4‐5 熱蟲羽王/ピュタクス
Δ
天窓から差し込む陽は徐々に弱まっている。
窓の下には巨大な円形の会議場。バルニアで伝統的に用いられた『パリイ』という名のそれは、ノーランではまさしく闘技場のような形に改められた。自己を訴えるものは円の中心に立ち、全面から向かってくる論客たちを黙らせなくてはならない。
それが裁判の形式であり、ノーランの皇族が代々行ってきた『皇貴会議』の様相である。この会議場の中では、中央に立つ者に限っては剣術士が同伴することも認められている。そうでもしなければ、皇族は簡単に暗殺されてしまうのだ。この『パリイ』の構造はなるほど暗殺向きと言えた。しかし、今、その円の中央には誰も立ってはいない。
立つべき者、
ローレンがいないのだ。
喧騒が止まらない。ざわめきが、もはや抑えられぬほどに深青宮を揺るがしていた。その力と喧騒の中心にいるのは熱部の雄アランド=デルフォイとその息子ルスラである。彼らは巧みに場を扇動して熱部貴族の不満を、一つの運動へと転化させていた。あるいはそれは拡大と呼ばれるべきものなのだろうか。
「皇貴会議が始まろうというのに、ローレン殿下は何処にいらっしゃるのだ!」
「信じられんことだ」
「常識が欠如しておる。術式狂いめが」
「臣民などどうでも良いというのか」
怒号が飛んだ。それは熱部の貴族らが発した問いかけであったが、この熱気の中ではある種の暴力的な力を備えている。皇都貴族ローレン派のリオット家が暴言染みた野次を我慢しきれずに自分の太ももを叩いているのが見えた。この皇都でもローレンに忠誠を誓う連中はいるもので、彼らはみな怒りと恥辱を感じながらもそれを抑え込んでいる。だが、その苦悶がローレンへの恨みに変わることがないとはいえない。このまま、都主たる皇太子が現れなければ事態はさらに悪化するだろうと思われた。
二階から下を見下ろして、女は眉根を寄せた。
「ルディオ=ペンドラン。代わりの策はあるの?」
男はいつものように小脇に大量の資料を抱えながら、オルンドラのいる二階へと歩いてきた。皺ひとつない上質な略礼服は美しい灰色だ。ノーランではハオンの時刻に黒服を着るのはあまり推奨されない。特に拘りがない場合は、灰色の礼服を着るのである。今朝方は気付かなかったが、これは卸したての服らしかった。恐らくは、皇貴会議に備えて服を新調したのだろう。オルンドラは顰め面をした。
「ありません。暫くは私が第一顧問官として代理を務めますが、『真言の儀』や『忠誠の儀』は殿下でなくてはなりません。夕暮れまでお戻りになられないとすれば、熱部貴族は罷免をさえ考えるでしょう」
「まさかそれを見越して、殿下を熱部に送ったのではないでしょうね」
「そんなまさか。この件で私を責めるのはお門違いでしょう。敵はデルフォイとその子供たちだとエルミスタットから話されたはずでは?」
「冗談よ。貴方のことは疑っていないわ」
「ならば構いませんが」
「デルフォイだけが敵だとも思わないけれど」
オルンドラは呟く。女は最初からこの件に介入している勢力を三つに絞っていた。剣王レアーツ、皇王ラハリオ、そして熱部勢力である。主である都主ローレンは確かに疑わしいが今の彼に余裕はない。この皇貴会議でなんとしても術式技術を手に入れたい彼は、必死だ。ローレンがそちらをほったらかして、リアトに干渉する筈がない。
では、この三つの勢力で最も疑わしいのはどれか。剣王レアーツや皇王ラハリオの可能性はあるが、彼らならばもっと穏便に事を済ませるだろう。幾らでもある他の手段を選択せずに武力に出たところからして、恐らく絡んでいるのは熱部デルフォイ家である。
問題はイルファンを攫う動機だった。オルンドラはイルファンと彼らの繋がりを探る。リディア家の力を以てすれば容易いことだった。そこで名が挙がるのが三男ランツ=デルフォイである。数ヶ月に一度だけローレッドへ向かう男。彼の動機は知れずとも糸は繋がる。だから、オルンドラは彼を疑うことにしたのだ。彼が術式士であるという情報もその疑いを強めた。
そこへエルミスタットの言葉が解答として与えられる。
これはルハランの醜態のお蔭だった。彼が居なければ、エルミスタットとは真面に話せなかったろう。ルハランは自分をより賢くみせるのに必要な男だった。勿論、彼と行動を共にするのが全て打算という訳ではないが。
それよりも、問題はイルファンを巡る『脳子』の思惑だった。彼らが何を考えているのか、その正確な所は未だに分からない。自分がエルミスタットに気に入られているという事実は、今後の役に立つだろうが状況は万全ではない。ローレン=ノーランを王にするという目的を実現させる為には、『脳子』エルミスタットを味方にしなければならないが、オルンドラは彼の不穏な一言を気にしていた。
仮に彼がローレンを陥れるつもりだとしても問題は無い。その時は、自分がありとあらゆる手段で『脳子』と戦うだけだ。彼を消去するだけならば、方法はごまんとある。だが、厄介事は早めに処理しておくべきだと彼女は思っていた。少なくとも、彼の最終目的を知っておくに越したことはない。短期的な流れではなく、長期的な流れを掴まなければならないのだ。
と、黙考する彼女にルディオが声を掛けた。
「宜しいですかな、乾部守護リオラーン様が先程からオルンドラ殿をお呼びです」
「父が?」
「えぇ。どうやら直接お伝えされたいようです」
少しだけ顔を顰めながらオルンドラは頷いた。彼女は父に会うことを避けていたが、呼ばれたならば行かぬのは非礼になってしまう。あらゆる対策を頭の中に浮かべながら彼女は二階席の柵から離れた。
「ペンドラン。都主代理の任は任せたわよ」
「ご心配なく。原稿は完璧に暗記しておりますゆえ」
原稿だから心配なのだ、と女は思ったが、自分が代わりに『パリィ』に立つことは出来ない。忌々しいと思いながら、熱部貴族の喧騒を一瞥すると、あのルスラ=デルフォイがこちらを伺っているのが見えた。一瞬だけ、オルンドラとルスラの目が合う。何を考えているのだろうか。その冷えた眼差しと口元の微笑みを捉えながら、女は背中を向けて階段を下りていった。
厄介ごとは増えている。エルトリアム中を奔走するアルト=デルフォイの居所は未だに掴めておらず、皇都騎士団のフートも連絡を寄越さない。卑賤兵に会うのだろうと踏んではいたが、どうにも上手くいかないだろうと彼女は思っていた。このノーラン皇国の裏を統べる男は一筋縄ではいかないのだ。『陰迷』のラフィーは恐らくフート=マルヴィスを手玉に取るだろう。
それでも彼が自分に協力することをオルンドラは期待していた。彼は強い者には従順であるし、自らの立場をよくする物事には積極的に関わろうとする癖があった。だからきっと彼はアルト=デルフォイを探し出すのだろう。あるいは彼の手下たちが。
端末を握りしめながら、女は足早に歩く。
緩やかに曲がった廊下の先には乾部貴族が座る席が並んでいた。その先頭に拵えてある巨大な机の前には一人の男が座っている。まだ少々の距離はあったが、オルンドラは彼が自らの父親リオラーン=リディアであるということを認めた。細身で長身、壮年の男には威厳とも威圧感ともつかない奇妙な気配が漂っていた。
「待っていたぞ」
「乾部守護様、皇太子付剣術士オルンドラが参りました。ご用件は分かっているつもりです」
「優秀な娘をもって私は幸せ者だな」
皮肉めいた口調でリオラーンが言った。男の齢はすでに五十を越えているので、顔には細かな皺が刻まれている。ノーラン人の特徴とも言える深藍の髪にもちらちらと灰色のものが混じり始めていた。リオラーンがその頭髪を撫でながら快活に笑う。男は皇国でも有数の権力者だというのに、その力を感じさせないことを得意としていた。
「先程は無理なお願いをしてしまいました」
「なに、お前の仕える主君の危機は私の危機だよ。勿論、お前の部下の危機も私の危機だ。皇都騎士団のことなら心配はしなくてもいい。アリィン様とお話をして、彼らへの待機命令を解除していただいた」
柔和な顔で父が笑ったのを見て、オルンドラも微笑みを返した。このツケが何処かで返ってくることは癪だが、それでも彼女は父に感謝していたのである。このリオラーンは権力や金と結びつきやすいリディア鉱山を四十年以上も護り、ノーラン家の支配から自治をぎりぎりのところで保ってきた傑物だった。オルンドラはそれを知っていた。
「しかし、愛娘の考えていることが分からないというのは辛いものだな。私にはお前が皇都騎士団を何の為に使うつもりか、皆目見当もつかぬ。彼らの戦力が大したものだとは到底思えないが」
「お気になさらず。ただの捕物です」
つんと澄ましてオルンドラが言ったので、男は細い顎に少しだけ生えた鬚を二本の指で撫でながら呟くようにそれに答えた。男はちらりと熱部貴族の席へと眼を向けて、口の端をあげる。
「捕物か。熱部に関わることなら気をつけるのだ。いかに堅牢な牢獄からも助けてやれるが、冥府からは出してやれない。何ならリディア家から『使用人』を何人か連れていっても構わない」
「そうやってまた恩を売るのはお止めになってください。守護様の助力を受け入れれば後で何を求められるか分かったものではありませんからね。私とて危なくなったら身を引きますとも」
リオラーンが目を細めた。その瞳が暗いものを帯びると、先ほどまでの快活な男の仮面は消え失せて、男の本性と思わしき邪悪が舌上に表じた。オルンドラの手にわずかな力が籠る。
「そうか。ならば、一人でローレンを救ってみるといい。未だ篭絡できぬ男のために力を費やし、下らない茶番を追うのに時間を無駄にすればいい。所詮、お前もローレンも皇都ではちっぽけな羽虫にしかすぎないのだからな。この国を焼き尽くさんとする灼熱のなかに飛びいる、つまらぬ小物だよ」
「よくお分かりで」
この男には、自分以上の流れが視えているということをオルンドラ=リディアは知っている。それゆえに彼の言葉は、単なる嫌味や侮辱以上の情報として彼女の耳に響いた。しかしそれでも、オルンドラの胸中では抑えがたい苛立ちが生じた。ローレンと自分を愚か者と罵るリオラーンは、娘の二倍近くの年月を生きながらも皇王ラハリオ=セン=ノーランを打ち倒せなかった臆病者だ。その意味ではデルフォイにも劣る人間なのだ。
「しかし生憎、私は火事場の野次馬になるくらいならば炎中に飛び込む方が好きなのです。燃え盛る火の中には誰もが欲しがってやまない宝がいくつも転がっているのですから、それをみすみすと他人に取らせるつもりはありません」
「名誉と権力か。欲深いそういう部分はエルーシアに似たのだな。お前の叔父上もリディア家の平穏と隆盛よりも自らの幸福を欲する男だ。お前の母親がそうであるように。あれはこの家よりも自らを愛した女であった」
「共通点があっても、私は私ですよ」
オルンドラが鋭く睨み付けるが、リオラーンは意に介した様子もなく自分の娘を冷ややかに見下した。男は手元の硝子器に入った葡萄酒を一口飲むと、瞳から暗闇を遠ざける。すると丁度そのとき、リオラーンの傍付の一人が『パリイ』へと入ってきた。背の低い獣人族が落ち着いた様子で何事かを彼に囁く。男はゆっくりとそれに頷いてから口を開いた。
「ダラ。たった今、熱部で大規模な呪界変動が観測されたようだ」
「ボダットを震源とする文化膜の変動ならば、殿下が熱部を落とされたのでしょう」
女は微笑を浮かべて、勝ち誇ったように父親を見たが、当のリオラーンは苦虫を噛み潰したような表情で娘を見た。彼は哀れむように長く息を吐くと、彼女にもう一つの情報を伝えた。
「いいや。熱部の呪界変動は奇妙なことにこの皇都までも伝播しつつある。この呪界の乱れは時間を増すごとに大きくなり、まるで玉突きのようにノーラン全土を混乱に巻き込んでしまうものだ。特に影響を受けるのは呪界通信網と呪界移動門を利用した経路全般。暫くの間、ノーラン内に無数の離れ小島が生まれるだろうな」
「どういうことです?何故に熱部の変動がノーラン全域に広がるのですか?」
リオラーンは熱部貴族の長であるアランド=デルフォイにちらりと目をやった。熱部の英雄は瞳を閉じたまま、その老いた顔に笑みを浮かべている。彼もまた、熱部陥落の報せを受け取ったのだと思われた。熱部貴族の間での非難と叫喚の声を全身に纏いながら、満足げに男は笑っているのだ。
「恐らく、お前の主君は嵌められたのだ。アランドの奴は遥か昔から呪界の要所に幾つかの仕掛けを施していたのだろう。その時が来れば、敵対者が勝手に起動させるような仕組みを作ってな」
「では、殿下が引き金を引いたと」
「ノーランが引き起こした呪界変動がノーランを混乱に落とし込むとは凝った仕掛けを考えたものだな。まったくアランドめ。どれ程の昔からこれを読んでいたというのだ?」
オルンドラの全身から嫌な汗が噴き出た。恐らく、ローレンには呪界変動など意識すらされていなかったに違いない。戦争の作法に従って、彼は熱部の敵を打ち倒し、その文化を掌握しようと試みた。しかしそれは皇国の文化膜全体を致命的に揺るがす行いでもあったのだ。リオラーンが余裕の笑みを浮かべて、愛娘に尋ねる。
「さて、ローレンはどう出るかね」
「殿下自身もこのことに気付いていない筈。このまま皇都に戻られても敗北は必至、お戻りになられなくても負けてしまうとすれば、打つ手はありません。デルフォイ家が呪界を弄った証拠でもあれば話は別ですが、乾湿戦争後から仕掛けられていたとすれば既に隠滅は済んでいるでしょう」
「手詰まりか。ならば面白いものが見れそうだ。高慢の権化のようなローレン=ノーランが皇都を追われる姿を見るのはさぞ楽しいことだろう。ダラ、事が終わったら私のところへと戻ってくるといい。悪いようにはしないとも。お前にとってもリディア家にとっても利益が一番大事なものだろう?」
政略結婚ならまだましな方だとオルンドラは思った。悲劇の主人公のように貴族的常識を有する親ならば世間から逸脱はしまい。だが、この狂人に片足を突っ込んでいる父親は何をするか分からない。こいつが自分を放り出すわけがないと彼女は確信していた。
オルンドラは端末を即座に呪界制御に切り替えると、思念操作によってある人物へと転言を繋いだ。相手はリディア家における彼女の腹心ヘリオスである。彼はリディアの上級使用人であり、記述樹への接続権を持っていた。(お嬢様、いかがされましたか?)、信頼する青年の声が脳の中に響いて、ようやくオルンドラは自分が焦っていたことに気付いた。
(熱部の呪界変動とその余波を調査して送って頂戴。それと乾部守護の端末を監視してみて。もし仮に秘匿された通信があれば『脳子』に開示請求を出しておいてくれればいいわ)
口を動かずに彼女はそう言った。
頭の中に再度、青年の戸惑った声が響いた。
(ご主人様に疑念を向けておいでですか)
(情報の理解が速過ぎる。疑って然るべきだわ。あ、そうそう。次いでに全貴族の脅迫材料を最適化しておいて頂戴。熱部貴族の過半数を取り崩すのに使うから大至急頼むわ)
しかし、そのとき奇妙な色を帯びた瞳がこちらをじっと見つめているのに女は気付いた。ゆっくりと男の上体がうねる様に動き、リオラーンの目とオルンドラの目があった。それは覗き込むというよりも奪い取るといった方が正しいだろうか。ある種の恐怖を覚えて、反射的に女は目を逸らそうとした。その瞬間、父が口を開いた。
「ダラ?」
「何でしょう」
「『パリイ』での通信は歓迎されない」
男の言葉に、オルンドラの心臓がひたりと止まった。この男が気付いているとすれば、何処かから情報が筒抜けになっている可能性もある。仮に自分の動かぬ表情から、しかし些細な変化を見破ったのだとすれば、それはそれで驚異的な事実だった。オルンドラが返答しようとしたとき、頭の中で青年が驚きの声を上げた。
(オルンドラ様、呪樹防壁が解除されているだけではありません。対象端末から熱部呪界の計測値やら構造式やらが次々に降りてきます。とてつもない量の情報で処理するだけで手一杯です)
女は思わず、目の前の男の顔を見てしまった。舌なめずりをせんばかりに愉悦を含んだその顔は、強者が弱者に向けるそれであると同時に、罠士が獲物を追い込むときのそれである。リオラーンの企みはオルンドラには分からなかったが、何か良からぬことが起きているということは分かった。
「なに、侵入は不問にしておくとも」
「父上……?」
「私からの贈り物だよ。計測された熱部の呪界変動をお前の親友に送っておいた。それを用いてローレンの皇都到達時刻を予想したまえ。恐らく、敵対する熱部貴族に防壁を張られていることを警戒して、あの男は皇都への直接転移も間接転移も避けるはずだ。だとすれば、ボダットからエルトリアムまでの最短距離である『高速空間通路』を彼は使うだろう。それでも、日没には間に合わないだろうがね。見返りはそうだな、計算結果が出たら私にもそれを送ってくれればいい」
オルンドラは自らの父の推測に鳥肌が立つのを感じた。それは自分が立てていた予想と全く同じだったからである。だが、渦中にいた自分と異なり、この男は外部から僅かな情報を集めたにすぎないのだ。リオラーンでこれならば、アランドは当然それ以上のことを予測しているに違いないと思われた。だとすれば、ローレンの帰路にはどれほどの罠が待ち受けているか分からない。
「情報に感謝いたします。しかし、殿下の行動は私にも予測できません。あの方は術式の名手にして呪界を知り尽くしているお方。正確な到達時刻は誰にも分からないでしょう」
「しかしお前はその殿下を知り尽くしているのだろう? お前に可能な範囲で構わないから、互いのために下手な真似はしないでくれよ。悲劇はあまり趣味ではないのだ。今のところはね」
そう言って、リオラーンは微笑んだ。彼が自分に情報を送った理由は明確ではなかったが、足がかりが出来たことには感謝するしかない。オルンドラはそう思いながら、情報の解析に取り掛かった。その姿はまるで父親の操り人形だった。
Δ
暗闇の中に差し込む光はわずかしかない。だから室内には魔法の灯が燈っていた。揺らめくこともない人工的な火の下には七つの人影がある。この混凝土で固められた薄暗い洞窟内部の空間で、彼らの苛立ちが沸きたっていく。その原因は主にローレン=ノーランと、状況を打開できる唯一の武器にあった。
「気味が悪いな。蟲みたいだ」
「まさか、これ?」
「えーっと、じゃあこれに乗るわけか?」
イルファンとレグルスが不満げな顔で言う。その眼前には六馬躰ほどもある巨大な蟲のようなものがあった。無論、それは自然物ではなくて人工物なのだが、デルフォイの魔獣合成術によって生み出された魔獣『パーンリア』を見た後では、本当にそれが生き物ではないと自信をもって言うことは難しい。何しろ、この乗り物『飛竜船』と来たら、どくどくと脈打っているのだ。誰がどう見たって魔獣である。
「そうだ。これがデルフォイが生み出した『飛竜船』。船と言うには小さいから恐らくは少人数での使用を前提に製作されたものだろう。神聖トルリアの船はこれよりも遥かに大きい二十馬躰はあるはずだから、何らかの理由で小型化したものに違いない」
ローレンが自慢げにいったが、脈打つ船体を愛しげに撫でているところなどは変態的である。リアトやルハランはその様子を気持ち悪げに見ていた。ローレンは幾つかの点検を済ませると、うっとりと機体に身を寄せる。ラツィオが嫌そうに言った。
「それで、これは動くのか?」
「愚問だな。ラツィオ、俺がこいつを動かせないように見えるのか?」
喜びを隠さずに、ローレンは船に近づいてその扉のような部分を開く。ぎちぎちと気味の悪い音を立てながら皇太子は中へ入ると、基幹構造部である術式板と術式球への干渉をすぐに始めた。機械の律動が激しくなり、畳まれていた羽が振動しながら素早く開くと、ぢぢぢぢと奇妙な音とともに船が羽ばたきはじめた。そして『飛竜船』は僅かに空中に浮きあがる。機体を支えていた六本の脚がゆっくりと格納され、地面から数剣長離れたところで蠅のように静止する。うん。これは蟲だ。とイルファンは思った。
「やっぱり蟲じゃん」
「術式機械だ。確かに機械部分には有機部品が多く用いられているが、根幹を成す制御機構は明らかに『副脳』。恐らくだが、デルフォイは独自に魔蟲の動体制御を『飛竜船』に取り込んだのだろう。速度はそれほどでもないだろうが、安定性は抜群の筈だ。この俺が保証してやる」
「保証とかはどうでもいいけど、これに乗るのは嫌かも。全体的に気持ち悪いし」
イルファンがローレンと蟲型機械を見ながら、含みを込めて言ったが皇太子は気付かなかった。何しろ、彼は楽しみにしていた術式機械を実際に動かしているのである。子どもが大好きな玩具を手にすれば、他のことに目がいかなくなるように、ローレンもまた『飛竜船』のことで頭がいっぱいだった。このままいけば、『皇貴会議』のことなど忘れてしまいそうですらあった。
「ローレン。遊ぶのはこれくらいにしろ」
レアーツが厳しい口調で言ったが、それはこの場の人間の総意だった。イルファンに纏わる一連の流れが落ち着いた以上、次の中心人物はローレンになるはずである。皇貴会議での勝利が未だ確信できるものではないとするならば、彼は自らのことに本気で注力しなければならないのであった。
「遊んでいるつもりはないぞ。ただ、ちょっと喜びが抑えられないだけだ。この術式板の精緻さを見てみればお前たちだって無関心ではいられないはずだぞ。ん、これは、着陸時の挙動には無駄が多いな……静止状態から垂直に着陸するつもりなのか。それでは術式計算も面倒だし、魔力消費が多くなりすぎるだろうが……トルリアの『飛竜船』もこんな無茶をしているのか?地面を擦るように降りられなかったのか?」
ぶつぶつと呟き始めたローレンを見て、ラツィオが呆れたようにため息を吐いた。
「悪いな。こうなると止められん」
「これだから兄上は貴族どもを敵に回すことになるのだ。本質的に政治向きの人間ではないのだ。思うに、地方貴族どもが主張していることは至極もっともなことかもしれんぞ」
ルハランがしたり顔で言った。ちなみに彼はもうイルファンの前で傭兵言葉を使うことは止めていた。また叩かれたくはないからだ。
「ローレン、お前の進退はどうでもいいがイルファンを安全なところに送りたいのだ。さっさと準備をしろ。大凡の見当は付いているが、余裕しゃくしゃくなお前を見ていると無性に腹が立つ」
苛つきながらリアトが剣を抜く。それを見て、ルハランも良い考えだとばかりに剣を抜いた。それに合わせてレグルスとイルファンも剣を構える。最後にレアーツが含み笑いをしながら剣を抜く素振りをすると、ローレンは慌てて『飛竜船』を着陸させて中から転がり出てきた。
「分かった。分かったから」
「何が分かったのよ?」
イルファンが問うた。
「お前らが私の命を何とも思っていないということだ」とローレンがぼやいた。
情けない顔で男は親友であるラツィオの顔を見たが、彼はこっちを見るなとばかりに首を横に振った。それで観念したのか、ローレン=ノーランは術式兵器の最終点検と魔力晶の準備に取り掛かる。
「皇都への連絡はまだ出来るか?」剣王が言う。
「いや、今は無理だな。私がロンティエルの奴を倒した影響だろうが、ただでさえ乱れていた呪界が滅茶苦茶だ。呪界通信網も歪みきっていて個人通信ですら構築は難しいだろう。まぁ熱部を出れば転移術式や転言が使えるようになる可能性もあるが、まぁ五分五分だろうな」
「やはりそうなるのか。これがデルフォイの策謀だとすると事を起こすのは今が絶好の機会となるだろう」
「そいつが勝って、私が死んでいるという可能性もあったはずだが」
ローレンが倒れているロンティエルを見ながら言った。彼が言いたいのはつまり、アランドが現在の状況を予想することは決して出来なかったはずだということだ。だとすれば、敵の作戦は丸々無駄に終わった可能性すらあった。リアトが訝しげにそれに答えた。
「そんな事を言い始めたら限がないぞ。ローレンが熱部へと転移しない可能性もあったろうし、イルファンがランツを信じなかった可能性もあった。それでも状況は『こうなって』いて、アランドに有利になる流れに進んでいる。恐らくは十界法則を味方につけて事態を動かしているのだろう」
「馬鹿馬鹿しい。私は剣術士の言う十界法則とやらは信じないことにしている。それに従えば、勝利の鬨を最初に挙げたものが最終的な敗北者となるのだろう?歴史を見てみろ。勝った奴は勝ち続けているぞ」
イルファンが不思議そうに問うた。
「ねぇ。十界法則って何なのよ」
「『綴りの界』に広がる力だ。暗喩、暗示、それらの力は隠れて運命を規定する。それを味方に付ければ局所的に敗北したとしても大局的には勝利を収めることが出来る。何というか下らん運命論の変種だな」
運命などイルファンは信じてはいなかったが、それが呪術の一種だと思えば、運命を支配する何らかの力がないとは言いきれないとも思った。何しろ、ローレンがロンティエルを倒すときに使った最大の武器は『魔法』でもなく『術式』でもなく、『呪文』だったのである。言葉が生みだした流れが彼女を打ち倒したのだ。
「あんた呪術使いのくせに、運命を信じないわけ?」
「愚か者め。『呪術』とは類推や潜在性を用いた技術であり、古代フォルド人によって確立された広義の『魔術』なのだぞ。法則を名乗りながらも碌に解明されていない『十界』とはわけが違う」
「あーあー、分かったからさっさと蟲を動かして。リアトがまた剣を抜きそうになってる」
びくり、とローレンが振り返ったが、そこには不機嫌そうなリアトが腕を組んでいるだけだった。イルファンは馬鹿にしたようにその様を見ている。ローレンの口が憎々しそうに歪んだが、流石に少女相手に怒鳴るのは大人げがないので、彼は舌打ちをするに留めた。
「剣王様、皇都に危険はないのですか?」
訝し気にルハラン第三皇太子が尋ねた。皇都と渡りをつけていたのは彼であったが、ルハランには十界法則やら何やらは分からない。『流れ』のうえで危険が生じているのならば、それを知ることが出来るのは、今のところは剣王レアーツしかいなかった。
「俺を信用しているというわけか。話が早いな。皇都にはお前たちの敵しかいないが、危険自体はほとんどないだろう。デルフォイの目的は貴様らのような小物ではなく、もっと国体を揺るがすようなものだからな」
「では父上の命を?」
レアーツがそれを聞いて笑った。彼はあのラハリオをデルフォイが殺せるとは微塵も思っていなかった。たとえ、どれだけ巧妙な罠が張られていようとも特級剣術士である皇王ならば易々と打破するに違いない。だからこそ、彼は流れに亜流を生じさせないために、ローレンへの一切の助力をしないのだとレアーツは知っていた。それをこの息子たちが知っていれば、こんな愚かな質問はしなかったに違いないと彼は思った。
「陛下に危険はない。狙われているのは地位と権能だろうが、簒奪にならぬような流れが結ばれていることが重要なのだ。分かったらさっさと船に乗り込め」
「ふむ。何を企んでいるのかは知らんが、この私を困らせるなよ」
ローレンが言った。
それを聞いて剣王は笑った。
「俺は貴様の友人ではない」
「ならば、私も保険を打っておきたくなる。そのイルファンとかいう小娘とリアトの身の安全を保障してやらなくても構わんのか? 私が声を掛ければ、乾湿戦争で恨みを持っている貴族どもは山のように釣れると思うがな。なんならこの熱部にお前たちを置き去りにしてやってもいい」
「そうなれば、この国は次代の王を失うぜ」
低い声でレグルスが呟く。ローレンをじとりと睨みつけるその眼差しに、彼がどれほどに貴族を憎んでいるかというものが伺いしれた。海刃の若き剣術士ガ―ドックと同様に、レグルスも貴族や皇族といった存在に対してよい印象は持っていなかった。それが同じ血を持つ者の敵になるとするならば尚更である。
「兄上、誓約をお忘れではないでしょうね」
ルハランが焦ったように言った。
「勿論だともルハラン。されど剣王の手綱を握る手立てがないとなれば先立っての誓約も意味がない。熱部の脅威が除かれた今、もはやあの誓約は私にとっての足かせにしかならんのではないか?」
「ローレン=ノーラン、お前は二つの思い違いをしている」
剣王が眉を顰めて告げた。
「思い違い?」
「あぁ。先ず、俺とお前の利害は当面のあいだは一致しているがゆえに、俺がこの流れの中で裏切ることはない。お前の疑いは単なる杞憂だ。そして、熱部の脅威はまだ去ってはいない。真に恐れるべきは皇都のアランドだ。ここで下らん無駄話をしている暇など本当はないのだ」
「妙な物言いだな。今は裏切らないが、いつかは裏切ると?何故そんなことをわざわざ私に告げるのだ?」
「隠し事は意味を強めるが、嘘は意味を変えてしまう。十界法則を乱すことは避けるべきだからな」
今度はローレンが眉根を寄せた。彼は心底十界法則という奴が嫌いだったし、その存在が運命を定めているなどとは信じたくもなかった。もし仮に法則があるのだとすれば、自分の失敗や成功とはなんだったのか。今までの事象全てに何の意味もなくなってしまうように思えたのである。しかしまぁ、剣術士などそういうものなのかもしれない。
「戯言は結構だ」
「同感だ。船を起動させろ」
ローレンの言葉に被せるようにレグルスがぼやいた。彼はいい加減に痺れを切らしているようだった。ローレンが振り返ると、イルファンも苛立った様子で飛竜船を蹴っている。皇太子は慌てて、船へと駆けよると、その扉を開けた。
「慎重に乗れ。これは精密機械なのだからな」
「へぇ。結構広いんだな」
レグルスが中を覗き込んで言った。どうやら彼は既に『飛竜船』に乗り込むつもりであるようだった。滑らかな手触りの革で覆われた座席に手を置くと、少しだけ屈んで、ずかずかと男は乗り込んだ。中には幾何学模様の刻まれた球体と幾つもの薄い鋼板、それに輝く結晶板が並べられている。それはクレリア国が開発した『機両』と呼ばれる装置やその亜種ともよく似ていた。もっとも、『機両』に使われているものとは比べ物にならないほど、こちらは雑然としていたのだったが。
ローレンがぼやいた。
「くそったれ」
「まぁそう言うな。この程度で壊れれば兵器にはならんだろう」
そう言いながら、ラツィオ=メインが大柄な体を捻じ込むようにして乗り込む。この二人だけで既に機体の中は四分の一以上が埋まった。イルファンが不安げな顔で剣王とローレンを見た。
「見た目以上に広くても七人は絶対に無理だよこれ。それにロンティエルまで乗せるなら多分、荷物を入れるところにでも押し込まないとどうにもならない気がする。ローレンだっけ。そこんとこどうなのよ?」
「取り敢えず、お前とお前とお前はここで待て。今の熱部はかなり安全だから急いで離脱する必要もないだろう」
そう言ってローレンは、イルファンとリアト、それにルハランを顎で指し示した。
「市民寄りの中立派や傭兵派を取り込めませんよ」
「必要ないな。手土産のデルフォイがいれば勝利は確定だろう」
自分を売り込もうとするルハランの問いかけにローレンは答えた。その口ぶりからして、剣王レアーツの言葉をまともに聞いていなかったことがルハランにはよく分かった。この兄がアランドを脅威と思っていないことこそ真に恐るべきことだと彼は思った。
また、腹心であるはずのラツィオも驚きを隠せなかった。本気でこの傲岸不遜は熱部を抑えたつもりなのだろうか。それとも不安や恐れをひた隠しにして、強がりを言っているだけなのか。
「どうかしている……」
「お前と議論する時間はない」
「イルファンを乗せろ」
リアトが断じた。彼女とローレンの仲は未だに悪く、男は瞬間的に反応した。
「その餓鬼を皇都に連れていく意味もない」
「死にたくなければ連れていけ」
「私はその手の無益な脅迫を好かない」
ローレンが目を細めて睨みつけると、リアトも猛禽のような目を向けた。
「益ならあるさ。お前は皇都へ向かう為に『呪界通路』を用いるのだろう? ならば、呪界移動網の防壁を破る必要があるはずだ。そしてイルファンはあらゆる術式作用を部分的に無効化する特質を有している。お前ならその意味は分かるに違いない」
そう言ってリアトは少し古い何かの文言を思い出すように淀みなく言葉を紡いだ。それは彼女とローレンが乾湿戦争でともに学んだ戦法の一つについての講釈である。十五年前に彼らは呪界を移動することで湿部全域を自由自在に行軍したのであった。それは懐かしい記憶。
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呪界移動網は呪界通信網と同時期に自然発生的に誕生した移動通路である。古くは空間を司る闇属魔法士がその道を使い魔飛ばしの道として活用し、『空化』技術が発展した後には、魔法士たちの移動通路として使用された。また現代においては『転移術式陣』が人体を呪体変換することによって、ほとんど時間経過なしに人間を別座標に移動させるが、その為に用いられているものも呪界移動網である。
通常、実界に属する人体は呪界へと溶け込むことは出来ないが、呪界移動網においては、その呪的空間が実界と呪界に跨る『歪場』と化しているために、適切な操作さえ行えば、人体がそこを通過することが可能になるのである。その為、近年の術式技術の発展に伴って、『移動門』と呼ばれる形態の転移魔術も使用されるようになっている。従来のように少数の人間を魔術式陣で変換するのではなく、『門』を用いて、移動通路そのものを『歪場』として実界に固定することで高速空間通路として呪界を用いるのである。
勿論ながら、この場合には人体および実体は呪体速度に到達しないが、極度に不安定な『歪場』においては実界時間とのあいだに過度の時間差異が生じるために、疑似的な高速移動が可能になる。一般的に、高速空間通路の使用に伴う呪界時間は実界時間よりも遅れているためにこれは成り立つ。
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「リアト=マリオン。その言い口はオノバルからの受け売りか。乾湿戦争の旧技術と一緒にされても困るが、確かに私の計画を当てていることは誉めてやる。だが熱部文化膜を掌握している今の私ならば皇都防壁に大規模干渉を仕掛けて、無理矢理にこじ開けることだって出来るのだ」
「こじ開ける?」リアトが問うた。
「こんな風に……」
そう言うローレンの瞳から色が抜けていく。どこか遠くへと飛んだ焦点はこの世界ではなく、呪界だけを捉えていた。男の指先が楽器を弾くように跳ね回り、奇怪な文様を空間に描いていくと、同時にリアトの全身から瞬時に汗が噴き出した。思わず彼女は膝を付き、辺りを素早く見回す。
「兄様!!これは」
「ローレン、」
剣王レアーツは顔を歪めながらもその体を崩してはいなかった。男は口元に奇妙な笑みを浮かべたままで妹の方を見ると、何かを告げるように口を動かした。しかしそれはリアトには分からなかった。何故ならば彼女は既に倒れ伏していたからである。そしてまた、イルファンとレグルスも船の中で糸が切れたかのように倒れ伏していた。
「リアトに何をした!」
ルハランが叫びながら剣を抜いたが、その首筋には既にラツィオのバルニュスが当てられている。敵をすべて排除した場の中で、ローレンの口だけがぶつぶつと言葉を漏らしていた。その言葉は剣王にすら聞き取れなかったが、恐らくは何らかの呪文だと考えられた。この男は事実上の文化膜掌握者である。その力を用いて何を為したか、レアーツは正確に理解していた。
剣王は片手で頭を押さえながら跪いた。
しかしその手に剣は握られていない。
「……ノーラン文化膜との癒着」
「そうだ。古き血の影響力とデルフォイの弱体化の両方を狙える最前手ならば取らぬわけがなかろう。剣王の意識が無事だというのは誤算だが、まぁノーラン文化膜への依存度の方が高いと見れば想定内だともいえるだろう。さてどうする。私をここで殺しておくことも出来るが……」
僅かな怯えを含んだように、おずおずとローレンが問うたが、剣王は彼を殺す素振りを見せなかった。ラツィオがいたからではない。レアーツがこの展開をある程度読んでいたためである。
「必要ないな。お前にはこいつらを皇都に運んでもらう。お前の術式技術なら内部の空間をちょっとばかし広げることなどお手のものだろう。機体の大きさなど呪界では関係がないのだから、人数がどれだけいようが構いはしないはずだ」
「なぜそのことに拘る? 中央は危険だぞ」
剣王が顎をさすりながら言ったが、ローレンはやはり不思議そうに口答えをした。皇太子にとっては危険な中央にわざわざルハランやリアトといった火種を連れていく意味が分からなかったのである。それはある意味で、彼らの身を案じてのことでもあった。
「十界法則はお前の単独行動を妨害する。俺は悲劇にも喜劇にも興味はないのだ」
剣王の瞳が冷たく光る。しかしそれも運命を信じないローレンには下らぬ世迷言であった。というよりもあるいは、彼は言葉の意味を理解できなかったのである。
「私を妨害するのは違界の法則ではなくて、生きている人間どもだろう。貴方も含めてな。それでこれからどうするつもりなのだ。私とともに皇都へ来て、デルフォイ連中を打ち倒すのか」
「分かっているはずだ、お前にも」
低い声にローレンは顔を顰めた。
「朧げには予想していたさ。剣王レアーツは奉仕をしない男だからな。この熱部に来たのもリアトや俺を救うことだけが目的ではないのだろう。だとすれば、皇都には私と有象無象だけで乗り込むことになる。しかし、それは一種の試練だとでも思うことにするさ」
皇太子は両手を広げ、芝居がかった仕草でお手上げといったような表情をした。やけに疲れた顔は未だに治っていないが、光明を見出した影響からだろうか、自暴自棄にはなっていない。この男は次第に変わりつつあるとレアーツは思った。乾湿戦争の最中の傲慢な男でもなく、戦争後の腑抜けのような趣味人でもなく、何かそれ以上の存在に。使命感というものを持っている人間をレアーツは嫌っていたが、今のローレンにはどこかそういうものを感じさせない緩さがあった。
「俺の読みでは勝てる」
「アランドにか? それは無理だろう。私とてあの怪物の逸話は幾つも耳にしているし、存在位格からして負けている。私が戦えるとしたらリオラーンくらいが限界だろうよ」
珍しくローレンが弱音を吐いたが、正確に言えば、それは彼自身の現実認識を素直に吐露しただけであった。乾湿戦争のただ中を生き抜いた皇都の老人たちの権力や知恵は侮ることができない。先程は大言壮語を吐いた彼であったが、理性の奥底では現状の厳しさをよく理解していたのである。
「ふん。リアトやルハランが聞いていないならば、かくも殊勝になるものか。貴様の意地っ張りは王になるまでに治しておけ。能力のある他人を上手く使うことさえできれば、貴様は化けるのだからな」
「今のは誉めたのか」
眉根を寄せてローレンが言う。
「適切な評価だとも」
レアーツはほくそ笑むと、懐から頭布を出して顔を覆った。正体を隠した剣王は地面に倒れているロンティエルを一瞥する。その瞳には好奇心の光が燈っていたが、ローレンは彼女を連れていかれるわけにはいかなかったので眉を顰めた。その、皇太子の反応までも分かっていたかのように、剣王レアーツはローレンの瞳をじっくりと眺めて、それからデルフォイの女を置いて立ち去った。
「本当に私に託すつもりなのか……?」
皇太子が男の背中に向かって自信なさげに叫んだが、剣王は何も答えはしなかった。それはある種の賭けのようにも見えたし、あるいは何がしかの信頼の証のようにも見えた。されどどちらにせよ、剣王が皇貴会議に介入しないという事態は、ローレンにとっては暗示めいた行動に思えた。
試練にはいつでも一人で立ち向かわなくてはならない。使える道具は数あれど、事象を操ることが出来るものが誰一人いないとすれば、誰にも頼ることができないことと同義なのである。
「くそったれ」
ローレンはひとりごちた。
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皇都騎士団長マルス=ルーリアは大きなため息を吐きながら『パリィ』の外側に思いを馳せた。天井付近に設置された小さな明かり取りの窓からは、仄かに闇を含んだ明るい外光が差し込んでいる。これが白い内はまだ自分もローレン殿下も終わってはいない、と彼は思った。
騎士団の中でただ一人だけ入室が許された自分の役割は何なのか。生粋の剣術士であるマルスはいついかなる時も、十界法則から物事を辿ることを行動指針としていた。自分を呼びつけたルディオ=ペンドランとそれを許した上位貴族の存在は、彼にとって企み以外の何物でもない。この『パリィ』の中では武力行使が暗に認められているのだから、言葉を交わすことは剣を抜く前の戯れのようなものなのだ。仮に剣が抜かれるならば、その持ち主と剣の先が重要となる。
「ペンドラン殿、不穏な動きはどうですか」
「既に城内で陰秘士四名が捕縛されているうえ、城外湿方門付近でも過激派の熱部勢力が罵告運動を行っているようだ。皇城守備隊との武力衝突は起きていないようだが、獣人勢力などの亜人種が運動に加わり始めていることからしても、いずれは小規模な戦闘が起こるだろう」
ルディオは一階から見えないように端末を手で隠しながら開いた。その結晶画面には幾つもの情報が簡素に表示されていた。情報元は息のかかった国属兵や市民の中に紛れ込ませた間諜であるが、彼らとて完全には信用できない。実際には外部で熱部勢力が動いていたとしても、ルディオには、本当にはそれを知る術はなかった。何しろ頼みの綱の皇都騎士団は抑えられているのである。
「それは結構なことで」
しかし、顧問官の焦燥を感じた様子もなく、マルスは飄々と答えた。彼にとって情報の真偽など二の次であり、重要な仕事はこの巨大な広間の中だけにあった。その態度と仕事ぶりは騎士団長としてはあるまじきものであり、事実、マルスは幾つかの部分では副団長フートよりも劣っていた。
「皇貴会議に乗じた政治活動なら、構いませんよ。この『パリィ』の中で殿下の命を奪おうとする連中さえいないのであればね。何しろ、ここは歴代の皇王三人と皇太子二人を殺した場所でしょう。入室してからずっと首筋の辺りがぴりぴりしてやがりますよ」
マルスは神経質そうに首の付け根を撫でたが、そうすると脇が開いてしまうことに気付いて、彼はすぐに右手を剣の柄に這わせた。ルディオが目を細めてそれを見た。彼には剣の心得などほとんど無かったが、マルスが感じているものが何かは分かった。
「恐らくは熱部貴族が傍につけているお抱え剣術士連中の殺気だろう。補佐官と称して無手の剣術士が多く紛れている。もっとも、ルーリア殿もその一人だが。君には私とリディア嬢の命を守ってもらいたい。熱部と無天皇族どもの妨害のせいで君一人しか頼れないのだから」
無天皇族という言葉でマルスは唇を噛んだ。貴族以下の能無し連中は揃いもそろって、ローレン=ノーランの足を引っ張ってきたからである。一部の武闘派や商い者を除いては国家の寄生虫だというのに、彼らはその家名と伝統を振るって、皇都改革を様々な仕方で足止めする。マルスは隙あらば彼らを殺してやろうと企んでさえいた。
「奴らが何か仕出かしたら、私が斬り殺してやりますがね」
「欲を出すな。君は自分の仕事を全うするだけでいい」
ルディオが窘めたが、彼もまた無天皇族の横暴には不満を持っていた口であるから、どこまで本気でそう言っているのかはマルスには分からなかった。もっとも、本当に敵を皆殺しにすることなどはローレンの立場を危うくする行為であるから出来ないのだが。
「勿論それが仕事ですが、それではローレン殿下は誰がお守りするのですか。オルンドラ様は相当に腕が立つ剣術士ですが搦め手には少々弱い印象がありますな。私見ではラツィオ様やシャミィのような奴を紛れ込ませるべきだったかと考えとりますが」
マルスがすこし不安げに言う。獣人シャミィは現状、ローレン=ノーラン直々の命令を受けて皇宮ラングリア内を走り回っているという話だ。その素性からして完全な信頼はおけない相手ではあるが、彼の腕の確かさならばマルスも認めていた。ラツィオ=メインという男が正統派の剣術士ならば、あのシャミィは搦め手をもっともよく知る男だった。
「勿論だ。殿下はラツィオ=メインと二人で戻られる予定になっている。都主特権を用いて、帯剣のままでラツィオが警護に当たるはずだ。生きていればの話にはなるかもしれんがな」
時計を見ながら苦々しげにルディオが呟いた。時間は刻一刻と過ぎていくが、端末にローレンからの転言は送られてこない。開始までに彼が戻ってくることはもはやないと思われた。それどころか、下手をすると日没まで戻ってこないかもしれなかった。そのときは、ルディオはある程度覚悟を決めなくてはならない。
既に熱部で大規模な呪界変動が起きていることはルディオ=ペンドランも把握してはいたが、独自の術式士筋を持たない彼にはその事態の詳細までは分からない。仮に変動の原因がローレンにあるとしても、それが良いことなのか悪いことなのかは図りかねた。
というのも呪界変動が起きる原因には様々なものがあったからである。たとえば、歴史的建造物の破壊や文書の焼却などといった文化破壊から、象徴人物の殺害やその存在位格の貶めといった象徴破壊、さらには文化膜や呪界そのものに魔術的に攻撃を加えるという直接的な攻撃も変動を引き起こす。文化破壊ならばローレンの生存に確信が持てるが、呪界攻撃による変動ならば何の判断もできない。
事態の楽観視は危険である、とそう睨んでルディオは何も対策を講じない。それはオルンドラ=リディアのやり方とは正反対であるようにも見えたが、対策を講じることが誰かの操り人形になりかねない危険性をはらんでいるとすれば、彼のやり方が間違っているとは誰にも言えないのである。
「直に大時計が鐘を打ちますよ」
「殿下は必ず戻る。それまでは私が時間を稼ぐ。あの老害の論戦手練れどもになんとか食い下がってみるとも。だから何があろうとも絶対に先走るな」
マルスの言葉にルディオが頷いた。狡猾な外面と火のような内面を併せ持つ男はまるで自分に言い聞かせるように力強い言葉を吐いた。ここからが彼にとっての正念場なのだ。
「それは十界めいてますな」
と、困ったような表情でマルス=ルーリアが答える。彼は二階席を出て『パリィ』中央に向かうルディオ=ペンドランの後ろにぴたりとつくと、そのまま無害な従者のように無手で歩いた。人通りの少ない廊下であるが、その至る所から刺客の気配が漏れていた。マルスはわずかな油断も命取りであると再認識した。
広間の外廊下はどこか寒々しい。魔法灯の仄暗い照明の下を歩き、ルディオは少しずつ『パリィ』中央への唯一の入り口へと近づいていった。本来ならば合流するはずであったオルンドラは未だに来ないが、彼女を待っているわけにもいかなかった。重々しい黒鉄の扉のまえで息を整えると、ルディオ=ペンドランはゆっくりとその扉に触れて合言葉をつぶやいた。
静かに扉が開くと同時に三階席の楽隊が演奏を始める。管楽器の華やかな音が広間中を跳ね回り、打楽器の微細な振動が人間たちの肚を勢いよく叩く。気休め程度の薄い防御膜につつまれた中央通路をルディオ=ペンドランはせかせかと歩いた。目を少し上げれば、大勢の貴族たちの顔が見えるが、全方位を一度に見回すことは出来ないのでオルンドラの姿は見つけられなかった。見えたのは熱部席に座るアランド=デルフォイとその息子ルスラの、人をあざ笑うかのような笑みである。
足を止めた。『パリィ』の中央に立つルディオ=ペンドランは少しも委縮せずに取り囲む貴族どもを強く睨み付けている。その後ろには頭部を布で覆ったマルス=ルーリアが影のように立っている。ルディオが資料を脇の木台にどさりと置いた。それと同時に、広間の天井に設置してある巨大な時計の針が重なった。時刻はハオンの九時、明度時刻でいうところの十五時であった。




