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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
四節 熱部霊魂
33/43

4-1 虚妄業念/ラベストリ

四節 熱部ボダット/炎地[第一部 琥珀の剣]

Δ



 言葉の本質こそ虚妄であれども、了解することは寛容である。生々しい輝きを知らぬ断片を紡いで本とする子どもらには、穢れが欠けている。舌を奔らせるものよ、口中に鏃を含んで歌を歌いたまえ。鋼の冷えた味を曇りなき真実と確信したまえ。それとて本来は虚構であるが、妄ずるよりは幾分か生であろう。夢を諳んじよ。念仏は言葉の内面である。



Δ



 空は暗く、天の鳴る声が森中に高々と響き渡る。


 熱部ボダットを特徴づける呪雨がざあざあと降る日だった。深淵を感じさせる嫌らしい夜の気配を振り切って、男は歩いた。そこは既に邸宅の中である、だというのに、まるで、まるで洞窟の中であるかのように薄暗く、重苦しかった。


「殿下、深慮なさってください、今は耐え忍んで頂きたいのです」


 しわがれた男の声、それは昔から聞いていた老官吏のものだった。ルハランを嫌うこの老人が、どこか苦手だったのを覚えている。彼がこちらを覗き込むように見て、肩を揺らした。汚れた眼だ。私欲に塗れた眼。この男が見ているのは自分ではない。第一皇太子としての地位と権力しか、彼は見ていない、


 そう、ローレン=ノーランは思った。


 とはいえ、「この状況」でまだ傍にいるというのは、老人が少なからず忠誠心を持っているが故でもあるのだろう。大半の者は蜘蛛の子を散らすように、自分から離れていったから。


 皇太子であるとはいえ、『雲指』でなくなった自分に価値は無い。皇王ラハリオの出方次第ではあるが、多くのものは敗者につくことを恐れた。


 であるが故に、ローレンは身体を引き摺って、策を練ることにしたのだ。ここへ来たのは、その目的を果たす為。あの青宮で生き抜くには何らかの呪的な武器が必要だった。ひとつは知識。それは既に持っている。足りないのは実践、禁じられた呪術の実践だ。


「私の気持ちは変わらんよ」ローレンは言った。


 見上げた先には一人の女、彼女は熱部の女主人である。


 床、それは豪奢であった。足元の沈み込むような絨毯に竜退治の図柄が描かれている。仄かな灯りの元では、それすらも完全には見えなかった。ローレンは英雄である男の顔を踏まないように注意して、歩いた。この当てつけのような絨毯を彼らはどう思っているのか。そんなことを考えながら、ローレンは階段に足をかける。


 二階の舞台では彼女が優しげに微笑んでいた。手を軽く出して、握手を取ろうとしている。それは呪術的に意味を持つ行為であるから、ローレンは躊躇した。


「初めまして『雲指』様。熱部までようこそおいで下さいました」


 女がさっ、と手を戻して言った。彼女は既に老いていた。だがしかし、女には空恐ろしい魅力のようなものが備わっていた。身体を優しく覆う赤色のワンピースは恐らく、森蚕の糸で編まれている。薄衣はその身が動く度に、さらりと光の角度を変えて、広がった。形容しがたい美しさは、宮殿の舞手たちにも備わっていない妖しさを醸し出す。ローレンは呑まれてはならないと思いながらも、既に呼吸を忘れていた。


「息が、」ローレンが零す。

「初歩的な呪術ですわ、殿下」


 彼女が言ったので、すかさず、ローレンは言った。


「これが呪術だと? 魅了の魔法でも使っているのか?」

「妖しさは男の根源に働きかける原初の呪術なのですよ」女が笑う。

「なるほど」


 底冷えするような恐怖を感じたのは、それを呪術と思わなかったからだ。瞬間的に悟った。この女はいわゆる、呪術士であるだけではなく、本物なのだ。優れた呪術の使い手が人でなく神と同一視されるように、この女は、辺境でただ怪しげな技や儀式を使う呪士ではない。だとすれば、ここへ丸腰で来た自分の命は、いつ失われてもおかしくはない。もとより覚悟の上であったとはいえ、ローレンはぞくりと、震えた。


「もし、其方さえよければ、私にその秘術をもっと見せてはくれぬか」

「では、私の手を御取りなさい」


 するりと伸ばした手は宍色であり、傷一つない。しかし、その爪先は、どこか悍ましく歪んで見えた。酷く、乾いている。どうしようもなく罅割れている。

 

 ローレンはその手を取り、そっ、と口づけた。


「あぁ、ハオンの力を受けし、天の獣の末裔、貴方があのような異端の呪術者にかしづくとは。よもや私には、このノーラン皇国の崩壊としか視えませぬ。悍ましい、これなる魔女に身を委ねるというならば、殿下を我が主君と仰ぐことなど、到底、叶わない」


 老人の絶叫にも近い声が響き渡り、同時にローレンが女の手を離した。


「随分と高貴な魔女もいたものだ」彼が言った。

「私は魔女ではないですわ」女が笑い、言葉を紡いでいく。


「魔女とは、バレア教などの一神教、あるいは二元論的宗教においてよく見られる悪の人格的化身、悪魔と契約した人間を指すものでしょう。その超常的な力の根源は悪魔に帰せられますわ。原初の魔女はあらゆる手道具を用いずに呪をかける、忌まわしき存在でしたわね。これは魔司士たる魔術士や呪術士とは明確に区別される禍者でしょうに」


「今では、愚かしくも呪術士を魔女と同一視する輩までいる始末。挙句の果てには、科学の探究者たる術式士までもが、魔女と蔑まれ、迫害を受けているのだとか。ローレン=ノーラン、魔法士であった貴方ならば、理解出来るでしょう。術式も魔術も呪術もその根源には『理』があるのです。魔女幻想など、愚か者の下らない転嫁術に過ぎませんよ」


 ローレンとて、ある意味では、その言葉に頷くことが出来た。確かに一部のバレア教国から飛び火している魔女概念は曖昧に過ぎた。昨今では、在野の魔法研究者までもが暴行され、殺される始末である。その直接的な要因がバレア教であるとはいえ、ノーランも楽観視は出来ない。


 度重なる戦乱と魔獣病の跋扈が、国内の農村を幾つも壊滅させ、大小都市の市民を果てなき飢えの苦しみに誘っているのが現状なのだ。幾つかの村落では、天獣教を捨てて、バレア教に改宗した者まで現れているという。彼らは、自らの村の異端者を糾弾し、魔女として晒し上げた。その悪しき傾向は、農村部だけでなく、大都市にまで広がっていた。ローレンの傍仕である老人が口走るほどには。


 そしてまた、ローレン自身も実際には魔女という言葉を使用したことがあった。女が笑うような、悪魔との契約者たる魔女などは、まったくもって荒唐無稽だろう。されど、その身の内に、超常の力を有する異能者は、確かに存在するのだ。自分たちは、そのような力を有する者を、何と呼称するべきか。


 人間自身の力を引き出す靈力や理を有する呪術とは異なる力。それは、世界である一人格による、他者への干渉。人々はその力を『狂眼』、あるいは魔女と呼んだのだ。


 故に、ローレンも敢えて、この女を魔女であると認識していた。初歩的な、と彼女が称した魅了の術は、女の存在に宿る呪い。眼に限らず、そのような力が『狂眼』なのである。それはローレンには真似出来ぬ、神秘の力であった。だから、彼はそんなものは求めなかった。


「私はここへ、呪術士たる貴女を頼みにきた」彼が言う。

「勿論ですとも。殿下には呪術の原理と、術式構築を学んで戴きます」

「魅了の技術はともかく、呪までは知れぬ。今宵はその二つで良い」


 呪術の原理とは、それ即ち、共通性と文化性。ある特定の文化膜の中でのみ理解されうる共通性質。そのような文化膜は数層もの重なりとして、大陸中を覆っていた。この文化差異による実体結界は、時として、人々の流入すら阻む。であるが故に、あらゆる呪術は膜に沿って、行われる。


 例えば、魂を破断するという術式が用いられる国は天獣教国だけだ。バレア教の国では、あらゆる魂は裁きの日まで、煉獄に落ちる。故に、バレアの術式技術は、魂を果ての日まで、拘束するのだ。無論、その違いが呪界に反映される仕方は誰にも知り得ないのだが。


 このような事情から、あらゆる術式技術は文化とは切り離せない。それは純粋機械技術が、文化に影響されるというのとは異なる意味である。純粋機械、あるいは幾何学が文化の影響を語る時、それは世界の理である十一界『刻界』や呪界には影響しない。あくまでも、人間の捉える時間関係上の影響にとどまる。


 つまり、馬の存在する文化の中でしか『馬車』は生まれないということは、それ自体は呪術的な切り離せなさを有してはいないのである。何故ならば、根本的に呪術は文化内でしか使用できないのに対して、純粋機械の技術や理論は、実界上ならば、どこででも再現性を持つからだ。


 その意味でローレン=ノーランが学ぶべき呪術とは、熱部ボダットと、ノーラン皇国に共通する文化的性質であるべきだった。それはつまり、人間存在の根幹に関わる呪についての考察である。


 女が目を細めて、若き皇太子の怜悧な眼を見る。

 皇太子は、生唾を呑み、女の言葉に備えた。


「私の魅了が生得的なものであると見抜かれたのですね」

「男を蠱惑する力は、女が有する呪の源泉。それを最大限に用いることが出来るとしても、私にはその技術を耳にするより他に、何も出来ないであろうから」


 にこりと皺だらけの顔が笑う。しかし、それはどうしようもなく美しい。恐らくは、彼女にすら、自らの呪いを解くことは叶わないのだと知れた。ローレンは老女の差し出す手を取り、それに導かれるままに階段を下りていく。官吏の男が、おろおろとした顔でそれを見ていた。


 老女が柔らかな絨毯に足を着けて、言った。


「∬知りなさい、ローレン=ノーラン。現世は忌むべき観念にして、知るべきは歴史、連関する事象が即ち、構築であると。∬『あらゆる文化膜を包括する原始の欲求へと遡り、夢想術士の見せる幻影の如き、存在の欲求と、その原初に横たわるリゲトーメルクの舌を視よ。罰神たる男神は自らの舌を噛み切り、永遠にそのすりこぎの歯で粉を産む。白きその粉は性の根源にして、竜の一本角。彼は生命を貫く二重らせんの、父であるのだ』」


 そう語り、女が両の手を打ち合わせると、掌の間から火の粉が舞った。白とも赤ともつかぬ其れは、闇を打ち払い、脈動を空間に齎す。その胎動にも似たざわめきの中で、ローレンは確かに竜の姿を見た。

 

「見なさい。先ずは私たちを見なければなりません」


 女の声、それに重なるようにして、絶叫と苦悶の声が響く。熱と激痛に喘ぐ声は、また、それに重なる轟音にかき消される。それは生々しい、戦乱の音であった。


 炎に巻かれるボダットの村落と、その中央に屹立する巨大な塔。それはまるで人々を監視する支配者に与えられたもの。地獄である世界を眺める天使の如く、塔の上には一人の男が居た。男の名は、「グレオン=ラベストリ」であり、その末裔だった。


 搭上から大地へと、轟くような声で、彼が宣言する。


「煮えたぎる、我が怨敵たるノーランの血よ。その飽くなき支配欲と溢れ出る情欲は貴様らの存在そのものであり、忌むべき呪いとなる。この熱部を滅ぼすならば、我はその呪いを、際限なく続く責め苦として、祝福として、新たなる熱部の王に捧げよう!」


 それに答えて、地上から響き渡るは戦士の怒号。誰もかれもがバルニュスを手に、靈気を迸らせている。ローレンには分かった。彼らは、ノーランの剣術兵だ。この地を土着の民から奪うために、彼らはここへ出向いたのだ。つまり、この光景は、五百年近く前の熱部ボダット。時の皇王がラベストリの権力を奪い、新たな支配者となる戦い。その場面を自分は、彼女に見せられているのだ。


 塔の外壁には幾つもの術式陣、それらが大量の魔力を流されて発光する。それは当時としては有り得ぬ、二十四定式の形を成していた。この魔法定式が復元されたのは、乾湿戦争の最中ではないのか? ローレンは疑問に思うが、それに答える者は誰もいない。ただ、強烈にして、冷酷無比な大規模法撃が、彼の傍を通りすぎた。これはラベストリが打ち放った攻撃である。


 ノーランの剣術士部隊、ならびに機工部隊は為す術を持たない。着弾した魔法∫炎砲《フローガ/アノータトス》はまるで熱の塊。土をも溶かし、人などは跡形もなく、飲み込んでしまう。それが穿った穴は、まるで溶岩の噴出孔のように熱を溜めていた。恐るべき魔法制御と、人外と呼んでも差支えのない魔力総量。あるいは、この塔に何かの仕掛けがあるのだろうか。


 ローレンは大地に屹立する巨大兵器を前に、感動とも恐怖ともつかぬ震いを覚えた。この力の前では、ノーランの旧式剣術部隊など雑兵に等しい。戦いがラベストリの勝利に終わることはもはや確定的に思えた。



 だが、そうはならないことをローレンは知っていた。何故ならば、まさに現在、ボダットの支配者にはノーランが君臨しているからである。


 事実、塔にて兵士を待ち受ける男の顔には、焦りと恐怖が浮かんでいた。玉のような汗が額から落ち、その呼吸は荒く、目は血走っている。彼が見ているのは、ノーラン兵たちの遥か後方、未だ森の残る深緑地帯である。怯えを孕んだ手が、将校のように掲げられると、塔は再度光る。またも強大無比な力の奔流が術式陣より溢れ出し、大量の熱波が兵を襲う。されど、その瞬間、光景を見ているに過ぎないローレンの背筋が冷えた。ぞくりという本能に従って、反射的に背後を振り返る。


 するとそこには、天高く舞い上がる巨大な異形の姿があった。それは恐らく魔獣。アルレーンにも似た姿でありながら、二十馬躰を遥かに超える。それ程の生物が軽々と空を飛んでいる。いや、投げられている。誰もが呆然と光景を見ているうちに、次の魔獣が空を舞った。


 出所は、先程からラベストリが見つめている森の奥深く。そこから、巨大な魔獣が、次々と放り投げられている。魔獣のどれもが、腹に大きな穿孔を開けて、明らかに致死と分かる状態であった。彼らは、動かぬ屍とは思えぬ速度で塔へと投げ飛ばされていた。


 その内の一体が、剣術士部隊に着弾しようとしていた魔法を弾き飛ばす。分厚い肉と呪術で強化された肉躰が、∫炎砲を遮り、弾いているのだ。何度もそれが繰り返されて、遂には、塔上のラベストリは片膝をついた。魔力切れか、あるいは集中力が限界に達したのだ。見計らったかのように、一際大きな魔獣が塔へと着弾した。強固な魔獣の肉躰を用いた、質量による攻撃。それは極めて有効な一撃であったらしく、巨塔を大きく揺らした。恐らく、あの塔は物理、実界攻撃に対する耐性結界を持っていないのだろう。ローレンが思うに、ラベストリは靈力にだけ気を払っていたのだ。



 塔ががらがらと瓦礫を溢しながら、倒壊する寸前、漸く、森から何かが跳んだ。それは明らかに魔獣ではなく、人間。靈力を帯びた剣術士であった。彼は弾丸のように、塔の外壁に身体で以て突き刺さると、すぐさま剣を振るった。同時に、大量の土煙が塔全体を覆い、炸裂する衝撃の正体を隠していく。


 しかし、轟くような声だけはローレンにも届いた。


「忌まわしきロームス=センの飼犬たる、剣王ラエスよ!『破砕王』という二ツ名に囚われて、愛する子さえも触れ殺す貴様が、たとえ、どれ程に報いたところで、魂が天へと昇ることは無い!貴様の呪いを解き、感覚を正に傾けることは、我らラベストリにしか出来ぬ神事にして、第十界にも刻まれた真実の流れ!∬知れ、君よ、神にその身を……」


 男の呪文が響き渡ろうとする寸前に、空をも裂く剣が一筋走った。土煙は瞬く間に晴れ、崩れゆく塔と、天を仰ぐラベストリの姿が映る。その直後、彼の首はラエス=ルーミンの剣により、落ちた。


 そしてまた、ラエスの握る剣も、粉々に砕け散り、霧散する。ローレンの見立てが正しければ、それこそが天剣リハントラウスだった。落下する初代剣王と滝のような瓦礫に紛れて、虹色の光が散った。まさにボダットの虹、熱部の伝承はここから来ていたのだろうか。だとすれば、伝承はある程度、事実を指していることになる。


 首なしのラベストリは軽快に、混擬土の破片を駆け上ると、地上にある魔獣の死躰を数十ばかし遠隔解体した。どろどろに崩壊させられた肉と骨の汚濁は、彼の手振り一つで浮き上がる。赤とも黒ともつかぬ鮮烈が、ラベストリの身体に纏わりつくと、それは人間の姿ではなく、一体の強大な魔獣の姿を形づくった。


 竜。


 黒々とした表皮には尖鱗がびっしりと生え、尾には毒々しく、細長い棘。その一本一本に悍ましい呪力が籠っている。異常な呪力だ。これ程の憎悪と怨念は、忌み地でもなければ有り得ない。


 反吐の出るような破壊と再生の呪術士ラベストリ、驚くべきことに、彼が肉躰を構成するのに使っていた素材は人間だった。剣王ラエスによって投げられた魔獣群は、人間を素体としたものだったのだ。それを、ローレン=ノーランは感じ取り、身震いする。


 竜がその身を捩り、毒尾から数千もの鋭い棘を放つ。さしものラエスと言えど、それら全てを素手で受け止めるわけにはいかなかった。彼の皮膚に掠れる棘が、幾筋もの赤傷を生みだし、それが黒へと変わる。腐食しているのだ。腐り落ちた肉が音と煙を吐きながら、地に落ちる。


 ラエスは、顔を歪めながら、再び両の手を合わせて、天剣を抜き放った。闘い。それは死闘であり、戦争であった。硬直から逃れた剣術兵は、ラベストリの生む魔獣と衝突し、そしてまた、純粋なボダット人とも殺し合いを始める。どちらも、憎しみと怒りに満ちた表情を浮かべて、吐き出されるは愉悦。血飛沫が舞い上がり、黒く汚れた泥が肉に絡みつく度に、皆が笑った。バルニア帝国崩壊後の五百年は、まことにこの様な時代だったのだ。



 史上で最も強大な剣王、ラエスはその拳に砕けたリハントラウスを纏い、古の呪術士が変貌した邪竜の肉に、地が割れる程の一撃を落とした。真下へと叩き付けられた竜は、塔の残骸を巻き込んで地下へと落ちていく。そこはラベストリの加工場にして、実験場。悲鳴と怨嗟の渦巻く、呪術の聖域だった。


 ラエスは、それを知覚しながら、さらにもう一撃を叩き付ける。今度は岩盤へ、それを破砕して、全てを虚無へと落とし去る為に。竜の身は千切れながら、新たに生まれた巨大な空洞へと落下していった。すかさず、剣王がその首を切り離し、天へと高く掲げあげる。熱部ボダットに鬨の声が上がり、その直後、空に暗雲が広がった。


 大雨の前兆だった。


 ぬかるんだ地面に重くぬるい雨粒が幾つも幾つも。降りやまぬそれは、熱部全体を一つの穴へと落とし込んだ。ぽっかりと口を開ける穴に、大量の泥と水が流れ込んでいく。いや、それだけではない。死したボダット人の屍と血と怪我人が、あるいは、ノーラン人の血と屍と兵士が、飲まれるように流れていく。熱部の敗北に病んだ老人は、自らその身を穴に投じ、絶望した女どもは、愛しい我が子を穴へと投げ入れ、狂った戦士たちは、そこが戦場とばかりに、穴を駆け下りた。


 その穴は邪竜の呪い。ラベストリの儀式呪術。


 故に、その穴の底から、臭気と悲鳴が上がったのは当然だと言える。深淵の広がる竜の穴。そこはこの世の地獄と化していく。ローレンと、ラエスは、その光景をまるで夢幻のように眺めていた。



 「おしまいですね」一人の女が話しかける。ラエスが思わず振り向くと、そこには美しい女。彼女はラベストリの妹であると名乗り、この穴を封じる手立てを彼に教えた。初代剣王ラエスは、呪術士である彼女の言葉に従って、巨大な『深淵』を封印し、その上に、女と女の家族を住まわせた。その任は見張り番。天剣と術式、それに文化膜によって閉じられた穴の番人となることが使命。


 話を聞いたロームス=セン=ノーランは、彼らに新たな名を授けた。それはある意味で、ラベストリの剥奪であり、与名行為でもある。その名こそが、デルフォイ。彼らは皇国に忠誠を誓い、ノーラン人となった。幾つもの術式具を献上し、見張り番となることで漸く許される地位。不安定な熱部の支配者は、されど、密かに王の血脈を継いでいた。


 そして、その末裔が、



 ローレンはそう思いながら、塔と過去の映像から目を離して、ほの暗く豪奢な大広間と、そこにいる老女に目を向けた。


「ラベストリの、これが、お前達か」


「えぇ、数百年の古より、対立を定められた二家は必ず争うのです、ローレン=ノーラン。貴方と私の子供たちは国をも滅ぼすような闘争を繰り広げ、いずれは、文化膜そのものにまで干渉し始めるでしょう。長く続いた乾湿戦争も漸く、終わりが見えてきたところですから。この戦乱の後、湿部や大陸は大きな変動を迎えます。その時こそ、デルフォイの終焉。熱部は再び、封じ込めた古き血脈と鼓動を甦らせ、バルニアに反旗を翻すのです。だから、貴方には多くの力の存在を知っておいて欲しいの。彼が放たれる前に」


 一呼吸で話したことと、興奮のせいか、老女はぜいぜいと息を吐いた。その眼はまるで獣のように爛々と光っており、殺気までもが迸っている。得体のしれない迫力に、思わずローレンは後退した。美しさをも超えた力が、その存在そのままに彼を飲み込んで、恐怖させたのだ。


「彼、とは?」ローレンが言った。

「地に堕ちたラベストリ、神と同一視された異形の人。深淵に幽閉された王。そして、私自身がこの身に宿す、恐るべき古の魂。彼は数百年に渡って呪を紡いでいるのです」


 そう言いながら、老女は眼をゆっくりと閉じ、そして開いた。開かれた眼は、底無しの赤。炎というよりも血。赤というよりも紅。戦場で飛び散る鮮血を両の手に掬う。それを覗き込めば、今の自分と同じような思いをするだろう。深く、黒い赤には、自らの顔が渦巻いていた。


「それが、呪いか?」ローレンが言った。

「私の名は、グレオン=ラベストリ=アルベール=デルフォイ。名と一致する号名は私の存在位格に付け加えられた他者なる私。グレオンであり、ラベストリであるとき、私はアルベールであると同時に、古の呪術士となる。それがデルフォイの継いできた業。自らを死して、魂を憑依させるという文化的行為は呪術に昇華され、呪界において、形作られる。即ち、ノーラン家への果てなき恨みと復讐心は、何世代に渡っても途切れることはない」


 下らない自己暗示だと、一蹴することも出来た。ノーラン皇国の高度文化膜内では、そのような魂の憑依はあり得ない。何故ならば、魂とは特定個人を彼たらしめる本質にして、視座。であるが故に、魂が個人を離れるなどという事態はあり得ない。それはノーランでは、陳腐な心霊現象に貶められる。


 呪術士の用いる『魂乗せ』技術も、実際に魂を乗せているわけではない。術者の精神と蒙呪者の精神の同一化技術、支配技術が『精神奪い』であるように、術者の命と視座の一時的な同一化、あるいは接近化が『魂乗せ』である。即ち、そこにおいては、私と蒙呪者の区別が曖昧になる。


 それ故に、術者は他者の精神と肉体のみならず、呪体をも高度に制御できるのだ。それは飽くまでも、『理』に基づいた技術。魂が浮き上がり、他者の肉体へと誘われるわけではない。


 されど、ボダットでは、魂は人格を有する霊的実体である。ならば、彼女の憑依という超常を否定することは出来ない。文化こそが呪であり、呪が文化を強固に支え作るというならば、それがボダットでは『理』となり得る。


「貴方が、ラベストリなのか」ローレンが零した。


 憎々しげに顔を歪めて、老女が口汚く罵った。その声は今までの女の声とは異なり、男のように罅割れていた。


「忌々しきノーランの稚児がボダットをまたしても奪うか」


「貴方が、ローレン=ノーラン、後継者ね」


「継ぐならば、私が貴様の首をもぎ取ってやろう」


 言葉は続き、徐々にそれは洗練され、貴族めいたものへと変わっていく。古代バルニア語からボダット語へ、そしてノーラン語へと収束する。これは語り出された記憶。にして、造られた歴史だった。人格を変えた幾つものラベストリが語る。語り出しは長々と続き、夜が明ける前に、漸く終わった。老女は赤の眼を向けたままで、遂に彼女自身の言葉を発した。


「業。継がれた魂の表れです」

「この行為に何の意味があったのだ」


 老女は美しさを身の内に宿したまま、笑った。


「意味などありませんわ。ただ、貴方は知っておかねばならない。どれ程多くのデルフォイが、ラベストリの魂を演じ、彼を憑依させてきたか。その過程で、ラベストリという人格が無際限に解体され、再構築されたという事実。貴方が将来において争う敵は、そのような存在なのです。ですから、貴方は何れ、模倣された私にも出会うこととなるでしょう。その時の為に、私は貴方にこの身を一度、委ねなければならないのです」


 ローレンは神妙な面持ちで、女の言葉を聞き、足を出した。一歩、二歩。アルベールとの距離が縮まり、遂には二人は抱き合った。それはボダットの大広間で行われる、異様な踊り。年若い皇太子と老婆は舞い、踊る。演舞を行う理由など、ただ一つしかない。


 ローレンにはそれがはっきりと分かっていた。将来的に出会う、ラベストリの女との間に存在の架け橋を作る為。肉体的な交渉こそが最も根源的な記憶となる。だから、ローレンは踊り狂い、女の記憶に自らを刻んだ。


 いつか会う、その日まで。



Δ



 ローレンの居る場所はなんとなく分かった。


 それ故に、一欠けらの畏れも持たず、彼は深淵に身を投げる。深く、どこまでも落ちるような感覚。されど、ラツィオはもはや、そんなものを感じない。この場所は奇妙なことに底というものを有していなかった。


 闇の中に飛び込んだラツィオ=メインは、初めに音を聴いた。ここには似合わぬ煌びやかな音は、楽団が奏でる音色。端末から流れている舞踏曲だ、と彼は気付き、すぐさま、近くの壁に張り付いた。耳と鼻を澄ませて、ローレンの居場所を探る。


 と、柔らかい女の声。


 それはここに至るまでに何度も聞いた女のものだった。ロンティエル、と心の内で呟きながら、ラツィオは慎重に様子を確かめた。隠れた壁の向こう側には広い通路。その奥から光と音が漏れている。足音を極限まで殺し、相対するものは全て敵と見做すことを誓い、男はゆっくりと冷えた通路を進みゆく。静かに、静かに。


 衣擦れの音が聞こえ、反射的に身を強張らせた。


 思った以上に近い。ロンティエルは直ぐ傍にいる。息を潜めることの辛さに潰されそうになりながらも、彼は闇に隠れた。



Δ



 ぱちり。


 閉じられた目が急に開いたことに、女は驚いた。それは本来では有り得ないこと。呪への抵抗力を殆ど有していない彼が、目覚めるなど。されど、彼は瞬時に眼を開き、眼前の女を突き飛ばした。


「貴様の魅了は効かん」ローレンが言った。


 不思議そうに、ほんの少しだけ焦りを滲ませて、ロンティエルが言う。何故? という、その問いには純粋な疑問の色があった。絶対確実に魂を捕える筈の魅了の術が通じないなど、有ってはならない。だが、ロンティエル自身も、その心の深奥では事態を正確に把握していた。信じられない、考えられないことだが、ローレンを拒絶したのは自分自身だと。


 男はぱんぱんと服を叩いて立ち上がり、大上段に構えて、語り始めた。


「アルベール=デルフォイによって行われた関係性構築の呪術は、将来のラベストリの為に私という存在を知らしめることであると同時に、次代の王たる私の来歴に呪を刻み込む罠でもあった。少なくとも、アルベールは貴様らに対して、そのような存在情報を残して死んだ筈だ。それ故に、ロンティエルである貴様は、私と、私の血族の掌握を容易いことだと考えたのだろう。だが、事実はそうではない」


 それはデルフォイにとっての真実。宿敵であるローレンの弱みを握ることこそが、あの邂逅の目的。老女は幾ばくも無い余命を、その為に捧げたのだと、誰もが信じた。だが、ラベストリ、あるいはデルフォイの悲願であるボダットの奪還の為に、数知れぬ犠牲が人畜問わずに強いられ、熱部はいつも苦しみに喘いでいた。その苦しみを終わらせる為に老女が別の策を弄していたとしたらどうだろうか。


 彼らの行動原理は、いつも野心ではなく、郷土愛。


 ローレンは自らの師である、アルベール=デルフォイからそれを理解した。彼女が制御していた、ラベストリの血脈それ自体が形を成した人格。ノーラン的には欺瞞や暗示として、嗤われる行為だとしても、それは。何処までも深く、彼らのボダットへの愛ゆえの行いなのだ。


 実際に、深淵にラベストリが封じられているかは分からない。彼は、あの戦いの遥か前から既に、人間神として、当主に憑依していたという。そのような伝承から察するに、ラベストリの血族は常に、彼を演じてきた。千年近く前に、すでに没した伝説的英雄の陰に隠れ、あるいは皮を被り、彼らは熱烈な信仰と、神にも等しい特権的地位を維持したのだろう。それがいつしか、独自の文化膜を形成し、強固な世界像を生みだした。


 ボダットは特殊な地だ、とローレンは思った。


 当主でさえも馬鹿げた空想を、自ら真実にしてしまっている。だとすれば、ここで行われる葬礼もまた真実を形成しているのかもしれない。


「運命から子を解放することが、彼女の目論見だった」

「何が言いたいの?」ロンティエルの眼が泳ぐ。


 一度も顔を見たことがない、老女の娘。彼女こそが次代のロンティエルになる筈だった。だが、彼女は一人娘を残して処刑された。他ならぬ皇王ラハリオの手によって、一族は瓦解したのだ。残ったのはアランドとその血族だけ。彼らにラベストリとなる資格が本当にあったのかどうか。


 ローレンが思うに、ラベストリに身を捧げるという儀式呪術は、暗示的なものだ。勿論、ボダットではそれが現実に限りなく近づくということは有りうる。それでも、今までの伝統を正確に受け継いでいない女が歴史そのものを継げるのか。否、恐らく、ロンティエルという女は極めて不完全なラベストリなのだ。


 連綿と続くグレオン=ラベストリの名を、訳も分からぬまま、継ぎ、そして、何らかの呪術儀式によって、ラベストリと呼ばれている存在、その魂と記憶を引き受けることで、自らを呪氏の後継者と偽装したのだ。それは十中八九、アランド=デルフォイによる画策だった。幼い娘を依代とし、偉大なる血の系譜を繋いだのだ。


 アルベールはそのようなデルフォイの行く末を読んでいたのかもしれない。事実上のデルフォイの最高権力者である彼女ならば、その程度のことは読みうる。だとすれば、この事象全てが予期されていた筈である。


 つまり、この一連の出来事からイルファンという少女を外すこともまた、出来ない。ローレンの鋭い頭は、そこに、何かの関係性を見いだした。しかし、今はその時ではない。ローレンは動揺する女をさらに揺さぶろうと、語りだしを始める。


 ロンティエルという紛い物を言葉で捕え、その力を奪う。それが彼に可能な唯一の攻撃であり、呪文なのだから。


「アルベールは私を生かして、ラベストリをも生かす十界流を構想していたという事だ。その為に彼女は、私にラベストリの過去を見せ、尚且つ、貴様らの技術の一端を教え込んだ。つまり、彼女の目的は、私を、ボダット的な意味での呪術士と化すことであったと言ってもよい。一種の呪いではあるが、その意味では、私はラベストリの後継者であり、また、掌握者なのだ」


「黙れ!」ロンティエルが叫んだ。


 その声には先程までの余裕はなく、ラベストリらしさの欠片もない。化けの皮が、依代である女の揺らぎによって、剥がれかけているのだ。ローレンはさらに言葉を紡いだ。


「黙らんさ。貴様自身が私を拒否したのがなによりの証拠。貴様の演じるラベストリは私の存在情報にその優位を見たはずだ。そうなれば演じられた『魂』は貴様を内側から侵食し、その脆弱なラベストリらしさを破壊する」

 

 既にロンティエルはまともに動くことすら難しくなっているようだった。独立したラベストリの位格が、彼女から乖離することによって、その呪力をも失いつつあるのだ。いまや彼女は、ただのロンティエル=デルフォイとしての弱い身体を丸裸にされているに等しかった。 


「脆弱? 私が不十分だというの?」

「まさしく。この私は真のラベストリたる師アルベールを知っている。彼女に比べれば、貴様など児戯もよいところだな。それ故に、貴様のラベストリとしての存在は私にとっては単なる欺瞞なのだよ。さぁ躍ろうか、グレオン=ラベストリ=ロンティエル。化けの皮を剥いでやる」


 そう言うと、ローレンは片手を上衣に差し入れ、何かを取り出した。取りだされたものを見て、女が驚きの声をあげる。


 それは魔石を幾つも内包する小さな剥き出しの金属板。書き込まれた大量の幾何学模様は術式。それも、幾つもの術式を重ねた、圧縮術式板だった。見る者が見れば、それが何か分かっただろう。外界検知能は持たないようではあるが、それはまさに、


「術式板、それも、『副脳』ね? 何故、貴方がそれを」


 彼女は言葉を言い終えることが出来ない。何故ならば、ローレンの周囲に現れた∫雷弾が彼女の足元に着弾したからだ。一つのみならず、その数は優に数十を超える。ローレンの魔力を吸い上げながら、術式板は自動的に魔法を発動していた。森の中で『虚』のアドフィを拘束したときのように。


「何故これがあるかって?私が造ったからだ」


 そう言いながらも攻撃の手は止まない。ロンティエルを焼き殺すべく放たれた雷撃は、数百。通常の魔法士にも困難な量の法撃が空を裂き、広大な洞穴内を黄色の雷光で染め上げていく。『雲指』のローレン。戦時中の彼を知る者ならば、その名を思い出していただろう。それはまるで、雷を生む雲を自在に制御する王。古代、未開人の王は気象現象を操る呪術士であったという。グレオン=ラベストリがそうであったように。


 だからこそ、アルベールは自分を後継者としたのかもしれない。ローレンはそう思うが故に、ロンティエルを殺すことを厭わない。私が、いや、俺が熱部を掌握する、という意志のまま、男の指が軽やかに動いて、女の足元の地面を削る。がりがりと焼失する岩肌が、次の瞬間には砕け散って、刃と成る。眩い光の中で、ローレンは高速で術式陣を操っていた。


 彼の生みだした、専用の術式板は殆ど『副脳』に近い性能を有している。その自律魔法制御を、彼自身がさらに手動で補えば『副脳』によって、全盛期の自分を再現することも不可能ではない。心が躍るのを感じながら、ローレンは指を揮った。


 いつか、魔法の師匠に言われたことがある。


 二十四定式の魔法制御は、鍵盤を叩くのに似ている。その喩えは、ローレンの感性にぴたりと嵌った。アルベールもまた、同じようなことを彼に教えた。術式陣の構築は、芸術に等しい。ローレンは頭の中で掻き鳴らされる音楽にその身を委ねる。思わず、彼は端末を遠隔操作して、舞踊曲をかけていた。空間に響き渡る軽妙な音、それらが反響し、不可思議な音拍を生む。躍ろう、と彼は心の中で唱えて、笑った。


 だから、ロンティエルが笑った時、彼はそれに気を払わなかった。彼女の眼が赤く光り、今までとは異なる彼女が現れること。それを知ってはいながらも、ローレンは慢心から油断していた。


 女が手を、薙ぐように振る。

 直後、呪界が撓み、歪み、融けあった。


「楽しめたわ、ローレン」ロンティエルが言った。

「馬鹿な、こんな力が、」


 異常な空間の変形によって、魔法すらもその形状を保てない。ローレンの∫雷魔法が瞬時に砕け散った。女の柔らかな唇が動き、言う。


「おしまいね」


 その瞬間、漸くローレンは気付いた。このロンティエルという女は、ただの依代ではない。これもまた、魔女なのだ、と。


 言葉を超越した急激な呪力の上昇が、界を揺らした。皮膚を走り回る悪寒が強まり、ローレンを震えさせる。目の前にいるのは、顕現するのは圧倒的な力。天獣にも等しい存在の強度がそこにはあった。


「お婆さまは余計なことをしてくれたけど、ローレン、貴方の絶望に歪む顔が見れそうだから、それで満足しておくわ。一応、教えてあげるけど『私』はロンティエルにもアルベールにも、過去のラベストリにも呑まれない。『私』はグレオン=ラベストリで、それ以外の存在者であることは無いの。だから、貴方の呪文も攻撃もてんで的外れってわけ」


 これは、単なるロンティエル=デルフォイではない。先代アルベールの意識を宿す、模倣のラベストリを掌握可能な自己意識。その強大な自己同一性は、異常なまでの確信に溢れている。アランドが画策したのは、血を繋げることだけではないのか。


 ふと、ここに来るまでにリアトと通った精緻な部屋が思い浮かんだ。あそこはまるで人形遊びの舞台のように、古めかしく、整っていた。異常な住環境。あそこはまるで開かれた監獄であった。


 古くより続く監獄。

 何百年と続けられた因習。


 その二つがローレンの中で結びついた。あれは、ラベストリの為の部屋だ。人間神である彼の為に造られた、生活する祭壇。地上の邸宅とは別の、隠された家。あの、簡素で無機質な部屋。あの中で彼女が育てられてきたとしたら。アランドの願いを叶えるために、幼少期から、つまり、一族が瓦解する以前から、ラベストリたるべく育てられたのだとしたら。


 彼女の精神は地上と地下の二つの環境で、別々に育てられる。地上のロンティエルと地下のロンティエル。


 まだ整理は付かない。それでも何となく理解可能だった。彼女は、ラベストリの欺瞞、魂の憑依概念を演じているのではない。無数の情報を参照して、演じられた『役』ではなく、そのもの。この女はラベストリの位格をそのままに有しているのだ。つまり、ロンティエルという人間は二人存在する。


 この女は二重位格保持者、あるいは二重人格者だと考えられた。


§


 二重位格保持者。

 

 それを正確に理解する為には、先ず、位格概念を知らねばならない。ノーラン皇国を覆う文化膜、湿部文化膜の下位に属するノーラン文化膜では、位格とは、存在者自身が有すると同時に、他の存在者に有されている存在情報を指す。即ち、ある特定個人の『ふるまい』を定める最も皮相的な存在情報だ。だが、それは皮相的であるが故に、呪界的には最も大きな強制力を持つ。


 つまり、それは呪における認識作用の優位性に端を発する。


 人々が自らの存在を規定しようとする時、その存在者自身が自らを規定する力よりも、彼を見る他者の力が、優先的に彼の存在性格や『ふるまい』を定めるのだ。即ち、個人の人格を決定づけるのは他者であるということになる。ここで言われる他者は、個人を飲み込む社会的関係すべてを指している。あらゆる社会的存在は、その社会から切り離された行動をとり得ない。すべての人間は、押し付けられた存在位格をその身に有するのだ。


§


 つまり、上で育てられたロンティエルにはデルフォイの位格が、そして、下で育てられたロンティエルにはラベストリの位格が、押し付けられ、巻き込まれ、絡み取られ、焼き付けられる。その過剰な環境の変化に、人間の精神は耐えられない。であるが故に、ロンティエルの人格は分裂する。


 しかし、存在位格の概念から推測出来るように、相互に影響を受けながらも、優位にあるのは常にロンティエルだった。彼女は多くの人間と関わることで、存在強度を増す。


 ラベストリである彼女は、深淵に封じられた。というよりも、彼女は深淵でしか顕現出来なかった。上位人格に影響を与えることは出来ても、彼女はあくまでも影。その存在理由は、ボダットの奪還。ロンティエルの有する複数の存在理由と異なり、彼女は実に単純な呪的存在であった。


 アランドの娘たる依代の女、

 ロンティエルが演じるラベストリ。


 もう一人の、ラベストリとして育てられた女、彼女が演じる、というよりもまさしくそのものである、グレオン=ラベストリ。どちらがどちらと言うものでもない、渾然一体とした塊。しかし、その位格と能力は別物。


 与えられた使命を果たそうとする点では同一であるが、それでも、本質的に、両者は異なっていた。影のロンティエルが為すことを、表の彼女は何処まで知っているのか。一連の計略のどこまでが、ロンティエルの本意なのか。ローレンには、それが分からず、ただただ恐れることしか出来ない。


 デルフォイの根は深い。

 反吐が出る程に。


「では、先程までの貴様は、」


「私の隠れ蓑よ。あの子にはラベストリを、『演じる』程度のことしか出来ないけれど、それ故に、剣王レアーツから私の存在を隠しておける。役者も流れも揃い終った現状では、もう利用価値はないけど。ローレン、貴方も潔く操られて欲しいものね。残念だけど、『副脳』じゃ私には勝てないわよ」


 それは事実。既にローレンの手の中の金属板は融けかかっていた。渾身の作とはいえ、所詮は紛い物。この機を逃したローレンに後はない。


「踊りなさい」ロンティエルが嫌らしく笑った。


 ローレンは、即座にその場から跳んだ。足元に大きな亀裂が走り、岩が弾け飛んだからだ。激しい揺れ。この洞窟自体が大きく揺れていた。何が起こっているのか分からぬまま、彼は土煙に呑まれ、轟音と粉塵が深淵を包んだ。上方から大量の岩石が崩れ落ちた、と思うやいなや岩壁がうねうねと動いて形を変化させていく。


 デルフォイ家の崩壊が始まったのだ、とローレンは理解した。


 彼は轟々とうなる空間の、歪の中で呼吸する。舞い上がる粉塵と、呪界の変動に伴う疑似魔法が宙を飛ぶ。その多くが色無しの無属界撃ではあったが、彼の命を奪うにはそれで十分だ。屈んで、ロンティエルから離れるように、男は動く。近接戦闘に持ち込めば、自身の用いる『副脳』のボロが出てしまう。あの女、とも付かない存在には、僅かな綻びも見せたくなかった。


 彼女、ロンティエルは何者か。


 自らで設定したその問いに、彼は窮する。言葉では理解出来る。だが、実感では分からない。だから整理することが必要だった。


 先ず、大前提としてあるのは、彼女がラベストリの後継者だということ。ラベストリの一族は何百年にも渡って、初代の魂を受け継いできた。勿論、魂そのものは誰にも観測できない。当然だ。特定の人間がまさにそれであることの証明は出来ない。一人称の視座が『たましい』だとするならば、物事は単純なのだ。同一の肉体と、同一の人格、そして記憶を有すれば、それは同一人物だ。だが、現在のノーランの文化は、そのような純粋機械的な思考を有していない。

 

 『たましい』はまさにかけがえのない、人の本質そのものなのだ。その本質は身体性と切り離すことは出来ない、限定的なもの。死者からはあらゆる視座が失われるが故に、魂はいずれ失われる。


 だから、ラベストリの因習は極めて迷信的な思考に基づく。ローレンが思うに、それは身体離脱的な魂、という思考だった。肉体と精神の二つに、人間存在を分けることで可能な呪術。というよりも、それはボダットの文化そのものだ。


 ここでは、骨に宿る魂を、死者の国へと送るという。それは言い換えれば、魂が身体を離れられるということ。身体性を有しない魂は、もはやノーランでは魂とは呼ばれないそれは、ある種の精神性と人格性を有して、存在することが出来る。それがボダットの人々が享受している魂概念だった。


 即ち、魂は、生者を物体として扱うことで、それに憑依出来る。


 古来より、憑依呪術、託宣呪術は幾度となく行われてきた。神や精霊ならば、何の支障もなく実行可能なその呪術。巫女や依代、媒体は物体として、実界に身を預けることで物体となる。その無防備な身体へと、靈的存在は入り込むのだ。であるならば、何故、それが魂に出来ないことがあろうか。


 ましてや、ラベストリは人間神。人でありながら、神と同一視される存在。彼は信仰を集め、それを呪力に変える。自らの存在が、身体を離れても崩壊しないように、執り行う。彼にはそれが、可能である。


 そのような論理が、ラベストリの魂のみの存在を許した。


 あらゆるラベストリの血族がそれを信じる。民衆の全てが、彼らを崇拝し、敵対者の全てが彼らを恐れる。そこで生みだされる呪力を絶やさぬように、ラベストリは業を継いだ。父から息子へ、母から娘へ、孫へ、さらにその子孫へ。魂を憑依させることで、人格を継続させる呪術。それは確かな理に裏付けされて、呪術的完成度を増していく。


 ある者は、過去の当主たちの記憶を参照して、それを執り行った。またある者は、語り継がれた歴史から、彼を選び取った。またある者は、前任者の演じる彼を、そのままに模倣した。


 長い長い憑依の血脈。

 

 その中で、多様な方法でラベストリは、解体されていく。それは再解釈の裏返し。解体と再構成。演じるラベストリの後継者によって、変化する魂。最早、特殊な位格である『たましい』と呼ばれるべき代物。ラベストリによって継がれたラベストリの非同一性。それは、グレオン=ラベストリとボダットが敗北した後も変わらない。ノーランの新たな王によって、熱部の呪術的共同体が砕かれた後も、ラベストリの血は受け継がれ、密かに、後継者は育てられた。その色合いは幾分か変われども、熱部の王たる本質は失われない。脈々と続けられる一人芝居は、誰を騙すともなく、真実を形成する。実効支配的に、妄想が、欺瞞が、芝居が、呪界を改変する。


 そうして、生まれたラベストリは、あらゆるラベストリだった。


 人格とはそもそも、純粋機械概念に照らせば、複合体である。無数の情報と価値と意味、その判断同士の鬩ぎ合い。その中で偶発的に生まれる統一的視座が、精神であり人格。ラベストリの『たましい』が精神と価値観を有するのならば、それが統一的視座である人格を有してもおかしくはない。


 これがラベストリ。

 彼らが信じ込み、現実化した、強大な『呪司』の正体。


 故に、下のロンティエルである彼女は、あらゆる過去に対して平等なのだ。先代であるアルベールの影響を殆ど無視できる程に。


 であるならば、と、ローレンは思う。


 アルベール=デルフォイの為した呪術は全てが無駄だったのか。いや、そんな筈はない。彼女は十界に精通している術士だった。そんな女が、この程度の未来を想定出来ない筈がない。ましてや、アランドの計略程度、彼女が見抜いていない筈がない。なにより、こんな無意味な十界ストーリーは許容出来ない。事象の中心人物である自分が関わっている以上、それは絶対にありえない。


 つまり、アルベールとの関係性構築は必ず意味がある。そう信じて、ローレンは機会を待つことにした。


 そう、誰もが機会を待っていた。


 改変される呪界はまるで檻のように閉ざされたものへと変わっていく。今の今まで予想だにしなかったが、この深淵は『歪界』であるらしい。呪界において作られた幻想空間の一種。その維持には強大な空想力と、魔力が必要になる。ローレンは油断なく辺りを見回した。未だ粉塵で辺りは判然としないが、先程よりも部屋が広がったように思った。周囲には、何人かの気配。靈気と魔力が混ぜこぜになっている。正面のロンティエルは微動だにせず、何かを待っているようだった。


 そろりそろりと動き始めたローレンは、彼女から離れるように動く。この状況下では、もはやデルフォイを陥れるなどと言っている場合ではない。最も大事になのは、自分の命。それは利己主義ではなく、合理主義。ローレンには、あと一つだけしか策が残されていなかった。逃亡、という安易で情けない策。それすらも実行が困難ではあるが。


 傍付であるラツィオ=メインの力ならば、この『歪場』も壊せるに違いない。なんとしても、皇都へ戻らねば、と彼はやけに焦っていた。最も信頼する男と、再び出会う為に、ローレンは早足で動く。



 だから、彼は足元に落ちていたものに気付かずに、それを蹴り飛ばした。からんからん、と乾いた音がして、下を見れば、そこには金属。恐らくは剣だと思わしき物体を、ローレンは蹴りつけていた。その音に反応して、ロンティエルが粉塵へと手をかざす。


 周囲を覆う土煙が、呪界そのものの変動に伴って薄れていく。


 まさしく、ローレンの周囲にだけ、界撃が放たれたように、砂煙がない。丸裸にされた彼は、もはや丸腰のままで、足元の剣に手を伸ばした。しかし、それはあまりにも素人染みていて、遅い。


「動かぬ人形としてそこで見ているといいわ」


 ロンティエルが手を振ると、地面に散らばった人骨が浮き上がり、一斉にローレンの元へと飛んでいった。その全てが、毒々しい液体を垂れ流す呪いの針。一本でもかすれば、命は失われるに違いない。


 そう、


 ローレンは自分の最期を悟って、それでも、剣を振った。だが、渾身の一振りは悠々と空を切る。合わせたつもりの刃はただの空振り。


 しかし、皇太子は傷一つなく生きていた。


 彼の前には筋骨隆々の男、老いてはいないが若くもない。そして、大量の人骨はローレンの前に立つ、その男の前で止まっていた。あまりにも速い剣の流れによって、その全てが運動を止められたのだ。ぽろり、と二つに別れて、骨針が落ちる。


 目の前の男がローレンに向き直って、軽く頭を捻った。


 「なんだ、さっきの雷撃魔法は」


 ラツィオ=メインが顰め面で言った。



 

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