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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
三節 熱部呪術
30/43

3-7 白肌赤願/フート


Δ



 首を剣が撫でた瞬間、反射的にラツィオは屈んでいた。

 毀れる血を拭うかどうかの逡巡、それが命取りになる。


 同時に、今まで頭があった場所を琥珀の剣が貫いた。幾本かの髪が宙を舞う。やはり本命は《貫》。彼女は自分を確実に殺すために頭部を吹き飛ばすつもりなのだ。であるならば、次の動きもある程度は予測できる。


 イルファンの《海下》、既に読んでいたそれに合わせる。ラツィオは真交歩法《瞬避》を用いて、座位のままで剣を振る。琥珀の剣が綺麗に弾かれて、同時に、ラツィオの剣が少女の脚を斬った。向う脛、その太い骨をも断ち切るつもりの渾身の一撃。されどそれは、イルファンの白い皮膚に掠り傷をつけただけだった。


 驚きからか、ラツィオの動きが止まる。すぐさま、イルファンが傷ついた脚で男の鎖骨を蹴り折った。信じられぬほどの反応速度と、魔獣のような皮膚の強度。ラツィオはその絡繰りを知っていたので、思わず叫んだ。


「死ぬぞ!!」


 額に汗を浮かべて、ラツィオが叫んだ。この異様な剣技と完璧な見切り、そして溢れんばかりの力。推測ではあるが、付加魔法なしにはあり得ない力だった。この少女は自分の脳を限界まで使うことで、自分を追い詰めている。何故か、ラツィオにはそのことが酷く情けなく思えた。


 どうして、自分はこの少女と闘わねばならんのか。この小さな剣士よりも、自分は遥かに長く生きているというのに、こんな子ども一人も助けられないというのか。そんなことで自分はこれから先、ローレンを助けられるのか。ラツィオは自身の行動を振り返る。ここまでの一連の流れがロンティエルのものだとするならば、自分はその全てに流されて、乗せられてきたのだろう。敵を倒すつもりが利用され、無駄な血と時間を流し、今もこうやって、少女の攻撃を凌ぐのが精一杯である。


 自分にもっと力があれば、上手くいくのか? 術式兵器とやらを奪えば、ローレンは助かるのか? ラツィオには正直なところ、そうは思えなかった、思えなかったが、彼はローレンの言葉に従った。それが傍付である自分の役割だったからである。しかし、それだけでいいのか。


 ローレンの為、という行動動機だけでロンティエルに勝てるのか。恐らく、彼女はそこまでちゃんと読んでいるのだろう。だとするならば、自分は、その裏を掻かねばならない。ラツィオは自身の、今後の為に残しておいた力をも使うことに決めた。そうせねば、イルファンは止められないし、自分も死ぬ。それが最悪の状況だ、とラツィオは漸く理解した。


 力の出し惜しみをするのは、もう止めだった。ラツィオはその瞬間に剣を柄を両手で握り、構えを大きく変える。折れた鎖骨が悲鳴を上げるが、彼はその痛みを即座に遮断した。高く、大きく、天まで届いて海を割るような対獣剣の極地。それは真交流ではなく、明らかな海刃流の構え。肩幅まで開かれた足は、床を踏み割るほどに強く、置かれている。


 ラツィオの破砕剣を無効化したことで、彼女は油断するに違いない。つまり、少々の剣を貰っても致命傷にならないと分かっているならば。俺ならば、最短距離で首を落とすだろう。ラツィオはそう思った。ではイルファンならば。あの少女ならば脳を潰しにくる。それは確信めいた予想。既にラツィオの構えは完成していた。


 斜め前方から、殺気。少女が琥珀を片手に、飛んでくるのが見えた。直線的な動き。ラツィオには彼女の次の攻撃が読めた。僅かに片足をずらし、重心を左斜め前方に移す。その瞬間、イルファンがその腕を真っ直ぐに伸ばした。予想通りの《貫》。だが、予想などは当たるだけでは意味がないのだ。それを、十二分に生かせなければ。


 ラツィオが狙ったのは、鋼の如き靈力ごと、腕を断ち切ることだ。それ故に、繰り出される技は、鋭さと硬さを主とする真交流ではあり得ない。彼が用いたのは海刃流秘技《海断みだち》であった。それは海刃流の剣士にしか使えぬ筈の技。長めのバルニュスの全体に隈なく行き渡った靈力が、ラツィオの体中の力全てをも吸い上げて、膨れ上がっていく。バルニュスを超え、長剣を超え、もはや大剣にまで例えられるほどに、海刃の剣技は厚く、重く、そして、高く伸びる。


 それが完璧に振られ、少しの力も無駄にすることなく、斜めに、イルファンの右腕に直撃した。イルファンの腕が血をまき散らしながら、落ちる。すかさず、ラツィオはさらに剣の構えを変えた。それはバルニュスの柄、その下方を指三本で持つ独特の構え。レディメに見立てたその剣は魔剣流のもの。


 魔剣流秘技《縛刃螺旋らせん》。


 剣先から伸びた魔力の刃が、少女の剣を絡めとり、何重もの螺旋によって縛り上げていく。ごとり。琥珀の剣が落ちたと同時に、イルファンは崩れ落ちた。すかさず、ラツィオは少女の後頭部を強く殴りつけた。凍った肉を殴ったような鈍い音がしたが、それは気にしない。ローレンに昔聞いた話ならば、それで催眠呪術は解ける筈だった。


 少女が地面に伸び、魔法で封じられた琥珀剣の振動が止まる。獣のような殺気さえも、残り香だけを漂わせて、消えた。


「おしまいだ」


 持てる力の全てを使い切り、ラツィオが倒れた。軽い音を立てて、転がった皇神鋼は慣れない力を込められたために歪んでいた。万能の剣術士たるラツィオでも、他流の秘技を二度も発動することは先ず無い。特級剣術士ならば、まだしも、彼は一介の上級剣士にすぎないのだから。


 とはいえ、のんびりとはしていられない。自分の本来の目的を果たすまで死ぬ訳にはいかないのだ。まだ、ローレンを救う為の手立ては一つも見つかっていない。早く、ロンティエルを見つけて捕えなければ。ラツィオがそう思い、よろよろと立ち上がろうとした時、


 しゅるしゅる、と音がした。


 崩れ落ちた少女の方から聞こえるようだ。ラツィオは薄れる目で、イルファンを見た。その右腕は半ばから途切れているが、血は出ていない。信じられないことに、既に彼女の腕は再生を始めていた。それと同時に、彼女の身体中の術式がその光を増してゆく。その光は闇属の魔法のように禍々しい。


 何故だ、彼女は気絶したというのに、とラツィオが困惑し、這うように後ろへ下がる。その全身を妙な寒気が走っていた。まるで、何かを間違えたような嫌な気配。なんだ、俺は何を誤ったのだろうか。分からぬまま、ラツィオは少女を見る。そして、ゆっくりと、少女が目を開く。倒れ込んだラツィオにはその眼は見えなかったが、彼女の表情だけは、しっかりと分かった。


「嘘だろ」ラツィオが呟いた。


 琥珀の少女は、まさに、あのロンティエルの物憂げな笑みを浮かべていた。



Δ



 ローレンは一通り歩き回った後に、浅くため息を吐いた。

 リアトが訝しげに、彼の方をちらりと見る。


「憂鬱そうだな」

「出口を見つけた」

「何処だ。また、無形の術式とやらなのか?」


 彼は薄笑いを浮かべて、細い人差し指を上に向けた。そこには高い天井と、巨大な穴。上下に伸びる深淵の、その上部である。その穴の表面は見たところつるつるとしていて、登れそうもない。塔に設置されるような螺旋状の階段も見当たらなかった。だが出口はそこしかないらしかった。


「やはり、これしかないのか」リアトが眉根を寄せる。

「魔法が使えれば別だがな」ローレンはしれっと答えた。

「ふむ」


 リアトは少しだけ思案すると、唐突に背の剣帯からバルニュスを抜き、それを撫でる。彼女は愛剣を数度手の中で遊ばせると、上方へ向けて素早く投げた。ひゅうっと風を切り裂いて飛ぶ鋼は、勢いよく壁に突き刺さった。彼女はそれを見て、満足げに言った。


「なんとかなりそうだ」


 リアトは言うが早いか、猿のように跳び、刺さった剣の上にしゃがんだ。これは真交流の剣術士が敵の居城に忍び入る時によく用いる手法だった。そのまま彼女は指を鉤爪のようにして、黒い壁に突き刺す。今度も上手に突き刺さった。リアトはゆっくりと足元の剣を抜く。壁にぶらりとぶら下がったままで、彼女はローレンに言う。


「どうした。お前も登ってこい」


 ローレンは思わず、手に持っていた術式板を彼女に投げたくなった。彼は戦争の後遺症で言式魔法、すなわち、二十四定式に連なる魔術を使えない。それはつまり、魔法による身体の強化も空中歩行も出来ないということだ。勿論、魔力の形態変化『構成』を脳だけで行えば不可能ではないが、その方法での魔法の回復が出来ないことは、既に十五年前に検証済みである。


 リアトはそれを知っている筈だが、とローレンは思う。彼女は時折、意図せずに馬鹿げたことを言うのだ。ともかく、彼は上方の穴にへばり付いているリアトに向けて言った。


「私は登らんさ。身体強化の魔法はもう使えないし、何より調べてみたいことがある」

「嘘を吐け、先程の裏王剣との戦いでは魔法を使っていたではないか」女が叫んだ。


 なるほど、とローレンは得心した。どうやら、あの奇妙な出来事が魔法であることを彼女は確信しているようだった。恐らくは、第六種の封撃魔法を用いて、『虚』の幻影を妨害したのだ、と。実のところその推測は当たっているのだが、彼女に教えるつもりはない。ローレンは不愉快そうな顔をして、追い払うように手を振った。


「俺は別の方法で追いつく。気にするな」

「お前を置いていけば、皇都の連中に殺されてしまいそうだが」

「問題ない。会議には間に合うようにするし、俺はまだ、死なないだろう」


 何を根拠に、と思いつつ、リアトは不満げに言った。

 

「そうだとしても、私一人では呪術士には勝てんぞ」

「勝ち負けの問題じゃない」


 彼はそう言うと、もはや用はないとばかりに端末を操り始める。その様子は何処となく怪しく、まるで何かを隠しているようだった。先程の魔法もどきといい、どうもローレンは信用出来ないと、リアトは思った。彼女は首を傾げて、大層、剣呑な表情でローレンに言う。


「これ以上隠し立てをするなら、その穴に突き落としてやるからな」


 ローレンは聞こえるように舌打ちをして、長い中指で品のない仕草をした。リアトはそれを見ずに、くそったれ野郎、と呟いた。



Δ



 奇妙なことが幾つもある、とリアトは思い起こす。


 例えばそれは、身体の回復が異常に早いことだ、そう、リアトは思った。自分の肉体がどの程度の治癒力を持っているか、彼女はよく知っていた。それ故に、彼女はここまでで受けた怪我や消耗がみるみる消えていくことに驚く。忌地であるローレッドではこんなことは有り得なかったというのに。歳をとった自分の肉体が、まるで全盛期のような力を発揮している。あの時、そう、熱部作戦で大陸熱部に遠征した時のような感覚。


 原因はなんだろうか。リアトは考えた。意志や認識の力は、特にこのノーランにおいては非常に強い力を持つ。であるとすれば、自分のこの状態はイルファンのことがあるからなのだろうか。彼女に対する自分の気持ちによって、いつも以上の力が発揮されているのだろうか。そんな訳がない、と思いながらもリアトはそれを否定出来なかった。


「自分のことが、一番難しいのは――変わらないな」


 少しずつ、されど常人には不可能な速度で彼女は壁を登る。この穴の壁はほとんど垂直で、表面には耐魔石が用いられていた。普通はこの石はこんなところには用いられない。ヘルトメランは割合に高価な鉱石だったからである。リアトは不思議に思いながらも、滑る壁に指先を突き立てた。どすり、と指が刺さり、そのまま、腕の筋力だけで身体を持ち上げる。


 軽い。その作業が、思ったよりもすんなりと行えるということに、リアトは喜ばしいことである筈なのに、一抹の不安を覚えていた。この戦いが終わったら自分は寿命を使い果たして死んでしまうのかもしれない。イルファンを助ける為ならば、別に死んでもよいのだから。


 その時、暗い穴の上方から、何かがぱらぱらと落ちてきた。片手で掴んでみれば、それは耐魔石の欠片である。この滑らかな壁から石片が剥がれ落ちることは恐らくない。リアトはすぐさま片足を壁に突き刺して、固定し、敵に備える。十秒、二十秒、逸る気持ちを抑えて息を凝らすも、殺気はない。


 だとすれば、この石片はなんだ? 


 そう思いながらも彼女は結局、その黒石を下方へと放った。こんなところで立ち止まっていては埒があかないと思ったからだ。だから彼女はまたしても気が付かなかった。リアトのすぐ後ろを、黒い靄のようなものが通り過ぎていた。それは下方、ローレン=ノーランの方へと、静かに向かう。彼女は再び、黒い影『骸』を見逃したのである。


 静寂の中でリアトは考える。


 もし自分がここで死んだとして、それはヴォファンとの約束を守ったことになるのだろうか。イルファンを助けて死ぬという行為は高潔な自己犠牲のように思えるが、果たしてそれが自分にとっての真実なのか? 私がするべきこと、したいこと、しなければならないこと。


 見失っているのはそれだった。



Δ



 浅い呼吸をしながら、ラツィオ=メインは闘いの余波で破壊された床に横たわっている。この部屋はランツが使っていた部屋のようで、室内にはその痕跡があった。真交流中級剣術士の認可状や術式士としての書物、そして、人形。部屋の中央に置かれた机と椅子を取り囲むようにそれらはあった。


 今、この部屋の中には二人の生者と二つの遺体が転がっていた。傍からみれば、自分たちも精緻な人形に見えるだろう、とラツィオは思った。イルファンとラツィオは微動だにせず、互いを睨み付けていた。


「さて、」


 動けない。この状況では下手な手を打てない。ラツィオはそう思いながらも身に纏う靈力だけは緩めない。この少女が、いや、この女は何を狙っているのだ。ロンティエルの笑みを浮かべる少女を前に、彼は硬直していた。


「ラツィオ=メイン、」


 少女がロンティエルの声で言った。やはり、彼女の精神は乗っ取られているようだった。イルファンは優雅に立ち上がって、男の元へと歩み寄った。その顔に浮かぶ表情は、憂いを含んだ笑み。されど、何処となく、抑えきれぬ喜びを感じさせる邪悪なもの。少女は冷たく、それでいてねっとりとした声で言った。


「貴方にはお礼を言わないとね。私がかけた催眠を解こうとした貴方は狙い通りにイルファンを眠らせた。莫大な力に目覚めた少女を無力化するのは私にはどうしたって出来ないことだったわ」


「その琥珀の剣の力を欲したのか」ラツィオが問う。

「いいえ。イルファン=バシリアスが『剣子』なの。琥珀の剣はその鍵に過ぎない」


 ラツィオはその言葉を鵜呑みにするつもりは無かった。だが彼女が、隠された真実の一端を明るみにしているということは分かった。


「十三年よ。十三年も私たちは待ったの。危うく、全てが台無しになるところだった。あの力を開かせたまま、イルファンを私の思い通りにする。その終着点に辿り着くのは困難を要したわ」


 十三年という月日が何を指しているのかは、ラツィオには分からない。彼女が楽しげに語る言葉のすべてが、彼にとっては無意味な羅列であった。何故なら、ラツィオからすれば、問題はただ一つの単純なものだからだ。つまり、ローレンを救えるのか、それとも救えないのか。あまりにも事が突然すぎて、自分には判断しきれないかもしれない。それでも、自分がした事が、女の思惑通りだということは分かった。


 ロンティエル達は、あの剣が発動した状態のイルファンを乗っ取る必要があったのだ。あるいは、琥珀の剣が鍵となる為には、他にも重要な要素があるのかもしれない。


 例えば、執拗にロンティエルが用いていた『怒り』という感情だ。人間の精神は情動と自由意志と理性から成っていると、ラツィオは信じていた。激しい情動は、自らが理性的に自由意志を用いることを妨げてしまう。一部の賢者が言うところでは、それが精神の破滅であり、魔獣病なのだ。心の弱いものが魔獣と化し、強いものが理性と人間性を保ち続けるのだ、と。


 イルファン=バシリアスの力は人間を遥かに超えている。忌み嫌われる『獣棲士』と同じような、肉体そのものの変質。誤解を恐れずに形容するならば、彼女の体はもはや魔獣の域にあった。あの剣の震えに伴う強大な靈力の顕現と禁じられた付加魔法。それを発動させるために邪魔なもの、それが理性なのではないか。その理性を吹き飛ばすために、ロンティエルは自分を使ったのではないか。


 ラツィオは漸く見えてきた全体像に苛立ちながら、拳を握った。つまり、ローレン=ノーランは俺という駒で敗北するのか。悔しさ。怒り。悲しさ。憎しみ。感情が渦を巻く。


「あの少女で何をするつもりだ」

「語気荒く、眼も血走っている。貴方らしくもない」

「決めつけるな」


 その言葉が終わらない内に、ラツィオは立ち上がった。拳が唸り、少女の白い肌を捉えるも、それは軽快な体捌きで躱される。続けてもう一発。だが、それもなんなく避けられてしまった。しかし、満身創痍のラツィオはそれを見て、さっと目を細めた。


「どうしたの」

「お前はやはり、ロンティエルだな。動きが鈍い」

「貴方に言われたくないわ」


 まるで舞踏会のように舞う少女と、見苦しく殴りかかるラツィオ、どちらも、血塗れではあるが、その勝敗は既についているように思われた。ラツィオは曲がった愛剣を掬い上げるように少女に投げる。それはまるでやけくその攻撃、されど、ラツィオは諦めてはいない。


「貴様は剣術士の動きを知らん」

「知らなくても貴方には勝てるわ」


 彼は少女が剣を払うのに合わせて、接近して、左脚を振った。その脚が鞭のように撓り、イルファンの身体を打ち据える。だが彼の蹴りは効かない。それは惜しくも、少女に止められていた。赤眼の少女の細腕小手がラツィオの鋼鉄のような脚を掴み止めている。もはや、猛禽類の如き少女の爪は、男の肉に食い込んでいた。


 だが、止められたとはいえラツィオの狙いは明らかだった。敵の駒となったイルファン=バシリアスを殺すこと。ローレンを勝たせる為には何もかもを惜しまない、とラツィオは決めたのだ。それ故に苛烈な一撃は殺意を乗せて放たれる。何も知らぬ少女をそれでも殺すという意志を。


「この子を殺したって無駄よ。それじゃあ私は死なない」

「それはどうだろうな、俺にはそうは思えん」ラツィオがせせら笑った。


 掴まれている左脚から鮮血がとめどなく溢れる。されど、ラツィオは何故か、余裕を見せて笑っていた。


「一度、ローレンが俺に呪術士の『魂乗せ』を見せてくれたことがある。あれは術者の魂を対象にすっかり乗せてしまう技だ。魂は傷つくし、本体だってただじゃ済まない」


「そんな技を私が使う訳ないでしょう」

「使う。琥珀の剣の力を『精神奪い』程度の術で抑え切れる筈がない」


 自分ですらあれ程の靈力の顕現には耐えることが出来ない、という自覚があった。ラツィオが思うに、あれはローレンの脳を焼いた大規模魔導に匹敵する力である。そのような剥き出しの力を、この女がぞんざいに扱うとは思えなかった。もし仮に、イルファン=バシリアスが死ねば、『剣子』とやらは失われてしまうだろう。力の暴発を恐れるロンティエルは、必ず自身の魂を賭けて、少女の力を掌握する。その確信がラツィオ=メインにはあった。


 だから、彼は自身の行動を決定したのだ。イルファン=バシリアスを殺すこと。それが最善手であると判断して。


「デルフォイ、お前は俺には勝てん」

「何を言っているのかしら」

「策を弄するのならば、俺を完全に殺しておくべきだった」


 やはり鈍いラツィオの打撃は少女には当たらない。一撃、二撃、三撃。どれも空を切る。


「無駄よ、そんなこと徒労だわ」


 ラツィオが毀れ出る血を、蹴りと同時に放った。彼の脚はやはり避けられるが、血までは避けられない。イルファンの視界を、赤が埋め尽くす。その瞬間、ラツィオは馬鹿正直な打撃を彼女に放った。ただの渾身の一撃、当たっても無傷な筈の一撃。されどそれを、少女は無理やり上体を反らして避けた。ラツィオがいよいよ勝ち誇った。


「力を抑えつつ、俺と闘うなんて出来る訳がない。その強大な力を用いれば話は別なんだろうが、貴様は先程から回避に徹している」


 つまり、何らかの誓約がある。とラツィオは見た。案外、あの呪力にはロンティエルの魂でも耐えられないのかもしれない。事実、女の動きそのものさえ、応接間で戦ったときよりも遥かに鈍かった。ロンティエルはその能力の殆どを溢れる力の制御に割いているのだ。だとするならば、勝機はある。


 ラツィオが力の流れをそのままに、イルファンの懐に入る。少女は、正確にはロンティエルは、その動きを知らない。それは真交流の体術であり、門外不出の業である。上級剣術士しか、それらの体術を会得することは出来ない。ラツィオが屈み、少女の片足を取って、それを掬い上げた。


 イルファンが体勢を崩して、後ろへと転がった。少女は素早く立ち上がろうとして、しかし、失敗する。ロンティエルと少女の体性感覚が完全に一致してはいない為だ。立ち上がる、という動作はそれを素早く行おうとすればする程に難しい。尻餅を付いたイルファンをラツィオが蹴る。


 しかし、蹴り技はやはり効かない。


 少女の躰から瞬間的に強大な靈力が発現して、男の片脚は再び掴まれる。されど、今度は肉をも抉るほどの力ではなかった。それに、少女はどことなく苦しそうな表情をしている。ラツィオの脚が捻じれて、手を振り解こうとする度に彼女は呻き声をあげた。その声は苛立ちや痛みなどではなく、ロンティエルの苦悶。靈力の常時発動が、彼女の魂に対して、言葉には出来ぬほどの傷を刻み込んでいた。


「やるじゃない」


 そして、遂に耐えられなくなったのか、暫くすると、少女の躰から靈力が消え失せた。ラツィオは靈気が弱ったところを見逃さず、その脚を強く振った。イルファンの肉躰が吹き飛ばされて、離れたところに落ちる。そこへ、ラツィオが片手に剣を握ったまま滑るように近付いていった。その歩速にも表情にも逡巡はなかった。


「簡単に乗るべきじゃなかったわ」ロンティエルが言った。

「存外、詰めが甘いのだな、女」


 ラツィオが言い、剣を振り上げる。薄紫の剣が振り下ろされる瞬間、女は笑った。刹那、すぅ、と少女から禍々しい気配が消えていく。まさか。ラツィオは瞬間的に覚知した。彼女は逃げたのだ。そのような可能性があることを、彼は予想しておくべきだった。イルファンの赤い目が、見る見るうちに、元の黒目に戻る。


 それと同時に彼女の躰を覆い尽くすような靈力が、再び顕れた。されど、少女の目に光が戻ることはない。虚ろな、まるで操り人形のような瞳は、しかし、ラツィオを見ていた。反射的にラツィオは剣を、自身を守るように構える。それは好判断だった。伸びる琥珀の剣がラツィオの剣を打つ。


「こんな、卑怯な」


 またか、と彼は思った。この少女は止まることをしらぬ雄牛のようだ。荒れ狂う竜巻のように、周囲を破壊する兵器、そう、この少女はまるで、ゴーレムのようだった。ロンティエルは退けたものの、状況は全く優勢ではない。ラツィオとしては、この破壊の化身と戦うよりはロンティエルの方がまだましだった。


 ラツィオの身体からこぼれる血が床を濡らす。

 その量は決して少ないとは言えない。


 この少女は満身創痍の剣と身体で戦えるような生ぬるい相手ではない。ラツィオはあらためてそう思った。幾度となく放たれる琥珀の突き、それは徐々に己の命を捉え始めていた。噴き出す鮮血の奥で、無数の刀傷が皮膚に走る。肉、筋、それら全てを断裂することを目的とした刃。靈力による揺らぎの刃は防げない。


 この琥珀の剣には、確かに刃がついていない。されど、それ以上に鋭い力を備えている。恐らく、あと数合の後に、自分の首は地に落ちるだろう。ラツィオはそう思いながら、必死で剣を捌き、捌き、捌き、捌き、捌き続けて、


 そして、遂に捌けない瞬間が来た。最高度の硬性と柔軟性を持つ皇神鋼が、折れてしまったからだ。術式鍛造の剣は、ある瞬間に突然の死を迎えてしまう。



 それが今だった。



 愛剣の刃が宙を舞い、

 ラツィオの手には僅かに柄のみ。


 その衝撃を掻い潜るように、

 折れた刃をすべて回避して、


 琥珀の少女が現れた。





「ラツィオ=メイン!」


 と、唐突に誰かがそう叫んだのが聞こえた。それは階下から上がってきた、猛烈な闘気の持主によるもの。溢れんばかりの感情と、靈力を携えて、女は再度叫んだ。


「ラツィオ! その子から離れろ!」


 ラツィオ=メインは反射的に床を蹴る。眼前の空間を琥珀の剣が通過するのが見えた。いや、見えただけではない。その剣の見えない刃はラツィオの片目を潰す。押し殺した声とともに、男が膝をついた。そこへと振り込まれる琥珀の剣身。あわや、というところで、しかしそれは弾かれる。すかさず、一人の女剣術士が滑り込んできたからだ。


 その女の髪は蒼髪。

 

 砂漠に揉まれたようなその顔立ちは、気高く、美しい。片手には無造作に握られた蒼神鋼のバルニュス。彼女の名は、無論、リアトと言った。



Δ



 遅いな、とローレンは呟き、暗い穴の淵に腰を下ろす。彼が待っていたのは、彼自身に死を運んでくる者だった。ゆうらり、と気配が穴の向こうで動くのが感じられた。闇に紛れて、濃い殺気が陰からあふれ出す。ローレンはその者を知っていた。二つの意味で。


「私を殺しにくると思ったよ」


 ローレンが声を掛けると、その声は幾重にも反響した。穴の向こうの男は、その言葉に何の反応も返さない。今の『骸』のシドニィには自我がなかったからだ。真新しい両腕をつけた男はその赤い目を光らせると、空化した。実体のない闇の塊と化した魔法術士が滑るように、ローレンに迫る。魔法の使えぬローレンは、それを待ち受けるように両手を広げ、そして黒い闇の中へと、自ら包まれていった。


 闇の中でローレンは会話する。


 誰と? 

 女とだ。その名は、ロンティエルという。


「しばらくぶりね、ローレン」

「貴方か」


 そう言いながら、彼女の同一性がもはや保たれていないことに気付いた。ローレンは目の前のラベストリがかつての老女ではない、と理解した。それ故に口調は荒々しく、刺々しさを帯びる。定められた敵に対するように。


「熱部と聞いて、私だと気付くと思っていたのに」

「十数年の月日と、死人だという先入観の所為だ」


 その闇の中ではロンティエルの姿はない。だがそれは、同時にある、ということでもあった。つまり、この女の本性が闇であるが故に。それは単なる比喩にすぎないが、今のローレンにとっては力を持たない言葉など存在はしなかった。


「貴方の目論見は、成功しそうなのか?」

「私にはまだ駒があるもの」女が言う。

「弟を駒扱いか。いい具合にぶっとんでるな」


「肉親を道具にすることはそんなに悪いことかしら」

「そうでもないさ、貴族なら誰もがやっている」

「そうでしょう」そういってロンティエルは笑う。


 しかしローレンは笑わなかった。


「だが、人形を弟呼ばわりするような奴はいないだろう」


 男を取り巻く闇が急に冷たくなった。ロンティエルの苛立ちとも怒りともつかない何かの所為だ。彼女はやはり、弟に触れられることを嫌っているようだった。


「ラクトを俺に殺された時、貴方は狂ったのだな」

「俺、だなんて、まるで『雲指』の頃のよう」

「話を逸らすか」男は口の端を歪めて嘲笑う。


「ローレン、貴方、話をしたいんじゃないの?」

「お前こそ、この俺を殺しにきたんじゃないのか」


 ローレンがぞっとするような笑みを浮かべた。今の彼は、ラツィオと二人で居る時の、素の状態に近かった。


「私には貴方が殺せないと思っているのね」

「十界なんぞは見えないが、俺はそう思っている」

「気が強いこと。それに免じて、もう少しだけ話してあげる。なんでもよ。知りたいことを、一つだけ答えてあげるわ」


 ローレンは何を尋ねるか、ほんの少しだけ迷った。この一連の流れに勝利することを考えれば、彼女の目的を聞くべきだったが、彼個人がもっとも関心を寄せていたのはイルファンだったからである。だが、しばらく悩んだ末にローレンは舌打ちをして言った。


「貴方は何をしたいのだ、この一連の騒動で」

「勿論、決まってるじゃない。熱部の復興と発展よ」

「随分と模範的な答えだな。ラベストリの生贄にする、の間違いじゃないのか」

「逆よ。生贄にされた人々を解放して、この国を壊すの」


 女の声は奇妙なほどに恍惚を感じさせた。この歓喜とは不釣り合いの暗やみに満ち満ちた場所、そこでロンティエルは、まるで演劇をしているかのように朗々と声をあげていた。彼女は明らかに陶酔していた。それはローレンにも経験があったことだから、男は淡々と言った。


「皇国への反逆ならば、あまりに無意味だ。ロンティエル」

「それでも、この復讐が私たちの使命だから」


 そう答えたとき、ロンティエルの悲哀がローレンにも流れ込んだ。その使命の重み、血塗られた命、悍ましい歴史が彼を打ちのめす。ローレンは嗚咽を上げながら、地面に倒れこむ。と、同時に二人を覆っていた色濃い闇が解けるように消えた。すると驚いたことに、そこには石のしっかりとした感触があった。剥き出しの岩肌。足元のないような黒煙ではなく、石。


「ここは何処だ、ロンティエル」

「穴の底よ。私はここを『深淵』と呼んでいるわ」

「深淵に底があるとは、ひどい冗談だな」


 辺りを見れば、そこには大量の人骨が落ちていた。いや、骨ばかりではない。そこかしこに肉が落ちている。不思議と虫は集っていないが、強烈な臭気だった。まだ真新しく、周囲には破れた布切れが幾つも落ちていた。その一つを拾い上げて、ローレンは存在情報を探った。彼には直ぐに、その服と肉の持ち主の見当がついた。


「ざっと、数十人分、それも数日以内に投げ込まれている」

「その通り」ロンティエルが言った。

「召使だな。お前は屋敷の使用人を皆殺しにでもしたのか」

「彼らは進んで、その身を投じる」


 その声がやけに近くから聞こえて、ローレンは思わず振り返った。誰もいない、いや、闇に紛れて人間の気配がある。それは禍々しく歪んだ魂。荒れ狂う呪いの魂だ。ローレンは唇を舐めてそれがやってくるのを待った。彼女が闇の中からその乾いた唇で呟いた。


「特等席を用意したの。こっちで見ましょう」


 その声は、屍体から発されているとは思えぬ程に艶めかしかった。


「ロンティエル、貴方の目的は何だ」

「やめてよ。私の名前を幾ら呼んだところで彼女は目覚めないわよ」

「ならばこう呼ぼう。我が師ラベストリ、貴方は死んだと思っていたのだが。アルベール=デルフォイの肉体を離れた貴方を何と呼ぶべきか」


 ロンティエル――正確にはラベストリの腐らない肉体が笑う。その振動でも彼女の皮膚はぴくりとも動かない。この呪術士は忌まわしい肉体の檻に閉じ込められているようだった。表情の変化が一切ない、彼女の唇が動く。もはや、ローレンにすら彼女が何者なのか正確には分からなかった。


 十五年前に終結した乾湿戦争でのラベストリはもっと落ち着いた人格だった。彼、あるいは彼女はラベストリの一族の女の身体を奪い、その精神と結びつく。だから代々、デルフォイの女はグレオン=ラベストリであり、そしてまた、その娘も何れはラベストリとなる運命だった。


 とある因縁から手を結んでしまったことで、ローレンとラベストリはその存在を強固に結びつけてしまった。それを放置しておくほど、自分も彼らも甘い呪術士ではない。ましてや、ラベストリの偽りの名は四名家のデルフォイ。彼らが存在の繋がりを利用して、策を弄するのも当然と言えた。


 彼らは何度も乾湿戦争に向かうローレンの元へと刺客を送り込んだ。その目的は言うまでもなく、ローレンを傀儡と化すことである。彼らは生きた人間を『自動人形』へと変える術を保持していた。このままでは、自分だけではなく、ノーラン皇国そのものが危うい。彼は、なんとしてもラベストリに力を握らせるわけにはいかなかった。そこでローレンは彼らに明確な敵意を見せることにした。ラクト=デルフォイ、アランドの次男である少年はその為に死んだとも言える。


「貴様の遣り口には心底、反吐が出る」

「ロンティエルは自ら私に身体を捧げたのよ」

「ラクトもランツも、アルトもそうなのか」


 それでも、とローレンは思う。見せしめとして、彼は少年を殺したし、それは彼女も意図していたことだろうと感じていた。勿論、リアトも絡む不幸な事故が起きたことは事実だが。それでもラクトが死ぬことは十界通りだったと思われた。


「それで俺を殺すのか?」

「言ったでしょう。見物よ。貴方は大事な大事な客人なのよ」

「座り心地の悪いソファーしかないようだが」


 ローレンは骨の積まれた床に腰を下ろして言った。真似をするように、そのすぐ傍にロンティエルが座る。お淑やかなその仕草はやはり屍体とは思えない。思えないが、近づかれれば妙に悪寒が走った。この世の者ではないという実感が背中を走る。彼女はローレンの耳元に口を寄せて、言った。


「本当に貴方が来るなんて」


 女の甘い声が脳髄にまで響く。それを感じて、ローレンは下唇を強く噛みしめる。ある程度の痛みが魅了への対抗手段となり得るからだ。勿論、既に幻覚にかかっていれば為す術はないが。ローレンは正面を向いたまま、平静を装って答える。


「招いた、というのは嘘か」

「いいえ。十界に無かっただけで予感はしていたわ。まさか皇貴会議を捨ててまで来るとは思わなかったけれど。貴方だって捨て身だものね」


 ロンティエルがさらに、顔をローレンに近づける。半ば覗き込むように、彼女は男の表情を伺っていた。端正なその顔立ちはローレンがかつて見たロンティエルの母のものだ。だが、その眼の奥底から覗くのは魔女の眼であった。乾湿戦争中に父ラハリオに殺されたはずの女の眼。ローレンはそれを無理やり、脳中から追い出した。余りにも強く唇を噛んだので、血が数滴ほど顎を滴る。だがそれを気にも留めず、ローレンは言った。


「捨ててはいない。皇都には何人か残してある」

「父と兄だって無策じゃないのよ」


 父と兄。やはり妙だ。この女が真にラベストリだと言うならば、言動のあちこちに生まれる綻びめいたものは何だ。魂だけの存在を標榜するラベストリとしての自我を持っているとも持っていないともつかない奇妙さ。この女が本当に熱部を支配する呪術士なのか?


 ラツィオが一目で見抜き、そうして問いに陥ったように、ロンティエルに直面したローレンもまた、女の正体に疑問を抱いた。強いのか弱いのかまるで分からぬ奇特な気配。ひょっとするとこの女はラベストリではない。と事実にそぐわぬ結論がローレンの思考を埋めていく。


「アランドとお前は敵対関係にあるはずだ」

「さぁ、それはどうかしら」


 ますます近づいた女を避ける様に、ローレンが手を払った。しかし、その手をロンティエルがはっしと掴む。意外なほどに柔らかい手。その白い手が男に伸びる。ローレンが焦りながら立ち上がろうとした。この抗えなさは紛れもなくデルフォイの女の力。だが、何かが。何かが引っかかる。


 その瞬間、女の唇がローレンに触れていた。しっとりとした感覚が思考を奪っていく。されどそれと同時にローレンは神懸かり的な直観に辿り着いた。この女がラベストリを継いだとき、どれほどの人間が周りに居たのだ? 血の呪術は個人的な来歴だけでは成り立たない。それは文化でなければならない。だが、この女は母も祖母も正当な継承者も失っているのだ。


 ローレンは認識した。


「貴様、」

「さぁ、昔みたいに躍らせて」女が言った。


 昔? 昔だと? 


 男の眼が少しずつ遠くなり、何かを思い出すように薄れる。昔など、貴様には存在しないだろう、そう思いながらも。気付けば、ローレンの唇から滴る血は止まっていた。



Δ


 美しき都はその冷えた表情の奥に醜い傷を抱えている。

 皇都エルトリアムでの騒動は、まさに表面化する直前だった。


 国属兵や騎士団がいなくなり、皇都の問題連中どもが活気づいている。表向きは、賊のいないこの街であるが、実際には多くの問題を抱えていた。その内の一つである『卑賤兵』は騎士団が抑えているものの、最も厄介な『下級剣術士』という勢力は誰にも抑えることが出来ない。彼らは何処かから流れてきた情報を知って不満と期待を募らせていた。皇都騎士団副団長であるフートは、それを聞き、眉根を寄せる。


「ローレンが逃げたと?」

「えぇ、剣術士の間でそんな噂が広がっていると」ミトルが言った。


 彼は皇都での警邏禁止を無視して、傭兵連中と既に接触していた。ミトルという男は、そのように術式陣誓約を騙すのが得意な男である。彼は自身の心と行動を分離することで、精神魔法をも破ることが出来る。


 ミトルが接触したのは、皇都の外周部に住む職なしの傭兵たちであった。蟻の街を束ねる卑賤兵の長、ラフィーと懇意である彼らは皇都の中でも卑賤兵に近い。既に卑賤兵には協力を頼んであるので、後は皇都内の彼らが動くのみだった。だが、事はそう簡単にはいかない。


「殿下がいらっしゃらない今、我々に手を貸そうとする者どもは僅かです。明らかに皇都では何かが起こっているというのに、これでは何も出来ません」


 まさしくその通りで、この状況では彼らも碌に動かない。元より、ラフィーという細い繋がりで保たれた同盟である、こちらが有効な交換条件を提示できなければ、何もしてはくれないのだ。だというのに、自分たちはここに閉じ込められて動けない。勿論、ミトルは別ではあるが、彼だけでどうにかなるとは思えなかった。


 しかし、そうは言っても、フートは状況を正確に把握していた。あの皇都乾部地域で起きた戦闘がリアトと骸のものであることは既に掴んでいたし、そこへ、リアトの兄である剣王レアーツが現れたことも知っていた。問題はそれが何を目的として行われた戦闘なのか、ということだ。皇貴会議まではもはや数時間しかないというのに、全貌が掴めない。


「ラングリアへの転言も通じません」

「仕方がない。こうなればラングリアへ出向き、事を確かめる他なかろう」

「駄目ですよ、下手をすれば殺されます」不安げに青年が言った。

「ここで座っていて死ぬよりは良いだろう」


 フートがそう言って外套を鎧の上から羽織ろうとしたとき、ようやく一本の転言がラングリアからやってきた。ミトルはそれを取るとすぐにフートに手渡した。声を聴いたらしい青年の顔は驚愕に溢れており、されど訝しげに顔を顰めている。術式板の向こうには誰がいるというのだ。フートは油断なく、転言に応じた。


「私だ」男が恐る恐る言った。

「フート=マルヴィスね。貴方に頼みがあるの」


 その声にフートは聞き覚えがあった。


「驚いた。お前、オルンドラか」フートの声が上擦る。


 彼は予想外の女の声に、警戒することも忘れて早口で捲し立てた。オルンドラ=リディアは乾部リディア家の一人娘でありると同時にローレンの傍付きである。美しく聡明、頭が切れるととかく評判であった。そんな彼女が身動きとれぬ騎士団になんの用だと言うのか。それもあの皇貴会議の前に。


「貴様の頼みを聞くのは癪だが、今はそうも言ってられん」

「その言い草からすると、貴方達も異変を感じてるようね」


 人を食ったような声色はフートが苦手とするものだった。乾湿戦争では何度か背中を合わせて戦ったこともある女だが、それらの経験はどれも彼を苦い気分にさせる。あの女と関わり合いになって得になることなど万に一つもない。だが、話さないわけにはいかないのだ。


「ラングリアのローレンから連絡がない」

「でしょうね。デルフォイが何かしているのよ」

「待て、この会話は?」警戒を滲ませてフートが言う。

「リディア家の有する呪界通信網を使ってるわ。傍受もされてないはず」


§


 人々が呪界を通じて、情報を送ろう、と考えたのは有史以前の事だった。


 そもそも、精神の状態を色濃く反映する呪界は元々の性質からして、通信向きだった。故に呪界の乱れを読んで、実界の遠方の状態を知る呪術は古来より行われていたのだ。だが、それを特定個人に向けて送ったり、送られたりすることは容易ではなかった。元より、安定していない流動的な呪界、そこでは情報も流されてしまう。


 そこで古代の呪術士や魔術士が行ったのが、通信網の構築である。これは、呪界中に、他の精神による干渉を妨げる防壁を築くものであり、数百年もの月日をかけて、それは大陸中に張り巡らされた。しかし、幾度となく起こった天獣の乱や戦争により、通信網は破損、今では一つの精神の坩堝としての役割を果たすに過ぎない。故にその最も古い形の呪界通信網は、集合的無意識と呼ばれている。


 最初の通信網の破壊後、多くの呪術士は人々に雇われて高度な通信網の再構築を謀ったといわれている。だが、その計画は残念ながら、上手くはいかなかった。技術や産業がある程度に発展したこの段階の社会に於いては、呪界通信網は、あまりにも危険な代物であった。故に、領土の拡大を試みる多くの国々はそれをむしろ破壊した。彼ら征服者にとっては、この通信網の破損は好機だったのだ。


 そして、各国の内側だけでのみ使用可能な呪界通信網が幾つも生まれ、人々はその中でだけ情報が意味を成すように、言葉の暗号化を図られた。それが国ごとに異なる言語の由来の一つである。ある意味では、その言語の差異自体が一種の防壁ですらあったのだ。


 バルニア歴に時代が移り変わると、呪界通信網もまた変化を迎えた。即ち、統一的な大帝国の出現は、通信網の全大陸的な統一を目指したのだ。二千年に及ぶバルニアの支配で、その目的は遂に果たされることはなかった。だが、彼らが研鑽を積み重ねた呪界通信技術は帝国崩壊後、小国に散らばることとなる。


 『脳子』を有する国々やバルニアの呪術士《帝国の子》はそれを活用した。今度は国家単位ではなく、個人単位で通信網が築かれるようになり、術式による転言という行為も、ひどく常識的なものとなっていった。依然として、農民や市民が術式板を持つことはなかったが、多くの街の官吏や、商人、傭兵たちは、次第にそれを使いこなすようになっていった。


§


「よし。ならローレンは何処だ?」

 

 そのフートの言葉に対して、意外にもオルンドラは正直に答えた。彼女は手短に現状を説明し、彼が熱部ボダットに向かったことを告げた。勿論ながら剣王やルハラン、そしてリアトが付いていることも添えて。フートはひどいしかめ面をしながらも、納得が言ったように術式板越しに頷いた。それからゆっくりと言葉を返した。


「何故戻らない?」

「さぁね。戻るに戻れないんでしょう。熱部を放置は出来ないでしょうし」

「だが、会議に出なければそれ以前の問題だろうに」

「良い知らせを待つしかないわ、フート=マルヴィス」


 オルンドラが言ったが、しかしフートとしても手をこまねいている訳にもいかない。誰が動かしているのかも分からないこの国の国属兵は不安すぎた。特に第三位軍管理官がルスラ=デルフォイであるということは不安材料のなかでも最大のものだった。


 どうもオルンドラの口ぶりからして、ラングリアでは異変がないようではある、されどこの街中に溢れる不穏な気配はとても尋常のものではない。明らかに自分たちはまずい流れのなかにいる。そのことを経験的に得た肌感覚でフートは感じ取っていた。そして彼の勘は外れたことがほとんどない。


「我々が動けるように手配してくれ」男が言った。

「勿論よ。エルミスタットは無理でも、メイン家くらいなら動かせる」

「当然、我々もお前の頼みは聞くからな」


 術式板の向こうで、オルンドラの笑い声が聞こえた。


「ありがとう。律儀ね」

「恐縮するよ」忌々し気にフートが答える。

「では、私からもお願いするわね」

「なんなりと」


 その瞬間、フートの背筋に奇妙な悪寒が走った。まるで魔女に呑まれているような嫌な感覚。後戻りできない領域に踏み込んだ獣狩りのような震え。本能が察知した言葉にならない脅威。しかしそのすべてを男は押しとどめた。直後にオルンドラが少しだけ言葉を溜めて、ぼそりと言った。


「デルフォイ家の次男、アルト=デルフォイが市街に潜伏しているわ。見つけたら私に連絡して。手は出さなくて良い。恐らく貴方達では太刀打ちできないから」

「じゃあ何故探させる?」それは当然の疑問だった。


「そういう流れなのよ」オルンドラはそう言って笑った。


 フートは、彼女のそういうところが嫌いだったのである。

 




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