13.詭計と密謀 1
スリベグランディア王国の王都にはポルニ通りと呼ばれる通りがある。
そこは繁華街に近く、だが一般人はほとんど立ち入らない。
娼婦や男娼たちの店が軒を連ね、雰囲気も一種独特だ。
庶民であっても女性や子供は立ち寄らないのだから、貴族となればなおさらである。
しかし、リリアナは全く動じることなく、ただ一人庶民に扮して気配を魔術で消し、ポルニ通りのすぐ近くまで来ていた。
(思った以上に、綺麗に整っていますね。衛生的にも大きな問題にはなり得なさそうで安心いたしました)
彼女の視点は完全に施政者だ。
ポルニ通りという地域柄、どうしても感染症は増える。ポルニ通りに限らずどこの貧困地域でもそれは同じだが、感染症の種類や症状が違うため、実地調査は重要だ。
(報告ではポルニ通り近辺に住まう方の有病率や死亡率が、他の地区と比べて突出しているようなこともありませんでしたから、数字と体感に大きな差はなさそうですね)
ライリーが王太子として頭角を表してから、文官や貴族の不正は減った。
それまでは、国王が病に伏していたため、顧問会議が権力を持ち政治を運営していた。各省を取り仕切る貴族も真面目な者ばかりではなく、不正に手を染める者も多かった。だが、ライリーは少しずつ根を張り、大公派を一掃する際にそのような慮外者たちを権力の中枢から切り離したのだ。
結果的に、処分された貴族や文官は大公派ばかりだったので、一挙両得だと思ったものだった。
少しずつ日が暮れ始めているからか、少しずつ通りにも人出が増えている。
しかし、誰もリリアナの存在を気に留めない。
彼女が魔術で気配を消しているせいもあるだろうが、そもそもこの界隈に出入りする人は基本的に他人を詮索しないことが不文律だ。
護衛も侍女も伴わずに出歩くのも、随分と久しぶりだ。
少し楽しくなりながら、リリアナは目的の店を探した。
「──見つけました」
リリアナは小さく呟く。口角が小さく上がった。
酒場『詩の蜜酒』──カーティス・パーシングが教えてくれた、暗黒街の情報屋がいる店。
事前に聞いていた通り、見るからに小汚い。
初見では決して気がつかなさそうな、こぢんまりとした店で、看板すら出ていない。たとえそこが酒場だと気付けても、一人では入ろうとさえ思わないだろう。
それでもリリアナが気がついたのは、軒先に小さな草がぶら下がっていたからだ。その草は、以前リリアナがユナティアン皇国との戦いで出会ったアルヴァルディの子孫──ゲルルフの部屋にあった草に、とてもよく似ていた。
全く躊躇することなく、リリアナは店の扉に手をかける。取っ手を押せば、鍵はかかっていなかった。
ゆっくりと開く。
案の定、中に人の姿はない。だが、リリアナは店の主人がいると分かっていた。そして、主人の他に人はいない。
とても都合が良かった。
「お邪魔しますね」
礼儀正しくそう言って、リリアナはきっちりと後ろ手で扉を閉める。
店内は埃っぽく、灯りひとつ付いていない。
それなのに、なぜか部屋の中はほんのりと明るかった。
「いらっしゃるのでしょう?」
確信を持って、リリアナは誰もいないはずの壁に向かって声をかける。
一点に視線を据えたまま、彼女は微笑を湛え立っていた。
通りを歩いていた人々はリリアナの顔さえよく見えていなかっただろうが、この店の主人にはリリアナの実際の姿が見えているはずだ。
そして、リリアナの視線が見えないはずの主人に固定されたままであることも──店主は、気がついているはずだった。
それでも返ってこない反応に、リリアナは小首を傾げる。
「名乗った方がよろしいのでしょうか?」
普通の貴族令嬢だけでなく、庶民と比べてもリリアナは百戦錬磨だ。多少の修羅場には慣れている。
そんなリリアナでも、さすがに裏社会の常識は知らなかった。
彼女が普段過ごしている世界では、初対面の相手に自己紹介をするのは普通だが、裏社会では違うのかも知れない。もっとも、リリアナはスリべグランディア王国の王太子妃だから、自己紹介をするまでもなく相手に知られているのだが──これまで、リリアナはライリーより一般民衆の前に姿を見せた経験が少ない。
もしかしたら、この店の主人はリリアナのことを知らないのかもしれない。
真面目な顔でそんなことを考えたリリアナだったが、彼女が名乗るより早く、店の空気が動いた。
「いらねえよ、頼まれても聞きたくねえな」
ぶっきらぼうな口調で姿を現したのは、どこにでもいそうな小男だった。とても気配が薄い。
リリアナは、目を瞬かせて男を見た。
先ほどまでもリリアナは主人の存在に勘付いていたが、彼女が視ていたのは男の体温だ。実際の姿ではない。
なるほど、こんな男だったのか──と思っていると、酒場の店主テンレックは嫌そうに顔を顰めた。
「ここは、あんたみたいなお嬢さんが来るような場所じゃねえ」
「まあ。仕事の依頼といっても、お断りされるのかしら」
「堅気の奴とは関わらねえことにしてるんでな」
リリアナが言葉を重ねても、テンレックは釣れなかった。冷たく言い放ち、言外に帰れと告げる。
物慣れぬ貴族令嬢なら怖気付くところだが、リリアナは全く動じなかった。
目を瞬かせて、心底面白がるように店主を見やる。
「堅気? 面白いこと。わたくしが誰だか知っているから、関わりたくないと思っているだけではないのかしら」
途端に、テンレックは痛烈な舌打ちを漏らした。
彼は情報屋だ。当然、王太子だけでなく王太子妃の顔も把握している。もちろん、ライリーやリリアナの能力や性格も把握しようとしてきた。
王太子夫妻の情報を入手できた人間はいないと聞いたから、ことさら張りきった。それにも拘らず、テンレックは満足いくほどの情報を手に入れられなかったのだ。
警備が予想以上に厳しかったわけでも、情報統制が優れていたわけでもない。
なぜか、ライリーやリリアナの詳細な性格や特技、剣術や魔術の詳細な能力などを知る者がほとんどいなかった。
王族や高位貴族については、多少なりとも使用人たちの間で噂になるものだが、王太子夫妻についてはそれもほとんどない。情報収集するにつれて、テンレックの手元には、王太子夫妻ではなく顧問会議の貴族や大して旨みのない貴族たちの情報ばかりが集まっていた。
苦々しい表情で、リリアナを睨みつける。そして彼は喉の奥から搾り出すような声で唸った。
「最近の王族ってのは、バケモンしかいないのか?」
王宮や社交界、各家の使用人たちから得られたライリーとリリアナの情報といえば、ごくわずか。
夫妻は共に穏やかで声を荒げることもなく、使用人にすら優しい。しかし凛として必要とあらば厳しい面も見せる。とても似たもの夫婦だと、誰もが好意的に二人を称える。
ライリーは剣の名手で、英雄が持っていたという破魔の剣を使いこなす。
一方のリリアナは優れた魔導士だが、彼女が魔術を使う場面を目撃した者はほとんどいない。隣国との戦で活躍したというが、魔導士は基本的に後方支援だ。戦いに身を投じる騎士が目撃することはないし、彼女の立場を考えると、信頼できるわずかな護衛に身を守られたまま術を行使した可能性が高い。
つまり、テンレックにとってリリアナはライリー以上に未知の存在だった。
ただ一つ、彼が把握していて他の誰も気がついていない事実がある。
それが、ジルドの存在だった。
最初はジルドが誰の護衛をしているのか知らなかったが、当然時間が経てばクラーク公爵家の令嬢を護衛しているのだとわかる。
貴族嫌いを公言して憚らないジルドがリリアナに心酔する理由は全くわからないが、ジルドが王立騎士団の隊長になったと知った時、テンレックは大いに呆れ果てた。
そして、考えを改めた。
どうやらジルドはリリアナに心酔するどころか、崇拝するほどに傾倒していたようだ、と。
仮にテンレックがそう指摘したところで、ジルドは決して認めないだろうが、テンレックは「あの狼狩人も人の子だったか」とひっそりと嘆いた。
テンレックにとって、ジルドはスリべグランディア王国で古くに出会った同胞だからこそ、大切な存在だった。
ジルドの性質が彼らの王に相応しいものだからというのもあるが、ジルドは他の誰にも代えの効かない存在だった。
そのジルドを変えたのが、リリアナなのだ。
複雑な心境が、テンレックに牙を剥かせる。
だが、リリアナはむしろそんなテンレックを面白がるように見つめた。
一人で凛と立つ王太子妃は、静かにテンレックの挑発を否定する。
「そんなことはありませんよ。わたくしからすれば、わたくしは少しばかり魔術が得意なだけですから。わたくしに比べて、貴方やジルドは特異な能力をお持ちではありませんか」
テンレックは瞠目した。
リリアナの台詞を、脳内で反芻する。
「なんだと──?」
今、目の前に立つ女は一体何を言ったのか。
特異な能力。
それが、意図するところは。
テンレックは頭を目まぐるしく働かせる。
目の前の純真無垢そうな、甘ったれた貴族の女性そのもののリリアナは、何をどこまで把握しているのか。
ジルドとテンレックの何を、どこまで把握して、「特異な能力」と言ったのか。
まさかジルドが己の出自をリリアナに告げたとは、テンレックは思わない。
どこか焦った様子を見せるテンレックの視線を、リリアナは嫣然とした笑みで受け止めた。









