3-9 失落価値/シーファス
Δ
光の下で、自分は誰かの腕に抱かれていた。
それを覗き込む、熊のような男。
その人は琥珀の髪を揺らして、楽しそうに笑った。
声。女性のやわらかな声がする。
リアトの声もする。それ以外の声も。
泣き声。子どもの泣きわめく声だ。
私だ。
イルファンはそう気づいて、身体を起こそうとする。
その瞬間、辺りには炎が広がっていた。
「だれか」が叫ぶ。
イルファン、と呼んでいた。
しかし目の前にいるのは燃える男だった。
その身体を焼かれながらのたうち回っている。
苦痛から逃れようとするその叫び。
イルファンの脳に焼き付いて離れない光景。
誰かを、探さなきゃいけない。
誰かに、助けてもらわないといけない。
誰かが、私に、約束をしたのだ。
必ず、助け出すと。
その記憶はいつの記憶なのか。
曖昧さのなかで少女はなにかを、思い出そうとしていた。
だが――浮かぶものは暗闇のなかの炎だけだった。
Δ
「なんで?」口から言葉が漏れた。
「死んだはずなのに。なくしたはずなのに」少女は泣いていた。
「思い出さなくていい」
リアトが制止するが言葉は止まらない。
「父さんも母さんも死んで、どうして死んだのかも何も分からない」
「イルファン……」
「それは私が忘れてしまったから。ぜんぶ忘れてしまったから」
「違うッ!!」それは絶叫に近い声だった。
「違わない」
イルファンがリアトを見た。
その虚ろな瞳には何も映っていない。
ただ一つ。炎の他には。
その身を焦がす赤の他には。
「ちがわない」
少女は何かに突き動かされるように呟く。
その手がぎしりと握りしめられ、掌から血が滴る。彼女の感情に呼応して、刺さったままの琥珀の剣が震えた。輝きを増し、その力が少女に流れ込んでいく。距離は離れている。だがそれでも、少女の感情が剣を呼ぶ。己の剣を呼ぶ。
「私だけ」
少女の眼から力が薄れる。
生命が失われていく。
「私だけが生きて、私の頭はみんなみんな消したのね」
「それは違う」リアトが言う。
「どんなに大事だったかも分からない。失くしたものが何だったのかも分からない。私だけが生き残って、それさえあればいいと、私は何もかも忘れたのね」
その言葉は悲痛の叫びだった。
「なにも忘れない人間などいない。決して」
リアトはそう言うことしかできなかった。
彼女もまた苦しみを背負っていた。
死んだラクト、ヴォファン、
そして、何人もの何人もの何人もの戦友と、友人が。
そしてイルファンが。
あの乾湿戦争で失われた数知れぬ命、乾湿戦争ののちに奪われた大事なものたちの命が。そして己が奪ってきた数知れぬ命が。それらが背にのしかかっていることをリアトはずっと自覚していた。それらを忘れたことなど一度もなかった。
「生き残った者は生きなければ。前に進まなければ」リアトが言う。
その瞬間に、少女の瞳から何かが抜けた。
代わりに淵のような昏さが顕れる。
それはイルファンではない。
「――見つけた。大嘘つきの女」少女が言った。
「シーファス」
途端、リアトの目に畏れと怒りが浮かぶ。
思い出すのはあの日のこと。
そして死者のこと。
もう二度と起こさないと誓った約束のこと。
目の前で起きている事態はそのすべてを無意味にしてしまうほどのことだった。リアトが死ねば、ラクトの命が無価値になってしまうように、少女が『剣子』となって己を失えば、ヴォファンの死は意味をなさなくなるのだ。
「眠れ。お前の身体ではない」リアトが言った。
「そうかしら。本当は誰のものでもない」
「イルファンのものだ」声は震えていた。
「それが私」少女が笑う。
「お前ではない」リアトが声を振り絞った。
「いいえ嘘。割れたお皿は二度と元通りにはならない。どれだけよく似たものを用意しても反吐が出るような欺瞞だわ。ちんけな呪術で私を結び付けたり、外側から私を語ってみせたり。嘘ばかりついて、なにがそんなに楽しいのかしら」
少女は踊るように足をなびかせ、ひらひらと泳ぐようにリアトの周りを舞う。それは先ほどまでの骨と肉の傷ついた塊らしさを些かも感じさせない歩みで、その軽快さが、逆に異常さを感じさせた。至る所から血が噴き出しながらも喜悦にまみれたその姿は、自らが操る肉体が、道具でしかないと確信している者の所業。
「あなたが認められないだけなのよ。だってもしも本当のことを受け入れたなら、あなたは生きている意味がなくなってしまうんですもの。誰も幸せにはしないものに縋りついても、誰も本当にはなれない。あなたは本当の幸福を得られない」
答えることはできなかった。
少女の言葉は、女の心に深く突き刺さっていた。
「あなたにこの私の気持ちが寸分でも理解できるかしら。できるならとっとと首でも切って死んでしまいなさいな。そうして完膚なきまでにイルファンの、この紛い物の心を打ち破って、私を連れ出してみなさいよ。そしたらきっと分かるわ、私がどれほど素晴らしくて、あなたがどれほどか弱いかということが」
死ねない。だから、リアトは唇をかみしめた。
死んではならない。生きなければならない。だから。
「あなたが大事にしている人たちは死ぬ前に、生きた意味なんて欲したのかしら。生きるのに、高尚な理由なんて必要ないわ。それは全部ぺらぺらの嘘。私が全部肯定してあげてもいい。死んでもいい、生きなくても、楽になればいいって。でもきっとあなたはそんな甘言には耳を貸さない。そうでしょう?」
そうだ。耳を貸さない。
楽になること、それは、全てを捨てることだ。
そしてただの落伍者となることだ。
「ハズレ。私の見立てでは、貴女は重荷を背負ったふりが好きなバカ」
黙れ。歯が音を立てる。
「そしていつか物語のように死にたいバカ」
違う。軋んだ音を立てる。
「何にもなれやしなかったくせに諦めきれないバカ」
違う! 叫んでいた。
「違わない。あんたの意味なんか、とっくの昔に死んでるのよ」
私を惑わせるな!!
しかし身体は動かない。
代わりに女の脳みそだけがきゅるきゅると回る。
生き動かすために、もしくは己自身を、殺しきるために。
「ねぇ、思い出せない記憶に苦しんでいるイルファンを、あなたが救ってあげればいいじゃない。その救済を、あなたの生きた意味にすれば、いいじゃない」
少女がそう言って、片手を差し伸べた。
Δ
生きてきた意味。
それは人が、死の間際に、ようやく手にするものだ。
無意味な死は恐ろしく、人生の価値をすべて消し去ってしまう。
だから、どんな人間であれ、死ぬときは誰かに命を託したがる。
だが、大抵の場合は、そんなことは誰にも望まれていない。
この世の中に何かを望まれている人間など数えるほどしかおらず、何かを為すべき人間も数えるほどしかいない。英雄、勇者、聖人、そんな言葉の数々を身に纏って戦ったリアトでさえ、そんな衣を永遠に着ていられるほど強くはなかった。
戦いが終われば価値を失い、凡百と変わらない魂になる。
それが剣術士というもので、それが当たり前の生きざまだ。
もちろん、賞賛や感謝は数えきれないほどに得られる。なにかの戦いで、無数の命を救ったのはやはり英雄であり、そして無数の命を奪い、憎まれ続けるのも英雄だ。だが、人間が本当に求めるものはそうした栄誉や、呪い、ではない。
たったひとつ、己が欲望するものを、命を賭して手に入れること。
それは、物語に良き幕を引くことだ。
醜く、愚かな死を迎えるのではなく、美しく、有意義な死を迎えること。
生きてきた意味を、失わずに手にするということ。
そしてまた、手にし続けるということだ。
リアトは、かつて何度も唱えた。私が生きるのは死者のためだと。死者の生きた意味を失わせないためだと。だがそうではない。それだけではない。リアト自身もまた、無意味に死にたくはなかったのだ。ただ、死にたくないだけなのだ。
いや、もしかすると、それすらも違うのかもしれない。
私は、私はただ、ただ。
傲慢に死にたかったのかもしれない。
「やっと分かってきたの?」少女が言った。
黙れ。もはや音を立てる歯さえもない。
かたちなき問いの、流体のなかで女は己を見ていた。
いかにして死ぬか、それが問題だった。
ある瞬間の完璧な死が、その後も永遠に完璧な死であるわけはない。連綿と続く現実のなかで、意味をなしていた死が、また無意味になり、そしてまた、意味をなす、ということは起こりうる。そのすべては、誰にも扱いきれない。
であれば、死の意味など、本当には誰も判別できはしない。
きわめて短い、鼻の先ほどの意味が見えているにすぎない。
だがそれでも、リアトは、無意味な死を恐れた。より正確に言えば、失望のなかで死ぬこと、あるいは誰かの死が失望となることを恐れた。そうした感情を恐れるのはきっと、一度起きた破局を、修復する自信と覚悟がないからだ。生き争って、己の不確かさと甘さ、そして無能さに直面させられるのが怖いからだ。
失望を受け止める心の強さ、それが欠けていたものだった。
であれば、生も死も、満足には得られない。
生きることもできず、死ぬこともできず、ただ与えられるすべての呼び名に対して恐れを振りまいて、自分は何者でもない、生でも死でもないと、緩やかな安寧と欺瞞をそれと気付かぬように享受して、自分を優しく納得させる。
先延ばしにし続けたイルファンとの時間に、すべての選択が圧し掛かるように配置して、己はそのときがやってくるまで、ただ役割を果たすだけの自動人形で済むように、ただその時にだけ「報われた」と感じる存在であるように。
他人の人生にすがりついて、自らの存在を保っていたのだ。私は私をいたずらに苦しめることなく、最も気持ちのよい安全な場にいられるように、取り計らっていただけなのだ。そして、ただ単に、格好よく死にたかったのだ。
誰かのために、華々しくその命を散らし、
その命の痕跡が未来に繋がると信じて、逝きたかったのだ。
盲目のままで、幸福のままで、死ぬことが望みだったのだ。
様々な苦しみや後悔を中途半端に享受して、その甘美な苦悶に浸っていた。イルファンは、私がとても素晴らしい人間であるように見たのだろうか。強靭で逞しく、折れたことなど一度もない剣だと。まさしく師匠に相応しい豪胆の持ち主だと。それでいながら、過去に苦しんでいる繊細な女だと思っただろうか。
だが、それはすべてまやかしだ。
私は、そう見えることを望んで、ずっと生きていたのだから。
死にたくないのも生きたくないのも当然のこと。
私はただ、崇高そうに生きていたかった。
惨めな敗残者になどなりたくなかった。
ただそれだけのことに心を揺らし続けていた。取り返しのつかない失敗など本当はありもしないと知っていたのに。落伍者となる苦しみに恐怖したのだ。
リアトの牙がむき出しになった。
己がいかに愚かしい存在かということが、己自身にさえ明らかになったとき、ようやく彼女は心の底からその凶暴な笑みをあらわすことができた。
それは己を食らおうとする獣の貌、苦しみごと自分を断罪しようとしながらも、それすら満足にできない己自身への苛立ち、そして無力さに笑うしかない女の、苦し紛れの笑みだ。女は笑っていた。もはや自分がどれほど醜く、くだらない存在かがちゃんと理解されてしまっていたから、笑うしかなかった。
頭をよぎるのは剣王邸での数々の会話。
誰のために生きるのか、誰のために剣を振るうのか。
かつてその答えは確かにあった。皇国の幾百万もの民のため、国に住まう数え切れぬ民衆のため。だが、その答えを完遂できるほどに少女は強くはなく、そして使命は容易く、一人の少年の死に屈した。それでも闘いを、人々を救うことを望んだ少女の結末は、一人の剣王の殺害であり、それによる戦の終結であった。
だがそれとて、彼女の心を本当に救うことには繋がらず、仇敵の最期の言葉、自分のために剣を振れという言葉に従って、リアトは国という責務から降りた。そして少女はひとりの女に出会い、そしてヴォファンに出会った。
誰のために剣を振るうのか、それは己のために。
そう答えながらも少女は仲間のために剣を振るい、そしてまた人々のために剣を振るった。なぜだ。それが最も、自分というものを護れると分かっていたからだ。己などどこにもなく、ただ他人にすがりついて生き続けるのは楽だった。
破局が訪れた夜、つまり、イルファンが喪われた夜も、袂を別ったもののために少女は剣を振るった。そして、守るべきものを護れなかったことを知ったとき、いや、守らなければならないと、「守りたいと欲望していたもの」を、いや、「渇望していた自分自身の理想の在り方」を、護れなかったときも、同じようにした。
少女の心はその失敗の大きさに打ちひしがれ、無数のひび割れから逃れるように、ほんのわずかな可能性に縋った。ヴォファンはそのわずかな光明を消さずに、それもリアトのために消さずに、残していったのだ。イルファンを遺して。
それだというのに自分は、己の体面や体裁ばかりを気にして、約束を守れるか守れないかなどという言葉遊びで己を慰めつづけた。他人の願いをかなえることを本当の目的としたことなど、おそらくは一度もなかったのだ。
結局のところ、ただ、己の願いをかなえたかっただけ。
失敗などしていないと、
崇高な剣術士のままで生きてこられたと、強がっていたかっただけ。
そのためにすべての人間を利用したのだ。
生きるでも死ぬでもなく、ただ自分を騙すために。
Δ
「大正解」少女が笑う。
その声はいつものイルファンよりもひどく濁って聞こえた。
「誰も貴女に託してなんかいない。託したとしても、貴女を苦しめるつもりなんてなかったはず。でもあなたは一人で苦しみに浸り続けた。臆病な自分が、ただ自分一人が、大事な人の死を受け止められなかっただけなのにね」
「知ったような口を利く」
「ヴォファンを一番知っているのは私だもの」
この少女が自分でない自分を恐れるように、リアトは自分であることを貫かねばならなかった。イルファンほど彼女は強くはなかった。だから女はかつて自らの為に生きることをやめた。それが間違っていたとは思わないし、思えない。
かつてそれは確かに必要なことだったのだ。
だが今は、今だけはそれでは駄目なのだ。
「自分を苦しめていれば何者かになれたような気がしていた。懺悔していれば救われるような気がしていた。約束を守り続けていれば報われるような気がしていた。だが、それではまた私一人が助かるだけなのだと、そう思う」
「そうよ。でもそれがあなたの目的なのだもの」イルファンが頷く。
「そうなのだろう。だが私にも、この十年で分かったことが一つだけある」
「どーせ下らないことでしょ」
少女が笑った。
リアトも思わず笑みを浮かべた。
「あぁ、分かったのは結局、私は救われなかったということだけだ」
「認めてくれたみたいで良かったわ」
「ここから本当に私が救われるためには、何が必要なのだろうか」
「さぁ? とっとと死んでみるとか?」
「いいや。お前にはもうこの先の流れが読めているはずだ」
女はそう言って、目を細める。
少女と女の目がわずかに交錯する。
「私なら、この私なら、あなただって救うことができる。このイルファン=シーファスなら、あなたを救える。イルファンじゃ耐えられない真実にだって……」
「そんなことはない」リアトが言った。
「嘘っぱちじゃないんだから、貴女が何とかできることじゃないのよ」
「どんな真実でも、私が半分くらいは受け止めてやれる」
「はいはい、よくできました」イルファンが下らないと笑う。
そう言われてリアトは、かすかに微笑んだ。どこまで本当の気持ちかなど自分にはさっぱり分からないが、少女がこんな自分を信じるというのなら、それに応えねば師匠ではない。もちろん、リアトは自分が今欲しい言葉を投げかけているだけかもしれなかった。だがそれしか出来ないということもまた知っていた。
「いいか、お前が語る真実は、ただの事実にすぎない。それは確かに私たちの記録のすべてを形作る。だが、事実からは決して生まれないものもある。それこそ私たちの意思、こうありたいと望む姿そのものだ。そして私とイルファンに今一番必要なのは、その意思を貫徹するという強さなのだ」
少女が何か言おうと口を開く。
それをリアトは言わせない。
「私は、お前を死なせない。この身体でもって証明しよう」
「事実でも真実でも構わないけど、苦しい過去を背負えるほどこの子は強くはない。それにこの先何が待ち受けているか、あなたも知らないわけじゃないでしょう。レプロンは執念深く、脳子たちは決して御子を手放さない」少女が笑う。
「だから死ねと。肉体を明け渡せと言うのか」リアトが語りかける。
「あなたが楽になるためだけにイルファンを用いるというのなら、私はこの子をこの場で殺しておくわ。そんな駄々のために、か弱い片割れを犠牲になんてしない。でも、もしもそうじゃないと言うのなら、ほんの少しでも、違うのなら、」
リアトにはもはや確信がある。
これは駄々ではない。己の願いなどもうどうでもいい。
大事なのは、自分が信じたものを救うこと。
それだけ。それ以上にできることは何もない。
「私は何を証明すればいい?」リアトが言った。
「はぁーあ。助けてみなさいよ」あきれ顔が笑った。
リアトは少女を見つめた。
そして少女もかすかに女を見た。
その言葉には声が無い。
されどそれは確かに応答だった。
少女への。
同時にイルファンが虚ろな瞳で零した。
それは呪い。彼女に刻まれた呪いの言葉。
多くの者はそれを呪文と呼ぶ。
「自分勝手な師匠」
「だがそれ以外に、私にもお前にも、何もないだろう」
静かな、叫びだった。
∬ 忘れなさい
その瞬間、イルファンの脳髄は。
痛みが走ったことを少女は知覚する。
眼を開けば、そこは炎。
燃えたぎる王城。
少女は別の位相を見る。
巨大な大都市の光景を見る。
紅い、幻視は。貴女の記憶。
聴こえる声。
室内の赤は極めて、酷似していた。
血によって染められた鮮血の巨城と。
「イルファン!!」
その声は届かない。
だから、イルファンの記憶は甦る。
それは想起し、怒りと絶望の果てなき虚無から生まれ、
少女の身体を躰へと変化させ、呪う。
その呪いは世界全てへと向けられた呪。
黒い穴が広がっているのが見えた。
あれが初めの記憶。
それがすべての虚無の正体だ。
闇の奥底から細い手が伸びて、少女の首を掴んだ。
きりきりと絞めていくに従って、悲しみが胸を埋めていく。
これがほんとうだ。
これがわたしなのだ、と分かった。
少女の皮膚を術式が奔る。
幾何学模様が肉を裂き、骨を変える。
イルファンという人格が、崩壊し、食い破られる、
「イルファン!!」
叫びは、やはり届かない。
だから。
その刹那、リアトは既に動いている。噴きあがる靈力は近付いた者を皆殺しにする呪であった。だが、特級剣術士たる彼女であれば耐えることができた。
自分だから救えるのだと、リアトは言い聞かせる。血と呪が噴き上がり、命がずたずたに裂かれていく。だがそれでもリアトは動いた。そのためにこの力はまだ残っている。戦いのためにあったこの力は、自分を完全には見捨ててはいない。イルファンを救うため、そして己の生きるために少女を救い出さねばならない。
それもまた一つの戦いだ。
生きるということが問題なのだ。
ただ救うのではない。
魂を傷つける絶気の呪をもろともせずに、女は白い皮膚に走った醜い直角の傷ごと少女を抱きしめた。そして目の前の光景を余すところなく、少女に見せる。もはやこれを隠す必要はないし、秘密は少女への裏切りだった。赤い壁と張り付いた人体。それはあの夜の惨劇に似ていたが、一つだけ異なることがあった。
あの夜は誰もいなかった。
イルファンの後ろにはただ底無しの闇が広がっていた。
煌々と燃える熱をも吸い込むくらがりが、
少女の小さな体を押し潰そうとしていたのだ。
恐ろしいまでの孤独と、
つながりを失った肉体の空虚が少女を呑み込んでしまったのだ。
だが、今はリアトが、
目的はなかったが、彼女がいた。
そのことが少女には分かった。
「お前は強い」声が聞こえる。その声は後ろから。リアトから聞こえた。「私これはお前と私の問題なのだ」。背中の暖かさは血の温もりではない。降りかかる血飛沫と炎が与えた熱と違って、それは愛おしいものだった。手がかたかたと震える。溢れ出そうとする力が鬩ぎ合っている。私だ。私と力が闘っているのだ。皮膚から血が滲みだして傷を埋めていく。真っ白な肌が帰ってくる。
「イルファン、獣の剣ではない。私の剣を思い出せ」静かにリアトが言う。
ローレッドでの痛々しい修行は脳裏に強く焼き付いていた。もう離れないくらいに、それが今のイルファンを形作っている。存在性格、あるいは存在情報に刻み込まれた八年間。それは少女をこの世に引き戻すのに十分な重みだった。
眼を閉じて、イルファンが言う。
「私はなに?」震えが止まる。
そう言いながらも少女は予想している。
自分は化け物。人間を超えた何かだ。
でなければ、おかしい。
だが、だがリアトは言う。
「私の弟子と思っていればいい」
「そんなのズルい」イルファンが言った。
「何れ、必ず話す。お前の父のことも。記憶も全て」
「どうして今じゃないの?」
こんな上級剣術士が居るものか。
奥義習得なんて、あり得ない。
特別扱いなんてものじゃない。
自分が、異常すぎるのだ。
「物事には知るべき時がある」
「約束してくれる?」少女が蚊の鳴くような声で言う。
そして、この琥珀の髪。
それをイルファンは昔に傭兵から聞いていた。
魔獣病に決して罹患しない種族。琥珀髪。彼らは既に滅んでいると。だとすれば自分は最後の生き残りなのか。あるいは偽物なのか。疑念は尽きないが今だけは気にならなかった。何故ならば、少女は一人ではなかったからだ。
「もちろん。私は、お前と約束しよう」と、リアトが言った。
最初からこうすれば良かったのだ、と女は思った。自分はそれを知る為に八年もの歳月を費やした。ヴォファンや、ラクトの命に報いることなど、誰が望んでいるものか。自分がこの剣を振るうのは、自分とこの子の為でなければならない。でなければきっと、自分を救えぬ者には、誰も救えぬのだ、とリアトは思った。
それにもう、この少女は五歳ではなかった。イルファンは既に十三歳なのだ。世界を歩くところまで自分が見続ける必要はもはやない。少女は自分で歩き出せるのだから。女は安堵の息をゆっくりと吐いた少女を抱きかかえた。今度はやや乱暴に肩に載せて、それから獣のように、にたりと笑った。
もう彼女の、剣の申し子の姿はわずかにもない。
その香りも声も、微笑みさえも。
それが胸の奥をちくりと痛めつける。
「帰るぞ」リアトはしかし、そう言った。
「はい」そう言って、少女も笑った。
その時、まるで崩落するかのように屋敷全体が大きく揺れた。
「デルフォイめ。まだ何かをする気なのか」
「しばく」少女が言った。
それはこのデルフォイの終焉でもあり、始まりでもあった。遂にこの熱部ボダットでの戦い、その最後の流れが始まったのだ。その事を感じて、リアトはいつも以上に、鋭敏にその気を研いだ。がらがらと大小様々な木片が落下してくる。それらを直感で避け、安全な足場を飛び下りていく。逃げることはもうできない。
故にリアトが向かうのは下。
伸ばした指先が触れて、そして吸い込まれる。
デルフォイ家地下の歪場、深淵が口を開いたのだ。
崩れ落ちる屋敷が、その瞬間に大きく傾ぐ。
まるで大地が生きているかのように、巨大な穴が開く。
その中心へと、デルフォイの邸宅は吸い込まれて、
後には、誰の姿もなかった。
Δ
心中にただただ広がる闇がなんなのかを、
少女はちゃんと知っていた。
知りたければ触れられるのがイルファンだったから。
その闇のなかに横たわるものがなんなのかも、
すべて、本当は知っていた。
イルファン=バシリアスはあの日死んだのだ。
すべてが燃え上がるよりもずっと前に。
「ま、これも一つの流れよね」剣の少女が呟いた。




