リトライ、はじめました
朝日が差し込む。舞い上がる埃が光の筋の中できらきらと乱舞し、このオンボロアパートにしては、場違いなほど神聖な空気を醸し出していた。
俺の隣で、この世界の誰よりも美しい寝顔を晒していたはずの相方は、昨夜の厳かなコンビ結成の儀式を盛大な腹の虫で打ち砕いた後、当然のように俺のベッドを占領して二度寝を決め込んでいる。その寝息は、やけに安らかだ。
「おい、起きろ。これからの話があるんだ――」
まだ胸の奥で、昨日の熱が燻っている。そうだ、ここから始まるんだ。俺たちの未来が。一度目の人生で追い求めた、未来の記憶という名の他人の成功法則じゃない。俺と、こいつだけの魂で、ゼロから作り上げる物語が――。
「……ん、んん……」
詩織が猫のように身じろぎし、ゆっくりと瞼を上げた。その感情を映さない大きな瞳が、ぼんやりと俺を捉える。よし、意識は浮上したな。
「まず俺たちの当面の目標は、新人ライブで結果を出すことだ。そのためには、まずネタを――」
「…お腹、すいた」
俺の情熱を込めた語り出しは、たった一言で、原子レベルにまで粉砕された。
(お前、この神聖な朝に、感動の余韻もクソもなく、それかよ!)
昨日と全く同じツッコミが、声にならずに喉の奥で悲鳴を上げる。
だが、まあいい。これが、俺たちの始まり。俺と、この予測不能な最高の相方との、新しい日常。
俺は乾いた笑いを漏らし、テーブルの上に置いたままの、真っ白なノートと安物のペンに手を伸ばした。
「腹が減っては戦はできねえ、か。なんか食いに行く前に、せめて方向性だけでも決めようぜ」
ノートを開く。処刑台のように真っ白なページが、俺を無言で見下ろしていた。
ずしり、と重みを感じる。これは紙の重さじゃない。未来の重圧だ。
ペンを握る。一度目の人生で、誰にも認められず孤独に朽ち果てた自分の指先が、今、微かに震えている。
書け。
お前の魂を、ここに刻め。
未来の記憶じゃない。お前自身の言葉を。
「……っ」
指が、動かない。まるで鉛で固められたようだ。
脳裏に、一度目の人生の最後の相方に吐き捨てられた、呪いの言葉がこびりついて離れない。
『お前の人生は独りよがりだ』
そうだ、俺の中から生まれるものは、本当に面白いのか? 詩織を、この俺の魂を面白いと言ってくれた唯一の人間を、本当に、心から笑わせることができるのか?
足元から這い上がってきた氷のような恐怖が、ペンを握る手首を締め上げる。
その瞬間、こめかみの奥で、灼けた針を突き立てられるような鋭い痛みが迸った。カンペに頼ろうとしたわけでもないのに、呪いはもう、俺の魂そのものに反応し始めている。
「…悟」
静かな声にはっと顔を上げると、詩織が俺の手元をじっと見ていた。
「魂が、ファミレスに、行きたがってる」
「はあ?」
訳が分からない。こいつの魂は、どんだけ自己主張が激しいんだ。
「いや、ネタ作りの話をしてんだよ。ファミレスがどうとか――」
聞く耳持たず、詩織はすっくと立ち上がり、俺のよれたパーカーの袖を掴んだ。その小さな手には、有無を言わせぬ力がこもっていた。抵抗する間もなく、俺は椅子から引きずり降ろされていた。
◇
結局、俺たちは近所のファミレスに向かうことになった。
道すがら、見慣れた看板が目に入る。ライブハウス『スプラッシュ』。一度目の人生でも、二度目の人生の最初でも、俺が偽りの成功を演じた場所だ。もう、ここの舞台に立つことはないだろう。そう思って通り過ぎようとした時だった。
「おー、風間ちゃんじゃん!探したッスよ!」
やけに甲高い声。派手な柄シャツを着た男――『スプラッシュ』の支配人、坪倉さんが獲物を見つけたハイエナのような笑顔で走り寄ってきた。
「いやー、この前のライブ、マジで神回だったって!SNSでもザワついてるし!君みたいな天才、うちで飼い殺しにするのはもったいない!どう? うちと専属契約して、秒でマネタイズしない?」
軽薄な言葉の羅列。一度目の人生で、俺が喉から手が出るほど欲しかった言葉だ。
だが、今の俺には、その言葉の一つ一つが、ひどく色褪せて、空っぽに聞こえた。
「悪いんですけど」俺は、詩織を背にかばうように一歩前に出て、坪倉さんと向き合った。「俺たち、もう決めたんで」
「決めたって、何をッスか?」
「あんたみたいな人に、俺たちの魂は売らないってことです」
きっぱりと言い切る。一度目の人生と同じ選択は、決して繰り返さない。
坪倉さんの貼り付けたような笑顔が、ぴしりと音を立てて引きつった。その隣で、詩織がぽつりと呟く。
「…この人、魂がドルマーク」
「なっ…!」
坪倉さんが絶句した、その時だった。
「安売りすんなよぉ」
空気を切り裂くような、気だるい声。聞き覚えのある声に振り向くと、無精髭の矢崎さんが、いつもの革ジャン姿で立っていた。彼は俺たちのことなど見ていないようで、ただぼんやりと空を見上げている。
「そいつは、お前だけのものだ」
ポケットに突っ込まれた手が、中で何かを骨が浮き出るほど強く握りしめているのが分かった。ヒップフラスコだろう。その指が白くなるほど、強く。
矢崎さんは、ようやくこちらに視線を落とすと、にやりと口の端を吊り上げた。
「行く場所がねえなら、うちに来いよ。『ステージ・エンド』のオーディション、いつでも受けてやる」
◇
ファミレスの窓際の席。ドリンクバーのメロンソーダの気泡が、静かに弾けては消える。
俺と詩織は、ただ黙って隣のテーブルを眺めていた。
若いカップルが、些細なことで言い争っている。「だから、そうじゃなくて」「なんで分かってくれないのよ」。ありふれた光景だ。
だが、詩織はそれを、まるで世紀の大発見でも見るかのように、人形のような無表情で見つめていた。
「…魂の純度が、落ちていく」
彼女が、ぽつりと呟いた。
「男の魂は、言い訳で濁って、どんどん小さくなる。女の魂は、怒りで燃えて、形が変わる。…面白い」
俺は、呆れるのを通り越して、感心していた。
こいつの目には、世界がこんなにも鮮やかに、こんなにも滑稽に見えているのか。
喧嘩するカップル。それは、ただの日常の風景じゃない。魂と魂がぶつかり合う、極上のエンターテイメント。
(…なるほどな。喧嘩するカップルの魂は、純度が落ちるのか。……使えるな、これ)
俺は夢中で、新しいノートにペンを走らせた。
未来の記憶じゃない。カンペじゃない。
今、目の前で起きていること。俺の隣にいる、この最高の相方が見つけた、魂の欠片。
それを、俺の言葉で、笑える形に捻じ曲げていく。
周りのざわめきが遠のき、ペンの先が紙を擦る音だけが、やけに大きく聞こえた。
手が震えていた。でもそれは、もう恐怖からじゃなかった。
武者震いだ。
アパートに戻り、俺は書き殴ったノートのページを、詩織の前に差し出した。
まだ、たった数行。俺たちの漫才の、産声だ。
詩織は、書かれた文字をじっと見つめていた。その沈黙が、永遠のように長く感じる。心臓の音が、耳の奥でドクドクと脈打っている。
やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
俺の目を、まっすぐに見つめてくる。
その瞳の奥に、今まで見たことのない、真剣な光が宿っていた。
「…これ、」
彼女の唇が、かすかに動く。
ごくり、と喉が鳴った。
俺たちの未来を決める、審判の言葉を待っていた。
「…これ、魂の輪郭が、はっきりしてる」
ぽつり、と彼女は言った。
輪郭? 魂の?
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。比喩なのか、本気でそう見えているのか。
「…面白い、ってことか?」
震える声で尋ねると、詩織はこくりと頷いた。
その動きは小さかったが、俺には世界がひっくり返るほどの衝撃だった。
そして、彼女は続けた。
「面白い、とか、そういう言葉じゃない。…これは、正しい」
正しい。
その一言が、俺の胸の奥深くに、ずしりと錨のように突き刺さった。
そうだ。これは、正しいんだ。
未来のカンペをなぞる偽りの成功じゃない。
誰かの評価を気にして作った、媚びた笑いでもない。
俺と、桜井詩織。
俺たち二人の魂から生まれた、たった一つの、正しい形。
全身の力が抜けていく。
俺は、その場にへたり込みそうになるのを、なんとか堪えた。
ノートを持つ指先が、まだ微かに震えている。でも、もう武者震いじゃない。
歓喜だ。
純粋な、何の不純物もない、歓喜だった。
「…そうか」
俺は、それだけ言うのがやっとだった。
視界が少し、滲んでいる気がした。
ふと、詩織が俺の顔を覗き込んできた。
その人形のような瞳が、俺の感情の揺らぎを探っている。
「…悟」
「なんだよ」
「お腹、すいた」
真顔で、彼女は言った。
さっきまでの神託を下す巫女のような雰囲気はどこへやら、腹の虫が鳴く音まで聞こえてきそうだ。
「……お前なあ!」
俺は思わず叫んでいた。
張り詰めていた糸が、ぷっつりと切れた。
なんだこの落差は。魂の輪郭とか言ってた奴が、次の瞬間には腹が減っただと?
「感動的な瞬間の直後に空腹を訴えるな! 少しは余韻に浸らせろ!」
「でも、魂を使うと、お腹がすく」
「どういう理屈だよ!」
詩織は、こてんと首を傾げた。
その純粋な瞳を見ていると、本気でそう信じているのが分かって、力が抜ける。
こいつの常識は、俺の常識とは別の次元にあるらしい。
俺は大きくため息をついて、立ち上がった。
「分かった、分かったよ。なんか作る。冷蔵庫、空だけど」
「やった」
小さくガッツポーズをする詩織。
その姿を見ていると、なんだか馬鹿らしくなって、俺も笑っていた。
卵かけご飯と、インスタントの味噌汁だけの粗末な食事。
それでも、詩織は美味そうに、すごい勢いでかき込んでいた。
その姿を眺めながら、俺は改めてノートに目を落とす。
たった数行。
でも、ここから、俺たちの物語が始まる。
「なあ」
俺が声をかけると、詩織はご飯を頬張ったまま、こちらを向いた。
「これから、どうする?」
「どうする、とは?」
「コンビとして、だよ。ネタはできた。…いや、まだ種ができただけか。でも、これを完成させて、どうするんだ」
詩織は、ご飯をこくんと飲み込んでから、言った。
その答えは、驚くほど単純で、迷いがなかった。
「舞台に、立つ」
ああ、そうだよな。
芸人は、舞台に立ってなんぼだ。
客の前でネタをやって、笑わせて、それで初めて完成する。
「どこの舞台に立つんだよ。俺たち、事務所にも入ってない、ただの素人だぞ」
「…この前、行ったところ」
「この前?」
一瞬考えて、すぐに思い当たった。
俺が自暴自棄になって、詩織を引きずり込んだ、あの薄暗い地下のライブハウス。
『ステージ・エンド』
そして、あの眠たそうな目をした、革ジャンの男。矢崎さん。
あの人は、俺の『死に様』を見て、こう言った。
『面白えじゃねえか』と。
「…あそこか」
一度目の人生では、足を踏み入れたこともない場所。
大手事務所が主催する、きらびやかなオーディションとは無縁の、インディーズの巣窟。
だが、悪くない。
いや、むしろ、今の俺たちには、あそこしかないのかもしれない。
未来の記憶も、経歴も関係ない。
ただ、魂のぶつけ合いだけが評価される場所。
「よし、決めた」
俺は、最後の一口をかき込んで、丼を置いた。
食器のぶつかる、乾いた音が部屋に響く。
「明日、あの人に会いに行くぞ」
俺の言葉に、詩織は、またこくりと頷いた。
その口の端に、米粒がついている。
俺は指でそれを取ってやろうとして、やめた。
俺たちの新しい日常が、こうして始まった。
未来のカンペも、過去の栄光もない。
あるのは、震える手で書きなぐった数行のネタと、隣で美味そうにご飯を食べる、最高の相方だけだ。
悪くない。
いや、最高だ。
俺は、心の底からそう思った。




