2-3 狐嘲愚児/エルミスタット
Δ
オルンドラ=リディア。
彼女は非常に奇妙な人物だった。国内有数の権力を持つリディア家の一人娘でありながら、ルハランやローレンといった皇族に気に入られ、なおかつ女の身で剣を振るうことを好む。その血統が皇族であるノーラン家の流れにあることは疑いないが、それが彼女の運命を定めているわけではない。多くの貴族の子女は家から出ること自体が稀であり、社交界や慈善活動に身を投じることしか為すべきことを持たない。
それはある意味で、生まれと時代の不幸であると見ることもできたが、オルンドラはそう考えてはいなかった。彼女にとってはリディアの長女であるということは、単に使える道具が多いということを指すにすぎなかったのだ。では、オルンドラは何を為すために生きているのか。それは彼女自身にしか分からぬ秘密であるのだろうが、ルハランはある程度それに当りをつけていた。
彼女は実の父親を殺そうとしているのだ。
Δ
ルハランはオルンドラを見るのが好きだった。彼女の切れ長の目はいかなる時も相手を睨み付けており、緩むということがない。夜にしてもオルンドラはその蛇のような目でルハランをじっと見つめたものだった。それゆえ彼女には、喰らうという言葉が相応しい。常になにかに飢えている女だからこそ、自分のような人間にさえもその毒牙を伸ばすのだろう。
「何を見ているの」女が言った。
「横顔だ」ルハランが答える。
「下らない。そんなことを考えている暇があったらエルミスタットを懐柔する方法でも練っておきなさい。もっとも情報を貴方が引き出すのは難しいでしょうけれど。彼は男嫌いなのだから」
二人は『青宮』の地下にある『脳子の間』へと向かっていた。あそこにエルミスタット=ロギオスが鎮座している。悍ましい古代バルニア術式時代の名残である彼と会ったら、どんな話をするべきだろうか。久々すぎてルハランは少し怯えを感じていた。彼を怒らせないこと。彼の機嫌を取ること。それだけを守れば恐らくは大丈夫。いや、最も大切なのは自分を抑えることだったか。
「奴と直接話すことになったのか」ルハランが顔をしかめる。
「そう、エルミスタット自身が会ってくれるの。すぐに許可が下りたわ」
「『脳子』の連中は気まぐれだからな。運が良かった」ルハランは言う。
これでエルミスタットとの謁見が可能になった。紋章板の最上位管理者である『脳子』、彼に接続すればこの件を命じた存在を開示できる。勿論、通常の状態でそれは不可能だった。下位管理者が上位の情報開示を請求することは出来ない。しかし『骸』を動かしたのが不正な人間ならば、管理者権限の位格を問わずに敵の情報を得られるはずだった。エルミスタットを上手く卸せれば、ではあるが。
「ルハラン、リアトは放っておいて大丈夫なの?」オルンドラが唐突に尋ねる。
「あぁ、ロビラとベルメーラ。お前は知らないか。魔剣流の上級剣士と『土の手』を付けている。二人とも俺の護衛だが、実力は確かだ。大丈夫だろう」ルハランが言った。
土の手ロビラは闇属魔術士『骸』とは相性が悪いかもしれないが、対魔法士訓練を受けているベルメーラがいれば問題はないと思われた。何しろ、彼女はただの魔剣流の上級剣士ではない。剣王レアーツやリアトと同じ血を持つ『理剣』の子だ。およそ彼女が負けるところなど想像出来なかった。
『骸』がどのような手段を取るにせよ、闘う場所は変えられない。この皇都で闘う以上、魔法士や魔術師お得意の遠距離法撃は使えないのだ。すなわち剣術士の十八番である狭小空間での接近戦になるはずだ。そこでベルメーラが敗北することなど有り得なかった。
それに、歳を食ったとはいえ、リアト自身も非常に強い。その捉えられない速度に並ぶ者はいない。仮に上級剣士でも出てきたら多少は苦戦するだろうが、魔術師相手にリアトが負けることは考えられなかった。その全幅の信頼がルハランを自由に行動させていることに気付いて、オルンドラが面白そうに言う。
「貴方も仲間を信じるのね」
「信じていない」
ルハランは少しだけ笑って言った。ベルメーラもロビラも自分が見つけた仲間ではない。土の手は皇王ラハリオから付けられた者であるし、ベルも剣王レアーツの息がかかっているだろう。いかに愚かなルハランといえど、流石にその程度のことは承知していた。
だから信頼などしていない。
いや、本当はそんな理屈で説明できるものじゃないことを彼は自覚していた。もっと本質的な所で自分は何も信じていない。他人と結ぶ関係を信頼していないのだ。していないが彼らはルハランにとって、必要であった。まったくこの世界に必要とされてこなかったルハラン=ノーランという存在を保つために欠かすことのできない繋留点だったのである。
「暗い男は嫌いだわ」女が言う。
「生まれたときからそうなんだ」
自分はねじまがった木だ。
種のときからそう運命づけられていたのだ。
などと言うと、兄上や父には馬鹿にされるだろう。だがルハランは今やそう思っていた。樹木はオラン=ハオンの光を浴びて育つといわれる。故に遮る物がなければ樹木は何処までも伸びるのだという。望みさえすれば、世界天樹のように天蓋を突き抜けることだって出来る。ルハランは幼いころにその話を聞いたときから、そんな人間になりたいと思っていた。
幼い頃、未だ状況が見えていない子ども時代の夢は、子どもの考える世迷い事だとオルンドラには馬鹿にされた。ルハランはその時憤慨したが、しかし本当は彼女の方が正しかったのだ。彼とて成長とともに気づいた。ハオンの光は兄上らによって遮られていて、自分に光が届くことはないのだと。
大樹になろうと伸び、しかし養分も光もない。
間引きされぬように影へと隠れていく木。
気付かぬうちにねじまがった性根はもはや治らない。
いや、違う。そもそも自分が大樹になろうと考えた事自体が誤りだったのだと、本当は分かっていた。自分は生まれたときから彼らの養分でしかなかったのだ。あるいは、雑草や鳥から彼らを守る庭師だったのだ。それが分不相応に、木であり続けようとしたのが間違いだったのだ。
そう悟ったルハランは、夢をすぐに捨て去って、同時に皇太子としてのあらゆる義務も捨て去った。自由に生きるという題目を掲げて、皇国と自らの運命に反抗したのだ。ルハランは成人する前、オルンドラが去ったすぐ後に、皇都エルトリアムを出て、各地の大都市や村落を回った。彼は傭兵の身分を手に入れて鍛えた剣技を振るった。それだけが生き甲斐だった時期があった。民衆からは『傭兵皇子』と呼ばれて、良い気になって、それで当然のように彼には何も残らなかった。女どもすら本当の意味では付いてこない。自分にあるのは名声とも侮蔑とも付かない何かだった。
大樹にもなれず、庭師にもなれない。
そんな自分には場所だけがあればよい。
生きているふりをするための場所だけが。
仲間。そんな存在が居た事はなかった。乾湿戦争の時はそれなりに同年代の友人が居た。剣王ラエス=ルーミンの下で修業した友人。だが特に仲の良い者はいなかった。ルハランは友人以上の存在を見つけられない。より正確に言えばそれを欲していなかった。友人の居る自分という存在、それを欲していない。ルハラン=ノーランは一人で生きていた。ルハランは誰も必要としなかった。だがそれでも無意味に死にたくはなかったのだ。オルンドラのように目的など持たないが、しかし単なる道具に終わることはひどく恐ろしいことのように思えた。
俺はその意味ではひどく利己的なのか。だが俺が自己中心的な人間だとするならば、世の自己中心的な人間たちはどうなる。彼らは他を必要としているのか。彼らは他の存在に自己を押し付けるが、それは逆説的に自己を他人に明け渡す行為なのではないか。ルハランはふと、そう思った。
「ルハラン=ノーラン。少しは他人を信じなさい。」
オルンドラが言う。それはいつかも聞いた台詞だった。あぁそうだ、彼女が去った日にもそう言われたんだったか。歳をいくつ重ねても、俺はつくづく成長していないのだろうな。そんなことは分かっている。俺は終わっている。リアトに惹かれるのは、本当は自分に似ているからだと、彼は知っている。だがそれを口に出すことはない。
「他人なら信じてるさ」ルハランは言った。
「私の事は?」オルンドラが片眉をあげる。
「お前の能力を疑ってなどいない」
「でも、私の事は?」再びの問い。
「信じちゃいないよ」ルハランが言った。
意味が分からないとばかりに、オルンドラはわざとらしくため息を吐いた。ついでに肩をすくめて首を横に振る。彼女とルハランの付き合いは長い。どうせどうにもならないようなことを悩んでいるのだろうと予想がついた。彼女は男のそういう部分を憐れんで、彼を一人きりにしたのである。ルハランの思考が暗く落ちていく気配を感じて、オルンドラは話題を変える。
「エルミスタットが関与しているのかしら」
「何にだ?」ルハランが伏し目がちに答える。
「『骸』が誓約破りをやらかした件よ」
誓約破り。それはいかれた奴のすることだった。先程、ルハランがローレンと結んだ口頭誓約は弱い呪であり、形として実界に刻示されないものはいずれは流れる。時間の流れと共に忘却して棄却される。その効力は名付けによる存在定義と同じだった。一年程度で誓約の効果は減衰していくといわれていた。
勿論、誓約内容に『永遠』を用いることで擬似的に存在期限を増やすことは出来るし、期限が切れても完全に効力が失われることはない。少なくとも、誓約の認識者が生きている限りはそうだ。だが術式陣による誓約はいつまでも棄却されない。その陣が認識されており魔力が続く限りは永遠だった。認識面において、その制約はいつまでも付き纏う。無論、それを破れば『魂の死』が待っている。
§
語られる魂の死とは、魂の消滅ではない。
『そもそも、深淵の事柄では死とは死ではない。人間的な尺度でみれば、死は生命の消失であるだろう。だが呪的な目で見れば、死は魂の破断である。魂の破断が齎すものは死であり、同時に死ではない。魂の生、その対極としては確かに死である。しかし魂と生命の消失という意味での死ではない。古来より多くの呪学者が解き明かした神秘。魂とは不死であるという真理。それは何者によっても破られることが無い。魂は不死である。
では、その魂の死とは何か。繰り返して言うがそれが『破断』である。魂が破られ、断ち切られること。されど死なずに生き続ける事。その苦しみが破断なのである。それは生命の消失を意味する死をも超越した無限の責苦である』
『脳子』がこのように語る時、彼らは『魂』の何たるかを知っている様に見える。されど彼らは本当の意味では何も知らない。彼らの口から毀れ出る知識と言葉は、学者群の虚像だ。故に彼らは称される。『無知なる語り部』と。
§
ルハランの考えによれば、エルミスタットの関与は起こりえないことではなかった。エルミスタットは『脳子』の一つであり、その思考は術式計算されたものなのだ。幾つかの術式によって為された最適な計算によって、彼らが剣王レアーツの敵に回った可能性は無いと言い切れるだろうか。
もしもローレンと敵対しているであろう剣王を皇国に邪魔な人間だと判断したならば、行動を起こすことは可能である。『誓約破棄』は魂を持たない『脳子』には容易い。故に彼らは媒介でしか有り得ないのだが、彼らが『誓約』を破ろうとすればそれは簡単に行えることなのである。しかしそこまで考えて、ルハランは思った。『脳子』は『無知なる語り部』だ。彼らが自我を以って行動するなど、術式士の兄上なら笑って否定するだろう。流石に有り得ない話だとルハランは思った。
「……関与しちゃいないだろう。『脳子』が能動的に行動することはまず無いと兄上に聞いたことがある。あの兄の言うことだから信憑性は高いだろう。あれは単なる道具に過ぎないのだろうな」
「じゃあ、糸を引いてる奴は何処かに居るわけね」オルンドラが澄まし顔で言う。
あぁ、と頷いて、ルハランは足早に廊下を進む。いつのまにか満ちる気配が急速に重くなっていた。壁中に仕掛けられた埋伏術式陣のせいである。ノーランの最重要機密である『脳子』に会う為には数十の手順を実行せねばならない。まずは武装の解除が必要であった。背のバルニュスを拘束具で封じて次へと進む。周囲には十人の騎士が有事に備えていた。二人を引き離して別々に検査するらしい。実に面倒な身体検査を終わらせて次へと行く。
「ルハラン殿下が直々に来られるとは、もしや戦争ですか?」脳子を守護する剣術士の一人が深刻な声で言った。
「そうでもないが、急を有する」
「無理にとは言いませんが、そこんところの事情を少しくらい教えちゃくれませんか」
そう言ったのは専任術式士の男であった。やけに食い下がる男だったからルハランは眉間に皴を寄せて、意図的に面倒くさそうな顔をした。その男とは顔なじみではなかったが、ローレンと魔術院で会話しているのを見かけたことはあった。一体どこの手のものなんだか、と思いながら彼は言葉を返す。
「脳子への呪界侵入を許した可能性がある。そのせいで幾つかの権能がまともに働いていないらしいのだ。そこの事実確認をエルミスタットに行うだけだとでも言えば良いか? さぁ、さっさと術式陣を用意しろ」
「なるほど、それは大ごとだ」男がそのように言った。
そこでは『誓約』を結ばされることになる。それも術式陣誓約である。存在期限は二時間と短いものだが、万が一にも破ったらそこで終わりとなる。魂と人生に終止符が打たれるのだから、あらゆる意味で死ぬことになる。流石に冷や汗をかきながらルハランをそれをこなした。繁雑な手順を終わらせて二人はようやく合流する。時間としては僅か十数分でしかないが、ルハランはどっと疲れていた。エルミスタットとの謁見は非常に面倒くさいのだ。
「待たせたな」
「入室の許可が降りたわ」
小首をちょんとかしげてオルンドラが言った。その歳でその仕草は駄目だろうと思ったが、ルハランは言わない。彼はその顔に微妙な笑みを浮かべて女の肩を叩いた。
「中ではお前に任せるぞ、オルンドラ」
「私も貴方には任せられないわよ」
「どういう意味だ」ルハランが問う。
「殿下にしか、あんなの通用しないわ」
呆れたと言わんばかりに肩をすくめると、オルンドラが楽しげに笑った。なんだか、悪戯をしている気分だな、これは。そう思ってルハランは顔を顰めた。この女はやけに楽しんでいるように見えた。と、そのとき脳子補佐官の青年が部屋へと促した。顔見知りの上級騎士らが守る扉を押し開けて二人は部屋に入る。真っ暗で何の音もしない部屋。ここが『脳子の間』だった。
オルンドラが身震いする。恐怖の所為ではなくて、ここに満ちている冷気の所為だ。この場所は異常に寒いのである。月に関係なく部屋が低温に設定されているのは、なんでも『脳子』を構成する部品が熱に弱いからであるらしい。この『脳子』つまり、『術式機械計算機』は非常に脆弱な存在なのだ。だがその中身は脆弱とは程遠い。ルハランは気付けば両腕で身体を抱え込んでいた。
「大丈夫?」オルンドラが言う。
「寒くて身震いしただけだ」
やはり会いたくないなと、ルハランは心の中で悪態を吐いた。彼は『脳子』が嫌いだった。エルミスタットだけではない。フィルホルン=ロギオスも大嫌いだった。あいつらはいつも戦場を引っかきまわす糞ったれ兵器ばかり作る、傍迷惑な古代の遺物なのだ。その旧時代の連中が生み出した兵器が齎す破壊として強大な力が定期的に振るわれるが、その余波を最も強く受けるのは皇民だった。
大陸湿部を回ったルハラン=ノーランだからその被害についてはよく知っていた。彼らは大規模魔法術式の障害に今も苦しんでいる。あれが撒き散らした呪が世界をどう変えたか。『脳子』の連中は欠片も知らないに違いない。その意味では、ローレン=ノーランも同じだった。術式狂いの馬鹿兄は止められない。何処までも彼は『脳子』の後を追うだろう。まぁ、あの男は術式の平和利用を望んでいるようだから、まだ救いがあるかもしれない。
だが脳子には救いがない。実のところ、大規模魔法術式だの術式兵器だのが仮に無かったとしてもそれは変わらなかっただろう。本音を言えばルハランは彼らの『人間性』というものを嫌悪していたのだった。何といってもあいつ等の楽しみは、他人を追い詰めることである。
その時、機械の激しい駆動音が二人の耳に響いた。
歯車をどれだけ回しても出ないであろう音、それはどちらかと言えば術式兵器『機両』の音に似ている。軋むような音と共に部屋に灯が付いた。部屋の中央に置かれていたらしい等身大の金属箱が開き、そして『脳子』エルミスタット=ロギオスが現れた。
「お久しぶりです。閣下」オルンドラが言った。
「久方ぶりになるね、オルンドラ=リディアとルハラン=ノーラン。揃って見るのは本当にいつぶりだろうか。要件は既にエルミスタットから聞いていたのだけれど、僕への不正な接続が行われていないかどうかの確認で良いんだよね?」
彼はいつものように語った。それは機械の合成音ではなく極めて『肉』を感じさせる声だった。少年のように甲高いソプラノ。とても幼く無邪気な子どもの声。いや事実として彼は子どもだった。その体躯は二剣長程でやはり小さく、ルハランの腹くらいまでの高さでしかない。彼の身長も体重も声も顔も、最後に会った八年前と何も変わらない。というよりも少年は十五年前から変わっていなかった。人智を超えた化け物。それが『脳子』なのだ。
怪物。そう分かってはいるのだが。
ルハランは畏怖の念を抱いてしまう。
「えぇ。『骸』への命令が不正に行なわれた可能性があります」
オルンドラが少し緊張したように言った。この女でさえも、少年の前では普段通りにはいられないらしい。それを見て取ったのか、エルミスタットは物欲しげな目で彼女を見つめると、ぺろりと舌なめずりをした。くるくると同じ場所を歩き回りながら少年は何かを案じているようだった。
「うーん。なるほど。裏王剣の闇属魔術師『骸』だね。奴は幼い頃から王宮で飼われていた手だと記憶しているんだけど何かしでかしたのかい。教えてくれよルハラン」
エルミスタットはにこりと笑って、ルハランに問う。何のつもりだと思いながらも答える。こいつは皇国内で最上位の管理者権限を有しているのだ。なるべく下手に出なければならない。殴りたいが誓約がある限りは、それも出来なかった。
「『捨剣』のリアトの弟子イルファンを、大胆にもこの皇都にて誘拐したのです」ルハランが言った。
「もう少し詳しくお願いしたいね」エルミスタットが言う。
「閣下、情報はすでに送信済みです」オルンドラが口を挟んだ。
「――そうだっけ?」
その言葉を聞いて、ルハランは唇を軽く舐める。それは苛立ちを抑える為の仕草だった。『脳子』は情報を全て知っている。その上で奴は自分に問いを投げたのである。人を苛立たせようとする彼の意図は読めていたが、刃向かう訳には行かない。ルハランはそれと悟られぬように生唾を呑み込んだ。
「エルミスタット閣下」
「……あぁそうだったね。ルハランわざわざ記述してあることを復唱してくれて助かるよ。そんな君の願いには是非とも応えたいと思う。えーとリアトの弟子と言ったね。覚えがあるよ、たしか、」
少年はそこで言葉を切ると、何かを思い出したかのように手を叩いた。
「思い出した。リアトって君の思い人だったよね。そうか愛する人のために君は必死になっているのか。ほら、八年前も僕に彼女の捜索を惨めったらしくお願いしにきたじゃない。あの無様な姿は見度と忘れないよ!! 皇太子ともあろうものが『脳子』なんかの脚に縋りつくなんて!!」
ルハランはさらに苛立ちが膨れ上がるのを感じた。これがエルミスタット=ロギオスだということはとうの昔に分かっているのだ。怒る必要は無い。だが、全てを知った上でルハランを挑発するこの小童は、一体どういう精神構造をしていやがるのか。そう思うと言葉が滑らかには出なくなる。喉の震えを抑えて、ルハランは言った。
「えぇ。その節は助かりました」
「いいよいいよ。そんなの」少年が笑う。
「あの時だって、オルンドラからさっさとリアトに乗り換えて自分の寂しさを埋めようとする君の役に立ちたいと本心から思っただけなんだからさ。まぁ君はそのオルンドラと一緒にここへ来たんだけど。本当に驚いたなぁ、今度は昔の恋人にお願いしたんだねぇ。助けて下さい、お願いしますって……あ、これは八年前の言葉だったかな。君から不愉快な惚気話を長々と聞かされた記憶がある」
ルハランの表情が凍りつく。
「君みたいな男を見てるとさ、本当に辟易としちゃうよもう。僕なんてこの狭い箱の中に閉じ込められて、性欲の発散方法が何処にも無いって言うのに。まさか金属の箱を相手に自慰する訳にもいかないだろう? ねぇオルンドラ、そうだろう?」エルミスタットはそう言って下品な指仕草をした。
屑野郎。まごう事なき屑。
ルハランは堪らず、少年に言った。
「私もオルンドラも誓約に縛られて、」
「うるさい黙ってろ。頼みを聞かないぞ?」
瞬間、ルハランの背筋に冷たい物が走った。もしも『脳子』に見捨てられたら自分は終わりなのだ。紋章板に鍵が掛けられるということは、皇族として致命的な事態である。だが、そうはならないこともまた彼は知っていた。ルハランとオルンドラが誓約で縛られている様に、『脳子』エルミスタットにも幾つかの原則があるからだ。その原則によって、彼がルハランを見捨てることは出来ない。あれに出来るのは、ただの言葉による安い挑発だけなのだ。
今日は優しい方だったからまだ耐えられた。酷い時は、ルハランに延々と思いを語らせて、それを最後の最後で全部引っくり返して罵倒するのだ。青宮の謁見者の中にはそれに耐えられぬ者もいる。特に名誉と誇りを重んじる騎士にその傾向があった。彼らはしばしば靈気を室内で発動してしまうが、それは残念ながら誓約術式陣に抵触する行為だから、彼らの魂はエルミスタットの前で破断されてしまう。まるで小さな花火が弾けるように。
千年間の退屈をもてあます少年の楽しみがそれだった。
「はぁーぁ興が覚めたなぁ。でもまぁ仕方ない。ルハラン、本題に入ろうか。さて君がここに来た目的はなんだったかな。ここのところ物忘れが酷くて思い出せないんだ。どうか教えてくれよ」エルミスタットが下卑た笑いを浮かべる。
めんどうくさい。
そう思った時、オルンドラが言った。
「謁見時間はあと千九十八秒ですわ」
既に謁見から五分以上が経過したのだ。それを告げられてエルミスタットが舌打ちをする。小奇麗な顔がわずかに苛立ちに歪んでいた。
「煩いぞ」少年が足下に唾を吐く。
「申し訳ございません」女が言った。
『脳子』に設けられた制限の一つ、それは二十四分間しか連続して話すことが出来ないというものである。そればかりか、『脳子』は時間内に謁見内容に答えることが求められる。この禁則を破ることは術式機械である彼には不可能だった。ほんの少しだけエルミスタットは眼を瞑って、そして言った。
「こうしよう。先に要件を終わらせる」
「お好きな様に」オルンドラが冷めた声で言う。
それを聞いて、少年がまたも舌なめずりをした。
「掛けたまえ」
言うが早いか、エルミスタットが術式を行使して、地面から三脚の椅子を生み出す。鉄の床から生み出された椅子は冷たくて硬い。二人は冷えたそれに腰を下ろした。冷たい。尻が凍り付きそうだった。エルミスタットも自身に椅子を出して座ったが、その椅子は如何にも柔らかそうな代物だった。
「まず不正接続の件だね。あるよ」少年が言った。
「ランツ=デルフォイでしょう」オルンドラが微かに笑った。
何故オルンドラに其れが分かったのか、ルハランには全く分からなかった。ランツはデルフォイ家の四男にして当主アランド=デルフォイの実子。戦時中、ローレンに処刑されたラクトの弟に当たる青年剣術士である。つまり、『リアトを庇って死んだ若い剣術士』の弟だった。確か、その因縁もあって、彼はリアトに懐いていた筈だった。いやそれが理由だろうか。彼はローレンを恨んでいる。デルフォイが何をやらかすにせよ、ローレンへの恨みが原動力である可能性は高い。その上、確かあの青年は術式士でもあるはずだった。
とはいえ、ルハランは納得のいかない物を感じていた。オルンドラはあまりにも知り過ぎている。彼女だけが知っている情報が他にもあるように思えたのである。エルミスタットが上機嫌で言った。
「ご明察。数日前の謁見中に男が一人死んだのだけど、それはランツが仕掛けた呪罠だったみたいだね。ランツは死後発動する術式陣を彼に仕掛けていて、それを入り口にして僕に干渉したってわけらしい。裏王剣に関する誓約、その媒介になっていた部分に認識阻害が掛けられていて、ここ数時間ほど機能してないよ。復旧まで四時間は固いね」
エルミスタットがまるで全てを知っていたかのように言う。これは何も驚くことでは無い。まさに彼は知っているのだから。ある意味では彼は全ての情報や陰謀、策略も全て把握している。だが彼がそれに関して、能動的に動くことはまずない。流石に自己防衛の権能は備えているらしいがそれ以上はない。自己の存在基盤に影響のない事柄には干渉しないそうだった。いや、気付いていて、敢えて干渉していない可能性さえあった。というか、この屑野郎なら間違いなくそうするだろうと思われた。
「では、ランツの現在位置を特定すれば、」オルンドラが言った。
「流石に厳しいかな。謁見内容にも書いてないし、そもそもそんなの分からないからね。僕に分かるのは幾つかの外界検知能を備えた僕の手足、つまり都市内部とその周囲の事だけ。全知の旧神ディオノワールにはなれないのさ」エルミスタットが答える。
彼は基本的には嘘を吐けない。
この言葉も本当であろう。
「では『骸』ならばお分かりになりますか?」ルハランが問うた。
その言葉で『脳子』は少し不機嫌になった。
「ルハラン。僕はオルンドラと楽しく話してたんだ。ちょっと待ちなさい。君の用件はさっさと終わらせてやるから。あー、あの男は術式陣誓約で『皇樹』と繋がりを持っている。行動は制御できなくても居場所くらいならば視えないこともないだろうね――うんうん。なるほど。これはちょっとだなぁ」
中空をぎらぎらとした瞳で睨みつけながら、にやにやと薄気味悪い笑いを浮かべている。エルミスタット、こいつは何を面白がっているのだとルハランは眉根を寄せて、彼の言葉を待った。美しい少年の唇がじっくり溜められたのちに開いた。
「……リアトと『骸』の場所、どっちが知りたい?」エルミスタットが笑う。
「リアトは『骸』を捕えている筈ですが」
困惑とともにルハランがそう言うと、エルミスタットは満面の笑みを浮かべた。腹の立つことに、非常に幸せそうな顔をしている。こいつがこんな顔をする時は、大体、碌でもないことを考えているのだ。この質問には様々な可能性が考えられた。だが恐らく、リアトは『骸』の確保に失敗したのだろう。そのために『骸』とリアトは今、別々の場所に居るのだ。
「『骸』は既に転移してしまったよ。僕なら呪界の歪みを辿って少しは追えるけどね」
エルミスタットの言葉を信じるとすれば、『骸』の場所を教えてもらうことで芋づる式に本拠地が分かるかもしれない。琥珀の少女、イルファンの居場所もきっと分かるだろう。だがルハランは胸騒ぎを抑えることが出来なかった。戦錬士の戦いで敗北とは死を意味するからだ。
「リアトは無事なのか?」
ただ逃げられただけならば、勿体ぶってリアトの場所などと言うだろうか。彼が自分に二択を持ちかけた理由からしてリアトは無事ではないのではないか。ひょっとして、『骸』に彼女は攫われてしまったのか。いやそれはない。絶対にない。そう思い込みたい。しかし、ルハランは焦燥していた。
エルミスタットが静かに言葉を掛ける。
オルンドラの声色と口調を真似た遊びだった。
「どちらか一つだけよ。早く選びなさい」
「ルハラン、落ち着きなさい」本物のオルンドラが言った。
だが、落ち着けない。もしも、リアトが瀕死、あるいは動けない状況だとすると。ルハランは頭が真っ白になっていくのを感じた。やはり自分には選択など出来ない。リアトを放って置く訳には行かない。あの戦争の後で、彼はそう決めたのだ。あの、彼女の弱さを見た後で。ルハランは、ぽつりと言った。
「エルミスタット、リアトの場所を」
「楽しくなってきたね、ルハラン!」
少年の口の端が広がる。
喜びの為である。
彼は顔を上気させて喜んだ。
意地悪そうな笑みを浮かべて彼が言う。
「彼女は皇都の熱区域。意識不明の状態で剣王邸にいるよ。どうしてそうなったのかは、知っているけれど教えてあげない。命の危険があるのかも教えてあげない。僕はなんにも君には教えてあげないんだ」
ルハランが唇を噛んだ。馬鹿な。有り得ない。リアトが負けるなんてことは有り得ない。彼女は乾湿戦争の英雄で負けるはずがない。剣王か、剣王レアーツが介入したのか。彼がリアトを敗北に追いやったのか。ルハランの頭の中を幾つもの考えが駆け巡った。その全てがリアトの為の思考だった。
「駄目よ。乗せられないで。彼は嘘を吐けないけれど真実を隠すことは出来る。剣王レアーツが敵だとは限らないわ。ひょっとすると助けてくれたのかも……まぁそんな可能性は万に一つもないだろうけどね」
姉のような女の声だった。
そしてエルミスタットの声だった。
「ルハラン、心を落ち着けなさい。彼女も人間よ。確かに信じられないけれど、『骸』が想定以上に強かった可能性もある。ひょっとすると伏兵がいたのかもしれないわ。そんなことにも気付けない間抜け戦錬士なら生きている価値なんてないと思うけれど」
どこまでの言葉がオルンドラのものなのか、それすらも分からない。エルミスタットは嗤っていた。自分はまた彼に弄ばれている。もういい。この状況では埒が明かない。ルハランは踵を返して、部屋から出ようとした。額から流れる汗が止まらない。彼女、リアトが仮に死ねば、俺は。
本気で愛している、とはまた違う。
そんなことはもう知れている。リアトも知っている。俺が危惧していることは其れじゃないのだろう。彼女が死んだ時、俺自身が何をどう感じるか、だ。俺は間違いなく彼女の死によって死ぬ。精神の死はリアトの死によって誘発される。馬鹿げた話だと自分でも思うのだが、彼女は自分にあまりにも似すぎている。何が似ているというのではない。ただ、似ているのだ。
だから、それ故に。
俺は彼女を愛している。
脳みそのどうにもならない部分で。
俺の脳は自分勝手にその計算を行っている。あるいは魂だ。それが勝手に、彼女を必要としているのだ。忌々しい脳みそが、忌々しい欲望が。普通ならルハランはそれを抑えない。勝手気ままに彼は振る舞う人間だった。だが、リアトだけにはそうすることが出来ない。彼女だけにはルハランは自分を開けない。それはある意味で、本当に開くことに直結している。他者との深い繋がりを築けないルハランにとって、自分を見せない事は、偽物の自分を見せること、其れよりも、大きな意味を持つことだった。
ルハランは扉の把手に手をかける。
だが開かない。ぴくりとも動かない。
何故だ。
どれだけ引いても、押しても開かない。
「開けろ、エルミスタット=ロギオス!!」
ルハランの叫び。それを聞いたエルミスタットは愉悦を抑えきれないとばかりに笑って、そして言った。
「オルンドラちゃん。あと何秒かな?」
「七百四十秒よ」嘆息と共に。
それを聞いて、少年はわざとらしく驚く。まだまだ随分あるじゃないか、とでも言うように。声変わりもしていない声がルハランを嘲笑して、そして商売女のようなねっとりした声が、ルハランの頭の中に入り込んでくる。
「君にとってリアトが大事だってことがよぅく分かったよ。君は女が何よりも大事で大義や国家よりも自分の妄執が大好きなんだ。でもそれが人間らしさってもんだよねぇ。なぁに、誰も責めやしないし急いだところでもう答えは出てるんだ。あと十二分ばかし、僕のお話に付き合ってくれよ」
『脳子』エルミスタットが言った。
ルハランが静かに拳を握りしめた。
「もうお止め下さい」
そのとき、オルンドラがやんわりと言った。彼女は不自然なほどに冷静だった。
「君にそんなことを言われる筋合いはないよ、オルンドラ。この部屋は僕の部屋で、君たちは僕の物だ。僕が従わなければならない規則に反しない以上、僕は僕のすることを否定しない。分かっているだろう、オルンドラ。僕は彼よりも君よりも遥かに賢いんだよ」
エルミスタットがひらひらと片手を振りながらオルンドラを笑った。柔らかな椅子のうえから自分たちを見ている少年はまさにこの場の支配者である。しかしオルンドラは即座に返した。
「分かっています。私が言いたいのはそういうことではないのです。単純な話、彼を苦しめるのは貴方にとって時間の無駄、貴重な謁見の無駄遣いだと言いたいのです。エルミスタット様とて分かっておられるはずでしょうが、ルハランは貴方の挑発には乗りませんよ」
「なにを言っているんだい?」
エルミスタットは不愉快そうな顔をした。けれども、少年の口から紡いだされる言葉、その声色は明るいものだった。どうしてだろうか。彼は何処か喜んでいるようにも見える。肩まである銀髪を掻き上げて、「君はルハラン=ノーランを信じているのか」と少年が言った。オルンドラが再び答える。
「いいえ、貴方は十分もあればルハランを壊すことが出来るでしょう。貴方の力に疑いはありません。でも、貴方はそれをしない。今日の言葉は随分と優しいものでしたね。残りの十分間も先程のようなやりとりを為されるおつもりですか。あの程度ではルハランは、たとえリアトが死にかけていたとしても誓約破棄も発狂もしませんよ」
ルハランはその言葉を聞いていたが、オルンドラが何を言いたいのかはよく分からなかった。とりあえず、彼女に加勢したいが頭が回らない。良い考えが唯の一つも思いつかなかった。エルミスタットが楽しそうに言う。
「根拠はなんだ?」
「貴方の楽しみは人を壊すことではないから」
「では何だと?」
「避けられない運命に人が屈服するのがお好きなのでしょう」
「ルハランを壊さないことで、僕は別の破滅を見る心算なのだ、と?」
「今の貴方は掌の中の快楽を弄んでいるだけです」
「だったら?」
エルミスタットが上目遣いで問う。小首を傾げたその仕草はオルンドラに似ていた。恐らく彼は、其れを真似たのだろう。にこりと笑ってオルンドラが答える。
「ならば、目先の楽しみに飛付くのは浪費です」
「あぁ」
エルミスタットは椅子から立ち上がると、拍手を始めた。小さな金属質の部屋に空虚な音が響く。オルンドラもルハランも何も話さなかったし、手を叩くこともしなかった。少年はつまらなそうに肩を竦めて、再度椅子に座った。
「リディアの人間はノーランやメインの馬鹿共とは大違いだ。君らは真剣に生きている。本気でこの国をリディアの名の下に置こうと考えている。目先の利益に飛びつくなんてものじゃない。目の前の利益を見逃して、より大きな物を取るというものでもない。君たちはこの国の全部を取ろうとしている。僕はそんな君達が好きだ。デルフォイ家と同じくらいにね」
「そうですか、エルミスタット様」
オルンドラが言ったが、その口調はいまや冷ややかだった。やはり、彼女も本心ではエルミスタットを嫌っているのだろうか。ルハランはゆっくりと立ち上がる。何を言うべきか。最適な言葉が見つからないまま、彼は口を開く。
「俺は、」
「どうすればいいかなんて聞くなよ、ルハラン=ノーラン。僕はね、君自身に対しては何の興味もないんだ。綴られる物語の中の君と、君が織り成すもの、その到達点を思うと胸が高鳴るけどね。もう行っていいよ。扉は開けてある」
「ルハラン、行きなさい」
エルミスタットと、オルンドラが言った。その声に半ば促されるように、いや、操られるようにルハランは箱と少年に背を向ける。扉に手をかけるとそれはあっさりと開いた。背後からエルミスタットの声がする。
「あぁ、そうだ。言い忘れていたけど、リアトと剣王レアーツは無傷のベルメーラと一緒にいるよ。君が万全を期して送り込んだ彼女は、戦いに参加せずに剣王様の所へ寄り道していたみたいでね。ルハラン、お前が心配するようなことなど何一つ無かったんだよ」
虚無感。
ルハランは何かを喪失したと思った。
Δ
皇都の中だと言うのに、その場所は深い緑に包まれていた。
凍溶月をもろともしない緑の大樹は丸々とした実をつけている。その実は蜜柑色の鮮やかなもので、リアトは何故か懐かしさを感じた。そうだ。この実は昔、兄や父とよく食べた物だった。ここは何処なのか、リアトはそれを知っている筈だった。木陰の下から眺めるこの景色。青い空と橙の構図。
あ。思い出した。
「リアト、目が覚めたか」
頭上から声が振ってきた。その声は八年振りに聞くものだったが、リアトには誰の声かすぐに分かった。この深みのある重たい声は、幼い頃から何度も聞いてきた声だ。頼りになる、そして同時に信用することの出来ない男。
「兄上、何故居るのだ」
「混乱しているらしいな」
剣王レアーツ=ルーミンがそこに居た。リアトの実兄。『理剣』の血を受け継ぐ剣の申し子。彼は最後に出会った時と全く変わらない眼をしていた。冷たく、それでいて落ち着いた蒼の眼。リアトは彼の眼を見ると、何故か安心した。見る人間によっては震えが止まらなくなると聞くが、兄の眼が怖かったことなど彼女は一度も無かった。
「そうか、ここは剣王邸か」
リアトは起き上がってようやく気付いた。この見慣れた庭は間違いなく自分の生家だ。などと言うと、クルド=ルーミンに怒られそうだったが、幼少時代を過ごした剣王の家であることに間違いはなかった。恐らく、兄が自分を連れてきたのだろう。レアーツがリアトの様子を見て、言った。
「その様子では記憶の混濁はほとんど無いようだな。何処まで覚えている?」
痛む頭を押さえつつ、リアトは考えた。イルファンが攫われた事。覚えている。『骸』を追っていた事。覚えている。アルト=デルフォイと斬り合った事。覚えている。そして『骸』に捕えられた事。そこから、記憶がない。
「『骸』の罠にかかったところまで」
「では、俺も急いだ甲斐があったというものだ」
レアーツが少し得意げにいった。彼はもう三十を過ぎている筈だが、茶目っ気が残っている。しばらく会っていなかったが何も変わっていないらしい。剣王としてクルドを追い落とした彼は嫌いだが、兄としてのレアーツは好きだった。
「兄様、感謝している」
「あの様子を見るに《速気》を使用したのだな。俺は何度も封印しておけと言ったはずだぞ」
その尖った声は明確にリアトを責めていた。あの竜神山脈で最後に話した時と何ら変わらぬ声色。やはり自分は変わっていない、とリアトは思った。後先考えずに突っ走って、結局誰かに迷惑をかけてしまう。自分が『捨剣』であり続けようとしたときと同じだった。何があっても《速気》は使うべきではなかった。あの特質にもはや自分の呪体は、魂は耐えられない。実界的に言えば、脳みそが過負荷によって壊れてしまうのだ。あの気に入らない男、ローレン=ノーランと同じように。
魔法を構築するのと、特質を発動するのは非常に似ている。違界から引き出した力を用いて、実界を超越した事象を起こすこと。その点で言えば、魔術士も剣術士も同じことをしているのだ。そう考えていると、兄が困ったように、されど笑いながら言った。
「だが、アルト相手ならば仕方あるまい」
どういう意味だろうか。
リアトは問い掛けた。
「彼は何者なのだ」
「世にも稀な闘気特質《覚気》の一つ、『覚視』を持つ顕能者。上級剣術士の枠組みには到底収められん若者だ。特級とするにはまだ早いので、上級の称しか与えておらんがな。実力では、この本道場でも五本の指に入るだろう。俺でも、奴の相手は流石に疲れる」
成る程。通りで苦戦したわけだとリアトは思った。特質にも色々あるが、《覚気》は非常に厄介なものの一つだった。実力者が用いれば大抵の特質使いには勝てるであろう《覚気》とは、五つの感覚器官を強化する能力である。その内でも《覚視》は、その名の通り視覚を強化する。いや、強化という言い方には語弊があるだろうか。
正確には、『深みを増す』ということ。視るという行為をさらに深く、その根底まで辿る。そうすれば、そこにあるのは認識することだ。《覚気》が深める五感、その何れもが認識に到達する。すなわち認識こそが呪であるのだから、そこに辿り着くとは認識世界内の事象の全てを包括出来るということだ。
あのアルト=デルフォイが第四繋者だったことが幸いした。仮に彼が第七繋者だったとするならば、自分は死んでいただろう。リアトは知らずに身震いしていた。レアーツがそんな彼女を見た。兄の眼が鋭く、細まっている。何か、ひっかかることがある時の眼だ。
予想通り、兄の言葉はリアトを驚かせた。
「震えるのはまだ早いぞ。アルト=デルフォイというあの若造は生きている」
リアトは思わず、小声で叫んだ。
静かな剣王邸の庭に、彼女の声が響く。
「馬鹿な。私は奴の内臓を《破》で貫いたのだぞ。あの男相手に手を抜いた心算はない。アルト=デルフォイの体内は数千の靈刃で損壊されている。蘇生は不可能だろう」
真交流の奥義《破》は剣に不安定な靈刃を纏わせる業である。神業的な調整によって生まれた揺らぎの剣。それに斬り裂かれた者は内側と外側、その両方から破壊される。微細な靈力の振動が、無数の極小靈刃を生成し、周囲に放つ為だ。リアトはアルトを貫く際にこの奥義を用いていた。レアーツが言う。
「いや、蘇生ではなく屍生術式陣だ。乾湿戦争時に封印された筈だがまだ継承者がいたようでな。取り敢えず天剣の刻陣魔法で凌いだが、あの様子ではまだ生きている。一撃で魂まで完全に破断出来れば良かったのだがな。恐らくまだ、彼奴は皇都の何処かにいるだろうよ。人の身さえ脱ぎ捨てているかもしれん」
蘇生ではなく、屍生魔術。正常な肉体とその命を失いながらも生きながらえる禁忌の術。魂を少しずつ摩耗する両刃の技だ。この技を用いた者の魂は二度と回復しない。永久の苦しみ、永久なる破断が起こるのだ。
「禍忌魔術を使える人間など、限られている。それこそ『雲指』のローレンか、」リアトが言った。
彼女は情報を元に、敵の正体を絞り込もうとしていた。屍生術とは三十年以上に及ぶ乾湿戦争後、『大陸禁忌』で禁止された術式の一つ。元はと言えば、エレングルの『脳子』が復元開発した代物である。あれの存在を知っているのは、乾湿戦争に参加していた術式士だけ。その中でも特に有能で、かつ、今なお生きている奴はそれ程多くなかった。というのも多くの術式士が呪界汚染の後遺症で命を落としたからだ。
そのため該当者の数は絞られるが、このノーラン皇国で真っ先に名前の挙がる該当者はローレン=ノーランだった。あの男ならば、禍忌魔術を知っている上に行使出来る。故にリアトは、アルトの背後にローレンが居ると早合点した。だが、それは当然ながら浅はかな考えであった。少し諭すような口調でレアーツが言う。
「お前は詳しく知らんだろうがな、デルフォイ家とローレンは現状では解消不可能な対立関係にあるのだ。ローレンがアルト=デルフォイとその兄弟に協力する事は絶対にあり得ないだろう」
そうなのか。リアトは皇都の事情が少しだけ分かった。だがそれよりも、今の兄の言葉には聞き捨てならないものがあった気がした。
「今、兄弟と言ったか」
「そうだ。アルトの弟である四男、ランツ=デルフォイもこの件に一枚噛んでいる。だが不思議なことでは無かろう。彼は三男ラクトがローレンに殺された場面を見ている。奇しくもあの家は三男ばかりが処刑される。お前だって、あの騒動の事は覚えているだろう」
当然リアトは覚えていた。忘れもしない十八年前の出来事である。まだ幼いリアトを救ったのはラクトだった。その代償として彼は命を失ったのである。他ならぬ味方、ローレンの手によって。リアトは静かに言った。
「ランツは、まだローレンを恨んでいるのだな」
レアーツが遠い目をして言う。
彼は何かを思い出しているようだった。
「仕方あるまい。彼はまだ幼かった。リアト、お前を守る為とはいえ、味方を捨て駒にして犠牲を出したラクトが処刑されるのは、当然のことだ。あれは誰も責める事が出来ない事件なのだ」
それを聞いてリアトが顔を伏せた。
そうだろうか。本当にそうなのか。自分の力を過信して、前線まで単独行動した少女。彼女の責は問われないのか。仮に彼女が英雄だとしても。リアトは少女の行動を許せなかった。自分で自分を許せない事の、罪深さ。それは分かっていながらもリアトは自分を責める。自分は未だにあの戦争から抜け出せていない。
「ランツまでも乾湿戦争からは逃げられなかった」
「そうだ。お前が山に籠った後、あの青年は狂ったように術式にのめり込んだ。憎いローレンを術式で超克しようとするかのようにな。お前はそれすらも知らなかったのか」
ほんの少しだけ、リアトを責めたてる様にレアーツが言った。自分は自分のことで精一杯だった、などと言えるはずがない。あの時の特質後遺症から回復することは結局出来なかった、などと言えるものか。そのとき、レアーツがリアトの肩をぽんと叩いた。
「お前もローレンを許せ。あの戦争の中では誰もが不満を抱えていた。誰もが、敵よりも隣の味方を憎んでいた。俺もそうだ。皇王ラハリオへの不信感は戦時中、一度も拭い切れなかった。それでも、もう戦争は終わった。時代は変わっているのだ。あの男も未だにお前を憎んでいるようだが、それは余りに非合理で不毛な感情だと思わんか」
兄は非合理という言葉を好んで用いた。
彼はラフィーと、ある点でよく似ている。自身の行動で生まれる利益を最大化すること。兄が動く時は、必ず彼の利益が増える時だった。この人は私情では動かない。憎しみだとか、恨みだとかいう感情とは無縁なのだろう。であるならば、彼にはこの感情は理解できまい。リアトは言った。
「今は関係のない話だ」
そう言われたレアーツは片眉を上げて、リアトをしばらく見つめた。されど彼はリアトを責める事はしなかった。男は話を変える。
「よかろう。では、禍忌魔術に話を戻すぞ。あの魔術をアルトに施したのは、デルフォイ家の人間であることは確定的だ。俺の見立てでは、長女ロンティエル=デルフォイの可能性が高い。お前は碌に知らんだろうが、ランツと違って彼女には術式の才があった。それも非凡な才がな」
「ランツには無かったのか?」リアトが問う。
「彼は所詮、剣術士だったという事だ。そりゃ多少は他人より術式を使えるさ。だが、ローレン=ノーランには到底及ばない。もし仮に級位制度があれば中級止まりだろうな」
ロンティエル、という人物に大した心当たりはない。自分の全盛期には、まだ十やそこらの子どもだったはずだ。デルフォイの当主アランドの弟、三男坊のリィアドが乾湿戦争最中に皇国を裏切り、情報を流出させた事件。それにより、あの頃はデルフォイの名を出す事も憚られた。彼らは一度、政治の表舞台から消え、陰に隠れた。
「ロンティエル=デルフォイは、熱部術式研究を率いている女だ。表向きにはランツ=デルフォイが事を行なっているように見えるが、実際にはその姉の方が実力者であるというわけだな。この辺りの事情はローレンでさえも詳しく知らんだろうが、中央青宮では話題になりつつある話だ。なにせ、今は術式兵器について誰もが敏感になっているからな」レアーツが言う。
「なるほど。では、彼女が禍忌魔術を」
「用いたのであろう。熱部の魔術士グレオン=ラベストリに師事したとも噂のある女だ。屍生魔術を知っていても不思議はあるまい。問題は、彼らが何を目的としているか、だろうな」
ラベストリ、それは熱部で恐れられる『呪氏』の名だ。彼らの血族に眼をつけられたら、無事では済まない。乾湿戦争時の噂話の一つでは、彼らは人間を人形に貶めるという。その魂を取り出し、生命のない無機物の中へ閉じ込めるのだそうだ。それはある種の屍生術。ロンティエルという人間は思ったよりも壮絶な術式士なのかもしれない。彼女はイルファンを使って何を行なおうというのだろうか。
「だがそれは後回しにしよう」
「なぜ?」リアトが問うた。
「お前に問わねばならぬことがある」
レアーツが鋭い眼をリアトに向けて言った。
「なぁ妹よ。何故、イルファンのことを俺に問わない。何故、『骸』のことを俺に問わない。最初はお前の記憶が混濁しているのかと思ったが、違うのだな。この状況下でお前が其れを問わない理由は無いはずだろう。何を逡巡している。リアト、答えろ」
リアトは答えに詰まった。
「あの少女が心配ではないのか?」
「違う」リアトが言う。
彼女はイルファンの事を聞くという行為をひどく恐れていた。自身が敗北した時点で、ヴォファンと交わした約束は破れたのである。自分にはもう少女を守る資格がない。もはや自分は彼女の師匠で居続けられないのだ。
「答えぬと言うなら、俺が当ててやろう。お前は、」
「私はイルファンを守れなかった」
リアトが言った。レアーツが半ば呆れた様子で彼女を見る。彼は少しだけ優しい口調で言った。
「そんなことで躓いていては、守れる物も守れなくなる。今のお前がすべきなのは、攫われた子を取り戻すことだ。自己を見失うな、リアト。お前は仮にも特級剣術士、その力は並の剣士では到底及ばんのだ。お前が居ても負けることはあるが、それよりも、お前が居なければ勝てない状況を視ろ。俺達が闘っている相手はお前無しでは如何ともし難い」
レアーツは思っていた。この件の糸を引いている人間はデルフォイではない。当主アランド=デルフォイのやり口とは異なる、この、まるで全てを知っていて、強引に事を進めるようなやり方は『脳子』、乾湿戦争の遠き始まり。彼らのやり方だ。彼らは何か、大きな流れを実現する為に動いている。その駒の一つがイルファン=バシリアスなのだ。
「あの少女に施された安定化処理はまだ機能しているのか」
レアーツの言葉にリアトは答える。
「限界だと思う。彼女の記憶は近い内に再生して自壊的に精神の破滅を引き起こしてしまう。取り敢えずは簡易の靈水呪術で魔術の安定化を図ったが、余裕はそれほど無い」
彼女は一呼吸置いて、言った。
「兄上が此度、皇都に呼びつけたのもそれを意識した事だったのだろう? あれから八年。イルファンは遂に十三歳になってしまった。天獣周期と術式の存在期限からして、これ以上の引き伸ばしは不可能だと、兄上はそう考えたはずだ」
その通りだとレアーツは思う。だからこそ、この妹の反感を招かぬように事を進めねばならない。この剣王にも隠し立てがあった。イルファンという強大な力をどう扱うかについて、彼は一つの答えを持っていたのだ。だがそれにリアトが勘付くことは無い。
「うむ。彼女の奪還は速やかに行われる必要がある」
「イルファンは何処にいるのだ?」
ようやくリアトがそれを聞いた。それを聞くことが出来たのは、レアーツの慰めの所為ではない。思い出したからだ。自分が、イルファンを何から守るべきかを。自分が守らなければならないのはイルファンの自我。自分とミュトスが愛した男、ヴォファン=バシリアスの娘たる少女を守らなければ。あの悪辣で邪悪な『剣子』の術式から。
「ここでは誰が聞いているか分からん。後で伝える」
レアーツはまたも眼を細めてリアトを見た。彼はほとんど正確に彼女の心中を理解していた。今のリアトならばまだ役には立つ。闘気特質の後遺症は完全には消えていないようだが、特級剣術士としてのリアトの力は欲しかった。自分と『彼女』だけでは流れを作れない。そう考えながら、彼は屋敷の方へ顔を向けた。
「その前に彼女を紹介しておこう。ベル、来い」
呼ばれてすぐに彼女はやってきた。美しい服にも顔にも傷一つついていない。ベルメーラ。彼女は一体何者なのか。リアトは考えていた。彼女はどうもルハランの仲間ではないらしい。いや、正確にはルハランの仲間の振りをしていた、のか。剣王レアーツをあれ程にも疑っていたルハランと一緒に行動していた、その時点で自分はどちらを信じるべきか分からない。ルハランを信じて、レアーツへの警戒心を持ち続けるべきか、それとも、この兄を信頼して、彼に協力すべきか。
少なくとも、ベルメーラがここに居る状況は嫌な物であった。あの馬鹿なルハランと言えども剣友が騙されているというのは不快である。少し思案した後にリアトが言った。
「その女は何者だ。ルハランの仲間じゃないのか」
「私は剣王様から彼に貸し出された護衛であって、彼の仲間ではないわ。あんな寂しがり屋の浮気者、独り善がりで見るも哀れで、愛に飢えた精神異常者に敬意なんてあるものですか。」
ベルメーラは極めて厳しい口調でルハランを評価した。辛辣だ。彼女はルハランの事を相当、嫌っているのだろう。ひょっとしてあれだろうか。色仕掛けをさせられたから、とかだろうか。
「あいつはリアト姉様という人がありながら、其処らの女をとっかえひっかえ、まるで自分は世界中から見放された孤独者であるかのように振る舞って、あれこれと理由をつけて自分自身に向き合おうとしない。私はあんな不埒な屑、姉様に相応しくないと思いますっ!」
どうも色仕掛けが理由ではないらしい。彼女はルハラン自体が嫌いなようだった、というか姉様とはどういうことなのだ。正直、まったく意味が分からなかったのでリアトは兄に尋ねることにした。
「レアーツ、何者だ?」
ベルメーラは口を尖らせて、剥れている。
レアーツ=ルーミンは苦笑して言った。
「ベイル大公国で我らが母上が成した子だ」
「先ほどは身分を隠して申し訳ありません。私は『理剣』の娘、『冷剣』のベルメーラと申します。改めてどうぞよろしくお願いいたします」ベルが言った。
「は?」きょとんとした顔でリアトが言う。
「――大好きですお姉様」
ベルメーラがお辞儀をした。
リアトは驚いて、声も出なかった。
Δ
ルハランが去り、静まりかえった部屋でエルミスタットが話しつづける。部屋の寒さよりも冷えた声で彼は話し始めた。それは語りではない。故にその言葉は流れてしまう。その意味するところは、オルンドラにも正確には分からなかった。彼は楽しげに言った。
「視えている者がいる」
オルンドラは首を傾げた。
蒼の髪がふわりと揺れる。
「何が見えていると言うのです?」
少し勘ぐる様な声で彼女が言う。エルミスタットはそれを聞いて、眼を剥いた。あまりにもわざとらしい驚きの表現だった。彼は両手を前に出して、ひらひらと振る。少年は、オルンドラの発言の何かを否定していた。オルンドラはそれに対して一瞬だけ身構えたがすぐに力を抜いた。少年の顔に怒りの色が見られなかったからだ。エルミスタットは楽しげに言った。
「ねぇ、敬語なんて使わないでよ。友人らしく行こうじゃないか。君は僕の事をエルミスと呼べば良いし、僕は君のことをダラと呼ぶ。その方が人間らしくて良いじゃない」
綽名か。
古代では真名の認識が重要な力を持つとされていたが、現代呪術ではその考え方は既に古い。むしろ日常生活に密着した名前、すなわちその個人の存在を作り上げる背景世界において、何らかの存在承認を得ている名前の方が強い力を持つ。綽名は真名よりも強いのである。
エルミスタットとオルンドラが綽名で呼び合うということは、二人の間に極めて親密な関係性があることを認識し、承認する行為である。呪的に言えば、二人の魂が第三界『形界』に於いて繋がることを意味する行為。最も、『脳子』たるエルミスタット=ロギオスに魂があるのかは極めて怪しいかった。それでも、オルンドラ=リディアとしては彼との繋がりを避けたかった。彼女は冷たい声を作って少年に言う。
「エルミスタット、あと十分程よ。真面目な話をしましょう」
「してるじゃないか。今の所、皇都で『十界』が視えている人間は殆どいない。皇王ラハリオとアランド=デルフォイ。主要人物はこれくらいかな。剣王レアーツにも少しは視えているようだけど、事象を操るだけの力量は無いだろう。メイン家のエリィンにも視えちゃいるんだろうけど、彼はどうも事態に干渉する気はないようだね。全く。ルディオ=ペンドランなんて木の棒ほども役に立つものか」
「錚々たる名前ですね」女が言った。
「ダラ、君は僕らにどう、干渉したい?」
エルミスタットはオルンドラの拒絶を無視して言う。話は飛び飛びで、彼が何を言いたいのかよく分からない。それよりも、彼がダラと言ったことの方が気に掛かった。彼は間違いなく、その綽名を既に知っていた。既知の事実をあたかも発見したかのように提示したのだ。オルンドラは少々の不快感を覚えつつも彼に答える。
「干渉だなんて恐れ多い。貴方達のような存在にわざわざ手を出す愚か者ではないですよ」
エルミスタットが面白そうに笑う。彼は掌で様々な物体を創造して、遊んでいた。その中にはオルンドラの姿をした人形もあった。彼は人形の手足を前後左右に動かしながら言う。
「そうは言っても、事態は加速度的に進んでいるんだから。君一人だと大変だよ。この速度に付いていくのはさ。もう既に僕の可愛い『剣子』は攫われてしまったことだし、それにデルフォイ家は個別的にノーランを陥落しようと試みている。君たちだって何かはしなきゃね」
「我々や彼らに何ができると。少女だって貴方が攫わせたのでしょう。目的までは分かりませんが」
イルファン=バシリアス。十中八九、この件にはエルミスタットが関与している。いや、正確には彼はその情報を全て知り得ていると思われた。少年の言葉には真実と、虚偽にも似た隠蔽が織り込まれている。彼の言葉をそっくりそのまま捉えるのは危険だった。
「いいや、僕はほとんど何もしちゃいないさ。僕が知っているのも、あの少女を『骸』が攫ってランツが起動させることだけ。その先を確定的に知ることは僕にも出来ない。もっともそれは僕がロンティエルであればどうするかということとは別問題さ。同様に、僕がアランドであればということもね」少年が高らかに笑う。
「それだけ知れたら十分ですよ。ランツとアルトを捕えて、イルファンもラツィオ=メインが回収する。勝つのはローレン=ノーラン。そこが貴方の想定する終着点でしょう」
それしかない。とオルンドラは思った。剣王レアーツと手を組む可能性はあるかもしれない、だが、エルミスタットが熱部に力を持たせることはない。彼の狙いはあくまでも、ローレンを強める事のはず。
「どうして、そう思う?」エルミスタットが問う。
「ラハリオを退位させるにはローレンが必要です。貴方が術式機械である以上、術式技術の発展を妨げようとする皇王陛下の存在は邪魔でしかないでしょう」
オルンドラが言いたいのは、こういうことだった。即ち、『脳子は脳子の利益を最大化する為に動いている』。あらゆる人間に当て嵌まる、単純明快な法則。全ての者は自分の為に行動する。際限のない議論だ。何が利己だとか、何が利他だとか、そんな倫理の問題はどうでもいい。オルンドラが彼を利己的だと思う理由はもっと単純なものだった。
「貴方は意思を持たない術式機械なのだから」
自己の保存の為には利己的でなくてはならない。その設計思想からして、彼は自身を守る様に出来ているのだ。一見、それは意思のようにも見えるかもしれない。だが、実際には、彼の意思は刻示された防衛反応に過ぎない。術式を封じ込めようとするラハリオに対する拒絶反応だ。故にオルンドラは彼の目的をラハリオの打倒と見た。だが、エルミスタットは意味深な笑いを浮かべて言った。
「それはどうかな。僕に課せられた禁則はそれ程、単純なものじゃないかもしれないし、そもそも僕は本当に術式機械なんだろうか。仮に僕がそうだとしても、ダラ、君が術式機械でないという保証はどこにもありはしないだろう。その限りにおいて、君の推論は揺らぎっぱなしの憶測さ」
「衒学的議論をするはめになるとは思いませんでしたが……確かに私には貴方方の存在がどういったものであるかは分かりません。神のようでいて、また機械のようでいて、人のようでもある。殺すことさえできるか分からない。成り立ちさえもお伽噺でしか知らない」オルンドラが言った。
満足げに少年は頷いて目を瞑った。
「神話にも一片の真実はある。だけどそれとて一握りの脳みそと瞳から零れ落ちた『語り』なのさ。だから君に分からないのは当然のことだ。だがそれでも、我々はいつでも希望しているんだよ、ダラ」
「何をです?」オルンドラが尋ねた。
「――魂の破断を、だ」少年が答えた。
それからしばらくして、オルンドラは『脳子の間』から立ち去った。室内の灯が消え、エルミスタットは箱の中に格納される。冷え切った部屋の中で、くすくすと笑い声だけが箱から漏れていた。




