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魂の解像度

真っ白なページが、俺を奈落の底から見下ろしていた。昨日までの熱が嘘のように、思考だけが冷たく沈んでいく。

安物のペンを握る指先が、じっとりと湿っていた。書類の角が、その汗でふにゃりと曲がる。

詩織と二人で創る、俺たちの最初のネタ。

未来の記憶に頼らない、正真正銘の、俺たちの――。



だが、ペンは一文字も動かない。

ゼロから生み出すということは、自分の内側を掘り返すということだ。そして、俺の内側にあるものなんて、決まっている。

惨めで、失敗だらけで、誰にも認められず、独りで死んだ、あの凍りついた10年間の記憶。



脳裏に、一度目の人生で最後にコンビを組んでいた相方の、軽蔑しきった声が蘇る。

『お前の人生は、結局最後まで独りよがりだったな』



その言葉が、見えない呪いのようにペン先に絡みついて、動けなくさせていた。

(ほら、そうだろ? 俺の中から出てくるもんなんて、どうせ独りよがりのゴミなんだよ)

自嘲が喉の奥で苦い味を立てる。



「……」



沈黙を破ったのは、プラスチックのスプーンが容器の底をこする、乾いた音だった。

視線を上げると、テーブルの向かい側で、詩織が大きなプリンの最後のひとかけらを口に運んでいるところだった。その表情は、人類の至宝を発見した考古学者みたいに真剣だ。



「……なあ」

「ん」

「なんか、こう……思うところとか、ねえの? 俺がこんなに苦しんでんのに」



詩織は、こくりとプリンを飲み込んでから、俺の顔と、目の前の真っ白なノートを交互に見た。感情を映さない大きな瞳が、何かをスキャンするように細められる。



「魂が、便秘してる」

「……は?」

「出口で、固まってる。出たいのに、出られない。…苦しそう」



(魂の便秘ってなんだよ……)

あまりにも的確で、同時に意味不明な診断に、俺は言葉を失う。こいつの魂センサーは、時々、医者より正確だ。



「そりゃ、苦しいだろ。何書けばいいか、全然わかんねえんだから」

「…違う」詩織は静かに首を振った。「何を書くかは、もう決まってる」

「決まってる?」

「悟の、魂」



彼女の言葉は、いつもそうだ。核心を突きすぎて、もはやナイフみたいに鋭い。

そうだ。わかってる。書くべきは、俺の魂。俺の過去。俺の失敗の記憶。

だが、その先に何がある?



あの凍えるような孤独死の記憶をなぞって、何が生まれる?



俺が押し黙っていると、詩織は空になったプリンの容器をそっとテーブルの隅に置き、まるで世紀の大発見でも告げるかのように、静かに言った。



「死んだ時の状況を、再現する。魂の解像度を上げる」

「待て待て待て! ストップ!」



俺は思わず立ち上がっていた。椅子が床を引っ掻いて、甲高い悲鳴を上げる。



「再現ってなんだよ! ここで死ねってか!? 冗談じゃねえぞ!」

「死なない。…死ぬ直前の、魂の状態に近づける」

「その方がタチ悪いわ!」



詩織は全く動じない。それどころか、心底不思議そうに首を傾げている。こいつの中では、魂の解像度を上げるためなら、臨死体験すら有効なワークショップの一つらしい。

(こいつ、本気で言ってる……!)

その純粋すぎる狂気に、俺は眩暈すら覚えた。



「いいか、詩織。俺が死んだのは、真冬の暖房も止まったボロアパートだ。金もなくて、最後に食ったのは一週間前のコンビニのおにぎり。そんな状況、こんなところで再現できるか!」

「…お腹を、空かせる」

「限度があるだろ!」



俺は必死に拒絶する。あの記憶に近づくなんて、冗談じゃない。あれは、俺の人生の完全な敗北の象徴だ。笑いになんて、なるはずがない。

なのに、詩織は真っ直ぐな目で俺を見つめてくる。その瞳には、一点の曇りもない。



「…悟の魂は、そこからしか、始まらない」



その言葉に、ぐっと喉が詰まる。

そうだ。そうだろ。わかってる。

俺の『リトライ』は、あの絶望のどん底から始まるんだ。



俺は頭を掻きむしり、獣のように呻いた。

「わかったよ! わかった! でも無理なんだよ! あの時の惨めさが、言葉になるか! 金が尽きて、腹が減りすぎて、ティッシュに手を伸ばしたんだぞ! 本気で、これを水でふやかして食おうかって……!」



息が切れた。

口走った瞬間、血の気が引いた。



しまった。



俺の人生で最も滑稽で、最も惨めで、誰にも、墓場まで持っていくと決めていた記憶。

プライドという最後の砦が、音を立てて崩れ落ちた。



視界の端で、詩織の肩が小さく震えているのが見えた。

(ああ、終わった。ドン引きだ。こんな、笑えない惨めな話……)

自己嫌悪で目の前が暗くなる。相方にすら見捨てられる。一度目の人生の繰り返しだ。



だが。



「……ふ」



聞こえたのは、息が漏れるような、小さな音だった。

顔を上げると、詩織が、口元を両手で押さえて俯いていた。その肩が、さっきよりも大きく、小刻みに震えている。



「……それ、面白い」



絞り出すような声。

だが、その声には、紛れもない『笑い』の響きがあった。

俺が、心の底から軽蔑し、葬り去ろうとしていた、惨めで滑稽な過去の断片。

それを、この女は、面白いと言った。



「……え?」



呆然とする俺の前で、詩織はついに堪えきれなくなったように、くつくつと笑い声を漏らし始めた。

それは、あの日のような爆笑じゃない。

けれど、暗闇の中に灯った、小さなランプの明かりみたいに、温かくて、確かな光を放つ笑いだった。



その瞬間、俺の中で何かが、カチリと音を立てて繋がった。

そうだ。

笑いになるのは、孤独死という悲劇そのものじゃない。



その周辺にこびりついていた、どうしようもなく人間臭くて、滑稽で、惨めな日常のディティールだ。

ティッシュを食おうか真剣に悩んだ俺。

最後の金で買った缶コーヒーを、神棚に供えるみたいに少しずつ飲んだ俺。

隣の部屋から聞こえる楽しげな笑い声に、本気で殺意を覚えた俺。



それこそが、俺だけのオリジナル。

俺だけの、魂の形。



「……詩織」

「ふ、ふふ……ごめ、なさ……」

「いや、いい」



俺は椅子に深く座り直し、ペンを握りしめた。

さっきまでの震えは、もうない。



「もっと、聞かせてやるよ。俺の、どうしようもない死に様ってやつを」



ペンが滑り出す。

堰を切ったように、言葉が溢れ出した。一度目の人生で、誰にも言えずに腹の中に溜め込んで、腐らせてきた記憶の澱。

それが、詩織という触媒を通して、次から次へと『笑える惨めさ』に変わっていく。



しかし、記憶の深層に潜れば潜るほど、こめかみの奥が鈍く、重く痛み始めた。

カンペを使った時の、脳が焼けるような鋭い痛みとは違う。これは、もっと内側から。魂そのものを万力で締め上げられるような、じわじわとした圧迫感。

(……なんだ、これ……魂を削るって、こういうことか)



未知の感覚に一瞬、指が止まる。

だが、隣でノートを覗き込む詩織の、期待に満ちた息遣いが聞こえた。



構うものか。

未来の記憶が呪いなら、過去の記憶で殴りつけてやる。

この痛みこそが、俺が偽物じゃない、俺自身の魂で戦っている証拠だ。



          ◇



埃と、誰かの夢の残骸が混じった匂いがする。

『ステージ・エンド』の楽屋は、相変わらず薄暗かった。



「…せいぜい、舞台の上で無様に死んでこい。客はそれを見に来てんだ」



俺たちのネタのコンセプトを聞いた矢崎さんは、それだけ言うと、いつものようにカウンターの奥へと消えていった。その別れ際、ポケットに突っ込まれたヒップフラスコを、彼が強く握りしめたのを、俺は見逃さなかった。

(無様に、死ぬか……)

悪くない。



今の俺たちには、最高の褒め言葉だ。



「次、リトライ! スタンバイお願いしまーす!」



舞台監督の甲高い声が、楽屋の壁に突き刺さる。

途端に、腹の底から氷塊がせり上がってきた。

指先が、意思とは無関係にカタカタと震え出す。



蘇る。

一度目の人生で、客に全くウケずに舞台袖に逃げ帰った時の、あの光景。

無数のスマホの光。冷たい視線。ひそひそとした嘲笑。哀れみ。

地鳴りのような客席のざわめきが、あの日の悪夢と重なって聞こえる。



(また、繰り返すのか)

詩織を、俺の独りよがりな地獄に引きずり込んで、彼女の才能ごと潰してしまうのか。



息ができない。喉が狭まって、空気が入ってこない。

その時、不意に、震える右手に柔らかな温もりが触れた。



はっと顔を上げると、詩織が、俺の手を両手で包むように握っていた。

彼女は何も言わない。

ただ、その大きな瞳で、じっと俺の魂の奥底を見つめている。



舞台袖の隙間から差し込むスポットライトが、彼女の輪郭を白く縁取る。

客席の喧騒が、遠くなる。



言葉は、ひとつもなかった。

だが、伝わってきた。手のひらから、視線から、全てが。



『あんたの魂は、面白い』

『私は、信じてる』



俺は、肺の底から、震える息をゆっくりと吐き出した。

そして、彼女の手を強く、強く握り返した。

震えは、いつの間にか消えていた。



「……ああ。行って、派手に死んでやろうぜ」



俺たちは頷き合い、光が溢れるその先へ、一歩踏み出した。



その瞬間を、全く別の場所から、凍てつくような瞳が見つめていたことなど、知る由もなかった。



無数のモニターが青白く光る静謐な部屋。その中央のスクリーンに、場末のライブハウスの配信映像が映し出されている。

銀縁メガネの奥の瞳が、舞台へと歩みを進める二つの小さなシルエットを、寸分の狂いもなく捕捉していた。



「さあ、始めようか。観測史上、最も予測不能なノイズの、最初の産声を」



黒田仁の口元に、完璧な数式を破壊する禁断の変数を見つけた時のような、愉悦に歪んだ笑みが、微かに浮かんでいた。

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