虹色の、ぐちゃぐちゃな粘土
「面白いもん、作るぞ」
夜の街路に、吐き出した白い息が溶けていく。
隣を歩く詩織は何も言わない。ただ、流れていくネオンが彼女の大きな瞳の表面で砕け、無数の星が生まれては消える。その唇の端が、本当に気づくか気づかないかくらいに、吊り上がったのを俺は見逃さなかった。
それだけで、十分だった。
腹の底で、あの銀縁メガネの男に突きつけられた『バグ』という言葉への反骨心が、青い炎になって燃え盛る。
「俺たちの魂で、あいつのシステムをぶっ壊す」
これは、あの男への、というよりは、一度目の人生で俺を『独りよがり』だと断罪し、無価値のまま処刑したこの世界そのものへの宣戦布告だ。詩織は、こくり、と小さく頷いた。
「……うん。魂で、殴る」
その静かな同意が、俺の心臓に最後の燃料を投下した。もう迷いはない。未来の記憶なんかに頼ってたまるか。俺自身の、惨めで、滑稽で、失敗だらけの人生で、最高の笑いを作ってやる。
◇
アパートに戻り、コンビニで買った安物のノートを机に広げた。真っ白なページが、まるで処刑台のように、冷たく俺を見下ろしている。ペンを握る。じっとりと湿った手のひらが、プラスチックの感触を不快にさせた。
一行目が、出てこない。
(カンペなら、一瞬なのに)
脳裏に、完成された未来のネタがいくつも明滅する。完璧なフリ、計算され尽くしたオチ。抗いがたいほど甘美な、楽な道。これさえなぞれば、成功は約束されている。だが、それを選択した瞬間、俺はまた「魂がない」と詩織に見抜かれた、あの空っぽの抜け殻に戻る。
『お前の書くネタは、独りよがりなんだよ。誰も笑ってねえのは、お前だけだ』
一度目の人生で、解散を切り出してきた相方の声が、亡霊のように耳元で蘇る。その声が、俺の手首に鉛の枷をはめていく。
違う。今度の俺には詩織がいる。あいつが面白いと思うものを作れば、それでいい。
頭では分かっている。分かっているのに、指が、脳からの命令を拒絶する。俺の内側から生まれるものなんて、所詮は誰にも理解されない、無価値なゴミなんじゃないか。その恐怖が、全身の血を凍らせていく。
どれくらいの時間が経っただろう。俺が苛立ちのままにペンを握りつぶしそうになった、その時だった。
「……魂が、迷子」
背後から、温度のない声がした。振り返ると、詩織が俺の背中をじっと見つめている。人形のように整った顔には、何の感情も浮かんでいない。
「……うるせえな」
「……お腹、すいた」
「話を聞けよ!」
俺の葛藤も、焦りも、過去の呪縛も、その一言で宇宙の彼方に吹き飛ばされた。彼女は俺の絶望など意にも介さず、続ける。
「魂が、ファミレスに、行きたがってる」
「魂はそんなこと望んでねえよ!」
結局、俺は詩織に腕を引かれ、ずるずると引きずられるようにして、深夜のファミレスに連行された。
◇
プラスチックのメニューを挟んで、詩織は城のようにそびえ立つチョコレートパフェを、無心で口に運んでいる。その黙々とした食べっぷりを見ていると、さっきまでの深刻な悩みが馬鹿馬鹿しくなってくるから不思議だ。
「で、次のネタは? もっとバズるやつ、期待しちゃっていいんスか?」
その軽薄な声が鼓膜を叩いた瞬間、俺の思考は現実に引き戻された。振り向くと、派手な柄シャツにヨレたジャケットを羽織った男――ライブハウス『スプラッシュ』の支配人、坪倉さんが人の良さそうな笑みを浮かべて立っていた。
「坪倉さん……」
「いやー、この前のライブ、マジで最高だったッスよ! 君たちのコンビ、絶対売れるって! 俺の目に狂いはねえから!」
一度目の人生で、俺が喉から手が出るほど、血反吐を吐くほどに欲しかった言葉。だが今の俺には、その言葉が薄っぺらいノイズにしか聞こえない。魂の価値を、再生数や「いいね」の数でしか測れない男の、空虚な賛辞。
その時、詩織が、パフェの山から顔を上げた。スプーンを咥えたまま、坪倉さんをじっと見つめ、ぽつりと呟く。
「……魂が、数字」
「え? あ、はは! そういうキャラ付け、面白いッスね! 今度うちの企画ライブ、出てよ!」
坪倉さんは詩織の言葉を最高の褒め言葉と勘違いしたのか、上機嫌で名刺をテーブルに押し付けるように置くと、他の席へと去っていった。
残された静寂が、やけに重い。俺は、一度目の人生で散々味わった無力感を噛み締めていた。ああいう連中を、俺は笑いで見返したかったんじゃないのか? 違う。俺が本当に笑わせたいのは――。
暗闇の中で、最後の救いを求めるように、俺は目の前の相方に問いかけた。
「……なあ、詩織」
「ん」クリームを頬につけたまま、彼女がこちらを見る。
「俺の魂って、お前から見てどんな形なんだ?」
前にも聞いた問いだ。でも、今、もう一度、ちゃんとした言葉で聞きたかった。俺がこれから向き合うべき、自分自身の、醜くて、どうしようもない正体を。
詩織は、パフェの最後の一口を名残惜しそうに飲み込むと、スプーンを置いた。そして、真顔で、まっすぐに俺の目を見た。
「虹色の、ぐちゃぐちゃな粘土。……でも、時々、すごく鋭いガラスの破片が光る」
雷が、脳天を直撃した。
虹色の、ぐちゃぐちゃな粘土。そして、ガラスの破片。
そうだ。それだ。それこそが、俺の魂の、風間悟という人間の正体だ。
わけのわからない感情がごちゃ混ぜになった混沌(粘土)。その中に無数に突き刺さっている、一度目の人生で負った癒えない傷(ガラスの破片)。ティッシュを食おうとした惨めさ。誰にも看取られず凍え死んだ孤独。それこそが、未来のカンペなんかよりずっと確かな、俺だけの武器。
(見えた……!)
何を書けばいいのか、じゃない。何を書くべきだったのか、だ。
俺は憑かれたように、テーブルの上の紙ナプキンを掴んだ。震える手で、ポケットから安物のペンを取り出し、言葉を書きなぐり始める。詩織の言葉が、暗闇を照らす唯一の灯台になる。
粘土をこねるように、混沌とした感情を言葉にする。
ガラスの破片を拾い上げるように、過去の痛みを掘り起こす。
血を吐くような作業だった。一行書くたびに、忘れたはずの記憶が鮮明にフラッシュバックする。頭の奥が、万力で締め上げられるような鋭い痛みで軋んだ。未来の記憶を使った時とはまるで質の違う、脳の神経を一本一本引き抜かれるような、根源的な痛み。視界の端に、砂嵐のようなノイズが激しく走る。
それでも、ペンは止まらなかった。
止まれなかった。
これは、俺の物語だ。俺と詩織、二人だけの、最初の。
どれくらいの時間が流れたのか。気づけば、ファミレスの窓の外は白み始めていた。
ノートの最後の行を書き終えた瞬間、全身から力が抜けた。カラン、と軽い音を立てて、ペンが震える手から床に転がる。息が切れていた。シャツが汗で肌に張り付いている。こめかみの奥が、まだ焼けた鉄のように熱を持って脈打っていた。
だが、不思議と気分は悪くなかった。空っぽになった身体の中に、静かな、確かな満足感が満ちていく。
俺は震える手でノートを拾い上げると、向かいに座る詩織に、それを差し出した。彼女はいつの間にかパフェを食べ終え、ただ静かに俺の狂態を見つめていた。
「……できた。これが、俺の魂だ」
詩織は何も言わなかった。ただ、その大きな黒い瞳でじっとノートを見つめている。彼女の評価が、分からない。心臓の音が、ファミレスのBGMをかき消すほど大きく聞こえた。
彼女の視線が、俺の手にあるノートに突き刺さる。
時間が、引き伸ばされたようにゆっくりと流れた。
詩織は、ゆっくりと手を伸ばす。白い指先が、ノートの表紙に触れた。その指が、ほんのわずかに震えているように見えたのは、俺の目の錯覚だっただろうか。
彼女はノートを受け取ると、一言も発さずにページをめくり始めた。
パラリ、と乾いた音が店内に響く。
俺は、唾を飲み込むことすら忘れて、彼女の表情を凝視した。いつもの、人形のような静謐な顔。ただ、その瞳だけが、俺の書き殴った文字の列を、恐ろしいほどの集中力で追いかけていた。
心臓が、内側から肋骨を叩く。
頼む。
面白いと、言ってくれ。魂があると、認めてくれ。それ以外に、俺がここにいる理由なんて、もう何もない。
最後のページを読み終えて、詩織はぱたりとノートを閉じた。そして、顔を上げる。その大きな瞳が、まっすぐに俺を射抜いた。
長い、長い沈黙。
やがて、彼女の唇が、かすかに動いた。
「……燃費が、悪い」
予想していた千の言葉の、どれでもなかった。
「……は? ねんぴ?」
「うん」詩織はこくりと頷く。「魂の全部を、一度に燃やしてる。……これじゃ、一回しか使えない」
一回しか、使えない。それは、最高の賛辞であると同時に、芸人としては致命的な欠陥の指摘だった。
「花火、みたい」詩織は続ける。「すごく綺麗。でも、次がない。……このままじゃ、悟が壊れる」
壊れる。その単語が、やけにはっきりと耳に残った。
「……じゃあ、ダメか。このネタは」
俺の声は、自分でも驚くほどにかすれていた。せっかく見つけたと思ったのに。これが、俺の唯一の武器だと、そう信じたのに。
すると、詩織は静かに首を横に振った。
「ううん。……初めて見た。こんなに熱くて、歪で、正直な魂。……だから、ダメじゃない」
彼女はテーブルの上に置かれたノートを、両手でそっと撫でた。あたかも宝物に触れるように。
「これは、私たちの武器。でも、このままじゃ、悟だけが死ぬ。……だから、燃費を良くする方法を探す。一緒に」
一緒に、探す。その言葉が、空っぽになった俺の身体に、温かい何かを注ぎ込むようだった。
俺が黙り込んでいると、詩織は真剣な顔のまま、続けた。
「……そのために、まず、お腹すいた。モーニング、食べる」
張り詰めていた糸が、ぷつんと切れる音がした。俺は、思わず吹き出していた。腹の底から、どうしようもなく笑いがこみ上げてくる。
「は、はは……! そうだな……そうだよな!」
笑った、その瞬間。
ズキン、と脳の真芯で何かが爆ぜた。まさに頭蓋の内側に熱した鉄の杭を、力任せに打ち込まれたような、強烈な痛み。
「ッ……!」
俺はとっさにこめかみを押さえる。視界が白く明滅し、呼吸が止まった。なんだ、これ。未来の記憶を使った時とは、明らかに違う。もっと、根源的で、破壊的な――。
「……悟?」
詩織の訝しむような声が、遠くから聞こえる。俺は慌てて何でもないというように手を振って、歪んだ笑みを浮かべた。
「いや……なんでもねえ。寝てないからな。……ああ、そうだな。モーニング、頼むか」
痛みの残滓が、まだ頭の奥で疼いている。火種のように、じくじくと。
(これが、『魂の代償』ってやつかよ……)
冗談じゃない。それでも、不思議と後悔はなかった。むしろ、この痛みこそが、俺がカンペではなく自分の足で立った証のようにさえ思えた。
俺は呼び出しボタンに手を伸ばす。窓から差し込む朝の光が、テーブルの上のノートを白く照らし出していた。
俺たちの、最初の物語。
だが、これから始まる本当の地獄の、始まりの合図。




