指先が、急に冷たくなった。



いつもなら瞬時に引き出せるはずの情報に、分厚いフィルターがかかっている。10年後の流行語。ブレイクする芸人の名前。社会現象になるテレビ番組のタイトル。その全てが、ブラウン管の砂嵐のように「ザーッ」という激しい音を立てて掻き消されていく。



(嘘だろ……?)



焦りが心臓を鷲掴みにする。別の記憶の引き出しを無理やりこじ開けるが、結果は同じ。視界の端がじりじりと暗くなり、立っているはずの床がぐにゃりと歪む感覚。俺の頭の中から、絶対的な正解が消えていく。成功への唯一の地図が、目の前で灰になっていく。



「よう。生きてるか」



不意に、楽屋のドアが軋みながら開いた。煙草のヤニと安物のウイスキーの匂いを連れて、矢崎さんが立っていた。眠たげな目は、いつもより少しだけ鋭い光を宿している。



「……まあ、なんとか」

「悪くなかったぜ、お前らの漫才」



彼は壁に寄りかかりながら、無造作に言った。その言葉に飾り気はないが、ずしりと腹に響く重みがあった。



「だが、一つだけ言っとく」

矢崎さんは、革ジャンのポケットから取り出したヒップフラスコに口をつけた。鈍い銀色の輝き。

「いいか、魂を削るってのは麻薬みてえなもんだ。客はもっと強えのを求める。お前は、そのたびに自分を差し出す覚悟があんのか?」



彼の指が、フラスコを白くなるほど強く握りしめている。その視線は俺たちではなく、もっと遠い、誰もいない過去の舞台に向けられているようだった。



俺は、何も答えられなかった。



矢崎さんはふっと煙草の煙のような息を吐くと、ポケットからくしゃくしゃの紙切れを取り出してこちらに投げる。

「来週、うちで若手のライブがある。出てみろ。お前らなら、やれるだろぉ」

それは、ライブの出演者募集のチラシだった。

「せいぜい、俺が見れなかった景色まで、飛んでみせろよ」

それだけ言うと、彼は再び気怠い空気をその身に纏い直し、静かに楽屋から出ていった。





「……お腹、すいた」



矢崎さんが去った後の重い沈黙を破ったのは、やはり詩織だった。

俺たちは近場のファミレスに陣取り、なけなしの出演料でささやかな祝賀会を開いていた。ジュージューと鉄板の上でハンバーグが焼ける匂いが、空腹を刺激する。



テーブルに置いたスマホが震えた。画面には『相田亜紀』の文字。詩織の唯一の友人だ。



「もしもし、しーちゃん!? 今日のライブ、マジやばかったって! SNS、めっちゃ盛り上がってるよ!」

スピーカーから、亜紀の興奮しきった声が飛び出す。俺は黙って、自分のハンバーグを切り分けることに集中した。世間の評価。一度目の人生で、喉から手が出るほど欲しかったもの。だが、今の俺には、隣で黙々とポテトを口に運ぶこいつの評価が全てだった。



「…そう」

詩織の返事は、いつも通り短い。

「てかさー、悟くんのあの、なんか死にそうな感じ? あれがマジでエモいって! みんな言ってるんだけど、わかるー?」

「……悟の魂、前より燃費が悪くなってる」

「へ?」



亜紀の間の抜けた声が響く。詩織は、俺の顔をじっと見つめながら、真顔で続けた。

「前の魂は、ガソリンだった。…今の魂は、なんか、もっとこう、貴重なやつ。…ウラン、みたいな」

「う、ウラン!? しーちゃん、何言ってんの!?」



(ウランかよ……)

思わず、口元が緩む。俺の孤独死の記憶は、こいつの中では核燃料として扱われているらしい。



その時だった。

舞台の上で感じた、あの頭痛の予兆が、こめかみの奥で警報を鳴らした。

カンペを開こうとしたわけじゃない。ただ、亜紀の他愛ない会話の中で、ふと、未来の記憶が、脳裏で激しく閃光のように駆け巡った。



次の瞬間、視界が激しく歪む。

砂嵐のノイズ。脳内で不協和音が爆発する。

だが、今回は何かが違った。ノイズの向こうに、思い出せないはずの未来の情報じゃない、別の映像が見えた。



――雪が降る、薄暗い四畳半のアパート。壁のカレンダーの日付は、俺が死んだ日。寒さで動かない指。遠くで聞こえる、テレビの中の馬鹿でかい笑い声。



一度目の人生。俺が最も惨めに死んだ、あの日の記憶。

未来の記憶が消えた脳の空白に、過去の絶望が濁流のように流れ込んでくる。



「……悟?」

詩織の声で、俺は我に返った。気づけば、ナイフを握る手が関節まで白くなっていた。

「……なんでもねえよ」

俺は笑った。自分でもわかるくらい、ひきつった笑みだった。



ファミレスを出て、夜の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。

詩織は、自販機でジュースを買うと言って、少し先を歩いている。

俺は一人、路地裏の薄暗がりに立ち尽くし、ポケットからスマホを取り出した。画面に通知が一件。



差出人は、知らないアドレス。

だが、その名前に、俺の心臓は凍りついた。



『黒田 仁』



メッセージを開く指が、自分の意思とは関係なく震える。

そこに書かれていたのは、たった一行。



『君の『ノイズ』、実に興味深い。一度目の人生では観測できなかったパラメータだ』



全身の血が、急速に冷えていく。

青白い画面の光が、俺の顔を照らし出す。驚愕と恐怖に凍りついた、自分でも知らない自分の顔を。



一度目の、人生。

その言葉が、頭の中で何度も反響する。

こいつは、どこまで知っている?



「悟、ジュース買ってきた」

背後から、詩織の平坦な声がした。

振り向けない。

彼女のいる日常と、黒田がこじ開けようとしている俺の過去。その間に、見えない亀裂が走った気がした。

「……どうかした?」

詩織が俺の顔を覗き込む。渡された缶ジュースの冷たさが、指先からじわりと伝わってきた。

俺は慌ててスマホをポケットにねじ込み、無理やり口角を上げた。

「いや、なんでも。……それ、何味?」

「……プリン味」

「プリン味のジュース……? 冗談だろ」

(頼む、普通に会話してくれ。普通の、馬鹿みたいな話で、この空気を上書きしてくれ)



俺の願いも虚しく、詩織は人形のような瞳で俺の顔をじっと見つめてくる。感情のないその視線が、今は尋問のライトのように突き刺さる。

「……悟。魂のノイズがひどい。さっきの舞台の比じゃない」

「ノイズ?」

「うん。……ザーッて、聞こえる。すごく、嫌な音」

彼女は自分のこめかみを軽く指で押さえた。まるで、俺の混乱が頭痛として伝染しているみたいに。



こいつには、嘘はつけない。

魂の形を、ノイズの音を、正確に感じ取ってしまう。

だが、本当のことなど、口が裂けても言えるはずがない。タイムリープ? 一度目の人生? 黒田というストーカー? どれもこれも、この世界の常識から逸脱した、俺だけの狂気だ。



「……考え事だよ。次のネタの」

俺が絞り出したのは、我ながら陳腐な言い訳だった。

詩織は何も言わない。ただ、俺の目を見ていた。信じていない、というよりは、俺の言葉の奥にある『本当の音』を探っているような目つきで。

その沈黙が、ナイフより鋭く俺の嘘を切り裂いていく。



「……そう」

やがて、彼女は短く呟くと、興味を失くしたようにプリン味のジュースに口をつけた。

追及が終わったことに安堵する一方で、胸の奥がチリッと痛んだ。

詩織が引いた一歩分の距離が、俺と彼女の世界を隔てる境界線になった気がした。俺が吐いた嘘という名の、細く、しかし決して消えない線。



帰り道、俺たちはほとんど喋らなかった。

隣を歩く詩織の気配が、やけに遠い。

頭の中では、黒田のメッセージが無限にループしていた。



『君の『ノイズ』、実に興味深い』



ノイズ。

俺が未来を変えたことで生じる、記憶の混濁。

あるいは、カンペを捨ててアドリブで叫んだ、あの『死に様漫才』そのものか。



『一度目の人生では観測できなかったパラメータだ』



観測。

やはり、あいつにとって俺は実験動物か何かなのか。

そして、一度目の人生。あの孤独で惨めな、誰にも知られるはずのない結末。



なぜ、黒田がそれを知っている?

あいつも、俺と同じなのか? タイムリープを――?



いや、違う。

もしそうなら、あいつの芸はもっと歪んでいるはずだ。あいつは一度目の人生でも、完璧なデータ主義者だった。揺らぎも、ブレも、ノイズもない、絶対王者。

その記憶に、ノイズはない。



じゃあ、なんだ?

俺の脳味噌を直接ハッキングでもしているとでもいうのか。



思考が袋小路にはまり込む。答えの出ない問いが、頭蓋骨の内側で反響して、鈍い痛みに変わる。

カンペという揺るぎない武器は、今や不確定な情報源に成り下がり、魂を削って生み出した新しい武器は、正体不明の敵に捕捉されている。

前門の虎、後門の狼。



いや、どっちも狼だ。しかも、片方は俺の内側から喰い破ろうとしている。



アパートの古びた階段を上り、鍵を開けて部屋に入る。

詩織は「おやすみ」とだけ言って、すぐに奥の自分のスペースに引っ込んでしまった。

いつも通りの無愛想な態度。だが、今夜のそれは、まるで俺の罪悪感を映す鏡のようだった。



俺は電気もつけず、冷たい床に座り込んだ。

暗闇の中、再びスマホを取り出す。

黒田仁からのメッセージが、墓標のように青白く光っていた。



こいつにどう返信するべきか。

無視を決め込むか? 下手に反応すれば、さらに情報を引き出されるだけかもしれない。

だが、このまま放置して、見えない場所で俺の人生を解剖され続けるのは、耐えがたい屈辱だった。



一度目の人生で、俺は黒田仁から逃げ続けた。

彼の整った理論、強烈な才能、その全てが、自分の惨めさを際立たせる鏡だったからだ。

目を逸らし、耳を塞ぎ、そうして隅っこで惨めに死んだ。



(……同じことは繰り返さない)



俺は、一度目の人生と同じ選択を決して繰り返さない。

そのために、ここに戻ってきたんだ。



震える指で、返信画面を開く。

打ち込む言葉は、決まっていた。

恐怖も、怒りも、混乱も、全て飲み込んで、ただ一言。



『面白い冗談だ。今度、直接聞かせてくれよ』



送信ボタンを押した指先が、氷のように冷たかった。

これでいい。

これで、あいつは必ず俺の前に姿を現す。



たとえそれが、悪魔との対面に他ならなくても。

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