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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
二節 皇都剣戟
19/43

2-2 鋼名宣誓/オルンドラ

Δ


 それは少女が消えてからすぐのことだった。


 リアトとロビラが『骸』を含めた王の剣を追っているまさにその時、ルハラン=ノーランは街の中央にある皇城に居た。皇城『深青宮ラングリア』と呼ばれるここは五区画に分けられている。門から庭園、厩舎などを含む『外宮』。下級使用人が住む『下宮』。上級使用人が住む『上宮』。皇族の殆どが住む『白宮』。そして政務を行なう為の『青宮』。これら全てが一つの巨大な建物に集約されているのである。その名の通り、濃紺に塗られた宮殿はノーランという国の象徴でもあった。


 敵の足取りが全く負えぬ以上は可能性を虱潰しに当たっていくしかない。ルハランが最初に探ることにしたのは、ローレン=ノーラン第一皇太子だった。あれのリアト嫌いは尋常ではない。あの男は自分がリアトに求婚した際にも大反対した内の一人だった。いや、大反対と言う程度で済むものではなかったか。ローレンはリアトを積極的に貶めるつもりだった。彼の友人を含めて数千人が死亡した熱部作戦の復讐の為に。


 あれはリアトの所為ではない、とルハランは何度も兄に訴えた。されどローレンは聞く耳を持たない。彼は聡明だが愚かなのだ。各々の状況や全体的な流れを把握しないため、先読みをして動くことが出来ない。もっとも猪突猛進型の人間という意味ではルハランも同様だったが。


 今回の事態にもローレンが絡んでいる可能性は高かった。これはもはや確信に近い疑いであったがそのことを、リアトに正直に告げる訳にはいかなかった。仮にリアトがローレンを標的とすれば彼女は都主に剣を向けることとなる。そうなれば、その事実を口実にリアトは反逆罪で捕えられてしまうだろう。


 故に彼は一計を案じた。剣友という立場を利用した誘導である。彼はリアトとの会話で、彼女の中で芽生えていた剣王への疑念を膨らませた。それによって、彼女を危険から遠ざけたのである。これで彼女は剣王レアーツ=ルーミンを追うことになろう。あの兄妹の仲は険悪に見えて、非常に良いとルハランは思っていた。故に剣を交えたとしても致命的な事態にはならぬ確信があった。剣王の手が狗と会っていたのは事実だが、調べられるともっと不味い事もある。


 その一つが、兄ローレンの傍付きである上級剣術士ラツィオ=メインである。彼はリアトがドピエルで襲われた際にもフィロレムに滞在していた。もしも、リアトがこれを結び付けて考えたらどうなるか。事実、ルハランはこの出来事からもローレンの関与を確信していたのである。


 まったく自分の公務にだけ精を出していれば良い物を。兄は様々な所へちょっかいを出す悪癖でもあるのか。今度、父に謁見することがあれば悪評を吹きこんでおこうか。ついでにリアトの評価を上げる様な事も言っておこう。どうせ、暫くの間、彼女はエルトリアムに居るのだろうし、とルハランは思った。術式に固執するのは勝手だが、リアトに絡んでくると言うならば容赦はしない。ルハラン=ノーランの心中は彼女の事で占められていた。


 とはいえ、これで当面の危機的事態は回避出来たと見てよい。あとはイルファンの行方だけが問題であった。ルハランは皇族特権で昇降機を用いると風のような速度で青宮をのぼり、顔馴染みの忌々しい宮廷官吏の一人を素早く捕まえた。


「ローレン殿下にお会いしたい。取り次いでくれ」


 官吏の男――とはいえ、もう六十手前の老人――はルハランのことをよく知っていた。ルハラン殿下は変わり者、街中で女と見れば見境なく声を掛ける不埒者なのだ。そう思いながらも、老人は表情を変えずにルハランに応対した。そう思われていることをルハラン自身も知っていた。


「申し訳ございませんが、殿下は只今ご公務に出られておりますので」

「面汚しには会わせられないと?」

「めっそうも御座いません。また後日、ご連絡致しますゆえ」


 そう言って、老人が僅かに目を伏せた。

 ルハランはこれを好機と捉える。


「今、兄上に会わねばならない。後日では困るのだ」


 ルハランは声を荒げて、男を押し切ろうとした。昔から第一皇太子ローレン、すなわち兄の側近たちは堅物ばかりだった。兄を王の後継ぎとする為だろう、各地から呼ばれた彼らは学者気質の誇り高い人間たちだったのだ。ルハランは幼い頃から彼らとは気が合わなかった。彼ら、兄の家庭教師たちが自分を見る眼が嫌いだった。誇りや忠誠心を美麗な言葉で語る彼らの眼には利己心が映っていた。価値のある物。より大きな物に取り付き、服従しようとする心。自らの利益の為に物事を判断する、その打算的なむきだしの野心。


 それらはルハランには隠されることも無く向けられた。忠誠心と混同された利己心はいつだって、明明白白にその姿を晒した。不出来で愚かな第三皇太子にはそれを隠す必要がなかったからだ。格式高さの名の元に、ルハランは何度も貶められ何も与えられなかった。だが、それは彼に王の資質が無かったからではない。彼が、何かを与えた所で意味のない存在、第三皇太子だったからだ。家庭教師たちがルハランを見る眼はいつもそうだった。兄に求められた資質はルハランにはむしろ不要で、だから彼はそれを捨てた。あるいは、兄が選べない人生を自分が代わりに選んだつもりだったのかもしれない。


 とにかく、ルハラン=ノーランは自ら進んで愚弟となり、そして、兄ローレン=ノーランは期待されるがままに聡明さを発揮した。とはいえ、実際にはローレンは多くの問題を抱えていたが。


 ルハランは男を無理矢理に押しのけてローレンのいる都主室へと進もうとするが、男はルハランの腕を掴み、引き戻す。なかなかの力であったからルハランは闘気を込めて男を振りほどくと、静かに言った。


「離せや」

「ルハラン殿下、宮廷で、そのような下賤の者の言葉を使うのはお控え下さいませ。人間に身分があるように、言葉にもそれに適した身分があるのでございます」


「黙れ。早く、兄上を呼べ!!」

「殿下……」


 わざとルハランは怒鳴った。それもローレンの居る『都主の間』へ向けて。その怒声は青宮に響き、部屋の主の傍付きの耳にも入った。傍付き、意外なことにその人物は女だった。彼女は口論を聞きつけて扉を開けると、ゆっくりと足を進めて階下から聞こえる第三皇太子の声の方へと歩いていった。


「誰だ」


 廊下を進む足音が、薄氷を踏むかの如き慎重さであることに気付いて、ルハランは振り返る。そこには一人の女。背には標準的なバルニュスが負われている。感嘆する程に滑らかな足の運びは、動いている事さえ、感じ取れぬ程に乱れが無かった。ルハランの脳が急速に冷めていく。


「お久しぶりですわ、皇太子殿下」

「お前、リディアにいるのではないのか」


 彼女が傍付きであることをルハランはよく知っていたが、この女がいる可能性をどうしたわけか考えていなかった。何故今、この女なのだ。何故今、彼女と会わねばならない。今のルハランには彼女は荷が重い。この女はルハランにとって美しすぎたし、少々憎すぎた。


「彼からお離れ下さい、ルハラン殿下」女が鋭い声で言った。

「敵対するつもりはない、オルンドラ=リディア」ルハランが言う。

「敵対ならずっと前からしてるではないですか。相変わらず、愚かしいのですね」

「お前の主人には負けるがな」


 それを聞いて、オルンドラ=リディアと呼ばれた女は小馬鹿にしたように笑った。いや、彼女は明確にルハランを馬鹿にしていた。ように、ではなく。一方でルハランの声に力は無い。何かを恐れているかのようにうわずっていた。


「ローレン殿下を嘲笑えるほどの思慮が貴方におありだと?」


 オルンドラが艶めかしい声で優しく、彼を侮蔑した。ルハランはそれを聞いて、顰め面で唾を吐き捨てた。官吏の老人が急いで逃げていくのを見ながらルハランは思考した。この女と話すのは苦手だった。こいつは何を言われても取り乱さない、かちこちの黒神鋼の如き鋼の精神を柔らかいラチェットで覆ったような女だ。ふふ、と笑って、オルンドラは歩みを進めた。


 軽やかな足取りは自分より二歳年上の女とは思えない。まるで十八歳の娘のような軽快な動作でオルンドラは動いた。それは記憶の中の彼女の振る舞いと何ら変わらない。


「とりあえず、その妙な敬語をやめろ」

「お気に召しませんか」女が笑う。

「話をし辛いだけだ。気が散らされる」

「そう。じゃあ戻すからお話しましょう。もうローレン殿下にお会いする必要はなくてよ。今ここで私に話してみなさい。そうすれば何の滞りもなくこの場は収まるわ」


 通り道を塞ぐように立って、オルンドラは言った。ぴくりぴくりと小刻みに動く右手がルハランを警戒させる。何時如何なる体勢からでも剣を抜く、《常剣じょうけん》の構えである。ルハランも右手を背に回した。それは剣の間合いを読ませない《裏剣りけん》の構え。


「邪魔だ、リディアの一人娘」

「裏剣の構えを使えるようになったのね」


 少しだけ驚いたようにオルンドラは言う。そうか。彼女は今の俺を知らないのだな、とルハランは思った。彼女の中での自分は一体、いつの頃の自分なのだろうか。最後に会ったのは五年も前になるだろうか。あの頃と比べて自分が成長したとはまったく思えないが、彼女にはどう映っているのだろう。オルンドラは思案気なルハランの顔を見ると、訳知り顔で言った。


「リアトね」

「読むな」


 言うと同時にルハランが一歩詰める。オルンドラの手の震えがさらに大きくなる。ルハランは懐かしい彼女の動きを見て、昔のことを思い出した。ほんのりと鼻腔をつく女の匂いが甦る。まだ二人が幼かった頃の思い出がよみがえる。


 この女はオルンドラ=リディア。守護の一角『乾』のリディア家の長女である。そして、その母は皇王ラハリオ=セン=ノーランの妹であった。彼女はルハランとは従姉の関係になる。これはつまり、愛し合っても問題の無い関係だった。というわけでルハランとオルンドラは若い頃、深く愛し合った。


「お前には何の関係もない」ルハランが言う。

「もう愛し合ったのかしら。愛を知らない者同士で」

「愛についてお前に教えられるつもりもない」男が言った。


 成人するまでを白宮で育てられたリディアとルハランは抱き合う。それは理由のない恋愛、傍に居たからという理由でなされる恋愛である。故に二人は快楽を貪りあいながらも、特にお互いを愛したりはしなかった。深い情、まさに姉弟のような情だけがあった。だから、オルンドラがルハランの元を去った時も、ルハランは悲しまなかった。予め分かっていたことを見せられたような感覚。その心が苦しくなることはない。だが、オルンドラは十六歳になったばかりのルハランを置いて行っただけではない。彼女が次に自分を捧げようとしたのは、都主になったばかりのローレンであった。


 ルハランは苛立った。

 それは嫌だ、と思った。


「今度はどんな執着なのかしら」

「お前は兄上のような冷たい男が好きだったな」


 兄はオルンドラ=リディアに興味を示さなかった。

 そして、彼女は兄のそこに惚れ込んでしまった。


 愛。あぁ、くそったれ。とルハランは思った。心の底からの愛。無償の愛。全てを捧げる愛。そんなものが何だというのだ。そんなものが。与えられる、ということから俺は程遠い場所にいる。そこから抜け出す唯一の方法が何処かにあるのだと信じたいが、ほんの少しも信じられない。オルンドラが傍付きになったと聞いたのは一年後のことだった。彼女は昔から優れた剣の才を持っていたから驚くことではなかった。女が言う。


「ローレン殿下にも欲しいものくらいあるわ」

「少なくとも女ではないようだが」ルハランがせせら笑った。

「貴方みたいに女だけが心の支えになるような男には想像もつかないと思うけれど、それってとても素晴らしいことなのよ。自分の好きなことに全力で愛を注げるなんてね」オルンドラがほくそ笑む。

「下らん。皇族としての責務から逃れているだけだろう」


 ローレンを笑ったルハランであったが、それはあまり良い攻撃ではなかった。


「貴方が言えたことかしら。古い価値観を嫌って、自由を求めて傭兵の真似事をしていた貴方が。自分を棚にあげてローレン殿下を嘲うのはいささか滑稽にすぎると思うわよ。そのくせ、女に惚けて邪魔をしようなんて……本気なら剣の一本くらいは交えていきなさい」

「よかろう」ルハランが面倒くさげに言った。


 その言葉に合わせる様にして、オルンドラが剣を抜く。速い。《常剣》から放たれる剣は斬り上げ。一行九剣の速断はやだち。速度に特化した神速の斬法。余韻も残さぬ極薄の剣筋であった。空気を斬って、バルニュスがルハランに迫る。悪くは無い一撃だが。


「見える。遅くなったものだな」

「そうかしら」


 ルハランは即座に右肩関節を外して、背負いの剣を抜いた。そのまま、魔剣十剣《止刃しじん》で以って、女のバルニュスを止める。内包された圧縮魔力が剣の一撃を完全に殺し去ったのだ。流れを食う剣技。オルンドラはすかさず剣をずらし、その場に屈みこむ。驚異的な重心制御だった。


 二戟目。オルンドラは左の拳から闘気を放ち、ルハランを牽制する。それと同時に右側面からの《速断》。並の剣士では視認も不可能な速度である。ルハランはその断ちを僅かな足捌きで躱すと、女の腹に闘気を打ち込んだ。オルンドラは瞬間的に腹部に力を入れて打撃を逆に制する。崩れ込むルハランの首筋に、好機とばかりに女の《音断おんだち》が滑るように迫った。その剣は音よりも速く、鉛よりも重い。


 しかし、かきん、と音が鳴る。手の痺れ。オルンドラのバルニュスは高々と弾き上げられる。ルハランが一行《斬跡きりあと》を用いて、彼女の心的剣軌道をなぞったのだ。正確に、オルンドラそのものであるかのように一撃は振られ、女の剣を制した。オルンドラは冷人歩法《瞬避》の変則系《延避》を用いて、距離を取る。


「やるわね!」

「黙ってろ」


 ルハランはその距離を同じく、瞬避によって詰めた。オルンドラは剣に靈力を顕現させて、《破砕剣》を用いようとするも、その僅かな距離では破砕剣発動までの隙を埋めることが出来ない。仕方なしに彼女はルハランに剣を合わせて押し合いつつ、体捌きでそれを崩した。


 彼女はそのまま、体技と組み合わせる様にして、一行《廻刀まわしがたな》を振う。くるくると滑らかに回る剣筋は美しすぎるが故に軌道を読ませない。完全な円の動きを体得したオルンドラ=リディアの其れは、予測不可能。変幻自在の剣が縦横無尽に廻りながら、ルハランに迫った。だが、ルハランは崩されても体勢をぶらすことなく、女の次技に対応する。瞬間的に剣に魔力が満ち、それが一気に形を成す。それはまるで鞭。伸びる刃。魔剣《伸刃しんじん》は間合い外の人間を貫く魔剣技だ。それが女へと伸びる。真交流の《貫》との違いはその強度と射程。さらには技への対応力である。伸びた魔体刃はオルンドラのバルニュスに合わせる様にして、絡みついていく。


 女の《廻刀》の回転運動がそのまま絡みの運動へと変わってしまう。オルンドラは自らの剣を動かそうとするも、締め付けられたそれは動かない。ルハランがさらに魔力を込めると、オルンドラの藍神鋼の剣は撓んで折れた。飛び散る青の欠片が女の頬に一本の傷をつける。ルハランはそれを一瞥して、彼女の元を去ろうと足を出した。


「ルハラン!」


 だがその時、オルンドラが剣気を放った。完全に崩れ落ちているというのに弱さを感じさせない靈気がルハランの足を止める。皇太子は自分がなにかを期待していることに気付いた。女はゆっくりと立ち上がると、折れた剣をルハランに向けて凛とした声で語った。その切れ長の瞳には並々ならぬ熱量がこもっている。


「待ちなさい。今日はローレン殿下の進退を決める日なのよ。話なら私が聞くから殿下の邪魔だけはしないでもらえないかしら。後先を考えずに動くことができるのは貴方の美徳だけれど、それで誰も得をしないのなら単なる厄介者でしかないわよ。殿下を斬ろうとするのはやめなさい」


 ルハランはわざと冷たい声を作って言った。


「殿下、か。お前の気持ちをローレンが汲むことは永遠にないぞ。ローレンが愛を注げる対象はとても狭いし、お前など何年経っても眼中の外だ。あいつに尽くすのはやめたらどうだ」

「貴方も一緒でしょう。リアトが貴方を愛することはないわ」


 ローレンが気持ちを汲むことはない、という言葉に返して、オルンドラ=リディアが言う。その言葉が鋭くルハランの胸を抉った。


「俺は愛されたいなどと思っていない」男が言った。

「いいえ思っているわ。私を見る目で分かる。幼い頃からずっと貴方は、強くて優しい姉が欲しいのね。自分を守ってくれない母親や兄に対する失望が貴方をそういう思いに駆り立てているのだわ」


 オルンドラが優しい声で言う。その声は久々に、人を嘲笑う色のない懐かしいものだった。幼い頃の、姉上と慕っていた頃のオルンドラのそれだ。奇妙だ。ルハランは反射的に周囲を警戒した。何のつもりなのだ。俺に突然、優しい言葉をかけてこの女は何がしたいのだ。ルハランは詰問するように言った。


「時間稼ぎのつもりか」


 ぽたり、ぽたりと滴る血の音。

 オルンドラは静かに語る。


「貴方は可哀想な人だわ。ローレン殿下とそっくり。自分一人ですべてを抱え込んで、自分自身を苦しめてしまう。そんな貴方を見ていると私まで辛くなるのよ。肌を重ねてあげようとは流石に思わないけれどね」

「うるさい」ルハランが言った。


 ――この女とはやはり戦えない。そう思ってもなおルハランは剣を納めなかった。油断は禁物である。オルンドラ=リディアは上級剣士、どんな手段を隠し持っているか知れたものでは無い。しかしルハランは彼女に心を許し始めているのだ。そのような覚悟に何の意味があろうか。


「私に振られた貴方はリアトにそれを求めている。けれど、それは無駄なことだわ。リアトは貴方を支えることはできないし、貴方に彼女を支えることもできない。そうじゃなくて?」

「続けろ」


 ルハランにオルンドラが言う。


「あの子は弱い子よ」


 知っている。そんな事はとうの昔に知れている。オルンドラに言われるまでもなく、ルハランは知っていた。乾湿戦争後、少しして姿を消したリアトを探している途中、ルハランは彼女の弱い部分をたくさん知ってしまった。いや、戦時中から既にそれは知っていたのかもしれない。前線。荒れ狂う剣術士連中の中で、一人静かに立ち尽くすリアト。その佇まいは孤独そのものであり、ひどく寂しそうに見えた。ルハランが彼女に惚れたのは暫く後のことだったが、あれは本当に。弱弱しい少女であったのだ。


「それが何だというのだ」ルハランが言った。


 しかし、心なしかその声は小さい。


「今、中央は激しく荒れているわ。リアトはここでは生きられない。彼女の生きる場所は言葉の世界ではなく、剣の世界なのだもの。貴方だってそれは分かっているでしょうに。今や特級剣士とは呼べないまでに彼女は弱くなってしまっている」


 オルンドラがゆっくりと立ち上がって言った。両手に武器は持っていない。腰にも短剣などは提げていないらしい。彼女がゆっくり近づいてくる。ルハランはそれを受け入れた。剣を下げ、少しの距離を保ちつつ、彼女に近付く。そして応えた。


「それは精神の話か。それとも、」


 オルンドラがやや精彩を欠いた声で答える。


「両方よ。デルフォイの台頭は殿下でも止められないほどなの。ラツィオがボダットで彼らの弱みを探っているけれど、有力な情報は何も得られていないわ。仮に熱部貴族が政治を握れば、熱部作戦の恨みを持つ彼らはリアトを追放処分にするでしょう。その力に抗えるほどに彼女は強くないでしょう」


 オルンドラは言った。流石に彼女の頭はよく回る。そう言われてしまえば、短絡的にローレン=ノーランを貶めることは出来ない。彼の位格が落ちることが即ち、デルフォイ家の台頭に繋がるからである。そうなればリアトの安全は保証されない。最悪の結果になるだろう。


 だが、だからと言ってルハランはローレンを信用するつもりもなかった。彼のリアト嫌いは本物である。彼は心の底からリアトを憎んでいるのだ。何故、その彼がデルフォイ家よりもましだと言える。むしろ逆であろう。ローレン=ノーランを貶めてデルフォイと手を結ぶべきではないだろうか。どうせ誰が都主になっても、俺に権力は回ってこないのだ。ならば、リアトが一番幸せになる方法を俺は探すべきだろう。ルハランは戯れに言った。


「ローレンがリアトを熱部に差しだして、自己の保身を図らない可能性が何処にあるのだ。あいつのリアト嫌いは相当だ。俺にはむしろ、その方が自然な流れに思えるのだがな」


 オルンドラは少しだけ苦い顔をして言った。


「確かにね。でも約束するわ。私がローレン殿下の舵を取る。私に協力しなさい、ルハラン=ノーラン。貴方の愛する人を助ける為の最善策だと思いなさい。そうね、それともう一つ譲歩するわ。ローレン殿下と『誓約』を結びなさい。二度とリアトに手出しをしないという誓いを立てるのよ。そうすればこの諍いも今後の利に繋がるでしょう?」


 誓約か、ルハランは思った。確かに今ならばローレンも聞き入れるだろう。加えてオルンドラの協力を取り付けられるのはありがたい。兄はラツィオ=メインの次に彼女を信頼しているようだった。とはいえ、それが恋愛感情にならぬのは悲しい事実であったが……。ルハランの脳裏に、オルンドラの能力を疑う気持ちは起こらなかった。彼女の能力に、ルハランは全幅の信頼を置いているのである。オルンドラ=リディアなら、ローレン如きの舵を取れぬはずがない。彼女は本当にあんな男には勿体ない人材なのだ。まぁ、ルディオ=ペンドランなどと組むよりは余程良いだろう、とローレンは少し思案した挙句、オルンドラに言った。


「今回の件がローレンの仕業でないと、はっきりしたら協力しよう」


 オルンドラはその答えを待っていた、とばかりに微笑んだ。そして彼女は言った。先ずローレンに鎌を掛けるべきだ、と。それも本気で彼が慄くくらいの鎌。つまり剣を向けるのだ。オルンドラでさえ、ローレンの行動の全ては把握していない。


「その件とやら、話してくれないかしら」


 ルハランは彼女にイルファンの失踪を話しながら考える。リアトの連れの少女、イルファンを攫ったのがローレンの可能性は多分にあった。最初にその可能性を排除しなければ、そもそも交渉にならない。オルンドラが聞いても良いのだが、それではリアトの安全が危ぶまれる。この狂言の目的はローレンにリアトへの干渉を永遠に止めさせる事なのだ。とはいえ、この青宮で狂言を仕掛けるのはなかなか度胸のいることである。ふと、ルハランは疑問に思った。


「もしも、本当にローレンの仕業だったらどうするつもりだ」

 

 ルハランが問うた。オルンドラが答える。


「貴方と剣を交えるわよ、勿論」


 やはり彼女はローレンに付くらしい。まぁ当然のことではあるが少し寂しかった。ルハランは考える。もしも仮にオルンドラが俺を裏切ったら、俺は反逆罪で逮捕されてしまうだろうか。いや、それはない。兄上とて、今、この時期にノーラン家内で弱みを作りたくないはずだった。極力、弟と協力してデルフォイに当たりたいと考えているだろう。オルンドラが俺を裏切っても問題は無い。そう考えて、ルハランは彼女と手を組むことを了承する。しかしそのときオルンドラが飄々と言った。


「でもその可能性は限りなく低いでしょう」

「なぜ?」

「貴方すっかり忘れているんでしょうけど、今日はローレン殿下の進退がかかっている皇貴会議なのよ。明度時刻の十五時から青宮に大勢の貴族が集まるわ。貴方の話を聞いている限りでは随分と大掛かりな策謀が巡らされていたようだけれど、そんなこと今の殿下にできるかしら」


 皇貴会議とは、皇都の都主と貴族の間に開かれる会議のことだ。貴族は皇王には陳情する事しか出来ないが、都主に対してはそうではない。この会議では、貴族が、皇都の都主を積極的に糾弾することが出来た。ルハランもローレンが多くの貴族に敵視されていることを知っていた。そのほとんどが熱部系の貴族であるはずだった。


 デルフォイの台頭は城下町でも噂されている話題である。ここ数度の皇貴会議で責めたてられるローレンの姿は、下街でもよく知られていた。都主としてのローレンの権威は地に落ちかけている、と言っても過言ではないだろう。魔法士や術式士としての彼ならば、まだまだ大衆の人気を得ているのだが、それとて限界というものがある。今回の会議はその分水嶺となるべきものだった。今日が皇貴会議となれば、今頃ローレン=ノーランも、その手の者も必死で会議の準備をしているはずである。


 まさかリアトの件に関係していないとは思いたくないが、複数の事態を同時に動かせない兄上のことだ。リアトの弟子にまで手を出せるとは思えないし、『骸』を動かせるとも考えられなかった。恐らくあり得ないことだとは思うが、ひょっとすると、今回の件にローレンは全く関係ないのだろうか。一度芽生えた思いはなかなか消えるものではない。ルハランは自分が抱いていたローレンへの怒りが徐々に薄れていくのを感じていた。


「まぁ一応やるだけやりましょう」女が言った。

「最後に会議のことを言うとは、見事だな」

「でしょう? さぁ剣を抜きなさい」


 床に広がる血溜まりに剣を浸して、彼女の血を滴らせる。そのまま二人で都主の間近くまで駆けると、ルハランは剣を振るった。黙ったままで。本当に殺してしまうかのように。オルンドラが折れた剣を構えて、もう片方の手で手招きをする。それが合図であった。


 打ち鳴らす。剣戟。一、二、三。


 オルンドラが床に倒れ込み、にこりと笑う。

 そして、口の形だけで物を言った。


『初めての共同作業ね』

『冗談は止せ』


 ルハランは小声でそう言うと、厳めしい顔付きで部屋の扉を開けた。室内にはローレン=ノーランとルディオ=ペンドランが居た。面食らった顔の兄を見てルハランは、笑いを堪えなければ、と思った。



Δ



「話は分かったがな」


 ローレン=ノーランは小さな声で言った。怒りに震えているように見えるルハランの話を全て聞いた上での一言であった。面倒くさげな口調が彼を刺激するかもしれないとは思ったが、ローレンはそれを隠さなかった。というよりも隠すほどの余力がなかった。


「とりあえず剣を降ろせ」


 ルハランはそれを聞くと、きっ、と兄を睨んだ。


「リアトから手を引くならば」


 そうは言われたものの、ローレンには心当たりがない。既にリアトに構っている暇が無かった事実は告げたのだが、この馬鹿弟ルハランがそれを信じる様子は一向に無かった。こうなればどれだけ説明しても無駄だろうか。ローレンは諦めつつ言った。


「何度も言わせるな。私は知らん」

「信じられません。この皇都に入った直後に攫われるなど尋常の事態ではないでしょう。多少、リアトを憎んでいる者がいたとしても剣王か貴方並の情報収集能力を持つ者でなければ、ここまで迅速に事を進めることは到底出来ません」


 そう言われて、ローレン=ノーランは考え込んだ。弟の言う事には正しさもある。リアトを憎んでいて、かつ彼女の動向を把握することが出来る人間は自分くらいだろう。襲撃の方法にしてもそうだ。『骸』のシドニィを使える人物などそうそう居ない。剣王などの王に連なる者か、四人の皇太子くらいだ。


 将軍テルメア=フォンドランを始めとする軍部連中にはその権限は無い。そもそも、『裏王剣かげ』は軍部や貴族に対する、皇族の対抗手段である。彼らが、例えばデルフォイ家やフォンドラン家が王剣を用いることなど有り得ない。この件において、最も首謀者の可能性が高いのはやはり自分だろう。第一皇太子にして都主。元『雲指』のローレン=ノーランだ。

 

 では、自分がやったのかというとそれは違うのだが。


「疑う理由は分かったが私ではない」


 ローレンは再度、否定した。


「では、拐したのは誰だと言うのです」


 ルハランが憤る。剣を握る右手がひくりと動いて、ローレンはたじろいだ。ルディオ=ペンドランは物言わぬ彫像のように立っている。驚くほど、役に立たない男だ。もしも仮にルハランがローレンを殺そうと決めたらば、それは為されるだろう。ローレンにそれを止める手段はない。正確には今のところは無いのだった。部屋中に仕掛けてある術式陣を発動させる間もなく、首が飛ぶのは確実である。傍付き連中はどうか。警報装置を動かせば来るだろうか。


 それにしても、主が死した後では遅すぎる。信頼していたオルンドラが敗れたであろう時点で傍付きには期待できない。ルハラン=ノーランの剣の腕は本物だ。並の上級剣士では勝てないだろう。ローレンは仕方なく、ルハランに協力することにした。とはいえ、オルンドラが本当に敗れたのかどうかは極めて怪しかった。彼女はそういう女だったから。ローレンが思うに、あのリディアの女はわざと負けたのである。


「なるほど、敵の正体は私にも分からん。だから私も協力しよう。その、特級剣術士リアトの弟子であるイルファンの捜索に。それは、その、皇都を預かる都主としては当然のことだしな」


 ローレンがそう言った途端にルハランは胡散臭い物を見る様な目をした。何を言っているんだ、と言わんばかりの表情。


「兄上がリアトを憎む気持ちがそれ程に容易い物だったとは思えません。アゲシアの戦いでのことを忘れてはいませんよ。十七年前に貴方はリアト=マリオンを確かに殺そうとした」

「彼女は憎らしいが、既に戦争が終わって十五年も経ったのだ。もはや憎しみ合う時ではない。今、国内では熱部貴族が国体を揺るがしかねない程に台頭してきている。ここはお互いに協力して事に当たってみないか。もしかするとその件も熱部の策略かもしれん」ローレンが低い声で言う。


「それを信じるとでも?」


 ルハランが言った。すかさず、ローレンが言う。


「分かった。では本音で話そうではないか。お前は私を信じる必要などない。これは単純な利害関係の一致だ、ルハラン。信じ合いなどという下らない事はもう考えるな。俺は熱部貴族が何かを企んでいるのならそれを暴きたい。お前はリアトを救いたい。それで良いではないか」


 だがルハランは気付いた。それはつまり。今だけは、利害の一致する今だけは協力すると言う事だ。しかしそれでは駄目なのである。リアトへの恒久的な不干渉、その約束を取り付けなければ、この兄ならばまたいつかリアトを疎ましく思うだろう。仮に今は退いて協力しても約束は守られるかどうか怪しいものだった。ルハランはそう思い、そしてすぐに考え直した。


 いや、こちらにはオルンドラ=リディアがいる。彼女は信用できる。確かに、彼の手綱を握ってくれるだろう。だから兄の提案を呑まない理由は無いように見える。見えるのだが、ルハランは胸中にひっかかりを覚えた。この言い草からすると、やはり兄はリアトを憎んだままなのだろう。


 だが今のローレン=ノーランは自分の保身の為に憎しみすら捨て置けるのだ。それ程に強かで、しぶとい人間性を持っているのだ。本当に今のローレンをオルンドラは操れるのか。ルハランは眉根を寄せながら言った。


「ならば今後、リアトに干渉するな」

「そもそも私は干渉していない」


 ローレンが静かな声で言う。

 ルハランがそれに返した。


「兄上、鋼を向けられてもなお、貴方は同じことを語るか」


 何をするにしても、先ずはやはり、この男に真実を語らせなければならない、とルハランは思った。イルファンを拐したのがローレンではないと言う確証が欲しかった。兄はそんなことを気にするなと言うが、ルハランはそこまで割り切れない。ルハランは、仮に兄が黒幕ならば、その命を絶つつもりであった。


「当然だ」と、ローレンが言った。

「なら誰が少女を攫ったと?」

「それは……」思わず口よどむ。


 ローレン=ノーランもまた、考えていた。なんとか、殺意を逸らしたものの、この件に自分が関与していない証拠はない。そんなのはいわゆる悪魔の証明であった。不味いのは、リアトが皇都に入ると分かった時に彼女を捕える算段をしていたことだ。その辺りの事情が知られると良くない。例えば、『兎』にリアトの動向を一時的にだが、探らせていた事は隠し通さねばならなかった。皇貴会議等のお蔭で、あの女の事を失念していたなど言える訳もない。言ったところでルハランは信じないだろう。


 ローレンには彼の魂胆がある程度は読めていた。ルハランの狙いは『誓約』させることだ。その内容はリアトへの一切の干渉を禁じる事。当然、そんなもの、認める訳には行かない。だが、このまま、ルハランの殺意を躱す為には『誓約』は避けられない。


 何度も言っていたではないか。信じられぬ、と。経緯がどうあれ、彼の思考の内部ではローレンは黒幕だ。ルハランとしては、どうしても自分を『誓約』で縛らなければならないだろう。つまり、それをも回避する為には、ルハランの敵を明確にする必要がある。この状況下で、敵であり得る人物をちょちょいとでっち上げるとするならば。


「……剣王レアーツ?」ローレンは言った。

「兄上ではなく、レアーツ=ルーミンだと? それはないでしょう。自分からリアトとイルファンを呼びつけておいて、誰が誘拐すると言うのです。そんな面倒な事をせずとも、道場に来た所を捕えれば良いとは思いませんか。『骸』を使う意味が何処にもない。此度の件では剣王は敵ではありません」


 とはいえ、レアーツの傍付きが平原の狗と接触していたのは事実である。ルハランは兄の見立てが当たっている可能性もあると思っていた。しかし、この場で兄の意見に同意することは目的達成の為には悪手。ここは兄をぎりぎりまで追い込まなくてはならない。ローレンが不満げに言う。


「しかし私ではない以上、剣王でしか有り得ないではないか」

「兄上の疑いがいつ晴れたのですか。貴方が潔白である証拠はまだ出てきていませんよ。率直にいって、私は貴方を疑っているのです。貴方がそれを命じたと考えているのです」


 やはり、この男はそこに戻るのか。ルハランの厳しい追及に、ローレンは黙り込んだ。自分がリアトを、その優先順位においてデルフォイよりも下位に置いた事、それを証明する事の困難さ。一体、この弟はなにをすれば退くのだろうか。


「そんなことを言い出すと限がない。見定めよ、ルハラン=ノーラン。私はリアトを憎んではいるがお前の敵ではないし、目下のところリアトを敵とも考えていない。ただ好かんだけだ。お前が望むならばリアトに対するどんな協力も惜しまない。お前の兄としてな」ローレンが言った。

「ならば『誓約』を交わしましょう」


 ルハランの口から漸く、その言葉が出た事に、何故かローレンは安堵した。


「兄上はどんな協力も惜しまないと仰った。それは私にとっては『二度とリアトに干渉しない』ということを指すのです。『誓約』として誓って下さい、ローレン=ノーラン殿下」


§


 誓約は古来より世界中で行われてきた呪術である。


 その起源を遡ることは難しいが、古代フォルド人の神話、フォルド神話の中でも誓約については、語られている。天獣アポルフィジィ、蛸の姿で現されるハオンの従属天獣の神話である。


 『吸収を司る天獣は常々、天の光をも吸い上げたいと願っていた。その彼に力を貸したのが闇の天獣、邪悪な獣スクーロである。この闘猫の姿を取る獣はケインに最も忠実な従属天獣であった。フォルド神話において、スクーロはアポルフィジィに疑問を投げ掛ける。天の光を吸い上げたならば、その身は恐らく天光で焼き尽くされてしまう。それを防ぐ為には同量の闇を躰内に吸い上げなくてはならないだろう。スクーロはアポルフィジィに自身を取り込んでおけ、と言うのである。アポルフィジィはその提案を呑み、誓約を彼と結んだ。


 光の天獣、白蛇のフォスがアポルフィジィに半身を呑まれた時、その吸収の天獣の躰内にはスクーロが居座っていた。スクーロとフォスは争うも、遂にはフォスが勝利してしまう。白蛇は蛸の躰より抜け出すも、闘猫は躰内に残ることとなった。しかし、これこそが邪悪なスクーロの策略であった。吸収のアポルフィジィの躰内は無限の闇である。光のフォスももはや、その中には入ろうとしない。その暗闇の中で、闘猫は力を蓄えたのであった。スクーロはアポルフィジィを内から呑み尽くした。アポルフィジィは彼を吐きだせなかった。何故なら、フォスを全て喰らうまでスクーロを住まわせる誓約、それをアポルフィジィは闘猫と交わしていたからである。誓約破りは魂の破断を齎す。故に闇は吐きだされない。


 アポルフィジィが神格乖離の後、凋落し、大天動メルフェによって、闇が光を覆い尽くした後、漸く、蛸のアポルフィジィは闇を吐きだせるようになった。故に古代フォルド人の語るところでは、断裂獣たる蛸が口から吐きだす墨はスクーロなのだと言う』



 このように語られる誓約であるが、その手順は至って簡単なものである。


 一、誓約内容を決める。

 二、誓約者同士が血を交わす。

 三、名と存在に懸けて誓う。


 一般的には誓約はこの様に行われ、約束との間に大きな違いはない。当然であるが、この様な誓約の場合は、誓約破りによる魂の破断はない。神話とは異なり、人の位格では言葉が神的な力を持ちえないからだ。ただし誓約術式陣や誓約魔法を用いた場合ではその限りではない。


 強力な魔獣を従わせる際に用いられる契約の術式はその一種である。仮に魔獣が命令に背いた場合には、その呪体は即座に破壊される。人との間に結ばれる契約においても、同様である。乾部に多い、奴隷契約でも焼印状の術式陣が用いられる。湿部でも『永遠の忠誠』は術式陣を用いる誓約魔術であり、それを破った者には、永遠に穢される悍ましい死が待っている。


§


「私に『術式陣誓約』しろと言っているのか」ローレンが言った。


 兄の額が汗ばんでいることにルハランは気付いたがそれは当然のことだった。術式陣誓約は非常に重いものであり、場合によっては命がかかる。ローレン=ノーランが慎重になるのも無理はないと言えた。


「いいえ。名と存在に懸けて誓っていただくだけで十分。兄上の命を握るつもりなどありません。ただし、誓約破棄の際は名の穢れと存在凋落を受けていただきます」ルハランがそう言った。


 名の穢れと存在凋落がどの程度の牽制になるかはしれないが、この辺りが落としどころだろうとルハランは見た。今回の件に関してローレンの関与があったかどうか。その問題を解決するにはそれで十分だ。決して避けては通れない問題だからそこを穿らない訳にはいかない。オルンドラ=リディアを敵に回すとしても誓約さえしてしまえば、それで良いのだから。


「誓約条件を」


 ほっとした顔でローレンがそう言うやいなや、ルハランの右手がぶれる。彼は瞬間的に、兄の細腕に剣先を突き付けていた。兄の白い皮膚から血がたらりと毀れ、床にかすかな音を立てて落ちた。この距離ではもはや誓わないという選択肢はなかろう。ルハランが言う。


「兄上の、リアトとその弟子イルファンへの一切の干渉を今までもこれからも『していない』と言う事を誓って下さい。私は兄上の目下の問題、台頭する熱部勢力と剣王レアーツ=ルーミンの牽制に全面的に協力することを、名と存在に懸けて誓いましょう」


 ルハランは空かさず親指の腹を切り、彼の腕に押し当てる。血を交わすことが誓約の作法である。疲れた声でローレンが言った。


「構わん。文言を言え」


「『ルハラン=ノーランの名と存在に懸けて。』」

「『ローレン=ノーランの名と存在に懸けて。』」


 ルハランとローレンが交互に言った。


「『我は/熱部勢力と剣王レアーツ=ルーミンの牽制に全面的に協力/する事を誓う』」

「『我は/リアトとその弟子イルファンへの干渉を永遠に/していない事を誓う』」


 実界上は何の変化も見られなかったが、確かに誓約は成された。不可視の違界においてほんの僅かな存在のつながりが結ばれ、それは呪界に燐光として現れる。だがしかしローレンの存在も名も穢れることはなかった。依然としてその身は祝福されており、皇族としての権威には些かの陰りもない。ルハランはバルニュスを背に納めて言った。


「なんなりと」


 その言葉で、場の空気が少しだけ柔らぐ。


 だが当然、ルハランは知っていた。『誓約』は誤魔化せる。ある事実がそこに存在するとしてどうしてそれが存在するのか。脳子は語る。認識だ、と。認識が存在なのだ。呪術師の語りによれば、存在は十二の界に渡って示される。その全てが存在を存在たらしめる要因、というのもおかしな言い方だが、言語化を拒絶する『それがそれである』という何かが存在なのだと言う。魔法や魔術はその界へ繋ぐ手段、すなわち術式となり得るのだ。


 しかし呪術はそうではない。呪術とは認識面と呪面に基づいて行使される『世界』への干渉。あらゆる世界が見る人間、見える人間によって姿を変えるように、呪術が干渉する世界は万人にとっての世界と言う意味ではない。すなわち。ルハランは思う。ローレン=ノーランが認識している事実と誓約内容の一致。それが成された状態が今、この現状だとするならばどうだろう。彼の認識している世界をほんのすこし誤魔化せば誓約は騙される。魔法ではない呪術などそんなものだ。絶対ではない。


 だがそれでも意味があると、ルハランは信じたかった。


「さて、話の続きだが……」


 ローレンが口を開いたそのとき、

「失礼致します」と、女の声がした。


 執務室の扉が開き、そこに現われたのはオルンドラ=リディア、傍付の女であった。ルハランに敗れたであろうに、そんな様子は少しも見られない。無傷の彼女はいつも通りの不思議な笑みを浮かべていた。ローレン=ノーランが言った。


「随分と遅かったではないか」


 オルンドラが艶やかな唇で答えた。


「不敬ながらルハラン殿下と斬り合いになり、その際に腱を深く斬られたために少々掛かったのです。この場に参じるのが遅くなりましたこと、この身の不甲斐なさを恥じるばかりです。何卒ご命令を」


 ローレン=ノーランが思うに、彼女ほどの剣士が腱を斬られたくらいで倒れることはないはずだった。事態が落ち着きはじめたこの機を待って入室した事から見ても、それは疑わしい。もはや明白だが、彼女の狙いはルハランを政争に巻き込むことだった。


 あるいは、ルハランに僅かばかりの恩を売ったつもりだろうか。だが、それが何かの役に立つとは思えなかった。まぁともかく。手駒は多い方が良いのだ。ローレンはそれ以上考えないことにして首筋から垂れる血を拭うと、女に向かって言った。


「聞け、オルンドラ。これより私は弟と協力して熱部対策に当たる。並行して特級剣士リアトの弟子の捜索も行う。お前はルハランと共に『骸』を追え。詳細はルディオから聞くと良い。する必要もないような形ばかりの戯れだが、私は皇貴会議の準備をせねばならん」

「リアトというと、あの乾湿戦争の女剣術士ですか?」オルンドラが驚いたふうな声で言った。


 その驚きが余りにも真に迫ったものだったので、ルハランは舌を巻いた。この女はこういったことを軽々とやってみせるのだ。ローレンが少し暗い声で答えた。その表情にはどうにも疲れが見える。


「そうだ。『骸』は手強い相手だ。気を抜くなよ」


 オルンドラがこくりと頷いて何かを言おうとしたとき、驚いたことにルディオ=ペンドランが口を挟んだ。


「『骸』との接触は『紋章板』によって為されるのですか」

「む……それです」ルハランが呟いた。


 彼は何かを思いだしたような顔をすると、自身の整った顎に手をやった。


「奴に命令を出せる人間はそう多くありません」


 『紋章板』とは皇族、中でも王や皇太子だけが持つ術式板を指す。特殊な紋章術式陣の刻まれたそれは皇族の生命線であった。これを用いることで、皇族は様々な特権を使用することが出来る。その特権の一つが『王剣』の使用である。この強大な特権を持つが故に、歴代のノーラン王は絶大な力を揮った。勿論、今の皇王ラハリオ=セン=ノーランもそうである。彼の傍に控える十一の王剣は皆、国内に並ぶ者なき精鋭である。ただしラハリオの場合は、彼自身が彼の剣を凌駕する強さを持っていたが。


 また一般には知られていないが、王剣と同様に『裏王剣』もまた存在する。これは皇族だけが使用できる暗殺士の一団であった。これには皇族同士での暗殺の応酬を招かぬように幾つかの制限がある。最もよく問題となるのが、命令の『上位皇族優越権』であろう。その名の通り、この制限は皇宮内での序列を絶対としている。皇王を最高位とするこの権利によって実質、下位皇族は剣を使えない。仮に暗殺士を皇王に放ったとしても、その命令は上書きされてしまうのだ。故に『骸』を放ったのが下位皇族ならば、ルハランは取り消せるはずであった。


 王の剣は皇族に絶対の忠誠を誓う誓約を何重にも結んでいる。誓約破棄の魔術でも用いなければその責務からは逃れられない。故にルハランは敵の駒が『骸』と知れた瞬間に紋章板を用いて、『骸』への命令破棄を行おうとしたのであるが、それは失敗した。失敗の理由はルハランには知れない秘匿された情報である。


 だが彼はそれを、より上位の皇族が関与しているためではないか、と考えた。ローレンを疑った理由の一つがそれである。第一皇太子のローレンならば三番目に強力な優先権を持つのだから。第二皇太子は現状では除外せざるをえないし、末の皇太子はまだ十五歳と成人したばかりである。皇王でない限り、ローレン=ノーランだけにしか『骸』は使えなかった。


「兄上、紋章板で命令破棄を」


 ルハランが言った。ローレンは頷いて、上衣の懐から小さな板を取り出すとそれを起動させた。声紋と指紋、それに血液を認証して紋章板がローレンを認める。彼の指が軽快に動くと紋章板の画面がどんどん切り変わっていった。しかし数秒の後、第一皇太子は眉間に皺を作った。


「駄目だ。『骸』の記述樹に干渉できん。私より上位の人間が命令を出しているのか、あるいは術式陣誓約自体への干渉が何かに阻害されているのか。早急に調査する必要があるだろうな」


「父上か剣王では」ルハランが言った。

「いや、やはり脳子が攻撃を受けた可能性が高い。ここはエルミスタットに確認すべきだろう。下手に剣王や父上に手を出すと今後の対応に困ることになるからな。ルハラン、それで構わんだろう?」


 極めて慎重に、ローレンはそう言った。小さく振られた首が真実から自分を遠ざけるように感じて、ルハラン=ノーランは苛立ちながら下唇を軽く噛んだが、そこへオルンドラが言う。


「では、私がエルミスタット=ロギオスに謁見要請を出しておきます。あのお人のことですから大して期待はできませんが、もし他国から攻撃を受けているとすれば特級の非常事態ですから」


 エルミスタット。


 それは脳子の一つ。古代帝国が正式に残した唯一の有益な遺産であった。ルハランはその恐るべき者たちを、接し方がよく分からない存在だと思っていた。あれは人を超えた余りにも奇妙な存在であるが、どこか人間くさく、時には厄介ごとを招く危険物でさえあった。愚かで何の役にも立たない遺物だと称する者も少なくはない。だがあれがこの国、いやある意味では湿部全ての頭脳なのである。


「そのように計らえ」


 そう言うとローレンが手早く紋章板を仕舞う。ルハランが彼に幾つかの懸念について尋ねようとした時、机上の術式板から転言を知らせる音が鳴り響いた。ローレン=ノーランの術式板だ。ルディオはそれを取ると、素早くローレンに手渡した。ローレンは転言を開く前に、手短に告げた。


「無茶はするなよ」

「お任せ下さい、殿下」女が言った。


「そうと決まれば長居は無用でしょう。この執務室は本来都主だけを許す結界なのですから、ルハラン殿下もオルンドラ=リディアもここに居ることは出来ません。剣を背負ってお退がりください」ルディオがそう言った。


 当然ながら反対する理由はない。オルンドラとルハランは速やかに退室した。なにやら急に様々なことが決まって困惑したものの、男の気分は良かった。問題は何も片付いていないが、微かな解決の兆しが見えたからである。


「ぼさっとしないで、さっさと行くわよ」

「勿論だ」ルハランが言った。


 数年振りに彼女に腕を引かれて、ルハランは懐かしい気持ちになった。オルンドラ=リディアはやはり笑っていた。しかしその笑みがいかなる笑みかは知れない、ということをルハランは勿論知っていた。だが彼は、それに気付かない振りをした。だからこそルハランは最も愚かで最も考えが読めない男なのだ。なにせ、自分でも自らの行動原理がいかなるものかを分かっていないのだから。




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