2-6 木偶人形/ランツ
Δ
腹立たしいくらいの往来でふと、顔を上げれば、目の前に男が立っていた。くすんだ灰色のローブにはこげ茶色の染みが点々と付いている。通り過ぎる市民は誰も彼に気付かないように、一瞥もくれずに男の傍を過ぎて行く。それはまるで、見えていないものを避けるかのような、奇妙に違和感のある動作だった。
「何の用なの?」
問いかけに返答はない。
男はただ死人のように突っ立っている。
そうだ。まさしく、この人には生命力を感じない。靈力のわずかな名残りすら感じ取れない。だから、皆はこの人を避けていくのだとイルファンは思った。自分が並外れた戦錬士でなければ、近くにいても分からなかったに違いない。この男の気断ちは異常で、まるで人間とは思えない。彼は一体、何者なのだろうか。
その顔には無精ひげが生えていて、落ち窪んだ眼窩はまるで骸骨。生気を感じさせない彼は、虚ろな目で以ってイルファンを見続けている。特異な風貌でありながら、少女は男になんの個性も感じなかった。ラフィーのように顔の造作すら忘れてしまいそうな予感がした。だが彼と違って、好きにはなれそうにない。
ひやりと悪寒が走る。
「イルファン」
唐突に名を呼ばれて、イルファンは恐怖した。この男は名前を知っている。知り合いか、あるいは敵。正確には判断できないにも拘らず、イルファンは反射的にこの男を敵だと見なしていた。リアトならともかく自分が恨みを買うはずはない。はずはないが、現に幽鬼のような男に名を知られている。
「厄介事はごめんだわ」
イルファンは素早く剣を抜き、構えた。
目の前の男は蝋人形の如く、立ったままで微動だにしない。耳を澄ましても、その呼気すらも聞こえないのではないか、と思った。ここまで何もしないということは、もしや敵ではなくて、ただの変な人なのかもしれない。
「あの、さっきから何なのよ」少女が問う。
「お前がイルファンだな。見定める材料は足りていないが仕方あるまい」
「私は確かにそうだけど、それが一体なに?」
とその瞬間、男がぞっとするほどの速さでイルファンの肩に触れた。
来ると思った時には遅かった。
目の前が闇に埋もれる。
「なに、ほんの少しの辛抱だ」男が言った。
瞬間的にイルファンは黒い靄のような物に包まれていた。今までに感じたことのない程の、不快なぬくもりとくらやみ。それらが鼻腔を突き抜けて、体内に入ってきたのを感じた。窒息死、そんな言葉が頭をよぎるが、身体は動かなかった。
Δ
暗闇の中に琥珀が浮かび上がる。
攫われた少女はただ一人、取り残されていた。
イルファンが目覚めた時、最初に感じたのは冷気だった。ここはあまりにも冷たい。リアトに貰った一枚と下布では到底凌げないような寒さだった。少女はすぐさま下腹部に力を入れて闘気を身に纏うが、まるで何かに阻害されているかのように力は形にならなかった。
なんなんだろうこれ、とイルファンは思う。そもそも何で自分はこんなところに置き去りにされているのか。この場所は無駄に寒いし、残っている記憶と言えばあの変な男だけ。骸骨みたいな薄気味の悪い魔法士。あれは闇属の者だろうかと考えを巡らせるも下手な考え休むに似たり、答えなど一つに決めることはできなかった。
ふー。
仕方なくイルファンは一息吐いて、辺りを見回す。と言っても真っ暗なのでほとんど何も見えやしなかった。少女は灯りを探すために身体を捩ろうとして、それがどうしても出来ないことに気付いた。腕が動かないのだ。
やけに冷たい鉄の感触からして、どうやら拘束具を嵌められているらしい。それを外すのはどうにも無理そうだった。あぁ後ろ手で拘束されている時はどうするんだったかな。イルファンは記憶を辿りながら真交流『裏剣』の要領で関節を外すと、動かない両手をそのまま自分のお腹の前まで持ってきた。
これで良し。少女はにこりと笑みを浮かべる。壊せそうには無いから取り敢えず放置しておくのだ。それよりも先ずは状況把握。それから武器がいる。背負っていたバルニュスは何処にも転がっていないので、イルファンはとりあえず出口を探すことにした。
ここはそれほど広い部屋ではない。むしろどちらかというと狭い場所であり、リアトと宿泊した隠れ家と同じくらいの大きさだろう。床には滑らかな石が敷かれており、特に臭いも感じられない。凍えそうな指先の感覚だけを頼りに扉を探すと、ほんの数分で目当てのものを見つけられた。把手もある。どうやら自分を捕まえた奴は真剣に捕えるつもりがないらしい、思うにここは物置か何かで、そこに適当に突っ込んだだけなのだろう。
んぐ。しかし、力を込めるも扉は開かなかった。思いのほか重い、鉄の扉のようだった。流石に鍵はかけられているらしく、開けることは出来ない。だがここで諦めるイルファンではなかった。すぐさま彼女は第二界を視て、なんらかの痕跡が残っていないかを調べる。そこでようやく、イルファンはこの部屋に結界術式が張られていることに気付いた。これではどんな抜け穴を見つけても靈力が無ければ出られない。
「寒いし出られないし最悪じゃん」
イルファンは悪態を吐いて、思い切り壁を蹴った。こーん。音が僅かに反響する。それほど厚い壁ではないのか。それとも何か抜け穴のようなものがあるのか。イルファンは壁を蹴って蹴って、蹴り続けた。いずれはこれが破れるかもしれないと信じて。
そうこうしている間に疲れ果てて少女は眠ってしまった。
Δ
次に少女が目覚めた時、そこには一人の男が居た。
部屋が目を焼くほどに明るかったために彼女は思わず目を背ける。反射的に眼を閉じた所為で周囲の状況は殆ど掴めなかった。だが男の顔ははっきりと見えた。驚くべきことにイルファンは彼を知っていた。なにせ今までに何度となく一緒に修行をしたことがあったからだ。
男はランツ=デルフォイだった。
ふらりと山の道場に現れて、そして皇都の話をしてくれる男。リアトは彼をあしらっていたがイルファンはそれなりに慕っていた。どうして彼がここに居るのだろう。あの骸骨野郎の仲間だということなのだろうかと少女が訝しく思ったとき、ランツが少し動いた音がした。
イルファンは反射的に構えた。闘気を全身に流しながら、あらゆる攻撃に備えて両手を構える。その瞬間に少女は眉根をさらに寄せた。手が動く。闘気も使える。変だなと少女は思った。彼が敵だとしたら拘束を解く理由なんて無いはずだった。
「怖がらせてしまったな。イルファン」ランツの声がする。
「いや、なんでランツが居るのかなって」イルファンが言った。
青年は申し訳なさそうに言った。
「君を捕えたのが僕の兄だからだ」
それを聞いてイルファンは考える。兄とはだれか。デルフォイ家には男の子が三人居るはずだった。長男と次男と四男で三男は処刑されたと記憶していた。くわえて、長男はかなりの地位に付いている人物だった。そんな人が自分のような子どもをわざわざ捕まえるとは思えない。だとしたら、兄というのは次男のことだ。覚えている限りでは、真交流の上級剣士である男のはずだ。
「兄って次男の……」イルファンが問う。
「それは言えないけれど、僕が直ぐに君を解放する」
解放という言葉からしてやっぱり自分は捕えられているらしい。だが理由が言えないとは一体どういうことなのか。昔、傭兵に琥珀髪について言及された事はあったけれど、それが原因だったりするんだろうか。奴隷的な何かとか。
奴隷。イルファンにとっては気分が少し陰鬱になる話だった。乾部では未だに孤児の売買が行われていると聞く。自分は運よくリアトに助けられたけれど、何かが違えば奴隷になっていた可能性もあったのだ。そちらへと売り飛ばされるのは流石に勘弁願いたいと彼女は思った。とりあえずは脱出。ここから脱出すべきだと彼女は思った。だとすればなんとかランツと交渉しないといけない。
イルファンは少しずつ目を開けてそのことを言った。いや、正確には言おうとしたというべきか。実際に少女の口から出たのは甲高い悲鳴と怒声だったのだから。少女は目を開いて自分の身体を見るやいなや立ち上がって拳を握った。
「うそっ、ありえないっ……この、ど変態っ」
イルファンの右拳に靈力が集まりはじめ、すぐさま靈気の鎧を形作る。靈気術で強化された肉体はかちかちに凍らせた牛肉の塊のようになるのだ。そのまま勢いよく伸びた拳はランツの顔面に吸い込まれて、ランツはその瞬間に慌てて弁解したがもう遅かった。
「待ってくれ! 僕はちゃんと目を閉じているがぁああ!」
顔を横に半回転させながらランツが吹き飛んでいく。赤面したままで青年を殴り飛ばした少女は、その身体にたった一つの服も纏っていなかった。それでは彼女が怒るのも無理はなかった。ランツはなんとか立ち上がると目を閉じながら部屋の隅に置かれた袋から服を取り出した。
「これ」
「遅いのよ」少女が言った。
一呼吸吐いて、イルファンは既に用意された服を着ていた。はしたないものが全て隠されたために上品な装いである。両端を前でゆるく合わせる布製の服、そのうえに前掛けや羽織をかけていく。これは熱部の伝統的な民族衣装であるらしい。リアトに貰ったお古の服がなくなったことはそれなりに悲しく思ったが、これはこれで悪くはなかった。ランツは殴られた頬を擦りながら言う。
「僕が脱がせたんじゃないよ」
「その言い訳、気持ち悪い」イルファンが即座に返す。
それを聞くとランツは胸を押さえて、大袈裟にうずくまった。硝子の心臓じゃないんだからとイルファンは思った。どうもこの青年は弱すぎるから殴り倒せば逃げるのは容易そうだった。しかし敵はランツ一人ではない。この場所にはあの闇属魔法士のような得体のしれない敵がいるはずなのだ。まさか、あいつが服を脱がしたのだろうか。何の理由があって女の子を裸にひん剥くのか。イルファンは顔をしかめながら青年に尋ねた。
「なんで私脱がされたの?」
「それは知らない」
ランツはびくびくしながらそう言った。本当に変な男だ。剣を持っている時はそうでもないのに。山の道場でリアトにあしらわれている時は格好良かった。ゴミ屑みたいに飛ばされてたけど割と良かったのに。今の彼は嘘みたいに弱そうだった。背負った剣も何処となく頼りなく見える。あ、そうだ。イルファンは漸く思い出した。私の剣は何処に行ったんだろう。背に手をやる少女を見て、ランツが言った。
「君の剣なら外だ。流石に持ち込めなかった」
持ち込む。その言葉にイルファンは違和感を覚えた。というかここは何処なのか。先程の物置とは異なって無駄に広いし暖かい。なんというかここは客間と言った感じの豪華な造りの部屋である。自分が寝かされていたのはどうやら、背後にあるベッドだったらしい。
ふかふかのベッド。人生でこんな物に触れた記憶は多分ない。ぶっちゃけ自分の記憶なんてあやふやすぎて信用ならないけど。恐らくだけど、寝ている間にここへと運ばれたのだろう。イルファンはそう思った。だとすれば誰が運んだのか。やはり分からないことだらけだった。
「ランツ、状況を説明してよ」
「可能な限りでね」
彼は上手に話した。思いの外、分かりやすかったのでイルファンにもそれは理解できた。一言で言えば、自分は中央の政争に巻き込まれたらしい。剣王と都主、それに熱部貴族が激しく争っている皇都の権力争いに。自分とリアトは何故かは知らないが、その手札の一つにされたのだ。ランツが属するのは熱部派。これには過激派と穏健派がいるそうだ。
そして今回の件は過激派の暴走である。ランツの兄、次男のアルト=デルフォイが属する勢力が剣王の呼びつけたリアトとその弟子に利用価値を見つけたのだとか。彼らは何度か隠密や刺客を放ち、自分の様子を探っていたらしい。皇都に強力な戦錬士を忍ばせておき、隙を見てイルファンを誘拐する為に。
「陰謀ってやつね」少女が言う。
「まぁそうだ」伏し目がちにランツが言った。
「で、ランツは味方」
何処までが本当かは分からないが、話の大筋に偽りはないように思われた。頑なにランツは自分たちの利用価値については話してはくれないが、それだけ。それ以外に疑う点はない。価値とやらも剣王の妨害程度のものだろうと少女は推測する。まぁ、その剣王様がどうして自分たちを呼び寄せたのかは分からないのであったが。イルファンは頭を切り替えて言った。
「私を助けに来てくれた」
「僕はどちらかというと穏健派だし、剣王と事を構えたくないからね」
兄弟で派閥が違うと言うのはいまいち分からないが、イルファンは納得して見せた。とりあえず、今は逃げるのが先決。ランツに協力しなければならないだろう。実のところ少女は疑いの念を抱くよりも先に青年を信じていた。なにしろあのローレッドに顔を出していた人物なのだ、それだけで不安材料はすべて帳消しになるだろう。
「そう。じゃあここを出ないと」少女は言う。
「ここが何処かは君には言えないけれど」
「それは分かる。あんた等の本拠地みたいなとこでしょうし」イルファンは言った。
仮にここの場所を聞いてしまったら解放された後が面倒だった。ここは何も聞かないままにしておくのが一番だろう。かつて傭兵の師匠に言われたことがある。男の秘密は探らなくてもいい。どういう含意かは知らないがイルファンはそれを適用することにした。そもそも、場所よりも少女には気になることがあった。
「リアトは無事なの?」
少女にとってリアトの安否は何よりもまず重要なことだった。恐ろしい女剣術士は彼女にとっては親代わりであり、同時にある種の姉代わりでもあったからだ。あの不完全で未熟なリアトという人間には少女のような部分があって、イルファンはそれを知っているから自らの師匠をおもんばかったのだ。
ランツはその問いに一瞬だけ驚いた顔をしたがすぐに答えた。何故かその顔は少し自慢げだったので、リアトはお前の師匠じゃないってのとイルファンはむかついた。弟子気取りのランツは山の道場に居た時からそうだった。彼はリアトに憧れているのだ。
「『捨剣』のリアトに勝てる手駒はそういない」
「ほーう。じゃあ、あの骸骨野郎も今頃死んでるかもね」イルファンが言う。
それを聞いてランツの表情がまたも変わったが、今回は少しだけ真剣なものだった。目が細くなり空気がほんの少しだけ凍りつく。先程までと同じ人間だとは思えないような冷えた表情でランツは問うた。
「骸骨。それは闇属魔術士で死にそうな見た目の男のこと?」
「そいつ」イルファンはそう答えた。
ランツは不味い物でも食べたような顔をした。どうやら、あの男はかなり具合の悪い男であるらしい。彼の兄、アルトは無断で骸骨野郎を使ったりしたのだろうか。世の中には制御出来ない手合いも数多くいるらしいから、リアトの事が心配になった。あいつがそういう奴だったとしたらいくらリアトでも危ないかもしれない。なにしろあいつは自分を無抵抗でかっさらったのだ。
「急ぐことにしよう」ランツが言った。
そのため少女は休憩した後、すぐに促されて部屋を出た。外は普通の廊下で特徴のようなものはほとんどない。あまり経験がないけれど貴族屋敷の廊下といった様子であった。ただ一つ、妙なことと言えば何処にも窓が無い事。わざと作っていないのだろうか。あるいは作れないか。嗅覚を集中させて周囲の状況を探ってみると湿っぽい土の匂いが感じられた。イルファンはそのことで確信した。恐らく、ここは地下だ。それも熱い地域。彼らの本拠地はそこにあるらしい。
「あんまり探らないでね」ランツが釘をさす。
「戦錬士の性ってやつよ」少女が答えた。
そのまま別の小部屋へと入れば、そこには少量の食事が置かれていた。干し肉とパンだ。イルファンは手早くそれらを食べた。捕われてから二時間くらいだろうか。時間がよく分からない。だが久々に食べたご飯はとても美味しかった。ランツに感謝しなければと少女は思った。彼がいなければ餓死していたかもしれない。結局、皇都でもご飯を食べられなかったことだし。
イルファンは自分の行動を思い出して反省する。あの時はルハラン=ノーランを警戒し過ぎた。あれはただの常識のない剣術士にすぎなかったのだ。だがほんの些細なあの行動が結果的にこの状況を招いた。たとえ、ルハランが相手でもリアトが居れば問題なかったのに。
しかしあの時のリアトはあまり過保護ではなかった。一人で居ても迎えに来てくれなかったのだから。いやそれは当たり前なのだけど。そう、それが当たり前なのだと少女は自分に言い聞かせる。一人で生きていくなら当然のこと。気付けば、私は甘え過ぎなのだろうかと自問自答していた。今だってランツが居なけりゃ死んでいてもおかしくはない。もっと強くなりたいのになかなかなれていない気がした。
ランツをちらりと見ると彼は汎用術式板『端末』を弄っていた。親指がけたたましく動いている。聞いたことのある言葉で言えば、『転言魔』って奴なんだろうか。イルファンは立ち上がって、荷物を持つと彼の傍へ寄った。ランツは片眉を上げて、それに応じる。
「何を送ってるの」イルファンが問う。
「情報だよ」
青年はそう答えたがそれ以上のことは何も言わなかった。不信感を抱きそうになるがイルファンはその小さな気持ちを必死で殺した。疑うべき相手ではあるが何にも身を預けずにはここから逃げることはできないのだ。
本当なら割とやばいはずの状況で屋敷探検はのんびり続く。何枚かの扉を抜けた先、その小さな部屋のさらの奥に進む。使用人も敵もいない部屋が幾つも続いた。あの『蟻街』フィロレムとは異なって、静かすぎることが少し不気味だった。ランツが立ち止ったその部屋には大きな術式陣があり、彼が立ち止まって文字を描き加えていく。それは流れる様な術式文字でとても美しかった。知らなかったけれど、ランツはどうやら術式士でもあるらしかった。
「転移術式陣だ。これで飛ばす」ランツが言う。
「何処に?」イルファンが問うた。
「それも言えない」
イルファンは疑いの眼差しを彼に向けた。そして、言えないことばっかりだと思った。飛ばされた先がまともなところだと良いけど。イルファンは恐る恐る術式陣に乗った。ゆっくりと足元の陣が輝きながら黒っぽい光を放つ。空間に属する魔力『闇属魔力』の顕現だった。ランツが地面においた魔石らしきものから流れこんでいる。石から吸われた魔力が魔術となってイルファンを覆っているのだ。
幾百幾千と無数の術式文字が螺旋状に立ち上った、と思うやいなやイルファンの身体はばらばらに解けていた。骨、内臓、脂肪、筋肉、脳。全てが解体されて浮き上がる。何処か遠くへと引っ張りあげられるような感覚。皮膚のあちこちに釣り針がひっかかっているかのようだ。四方八方へと皮が持っていかれる。何処かへ。思わず少女は悲鳴を上げた。
だが次の瞬間には痛みの感覚が消えた。
気が付けば、イルファンは大地の上に立っていた。柔らかく湿った土と足元を覆う羊歯植物。眼を切り替えれば呪界に映るのは巨大な虹。何処だろうここ。いつか虹にまつわる伝説を聞いたような気がしたが少女はそれを思い出すことができなかった。ノーランに伝わる神話は種類が豊富であるために、吟遊詩人も断片的にしかそれを語らないのだ。イルファンが頭を捻ったとき、声が飛び込んだ。
「ここが何処かはいずれ分かるよ」
驚いて振り返れば、そこにはランツが居た。どうやら彼もあの無茶苦茶な転移失敗術式陣のようなもので転移してきたらしい。左手には汎用術式板。座標と空間の調整はあの端末で行ったのだろうか。それを気にしながらランツは言った。
「急ごう」
くぅ。転移のせいか、やけに頭がぐらぐらする。イルファンは大混乱の頭を整理する為に下を見た。そして、その時ある事にようやく気付いて、またも少女は悲鳴を上げた。ランツが忘れていた、とばかりに目を閉じて後ろを向くが、もう遅い。この野郎と少女は右手を振り上げて、そのまま思いっきり振り抜いた。
「この、ど変態野郎っ!」
「誤解だ、イルファぁあああっ!」
青年を思い切り吹き飛ばした少女はやはり服を着ていなかった。どうして服が消えてしまうのかをイルファンは考えたが、ランツが術式陣の設定をそのようにしたからだという答えしか思い浮かばなかった。ランツにとっては幸か不幸か、少女には術式と自らに関する知識が欠けていたのである。
「なんなのよあんたたち」
「いや、違う。あの術式陣は特別製なんだ。その関係から肉体以外の実体は極めて通りにくい。僕や術式士なら普通に通れるけど、魔法の素養が無い者は身体しか通せないこともあるんだよ」
なるほど。イルファンは納得したけど納得しなかった。知ってたのなら先に言うべきなのだ。このど変態野郎、という感じである。ていうかランツの言い訳は言い訳になってない。それと少女には気になることがもう一点あった。
「私って魔法の素養ないのね」
「知らないのかい? 琥珀髪は魔法を使えないよ。君たちの種族はこの大陸でも最も古い人間たちの血脈なんだ。あの獣たちと同じくらいに生じた存在だから天獣に寵愛されることはない。つまり属性魔法というものを使うことはできないというわけだ。もっとも……」
「面白い話だけどもう良いわ。素養がないってことが分かれば十分なの。そんなことよりさ、私の、ほら、服はどこにあるのよ」ランツの話を遮って少女が言う。
身体を腕と荷物袋で隠しながらイルファンは青年を睨み付けた。それを見てランツはしくじった、というような顔をした。腹が立ったのでイルファンはもう一発殴っておくことにした。服は仕方がないので、彼の着ていたラチェットを奪う。かなりだぼだぼだけど剣布と思えば着れない事も無かった。なにしろ今までまともな服など着たことがないのだ。
ほんとに。この男は信用できそうで信用できない。
羊歯の茂みを掻き分けながら進む。よく見れば魔獣があちらこちらにいた。象の魔獣バリルから蛇の魔獣グルエルリルまで多種多様。正直こんなところを丸腰で歩くのは恐ろしいものだ。湿部や熱部の特徴として、毒を持つ魔獣が多いというものがある。グルエルリルはその筆頭であり、噛まれたら普通の人間は助からない。戦錬士でもその魔獣毒に対抗するのは困難だと聞いた事があった。実際に噛まれたことはないがなんでも身体が二日近くも痺れてしまうらしい。
こんな森の中で麻痺してしまったら絶望的だと思っていたら、ランツが懐から一本の枝を取り出して火をつけた。魔獣除けの木『レシードル』だ。あれはローレッドを登る傭兵もよく使用した馴染み深いものだった。木が奇妙な臭いの煙を放つと、魔獣たちはすぐに離れていった。
そのまま歩き続け、少しすると街道らしきものに出会った。熱部の街道だろうか、きちんと整備されている。その先にランツが目指していたらしき小屋が見えた。予想通りというべきか、彼はそこで足を止める。どうやら先程から汎用術式板で見ていたのは地図だったらしい。
小さな小屋の中にはイルファンの荷物があった。床には簡易な仕組みの転移術式陣。大きな紙に書かれたものだ。恐らくだが、ランツはここからさっきの施設に入ったのだろう。イルファンは荷物の中から剣布を取り出して、身に纏った。荷物のそばには愛剣もちゃんとあった。くすんだ魔鉄のバルニュス。やっぱりこいつが無いと心細い。背にしっかりと差しておく。
「イルファン、この辺りには小さな都市が幾つもある」ランツが言った。
「熱部の小都市群ね。聞いた事あるわ」
ランツは少し驚いたような顔をした。イルファンがそれを知っていることが意外だったのかもしれない。少女は昔、そこの出身だという傭兵にボダットの話を聞いた事があった。レシードルで作られた、柵の内側に住む人々の街。高貴な街。森の街『熱部森林トランティア地方』。数多の神話が残るグレルト人たちの古き土地。好奇心をくすぐるイルファン好みの話ばかりだった。
だとすれば、それはもう聖地観光ではないのかと少女は思い当たった。旅を始めてもうすぐ、十日以上にはなるだろうか。ようやくまともな観光らしくなってきた、とイルファンは考える。エルトリアムの巨大さと整然さには敵わないだろうけど、熱部の小都市群って奴もそれなりには楽しみだった。イルファンは敵に誘拐されたと言う事をすっかり忘れて、にへへと笑ったが、ランツが状況を思い出させるように真剣な顔で言った。
「その一つ、『グランフィア』へ向かうよ」
グランフィアは聞いた事がないけれど、少女はとりあえず彼に従うことにした。羊歯だらけの森の中は非常に静かだったが、歩き始めて数十分でイルファンの耳は人の話し声を捕えた。大声でがなり立てるような声だが、ルハランのような傭兵訛りは無い。むしろそれは上流階級の使うような、綺麗なノーラン語であった。声の出所は少し遠い。六弓飛先くらいだろうか。
「聞こえたかい、イルファン」ランツが言う。
「うん。言ってることはよく分かんないけどね」
「あれはボダットに設置された大転言板から流れる『流言』だよ」
流言。ランツ曰く、皇都エルトリアムから流れる皇王のお言葉らしい。イルファンは都市に入ったことがないから知らなかったのだが、割と何処の都市にもあるものらしく、特別に珍しいものではないのだとか。とはいえ、これがあると言う事はそこに都市があるということである。なるほど、ほんの少し歩けば、すぐにグランフィア・ボダットの柵が見えた。
そこそこの大きさの木組みの枠。臭いからしてレシードルか。こんなもので魔獣の侵入を防げるとは思えないけど。まぁ、さっきもグルエルリルとか逃げてたし、有効なのだろう。レシードルの効果は確かにとてつもないのだ。燃やさないでも使えるとは知らなかったが。
「ランツって物知りだね」
「熱部の常識だよ。この場所の常識は、当たり前だけどエルトリアムやローレッド山脈とは違う。『文化膜』って分かるかい? 言ってみれば、それが違うんだ」
「うーん、分かるような分かんないような」
「なら、こう覚えておくといい。環境が違うんだ、なにもかも」
そう言いながら、ランツは木組みの大きな門を開かせた。門番のような男たちが四人がかりで扉を開けば、ゆっくりと軋んだ音を立てながら門が動いていく。イルファンは我慢できずに、門の隙間から街の中へと走り込んだ。そこにはグランフィアの光景が広がっていた。
「おぉ、エルトリアムとは全然違う!」少女が叫んだ。
統一されたような木造建築。なんというか質素で思っていた光景とは違うけど、これはこれで味がある。視界一面に広がる茶色の家もなかなか良い物だった。少なくとも今までにみてきたものとはどう考えても異なる。口をぽかんと開けているとランツが言った。
「グランフィアはボダットで最も美しい街だよ。巷では『静寂の街』と呼ばれてる。僕たちは『黄泉送りの街』と言ったりもするけど、まぁどちらにせよ、荘厳で歴史のある名前になるよ」
ほう。静寂の街とは確かにその通りだとイルファンは思った。驚いたことに、流言が終わってしまうと街には話し声一つない。これはこれでなんだか寂しい感じもする。エルトリアムやドピエルがうるさい街だっただけに奇妙に思えた。もっとも街などというものは本来は騒がしいものではないのかもしれない。イルファンはほとんど住んだことがないので分からなかったが。
「なんで、誰も喋んないの?」少女が問うた。
「森の中だからだ。魔獣は人の声に敏感だからね」
いやいや流言してたじゃん。イルファンは心中で思わず突っ込みを入れてしまった。エルトリアムの奥深く、ラングリアに住むという皇王陛下のお言葉がそこそこの大音量で流れてたと思うけど。それは問題ないんだろうか。その疑問にはランツが答えてくれた。
「皇王は転言板を通して、皇気を送ってるらしいよ」
絶句だ。正直、胡散臭い。
イルファンは欠片も感じなかったが、なんでもあの機械からは皇王の気が出ているらしい。それが本当か眉唾かは別として、人々はそれを信じているのだ。信じるということはノーランでは強大な力を持つ。それ故に、流言は問題なく流されるってことか。皇王陛下とやらのお力は今でもまだ熱部では役に立っているようだった。
これがローレッドならばそうはいかない。人の住まない禁域の山では信じる者などどこにもいないから皇王陛下の力など何の役にも立たないのだ。それゆえに魔獣も歩みを止めることはなく、あの雪山を自由に闊歩するのだった。
「魔獣は声に反応しないんでしょ」
イルファンが問うと、ランツは顔を顰めて言った。
「あー、無言で過ごすのはレシードルの柵が立てられる前の風習なんだ」
つまり、今では魔獣はグランフィアに近付かないということらしい。それはそうだろう。『レシードル』の力は絶大なのだから。魔獣とて人間の存在には気付いていてもあの木には近寄りたくないのだ。それ故に、あの樹木はとんでもなく値が張るとイルファンは知っていた。つまりここは質素にみえて莫大なお金のかけられた街なのだ。よく見れば、人々の身なりもとても良い。恐らくここはボダットの中でもかなりの上位層が住む場所なんだろう。そう思うと急にイルファンは縮こまった。
「なんか緊張する」少女が漏らす。
「ここの人たちは皆、良い人ばかりだよ」
そう言って、ランツはさっさと歩きだした。向かっているのは市場でそこそこ賑わいを見せている。ランツが歩くと、人々が道を作るように彼を避けた。どうやら食事に誘われているらしく、口々に彼は名前を囁かれている。どこぞの英雄でもあるまいが、デルフォイ家の人々というのは一体どういう立ち位置にいるんだろうか。イルファンはランツを見逃さない様にしつつ、市場を見て回ることにした。
静かな屋台にはエルトリアムに負けないくらいによりどりみどりの商品が並んでいた。特産品であるラチェットもたくさん並べられているし、ランツに着せられた民族衣装も幾つか売られていた。加えて、ここには緑の服も当たり前のようにあった。まぁルハラン=ノーランがいないから置かない理由がない。
「綺麗」少女が言った。
こうして見ると、商品の質はエルトリアムに勝るとも劣らないようだった。いや、下手をすれば、それ以上の掘り出し物がありそうだ。リアトが来たら小躍りして喜びそうな色とりどりのチュニックは魔獣の糸で編まれているらしく、少しも解れそうになかったし、ラチェットと同様に魔力耐性も高いようだった。貴族衣のような服はリアトの好きなふりふりもついていたし、いつかはここに師匠を連れて来たいものだった。
そうそう。皇都では結局ほとんど買い物が出来なかったし。折角の食事もルハランに邪魔されてしまったし。ていうか、熱部勢力に攫われてしまったし! イルファンはようやく、その事を思い出して、苛立ちを込めながらランツに言った。
「忘れてたけど、私は皇都に戻りたいの」
「明日には帰れるさ」ランツが言った。
投げ遣りにも思える一言。今まで優しい感じだしといてこういうのはないんじゃないかとイルファンは苛立った。こう、突き放されるのは好きじゃない。さっきから、大人しく従っていたと言うのに、この変態野郎は自分をどうしたいのだ。助けてみたり、脱がせてみたり。いや、脱がせたのはランツじゃないけどさ。
「大体、あんた、何処に向かってんのよ」少女が問う。
「僕の家だよ」
振り返りもせずにランツが答えた。既に周囲の風景は市場ではなくなって閑静な木組みの住宅街に変わっている。そのどれもが精巧に作られた貴族か何かの屋敷であることは、イルファンにさえもすぐに分かった。何といっても材木がレシードルだ。あまりにも贅沢すぎる。
見たところ、この住宅街は山脈の麓に沿うように伸びているらしく、道路は緩く湾曲しながらどこまでも上に続いているように見えた。この街の最も深いところにデルフォイの邸宅とやらがあるのだろうか。だとしたらそれは灰色の岩場の中だろうか。アディアラは木々が生い茂るような山ではないのだから。
「ねぇ。少しってどれくらいなの?」
「三百弓飛はないくらいだね」ランツが眉根を寄せた。
「走ればすぐ着くわね」
「いや、家はアディアラ山にあるから登りに時間がかかる」
三百弓飛は槍長換算で、ええと六万槍長に当たるって余計分かりにくいか。徒歩ならば大体、半刻つまり一時間ほどかかるような距離だった。なるほど、デルフォイの家はやはりグランフィアの中にあるわけではないらしい。先ほど予想した通りにあの岩だらけの山のどこかに隠されているようだった。貴族の家というのは隠蔽結界で隠されているのが常だと聞いたことがあるが、殺風景な山のなかに屋敷を隠すのはそれなりに難しいことのはずだった。
「入口まで頑張ろうか」
ランツがそう言った。入り口は恐らく森の中にあるのだろう、しばらくのあいだ深い森のなかへと分け入った後、ランツに導かれるままに少女は歩いた。四半刻が過ぎてもなかなか彼の家には着かない。街から少しずつ離れていったために辺りには羊歯と高い木々しかない。そしてその先にあるのは、恐ろしいほどに色のない山だった。
あれがアディアラ山脈だ。見た感じはローレッドとほぼ同じで双子の山脈と呼ばれる理由も分かる。ただし、アディアラの方は呪を感じなかった。あの忌み地ほどの重苦しい気配はないように思える。奇妙なことだけど、この分では大した魔獣もいないだろうと思われた。昔、師匠にもそう聞いたことがあるのをイルファンは思いだす。かつてはこっちの山にも強い魔獣は住んでいたはずだ。それがどうして消えてしまったのか。どうして『呪』は消失したのか。
「アディアラ山」
「そうだよ。良いところだろう」
良くはない。
いつの間にやら森を抜け、二人は山を登っていた。歩くというよりはむしろ山登りか崖登りだ。道なき道を行き、崖をよじ登りながら絶対に通らないような道を通っている。おかしい。本当にランツは自分の家に向かっているのだろうか。毎日こんな道を通りながら下山しているとは思えなかった。考え事をしていたイルファンはずるりと足を滑らせる。だがその手をランツが素早く掴んだ。
「貴族の家に行くのに道がないとか嘘でしょ?」少女が言った。
「勿論だ。いくつかまともな道もあるけどね、敵に見つかりたくないからこうして隠し道を通っているのさ。少々厳しい行程だが戦錬士ならお茶の子さいさいだろう?」ランツが言う。
イルファンは納得した。この道だって別にローレッドに比べれば厳しくはないと思えた。なにしろ魔獣がいないのだから。しかし考えてもみれば魔獣がどこにもいないのは奇妙だった。いくら忌地ではなさそうだと言っても、中央大陸湿部は魔獣の大規模生息地と目されている場所である。そもそも魔獣がいないのならばレシードルの柵やらエルトリアムの城壁なんかは必要ないわけで、その意味でアディアラ山脈はむしろ異常だと言ってもよかった。
「魔獣がいないね」少女が問う。
「魔獣どころか、アディアラには原種動物もいないよ。大半の生き物はこの山の麓に広がるボダットの大樹海に生息しているからね。魔獣も動物も森のなかで暮らす方が居心地がいいんじゃないかな?」ランツが首をかしげる。
「嘘くさい」
イルファンが顔をしかめるとランツは歌うように言葉を語った。それはまるで呪文。古くから続く民謡のような言葉が彼の口から溢れ出した。それにはまるで特別な力が込められているかのようだった。イルファンの記憶のなかで何かがざわめいていく。『呪文』とはなんだったか、不意にうかんだその言葉をしかし少女は手繰り寄せることができないまま、言葉と音は紡がれる。
「アディアラ山脈は死生の山脈。あまねく命が山へと還れば『虹雨』となりて降り注ぐ。その瑞々しきは霊なる水源、円環となりて世を回りゆく魂の旅程なり。輝きの送り手どもに見つからば命の産まれいでし深淵の底さえ垣間見ん。決して離れることなき古き魂たちよ、民にそそがれるが其の定め」
「呪いみたい」イルファンが呟く。
「確かに」ランツが言った。
「どういう意味なの?」
「そのままさ。アディアラ山脈やボダットの周辺では死者も単なる物体ではなくて、いずれ雨となりて他人にその力を与える恵みとなる。ボダットの森は魔獣にとっても人間にとっても最高に居心地のよい場所なのさ」ランツが答える。
しかしそういう伝説があるのならば、尚更ここが忌地ではないというのが気にかかった。イルファンは不思議に思ったがそれを住民であるランツに聞くのは何となく憚られるものだ。言ってみればそれは、リアトに向かって「どうして呪われた山に住んでるの?」と聞くようなものだと思ったからだ。イルファンは仮にそう言われたとしたら、相手を拳でぶん殴るだろうと思った。考えあぐねる少女を青年が興味深げに見つめていた。
それからしばらくの間、険しい登山は続いた。とはいえ、アディアラは魔力か靈力の具合が良いようで疲労の回復速度がとても速い。ほとんど休憩することなくイルファンはランツに着いていった。
「そろそろ疲れただろ」ランツが言った。
「そんなことないわ」イルファンは答える。
疲れてはいないが正直なところ喉が渇いていた。何しろ干し肉とパンしか食べていないのだ。ぼちぼち美味しかったけれど口の中はパサパサだった。ランツは水筒を少女に渡した。金属製で蓋が付いている珍しいものだ。くるくると蓋を回すと、小気味よい音とともにひんやりとした空気がこぼれ出た。どうやら魔道具のようだった。
「これは僕の作った氷属誘導の魔道具なんだ」ランツが言う。
なるほど。そう思いながら水を飲むと冷たくて美味しいように感じた。唇に触れた金属と流体が喉をどんどん潤していく。もう一度水筒を見れば、そこには簡易の術式が浮かび上がっていた。手描きっぽいけれどよく分からないものだ。傭兵が言うところの『無形術式』だろうか。こういった日用品としての魔道具は高価だから貴族くらいしか使わないが、それゆえに特殊な術式が用いられることが多かった。自分で作ったというならそのこだわりは並々のものではないだろう。
「美味しい水をありがとう」少女が言った。
「どういたしまして。この水筒が気に入ったなら君にあげるよ。もう僕はこれを使わないだろうし、君はいつか使うかもしれないし」
「どういう意味なの、それ?」
不可思議な言葉にイルファンが眉を顰める。
「喉が渇いてないってことさ」
「だから意味分かんないし」
ランツの答えに気分を害したのか、イルファンは水筒を青年の手に返してそのまま歩きだした。その後をランツが瞬きひとつせずに疲れ顔で着いてくる。やはり山には魔獣が全然出なかった。あの恐ろしいローレッド山脈とは大違いである。何しろあの雪山ときたら登るだけで生死の沙汰なのだ。それに比べれば、この程度の少々の岩場など問題になろうはずもない。息を切らしながらイルファンが笑う。丁度そのとき、前方の大きな岩のうしろに建物のような影が見えた。
「やっと着いた。余裕だったわね」イルファンが言った。
「それは良かった。あれが僕の実家だよ」
山中の家という言葉で想像していたのはちょっとした小屋だった。家無しの剣術士が金策に困って借りるようなぼろ小屋。だってほとんど草木の無い岩場といったら山小屋でしょ。貴族ということを加味しても大きめのぼろ道場を想像してしまう。エルトリアムですら、大通りを離れればそういう家もあるらしいし。知り合いの傭兵たちの多くがまともな家に住んでいなかった。そもそも、ローレッドにあった山の道場が大きな小屋みたいなものだった。だから、イルファンはランツの家を見て驚いた。
岩だらけの山の中、わずかに開けた場所に巨大な邸宅がそびえ立っていた。城塞と言うほどではないが、屋敷というには少しばかり立派で堅牢すぎるように見えた。あえて言うならば小城といったところだろうか。壁はその全てが材質の分からない滑らかな煉瓦で覆われていて、遠くから見たその色は茶色。灰色のアディアラ山の中ではそれなりに目立つ色だったが、奇妙なことに屋敷は凡庸な雰囲気を纏わせていた。恐らくだが認識に作用する呪的結界の一種が張られているのだろう。
目の前にある家はとにかく大きく見えた。流石にエルトリアムの総門と比べることは出来ないけれど、皇都で見たどんな建物よりも大きいようにも思えた。屋敷中央の高さは十八槍長ばかりで三階建て、窓はいたるところに付いている。だがその窓の形は場所ごとにまちまちだった。どうやらこの建物は建て増しされていったようなのである。屋敷はその全体にまんべんなく背の高い塔を生やしていたのだが、それらは城の中でもとびきり古びているもののように見えた。表面は風化しかけていて今にも崩れ落ちそうだ。すぐ傍の新しく作られたような滑壁にはごてごてのレリーフが施されている。恐らくだが、これは二十四天獣を模した物だ。これほど精巧な彫刻をイルファンは初めて見たが、建物のあまりのちぐはぐさの前では精巧さなど無意味に等しかった。
勿論、この屋敷は木造のレシードル建築ではない。中央部分などは豪奢なバルニア様式で造られていた。全体的に茶色がかっているので派手さはそれほどにないが恐ろしいまでの威厳があった。これが四名家の屋敷。凄いなとイルファンは思わず嘆息した。
「大豪邸じゃない」
「僕の父はグランフィアの主だからね」
グランフィアの主。
それはつまり、領主ということだ。
「デルフォイって凄いの?」少女が問う。
「熱部デルフォイ家は皇国の四名家だよ」ランツが淡々と言った。
皇国四名家。
その存在だけは聞いた事があった。まさかローレッドでリアトにぼこぼこにされていたあのランツがそんな上位貴族だったとは。通りでこんな豪邸が建てられるわけだ。イルファンは驚きながら改めて眼前の建物を見上げた。こうして改めてみれば凡庸にみえた建築物も精緻に考え抜かれた形状であるように思えた。いやそうではない。屋敷に近づき、話を聞いたことによって認識にかけられていた呪が解けはじめているのだ。
「すごい」
イルファンの頬がほころんだ。それはやっと良い感じの建物を見る事が出来たからだろうか。思い返せば、この旅ではクスタファルビアもラングリア皇宮も見れていない。まったくもう、何の為に自分はローレッドから降りてきたと思っているのだ。知らない世界を見るために降りたのだ。
なのに観光名所はどれも中途半端!
何がドピエルか!何がエルトリアムか!
皇都なんて門しか見てないよ!
思わずそんな文句が溢れ出る。
「リアトはさ。弟子を楽しませようって気持ちがないよね。洞窟とか霧の森とかさ。挙句の果てには大魔獣ドルゲイルでしょ。何処の誰が、巨大海月を見て喜ぶんだって感じなわけよ!!」
「そうなのかい?」ランツが眉根を寄せた。
「当たり前じゃん!!」
少女はその巨大海月ではしゃいでいたことをすっかり忘れていた。イルファンは一通り烈火のように怒るとランツに笑いかけた。その笑顔は心を持たないランツにも美しく思われるほどのものだったのだろう、思わず青年は忘れかけていた笑みを浮かべた。肉体と脳にこびりついた心なき優しい笑みを。しかしイルファンがそのことに気付くことはない。
「ありがと、ランツ」
「うん」
少女は照れくさそうに口を尖らせた。ランツに変態などと言ってしまった事を心の底から謝りたいと思った。
「ごめんね、ランツ」
感謝された上に謝られて、ランツは困惑したような笑みを浮かべる。まぁそうだろう。私だって反応に困る。でも変態とか言ってごめんね。とは言い辛いじゃん、とイルファンは極めて失礼なことを思いながらランツの横に寄り添った。その身体は奇妙に冷えており、山を登ったばかりとは思えぬほどに静かな脈動に満ちている。心臓の鼓動が聞こえないほどにゆっくりなのだ。
「さぁ、入ろうか」青年が笑った。
疑念を振り払って、少女は頷く。黄金製の門扉が開いてイルファンはランツと共に屋敷へ入った。番人が無言で出迎えてくれるが、ランツは当然のように彼らを無視した。少女は少しだけ狼狽える。こういう人たちって無視して良い物なのだろうか? 上位貴族のする事はよく分からないがそれでも無視してよいことはないはずだ。緊張しながらもイルファンは扉の男に挨拶をした。
「どうも」
しかし彼は何も答えない。何かを探るように首を傾げると、ほんの少しだけ彼女に目を留めてそれからまた人形のような無表情に戻ってしまった。男は開いたままの扉をゆっくりと閉めると、また石像のように物言わぬ番人に戻ってしまった。もはや微動だにもしない。
「イルファン、それは物だ」
「え?」少女が口をあけた。
「ただの意思なき器物。機械人形だよ」
ランツの声は驚くほどに冷えていた。さきほどまでと同じ人間とは思えないほどの冷徹さは少女の背筋を凍らせるが、しかしそのことに違和感を覚えることはもはやなかった。イルファンはそのような些事を捉える瞳をいまや失っていたのである。内なる眠りは音もなく忍び寄っていた。
「さ、それより屋敷の中を堪能すると良い。君の好きな武具や洋服もたくさんあるからね」ランツが口の端だけを動かして言う。
「何それ、物で釣ろうとしてるわけ?」
イルファンは不満の声を上げたが、それは本心ではない。なにしろ屋敷の内装は豪華なものだった。天井から吊るされた灯は硝子細工で壁一面に絵画や剣が飾られている。あの中にはさぞや名のある武具もあるのだろう。そしてまた、大広間の床全面を埋めつくす巨大な絨毯には精巧な絵が織られていた。この絵をイルファンは知っていた。これは『アディアラの夜宴』を描いた絵だ。
§
その昔、アディアラ山脈には邪悪な竜がいた。恐るべき竜は人間に姿を変えて人里に下りると、目ぼしい人間を攫っては丸呑みにしていたという。それを退治したのが聖騎士ラエスである。彼は天獣ハオンの加護を受けた勇者だった。アディアラ山脈へと単身で向かい、竜と対峙した彼は天剣を振るい闘った。三日に及ぶ死闘の末、竜は地に落ちる。そこがボダットであった。
ボダットで竜とラエスは再び闘った。されど地面は人の領域である。竜が勝てるはずもなく、ラエスは邪竜の頸を落として勝利した。その頸から溢れ出たのが虹だった。『ボダットの虹』と呼ばれる其れは恵みを齎した。人々はラエスと虹を崇めて祝宴を開いた。この宴がアディアラの夜宴である。一説には邪竜はこの時、料理されてしまったという。ボダット人が信じることには、竜は料理にされて胃袋に呑みこまれると、人々の生きる糧となり血肉となったという。
§
「この床の絵、知ってるよ」イルファンが言った。
「それは今代の皇王陛下から賜ったものだよ。アディアラの夜宴の一場面だ」
無感動にランツが言う。丁度、イルファンが立っている場所の真下にラエスの顔があった。青年は苛立たしげに英雄を睨みつけると登山で汚れた靴を絨毯に擦りつけた。なんでかは知らないけれど、ランツはこの絵が嫌いなようだった。ラエスはよく見れば誰かに似ている。誰だろう。ちょっとよく分からないけど。てか、何だろ、イルファンは眼をしばたかせた。記憶をあんまり思い出せない。イルファンは、どういうわけか記憶力が低下してる気がすると思った。
ラエス、ラエス。
名前を考えても何も閃かない、ていうか大切な事も幾つか忘れてる気がする。ほら皇都に何か忘れてきたような。私ってこんなとこで油売ってて良いんだっけ? 大事な記憶とか忘れちゃいけないこと。ルハラン、違う。エルトリアム、違う。剣王、違う。言葉が形になる前にランツが言った。
「ここで待っていてくれ」
「それは良いけど」少女が呟く。
ランツは少女を待たせると、急いで階段を上がっていった。その姿が足音と共に消えてなくなる。今、どうやら自分は自由の身になっているらしい。イルファンはそう思って、辺りを散策することにした。何しろこの大広間は広い。調度品を見ているだけで一日が終わってしまいそうだった。逃げるために出口を探してもよかったが、入ってきた扉の前の召使は梃子でも動かなさそうだった。
「どうしよっかな」
「さて、どうなさいましょう。イルファン=バシリアス様」
急に背後から声がした。気配もなく足音もないその人物の接近に驚いて、イルファンは思わず剣を抜く。この人物が『骸』並みに危険な人間だと、即座に感知したのだ。しかし、振り返って見た男はそれほどの危険人物には見えなかったので、少女はすぐに剣をしまった。
「私はイルファンよ」
「おやおや、驚かせましたね」
男が言った。イルファンはその男と面識がないはずであったが、どこか懐かしさのようなものを彼に感じた。それが何であるか、数瞬ののちにイルファンは気付いた。
「あんた真っ白なの?」
「貴女と同じく」
彼の肌は白磁のようにきめ細やかで、歳の程は五十ばかしに見えるというのに染み一つない。そう、それはイルファンと同じ特徴だった。だとすれば髪の色が気になるところであるが、男には髪も髭も眉毛さえなかった。だから、彼が『琥珀髪』なのかはイルファンにも分からなかった。肌の色が白いだけの人種ならばグレルト人だってそうなのだ。
「誰なの?」
「『白』のウィンバルと申します。以後、お見知りおきを」
そう言って男は宮廷式の挨拶をした。それが正確なものかどうかをイルファンは知らなかったが、とても仰々しいものであるということは分かった。どうかしている。誘拐した相手に対して礼を尽くすだなんて。
「デルフォイ家の人間?」少女が問う。
「協力者と申し上げておきましょう」
「私に何か用でもあるの」
ウィンバルは満足げに笑った。彼はまるで最初からイルファンがここに来ることを知っていたかのようだった。その為にここに居たのだ、と言わんばかりの表情で男は言った。
「お話をしにきました」
訝し気にイルファンは尋ねた。
「何の話?」
「十界法則の話です」
十界のことはリアトから何度か聞いたことがあった。魔法使いや呪術士、あるいは人間と戦う際に最も大事なものが十界法則なのだと、少女は師匠に教えられていた。だが、その中身までは知らなかった。それが何を意味するのかということも。
「剣術士はしばしば場の流れを支配しようとします。それは呪界の奥深くを流れる力、十界の変綴法則へ干渉しようという試みなのです。まぁ、剣術士のそれは戯れにすぎませんがね」
「聞いてもないのに、答えられても困るんだけど」少女が言った。
「いいえ、貴女は『聞くべき流れ』の中にいました」
「なにそれ? あんたの自己満足じゃなくて?」
「勿論。無数の編綴流が後押しした結果が現在ですよ」
などと言われてもイルファンにはやはり意味が分からなかった。この白肌の男はどうにもやり辛い。彼の言葉が意味不明なのも厄介だが、表情から心が読み取れないのも面倒だった。なにしろ彼と来たら、常ににこにことしているのだ。まるで怪しい商人のようだ。
「で? 私に話したいことってのはそれなの? だったらもうお腹いっぱいなんだけど」
「もう少しだけお付き合いください。これは貴女にとっても大事なお話なのですから。さて、十界法則は幾つかの流れを潜在させますが、これらは時に運命や宿命という名を借りて、我々の生のうちに躍動します。当然ながらその数は大変なものです。膨大な数の運命が存在者の数に対応するように溢れかえっているのです。それはさながら、世界を飲み込む洪水のように」
そう言って、ウィンバルは手を広げた。
その姿がイルファンに何かを思い出させる。
あれはいつだったか。遠い記憶の底、深みから何かが浮かび上がってくる。少女を目の前に勝ち誇り高らかに笑う男の姿。橙色に輝くその肌は白きゆえに火を映したのではなかったか。少女は息を呑んだ。この男を自分は知っている。確実に出会ったことがある。
赤き城のまえで朗々と語る者のその姿。そのあまりにも巨大で人間とは思えない悍ましい影。邪悪な魂が捕えんと試みる幾人もの存在。そのそれぞれが爆ぜる薪のように記憶の中で点滅していることをイルファンは感じて、身震いした。自分はこの男と浅からぬ因縁がある。だとすればこの無防備な状況で相対するのはまずい。だがそうは思っていても剣を抜くことはできなかった。もはや自分は何らかの金縛りのような力に呑まれているのか。
「世の中にはそれを視るものや読むものもいますが、無論、すべてを識るわけではありません。彼らに分かるのはほんの一部、巨大な流れの内の末端、その影にすぎないのです」ウィンバルが言った。
「巨大な流れの端……」力なき呟き。
「視え方は様々です。しかし、少なくとも影は視える」
ウィンバルの瞳が怪しく輝いたのにイルファンは気付いたが、恐怖からか焦りからか、あるいは恐るべき魔術なのか、やはり身体はぴくりとも動かない。絨毯の沈みこむ感覚がやけにはっきりと感じられると同時に、男が少しずつ少女に近づいて、そして遂には美しい琥珀色の髪の毛に触れた。その指はゆっくりと閉じられて琥珀髪が拳のなかで軋む。ある種の憎しみと慈しみのような思いが伝わり、イルファンは戦慄した。そうして彼はひそやかに言った。
「琥珀色の髪の少女。その影が視えたのです」
「触らないで!!」
咄嗟にイルファンは叫んで金縛りを解くと、男の白き手を打ち払った。痛みに顔をしかめながらもどこか嬉しそうにウィンバルは微笑んだ。この男はどこか狂っている。『骸』や魔獣とは異なる種類の恐怖にイルファンはおびえた。彼はくすくすと笑い声を漏らしながら朗々と告げる。少女は知ることもなかったが、それはこの国で呪文と呼ばれる禁忌の魔術であった。脳の奥底を麻痺させるような細切れの言葉がとろとろと耳から入りこみ、認識を形づくっていく。
「覚えていてください。∬赤き踊り子、呼ばれし血の巫女、孕む羊の細き腕。誰ぞ歌えし、安寧の床、覆いかぶさるは天衣の微睡、燃ゆる血肉の中より開く、麗し花弁の枯れ落ちる様。古くは呪言に彩られ、形あるものへと変化する、老鋼のごとき古き手指は、熱き黒鉄を打たれし依代の指先、それは、心の臓に絡みつく鎖の姿した愛しみに、添えられた私は名ばかりの私、声なき声、形なき、魂。何度果てても終わることのない生命。∬忘れるな、イルファン。貴女の魂が決して離れることのない呪われた肉体のことを」
そうしてイルファンは膝から崩れ落ちた。
Δ
広間の中央で少女はうんうんと唸っている。先程聞いた話が頭の中にぼんやりと残って、彼女を悩ませていたのだ。既にウィンバルは何処かへ去ってしまったけど、その残り香のような得体の知れない感覚だけが少女を落ち着かせなかった。こういう時はどれだけ考えても考えが纏まらないものだ。まるで頭の中に靄がかかっているようで、少女は思わずため息を吐く。とその時、階段から足音とともにランツが下りてきた。彼は微笑みながらイルファンに声をかけた。
「待たせたね。来てくれ」
少女はすぐさま立ち上がるとランツの方へと向かう。彼は華奢な少女の手を取ると、まるで舞踏会のように導いた。本当なら楽しむべきところだったのかもしれないがイルファンは考え込んでいたのでぼんやりと彼に付いていった。
「あ、うん」少女は遅れて答える。
「どうした? 上の空だね」ランツが言った。
「あー、考え事」
「そうか。悪いけど少し急ぐよ」
考えていた少女を急かして、ランツは奥へと進んで行く。イルファンもその後ろを歩く。階段を上がり二階へ。木製の階段は軋みひとつなく完璧であるように感じられた。手すりにも傷一つなくまるで作られたときの状態をそのままに保っているようですらあった。それにしても良い家だった。許されるなら住みたいくらいに上質な屋敷であった。もういっそのこと、ランツと暮らそうか。熱部ボダットで悠々自適に暮らすのも良いかもしれない。
そうやって、面倒なことは何も考えずに生きていきたい。難しい話なんて、本当は死ぬほどどうでもいいのかもしれない。ていうか、ほとんど覚えてないし。十界がどうのこうのとか流れ方がどうたらこうたらとか。だがそう考えてもなお、心の中か頭の中に居心地の悪いなにかが残って消えてくれない。少女は眉間に皴を寄せた。
「大丈夫かい?」ランツが言う。
「勿論。考え事なんて出来るときにするわ」
「今は出来ないのかい?」
「眠たいの」
眼を擦りながらイルファンが答えた。彼女はやけに眠そうな目で長い廊下を眺める。二階にはたくさんの扉があったから、それで少女はあの地下の建物を思いだす。何の為に、あの地下にはたくさんの部屋があったんだろうか。調度品はほとんど何も置いていなかったのに。不思議だった。まるで人形遊びか観賞用に作られたような部屋はしかしそれにしてはやけに豪華だった。
「今から行くのは僕の部屋だ」
唐突にランツがそう言ったのでイルファンは身構えた。まさかお持ち帰りする気じゃないでしょうね。途端にランツへの信頼が揺らいでいく。やっぱりこの男は変態だったか。イルファンは先ほど感謝した事をもう忘れていた。
「いきなり部屋に連れ込む気?」
眼を細めて少女が言った。
ランツが少し狼狽して答える。
「耳年増だね」
その言葉には答えず、イルファンはランツを蹴り飛ばした。ランツが非難の声を上げるけど無視。そのまま蹴り飛ばして先を急がせる。先程までランツは冷静な顔をしていたのだが、今ではとんでもなく情けない顔になっていた。少なくとも、少女にはそう見えたのだった。
少し廊下を歩くとランツは止まった。そこには滑らかな木の扉があり、表面には細かい幾何学模様が刻まれている。知っている。これは術式陣だ。恐らくはドピエルのもののように罠があるのだろう。ランツはこれまた模様の刻まれた鍵を用いて、扉を開ける。音もせず開いた扉の中には人が居た。薄暗い屋敷に外からの光が差し込んでいるせいで、その人物の顔はよく見えない。しかし女性のようであった。ふふ、という微かな声とともに窓のカーテンが閉められるとその姿はようやくイルファンにも見えるようになった。
女性はかなりの美人だった。姉御肌という感じで目元がきついがどことなく儚げな印象もある。リアトとは対照的にその肌は白っぽく、あるいは薄桃色に染まっていた。くわえて、彼女は極端な薄着だった。確かに熱部ボダットは非常に熱い地域だが、彼女のように下布一枚で過ごすほどでは無い。イルファンは一目で破廉恥女だと思った。いわゆる露出狂だ。この女、透け透けにもほどがある。その肢体はやや刺激的にすぎた。
「誰?」イルファンが問う。
「ロンティエル=デルフォイ」女が答える。
ロンティエルと名乗った女性の声は驚くほどに可憐なものだった。まるで風か鈴の音のように軽やかで繊細なところがある。りんりんと頭のなかで鳴り響いたその声と名前はイルファンをして、その心を揺れ動かされるほどであった。
「イルファン=バシリアスね」彼女が言う。
「いいえ、私はイルファン」
「問答ね。貴女の頭のなかには実の父親を忘れようとする回路が埋め込まれているのだわ。可哀そうに。真実をなに一つ知ることもなく、ただ事象流に浮かぶだけの空人形。ねぇイルファン、貴女は自分自身のことを知りたいと思ったことはないかしら」ロンティエルが優しい笑みを浮かべた。
その問いはこの旅の最中にも思い起こされたものだった。人一倍にイルファンは自分の出生について考えを巡らせてきた方である。だからそのことについての答えはすでに出していた。
「あるわ。でも今は知らなくてもいいの」
「どうして?」ロンティエルが笑う。
「だって、だって――どうしてなんだろう?」
虚を見つけてしまったように少女は言葉に詰まった。あれほど考えたはずの答えが見つからない。どうして知る必要がないと決めたのかが分からない。舌がぴりぴりと震えた。その感覚をイルファンはよく知っている。それは傭兵が使うような眠り薬であり、頭の奥底を惑わせてしまうものだった。言い方を変えるならば毒。自分はデルフォイに毒を盛られている。剣を抜こうとしてその手が止まる。ロンティエルの瞳に射すくめられたためだった。
「イルファン、動くな」女が針のように言う。
「――ッ」唇を噛む。
気付けば少女は抵抗を放棄していた。身体が動かないのではなく、抵抗するという意思を削がれてしまったのだ。もはやイルファンにとってロンティエルは敵対すべき相手ではなかった。彼女はある種の祝福として少女には感じられたのだ。それこそが熱部の魔女が使う魅了の呪術であった。
「ラツィオ=メインはどうなった?」ランツが言う。
ラツィオという名に聞き覚えはないが、メインなら知っていた。デルフォイを知らないイルファンでも流石に聞いた事がある。ローレッド山脈の守護者にして冷部の守り手。メイン家は傭兵達にそう呼ばれていたからだ。そのメイン家のラツィオにランツは何の用なのか。ひょっとして皇都に連絡を取るつもりなんだろうか。それはそれで有難いが、本音ではもう少しのんびりしたい。いやでも凄く皇都に帰りたい気持ちもあるし。
あ、思い出した。
イルファンは大切な事を思いだした。それは馬だ。愛馬トルーンを繋いだままだ。ここで暮らす訳にはいかないぞ。馬が一番大事なものだ。何よりも絶対。うん……ほんとにそうだろうか。それ以上に大切なものや大切な存在がいることを頭の片隅では知覚しながらもそれを思い出すことができない。少女は頭を抱える。
「あの男なら今も熱部に」女が言った。
「まだ殺していないのか」ランツが眉根を寄せる。
「彼には仕事があるもの」
ロンティエルはそう言いながら下唇に人差し指を這わせた。なんだろう。山を下りてから会う人間が変態ばかりな気がする。ランツといい、この女といい。あと誰だろう。変人ならいっぱい知ってる気はするんだけど名前が全然出てこなかった。頭に靄でもかかってしまったみたいだった。
皇都エルトリアムで会った男の名前はなんといったか。蟻の街で出会った男はなんといったか。いや本当に思い出さなければならない名前は、なんといったか。自分を長く育ててくれた女性の名前がひとかけらも出てこない。頭の中を占めているのはロンティエルとランツという名前だけであった。
「では姉さんの思うように」ランツが言う。
「えぇ。アルト兄にも連絡しとくわね」
ロンティが甘ったるい声で言った。アルト兄とは確か過激派のアルト=デルフォイ。あれ? 敵対してるんだったかどうだったか。なんだろう。いまいち思い出せない。ええと、ランツは穏健派。アルトは過激派。今回の件は過激派の暴走で――うんもういいや。考えても分からない。
ていうか、眠い。
すごく疲れた。
やっぱり山を登ったからかな。
ランツの声が聞こえる。
少し焦っているようだった。
「『骸』が戻ってくるのも面倒だな。兄さんを急がせてくれ」
「急がなくても良いんじゃないかしら? どうせ、皇都で剣王辺りの連中に足止めされてるんでしょう。手負いの『骸』なんて貴方でも殺せるかもしれないわね」
ロンティエルが歌うように言葉を紡ぎながら髪を梳く。されどその邪瞳はイルファンの身体から一瞬たりとも離れはしない。彼女はまるで獲物を狙う蛇のように眼を細めると、琥珀色の少女に笑いかけた。少女の背筋を悪寒のようなものが走るが、もはやそんなものは何の拘束力も持たない。
「ランツ、『骸』は保険に捕らえましょうか」女が言う。
「僕には荷が重い」ランツが暗い声で言った。
「貴方はもう以前の貴方とは、違うのよ」女が笑った。
こくりと青年は頷くと、何かを確認するように鏡台で己の姿を映し見た。そこにはまさしくランツ=デルフォイが、されどどこか不安定さを帯びた男がいる。揺らめく蠟燭の残り火のような光を目の奥に宿したままで、青年は操り人形のように所在なさげに身体を動かした。
「行きなさい」女が言う。
「はい」青年が言った。
まどろみの中で少女はランツが部屋を出ていったのを感じた。するとロンティがイルファンの傍に寄ってくる。何と美しい女性なのだろう。彼女が慣れた手つきでイルファンの頭に触れるとしゅるしゅる、と頭剣布が解かれていく。琥珀の髪がゆるりと零れ落ちる。女はそれを一撫でした。
「イルファン=バシリアス。貴女には隠された力がある。でも貴女の師匠はそれを教えたくなかったようね。可哀そうに、信頼されていないのね」
「師匠……?」少女が呟く。
「そう。貴女の愚かな師匠」ロンティエルが言う。
「――思い出した。私には師匠がいたわ」
「秘匿され続けたことはきっと貴女にとってひどい悲しみになるわ。自分のことをなに一つ知らないままで生きていき、知らないままで死んでいく。親代わりの女を信じた末路は決まっているの」悲し気な声で赤い唇が動く。
「ロンティエル、あなたは何を知っているの?」
少女が問うたが、女は答えない。
「それは貴女の師匠に聞きなさい」
「でも……」小さな声が消えていく。
「きっと教えてくれないだろうけど」女は最後にそう言った。
それって、
言葉は形にならない。既にイルファンは眠っていた。ランツ=デルフォイが水に入れていた混濁薬の力でその意識は深いところへと落ちたのだ。彼女が次に目覚める頃にはお膳立てはすべて終わっているはずだった。そう、少女の力を掠め取って熱部を復活させるための儀式は着々と、もうずっと前から進んでいたのだ。ロンティエル=デルフォイの手は止まらない。そのまま胴剣布に手をかけて、それをゆっくりと剥いでいく。剥き出しになった白い肌を彼女は撫でた。静かに愛でるように。その手には僅かな魔力が宿っている。そして、言う。
「ヴォファン。貴方の剣が、ここに」
彼女が撫でた手の下、
イルファンの真っ白な皮膚には、術式陣が浮かび上がっていた。
Δ
「起きろ」と誰かに言われた気がした。
そして少女は深い眠りから覚めた。
そこにはランツが居た。
ならばまず最初に確認すべき事は自分の服だ。すぐに下を向けばそこには着慣れた剣布があった。自分の身体にゆるりと巻き付けられている。良かった。流石に三度目はないかと安心してイルファンはランツに言った。
「流石に自重したみたいね」
しかしランツは答えない。返事どころか身じろぎ一つなく、耳に入るのはぴたぴたという水音と、何かが走り回る騒がしい音のみ。この男が何も話さないだなんて一体どういうことだろう、とイルファンは寝ぼけ眼で彼を見た。
「ランツ……?」
そこには死体があった。
虚ろな目。
口の端から垂れる血液。
腹から溢れる鮮血。
ランツ=デルフォイは死んでいた。少なくとも呼吸はしていなかった。魔法で治癒する可能性はある。頸や頭は斬られていない。心臓も無事であるように見える。だから蘇生の可能性はある。されどイルファンには彼が死体に見えた。もはや息を吹き返すことのない死体に見えた。動くことも話すこともない単なる死体に見えた。イルファンはよく知っていた。それは肉の塊のことを指している。
「ランツ、ランツ、ランツ」
何度も呼びかけるが彼は答えない。跪いたままで彼は動かない。とその時になって初めて、イルファンは殺気に気付いた。強烈な殺気。剣気。靈気。上級剣士あるいは特級剣士並の顕現量である。こいつだ。こいつがランツを殺したのだ。回らない頭でイルファンは背剣を抜いた。感触が少しだけ違う。それはいつものバルニュスではない。非常に奇妙な色の剣身であった。
それは琥珀の剣だった。
自分はそれを知っていた。
一度だけ、見たことがあった。
そうだ、これはリアトが持っていた長剣。
一体何が起こっているのか。分からないままでイルファンは構える。壊れた扉の向こうから剣戟と同時に人影が現れる。白き衣を鮮血に染めている彼女は、ロンティエル=デルフォイ。彼女は満身創痍であった。左腕は落ちて右腕は骨が見えていた。彼女は枯れそうな声で言う。
「イルファン、こいつだ、こいつがランツを」
そう言うやいなや女は吹き飛ばされた。いや、斬り飛ばされたのだと瞬間的に分かった。上半身だけが獲物に飛びかかる豹のように宙を舞う。どちりと床に落ちてもなお彼女は言った。
「ラツィオ=メインだ……」
扉の向こうから現れたのは壮年の剣士。
少女は理解した。
彼がラツィオ=メイン。
イルファンは背剣に力を入れて靈気を奔らせる。少女の殺気がラツィオに伸びた。どことなく間抜けな顔をした男が言う。メイン家の剣術士というのはこんなにも柔和な顔をしているのか。されど気負い一つなく人間二人を殺してしまえるのか。夢うつつから覚めたイルファンはいまや記憶を取り戻していた。それゆえに彼女の名前はすんなりと脳中に浮かび上がる。
リアト。
自分の師匠ならばこの男を斬るだろうか。恐らくは眉ひとつ動かさずに斬り捨てるだろう。だが自分はそうではない。かつてランツにされた問いが瞬間的に頭に閃いた。「自分は人間を殺すことができるのか」、あのとき少女は答えを保留した。殺さなければならないそのときまで答えを先延ばしにしたのだ。しかし今や、それを決めねばならない時が眼前にあるのだ。この自らの肉体すべてにその決断がかかっているのだ。
「ま、待て、イルファン=バシリアスだな」男が言った。
「違う。イルファン。バシリアスじゃない」
そう答えながらすでに剣が躍っていた。答えは出すものではなく、勝手に出てしまうものなのだと少女は気付いた。自分の思考よりも速く、剣が空中を滑っていく。正面から《海下》と思わせておいた剣がぶれていた。狙いは頭部ではなく右肩、男がバルニュスを握る腕なのだ。
しかし狙い澄ました一撃は容易に流される。流れるような《浪斬》だった。身体の軸ごと避けると同時に、剣を弾いて廻し斬る技。イルファンは入り身をとられた事を悟って、即座に《渦舞》を用いる。
これは即ち足捌きだ。入り身に入ったラツィオと等速で回転していく。男の剣、避けても避けきれぬその剣を躱す。いや正確には躱したのではない。機先を制して必ず当たらぬ位置へと動いていただけなのだ。イルファンは続けざまにバルニュスを打ち込んでいく。込めた靈気により剣は《気剣》と化し、その剣身は細かく震えはじめた。これこそが靈気剣術である。
避けられるものなら避けてみろと言わんばかりのイルファンの剣技、それを紙一重で躱すラツィオの皮膚に少しずつ傷が付いていく。剣を覆う呪界の刃が避けたはずのラツィオを傷つけているのだ。少しの油断が命取りの勝負、そこに於いては僅かな傷さえも致命傷となる。ラツィオはしかし、退かない。むしろ前へと踏み込んだ。
その刹那。
この荒れ狂う少女の剣技を前に、男はどういうわけか眉根を寄せた。それは男の動きを僅かに止め、そこに隙を作りだす。このような一瞬の気の緩みをイルファンが見逃すはずもない。全力で正中線を斬り割るべく、少女が剣を振った。
《海下》
それは全身の躍動によって生み出される斬り落とし。全流派中で最高度の速度と威力を誇る剣技である。仮に首を捻っても重傷は免れない。にもかかわらず、振られた剣はラツィオの腕によって受け止められた。その腕からは血が流れでているものの、傷は骨までは到達していない。どうして。こんなはずはない。イルファンは思わず自身の剣を見る。そして理解した。
この剣には刃が無い。
これは刃引きされていたのだ。
これでは勝てるはずもなかった。男の闘鎧を破れずに剣は単なる打撃として止められてしまう。彼が驚いたのはそれだったのだろう。刃は直撃すれば鎧を切り裂いて肉を断つことができる。いかに速剣といえども刃無しでは骨を折り割るくらいが関の山だ。ましてや上級剣術士であろうラツィオ=メインに対して鋼板で致命傷を与えられるはずもない。事実、ラツィオは先ほどの一撃を右手に集中させた靈気鎧によって食い止めたのである。
「落ち着け。俺は敵ではない」ラツィオが言った。
されど、イルファンの耳には言葉が届かない。すでに彼女の五感に聴覚は存在しなかった。イルファンがラツィオを蹴り飛ばす。当然、体重差があるから転げたのは少女であった。ラツィオが助け起こそうとするように手を伸ばす。だがイルファンはその手から逃れた。獣の如く飛び退り、四槍長以上の距離を取る。それはラツィオの間合いのぎりぎり外であった。
蹴り飛ばせない。
強い。この男は強い。
もっと。
もっと力が要る。
イルファンの剣を握る手に力が籠る。
「剣から手を放せ」ラツィオが言う。
「黙れ。ランツを殺したのはお前か」
聞く耳を持たない。
ラツィオは舌打ちする。
そして、答えた。
「俺だ」
その言葉を聞くやいなや、彼女の眼の中に激しい怒りの炎が燃えた。そしてその怒りにまるで呼応するかの如く。少女の右手の中では剣が静かに震え始めていた。強大な靈気が鋼よりも濃密で鋭利な刃を生みだしていく。刃引きの剣などとんでもない。その琥珀の剣は今や触れぬ者さえ斬り裂く呪剣と化した。しかし少女は気付かない。不退転の覚悟で吐いたその呼吸は、第十界を静かに揺らしていく。
それは唐突な終わりと予想された始まりを齎す為に。




