表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
三節 熱部呪術
31/43

3-8 狂獣暴眼/リアト

Δ



 甲高い音を打ち消すような、荒々しい剣戟の衝撃が空を流れた。琥珀の剣を受け止めたリアトの腕は僅かに震えている。それを見て取った女はすぐさま、力を後方に流す。さすれば、琥珀髪の少女は水の低きに流れるように体勢を崩した。リアトはその隙にラツィオ=メインの前に立つ。彼を守るように立つその姿にはもはや一分の震えも存しなかった。


「ラツィオ=メイン、生きているのか」


 リアトが重々しい声でそのように声を掛けたのだが、ラツィオは彼女が自分の身を最初に案じたことに驚いた。何故ならばイルファンは彼女の弟子である筈だから。その少女を殺そうとしていた自分を案ずるなど、普通ではない。


 だからこそ、とラツィオは思った。やはりこの少女はリアトにとっても危険な存在なのだと。でなければ敵にも成り得た自分を救うはずがない。


「眼と腕をやられただけだ。治癒出来る」

「ならば下がっていろ。お前には荷が重い」


 リアトは前方の靈力の塊を見据えたまま、言った。ラツィオは手で流れる血を拭い、じりじりと後方へ下がる。琥珀の少女は獲物を狙う魔獣のようにそれを追っていた。と、唐突にリアトが空中に向かって、蹴りを放つ。なにをしているのだと思ったラツィオの耳に呻き声が届いた。見れば、リアトの足先は琥珀の少女に突き刺さっていた。先程まで少女が立っていた場所には、もはや誰もいない。

 

 つまり、彼女はラツィオの視認限界を超えた速度で移動したのだ。そしてそれをこのリアトという女は見切って、蹴りを放った。なるほど確かにこれは荷が重いな、とラツィオは思った。自分はただでさえ片目が潰れているのである。こんな捉えきれない速度の化け物とは戦えるはずがない。それにしても、この少女は時間とともに強くなっているように思われた。


 はて最初に、つまりロンティエルと戦う前はこれほどの速度だったろうか。否、彼女はまだ年相応の動きをしていたように思われる。されど今は違う。少女はもはや人の動きをも超越しようとしていた。ラツィオはそこで、ふとあることに思い当たった。この少女の動きは何かの動きに似ているのだ。そうそれは『獣棲やまいもち』、あるいはギリベスの動きに似ていた。


 その時、リアトが叫んだ。


「イルファン!!」


 屋敷を揺るがすような低い声だった。びくり、と身体を震わせて、まるで狗のように少女は唸る。リアトはそれを厳しい目で見ていた。琥珀の少女は両手足の長い爪を床板に食い込ませて、力を溜めている。がり、がり、という耳障りな音が静かな屋敷内に響いていた。それに応じて、リアトがゆっくりと息を吐きながら全身の筋肉を弛緩させる。それはまるで、水の中に脱力して浮かんでいるようでさえあった。ラツィオは思わず嘆息する。この技は彼も知っていた。自然体のまま、リアトは優しく少女に声を掛けた。


「来い」


 女が言うと同時に、少女が勢いよく飛んだ。みしりみしりと少女の両腕が膨れ上がり、その力を増す。リアトの体はそれに少しも動じることなく、静止している。少女の獣爪が振り下ろされんとする瞬間ようやくリアトは動いた。女の褐色の腕が滑らかに動き、イルファンの懐を取る。


 と、同時に女は自らの腰を落とし、少女の力を逸らした。それはすべて瞬きほどの刹那の時間に行われた動作であった。故にラツィオには、イルファンが何故空を舞ったのか分からない。まるで見えない綱にでも引かれたように、彼女は吹き飛んだ。だがそれでも、いや、理解が追い付かないからこそ彼には分った。この技こそ、リアトの二ツ名にも冠される天技《捨剣》だと。


 自らの全てであるところの剣を捨て、その在るがままの肉体でもって、剣を制する技。それこそが《捨剣》だと彼は知っていた。


 少女が軽々と地面に叩き付けられて、血反吐を吐く。イルファンはそのまま一秒ほど、起き上がらなかった。リアトはそれを優しく見つめ、止めを刺すことはしない。不可思議ではあるが、ラツィオはそれを見守ることにした。勿論、出来ることならばこの少女の息の根を止めたかったが。


「があああっ」獣のようにイルファンが叫ぶ。


 ばきん、と木の床を叩き割りながら少女が激しく起き上がった。イルファンは魔狗の如く、歯を剥き出しにしてリアトを睨んだ。憎々しいと言わんばかりの強い目。リアトはそれに撃たれて、僅かに目を逸らした。それを琥珀の少女は見逃さない。


 彼女は再び、弾丸のように走る。

 今度はその琥珀の剣でリアトを殺さんとした。


 が。彼女は再び空を舞う。


 今度は先程よりもより迅く、より烈しく。リアトはイルファンを床へと叩き付けた。されどやはり止めは刺さない。故に少女は起き上がり、再度の殺しを試みる。迫る琥珀の剣は一振り毎にその速度を増していた。されど、それでもリアトには届かない。


「無駄だ。お前に剣を教えたのはこの私なのだ」


 誰に言うとでもなく、されど、目は少女を見ながらリアトは言った。その冷徹でありながらも優しさを隠し持った眼は少女を貫く。


「来い」再び、リアトが言った。




 三度、五度、十度、二十度、リアトは何度も少女を投げた。もはや、イルファンの身躰に傷のないところはなく、細やかな白い皮膚には幾つもの紫痣が浮き上がっていた。彼女は投げられる度に立ち上がろうとするも、その膝は殆ど砕けている。何度目かに、リアトが脚から叩き付けた為だった。


 ラツィオはぼんやりと見えつつある眼でそれを見ていた。これはあまりにも凄惨な戦いだった。あれ程に自分が苦戦した少女を無傷で倒すリアト。その投げは信じられない程に一方的で追随を許さない。イルファンは受け身すら取ることが出来ずに投げられていた。これが特級剣士だというならば、やはり彼女も化け物なのだろう。無論、自分など相手にもならないに違いない。


 そのとき、リアトはちらりとラツィオの方を見た。

 彼女は男の心を読んだように、ぼそりと言った。。


「単調な、獣の動きだからだ。こちらが腕を一本出すだけで制することが出来る」

「俺にはその動きとやらが見えない」ラツィオが言った。


 しかし、リアトは真剣みを帯びた表情で語る。彼女は何かを待っているか、あるいは恐れているようだった。それが何かはまだ分からぬが、少女の際限のない強さの上昇と関りがないとは思えなかった。リアトが口を開く。


「これはまだ『剣子』ではない。デルフォイはまだ手を残している」

「どういうことだ。俺はその少女には詳しくない」

「いや、構わん。お前はローレンの指示に従って、デルフォイを潰せばいい」


 何処となく上の空、といった調子でリアトがいう。その間も、飛びかかってくる少女は狗のように投げられていた。


「ローレンは何処にいる」ラツィオが尋ねた。

「地下だ。この邸宅の地下には巨大な空間がある」リアトが答える。

「あんたもそこから来たのか」

「そうだ、一階の大広間、大絨毯の下に扉がある。行くなら行け」


 ラツィオはそれを聞いて悩んだ。確かにローレンの事は気になるが、自分の任務というものがある。それを果たさねばと思いつつ、果たせなかったのが今だ。一時はデルフォイに利用すらされてしまった。であるならば自分のすべきことはなんなのか。


「出口は垂直な穴だ。ローレンは置いてくるしかなかった」


 それを聞いて、ラツィオの考えは纏まった。この流れがどのようなものかは知れない、だが余程のことがない限り、負けはないように思われた。何せ、熱部には今、リアトにルハランそれに剣王までいるはずなのだ。ならば一番警戒すべきはローレンの安否なのではないか。デルフォイ連中が追いつめられて、彼を殺すという可能性は高い。そうでなくともルハランやレアーツを信用できるものか。仮にそうなれば、過程や結果はともかく、ラツィオは敗北する。ローレンの死が自らの敗北条件だと決めて、彼は流れを変更した。


「悪いな、ここは任せたぞ」ラツィオが言った。


 リアトはそれに答えず、素早さを増していく少女を投げた。彼女には分かっている。この速度は際限なく上がり続ける。だからそれまでに琥珀の剣を奪い取らねばならない。


 だがそれもまた、リアトにとっては容易ではなかった。何故なら、この状態でイルファンが正気に戻ることは避けたかったからである。仮にそうなれば、彼女は知りたくもない事を知る事になる。そればかりか、少女の精神状態によっては仮初の封印が緩んでしまうということも考えられた。そうなればイルファンは死ぬ。


 そのため、リアトはイルファンの意識の強制遮断を狙っていた。投げる角度を、徐々に険しいものへと変えていく。少しずつ、ゆっくりと頭部を揺らすように。そろそろ五十に達しようかという投げ。これでリアトは、彼女の意識を完全に刈り取るつもりだった。体勢を奪い、重心を支配し、靈気の合わせでもって投げる。少女の体が何度も見たように浮き上がり、逆さまになる。イルファンの頭部が硬い床に、優しく打ち付けられる、


 寸前、琥珀の剣が意思を持っているかのように動いた。


 それは床へと突き刺さり、頭部への一撃を回避する、と同時に少女の左手を軸とした回転が始まった。その流れに乗せて、琥珀の剣がリアトに迫る。驚きながらも女は剣を捌き、少女を喉元から投げた。鍛えられた二の腕がイルファンの首筋を奔り、少女は跳ね上げられる。されど同時に、琥珀の剣がしつこく伸びる。イルファンの意思を無視した強引な動き。リアトは苛立ちから、思わずその剣を打ち払った。


 思ったよりも強烈なその一撃は、琥珀の剣を少女から遠ざけた。既に数本折られていた少女の指から、美しい長剣が抜ける。そしてそのまま、見事な造りの琥珀の一方は壁に突き刺さり、もう一方は糸の切れた人形のように足を縺れさせて、転んだ。リアトは失敗に舌打ちしながらイルファンに駆け寄った。


「ぐえ」呻き声。

「無事か、イルファン」リアトが言った。


 その顔は、奇妙なことに少しにやついていた。



Δ



 騎士団誓約の解除は不可能だが、軍の命令に反することは可能である。四名家の内、有力な二家が望めば、私的に騎士団を動かすことは許されている為だ。皇貴会議で有力貴族がラングリア内に留められているからこそ可能な蛮行、だがそれも、オルンドラがリディア家とメイン家を動かせば、大した障害ではない。不穏な黒い煙から数時間して、漸く皇都騎士団は警邏行為を認められた。


「ミトル、アルトの居場所は掴めているのか」


 フート=マルヴィスが言った。


 既に皇都の暗がりで、傭兵たちは鋭くその耳を立てていた。誰が何処に居るか、あるいは何処へ行ったか。それを知る為に必要なのは情報の集積と、その統合である。


 騎士団の本拠地である、皇都冷区画にはその為の術式陣があった。ローレン=ノーランの手によって作られた情報統合術式である。柔硝子と万色水母を素材として用いた『魔導影写板』に地図が映し出される。ローレンは警邏などという、昔ながらの泥臭いやり方が嫌いだったから、この皇都の情勢を常に把握する為の装置をいくつも作った。その装置は大変に優れたものだったが、市民からの評判は悪かった。何せ、この装置の下では喧嘩一つ出来ないのである。


 それに実のところ、この装置の評判は騎士団の中でも良くなかった。フートを始めとする騎士団員とて、些末な喧嘩などを取り締まるのは面倒だった。犯罪は確かに直ぐに露見したが、その全てを捕えるのはもっと大変なのである。それ故に、この有能まりょくぐらいな装置は普段は使われていない。これに貴重な魔力が送り込まれるのは有事のときだけだった。


 最も今がその有事ではあるのだが、


「痕跡が多すぎて混乱状態です」


 ミトルがお手上げとばかりに言った。そう、手がかりはないのではなく、むしろ有り過ぎた。わざと、攪乱の為に撒いておいたのであろう血液や見え隠れするその姿。率直に言って、ここまでされてはアルトの行方など分かるはずもない。ローレンの装置はほとんど無力だった。しかしそれでも、フート達は彼を探し出さねばならなかった。


 しょうがなしに、彼らは泥臭い、昔ながらのやり方で男を追うことにした。つまりミトルの取り付けた傭兵たちと接触を行う必要がある。彼らならば、話すつもりのない重要な情報を持っている可能性があった。




 石造りの堅牢な建物を出れば、そこは皇都エルトリアムだった。二人は分厚い外套の上から頭部を覆い隠す頭巾付きのマントを着ていたので、街行く人々は門から出てきた彼らを見て、少し驚いたような顔をしていた。とはいえ顔は晒したくないので、そのまま建物の裏手に回り、路地へ入る。暫く歩けば、傭兵連中との待ち合わせ場所に着くはずだった。だが青年は路地に入るやいなや、立ち止まる。


「おい、どうしたってんだ」フートが棘のある声で言った。

「見ての通りですよ」ミトルが嫌そうに言う。


 二人が苛立ったのも無理はない。細道には幾人もの浮浪者達が隠れるように寝ていた。狭い路地は彼らの所為ですっかり埋まってしまっている。彼らは何かに怯えるように身を寄せ合い、顔を隠していた。


「何のつもりだ」ミトルが尋ねた。


 その声を聞き、彼らが小さな声をあげた。集団の殆どが老人のように見えるが、何かあったのだろうか。ミトルは不思議に思いながら、一歩ずつ彼らに近づいた。それを見て、浮浪者の一人が怯えた声で言った。


「あんたら、剣術士か?」

「違う。傭兵を探しているだけだ」


 フートが答えると、男たちは一様に安堵の溜息を吐いた。奇妙に思いながらもそれを見ていると、男の一人が顔を隠していた手をどけた。


「遅かったな。付いて来い」


 その声は既に老人のものではなく、若い男の、されど深みのある声だった。フートとミトルは少しだけ逡巡した後、彼らの後を追うことにした。恐らくは彼らは卑賤兵そのものか、あるいはその手であるはずだった。入り組んだ路地を出て、小道、大通りとどんどん明るみへと男は歩く。フートは訝しく思いながら、辺りへと意識を巡らせた。耳に入ってくるのは街の喧騒。今日はやけに騒がしかった。


「皇都会議はこの街の祭典みたいなものですからね」

ミトルがフートの表情に気付いたらしく、言った。


 この喧騒が皇貴会議の影響によるものなのだと、フートは気付かなかった。彼は会議中の街中をそれ程歩いたことが無かったからである。しかし、思い返せば、幾つか、おぼろげな記憶が残っていた。会議中は街の取り締まりも緩くなるし、遠方の領主やその家族が街に金を落とすのだ。また、悪政を布いたものが裁かれる、という意味でもこれは喜ばしい祭典だった。市民というのは、甘い汁を吸った権力者が処刑される光景を見るのが好きなのだ。だから、毎年、何人かの悪領主が態と大広場で処刑されることになる。その儀式めいた悪趣味な催しはこの街の娯楽であり、街の欲望そのものだった。


「それに殿下が出ないというのは、洒落では済まないでしょう」ミトルが呟いた。


 フートは、頭巾のせいだろうか、やけに垂れ落ちてくる汗を拭った。大広場を歩いて少しすれば、商人街を通り抜けて、貴族街に入る。この石畳の地面と、堅牢なアーチで出来た街隔門を超えれば、そこは直ぐにでも。しかし、何故卑賤兵が貴族街に入る必要があるのだろうか。本当に彼らは味方なのか。実はデルフォイ家の手先ではないのか。フートは恐れと疑念からその足を止めた。


「フート=マルヴィス、止まるな。怪しまれる」男が言った。


 幸いにして、貴族街には姿を隠して通う者も多かったから、頭巾姿は目立たない。それでも、昼間に大通りで足を止める大柄な男は目につくだろう。仕方なくフートは足を進めて、男の後を付いて行くことにした。


「疑うのも無理はないがな」男がぼそりと言った。

「謙虚だな」フートが零す。

「いや、お前達も騎士にしてはなかなか面白い」


 謎めいた言葉を言いながら男は裏道へ入り、どんどん歩いていく。その途中でフートは数人の少年たちが小道から出てくるのを見かけた。彼らは手に細長い棒のような物を持ち、懐に分厚い何かを挟んでいた。掏摸だ。彼らは子どもながらに掏摸の集団なのだと彼は気付いた。男の視線から事情を察したミトルが眉根を寄せて、彼らに近づこうとする。その瞬間、案内役の男が両手を打ち鳴らし、高い音が路地に響いた。素早く、まるで兎のように少年たちは散り散りに逃げ去っていく。思わずミトルは舌打ちをして、案内役の男を睨んだ。だが男は言った。


「今日は祭だ。羽目を外す人間もいれば、そこに付け込む奴もいる」

「騎士団として、どんな些細な悪も見逃すことは出来ない」ミトルが言った。

「そう思うなら、先ずは俺たちを捕えることだ」男が笑った。


 それ以上は何も言うことが出来ずに、ミトルは黙り込む。フートが思うに、先ほどの少年たちは卑賤兵連中と手を結んでいるのだろう。彼らは皇都の陰に隠れて、様々な情報をやり取りする際に一躍買うに違いない。その見返りとして、少年たちは安全な隠れ家と高度な情報を得ているのだ。皇都で露見しない小犯罪の多くに、『蟻人』が関わっているものと思われた。何れは根絶しなければ、皇都運営に支障を来たす相手であることは間違いない。フートは、卑賤兵をどのように手懐けるかを考えておくことにした。だがそれは今ではない。


 しばらくすると案内役の男は、奥まった場所にある一軒の小さな家へと入った。貴族街は確かに貴族の家が多いが、このような家が無いわけではなかった。恐らくは何処かの家の使用人の為に作らせた家だと見えて、内装は質素、木製の梁は剥き出しで、壁も手入れされている様子はない。ここを拠点にしている者以外には、この家は空き家か倉庫のように見えるだろう。


 ミトルとフートが入り口の扉を閉め、それに鉄鍵を落とすと、案内役は奥の部屋へと続く扉を開いた。うす暗い部屋のなかではその表情はつかめなかったが、なんとなくフートには男が笑っているように思われた。



 奥には数人の男が居た。何れも尋常ではない気配を漂わせている傭兵である。その内の一人が特に強い力を感じさせる。その男は部屋の中央で瞑想のようなものに耽っていた。案内役の男は彼に、畏まって声をかける。中央の男はどうやら傭兵頭であるらしかった。


「頭、フート=マルヴィスとミトル、皇都騎士団の二人をお連れしました」


 頭と呼ばれた男はその首をこきこきと鳴らしてゆっくりと眼を開けた。その眼は青色にも見えたが、どこか、ノーラン人ではないようにも見える。彼は面倒くさげに立ち上がり、フートの方へと歩み寄る。その左足は重たげに引き摺られており、微かな音を立てている。怪我人、あるいは障害を負っているのだろうか、とフートは思う。男はその思考を読んだように、にんまりと笑顔を見せた。


「脚が悪いんで。昔に腱を切られたんでさぁ」

「治さなかったのか?」フートが尋ねる。

「切断面が悪かったんで、どうにもねぇ」男は再び苦笑した。


 よく笑う男だが、その真意は掴めない、とフートは判断した。昔から言うではないか、最後に笑うものが最もよく笑うものだ。こんな風に常にへらへらとしている男は怖かった。戦場でも狩場でもこういう男は死なない。笑うという力による十界法則とでも言うのだろうか、そんな訓話があった。男はにやにやと笑いを浮かべたままで、フートに言う。


「まぁ俺の話は良いでしょうや。さぁて、仕事の話をしましょうかね」

「既に聞いているだろうが、アルト=デルフォイの居場所を知りたい」


 ミトルが強気な口調で言った。その手は裏剣の構えを取ろうとしている。それを見て、牽制するように幾人かの男が、頭の前へと歩み出る。しかし、傭兵頭は彼らを手振りで抑えると、無造作に背剣を抜いた。その剣はバルニュス。それも真交流剣術士の愛用する蒼神鋼の剣だった。彼はそれを何でもないように逆手に持つと、古びた床へと突き刺す。床がぎぎぎ、と軋む。男はそれを聞いて、不愉快そうに顔をしかめた。


「加減が上手く出来ねぇな」

「なんのつもりだ?」ミトルが尋ねた。

「仕事の話で、おいでになったんでしょう。なら、剣はいらねぇでしょうや」


 そういって男はまたも笑うと、左手を隙だらけの仕草で出した。不意を突かれて、ミトルは一瞬、その意味を見失う。が、フートは何事もなかったかのようにそれに応じようとした。しかし、傭兵頭の男はその瞬間、素早く左手を引っ込めた。成立しない握手。何が目的かは知れないが、フートは動じないことにした。ここで態度を崩せば、卑賤兵の思惑どおりだと思ったからである。交渉の場では、自分を努めて隠さねばならないことを彼は知っていた。


「違いない。宜しく頼む」


 そう言うと、傭兵頭は汚い床に腰を下ろし、二人にもそれを促した。ミトルとフートは警戒しながらも、床に直に座る。既にミトルの構えは解かれており、三人は極めて無防備な体勢にある。それを確認してから、傭兵頭の周りから男たちがようやく離れた。


「よく訓練されているな」フートが言った。


 彼の見立てでは、この卑賤兵たちの一人一人が中級傭兵並みの戦錬士だ。このエルトリアムに『蟻人』が拠点を構えるに当たって、恐らくは用意出来る内で最も腕の立つ者たちを連れてきたのだろう。上級剣術士並みの力を持つフートとはいえ、十人近い中級傭兵を相手取るのは難しい。


「騎士団の第二位に認められれば、こいつらも喜ぶねぇ」


 傭兵頭の男が笑った。本当に彼はよく笑う男だった。実のところ、フートが一番読めないのがこの男であった。彼はこの中で最も弱いようにも、逆に最も強いようにも見えた。その実力が、まるで薄い衣で包んだように見えない。男の余裕が実力に由来するものか、それとも経験に由来するものか、フート=マルヴィスには珍しく、それすらも分からなかった。


「まぁ卑賤兵なんて言われてるが、並みの傭兵よりは荒波潜ってんのよ。魔獣とはろくすっぽ闘わねぇが、汚ねぇ魔獣並みの人間とは毎日のように対立すっからねぇ。このエルトリアムじゃ、そんなこともないのかもしれんがね、ドピエルには騎士はいねぇから」


 男はしばらくの間、彼らについて話した。その話は剣術士としては興味深いものだったが、本題ではない。長々と話す傭兵頭に痺れを切らして、ミトルがフートに目配せをする。それが何を意図していたのかは分からなかったが、焦りは確かに感じられた。あまり時間がないのだ、ここで下らない話を続けるつもりは毛頭ない。その一種、不穏な気配を感じたのか、傭兵頭の男は話を変えた。


「そろそろ仕事の話でもしやしょうか」

「あぁ。俺たちは『蟻人』に手を貸してほしい」


 男はそれを聞いて、少しだけ考え込んだ後、おどけた声で言った。


「俺たちは蟻じゃないんですがね」

「それはすまないな。そう名乗っていると聞いていたから」


 フートが素直に謝ると、男は小馬鹿にしたように舌をちろちろと動かした。表情の多い男だ。全くもって何を考えているのか分からない。だが、自分はどうも彼の御目がねには適っていないらしいということは知れた。ミトルはその態度にもわずかに苛立ちを覚えたようだった。傭兵頭の男は、少しだけつまらなそうな表情で、フートに言葉を返した。


「結論から言えば、騎士団に手は貸せねぇ」

「何だと」フートは唸った。

「貴様!!」ミトルが剣を抜く。

「こりゃあ罠だよ、お二人さん」


 それを聞き、フートは思わず剣に伸ばした手を止めようとした。だがその瞬間、自身の身体がぴくりとも動かないことに彼は気付いた。毒か、いや、そんな素振りはない。だとすれば魔法。ミトルが反射的に靈気を放ち、その拘束を断ち切ろうとする。されど、それは失敗した。案内役の男が後ろからミトルの首を掴んだからだ。彼は鋭く、そして冷たい目つきで青年を睨むと、冷ややかに笑った。


「傭兵じゃねぇな。頭を浄眼で見てすらいない」


 それと同時にフートが靈力を放出し、魔法を断ち切る。彼は瞬時に浄眼を開いて、中央であぐらを掻いている男を見る。フートは男の周りに微粒子のように浮かぶ魔素を見て違和感を覚えた。男は、見られていることを意識していないように呟く。


「単細胞で弱いってのは最悪じゃねぇですかい」彼は哂う。

「この皇都で騎士団相手に狼藉はないと踏んでいた」フートが舌打ちをした。

「狼藉って、そっちから仕掛けてきたんでしょうや」


 そう言って、男は自分の手を木の床へと突き立てた。その何の変哲もない手が、まるで吸い込まれるように木の床を通り抜ける。空化、ではない、フートは気付いた。この男は非実体なのだ。浄眼に映る呪界の存在が、傭兵頭が実体ではないことを明らかにしていた。


 であるならばこの魔術は術式による法化魔術。案内役の男が狼狽えるフートを見て、徐に人さし指を天に向けた。指された天井を見れば、そこには無数に重なり合う幾何学模様。それは明らかに、強力な術式陣だった。


「参ったな。交渉のつもりだったんだが」フートが漏らす。

「それは随分と甘い認識でさぁ。俺と会うんなら覚悟がいるよ、騎士の兄ちゃん」

「何が気に食わないんだ?」

「すべて。言葉遣いも実力も態度も我慢強さも想像力も、だ」


 男は立ち上がる素振り――正確には立ち上がる幻影――を見せた。彼はそのまますくりと見下すように二人を見て、その顔をしかめる。フートとミトルは少しも動けずに、床に座り込んでいた。


「殺すのか?」ミトルが怯えたように尋ねた。

「馬鹿にしなさんな。何もしねぇさ」


 不合格、その言葉が指しているのは恐らく、二人の実力なのだろう。自分とミトルは、卑賤兵たちの課した試験に落第したのだ。だとすれば、この男たちが自分たちに力を貸すことはないと思われた。それはつまり、アルト=デルフォイの捜索が絶望的になったということでもある。気落ちするフートを見て、卑賤兵たちがくすくすと笑う。


「油断は命取りでしょうや。まぁ、しかし落ち込むこたぁねぇ」男が言った。


 その言葉の意味を図れずに、フートの顔に明らかな疑念が浮かんだ。それを見て、男もくすりと、されどにやつくように、笑った。


「アルトは捕えて見せましょう。騎士様方はお役御免だがねぇ」

「こちらの頼みは呑むというのか?」ミトルが喚いた。

「奴を捕えるのは、それなりに益のあることなんでさぁ」男が言う。


 彼はゆっくりと立ち上がり、手を払うような仕草をすると、最後に、フートとミトルに意地の悪い視線を向けて、口角を上げた。


「ま、ローレン=ノーランの部下ならこんなもんか」


 そう言って男が手を振ると、彼の周りに渦巻く魔素が瞬時に霧散した。同時に傭兵頭、彼自身の姿も薄れ、暗闇に掻き消えていく。それをフートとミトルは苦々しい表情で見送るしかなかった。


 男が消えてしばらくすると、唐突に彼らの身体を縛っていた魔法が解ける。あまりにも急に解放されたので、二人は勢いづいて前方に転げた。それを見た案内役の男がけたたましく笑い声を上げた。やかましい男だ。やはり卑賤兵なんぞに助力を頼むのではなかった。これまでにないほど、不愉快な思いがフートの胸中に渦巻いていた。彼は苛立ちながらミトルを助け起こすと、男に問う。


「もう、良いのか?」

「我々の情報を漏らさない限り、アルトの身柄は引き渡そう」


 その、他言無用という要求を呑むつもりはフートになかったが、彼は頷いた。それを見て男は、ふっ、と鼻で笑うと、恭しく扉を開けた。フートの眼に煙った空気を切り裂くような日の光が差し込んだ。その後をミトルが続く。彼は目をしばたたかせてフートを見る。そして、半ば打ちひしがれたように言った。


「戻りましょう」



 祭り騒ぎの市中とは対照的に二人の男は気を落としている。その後ろを掏摸の子どもが駆けていて、フートはそれに気付いたが見送った。今更、そんな子どもを相手にしたところで意味がない。意味がないのだ。なんとはない無力感がフートを苛んでいて、その感覚には理由がなかった。卑賤兵との交渉はある意味では当初の目的を達しているのだ。本当ならば、高揚感があって然るべきだというのに。


 腐っていても埒があかないことは知れていた。こうなれば卑賤兵の思惑ごと事態を動かすのが最善。だが困ったことに、彼らの目的は頑として知れない。故に、フートは自分よりも頭の回る相手に相談することにした。その相手とは勿論、オルンドラ=リディアという名の女である。


「フート様、誰に転言しているのです?」


 男が懐から取り出した端末を見て、ミトルが不思議そうに声を掛けた。フートは答えない。彼はやけに真剣な顔で端末を握りしめていた。


「どうしたんです」ミトルが訝しげに問うた。


 フートは深刻な表情で端末の画面を、ミトルにちらりと向けた。そこにはただただ真っ暗な画面が映っている。オルンドラとの連絡が、何故か通じていないのだ。彼女が応じないことに関しては、二つの可能性が考えられた。一つはオルンドラの裏切り。もう一つは異常事態の発生である。彼女の利害を考えれば、前者は無いように思われた。だとするならば、この状態は呪界通信網への攻撃の可能性が高い。即ち、オルンドラ自身の身にも異変が起こっていると考えられた。


「不味いな。やはりラングリアで何かが起こっているのは間違いない」


 と、フートがそう呟いた直後、辺りの人々が空を見上げて騒然とし始めた。つられて同じ方向を見れば、空には高々と煙が昇っている。蒼穹を塗り潰すかのような黒々とした煙は、まるで『骸』の闇属魔法。されどフートには、それが火事によるものであることが分かった。彼の優れた嗅覚は、木材が焼ける臭いをも捉えていたからである。だが火事であるならば、その発生源を突き止めなければならない。


 ミトルも同様に考えたらしい。彼は猿のように建物の壁を登っていく。屋根までほんの僅かの時間で辿り着いた彼は、煙の方角に目をやって声を上げた。そして非常に焦った様子で通りに飛び降ると、顔を顰めて言った。


「剣王邸ですよ、あの方角は」

「留守の間を狙われた」フートが言う。

「急いで向かいましょう。恐らく、消火士と言えど邸内には入れない筈です」


 剣王邸は何重もの結界で物理的呪界的に、強固に防御されている。そこへの侵入が可能なのは、選ばれた数名の傍付などの限られた人間だけだ。その中には限定的ではあるが、フートら騎士団員も含まれていた。


「分かった」


 そうフートが言うと同時に、二人は外套を脱ぎ、通りを走りだす。道行く市民がそれを奇異な目で見るが、野次馬どもが火事だと叫ぶと、そのような眼も無くなり、事態の推移を見守る居住者の眼が向けられた。この都市は広大と言えど人口密度の高さから、住居に余裕はない。仮に多くの家が焼失してしまえば、治安の悪化と幾らかの皺寄せが来る。市民たちはそれを危惧しているのだ、とフートは思った。


 二人はなるべく早く辿り着けるように走る。なんとなくこの一連の流れを放置するのは、不味い気がしていた。アルト=デルフォイがこの火事に関連しているならば、一石二鳥。していなくとも、人の流れが画一化すれば、そこで異物は攫いあげられる。アルトが隠れ続けようとするならば、必ず、何処かで尻尾を見せるはずだった。故に、周囲にも気を配りながら、フートは走ることになる。


 先に結論から言えば、この火事はある意味ではアルトに関連する事態であった。だがそれよりも、もっと重大な事態を彼は引き起していたのだ。同時刻、空へと立ち昇った煙は一本だけではなかったのである。それは白く伸びた為に、昼間の空では目立たなかったのだ。白煙に最初に気付いたのは、フート=マルヴィスだった。


 彼がそれを見付けたのは偶然であると同時に、必然だった。フートはその場所に多大な関心を払っていた為に、その異常を覚知した。


「待てミトル、あれは何だ」フートの声が僅かに上ずる。


 彼の視線は白い煙と、蒼い屋根に向けられていた。


 白煙は、深青宮ラングリアの中央部、青宮から立ち昇っていたのだ。であるならば、あれが飯炊きや野焼きの煙であるはずがない。オルンドラに起こったと思われる異常、その原因を二人は漸く、その眼で見た。あの煙は火事ではない。何かもっと不可解なものだ。


「どちらを優先しますか」ミトルが困ったように言った。

「ラングリアだ」フートが即座に答えた。



Δ



「リアト……なんでいんの?」素っ頓狂な声で少女が言った。


 今まで握っていた琥珀の剣は少し離れたところに突き刺さっていた。そのすぐ脇には自分の師匠、リアトがいる。そのことにイルファンは疑問を持ちながらも、不思議な安堵を覚えていた。何だか、凄く長い間、師匠に会っていなかった気がする。たかだか数時間かそこらの話であるはずなのに。


「イルファン、身体はどうだ?」リアトが少し笑って言った。


 不思議だ。師匠はあんまり笑わないのに、こんな時に笑うなんて。そう思ってから、少女は自分の言動に奇妙な違和感を覚えた。こんな時? こんな時ってどんなときなんだろう。自分の記憶がやけに曖昧で朧げであることに、少女は気付いた。覚えているのはどこまでだったか。


 師匠と離れてから変な男に攫われて、ランツに助けられて、豪邸に行って、そう、そうだ。自分はその豪邸に入った後の記憶が殆どない。


 今の状況は何となく分かるけれど。この滅茶苦茶な部屋と、ほとんど動かない身体についた青痣。この青痣には見覚えがある。確か、リアトの技でこんなのがあった。全身の力を抜いて、向かってきた相手を投げ続ける奴。その記憶はないけれど、どうやら自分はリアトと戦ったらしい。師匠の様子を見るに、相手にもならなかったようだが。


 それにしてもこれ程、激しく投げられたのは久々だった。思い出せないが、そんなに怒り狂うようなことがあったのだろうか。あるいは自分が怒り狂って、リアトを攻撃した? いや、それはあり得ないだろう、と少女は頭を振る。だって師匠を攻撃なんかしたら、半殺しにされるのは見えているもの。


 でもそれでも何かを忘れている、と少女は思う。大事なことかは知れないが、怒りのような何か。そう、これは感情だ。誰かの名前を自分は呼んでいた。


 とその時、頭の奥深くに嫌な痛みが走った。これは覚えがある。昔と同じ、記憶を思い出すときの痛みだ。吐き気や頭痛を伴う、忌まわしいそれ。思わず少女は頭を抱え込んで栗鼠のように丸まった。だが頭が痛いと言うことは、なぜだか憚られた。


「師匠、首が痛いです」イルファンが力なく言う。


 それを聞いて、リアトは剣を背中へと戻した。彼女は少しばかり安心したように息を吐いて、顔の緊張を緩めた。それからリアトはたっぷりと時間をかけて、少女の元へと歩み寄った。


「他は?」

「体中あちこちが痛くて。腕も全然動きませんし、そもそも立てません」


 実のところ、少女は床に寝そべったままで、話していた。全身が異様な筋肉痛に襲われていて、自分の意思を完全に無視している。リアトも近くには来たものの、助け起こしてはくれなかった。少女は取り敢えず、靈力を集中させて、筋肉の断裂を癒すことにした。癒薬があればもっと良いと思ったが、手元には一つもない。


 リアトは身体を癒し始めたイルファンを見て、満足げに頷いた。なんというか、今の師匠は何処か変だった。急に笑ったかと思えば、急にご満悦になるし。うーん。何か性格が変わるような出来事でもあったのだろうか。そう思った直後、リアトは少女を見ながら、小さく呟いた。


「良かった。お前が生きていて」


 イルファンはその言葉を聞きながら、でも投げたのお前じゃね、と思った。いや、悪気はないんだけど、ここまでの青痣はリアトにしかつけられないでしょ。普通の剣術士は剣で斬るし、魔法士は謎光線をびゅんびゅん撃つし。だから、殺されかけたとすれば、それはリアトによるものであるはずなのだが。なのだが、リアトはやけに心配そうな顔をしていたのであって、どうも、殺しにかかったと言うより、むしろ、助けてくれたっぽくて。いや、分からないけど、ともかく自分は先程まで死にかけていたのだろう。


「私、死ぬとこだったんですか?」

「いや、違うぞ!」リアトが叫んだ。

「なんなんですか?」


 そう言うと、師匠は即座に青ざめて口ごもった。髪も剣も青いのに、顔まで青ざめるなんてどういう事態なのか。リアトは明らかに、しくじったという顔で唇を舐めている。少女は追及したくなったが、なんだか可哀想なのでやめておくことにした。


「まぁいいです。それより……」

「それよりなんだ?」リアトがその言葉に嬉しそうに飛びつく。


 その感情の起伏の激しさに、イルファンは面食らった。誰だこいつ。なんか、師匠っぽくない。ほんとに師匠なのだろうか。こう言ってはなんだが、数時間ぶりの師匠は、ちょっと犬っぽかった。だって、リアトはローレッドに居た時の数倍は嬉しそうなのだ。あれか、ひょっとして弟子がぼろぼろになっている姿で興奮する系の。尚、重ね重ね言及しておくが、イルファンは耳年増である。


「お腹空きました」少女が言った。

「よし! ここを出るぞ」


 明るい声でリアトが言う。そのやけに明るい声は何処か怪しい。まぁ疑ったところで動けないし、為す術もないんだけどね。と、師匠が両手をイルファンの身体の下に差し込んだ。うぇ無力感。てかそこ違う。その手付きが覚束なさすぎたために、イルファンは自分を抱きかかえようとするリアトに違和感を覚えながらも笑った。


「こそばい」少女が言った。

「なんだ?」素っ頓狂な声でリアトが返す。

「師匠、抱っこ下手ですね」


「黙ってろ」リアトが噛みそうになりながら言った。


 思えばリアトはいつも少女を片手で掴んでいたわけで。その肋骨が折れていようと、内臓が破裂していようと片手だった。それが今は両手。それも抱き抱えるような丁寧な持ち方。うーんどういう心境の変化なのか。イルファンは少しだけ動くようになった首を軽く回す。


 と、その時リアトの身体が僅かに震えた。


 少女は驚いて身体を強張らせる。え。なになに。私なんかしたっけ。イルファンは挙動不審に目をくるくると動かした。自分は今、首を動かしただけなのになんで震えるの。てか、誰に向けられた恐れなの。心の中で疑念が生じた瞬間であった。


 少女は訝しげに師匠を睨んで、言った。


「何か隠してます?」

「何もない」リアトが答える。


「嘘だ」イルファンの目が細まった。


 確信させたのは、臭いだった。


 むせかえるような血の臭いが、隠しきれない臭いがする。鼻腔をつく刺激臭は、内臓にまで到達した傷から溢れるそれ。少女は気付けば、リアトを問い詰めていた。


「何があったんですか?」


 普段のイルファンならばそんな問いはしないに違いない。隠しているということを知ってなお、問わないのが彼女だった。だが今のイルファンはそれを問うた。何故か。リアトが優しかったからだ。師匠が何時になく優しかったので、彼女の気は緩んだのだ。それはある意味で二人の関係性の変化を示していた。あるいはそうではないかもしれない。少女がリアトに質問したのは、それが自身の根幹に関わることだからだと本能的に見抜いたからかもしれなかった。


「何でも教えてくれるはずです」

「そうだ。眼を閉じておけ」リアトが言った。


 リアトはラフィーや傭兵程に物事を隠すのが上手くはない。彼女の僅かな声の震えは、少女の疑念をむしろ増大させた。眼と首だ。イルファンはそれに気付いて靈力を集中的にその二ヶ所に回す。首を動かされたくない理由、それは恐らく背後だ。自分の背後にはリアトが見られたくないものがあるのだ。だから彼女は何かを守るためにそれをひた隠しにしている。弟子である自分にも。


 いや、あるいはそれは自分を守る為なのか。少女はその事に思い当たり、喪失感を覚えた。それは少しだけ悲しいことだった。勿論、リアトが自分を信頼しているとは思っていないが、それでも八年も一緒にいたのにそんなのってない。イルファンは何かが鎌首をもたげてくるのを感じた。


「私を心配してるなら大丈夫ですよ」

「分かっている」いや、リアトには分かっていなかった。


 イルファンの心は冷えていた。


 心の中で持ち上がるそれを、以前にも感じたことがあった。あれはルハランと出会った時にも現れた。寂しいような自暴自棄的な冷ややかで壊れそうな感情。隠し事なんて平気だと、ローレッドを出た時はそう思っていた。自分の中の記憶があやふやなことも紅い城の記憶も、その全部、リアトが隠したいことは隠されるべきだと思った。


 だが、リアトらしくもない優しさを向けられたせいだろうか。今、少女は自分の気持ちにようやく気が付いた。こういう関係は嫌なのだ。自分とリアトはこういうのじゃない、師匠と弟子なのだ。そこには信頼がなくてはならないのだ。


 ひょっとすると、大事なことをなにも聞かないというのは、自分のことをリアトに任せきりにしてきただけなのかもしれない。自分は自分自身の過去から逃げてきただけなのかもしれない。意外なことに、その思いはイルファンの心にすとんとはまった。


 そうだ。

 私は逃げてきた。

 そしてこれからも逃げ続ける……。

 

 そんなことは望んでいなかった。


「何も隠さないで」イルファンが呟く。

「言うな」リアトが答える。

「私を信じてないんですか」


 と、同時に少女はリアトの手を振り払った。堅い木の床に少女の傷ついた肉体が投げ出される。だがそんな痛みよりも強い空しさが少女を支配していた。何だろう。自分はこんなに感情的だったろうか。


 何かが悲しい。何かが。

 隠し事が悲しいのか。

 分からない。


 だけど、リアトの妙な気遣いや優しさは自分の進むべき道ではないと思えた。誰の為の気遣いかは分かっている。自分の為だ。


 でもそれこそがイルファンを苦しめているのだ。自らの預かり知らぬところで皆が動いている事。リアトが打算をもって自分を育てたかもしれない、そんな贅沢な疑念が少女を打ちのめした。打ちのめされただけならば何も苦しくはない。だが、それが単なる逃げだとしたら。


 自分が本当に生きるということはただリアトに生かしてもらうということではないはずだった。そのことはリアト自身がよく分かっているはずだった。だって、剣を教えたのは師匠だもの。


「何も隠さないで」

「知る必要はない!」


 リアトが思わず、といった様子で叫んだ。


「必要がないって誰が決めたの?」


 それは純粋な疑問だった。


「さっきのらしくない優しさとか変だし、嬉しそうな顔も私の無事を思ってたんじゃないかもだし、なんか、よく分かんないけど、隠し事されるのはやっぱ嫌。そういうリアトなら私は全然嬉しくないし、つか私はそういうのじゃない」


 イルファンが弾丸のように捲し立てた。リアトが呆然とした表情で立ち尽くす。彼女は払われた自分の手を悲しそうに摩った。その虚ろな目はイルファンを見ていながら見ていない。リアトが見ているのは誰か。それは少女にも分からなかった。


 だが、リアトには自分を見て欲しかった。

 別の誰かではなく、私に話してほしい。


 もう、逃げたくないのだ。

 もっと信じてほしいのだ。


 じゃないと、


「私、リアトを嫌いになる」イルファンが言った。


 リアトは片手を少しだけ伸ばしながら、何かを言いたそうにしている。何を、リアトは何を言いたいのだろう。後ろを見るな――なんとなく少女はそういう師匠の気持ちを感じ取った。


 そんなことしか言えないのか。怒りと悲しみの混ざり合った感情が溢れて、だからイルファンはリアトの意思も空しく、決意する。そうすることでリアトが自分を見るのなら、あらゆることに耐えきろうと少女は思った。


「剣を私に教えたのは師匠」

「そうだ」リアトが言う。

「何のために教えたの」


 それは押し殺していた問い。一人で生きていけるようにする為だ。と、イルファンは自らの問いに答えた。誰の助けがない状況に陥っても、私が死なないように。あらゆる危険から、私が、私を守れるように。


 だったら師匠が私を助ける必要も保護する必要もない。そうなるように仕向けたのは、他ならぬ師匠、リアトなのだ。だが、今の彼女はイルファンに誰かを重ねて、躊躇っている。自分の手の中からイルファンが消えることを恐れている。


 憔悴した声でリアトが言った。


「お前には剣が要るからだ」

「そう、私には剣がある」


 だから大丈夫。

 リアトの剣がある。


 イルファンは笑った。


「違う……お前は……」リアトが言う。

「私は信じてる。師匠を信じてる」


 不思議なことにイルファンの瞳に涙が浮かんだ。

 自分がどれほど、目の前の女を大事に思っているか。

 そのことを伝えようと、


「お願い」少女が言う。

「駄目だ」リアトが力無く言った。

「私を見てて」


 少女は既に振り返っていた。




 そして、赤が飛び込んでくる。



 目の前に広がるのは、一面の血、血、血。大量の吹き飛ばされた肉片がこびりついた壁は赤く盛り上がり、骨の微細な欠片が、まるで灰のようにそれを彩っていた。内臓にも似た幾つもの臓器、肺や腸に胃に心臓は、半ば乾いた表面を硬化させて、天井から垂れ幕のようにぶら下がる。血液が凝固したことで、内臓が張り付いたのだ。


 血が染み込んで赤黒く染まった床には数本の指や腕が落ちている。その凄惨な舞台の中央には、一人の女の屍があった。上半身だけがぬめぬめとしており、下半身は血の海に沈んでいる。その薄手の白い服に、イルファンは何となく見覚えがあった。誰か、誰だったか。その記憶を思い出すよりも早く、少女はもう一人の屍を見付ける。

 

 その屍はきちんと記憶していた男の、青年の屍体。腹から溢れる臓物と腐血はもはや乾燥しきっていて、偽物のようだ。彼の顔には大量の肉片がへばり付いていて、その造作は伺えない。だが、イルファンには彼が誰だか、容易に思い出せた。


 ランツ、ランツ=デルフォイだ。

 彼は死んだ。殺された。

 誰に。リアト。違う。

 そう、ラツィオ=メイン。あの男に。


 あの男と自分は闘って、そしてあいつは生きてる。でもあいつも悪い奴じゃなかった。じゃあ誰が悪いの。私を攫った奴が悪いの。でもだったらなんで私が攫われたんだろうか。


 本当に悪いのは誰か、なんて今まで考えたことがなかった。だけどその問いはどういうわけか当然の問いであるように思えた。そして少女はその答えをもうずっと前から知っているようだった。あの幼い日々からずっとずっと、答えは一つしかないのだと。


 それは――私だ。


 イルファンはリアトが頑なに振り返るのを拒んだ理由をようやく理解していた。激しい記憶の逆流。恐ろしいほどに生々しい炎の熱さ。そうしたものが少女を地獄へと誘おうとしていた。これらはランツの死によって、その光景によって招かれたことなのだ。


 本当に自分は大丈夫なのだろうか。

 この幻視のなかで己を失わずにいられるだろうか。

 既にリアトの顔は思い出せなかった。


 だがそれでも、負けるわけにはいかないのだ。


 直後、世界のすべてが暗やみに落ちた。




 焼け付く頭の痛みとともに記憶が少女を狩りたてる。それは彼女自身を死へと追いやろうとするおぞましい呪いの言葉たち。己が己自身へと突き刺した断罪の剣そのもの。いつ何時も罪を忘れぬようにイルファンは己を咎人と為したのだった。その柔い心を守るために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ