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孤独死前夜

舞台袖の闇は、インクとかびの匂いがした。

客席から漏れる期待のざわめきが、湿った空気と混じり合って肌に張り付く。一つ前の芸人が叩き出した爆笑の熱が、まだ壁に染みついている。

スポットライトが白く切り取る舞台への入り口が、ギロチン台への道に見えた。

一歩が、出ない。

足がコンクリートに縫い付けられたように、動かない。

喉が、焼けつくように乾いている。



(怖い)



あの人生の記憶が、濁流となって思考を塗り潰していく。白けた客席。氷点下の空気。舞台袖から聞こえる「次、巻いていこう」というディレクターの無慈悲な声。15年、俺は誰にも笑われなかった。価値がないと、断罪され続けた。

そして今、俺は。

その人生で最も惨めで滑稽な瞬間――孤独死の記憶そのものを、衆目の前に晒そうとしている。

これを、笑い話に?

冗談じゃない。

これは、俺の魂の公開処刑だ。



呼吸が浅くなる。吸っても吸っても、酸素が肺を素通りしていく。指先から急速に温度が失われ、冷たい痺れが心臓に向かって這い上がってくる感覚。



その時、不意に、震える右手に柔らかな温もりが触れた。

詩織が、冷え切った俺の手を、祈るように両手で包み込んでいた。

彼女は何も言わない。ただ、その大きな瞳で、じっと俺の魂の奥底を、その震えごと見つめている。



「……お腹、すいた」



いつもの、間の抜けた言葉。だが、すぐに続いた。



「……悟の魂、震えてる。…すごく、いい音。客席まで、聞こえる」



彼女は、夜明けみたいに、静かに微笑んだ。

その声は、どんな励ましの言葉よりも強く、俺の魂の芯まで真っ直ぐに届いた。

ああ、そうだ。



俺は一人じゃない。

俺の魂の奥底まで見通し、その音を誰よりも正確に聞き取ってくれる最高の観客が、最高の共犯者が、隣にいる。

肺の底から、震える息をゆっくりと吐き出した。

そして、彼女の手を強く、強く握り返す。



震えは、武者震いに変わっていた。



「……ああ。行って、派手に、笑いながら死んでやろうぜ」



スタッフの無言の合図。

俺たちは頷き合い、光が溢れるその先へ、最後の一歩を踏み出した。



「どうもー!リトライでーす!」



眩い光。熱気。無数の視線が槍のように突き刺さる。マイクスタンドの金属の冷たさが、汗ばんだ手にじわりと伝わってきた。客席の顔は闇に溶けて見えない。それでいい。俺が見るべきは、たった一人だけだ。



「いやー、しかしね、最近思うんですけども」

俺は努めて明るい声で切り出した。

「人間、いつ死ぬかわからないじゃないですか」



客席が、わずかに揺れた。隣で詩織が、彫像のように静かに立っている。



「僕ね、一回死んだんですよ。10年後の未来で」



シン、と劇場の空気が凍てつく。

ここからだ。未来の記憶カンペじゃない。俺だけの、俺の魂の物語。



「34歳の冬。暖房も止まったボロアパートでね。金もなくて、腹は減って。人間、極限状態になるとどうなるか知ってます? ティッシュを水でふやかして食おうとするんですよ。……まあ、まずくて食えたもんじゃなかったですけど」



客席から、くすくす、と小さな、湿った笑いが漏れる。同情の笑いだ。違う。俺が欲しいのは、こんな安っぽい感情じゃない。



「でもね、一番惨めだったのは、そんなことじゃねえ。そんな俺の耳に、テレビから聞こえてきたんだよ。M-1王者の、腹の底からの笑い声が…!」



それはもう、叫びだった。

スポットライトの下、目を閉じる。あの日の、部屋の冷たさ、空腹、そして絶望が、脳を直接万力で締め上げるように蘇る。魂を削る痛みだ。



「世界中が、そいつらの誕生を祝福してる。なのに、俺っていう人間がこの世界から消えようとしてることなんて、誰も知らない。誰にも観測されずに、ただ、輪郭が溶けて消えていく感覚……。あの時の孤独、あれ以上の地獄はねえよ……!」



独白が終わる。

劇場は、水を打ったように静まり返っていた。同情でも、困惑でもない、息を詰めたような絶対的な沈黙。

(……失敗、か?)



あの人生の悪夢が、再び現実になろうとしていた。



その、コンマ数秒の静寂を、切り裂いた。



「へぇー。で、そのM-1の賞金って、ティッシュ何箱分なんですか?」



詩織の、どこまでも体温の低い声が、マイクを通して劇場に響き渡った。

一瞬、客は意味が分からなかっただろう。

悲劇の独白。極限の孤独。その全てを、たった一言で「ティッシュの値段」という日常の物差しで測ったのだ。

観客の頭上に、巨大な「?」が浮かぶのが見えた。



一方、。



「ぶはっ!」



最前列の誰かが吹き出したのを皮切りに、ダムが決壊した。

「アハハハハ!」「なんだそれ!」「ティッシュ何箱分て!」「ひでえ!」

劇場が、揺れた。

同情じゃない。共感でもない。ただ純粋な、理屈を超えた爆笑の津波。

俺の悲劇は、詩織のたった一言で、最高の喜劇に作り変えられた。



「いや、そういう話じゃねえだろ!」

俺は全力でツッコんだ。そうだ、これだ。これが、俺たちの漫才だ。



「でも、重要です。生存戦略として。ティッシュの備蓄は、未来への投資」

「どんな未来だよ!俺の10年分の絶望をティッシャブルにするな!」

「ティッシャブル……新しい概念」



言葉の応酬。俺の魂の叫びを、詩織が容赦なく切り刻み、客席に放り投げる。客は腹を抱えて笑い転げている。

持ち時間5分は、体感では一瞬だった。



 ◇



無数のモニターが青白く光る、真空のような静寂の部屋。その中央のスクリーンに、場末のライブハウスの配信映像が映し出されている。

銀縁メガネの奥の瞳が、舞台で頭を下げる二つのシルエットを、寸分の狂いもなく捕捉していた。

黒田仁は、指先でそっとスクリーンに触れる。その指が、熱狂する観客を無視して、ただ一点、風間悟の姿をなぞった。



「……これはバグじゃない」



彼の口元に、完璧な数式を破壊する禁断の変数を見つけた時のような、愉悦に歪んだ笑みが浮かぶ。



「……観測史上、最も美しい、新しい『論理(アルゴリズム)』だ」



黒田は静かに、しかし確信に満ちた声で宣言する。

「この変数を、俺の数式に組み込もう。――君たちの魂の形を、完全に理解できるまで」



 ◇



舞台袖に戻ると、じっとりとした熱気が俺たちを包んだ。鳴りやまない拍手の残響が、壁をビリビリと震わせている。



「……悟」



隣で、詩織が俺のパーカーの裾を、小さく、しかし力強く握っていた。

顔を上げると、その人形のように整った顔に、感情の嵐が過ぎ去った後のような、静かな紅潮が差していた。普段は何も映さない大きな瞳が、舞台の照明を反射して、星屑のようにきらめいている。



「……魂が、喜んでる」



ぽつりと呟かれた言葉は、誰に言うでもない、ただの事実の確認のようだった。

だが、その一言が、俺の消耗しきった魂に、じわりと沁みていく。

ああ、そうだ。



俺は今、こいつを笑わせるためだけに、一度死んだ自分の人生を舞台の上で解体した。

やがて、成功した。

未来のカンペじゃない。俺自身の、惨めで滑稽な魂で。



「……次だ」

カウンターから身を起こした矢崎さんが、俺たちの前に立った。その手には、いつものヒップフラスコではなく、なぜかペットボトルの水が二本握られている。

「ほらよ」

無造作に投げられたそれを、俺と詩織はそれぞれ受け取る。キャップを開け、ぬるい水を一気に喉に流し込んだ。乾ききった身体に、命の水が染み渡っていく。



「お前らのやったことは、ただの漫才じゃねえ」

矢崎さんは、革ジャンのポケットからくしゃくしゃの煙草を取り出し、火をつけずに唇に咥えた。

「あれは、お前の人生そのものだ。削って、燃やして、客席にぶつけた。……インディーズの、それもこんな場末の舞台じゃなきゃ、即放送事故モンだ」

「……」

「だがな、風間」

彼の眠たげな目が、俺の魂の芯を射抜くように細められた。

「客は正直だ。本物の熱量には、理屈抜きで心動かされる。今日のお前らは、間違いなくこの『ステージ・エンド』の空気を支配した」

そこまで言って、矢崎さんはふっと息を吐いた。

「だが、忘れんな。魂を削るってのは、そういうことだ。今日みてえな芸を続けりゃ、お前は長生きできねえぞ」

それは忠告であり、予言であり、だが、――かつて同じ道を歩み、相方を失った男の、独白だった。



笑いの神は、最高の芸を授ける代わりに、必ず何かを奪っていく。

一度目の人生で、俺はそれをただのジンクスだと笑い飛ばしていた。

だが、今ならわかる。



あれは、真実だ。



「……それでも、やります」

俺の口から、自分でも驚くほど迷いのない言葉が出た。

「こいつが笑うなら」

詩織を見る。彼女はただ黙って、俺の言葉を聞いていた。その瞳の奥に、揺るぎない信頼の色が宿っている。それだけで、十分だった。



矢崎さんは、何も言わずに咥えていた煙草を指で弾き、ゴミ箱に放った。

「オーディションは合格だ。次のライブ、出てみろ」

それだけ言うと、彼は背を向けてカウンターの奥へと消えていく。



残された俺と詩織の間に、沈黙が落ちる。

しかし、それは気まずいものではなく、共犯者たちの、心地よい疲労感に満ちた沈黙だった。

俺たちの、本当のスタートライン。



リトライ、という名前の、一度きりの物語が、今、始まった。



「……お腹、すいた」

不意に、詩織が言った。

緊張の糸が切れた途端、彼女の魂はいつもの場所へ帰還したらしい。

そのあまりにいつも通りの一言に、張り詰めていたものが一気に抜けていくのを感じ、思わず吹き出してしまった。

「ははっ……そうだな。なんか、美味いもんでも食いに行くか」

祝勝会だ。

俺と、最高の相方のための。



ライブハウスの軋むドアを開け、夜の冷たい空気を吸い込む。

ネオンが滲む新宿の路地裏。

一度目の人生で、何度も絶望を味わったこの景色が、今は少しだけ違って見えた。隣を歩く小さな背中が、やけに頼もしく感じられた。

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