罪斗罰総合記念病院
合儀肺助は学校からの帰途にあった。だが、寄り道をすることにした。『阿賀谷戸天森の騒乱』からそろそろ二週間が経つ。
肺助は山間に突如として現れる巨大な建物群の前に立った。
――罪斗罰総合記念病院。
この田舎において、まるで一つの集落が如く複数の棟を持つ大病院である。まるで、ここ一つで近隣の病理をすべて受け持とうとしているかのようである。それが覚悟なのか傲慢なのか、肺助にはわからない。
肺助はその複数ある病棟の群れの中でもひときわ奥まった場所にある建物に向かって歩く。陰気な入り口で見舞客として記帳を済ますと、エントランスを通る――それだけ。
この八号棟は、まるで監獄のような雰囲気を持っている。受付すら存在しないのだ。それなのに、妙な視線を感じる。
「肺助さん」
一人の老女が声をかけた。明らかに病院関係者ではない。やや腰の曲がった彼女は、毛玉だらけのグレーのセーターを着ている。
「お世話になってます。粟地おばさんもお加減は大丈夫ですか」
正直言って形式に他ならないのだが、肺助は気を使った言葉をかける。この病院の中では腰までまげて厳かな雰囲気を醸しているが、粟地婆は、一度外に出て男を見れば股間を掴み、女であれば胸を揉みしだくバーサーカーである。この老婆は猫を被っているわけである。
「最近は、張りがないよ」
今はいい時代になった。粟地婆の元気がないということは、コンプライアンスが世間によく浸透している証でもある。
「大変ですね」
「ほんとよ」
だが、肺助は知っている。婆の義理の孫である智基さんは、わざわざ粟地家に婿入りした先で毎日行われるセクハラに、いよいよ鬱病の兆候を見せていることを。これで元気でないなら、粟地婆はいよいよ死期の近いと見える。
「それで、今日も一応見ておきたいと言いますか」
「わかってますよ」
老女は口をすぼめ、肺助を先導してエレベーターに乗った。粟地婆はごく自然に地下三階のスイッチを押す。エレベーターが動き出し、肺助は何となく押しつぶされるような気持ちになった。
――地下三階。
エレベーターの扉が開くと、薬品の臭いが鼻を突く……否、これは薄荷だろうか。陰気な雰囲気は確かに病院だが、それ以上にどこか『清浄』な雰囲気があった。廊下の明かりはなんと蝋燭。そんな中、わずかな明かりを頼りに歩いた先、厳重な二つの扉を超えた先に、相手はいた。
――合儀肝悟朗。
檻の向こう、ベッドの中ですやすやと眠っているようだった。
「ずっとあの調子ですよ。椎子様に強烈な呪いをかけられたようですからね。さすがのわしもあそこまでひどいことはせん」
粟地婆は、合儀家も懇意にしている寺の住職の妻であった。ただ、かなり勘がよく、人によっては住職よりよほど信頼する人も少なくない。粟地婆はくわばらくわばらと目を閉じた。
一方、肺助は少し父の様子が気がかりだった。確かにぐっすり眠っているように見えるが、その口先が少し動いているように感じたのだ。
「そうですか。目を覚ましたら気を付けてくださいね」
肺助は心配そうに父を見つめつつ言う。心配すべきは粟地婆か肝悟朗か。それは肺助にもわからなかった。
「勿論ですとも。この土地はずっと合儀さんのおかげで成り立ってますから。言いつけは守りますとも。だってわしらは、椎子様から、今から嘘の挨拶に参ります、元夫の言うことは気にしないように、と言われた時だって……」
粟地婆が語るのは、合儀家の敷地頭の権利書の騒動の話である。合儀椎子は実にてきぱきと譲渡の手続きを進めていた――ように見えたが、全ては演技だったそう。肝悟朗を連れて親しい不動産関係者や税理士、支持者の家を回って挨拶していたが、事前に相手らに対して、本気にするなと根回しを済ませていたらしい。母ながらに恐ろしいと肺助は思う。当然、書類上の手続きは一筆も進んでいなかった。
「それで、天森さんは?」
こちらに、と誘導されるまま、肺助は老女に導かれて別室へ。そこには、同じくすっかり大人しく寝たままの阿賀谷戸天森がいた。だが、遠目に見ても随分と老けて見える。
「ある意味、肝悟朗さんより重症ですね。生気というものがすっかり見えない」
「そうですか」
特に感慨深いものはなかったが、割と自分が止めを刺した感があるので胸騒ぎを覚える。
「ですが、見てください。時折ああやって、何かぶつくさというのです」
肺助は檻の向こうへ目を細める。すると、確かに天森の唇が微かに揺れているようだった。
「……は世にみちみちて、人の心はとらはれぬ。
後を乞い……思ひはとどまるところなし。
相争ふさまを見れば……手を垂れ、陰陽の道も……
あはれ……悩……尽きることなし。この世はまさに呪……」
まるで呪詛のようであった。
「ですが、目を覚ましますよ。いいか悪いかはわかりませんが。彼には、わしには計り知れぬ執念がある」
「それは、なんとなくわかります」
肺助は頷いた。あれは、そういう人だろう。
「じゃあ、最後に阿賀谷戸先輩の様子を見させてください」
この第八病棟は呪いに関する患者の施設……というわけではなく、近辺の有力者のための病棟である。機密性の高さから、今回の呪いの被害者の経過観察に用いられていた――阿賀谷戸命香はそのうちの一人である。
「阿賀谷戸……命香さんですか?」
と、粟地婆は目を丸くし、そのあとゆっくりと肺助を凝視した。
「そうです。いつもお見舞いに来たときは先輩にも挨拶を……」
阿賀谷戸命香もまた症状は重かったが、ひたすら病室に籠って断食や祈祷を行うことで一週間と経たずに快方に向かっていた。それからは弱った体を戻すために入院を続けている。肺助も何度か見舞いに訪れ、その度に挨拶をこなしていたのだが。
「阿賀谷戸さんなら、もういませんが」
「え?」
肺助は面食らって上ずった声を飛ばした。
「わしの知らぬ間に退院したそうで、看護婦どもも慌てておりました。しかも、ベッドから何まで奇麗なままで、まるで最初からいなかったみたいだと」
「そんな……」
「ええ、惜しいと思う気持ちはわかりますとも。この婆も、一度くらいは……」
粟地婆は中を揉み揉みしている。肺助はそれを見なかったことにした。
「じゃあ、おれは帰ります。ありがとうございました」
気付けば肺助は素早く頭を下げ、歩き出していた。薄荷の匂いも薄暗いろうそくの明かりだけの廊下も置き去りにして、それは勝手に高鳴る心臓の鼓動にぴったりと符合した。病院の敷地を出ると鼓動を上回る速さで走り出す。
あっという間に合儀家の玄関を通り過ぎる。新しくなった表札など目もくれない。
『合儀 椎子
肺助』
「ただいま!」
肺助は大声でドアを開けてそう叫んでいた。対して、居間のドアが小さく開き、彼を迎える声がした。
「おかえりなさい、肺助さん」
そういったのは、実母・合儀椎子だった。何かを外された気がして玄関に目を落としてみるが、そこに並ぶ靴は、椎子と肺助の分しかない――いつもの様子そのままだった。
「阿賀谷戸先輩……」
ふと肺助は胸にからりとした寂寥感が沈殿した。
今から覗く、不思議そうに肺助を観察する椎子の視線。そうして漸く、そうだ、こうしておれの『いつも』が帰ってきたのだ、と肺助は理解した――だが、彼の手は、自然ときつく結ばれていた。




