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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
三節 熱部呪術
24/43

3-1 熱界戯心/レグルス

三節 熱部ボダット/熱波[第一部 琥珀の剣]

Δ



 恵とは己の見ゆる望みなり。見るところ見るところあるものは汝ばかり、湖面にも晴空にも雨粒の一欠けらにも他者はおらざり。指先を舐る幼子のごとく、泥を掘り返す獣たちよ。その姿に我ら自身の姿を見る。真実を内包した荒れ狂う獣の群れに、生命は至極似ている。死ぬるまで吠えよ同胞。



Δ



 それは琥珀の少女が皇都へ来たった刻よりも少し前であった。夜の獣であるクァロ=ケイン、その支配下にある闇が周囲を覆っている。しとしと、と降る彩雨の下、ラツィオ=メインは靈気を研いでいた。


 彼の表情の硬さは、何事かが彼を悩ませている事を表していた。ラツィオが隠れている高い樹木が風に揺られてざわざわと音を立てる。僅かな気配が木々に向けられたのを感じて、彼は息を止めた。風が止むのを只管待つ。数秒が過ぎ、ようやく視認の気配は消えた。


 明るい松明の光とざわめきが木々と雨音の隙間から毀れ出る。人間の話し声だと、ラツィオは直ぐに分かった。光源から身を隠すように、彼はすぐさま蹲る。あの男、アランド=デルフォイは勘が良い。万に一つ、ということも有り得た。馬上の彼が、ゆっくりと周囲を見回すのが見えた。男の歳はもう五十に近いだろう。この距離からでは顔の細かな表情までは分からない。


 まさか、気付かれたと言うのだろうか。ここで彼らに見つかれば、ローレンの立場は危うくなる。だが、ここで何もしなければローレンは間違いなく窮地に立たされる。トルリア神聖教主国が『あのような』状態である以上、湿部の混乱は必死。この先、ノーラン皇国には国内政治に眼を向ける余裕がなくなるのだ。


 そうなれば、都主たるローレンはその手腕の未熟な事を責められるだろう。皇王ラハリオが皇太子への不干渉を宣言している現状では、ローレンは勝てない。熱部の術式研究は永久にアランド=デルフォイらのものとなり、最悪の場合、中央の権力さえも彼らが握っていくことになる筈だ。


 何しろ、この国は血筋に支配されているようで実際のところはそうではない。皇国の支配者たる者に求められるのは、民を扱う力を持っているかどうか。別に頭がデルフォイに挿げ変わったところで、国体は変化しないのである。そう。既に、ノーラン家の、ハオンの末裔と言う称号は失われているのだから。


 路端の石のように、息を止めねばと思うまでもなくその瞬間は過ぎ去った。幸いにして、アランドと従者達は何事にも気付かなかったらしい。彼らは馬をそのまま進ませて、ぬかるみに静かに入っていく。ラツィオは塞ぎ込むように蹲ったまま、下方の人間達を数えた。一人、二人、三人。気配を消しているのを加えると十一人。些か多い人数だった。こんな時間に彼らは何処へ行こうと言うのか。


 ラツィオ=メインは知っている。彼らが向かう場所、そこに彼の悩みの種があるのだから。そして、その一方で彼らが出発した場所こそがラツィオの目的地であった。それはつまり、熱部の守護たるデルフォイ家の本邸である。


 侵入を行う絶好の機会が今日、訪れようとしていた。彼ら、アランド=デルフォイとその従者は今から、皇貴会議に出る。その為に、アディアラ山脈を降りて、彼らはボダットの街まで行くのだ。ある意味で最も壮麗にして最も素朴な街、グランフィア・ボダットへ。


 高貴な人間達がその人生に幕を下ろすとき、彼らは好んでこの土地へ来た。グランフィアで伝統的に行われる葬儀が、類を見ない程に独特だからだ。この土地では未だにノーラン中央部とは異なる土着信仰が根付いている。千年以上前のバルニア帝国の時代から信仰されてきた古い神々。


 それらを崇め奉る人々は、死を生への転換と考える。


 そのような死生観自体は決して珍しいものではない。エルトリアムのすかした貴族連中や商人だって、そのように考える。あらゆる死者の霊魂は、死後、肉体から抜け出て死者の国へ行く。大陸湿部で共有されているこの考え方は、非常に素朴な信仰である。近年、正確にはバルニア時代に、霊魂論には幾つかの論理的補強が為されたが、その根本にあるものは長い年月を経ても不変であった。


 ノーラン人が共有している観念では、霊魂とは骨に宿る。何故ならば、あらゆる肉体が時々によって変動するのに比べて、骨は死後もその形を変えることがない、不滅の肉体とされるからである。故に、エルトリアムで死者が葬られる時は火葬の儀が行われる。肉体だけを燃やし尽くす聖なる炎『聖炎』の魔法によって死体は焼かれ、霊魂はその炎に導かれて骨から抜け出し、死者の国へと行くのだ。


 時に、闇の天獣と同一視される夜の天獣クァロ=ケイン。その神格は『熱』の神としての権能も備えているとされる。光の天獣オラン=ハオンが『冷』と『朝』を司っているように。


 死霊とは、基本的に闇の属性、つまり『見えない』ものである。つまり、光の下で姿形が現れないということが、霊の条件なのであった。恐らくは、そこで死と闇が結びついて連想されたのであろう、その死者の国がある、と言われるのは基本的に『熱』の方角であった。


 だが、あらゆる時代を見てみても、死者の国が有意味な形で描かれたことはない。臨死体験という奴は、剣術士や魔法士ならば一度は必ず体験しているだろうが、その間の意識があったことは残念ながらラツィオにはなかった。即ち、彼は死者の国を実体験として知覚したことはないのである。それでも、彼は死者の国の存在を信じていたし、そこが不滅の楽園だと思っていた。


 トルリア神聖教主国に代表されるバレア教国家では、死は必ずしも不滅ではない。最後の日には、罪人は彼らの唯一神によって、魂を破断されてしまうからである。ラツィオにはそのような考え方は理解出来なかったし、この、ノーランでもそのような思想を持つ人物は殆どいない。だからこそ、知識人や合理主義者の商人でさえも葬儀をするのだ。死が魂の救済を意味しないならば、葬礼はどんな意味を持つのだろう。


 ラツィオは思いを馳せ乍ら、遠くへと去っていく馬を眺めやる。魔獣除けの松明の火、それがどんどん小さくなっていった。彼に、彼らを害する意思はなかった。今のラツィオの目的はアランドを殺すことでも、皇貴会議への出席を阻止する事でもないのだ。


 目的はただ一つ。

 術式兵器群の奪取である。



§



 しばしば問題となるのが、大陸人の呪界概念と霊魂論の擦り合わせである。彼らは第四界から『靈気』なる超常の力を引き出して、呪界を知覚出来た。にも拘わらず、彼らは霊魂を呪界に於ける、狭義の既存在的非実体とは考えない。むしろ、霊魂は当人の人格そのものであり、実体にあると考えられた。


 ありとあらゆる不可視の存在が『呪』として、第二界に追いやられたと言うのに、霊魂(当然、不可視である筈)だけが何故、極めて実体に近い存在だと考えられたのか。


 実際、大陸人の中には、霊魂を呪的性質を持つ物体だと考える者も居た。つまりそういった者は術式士や魔法士といった、理によって考える人々なのだが、彼らによれば、霊魂とは実界の脳が生み出すもの、呪界における精神実体である。言い方を変えれば、霊魂とは神秘的な物を含まない理的な物質であるということだ。理的な物質とはその名の通り、理によって解される物全てを指す。


 だが、このような霊魂認識は極めて特殊なものである。一般人、それもノーラン熱部の人間は霊魂を物質とは見做さない。彼らは霊魂を、魂の記憶めいた何か、あるいは魂の名残と考える。恐らくはそれが、霊魂が実体とされる所以なのだろう。熱部の人間にとって、霊魂は人格性を持つもう一人の自己なのだ。彼らは時折「邪悪な霊魂がうずく」という言い回しをする。その時、問題にされる霊魂は当人と全く切り離された別の存在である。つまり別の人格を持ちながら、身体を共有する他人のような存在。


 だがそれでも、霊魂は(矛盾するようだが)自分自身そのものであり、自らが死して、死者の場所へと向かう際には同じ人格を有するのである。但し、この霊魂とは魂と異なり、死者の国に於いて、混沌の死を是認する。魂が死をも超越した概念であるのに対して、霊魂はある意味で死するのである。

 

 故に霊魂の有する人格も、いずれは消耗されて消滅してしまう。即ち、生の根源たる魂だけが生命を輪廻し、永遠に生きるのだ。彼らにとっての霊魂とは位格の一つに過ぎないのかもしれない。


 ここで一言、注意を挟んでおくとするならば、魂と霊魂は大陸に於いては同一の対象を意味しないということだろう。彼らにおいては、魂は観念的な(ある意味で精神的な)非実体であった。呪体というよりはむしろ、第三界『形界』で規定される関係性に近い何か。


 それが大陸人の言う魂なのである。


 即ち、魂が純粋に形界的な何がしかであるのに対して、霊魂は比較的まだ、実体に近い物として捉えられる。これは一部の地方では幽霊とも呼称される。幽霊は霊体という『形』を備える存在であり、基本的には帰属する生体の意思を反映しながら、時に、霊魂固有の意思を有して彷徨う存在だとされる。


 余談だが、当然ながら霊魂や幽霊は、『精霊』とは別の存在である。『精霊』は呪界にその霊体を持つ、既存在的非実体であり、彼らは術式士にも魔法士にも、その刻示的な存在性格を認められている。



§



 高木からするすると滑り下りて、ラツィオは足跡を指でなぞった。湿気った地面にはデルフォイらの馬、その足跡が深く残っている。不審な点がないことを確認して、ラツィオはそれを逆に辿る。即ち、彼らが歩いてきた道のりを遡るのだ。


 辺りは真っ暗闇。


 付近に生息する魔獣に気取られぬ為にも靈気は使えない。肉の内に留める事も出来たが、ラツィオはそれをしなかった。些細な靈気さえも感じ取る様な魔獣は少なくないのだ。特に、このボダット最深部には上級魔獣も存在する。彼らなら、靈気の微かな匂いすら感知してしまうだろう。視覚を発達させた人間には到底出来ぬ探知方法だが、それ故に、熟達した戦錬士でも匂いを消す事は難しい。


 デルフォイ連中のようにレシードルの松明を使えたら良いのだが、とラツィオは思う。この雨の中では普通に火を付ければ消えてしまう。恐らく、彼らは何らかの魔法で火を守っていたのだろう。


 ぬかるみに足を沈めながら、ラツィオは気配を断つ。気配を消すということは、可能な限りで靈気を送還するということ。雨が彼の皮膚を濡らしてその体温を奪っていく。神話に反して、この夜はやけに冷たかった。


 悠長なことをしている時間はない。ローレン=ノーランからの転言は彼に焦りと驚きを齎した。だが、だからといって、彼の為すべき事が変わる訳ではない。ラツィオの任務は、友人であるローレンを援ける事である。それには彼の祖父であるエリィン=メインや皇王の思惑は関係ない。


 彼らが何を目的に、自分をローレンの傍に付けたのかは分からなかったが、ラツィオは唯一、ローレンの為に働くつもりだったし、事実そうしていた。


 足跡は流れる泥の中へ、次第に埋もれていく。流動的な其れを、ラツィオは見逃さぬように追った。デルフォイの本邸、そこに辿り着くのは容易ではない。視界を遮る、こんな雨の降る、陰気な真夜中だ。隠蔽結界術式陣に隠された家を見つけることは不可能。何重にも隠された彼らの家には、招かれなければ入れない。まぁ、貴族の家と言えば、何処もそうであるのだが。


 ラツィオ=メインは取り敢えず、上を見上げる。


 雨と雲に半ば隠されながら、黒く染まった虹が視えた。あの虹の遠くの端、そこにデルフォイの家があるらしい。そんな他愛もない噂をここ数日間の調査で彼は聞いていた。これが何処まで本当か、そんな事は勿論分からないし、仮に事実でも巨大な虹の端などあまりにあやふやな目印だ。それでも、方角を知る一助にはなるだろう。


 隠されたデルフォイ邸に侵入するのは今が最良なのだ。あの、アランドが本邸を留守にするこの日だけ。その時にしか、ラツィオが事を行う為の機会はない。アランドの子供たちも、男は皆、皇都に居る筈だった。リィアド=デルフォイの為した裏切りの代償である。彼の兄、アランドの息子は皆、皇都に軟禁された。皇王ラハリオが恩赦を与えるまでは、彼らは腫物扱いされていた。いや、今でも本当は誰もが彼らを蔑み、憎んでいるのだろう。


 ランツが術式士としてそこそこの能力を発揮したり、『覚視』アルト=デルフォイが剣王傍付きになったとしても、彼らが国の表舞台で正当に評価されることは極めて少ない。ラツィオはそれを不遇だと思っていたし、少なからず同情していた。一族の内の誰かが罪を犯すと、その一族全体が偏見の眼で見られる。そのような、下らない貴族的社交態度はうんざりだった。


 能力のある者が評価されて、無い者が貶められることこそが正義。そう、ラツィオ=メインは思っていた。もっとも、自分のよく知らない間に、デルフォイは表舞台に出てきたそうだった。ローレンの話を疑うつもりはないが、中央の情勢はやはりよく分からない。術式兵器と言えども、『飛浮機』で本当に勢力図が書き換えられるのだろうか。竜の船ならばまだしも、あれ程小さな兵器が政局を変えるとは、やはり思えない。

 

 アランド=デルフォイが何の策も講じずに術式兵器を持参したなら、多くの敵対貴族が、デルフォイ家の、トルリア国との内通を騒ぎ立てるだろう。だが半年前、あの『鹵獲された』兵器の飛行実験には、殆どの貴族が賛成した。


 あの時点から、既にアランド=デルフォイは動いていたのだ。

 そして、恐らくは主であるローレン=ノーランも。


 だからこその切り札。両刃の剣。デルフォイとの相打ちを誘発する一手。ローレンにそれを使わせるつもりは無かった。あれは貴族のみならず、エルミスタットまでも敵に回してしまう。彼が都主を降ろされ、さらに幽閉されるのは望まない展開だ。この世に運命があるのなら、それは回避したい運命なのである。十界法則の動きは視えない。だから、自分は推測せねばならない。そして、最善の行動を採らねばならない。


 気付けば、雨は止んでいた。


 駆け足で泥の山を登る。徐々に足跡が浅くなっているのを感じて、ラツィオは僅かに焦った。暫く登ったところで、彼は完全に馬の蹄鉄の痕を見失ったことを理解した。ほんの僅かに溜まった雨水が、足跡をぐちゃぐちゃに乱している。そしてまた、山の上方から流れてきた泥水が地面を均していた。ラツィオは仕方なく、靈気を眼に集中させ、呪界を探った。


 魔獣に見つかる可能性は高くなるが、あまり時間もかけられない。周囲を一通り見回す。だが、痕跡はもはや何処にも見当たらなかった。


 しくじった。

 ラツィオは思った。


 だがその時、空が一筋の光に照らされた。天獣オラン=ハオンの齎す朝光、ハオニアである。神話によれば、この最初の光はハオンの眼なのだという。天獣の眼は世界全体を遍く視認し、光を与える。それはつまり、闇を駆逐するということだ。


 隙間という隙間に光の粒子めいた幻想が入り込み、内側から木々や物物を照らし上げていく。凄まじい速さで天の夜色が失われて、混濁した灰の色を残すことなく、朝が訪れた。万物を満たす靈力の朝が。


 それに被せるようにして、ボダット中に轟音が響き渡る。


 この小都市群に特有の、葬礼。天高く打ち上げられた花火は朝日よりも眩い。未だ暗闇の残る地の端々を焼き尽くすように、その強烈な閃光じみた白光は世界を奔った。


 その白光は厳密には光ではない。実界には白光という形で現れるが、正確にはそれは呪だ。呪界に於いて行使される呪術の一つ、それは魔法。誰かによって∫聖爆《アギオス/エクリクス》と名付けられた其れ、天士が造りし二十四の基礎魔法と二十四の属性の融合である魔術。それが天空に於いて、美しく弾けて、散らばった。


 『朝の訪れ』と呼ばれる、長大なボダット葬送儀式の一つ。輝く聖の魔法は視えない世界にも放射される。大量の魔化源素が中空を飛び、ラツィオをも通り抜けた。思わず、激しい光から目を逸らす。すると、背面で思わぬものが見えた。


 呪界に映る、ほんの僅かだが不自然な輝き。空間に弾かれたかのような反射光。間違いなく、其れは魔素が結界に衝突したことを示していた。


 ラツィオ=メインはしゃがみ込み、辺りの呪界を探る。相当に集中せねば気付かぬ程の空間の綻びが途切れた足跡の先に続いているのが視えた。ここにデルフォイの隠蔽結界術式陣があったのだ。通りで足跡が消えている訳だった。


 これで、秘匿された技術を手に入れる目途がついた、と期せずして、訪れた幸運にラツィオは喜ぶ。だが無論、この結界を破り、敵陣に侵入することには変わりはない。そういう意味では、この発見は彼にとって不運でもあった。ラツィオはデルフォイの邸宅を発見した事で帰り道を失った。もはや彼は、『飛竜船』を手に入れるしかないのである。


 ラツィオが結界をもう少し調べようとした時、背後で、がさり、と音がした。振り返れば、草葉の陰から小さな角兎がこちらを覗いていた。眼の色は綺麗な赤色で、呪界に於いて、爛々と輝いている。ラツィオは一瞬、ぞくりとした。気味の悪い兎だった。この辺りに生息する魔獣には毒を持つものも多いと聞く。


 長居は禁物。この兎は自分の靈気の匂いを嗅いだのだろう。そう、ラツィオは判断して、素早く、力を第四界に送還した。彼はすくりと立ち上がると、ぬかるみに足が沈み込まぬよう注意しながら、未だ溢れ続けているオラン=ハオンから逃れる様に、その場を去った。小さな兎は、その血のような眼で以って、彼の背中を見つめていた。


 そうして暫く後。

 角兎はぴょこぴょこと走り去った。

 結界の向こう側、デルフォイ家の邸宅の方へと。


 ラツィオ=メインは木の陰に停めていた馬に跨ると、その腹を蹴る。彼が目指しているのは、グランフィアから少し離れた小都市だった。今の彼が拠点としている街、そこはエビリシア・ボダット。豚や牛などの家畜を呪術繁殖させている、巨大な農村である。

 

 馬の脚が泥沼に沈み込みそうになるが、ラツィオは手綱を上手く取った。ここ数日で、彼は泥道の走り方を学んでいたからだ。先程、雨が降ったばかりの地面はぐちゃぐちゃであるが、それもすぐに大量の羊歯植物たちが覆い隠すのだろう。そんな事を思いながら、ラツィオ=メインは小道を走った。




 半刻ほどで、エビリシアへ到着した彼は馬を小屋に繋ぐ。風のような速度でラツィオは小都市に入ったのであるが、村落都市の住民は、彼を一瞥しただけであった。彼らはラツィオのような剣術士を、見慣れているのである。馬小屋の男もさしたる反応もなく、飼葉を積んでいく。


 この小屋は、彼が泊まっている宿屋の所有物であった。ラツィオは馬の首筋を撫でて彼を宥めると、宿屋に入った。如何にも農村といった風なエビリシアに宿屋は一つしかない。それがここであるから、広間には多くの傭兵が居た。


 彼らは、ボダットに潜む上級位の魔獣を狩る為にここにいる。グランフィアにはレシードルの柵があるから心配はないが、エビリシアなどの農村系小都市には、そうはいかない。強力な傭兵を雇って、彼らに魔獣を討伐してもらうしかないのだ。


 昔はここにもレシードルが生い茂っていて、魔獣も少なかったらしいが、乾湿戦争に伴う魔獣の生息域の変化と魔獣病の流行によって、エビリシア周辺域にも苛烈な魔獣が増えたそうだ。レシードルの木も需要が高まったことで、乱獲されてしまった。


 かつては平和な地だったボダットも、今では危険な辺境である。安全なのは金持ちの住まうグランフィアくらいであるのだろうか。ここに配備されているはずの国属兵は、砦や街道の警備に集中していた。これはどうも、デルフォイの意向が多分にあるようなのだが、彼らは積極的に、ボダットの小都市を防衛しようとはしなかったのだ。皇王の権威はどうやら、ここまでは届いていないらしい。


 聞き知っていた状況とは全く異なる現状に、ラツィオは最初、驚いた。だが考えても見れば、それは当たり前のことなのだ。元々、ボダットに国属兵が配備されたのは、デルフォイを警戒しての事。そのデルフォイが皇都で一定の権力を握っている今、国も迂闊に手は出せない。


 国属兵を配備できない、というよりも、彼らは配備されていないのだろう。中央特有の政治的な駆け引きがそこにあるように、ラツィオには思われた。


 ここは中央から離れていると言うのに難儀なことだ。そう考えながら、ラツィオは傭兵達の間を歩いていく。何人かの傭兵連中は、彼の姿と靈気に打たれて慄いていた。自然に道が開いていく光景は、まるで神話の英雄のようだ。


 ある意味では上級剣士はまさに英雄であった。乾湿戦争と言う、忌まわしい神話によって語られる勇者。故に傭兵がラツィオを見る眼には羨望があった。強さとは視る者が視ればすぐに分かるものだ。隠すことは出来ない。


「レグルス」


 そうしてラツィオが声をかけた先には、壮年の男が居た。彼は優雅に机に足を乗せて、朝から酒を飲んでいた。この地域で愛飲される黒麦酒の最高級品である。茶色い泡を顔につけた男は、直ぐにラツィオに気付いた。


 彼は礼儀だとばかりに足を地面に降ろすと、こちらに向き直る。その男の周りには、何故か、一人の傭兵もいない。まるで蟻が人を避ける様に彼は疎外されていた。


「あんた、朝まで何処に行ってたんだ」


 近づいて来たラツィオに向かって、男が言った。彼は第四都市ベーロで、ローレンが手配した案内人である。この男との付き合いはほんの数日だが、ラツィオは彼に心を許していた。というのも、グランフィアを追い出されたラツィオを村へと連れて行き、宿屋まで手配してくれたのは彼だったからだ。男の名前は、レグルス。元傭兵であった。


 彼はかつて、トルポール共和国を拠点としていた傭兵だったらしい。されど、乾湿戦争後の国々のごたごたに巻き込まれて職を失った。傭兵組合は、融通の利かない、非常に機械的な組織である。上層部によって名前を消されてしまえばもう働けない。


 レグルスはそんな経緯で、数年前にノーランへ移住したのだという。彼はお金だけは溢れるほどに持っていたから、余生をのんびりと過ごす為にグランフィアへ来たのだそうだ。だが、グランフィア・ボダットは極めて排他的な都市である。レグルスは都市の空気に馴染むことが出来ずに、近くの別の都市に住んだ。今では第四都市ベーロとボダットを行き来して、金を稼いでいるそうだ。彼はそれなりに名うての傭兵であったらしく、時には魔獣も狩るらしい。ボダット周辺部に棲む魔獣は高級位の物が多いので、相当な腕だと思われた。


 ラツィオ=メインでも、この辺りで単身狩猟をしようとは思わない。毒持ちのグルエルリルや、パーンリアなどの猛獣が恐ろしいからだ。


「高台から『朝の訪れ』を見ようと思ったんだ」

「金の無駄遣いも良い処の花火だろう」


 ラツィオの言葉にレグルスが返した。彼が何を言いたいかは分かっていた。レグルスはグランフィアを半ば追い出された身、言葉には出さなくとも感情には落としがたいものがあるに違いない。


 それに実際、あの花火は葬礼に相応しいものだとは思えなかった。死んだ人間の、骨の粉末を高空で破裂させるという儀式は理解しがたい。魂の宿る其れを粉々にすることで、彼らは何をしたいのだろうか。エルトリアム人であるラツィオ=メインには其れが分からなかった。


 曰く、人間の霊魂は聖属魔法に後押しされて、ハオニアと共に冥界に行くらしい。ハオニアは死者の国までは照らしはしないと、そう、神話にあると言うのに。


「まぁ、美しくはあった」


 ラツィオが言うと、レグルスは不味そうに酒を一口飲んだ。彼はいつも、不愉快であるという風な顰め面をして酒を飲む。仮令、人生で最も楽しい瞬間でも彼は笑わないのではないだろうか。


「美しいものなぞ、其処ら中にあるだろう。態々、死を冒涜する必要などない。それに第一、生きていることに勝る美しさなどないんじゃないか」

「レグルス、あんたもよく分からない男だな。そんなにグランフィアが嫌いなら、何故、あの街に住もうとしたんだ。静寂の街がどういう処か、あんたなら知っていただろう」


「俺が望んだのは別に街ってわけじゃないんだ」


 彼が何を言いたいのかは、よく分からない。だが、レグルスにはレグルスなりの行動原理があるのだろう。分からない、というのは思考の諦めである気がするから、ラツィオは幼少時代、あまり好きな言葉ではなかった。だが歳を重ねると、分からないことが増えてくるものだ。もう、取り返しがつかない程に。


「まぁ、飲めよ」


 彼に勧められて、ラツィオも黒麦酒を口に含んだ。舌を削り取りたくなる苦みの後に、僅かな甘み。ふわりと香る麦の風味が、長く鼻腔に残った。この酒もボダットで作られた物だったはずだった。高い湿度の中でも育つ特殊な麦なのだろう。どんなものも環境に適応せねば生きては行けない。


 ふと、ローレンの事を思い出す。彼は確かに諦めない男である。だが、その不屈さは必ずしも美徳ではないのかもしれない。何処かで、人間は自分よりも大なるものに屈さねばならないのではないか。いつまでも逆らい続けようとすれば、それはもう。行きつく先は袋小路か、あるいは敵の罠中に落ちているということも有り得る。


 いや、そんな事を思うのには、実のところ理由があった。


 朝方、暗闇に紛れるアランド=デルフォイの姿を見たからだ。何者も敵ではないと言わんばかりの圧倒的な存在感。何事も見透かしているのではないかと思える強い目。ローレンは本当にあの男に勝てるのだろうか。彼の切り札――とは名ばかりの袋小路――と現物、それらがあってもアランドに勝てるかは怪しい。ラツィオは、そう思ってしまったのだ。


 彼の力になりたいと思いつつ、ラツィオは踏み出せない。今朝、本当に自分は万全を期して引き返したのだろうか。自分の深層心理で、敵陣へ踏み込むことの恐怖が勝ったのではないか。もはや、時間はほとんど無いというのに、ラツィオは迷っていた。そんな彼を見て、レグルスが言った。


「あんたまで不味そうに飲まないでくれ」

「自分が何をすべきか、正直なところ分からなくて」

「ボダットの旧き神々ならば、人間など川を流れる小枝に過ぎないと言うんだがなぁ」


 何の気休めにもならないレグルスの言葉を聞いて、ラツィオ=メインは静かにため息を吐いた。それを見て、レグルスが話を変えるように、彼に言う。


「グランフィアが騒がしいようだな」


 ラツィオはその質問の意図が見えずに、困惑した。それに正直なところ、グランフィアの様子にまで気を払っていなかった。あの街が騒々しいところなど想像し難いが、果たしてどうだったろうか。レグルスは考え込むラツィオを見て、さらに言う。


「デルフォイの御子息がお帰りになったらしい」


 デルフォイの子息。つまり、彼の三人の息子のことだ。ラツィオは面食らった。これでは計画が台無しだった。折角、アランドがいない時期を見計らったのに。息子といっても一体どいつが帰ってくるのか。それによって対応が変わってくる。ラツィオは俄かに活気づいた。


「何番目が帰ってくるんだ?」

「四番目。ランツ=デルフォイだと」


 ランツ、と聞いた時、ラツィオは目に見えて喜んでいた。それもその筈、デルフォイの息子の中でも彼は唯一、敵ではないからだ。長男のルスラ=デルフォイは明確にローレンの敵であるし、次男のアルトは剣術に全てを捧げている、ある意味で狂人だった。


 だが、ランツ=デルフォイには術式以外に秀でた所はない。ローレンと同じく、術式を愛する彼はローレンを好敵手としている。されど、だからといって、彼が敵対者に数えられる訳でもないし、それに何より、彼と戦闘するとしてもラツィオは必ず勝てるのだ。まさにその意味で、あの青年は敵ではないのだった。


 恐ろしさで言えば、むしろロンティエルの方が怖い。ラベストリから呪術の手ほどきを受けたというかの女には、何を仕出かすか分からぬという怖さがある。


「知り合いか」レグルスが眉根を寄せる。

「話を聞いたことがあるという程度だよ」


 ラツィオはそう嘯いた。レグルスは胡散臭そうな物を見る目をしたが、それ以上に深くは突っ込んで来なかった。



 時刻はもうすぐ九時というところだった。レグルスが酔い潰れたのでラツィオは二階の宿に戻る。彼はすぐに靈気を起こして酔いを醒ました。流石に酒の入ったままで事を為す訳にはいかない。


 正面からデルフォイの家に入って、勝てるのか。そのような問い掛けを自身にすることは無かった。何故なら、ラツィオ=メインは強いからだ。乾湿戦争に於いて、数多の剣術士や魔法士を屠った男。若干、十七歳にして彼は前線へ志願した。その上で、戦争を生き残ったのだ。


 だから、怖いのはデルフォイの家の武力ではない。そうではなく、恐怖とはいつも見えないもの。視覚や現在という実体として現れない幻、まさに未来や流れという非実体が怖いのだった。その具象化された物がアランド=デルフォイなのだった。


 ラツィオは気持ちを引き締める為に、剣舞を行う事にした。何かしら重大な決め事をする時に、剣術士は刀剣で舞うものだった。剣の鋭い刃が進みたい方向へと自らの身体を合わせるのだ。剣を握っているという空想で彼は腕を振った。精神が研ぎ澄まされていくのを感じる。ラツィオは広いとは言えない部屋の中で、舞った。その時だけは確かに、自分には何だって成し遂げられるという気がした。



Δ



 赤目の兎が軽やかに飛び跳ねながら、女の手から去る。ロンティエルはそれを見ながら思った。あらゆるお膳立てが、いよいよ終わりつつある、と。


 イルファン=バシリアスは既に捕えられた。ラツィオ=メインもようやく、デルフォイ家の位置を特定した。もはや、足りないのは剣王とリアトの二つの駒だけ。そして、剣王は必ずやってくると彼女は確信していた。その為に、愚弟アルトが皇都で剣を抜くのだ。彼はその為にリアトと斬り結び、彼女を戦闘不能にする。後は『骸』が、琥珀の剣とリアトをここまで飛ばすだけ。そうなれば『骸』のシドニィは用済みだった。


 無駄な駒は盤上から落としていかねばならない。ここが正念場、不確定要素は入れたくなかった。この美しい舞台は純潔のままで行われるべきなのだ。下らない憎しみや、恨みなどを消し去って。


 美しさ、それこそがロンティエルの優位であり、その為に彼女は熱部の山奥から要所要所に一手を打つ。事象が綺麗に重なり合う最高地点に彼らを誘導する。それが、イルファンを巡る呪術を起動させる条件だ。琥珀の少女の内側を今、世界に開示しなければならない。


 怨嗟の魔術師『呪氏』と琥珀の剣士『剣獣』の遺物。彼女こそが、ロンティエルの目指す力の完成体。小さな角を生やした使い魔は、小窓をするりと抜けていく。入れ替わりに窓から飛び込んだのは蒼い鳥だった。


 野生の蒼色鶯。迷い込んだ彼は素早く羽ばたく。室内に仕掛けられた幾つもの術式陣を意にも介さない。綿密に張られた糸を自然に避けること、それもまた美しい。だが、それがまるで緻密な計画の隙間を何かが通り抜ける暗示、そんな風に思えて、ロンティエルは嫌な気持ちになった。


 彼女が手振りで命じると、すぐに魔導人形の一体が鳥を殺した。空で頭が弾け飛んだ鶯、その胴体はふらふらと床に落ちる。しかしロンティエルが死体を一撫ですると、彼はまた羽ばたくのだ。虚ろな胴体はその血染めの羽をもがくように動かす。頭のない鳥は制御を取り辛そうに揺れ惑いながら、窓から出ていった。その光景は、一種、詩的な美しさを備えていたので、女は嘆息した。




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