2-4 腐綴則従/ラングリア
Δ
エルトリアムで皇貴会議が行われるというまさにその日。熱部ボダットでは大雨が今にも止もうとしていた。この雨の中を駆けていった男たちの姿はもはやないが、その足跡は泥濘の中に深々と残っていることだろう。それはある者にとっては好機であった。
熱部を包み込むこの雨が晴れるという事は、あらゆる守りが解かれるということを指す。ローレンの右腕であるところのラツィオ=メインがここを見付けるのも時間の問題だろうと思われた。当主アランドのいない屋敷、ただ一人の召使しかもはやいない、この屋敷。彼が来るとすればデルフォイはどのように牙を剥けばよいのか。幾つもの罠が熱部に仕掛けられていたが、その全てが術者の思惑通りに働くというわけではない。特に強大な流れを持つローレンの動きは誰にも読めなかった。
「兎を放たないといけない。彼の手をしっかりと掴んでおかないと法則は何処へ流れてしまうか分からない。流れは脆いものだから、大事なのはお膳立てだ。始まる前に勝負なんて決まっているのだから」
声が漏れた。
寝台。それは豪奢であった。上質の木材を張られた寝具には何よりも柔らかいと称されるマガリカ産のマットレスが用いられており、掛けられた敷布にも肌理細やかなイムファの絹が使われていた。さらにその上には無数の輝糸で刺繍を施された羽毛の寝袋が広げられ、その中に一人の女を隠しこんでいた。女の身体はその半分以上が寝袋から出てしまっている。彼女は胡坐のように足を組みながら、薄青い髪を静かに梳いていた。
「ロンティエル様……入っても?」
扉の向こうからノックもなしに男の声がしたので、彼女は櫛を敷布の上に置いた。するとそれが合図だったかのように扉が静かに開き、男がすぐさま室内に滑り込んだ。女が再び櫛を手に取ると、扉はまた音もなく閉まった。それは人形遣いでもある彼女の為した技だった。
「ウィンバルね。何の用かしら」
「エルトリアムのルスラ様からご連絡です」
「何と?」
「熱部のことはもはや我々の管轄外だと」
あまりの言葉にロンティエルは激怒した。手に持った櫛を思わずウィンバルに投げつけ、それが老執事の喉に突き刺さる。男は、血液一つ流さずに首の櫛を抜くと、胸元のハンカチーフで傷口を拭った。女はそれを見て少し平常心を取り戻したようだったが、数瞬の後には、怨嗟の言葉を大声で叫んでいた。
「酷い裏切りだわ! そう思わなくて?」
「ルスラ様とアルト様のお考えは私にも読めません」
それを聞いて、女の肩が諦めたように落ちる。彼女にとってもそれはどうしようもない事態だったのだろう。ロンティエルは苛立ちをぶつける手段を探していたが、時間と共に怒りは収まったらしく、しばらくすると柔らかな微笑みを頬に張りつけた。それはこの世界のまともな人間にはあり得ない、一種の狂的な美しさを孕んでいたが、それを見る男は顔色一つ変えはしなかった。
「いいわ、読めなくて。とりあえず私たちは熱部で事を進めるだけだもの。熱部人としてボダットのために最善を尽くす。捕まえた琥珀は決して逃さないわよ。たとえ熱部に『捨剣』が来ようとも剣王が来ようともそれを逆に利用してやろうじゃないの。何なら父と兄を利用しても構わない、あの子の為なら」
凄絶さを秘めた女のまなざしがウィンバルを貫いたように思われたが、実のところその瞳は白き肌の男を捉えてはいなかった。女が夢想するのは、かつて死んだ自らの肉親の姿だった。ウィンバルはそれに気付いているようだったが、にこりともせずに口を開いた。
「『ラストの血』、グレルトの血を引く者が相手ですか。ロンティエル様はくれぐれも十界法則をお間違えの無いように。古い血を持つ者どもはこの世界に愛されておりますがゆえ」
「古さならば私だって負けないわ」
『古い血』、『不死の呪』を持つノーランの混血にロンティエルが勝てるかは五分といったところだった。彼らと同じくグレルトの血を引いてはいるものの、デルフォイの人間たちは神秘ではない。デルフォイはむしろ呪。その身に継いだ力は、血ではなく魂。魂としての不死は肉体を持たないが故に強く、そしてそれ故に脆い。彼女とてそれを分かっていないわけではなかった。
「薄まった血で私に勝てるはずはない」
強固な確信を支えるのは経験。かつてデルフォイが『ラスト』を相手にしたときの出来事が女に勝利を夢想させていた。彼女はゆっくりと寝台から身を起こすと、傍に置かれた人形を手に取って、愛おしそうに撫でた。女がその本物めいた人形の唇に指を這わせると、ウィンバルは愚かしいものを見るように眼を細めた。それを見咎めたように、きっ、とロンティエルは男を睨みつけて鋭く言う。
「ぼさっとしないで早くランツを起こして。それから『パーンリア』を放ちなさい。魔獣との経路は私から接続するから『端末』を仕込んでおく必要はないわ。そうね……ここからは上手に役者を動かさないといけないわよ」
「勿論ですよ、お嬢様にして旦那様」
うやうやしくウィンバルが答えたが、ロンティエルはそれに返事すらしなかった。彼女の瞳はやはり遠くを見ていた。あるいは何よりももっと近くの何かを。
Δ
古い習慣を模して作られた座敷の間には三人の人物が座っていた。何れも背に剣を負っており、二人はバルニュス、一人はレディメを剣術士の証としていた。これらはそれぞれ真交流と魔剣流を表す剣である。並んで座るのはベルメーラとレアーツ、そして彼らの正面に座るのはリアトだった。三人の間には奇妙に緊迫した空気が流れていた。
「きちんと説明して貰おう。その女が私の妹だと言うのは本当なのか?」
リアトは木張りの床に胡坐を掻いたまま言った。その顔には疑念と不機嫌さが入り乱れており、一言で言えば凄まじく苛立っているように見えた。レアーツが緑髪の女を見ながら答える。
「事実だ。ラストは懲りずにまた子供を作っていた。それもあの乾湿戦争の最中に、敵対する冷部のベイル大公国でな。彼女はどうやら我々を敵に回したいらしい。まぁ奴らしいといえばそうなのだがな」
呆れ顔でレアーツが言った。
リアトとレアーツの母、『理剣』のラストは敵味方関係なく子供を作るが、その理由は単純にして理解しがたい物だった。ラストは純粋に『最も強い戦錬士を作りたい』のである。既に彼女はリアトが知っているだけでも六人の子を成していた。
トルポール共和国で『砂刃』のローディナスとの間に二人の子をもうけたというのがリアトの知る限り、最初のそれであった。この時、ラストは二十歳(少なくとも見かけ上は)だったと言う。クレリア魔法王国で『祭違剣』ログミシアとの間に一人。ヴェルトヴァン王国で『黒神』マハリアとの間に一人。そして、ノーラン皇国で『鋭鬼』リントとの間に二人。その間は僅か十年である。
ノーランのリントとの間の子が、レアーツとリアトであった。二人の父であるリントは、前剣王クルドの好敵手だった。男は次期剣王すら有り得ると言われた程の剣の使い手であったが、ラストによって骨抜きにされてしまい、驚いたことにあっさりと剣の道を捨てた。リントは彼女と二人で幸せに暮らすことを決めてしまったのである。クルド=ルーミンは必死で彼を説得したがリントはそれを聞かなかった。彼はそのまま冷部地域へと引き籠り、世間と隔絶した暮らしを始めた。
とはいえラストが欲しがったのは、彼の優秀な遺伝子情報だけである。彼女は約三年の間に二人の子を成すと、さっさとリントの元を去った。男は傷心の余り、子どもを置いて何処かに旅立ってしまった。
そのことから、勿論リアトとレアーツは父と母を恨んでいた。育ての父母たるクルド=ルーミンが居なければ、彼らは生きてもいけなかっただろう。幸いにもクルドとその妻は信じられない程に良い人間だった。彼らは二人に愛情と剣術を与えて、父母として接した。
流石は『理剣』と『鋭鬼』の子と言うべきなのだろうか。二人の子の剣才はノーラン国内の子、その誰よりも秀でていたから、クルドは自らの剣技を余すことなく子どもたちに伝えることが出来た。もっとも剣王レアーツはその養父を蹴落として剣王の地位についたのであるから、クルドにとって一連の出来事が幸せであったかどうかは分からなかったが。
リアトが溜息を吐きながら舌打ちをする。
彼女の肩は小刻みに震えていた。
「あの女、次は誰と子を成したのだ」
その問いにベルメーラが嬉しそうに答えた。
「『竜魔剣』フェルティア=ガラマール、大公国の雇われ将軍ですわ」
竜。二ツ名に其れが付けられるのは、基本的にはガラマールの一族だけだった。『竜王』ランストッド=ガラマールを始まりとする竜の血族。あの女が眼を付けるのも無理はない、とリアトは思った。だが、正統な竜の後継者は『竜子』エルフェルテッドである筈だった。彼女ならばより血の濃い方を選びそうなものであるが。
と、ベルメーラがその疑問に答えた。
「母上は『竜子』を靈力任せの力技で、剣術士としての華が無い男と仰っていましたわ。それで面白味のある『竜魔剣』の篭絡にかかったとか。私の目から見てもお父様の方が男として魅力的だとは思いますわ」
なるほど確かに、とレアーツが頷く。
だがリアトは別の部分に反応していた。
「待て。『仰っていた』と言ったな。お前は物心がついた後もラストと暮らしていたのか?」
「えぇ。ラストは、私には良い母親でしたわ」
信じられない、とばかりにリアトが口を大きく開いた。彼女は本当に心の底から驚いていた。リアトの今までの記憶からすれば、そんなことは絶対にあり得ないことだったのだ。放心状態の彼女にレアーツが追撃をかける。彼は含み笑いで言った。
「それを俺が見つけた。講和の際、ベイル大公国の剣離宮で母に会ったのだ。奴は相変わらずの息災でな、ノーランを去ったときから一本の皴も増えていないように見えた。剣の腕がどれだけ上がっているかは予想もつかんな」
「私が隠れた後の第三講和だな、」
「そうだ。五年前に俺は母とベルメーラを見つけた」
「聞いていないぞ」リアトが唸った。
「言っていないからな」
レアーツは落ち着いた様子で言う。リアトは今すぐにでも、母の話を聞きたいようであった。というよりも、レアーツの話次第では剣が抜かれそうでさえあった。リアトは今にもベイル大公国へ行きそうな顔で兄の瞳を見つめる。だがそこで、ベルメーラが話の流れを切った。どうも彼女はあまり空気を読めないらしく、ぱんぱんと手を叩いて楽しそうに言った。
「姉様兄様、その話は後でしましょう。取り敢えずはイルファンの奪還とランツ=デルフォイの確保が最優先です。さぁ仕度をして下さい、さっさとローレン殿下に謁見しますよ。あのお方にはしていただくことが山のように、」
その言葉に、リアトがまたも驚いた様子で眉根を寄せる。ただしこちらの驚きには先ほどとは違って怒りが含まれていた。
「ローレンだと。私はあの男に手を借りるつもりはない」
「あやつで無ければ、転移術式陣の痕跡を辿れんのだから仕方あるまい。これを機に和解でもしておけ。いつまでも過去を引きずるなと何度言えば分かるのだ?」
誰が見ても分かる通りにリアトは怒っていたので、すかさずレアーツが窘めるように言った。だがリアトは胸中で膨れ上がる苛立ちを如実に感じた。この怒りは抑えられない。あの冷徹な大馬鹿者と何故、和解をしなければならないのか。あの男のせいで熱部攻略は大幅に遅れ、無辜の民の命が犠牲となったのだ。
確かに当時の自分は向こう見ずで至らないところもあったが、ラクトを処刑した件といい、リアトを邪魔した件といい、彼を許すことは出来なかった。そう言えば兄は先程も、彼を許せとリアトに言った。だが、それはどうしても無理なことなのだ。リアトは真剣な眼差しで言う。
「術式士なら私にも当てはある。昔の、傭兵時代の仲間がいるのだ」
「却下する。イルファンはノーランの機密、他国人にも傭兵にも関与はさせん。俺が関わっている事象である以上はたとえお前であっても勝手は許さんぞ」レアーツが冷たい目で彼女を睨んだ。
「イルファンは私の弟子だ」リアトが言った。
空気が急激に重たいものとなる。あの、昔の事を思い出すような緊張感。あの時も自分とレアーツはイルファンを巡って対立した。そうだ。レアーツにイルファンの利用価値を説いたのは自分。他ならぬ自分が兄をこの事態に巻き込んだのだ。
兄は自身の利益の為にならば何でも利用する男である。彼はローレンだって、駒の一つとしか見ていない。彼が今回の事で折れる事は決してないだろう。リアトはそう思いつつも逃げ道を探していた。
そうだ。一つだけある。
ローレンが今回の件を起こした可能性だ。
あの男は心底、リアトを憎んでいる。彼が『骸』を操った張本人だという可能性は無いのか。その可能性に縋っていることを悟られないように、リアトはわざと怒気を溢れさせながら言った。
「そもそも、ローレンが糸を引いている可能性もあるのだぞ」
「論外だ。デルフォイが関与している以上、ローレンは『やられ役』であろう」
レアーツが冷静に答えた。確かに彼の言う事は筋が通っていた。『骸』だけならいざ知らず、アルトとランツが計画を行なっているのだ、デルフォイと完全に敵対しているローレンをこの段階で敵と見做すことは有り得ない。彼はほぼ確実に無関係だった。
だがリアトは、それでも気炎を吐いた。
「十界論法など当てになるものか。ここは実界なのだぞ」
「喧嘩は駄目ですよ」ベルメーラが言う。
「喧嘩ではない。あんただって、あの戦争でローレン=ノーランが何をしたか知っているだろう」
「私の知る限りでは、あの男は『竜子』エルフェルテッドとその仲間の攻撃を一人で防いだ英雄ですよ。少なくとも大公国では彼は偉大な魔法士と呼ばれていますし、私の父もそのように教えてくれました」ベルメーラが穏やかに言った。
「馬鹿な!」リアトが吐き捨てる。
自分にはあれ程酷い人間はいないと思えるのに、どうして兄やベルメーラは彼を称賛出来るのか。自分と彼らの見たものの、何処が違うと言うのだろう。彼らとて、ローレンが何をしたかを知りさえすれば変わるのだろうか。
いや、違う。知って変わらなければならないのは、本当は。本当は分かっている。あらゆる物事には多面性がある。自分の見たローレンが全てではないと言う事は知っている。それでも、リアトは自身の見た物しか信じられなかった。彼女の感情、内的呪言が堰を切ったように溢れ出す。
「あの男はいつも私を邪魔した。私を厄介な小娘扱いしたのだ。大して歳も変わらないと言うのに、ローレンは私を無能な剣術士と呼んだ。戦場でも、私はすぐに彼と対立した。ラクティスと私は奴のせいで肩身の狭い思いを強いられたのだ。私だけじゃない、ギエン=ムグラもだ!!」
「リアト、もう止めろ」
レアーツが言った。声量は左程でもない。されど、その声には確かに殺気が乗っていた。本気でリアトを殺さんとする力があった。彼は少しだけ寂しそうな声で言った。
「お前は先程、イルファンの行方を俺に聞いたではないか。お前の方位は既に定められているはずだ。彼女を助けたいのだろう。その為には憎しみなど必要ないではないか。あるいは、憎しみは抱いたままでもよい。お前にできることの最善を為せ、それがクルドの教えだったではないか」
「駄目だ。私がローレンと和解することはない」リアトが言う。
「何故にそこまで頑なになるのです?」ベルが問うた。
「お前に何が分かるのだ!」リアトは叫んだ。
ぽつりとレアーツが言った。
「覚えているか。『誰のための剣か』を」
リアトの目が泳いだ。イルファンを救い出さなければならない、そう思いながらもリアトは口論に身を投じていた。あるいは、自分はやはり錯乱しているのかもしれない。この身を蝕んだ特質の力は、想像以上に強力な物だった。それにより未だ、万全の精神状態とは言えないのかもしれない。ローレンを頼ることは有り得ない、その思考が消えてなくならない。
自分は何をそこまで拘っているのか。
十五年以上前のことだ。もう笑い話になるくらいの昔のことだ。そんなこと、本当は忘れても良いのかもしれない。それでも脳に焼き付いた憎しみの記憶は消えない。殺されたラクト=デルフォイの無念が消えない。消してはならないと心の中で声がするのだ。憎み続けろと声がするのだ。
「あいつはラクト=デルフォイを殺した」
「それが軍規だったからな」
「ローレンは報いを受けなければならん」
最低最悪の人間揃いのデルフォイの中で、唯一、好感を持てた若き青年剣士。まだ幼い自分の面倒を見てくれた人。奥義を使いこなせない自分を助けてくれた人。それは初恋にも似た感情であるかもしれない。それが、私の『理由』なのだろうか。レアーツが諦めをにじませた様子で再び口を開いた。
「ローレンは熱部と敵対している」
「だから何だ?」リアトが答える。
「『骸』は熱部へと消えた。放っておけば熱部は更に力を増す」
「それでローレンが苦境に陥ることは私の知ったことではない」
「お前、熱部のグレオン=ラベストリを忘れたか。奴の名をもう忘れてしまったのか。自分と同じ相手と争っているものを味方に引き込まないで、本当に勝てると思っているのか。リアト、お前はそれほどまでに馬鹿になったのか?」レアーツが心底不思議そうに問うた。
「あの男は、信用できない」
彼女は自身が何故、ローレンを許せないか分からない。理解することが出来ないのではない。直感的に知ることが出来ないのだ。即ち、これは認識の領域の問題だった。彼女はラクトの死を未だに本当の意味で認識していない。それを克服していないがゆえにローレンも克服できないのだ。
剣王レアーツは考える。
この妹の脳内に巣食っているのは、最終的には彼らだ。妹の為に死んだラクト=デルフォイと、妹に託して死んだヴォファン=バシリアス。彼女の未熟な精神は未だに彼らを宿している。八年間の間に、少しは改善されると思っていたが、どうやら、それは買い被りだったらしい。
あのとき垣間見た、弱さと強さ。
そのどちらが勝つか。
それに賭けたというのに。
自分たちは負けたのだ。
それが特質後遺症の所為かは分からない。されど恐らくは関係のない事柄だ。これはもっと深い病で、彼女だけにしか視ることも治すこともできない病気なのだ。なぜならラクトもヴォファンも蘇りはしないのだから。死者の言葉なくして立ち直れないというのなら、答えは一つしかない。そう思って、レアーツは静かに言った。
「この件から手を引け。お前にもう用はない」
ベルメーラが口をぽかんと開けた。それではどうやってデルフォイを斃すのか、どうやってイルファンを取り戻すのか、そう言いたげに彼女は二人の顔を見た。そして兄の言葉を聞いたリアトの額にみるみる血が上っていく。靈力が女の身体に充満して闘気の鎧が現れた。怒りのあまりに臨戦態勢をリアトは取っていた。
「イルファンは私の弟子、兄上に決められる筋合いはない!!」
「その言葉は空虚な偽りだ。お前の言葉ではない」
リアトが激昂して言うもレアーツは動じなかった。彼は既に判断を下していた。ベルメーラだけでは明らかに不足だがこのリアトは巻き込めない。レアーツは妹など大事ではない。戦いの最中で死ぬならば死ねばいい。自分の捨て駒になるのならなればいい。だがそれでも『死にたがり』を駒にしようとは思っていなかった。レアーツにとっての生、それはただの逃避や諦めではないのだ。目的へと向けられた強い意志の力でなければならないのだ。レアーツは妹を深い意味で愛していた。それゆえに彼女を自死させる事だけは出来なかった。彼女は、イルファンを愛するがゆえに死ぬのでなければならないのだ。
「兄上は何が言いたいのだ!!」リアトが叫ぶ。
「お前は目的と手段さえも混同している。イルファンの為に生きているのではなく、ヴォファンやラクトの死を和らげるために彼女を使おうとしているだけだ。死者の為に生きる人間は、駒としては役に立つ。されど、自分で生きられない者は長く生きられない。お前は誰の為に生きているのだ?」
捲し立てられて、リアトは遂に黙った。
「失望したぞ」
彼女に必要なのはローレンと和解する為の大義名分だったが、イルファンではそれには不足だという。別の何か、それを彼女に与えなければならないというのだ。それはレアーツにとってあまりにも不愉快な話だった。
彼は一つ、賭けてみることにした。
レアーツは冷ややかな声で言い放つ。
「着いてくるな。お前はロビラを見ておけ」
彼は即座に妹に背を向けると、板敷きの座敷の間を立ち去った。その足音は荒々しく聞こえ、いつものレアーツらしくは無かった。ベルメーラも少し不安げな顔で彼の後を追う。部屋にはたった一人の無力な女だけが残されることとなった。
リアトも彼らを追いかけようとする。
されど、その脚がどうしても動かなかった。何かの呪術を掛けられたのではない。自身の根底において、自分で自分を縛ってしまったのだ。遠くで扉がぴしゃりと、閉まる音がした。もう自分は剣王邸から出られない気がしていた。ここに一生、留まって、世界には自分一人で。兄の言葉を否定できない事は分かっていた。自分がおかしなことを言っていることも分かっている。
非合理。
そう非合理なのだ。と兄ならば言うだろう。『理剣』の娘である筈の自分が、理を見失っている。何が正しくて、何を誰の為にすれば良いのか。自分のために生きるということがこれほどに難しいことだとは。他人の為に死ぬということがこれほどに容易いことだとは。あの戦争の最中には思いもしなかったことだった。
「私は何を助けたのだ」
イルファンが手の中から消える感覚がする。八年間も、一緒に居たというのに。消えてしまう。彼女が生まれた時から見ていたと言うのに。修業も、話も、馬術も剣術も何もかも、ローレッドで教えたのは自分だと、言うのに。最初から何も無かったように自分の中で消えていく。どうでもいいような無数の断片に堕ちていく。
八年間の交わした言葉が、少女の声が、少女の笑顔が、少女と居た全てが、自分の所為で消えてなくなってしまう。本当に消えてなくなりたいのは自分だと言うのに。こんな自分を止めてしまいたいというのに。幾つかのせめぎ合いが彼女のなかで争っていた。仇敵と手を組むことは真の問題ではないのだ。
「ただ助けたいだけだった」
目の前の人々を助けるだけで良かったあの頃は、ずっと問いが単純だった。盲目のままで命と見えたものを救えば良かった。しかし今はそうではない。許せぬものがあり、しかし許さぬことには前へと進むことができない。しかし、一度でも許してしまえばもう何もかもが崩れてしまうような。過去を振り切る勇気を誰かから貰いたいと思った。自分でなくなりたいと思った。
しかしそれは出来ない。
其の事だけは分かっていた。
自分は自分以外にはなれない。
自分が本気で動かなければ。
このままではまるで母のようだと思った。産むだけ産んで捨てる。全てを無価値にする。自分は今まさにそれをしているのではないのか。イルファンという少女の人生の一端を担いながら、この人生の一端を担われながら、自身の都合で彼女を見放して誰からも兄上からも見放されて。
そうして、また一人になる。
誰の為に何をすれば良いのだ。改めて、リアトは自身に問うた。ヴォファンの、男の約束の為。ラクトの、友の無念を晴らす為。剣王レアーツ、兄の戦いを助ける為。ラストの、母の願いを叶える為。
「何を助ければいいのだ」
いや、それでは恐らく駄目なのだろう。イルファンを助ける為に必要なのはイルファンを中心に置くことなのだ。いや、それすらも誤りなのかもしれない。どんな自分も自分のために生きるべきなのだろう。それが分かっていながら、リアトはやはり分からない。彼女は行き場のない思いを抱えたままで立ち尽くした。
扉が開く音がした。
リアトは反射的に構える。背の剣を素早く抜き放って靈気を充満させる。剣王邸に立ち入れる人物はそう多くはない。敵だとすれば目的は何かということが素早く頭をよぎった。この場所に価値のあるものはそう多くない。今ならばロビラくらいのものだろうか。
「誰だ?」リアトが問うた。
気配が近づく。呪によって守られたこの建造物は強固な結界を持っている。術式結界と呪術結界の二つを組み合わせた積層複合結界であるために侵入条件は非常に厳しく、剣王レアーツの認めた者以外は入れない。それ以外に自由に立ち入りを許されるのは、皇王ラハリオのみ。リアトは不思議に思いながら、扉のある玄関へと気配を殺して近付いた。
ロビラだろうか。しかしあの男は未だ意識が戻らずに寝込んでいるはずだった。その瞬間に足音。戦錬士に特有の消音歩法。これは真交流の剣術士だ。いやまて、この足音には覚えがある。この呼気は。聞いたことのあるこの気配は。そして微弱な靈気がすべてを伝えた。
リアトは剣を降ろす。
そこにはルハラン=ノーランがいた。
彼はやけに疲れた顔をしていた。
「ルハラン、何故ここにいる」
「リアト、意識は戻ったか」
どうして知っているのだ?
そう思いながらも、リアトは心がざわつかないのを感じていた。彼が知っていて、そしてここに来ることは不思議ではない。そういう流れを感じていた。まるで定められたかのように。恐らくは、第十界的な編綴法則だ。それこそが運命である。誰かがこの流れをお膳立てしたのかと思う程の展開をノーランでは運命と呼ぶのだ。
「私は、大丈夫だ」女が言う。
「安心した。剣王とベルは何処におる?」
ルハランが傭兵訛り、それも乾湿戦争前の古い物、を使って言う。今日日、こんな珍妙な話し方をする人間はルハラン以外にはほとんどいない。彼がどうしてこんな話し方をするのか、リアトは良く知っていた。宮殿嫌いのルハランはずっと傭兵になりたがっていた。その為に彼は深青宮の図書を読み漁って、傭兵訛りを学んだのだ。書物に書かれていた古い代物を必死で読んだのだ。
「二人はローレンを説得しに行った」
リアトがとても疲れた声で呟いた。ルハランがそれを聞いて、眉をぴくりと動かす。思案気に眼をきょろきょろと動かして、彼は言った。その声には何かを探るような響きが少しもない。この男の思慮の浅さが今は心地よく感じられた。
「リアトは行かへんのか」
「行けない」女は答えた。
恥じるかのようにその頬が紅潮する。リアトは気付いた。ああそうか、これは我儘なのだ。自分は兄に対して、意地を張っていたのだ。ルハランが口を開く。リアトはそれを注視した。彼は自分に何と言うのだろう。彼も自分を責めたてるのだろうか。
ルハランは言った。
その言葉は予想外のものだった。
「俺はローレンと既に誓約を結んだ」
「誓約? ローレンと?」
リアトには一瞬意味が掴めなかったその声は僅かに震えていた。何か、眼に視えぬ物を恐れる様に。彼がいつもよりも小さく見えた。実際のところルハランは怯えていたわけではなかった。彼は自らがこの場を綴る者となっているという事態に震えていたのである。
「ルハラン、何を言っているのだ?」
リアトが『誓約』などという不穏な言葉に驚いて問う。彼女も、期待すると同時に恐れていた。この男がこれから言う言葉は、何なのか。彼は自分の知らぬ間に何をしたのか。
ルハランが一息で言った。
「俺は熱部勢力と剣王の牽制に全面協力することを誓い、ローレンはリアトとその弟子イルファンへの干渉を永遠にしないことを誓ったんや。あの男は今回は何もしとらんし、できへんで」
「永遠を含みこんだ誓約は未来と過去をも含みこむ……」
つまり、糸を引いているのはローレンではない。いや、本当はそんな事もう既に知れていたのだ。ルハランは知らないが、アルト=デルフォイが参戦した時点で、彼らデルフォイと対立するローレンが敵であるはずはないのだから。リアトはその事実を知っていたはずだった。
だが会話はそのようには続かなかった。
リアトは安堵したように言った。
それが本当の安堵かは分からなかったが。
「じゃあ彼はもう、私と敵対しないのだな」
「俺も彼奴に手を貸したらな、あかんけどな」
ルハランが言う。彼の傭兵訛りが心地よい。彼は特別、役に立つことをしたわけじゃない。むしろ見ようによっては無駄なことをした男のはずだ。
にも拘わらず、リアトの胸中から重たい物がすっ、と取れた。ローレンという男に対する恨みや憎しみが抜けた。簡単に消えてしまったのではない。そういう単純な感情の変化ではない。これはむしろ新しい感情の加算だった。救われたという安堵の、その余波に過ぎない。
「誓約は破れない」リアトが言う。
「ローレンに協力せんとな」ルハランが言った。
これで自分は『仕方なく』ローレンに協力出来るのだ。分かっている、所詮、大義名分を得たと言うだけの事。自分はまたしても決断から逃げたのかもしれない。しかし、イルファンを救う為の流れは作られた。彼によって作り上げられた。
ルハランのおかげで私はどうにか動くことが出来たのか、とリアトは思考を巡らせる。ローレンに対する一つの繋がり、それは思わぬ所から掛けられた。彼も兄であるローレンを嫌っていたはずだった。しかし、彼は兄と和解した。いや正確には、其れは和解ではないのかもしれない。剣やその他の武力で駆け引きで彼を宥めたのかもしれない。
だが、それでも。
ローレンとリアトはもはや憎しみによって断絶されていない。嫌々ながらとはいえ、自分と彼は、もう同じ地平に立つことが出来る。言葉にならない晴れやかさがリアトを支配していた。ローレン自身がどう思っているかは分からないが、リアトの中では、気持ちの落とし所を漸く見つけられたのである。たとえそれがごまかしに過ぎないとしても。
彼女は意を決した様に言う。
「私は『骸』を追う。お前も付いてきてくれ」
「何言うてんねん。お前が俺に付いてくるんやろ」
ルハランは。
彼は少し苦しそうに笑った。
Δ
「と、いう事だ」
「おえー」ベルが吐いた。
剣王レアーツ=ルーミンがベルメーラを見て顔をしかめる。そこは剣王邸の直ぐ傍、人通りの少ない小道である。彼は自身の端末をローレンの『記述樹』に繋ぎながら言う。彼は既に、ローレン=ノーランに話を付けていた。彼によれば、ティノールへの転移術式陣は既に用意してあるらしい。それを用いれば、すぐに第四都市へと行けるだろう。
それよりも問題は『皇貴会議』なのだそうだ。あの会議に必要な物は未だに揃っていない。そこでローレンはレアーツに一つの頼みごとをしていた。その願い、叶えようとすれば出来なくもないが、それにしても賭けが外れれば厳しい戦いになる。ルハランにはなんとかリアトを説得してもらわねばならない。ベルメーラがそこで不安げに言った。
「本当にそんなに上手く行きますか?」
「お前はルハランを嫌っているがな、あの男はある意味でリアトに似ているのだ。だからこそ役に立つのだよ。俺では嫌われるようにしか人を動かせんからな」
またもベルメーラは、むーっ、と膨れた。あいつには似てません、と彼女が小声で言う。レアーツは苦笑した。この子の姉好きにも困ったものだった。
「ベル。あいつは完璧超人じゃない」
「完璧超人です」
一体、誰がそんな事を吹き込んだのだ。あぁ、母か。あのふざけた女、ラストの仕業か。全く、何もしていない癖にある事無い事言ってくれる。レアーツはこの場にいない母に苛立ちを覚えた。ベルメーラがそれを感じて、言う。
「そりゃあ、私だって最初に見た時は驚きましたよ。あのリアトがあそこまで覇気のない人だとは思っていませんでしたし、剣力も靈力も想像していた程では無かったですし。衰えているということを全身で感じましたもの」
「そうだろう、そうだろう。俺がクルドなら、リアトの特級位など既に剥奪しているわ」
レアーツは憮然とした言い方で、しかし笑いながら言った。妹の全盛期は十七の時だろうか。乾湿戦争後の傭兵時代。彼女が国属の有り方に飽いて国中を回ろうとしていた時の話だ。あの時代に、リアトはヴォファンと出会い、そしてその妻とも出会った。リアトの精神構造がそれでどう変化したのかはよく知らない。
されどその数年間でリアトは変わり、牙を失った。眼は変わらないままにちぐはぐな戦錬士となったのだ。それはまるで虚勢を張る獣。小魔獣だ。
「でも、それでも姉様はアルトを下しました。自分の精神を犠牲にして」
「誰もそんな事を望んではいないと思うがな」レアーツが吐き捨てる。
「私は、姉様の師弟愛の深さに感銘を受けました」
感銘を受けてどうするとレアーツは思った。リアトは確かにイルファンを大事にしているが、その可愛がり方は普通の物とはやはり違うのだ。そこにちらつくのはヴォファンの影。リアトの影。そして死んだ盟友フィアーテ=ミュトスとの影なのだ。
「あれは愛ではない。愛とは自分だけのものではない」
語りだすレアーツ。
ベルメーラが顔を顰める。
「むー。兄様は五月蠅いですね。ちょっと黙ってて下さい」
ベルメーラはそう言うと、後ろを振り返った。
二人が待っていた人物の足音がした。
剣王邸の扉が開き、誰かが出てくるのが見えた。彼らは足早にこちらへと、向かってくる。なるほど。今度の賭けには勝ったらしい。だが実に陳腐な綴り方じゃないかとレアーツは思う。誰が考えたのか。強引で無理のある展開じゃないか。こじ付けて、ぶつけて、混ぜ合わせて、ぐちゃぐちゃの思考の中で、自分を騙すという欺瞞など大嫌いだった。
だがそれでも、彼らは進まなくてはならない。綴らずに立ち止まることなど、許されない。どれほど傲慢で利己的で厚顔無恥に思えても、汚物を垂れ流すような、反吐の出る自己防衛の論理でも、たとえその場では負けたとしても先へ進んだ者が勝者なのだ。
呪界では認識が大きな意味を持つように、実界でも認識が自己の感情を色づかせるのだ。本当は、妹は未だに誰の死からも抜け出せてはいないとレアーツは知っていた。ラクトの死による責めも一時的に緩和されただけであろう。彼女はいずれ、それらに真っ向から立ち向かわなくてはいけない。
その時こそ、リアトが本当に甦る時なのだ。
「兄上、私もローレンと話をしたい」リアトが言った。
「あぁ」
レアーツはさしたる反応も返さずにそれを受け入れた。リアトがそれを見て苦々しい顔をするも、そこにはどこか晴れやかさのようなものがあった。何か新しいことを為すときには自分のなかの抵抗感とまず戦わなくてはならない。女の表情はその戦いに勝利したという証なのだろうか。戦いはどんなものであっても苦しく痛みを伴うものだ。だとすればリアトはこの先の痛みを予見していたのかもしれなかった。何はともあれ、四人は急いで皇城へと向かうことになった。
しかしレアーツが反応を返さなかったのは、別にリアトに期待していないからではない。彼は自分のなかで最も手を尽くさねばならぬと考えている事柄について、考えを巡らせていたのである。果たしてこれで、上手くいったのだろうかとレアーツは考えていた。ルハラン=ノーラン、リアト、ベルメーラ、自分。これだけいれば彼を抑えられるだろうか。レアーツは微かな緊張感を覚えつつもペルデ=エレングルが来るまでの勝負であることを再認識していた。
そも、剣王はこの中で、ただ一人だけ異なる目的で動いているのであった。彼の真の目的はイルファンの奪還などではなく、早いうちにこの四人と認識面で深い関係を結ぶことである。その関係は今すぐは役に立たなくともいずれ、大きな流れを作る。
レアーツには視えていたし、彼とベルメーラだけが彼女を知っていた。ローレンが忌まわしい婚姻を最早避けられなくなった以上、それまでにラハリオ=セン=ノーランを始末しなくてはならない。あの『靈覇剣王』と呼ばれる皇国一の剣術士を殺す事は極めて困難だった。その為にレアーツはロビラをこの段階で捕えたのだ。そんな程度で手を抜く相手でないことは分かっていたが、『十二王剣』と皇王ラハリオに対しては道具が多いに越したことは無かった。
彼は冷たい汗を知らず知らずの内に掻きながら、笑う。そんなレアーツの顔を見て、ベルメーラが不思議そうな顔をしていた。
Δ
街中をゆっくりと走る車に馬はない。
その車は四つの車輪を動かし、がたりがたりと走っていた。
旧式の車。これはいわゆる術式魔動車である。『機両』の出現した今では時代遅れの乗り物だが皇王ラハリオが『機両系術式車両』の使用を禁止した為に、この皇都では未だに旧い魔動車が使われていた。車輪と軸、それに風属魔石からなる極めて単純な魔動車はバルニア帝国崩壊以後から用いられており、千年間この中央大陸の交通を担ってきた。乾湿戦争により街道が荒廃した今でも市中での使用されることは多い。ただし動力となる魔石の希少性から一般市民が気軽に使用できるようなものではなかった。
「いい車だな」ルハランが言った。
「俺の愛車だ。年代物だがな」レアーツが自慢げに答える。
「相変わらずのぼろ車か」リアトが吐き捨てた。
レアーツが背の剣に手をかける。
それを素早く止めたのはベルメーラだった。
「アルトと『骸』は何故、このエルトリアムで姉様を捕らえようとしたのでしょう」
悪くなった空気を変えるためにベルメーラが言った。その声は車の駆動音と街中の喧騒で若干聞き取りづらい。すぐにリアトが答えようとしたが剣王レアーツが代わりに言った。
「目的は『剣』であろうよ」
「剣?」
素っ頓狂な声を上げたのは、ベルメーラではなくリアトだった。剣王レアーツが馬鹿を見るような眼で彼女を見た。如何にも憐れんでいるといった風な表情である。彼は苛立ち声で言った。
「お前に託した『剣』だ。此度、用いるから持って来いと言ったろうに失念していたのか。そういえば先程からあれのことを一言も言わなかったな。まさかローレッドに忘れてきたのか?」
リアトが俄かに焦りはじめる。
「確かあの剣は腰に差していたはずだ。それがいつの間にか無くなってしまっていて。そう、『骸』との戦闘中だ。あの時に呪体変換されて、」彼女がたどたどしく言った。
「良い。奪われたとしても『安定化術式』が解けるまでは使えぬ」
さらりとレアーツは言った。その言葉でリアトは少しだけ落ち着きを取り戻す。しかしこれはベルメーラとルハランには、意味の分からぬ会話であった。
「リアト、そろそろ話してくれ。イルファンって何やねん」
ルハランが訝しげな顔で問う。彼は未だに、イルファン=バシリアスの正体を知らない。彼とベルメーラは何やらよく分からないままに『骸』を追っていた。剣王やリアト、それに襲撃者共の様子を見れば、少女が特別な役割を持っていることだけは明確に分かったが。
リアトと呼びかけているもののルハランの目はレアーツを見ていた。それを感じてレアーツが言った。
「禍忌魔術の憑代としか答えられんな」
憑代。それが何を意味するのか、ルハランは分かりかねた。『脳子』エルミスタットも確か、憑代と呼ばれる存在である。彼らとイルファンの間に何かの共通点があるようには思えなかったが、まさか彼女が術式機械だとでも言うのか。ルハランは一人、考え込む。
そんなルハランを見てリアトが言った。
「あの子はちゃんと生きている」
「それはそうやろ」ルハランが返す
どういう意味なのか。まるで靄の中に足を踏み入れた気分だった。何一つ分からぬまま、ここまで来てしまった。味方なのか皇国に仇為す存在なのか、それすら判然としない。唯一の手がかりは八年前の微かな思い出のみだった。リアトが少女と共に山へと隠れた際に、彼女は誰から逃げていたのだったか。あの時リアトを追っていたのはレプロン=リニア率いるトルリア騎士団だったはずだが。そう考えているうちに車は止まった。
「ルハラン、着いたぞ」リアトが言った。
僅か十数分で目的地に着いていた。既に商人街や市民街を通り抜けたためだろうか、辺りには人の気配がないばかりか、羽音一つなかった。門番の声が外からかすかに聞こえた。この乗り物は剣王の所有物である為に車両検査を免れるらしい。本来は立ち入りに煩雑な手続きが必要になるのであるが、今回ばかりはそれを免除されてリアトたちは宮廷に入ったのだ。
静かに動き出した車がある場所を越えた瞬間に、周囲の雑音がぴたりと消えた。防音魔術だ。風系統の般属魔法、恐らくは空気魔法を用いているのだと思われた。それは大気中の分子を制御する高等魔法である。やはりこの、ノーランの術式技術は進んでいるらしい。
『外宮部』の先、青宮の手前で停車したところでレアーツが窓を開いた。外を見れば、広大な庭園が背後に広がっている。どう考えても皇都の中とは思えない異常な広さにリアトは驚いた。この景色だけは何度見ても慣れるものでは無かった。偉大なる先人たちの遺した花園は無風の空間で揺れている。彼女はその光景にどこか空恐ろしいものを感じていた。
深青宮ラングリア。
ここはリアトが最後に見た八年前よりも一回り大きくなっているようだった。蒼い外壁はさらに深みを増し、光を浴びて美しく輝いていた。時刻はもうすぐ、十二時になろうかという頃。オラン=ハオンの力は徐々にその力を増している。
一行はルハランの後をついて、皇宮へと入った。やはりこの建物は大きすぎるとリアトは思った。柱の一つ一つが、巨人の為に誂えた様に太い。訪宮者が最初に見るであろう大広間も室内とは思えないほどで、地平線の彼方まで続くかのような豪奢なダンスホールが広がっていた。ここの天井もどこまでも高く、深い闇の彼方へと溶け込んでいる。とても現実の光景とは思えなかった。
そう、ここは本当のところ、純粋な実界ではなかった。呪界との『違層結合魔術』によって作り出された空間なのだ。実界の限定空間内に、巨大な呪的空間情報が格納されている。とでも言えば説明したことになるのだろうか。少なくともここは見た目通りの広さではない。この宮殿は内部に幾つもの空間を圧縮した『歪場』なのである。無論、この空間を維持する為には莫大な魔力が必要となるが、それは一体何処から齎されているのだろうか。そこまでは流石にリアトも知らなかった。
Δ
階段で執務室まで登るのは下級官吏だけだ。リアトとルハランは皇族用の昇降機を用いて昇る。レアーツとベルは用があるらしく、別の昇降機に乗って地下に向かう。リアトとしては兄が居てくれた方が心強かったのだが、先ほどの事もあるのだし、あまり頼りには出来ない。とりあえず、第一皇子ローレンとの間で話はついている様なので、リアトはルハランと共に仇敵に会うことにした。
昇降機が音もなく動く。これも術式機械――いわゆる魔道具の一つだ。使用している魔法までは知らないが、恐らくは複合魔法であろうと思われた。狭い箱のなかでルハランは女の横顔を見つめていた。
「緊張しとるんか」
男が言った。リアトはその言葉にはっとした。自分は無意識のうちに下唇を噛んでいたのである。ルハランが兄に会うのは、今日のうちで二回目だ。それもほんの一時間も前に会ったばかりで特に臆することも緊張することもないのだろう。だが自分は違う。彼と会うのは実に十数年ぶりだった。
「それなりには緊張している」リアトが言う。
「落ち着け。取っては食われん」
「あぁ。乾湿戦争では何度も顔を合わせた仲だ。初対面というわけでもないし、奴が怖いわけでもない。ただ何というか落ち着くというのは無理そうなのだ」
そういう彼女の声には硬さがある。昇降機が止まった。何の振動もない。静かに扉が開くと、そこは長い廊下だった。眼を凝らせば、奥に一際大きい扉があるのが見える。それこそが『青宮三階 都主執務室』であった。すたすたと近づいたルハランが口上も述べずに木製の扉を打ち叩いた。かんかんと乾いた音が響く。
「入れ」やや高めの声がした。
ルハランと、彼に隠れるようにしてリアトが部屋に入ると、中には当然ながらローレン=ノーランが居た。大量の紙に埋まりながらも複数の術式板を操作している。あれは転言用術式板に様々な機能を加えた物『端末』だ。傭兵や一部の者は、それを『汎用術式板』とも呼ぶ。主にその機械は通信を目的に使用されていた。所持しているのは最低でも上級市民以上の人間だけで、下級市民や一般の国属兵は所持することができないし、持っていたとしても『記述樹』に接続することが認められていない。
ローレンはしばらくの間、それに集中していたが、顧問官の男――ルディオが咳払いをすると、顔を上げた。だがすぐにその顔が神妙なものになる。ローレンはさらりと言った。
「『捨剣』のリアト、こうして顔を合わせるのは久方振りだな」
リアトは一瞬、顰め面をしそうになったがそれを堪えた。自分が先ほど、剣王邸でした決意をそう簡単に破るつもりはなかった。もっともその決意はローレンの出方次第ではすぐに揺らぎそうなのではあったが。心を静めて、怒りを見せないようにゆっくりと言葉を紡いでいく。
「お久しぶりですね。『雲指』の方」
「今の私は『雲指』ではなく、『都主』だ」
ローレンが鋭く言い放つ。どうも彼は『雲指』とリアトに言われるのが嫌であるらしかった。かすかに緊迫した空気が流れたが、ルハランの次の一言でそれは消えた。
「お二方の仲が悪いのは承知の上で、私からお願いがあるのです」男が上品な声で言った。
リアトとローレンがぴくりと眉を動かす。既に話は通してあるはず。これ以上、何を言うのか。ルハランの考えがリアトには分からなかった。ローレンも展開が読めないという風に口の端を歪めた。だがそれに構わず、ルハランは話し続ける。
「裏王剣の『骸』なる暗殺士をご存知ですか」
ご存知も何も、つい先ほどお前に説明されたのではないかと思いながらローレンは話を合わせることにした。そうすることに何かの意味があると考えたのである。
「知っているが」
「彼は此度、陛下との王剣誓約を誤魔化して裏王剣を離脱したのです」
その件は既にオルンドラからも報告されていた。敵はランツ=デルフォイとその兄アルト=デルフォイであり、彼らが『脳子』エルミスタットに干渉していた事も把握済みだった。この状況下で、ローレンは殆どの情報を握ることに成功していた。知らないのはそれこそ、イルファンの正体とそれに伴うデルフォイ家の計画の目的である。ローレンは全て承知の上でルハランに合わせた。やけに芝居がかった声が青年のような男から発される。
「なんと」
「これは皇王陛下への明確な反逆の意」
この言い口でようやくリアトも気づいた。これは形式だ。ルハランは逆臣を誅殺する際の形式をなぞっている。そのような儀式めいた行いは無駄な振る舞いではない。これは十界において、討つ流れを作る行為なのである。
「其ればかりか、『骸』は剣王下の剣術士を一人攫い、その上で皇王陛下の友人であるロビラ=ケティス上級魔法士をも害し、転移魔術によって皇都から逃亡したのです」ルハランが朗々と言う。
「なるほど。それで」
如何にも退屈そうにローレンが言った。たとえ何かの考えがルハランにあるとしても、分かりきった事を何度も聞かされるのはたまらない。何の為にわざわざこんな形式染みた事をするのだ。しかし、ルハランはあからさまなローレンの態度に恐縮することなく、話を続けた。
「私の部下が彼を逃がしてしまったのは私の責任でもあります。故に何としても私は『骸』を捕らえたい。その為に、兄上と特級剣術士のリアト殿にお力を貸して頂きたいのです」
お力なら幾らでも貸してやろう。
とローレンは勢いよく立ち上がった。今までの怠惰さが嘘のような俊敏さである。彼は机上の資料を払いのけて、支度を始める。彼はすぐさまルハランとルディオに言った。その目にリアトという女はほんの少しも入っていない。
「あと三時間で皇貴会議なのだ、急いでもらうぞ」
ローレンの命運を決める皇貴会議が始まるのは今日の十五時からである。転移術式陣を用いても、今からティノールへと出向き、陣を復活させていたら一時間は最低でも掛かる。ローレンは少しの無駄もなく、事をこなそうと考えていた。
しかしそこでリアトが言う。
「待て待て、勝手に決めるな」
彼女はやはり苦々しい顔をしている。
動きを止められたローレンも顔を顰める。
リアトは不思議そうに言った。
「ローレン、何故私に手を貸すのだ?」
釈然としない顔で彼女は言った。確かに誓約は成されたのだろう。言質もとってあるのは間違いないし、剣王の口添えもあることにはある。だがそれでもこんなに簡単に行くものか。ローレンと自分は長い間和解出来なかったのだ。それが、こんなに、いきなり。
彼女はラツィオ=メインとのフィロレムでの邂逅を思い出していた。あの時、男は何と言っていたのだったか。『戦争はもう終わっているのだったな。ローレンだってあんな些事には関わらんだろう。まったく何のことはない。俺もローレンもお前と同じで、もはや戦錬士ではないということだ』。その言葉がリアトの頭のなかを駆け巡っていた。
ローレンはもはや、あの戦争のことを何の気にも留めてはいないのか。あのくそったれな記憶は自分の中にしか残っていないのか。人を苦しめた者は苦しめられた者よりも、忌まわしい思い出に苛まれないと聞いたことがあった。もし本当にそうだとすれば、自分はローレンを、許すことはできないだろうとリアトは拳を固く握った。
眼前の男は顔を引き締めて言った。
その表情には伺いしれない暗さがある。
「安心しろ。許したわけでも許されたいと思ったわけでもない。お前だけは許せんが、私は私の利の為に協力することにしただけだ。脳みそがあるなら理解できんということはあるまいな」
「貴様の利?」
リアトが背中の剣に手をかけながら尋ねた。
「おやおや、ローレッドに籠っている間に脳が腐り落ちたのか。私と敵対するデルフォイがその件に絡んでいるならこれをむしろ好機と捉えるのは普通のことだろう。奴らを蹴落とせるなら私はお前とだろうと魔女とだろうと手を組むさ」男が言った。
どうやら、ローレンは追いつめられているらしいとリアトは思う。彼は捨て身でデルフォイを叩きに行くつもりなのだ。ともかく、彼は自分と和解するつもりは少しも持っていないらしかった。それがリアトを安堵させた。戦争が無駄になっていないというのならば剣を抜く必要はない。リアトが手を下す。しかしローレンは、更に自身の考えを語った。
「しかも考えの知れないレアーツ=ルーミンにまで恩を売れるとなると、私が手を貸さない意味がない。もう一度言ってやる。お前とラクト=デルフォイは許せんが、私はお前たちに協力してやろう」
その物言いにリアトが顔を歪める。自分勝手で屁理屈を言うのが好きな男。彼女はやはり、ローレンのことが嫌いだと思った。どうして彼は自分に対してこうもつっかかってくるのか。思春期の子どもじゃあるまいし。
だが彼と共闘しない訳にはいかない。イルファンを助ける為には彼の力が必要だし、ルハランはもう誓約をしてしまっている。自分がここで手を引く訳にはいかない。とはいえ、言われっぱなしも癪なのでリアトはローレンに積年の恨みをぶつけようとした。
だがそれを遮るようにルハランが言葉を放つ。
「違いますよ、兄上」
彼の言葉には奇妙な余裕があり、そのために場の緊張感は打ち砕かれた。彼の言葉はリアトにも向けられていた。二人を視界に収めながらにっこりとルハランが微笑んだ。
「これは私からの嘆願なのです」
「嘆願?」ローレンが言う。
その鋭利な顔には疑問符が浮かんでいる。
ルハランが其れに答える。
「そうです。兄上とリアトの意向など全く関係なく……私のただの願いをお二人は聞いてくださっているのです。そのことに深く感謝いたします」
その言葉で、遂にローレンは理解した。なるほど、この弟は回りくどい事をするものだ。ルハランは、端的に言えばリアトの恩義の感情を無くしたいのだ。このままローレンが協力すればリアトは借りを受けてしまう。それを避ける為に形式上は自分の嘆願である、という形を取ろうと。
そういう事であった。
「あぁ、『聞き入れる』形式を取れと」
「まさしく」
得意げにルハランは頷いた。全く、リアトなんぞのどこが良いのだろう。ローレンには弟の感情が欠片も分からないが、しかしローレンはその提案を呑んだ。この期に及んでまでリアトを貶めている余裕は自分にはないからである。
なにせ、転移術式陣を再生させれば話は終わるのだ。リアトと、ルハランに剣王レアーツがデルフォイを襲撃する。そうすればデルフォイ本家のくそ餓鬼共、ランツ、ロンティエルは死ぬ。皇都に出てきているアランドと長男のルスラは死なない。ひどく単純に問題が解決するように見えた。
デルフォイ家は先程、ルハランが言った理由で大打撃を受けて取り潰しになるのだ。全く、ばか餓鬼共は最高に無駄な一手を打ったものだ。これでアランド達、熱部貴族連中を恐れる必要はない。これは皇貴会議の為の、最高の布石になるのではないか。リアトとルハラン、そしてローレンの利害は一致していた。
「よかろう。私はルハラン、お前の頼みを聞き入れる」
それはリアトが一切の恩義を感じなくても良いということだ。同時にローレンがリアトの為に働く不快感を払拭することも出来る。これから、行う事にはイルファンは何の関係もないのだから。必要なのは、各々が自分の為に事を為すということ。それを前提としてなお、ルハランはリアトに言う。
「有難う、兄上。リアト殿も受け入れてはくれないだろうか」
ルハランがリアトを見た。
自分の為に、流れを作った男。
ローレンとリアトを再び引き合わせた男。
その真っ直ぐな瞳に打たれて、リアトの口が思うように動かない。こんなに真っ直ぐ見られたことなど久しくなかった。逃げられない。彼の気持ちは知っている。知っているが応えられない。なのに、こんな風にその力だけを借りても良いのだろうか。ルハランは真面目な男ではないはずなのに。浮気者で、少し陰もあって、得体が知れなくて、愚かな弱者で。
なのに、ほんの少しだけリアトは彼から目を離せなかった。ゆっくりと、彼女の唇が動き……、
何かを言おうとする前に、若い女の甲高い声が空気をぶち壊した。
「いつまでやってるんですか、早く準備して下さいね」
ベルメーラがローレンの術式板に転言したのだ。どうやら、今までの会話は全て彼らにも聞こえていたらしい。すぐさまレアーツの心底、気持ち悪そうな声も転言された。
「よくもそんな茶番をいつまでも続けられるものだな。さっさと降りて来い。時間をかければかけるほど状況は加速度的に悪化するのだぞ、惚け共め。戦錬士としての仕事を全うする気もないのか」ひどく厳しい口調であった。
しかしリアトは、兄がそんな口の利き方をしたことに驚きを覚えない。この場にいる誰もが、それを当然のことだと捉えていた。ノーラン皇国は天獣教を信奉する宗教国家である。故に皇王やそれに連なる皇族はハオンの加護を受けた聖人と見做される。現に、建国当時は皇王が絶対的な権力を握っていた。
しかし時代が進み、天獣教の権威は衰えた。特に各地で頻発した魔獣病の大規模な流行は大打撃を与え、人々は獣と名の付くものを嫌い、それを恐れたのである。ノーランの皇族達も方針を変更せざるを得なくなった。かつての、天獣の加護を受けし者としての『皇』は薄れていく。彼らはノーラン家という一つの家にまで存在位格を落とし、それによって家を長く存続させることを選んだのだ。
故に『皇』とは付いているものの、国の実態は王国と対して変わりがない。だからこそ乾湿戦争の英雄は持ち上げられるのであり、武力という力でしかない剣王がここまでの地位を得られるのである。勿論、剣王の地位に関しては建国時の初代ラエス=ルーミンの功績が大きいのだが。
何はともあれ、この国では剣王は皇王に次ぐ権力者である。即ち、四人の皇太子は剣王よりも下位ということだ。少なくとも序列としては皇太子たちは剣王に付き従っていた。
「兄上、私はこれからの話を何も聞いていないのだが」
リアトが不愉快そうな声で言った。彼女は今、非常に不機嫌で苛立っていた。その怒りの大部分は、実のところベルメーラに向けられているが、どうして彼女がそのようになったのかは誰も考えようとしなかった。ルハランでさえも考えようとは思わなかった。
「せやで、今からどうすんねん」
「なんだローレン。まだ説明していないのか」
尖った声でレアーツがいう。声だけだが、彼がうんざりしていることが伺えた。どうも兄は短気になった気がする。ローレンがそれを聞いてからため息を吐いて、面倒くさそうに言った。
「地下の転移場から移動する」
ルディオが散らばった資料を掻き集めているのを尻目に、三人は執務室から静かに退室した。扉が静かに閉められたのち、ルディオは立ち上がって微かに笑ったが、それは彼らの仲が良いのか悪いのかよく分からなかったからであった。
Δ
またも昇降機で地下まで降りる。この宮殿はそれほど高さはないように見えるが、先ほどの大広間でも分かる通り、見かけ以上の高さを内包している。三人は無音の術式機械の中で、数分を過ごすことになった。レアーツが茶番などと言った所為で、機内の空気は非常に悪い。ローレンもリアトも、ルハランも一言も話さなかった。
ルハラン=ノーランは考えていた。自分は、オルンドラに見放されたのだろうか。あの、エルミスタットの部屋を出た時に、彼女からは僅かな視線すら感じなかった。彼女はやはり、冷たい女だったのか。あの優しげな態度すら偽物だったとしたら。オルンドラと手を組んだのは失敗だったろうか。いや、脳子も彼女も信用は出来ないが、その能力は間違いなく確かなものだった。
沈んでいたリアトを浮上させてローレンと引き合わせるなど、自分に出来ることとは思えない。まるで操られているようだ、と彼は感じていた。エルミスタットによる思考誘導なのか。彼が自分を使って、リアトを宥めさせたのか。だとするならば、やはり自分は操り人形だ。彼は『君の織りなす物語』という風な言い方をした。つまり、彼の目的の為には自分が必要なのだ。
オルンドラも、リアトも、ローレンも皆、
ただの手駒にすぎないのだろうか。
視えない敵はまるで作家。十界法則に基づいて、最も綺麗な物語を綴ろうとしている。だが、自分にはその流れは見えないのだ。そう、ルハランは思う。しかしそれがリアトに害を及ぼすものならば、俺は止めねばならない。どうすれば止められるのか。視えもしないというのに。
「真剣な顔をしてどうしたのだ」
沈黙を破り、リアトが最初の一言を放った。話しかけられたのは自分らしい。ローレンが僅かにこちらを見ているのを感じて、ルハランは控えめに言葉を返した。
「いや、物事がやけに上手く進むものだからな。罠ではないかと」
調子を落としたせいか、いつになくルハランの言葉は弱気に聞こえた。いつもの傭兵訛りが出てこないのも悪かった。それを聞いて、ローレンが馬鹿にしたように大袈裟に笑った。リアトが目を細めて彼を睨むが、ローレンはその視線を気にせずに言った。
「罠か。そうだな、臆病ならば対策も必要だろう。何といっても敵の足跡を追うのだ。これ程に恐ろしい事はあるまいよ。剣王が付いていたとしても足跡ほど怖い敵はいないだろうさ。私も精々、死なぬように気をつけねばならぬな」
本気か冗談か、判断のつかない一言だったが、リアトにはそれが本気であるように思えた。この男は甘い人間だが、侮ることは出来ない。少なくとも『雲指』と呼ばれていた頃の彼は強かった。リアトは彼への警戒を少しだけ強める事にした。
扉が開く。そこは冷たい石造りの地下である。長い廊下ではあるが上階ほどの滅茶苦茶さはない。むしろリアトがこの階で驚いたのは、単純にその温度だった。まるで冷部の山の様なひんやりとした冷たさがある。ここ、ノーランは中央大陸でも冷部よりに位置するが、それでもここまで寒い事はなかなか無い筈であった。地下である事を考慮してもここはやけに冷える。それに気付いたらしく、ローレンが言った。
「寒いだろう。ここは『寒冷牢』があった場所なのだよ」
寒冷牢。耳慣れない言葉に、リアトが眉を顰める。どうやらルハランは知っているらしいが、何も言わない。ローレンが誰に話すでも無く、されどリアトに語った。
「罪を犯した貴族や官吏を、昔はここに閉じ込めていたのだ。この地下の温度は、闇のクァロ=ケインの時間帯には氷点下になる。罪人は一月も持たずに死んでしまうそうだ」
不吉な話だ。ここには死が立ち込めている。だが、ルハランはくすくすと笑っていた。リアトは試しに呪界を視てみることにした。視覚を切り替えて、第二界の呪面と認識面を捉える。見えたのは予想外にも獣の姿であった。ぶら下げられた大量の獣たちは凍り付いている。
「これは……」
「あぁそうか。剣術士は呪界を通して、存在性格が見えるのだったな」
興が覚めた、とばかりにローレンは呟いた。リアトが見たのは、たくさんの家畜の姿であった。大量のそれらは吊り下げられ、凍らされて保存されている。この場の呪界、その存在情報にはそれしか映っていない。ここは、どう考えても食料貯蔵庫だった。
「騙したな、ローレン」
「遥か昔には『寒冷牢』だったのだよ。時代と共に使い方は変わるものなのだ。事実、今ではもう、冷凍庫としてすら使われていない。今のここは、ただの地下室だよ」
ローレンはくっくっと笑いながら、先へと進んでいく。その後ろを追いかけながら、リアトは思っていた。この男はやはりルハランの兄なのだな、と。餓鬼くさい。いちいち餓鬼くさいのだ、彼は。その大人になり切れない部分が、リアトは許せない。
一部では閃く鋼のような鋭さを見せておきながら、彼は肝心なところで優柔不断で精神の弱い男だった。その上、最悪なことに彼は仲間思いだった。一種、病的な仲間への愛情には戦時中、何度も苦しめられた。作戦を立てろというのに仲間を慮って真面な作戦も立てられない。大量の国属兵や民は捨て駒にしておきながらも、自分の仲間は必至で守ろうとする屑。それがローレンだった。
なんとも言えずにローレンの背中を見つめていると、ルハランがリアトの隣に並んだ。彼はいつもと変わらぬ声色で、ただし術式狂いに聞こえぬ程度の小声で言った。
「ローレンはわしと同じで馬鹿なんよ」
「よく分かったぞ、ルハラン」
リアトはようやく、ルハランが兄を嫌いきれない気持ちが分かった。彼は真正の屑人間という訳ではないのだ。そのローレンが不意に足を止める。正面に大きな扉が聳えていた。取っ手には重なりあう幾何学模様。これは立体術式陣だとリアトは身構えたが、ローレンが取っ手に手をかけると、少しずつ扉が開いていった。
非常に重そうな扉だが、ローレン自身が開けている訳ではないらしい。現に彼が触れてもいないというのに、扉は動いている。これも術式具。恐らくは人物を認識して発動するのだろう。術式による外界の認識とその判断は高等技術だ。リアトは内心で舌を巻いていた。
「遅い」
室内に居たレアーツが言う。部屋の中には大量の術式陣が散乱していた。描きかけの物から、既に描かれたものまで。特に部屋の中央には一際巨大な術式陣。美しい流れるような文字はローレンの物だろう。中心部から渦を巻くように術式文字と記号群が描かれている。だがしかし、その最も外側、外周を取り巻く其れは乱雑だった。見覚えのある文字。レアーツの書くバルニア文字だ。まるで蚯蚓がのた打ち回ったように乱れている。
なるほど。そういうことかとリアトは理解した。ベルと兄は先に地下へと降りて術式を描いていたらしい。転移先の位置情報を正確に知るのは、レアーツ一人。考えてもみれば当然のことだった。
「術式記号と違って、文字は記述するだけで良いからな」
レアーツが乱雑な文字の言い訳のように言った。文字は意味的言語として、呪界から認識の形で力を引き出される。彼の言う事にも一応の理は通っていよう。されど、ローレンは汚らわしい物を見たような顔をした。彼は潔癖症なのだろう。あるいは完璧主義者。この汚い文字列を許せないに違いなかった。
「なぁ、レアーツよ。描き直しても良いだろうか」
ローレンがぼそりと言うが、それは満場一致で拒否された。ルハランが彼を宥めている間に、ベルメーラが起動の準備をする。この手の転移術式陣は、よほど複雑に描かない限りは使い捨てとなる。すなわち、一度で五人を同時に飛ばさねばならない。当然の事ながら、その為には莫大な魔力が必要になる。レアーツは今更ながら、ロビラを置いてきた事を後悔していた。てっきり、ローレンが用意したのは再使用可能術式陣だと思っていたのだ。
ローレンが部屋の棚から、幾つかの魔石を取り出した。ベルメーラも懐から魔石を取り出すが、この程度では心もとない。皇子が所有している物も、帰りの事を考えれば迂闊には使えないだろう。仕方が無いので、ベルメーラは一人、ここに残ることにした。彼女の扱う魔剣流は、魔法を剣に纏わせる異色の剣術である。故に彼女は他流派の人間よりも遥かに多い魔力を保持していた。
つまり、ベルの魔力で転移しようというのである。
「いけるか?」レアーツが言った。
「行きは勿論。帰りを引き上げる力はおそらくありませんから、魔石で帰還してください。ただしこちらから『扉』を開けそうかどうか、試してみます。座標と状況を『端末』経由で送信することをお忘れにならないでください」ベルメーラが微笑んだ。
「もしもの時はローレンが手を考える」
「罠の可能性はあるだろうが、ロンティエル以外に優秀な術式士がいるとは思えん。とりあえず安全地帯までは送り届けてやるさ。厄介な裏王剣の離反者どもは剣王陛下と『捨剣』様が片付けてくれるだろうし、想定外のことなどまず有り得んさ」ローレンが得意げに言った。
「なるほど、では御武運を」
そう言うと、ベルメーラは術式陣に両手をついた。すさまじい勢いで魔力が吸い上げられていくと同時に術式陣が黒く輝いていく。発光の度合いが徐々に増して最大到達点が見えた。光がローレンの研究室を夜色に染め上げる。眼球を焼き尽くすかのような闇光の奔流が溢れだして陣の上に立つ四人を完全に飲み込んでいった。明滅。
まるでそれは鼓動のように。
ベルが最後の魔力を注いだ瞬間、彼らの身体は粒子状に解かれた。光が急速に弱まるのに合わせて、何処かへと運ばれるように粒子が消えていく。呪界を通して別の場所へと送られたのだ。ベルメーラは静まりかえった部屋に一人。魔力を殆ど使い切って倒れ伏す。彼女は静かに眠っていた。




