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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
二節 皇都剣戟
18/43

2-1 秘望冷下/ルディオ

二節 皇都エルトリアム/剣戟[ 第一部 琥珀の剣 ]

Δ



 時は矢のように進み。役に立つことなど誰にも出来はしない。進んだものは戻らず。後悔や苦渋はただ苦しみを苦しみに留めるだけの無為。くるくると繰り返す時間の中で、物語と視える者だけが確かに、されど着実に世界を綴ろうとしている。その朝から夜までの短い物語を。



Δ



 ルスラと相対してから三度目の朝。静かな城の中で皇太子はぱしりと瞼を開く。


 ローレンは気怠い頭を無理やり持ち上げて天獣ハオンが輝きだす前に身体を起こした。外はまだ暗いままで静まり返っているから、何かを密かに行なうには絶好の時間帯だった。ローレンは一人で膨らんだ羽毛の寝床から抜け出すと素早くラチェットを着こんだ。これから行く場所は少々冷えるのである。三枚ほど重ね着をして、ようやく彼は動き始めた。


 部屋の扉をそろりと開けると、皇太子は廊下を早足で歩いた。音は分厚い絨毯に吸い込まれて僅かな響きすらも起こさない。この時間帯は使用人もほとんど寝静まっているが、一番厄介な男――ルディオ=ペンドラン――は起きている可能性があった。ローレンは彼に気取られない様になるべく自らの気配を殺して進んだ。護衛連中にはローレンをいない者として扱うように言い含めてあるので彼を邪魔する者はいなかった。


 白い息を吐きながら階段を幾つも駆け下りて、目指す場所へと急ぐ。扉扉扉。数十枚の扉の前を通り過ぎる。昇降機を使うことが出来れば幾分か楽になるとそう思いながら、ローレンは足を止めずに走った。長い廊下の端にある小さな階段を降りていけば、ひんやりとした風がどんどん温度を下げていく。この凍えそうな階段の下にこそ目指す地下室があった。城内でも一部の者しか来ることのない安全な隠れ家が。


 周囲に誰もいない事を確認してからローレンは御影石の廊下を歩いた。革靴の底の硬質ゴムがたん、たんと地下に反響する。思った以上に大きな音だったが彼は気にしない。何故ならば毎朝のように其れを聞いているからである。


 早朝に起き、地下へ向かうこと。

 それが術式狂いの日課であった。


 重い扉を開いて滑り込むように中に入る。室内はいつも通りに酷く冷えていて寒々としていた。ローレンは息が白くなるのを見て憂鬱な気分になる。もう凍溶月に入ったのだから寒いのは当然のことなのだが、それにしたってこの場所はやはり寒すぎるのである。


「ちくしょう、火もつかん」


 ローレンは一人ごちた。暖炉に火を入れようにも薪を切らしていた。何か燃やす物はないかと室内を見回せば、凹凸一つない床に大量の木板や紙が散らばっているのが目にはいる。その何れもに無数の幾何学模様が書き込まれている。これらは当然燃やすわけにはいかなかった。


 手頃なところに良い燃焼材があった。ルディオ=ペンドランから受け取った書類の山、これらは眼を通しておかねばと思いながらも放置していた物で、勿論重要度の高い物ではない。毎日の様に増えていくだけの単なる確認用の書類に過ぎない。つまり燃やしても良いのだ。


「くそったれ」


 ローレンは一人で悪態を吐くと、そのまま必要のない紙の束を二つか三つほど選び出す。彼はそれをぐっと抱え上げると勢いよく暖炉の中へ放った。すかさず、懐から着火の魔道具を取り出して火をつける。それが燃え始めると少しずつ室内に熱が回っていった。


 明日の為に薪を運ぶように召使に言っておかなければ。そう考えながら、ローレンは小さな椅子に腰を下ろす。その椅子は執務室の物とは異なって木製の非常に堅い物であった。目の前には巨大な黒神鋼の冷えた机がある。ローレンが自らの趣味の為に作らせた特注の代物で、床と同じく僅かな傷も凹みもない。机上には大量の術式陣。それに大図書館から借りた図書が積み上がっている。その全てにローレン自身の手による書き込みがなされていた。彼が皇太子で無ければ、皇都の幾つかの条例に抵触する行為である。


 ふぅふぅと呼吸しながら、男は書物を開いて巨大な一枚の紙を机に置いた。白紙の上をペン先が踊る。ローレンは定規を使わずとも直線を正確に引くことが出来た。最も難しいと言われる正円でさえも滑らかに何の抵抗もなく、さらさらと描かれていく。彼はこのように自分の手で術式を描くことを好んだ。


 ほんの十数分で紙の上にはきわめて複雑な、それでいて美しい幾何学模様が生まれる。ローレンは静かに其れに触れると魔力を流し込んだ。自らの呪体を通して引き出した空界の力。この瞬間、いつもローレンはこじ開けるような感覚を覚えた。紙上の模様に呪光が宿り、込められた魔術が発動するのを感じて、男の藍髪が微かに揺れ動く。風のような得体のしれない力が呪界を奔った。


 ――これは離れた相手との連絡に用いられる転言術式と呼ばれる代物である。その有効距離は安定状態で約三十馬遊。それほど特殊なものではないが、それでも自身が発動できる最大の転言術式である。


 話す相手は勿論ながらラツィオ=メインであった。


「無事か」ローレンが言う。

「転言を飛ばすのは危険だろう」


 少しだけ困ったようにラツィオが言ったのが分かった。彼は今まさに熱部ボダットでデルフォイ家と接触しているはずだった。彼に頼んでおいた任務はそんなに簡単なものではないから、事態に進展が無い事は分かっていたがローレンは彼に繋いだ。それはある種のすがりつきであった。


「情報は常に最新の物を仕入れるべきだ」


 ローレンが飄々として言う。その声は若々しく青年のようだ。昼間のローレン、つまり皇太子としての彼を知るものならば驚くだろうことにその声色はまるで同一人物とは思えない。本当に別人のようだった。一種の狂気染みた性格の変化を知るのは極少数の人間だけだ。


「そうは言っても何も言う事がない。デルフォイの人間に接触出来てもいない。貴族の屋敷は完璧な隠蔽結界で守られているらしくてな。もう三日になるのに進展が無いというのは申し訳ない限りだ」

「今日で……皇貴会議の当日になる」


 ローレンが焦ったように言った。

 ラツィオは苦々しい声で答える。


「分かってる。強硬手段を取るしかないが」

「連絡するまで、それは待て」

「アランドが屋敷を出る今日が唯一の機会だぞ」


 待つなど出来ぬだろうなと思いながらもローレンは言った。案の定、ラツィオ=メインは渋い声しか出さなかった。強行突破は不味かった。自分の知るデルフォイの現状ならば、仮にローレンの仕業だとしれても何とかなる可能性はあったが、それはやはり最後の手段なのである。


「言っておいた件はどうなった? メルンディアスにデルフォイの影はあるか」

「いや、ない。というか分からないというのが実情だな。転移されたらお手上げだ」


 ううむ、とローレンは下唇を軽く噛んだ。彼は考える。ここのところ失策ばかり。アルト=デルフォイの行動は『兎』によって抑えていたが、それが裏目に出ていたのだ。隠秘士による監視を警戒したのかしらないが、アルトは皇都からの移動をめっきり控えている。これでは敵の陰謀を探るどころか糸口さえ得られない。


 当主アランドにも『兎』を送ったが成果は無し。もはやお手上げだった。いや、そもそも。元から何も無かったではないか。アルトが余計な動きをするからそれを追ってしまったのだ。その件が『飛浮機』と何の関係も無かったらどうだろう。


 デルフォイの台頭は確かに、熱部での『飛浮機』の発見と開発によるものだったし、それがトルリアとの密約で得られた物であると言うのも明らかな事実だった。だがそれだけでデルフォイ家を潰せるのか。証拠がどこにもないというのに糾弾することはできない。


 ならばやはりラツィオが『現物オリジナル』を手に入れるのを待つべきか。何度も自問自答した其れに、改めてローレンは向かい合っていた。もっとも答えなど出るはずのない問いではあったのだが。


「どうした、ローレン。考え込みやがって」ラツィオが問う。

「私が切れる札は少ない。手元にある中で最高の手札は確かにデルフォイを叩き潰せる可能性を持ってはいるのだが、それだけでは少々両刃の剣的なのさ」


「その切り札とやらをそろそろ教えてくれても良いんじゃないのか」ラツィオは少し眠たげに言った。


 切り札を彼に話すかどうかを、ローレンは何故かほんの少しだけ迷った。その躊躇いは彼がメイン家の一員だったからだろうか。いや、当然、メイン家は敵ではないのだ。その筈だがルディオ=ペンドランの事もあり、ローレンには僅かな疑念が芽生えていた。


 メイン家当主エリィン=メインは紛う事なき策謀家である。ノーラン家と敵対することは無いにしても、自身の利益を最優先して効率的に動くはず。デルフォイ家の『飛浮機』に惹かれてもおかしくはない。逡巡。それを感じ取ったラツィオが心配げに言った。


「無理そうなら言わなくてもいいが」


 だが結局、ローレンは手の内を明かす。

 転言の向こうでラツィオが絶句したのが分かった。



Δ



 いつの間にやら天獣ハオンの力が強まっていた。天井近くの小さな明り取りの窓から日が差し込む。既に転言術式の繋がりは断たれていて、その向こうには誰もいない。朝の光『ハオニア』に気付くと、ローレンは素早く転言用術式紙を暖炉に放り込んだ。ラツィオに話すべきことは話した。もはやこれは不要だ。ひょっとするとラツィオにあれを話す為に転言したのかもしれぬ。


 そう思いながらローレンは書物を広げた。趣味の術式研究に取り組むことにしたのだ。とはいえ、自由な時間はそう多くはない。面倒な公務と皇貴会議が控えている。いや、そればかりではない。もっと厄介なのはあの男が動き始めることだ。ルディオ=ペンドラン第一都主顧問官。あのくそったれ野郎である。

 

 案の定、わずか半刻後にローレンの術式板に転言が入った。よく通る声が簡素な部屋に反響して大きく響き渡る。この声を聞く度に苛立ちが胸の内に生じることをローレンは知っていた。


「殿下、朝で御座います。何処にいらっしゃるのか」


 ローレンの頭が急速に冷めて、皇太子としての彼の其れに切り替わっていく。ルディオは声に覚醒の呪術でも掛けているのか。忌々しいことである。昔から彼はルディオが嫌いだった。勿論、その声も含めてだ。あの男は偏執的な真面目さの裏に狡猾な本性を隠している。人を見る眼に長けたローレンはそれに気付いていた。嘘つきや自分を偽る人間はすぐに分かるのだ。


「すぐに起きる」


 短く言うと、ローレン=ノーランは地下室を出た。室内に散乱する文書は置いたままで何の心配もなかった。この部屋には殺傷能力のある複数の術式罠を仕掛けてあるからだ。扉を閉めて廊下を走り抜け、そのまま階段を上ろうとした時に皇太子はその気配に気付いた。


 呼気。


 この静まった廊下では僅かな其れも反響する。普通では捉えられない其れに、ローレンは気付いた。緊張の糸を張って後ろを振り返る。もしもここにいるのが城内の者ではなく刺客だった場合、自分はその戦錬士によって殺されるかもしれない。傍付を離しておくのはやはりまずかったとローレンは思った。


「誰だ」皇太子は鋭く問うた。


 しかしなんと、廊下の端から足音と共に現れたのはルディオ=ペンドランであった。彼はいつも通りの服といつも通りの表情で冷ややかにローレンの姿を認める。その眉間に僅かな皺が寄り、不服そうな口元がひくひくと動いた。その癖で、ローレンはルディオが話し始める前に話すことを察知することが出来た。


「殿下。こんな時間に研究室で何をされていたのです?」ルディオが言った。

「こんな時間だと。既に天獣ハオンはその姿を現している。お前に小言を言われる筋合いは無いはずなのだがな。それとも何か、私が天獣ケインの時間に出歩いたとでも言うのか」


 焦りの為、まくし立てるようにローレンは言った。状況はともかく立場は圧倒的にローレンの方が上である。たとえどれほど不利な事実を認められようとも、取り繕った態度を崩さなければ追及されはしない。それは分かっていた。


「答えろ」ローレンが問う。

「えぇ」


 驚くべきことにルディオは平然とそう答えた。その声色に動揺は見られない。むしろ焦っていたのはローレンの方であったので激しく彼は狼狽する。まさか尾けられていたのだろうか。だとするならば、会話も傍受されたか。高度な術式知識を持つローレンだが、それだけに傍受の危険性を理解していたのだ。ルディオは敵ではないが味方とも言い切れない手合いである。もしも情報が漏れていた場合はラツィオを皇都へ引き戻すことさえ有り得た。


「貴様、皇太子たる私を尾けておったとでも言うのか。もし、その上で術式板に連絡を寄越すなどという恥知らずな真似が出来たのなら驚くべき不敬行為だぞ」


 顔に血を昇らせた般若の如き形相でローレンが怒る。勿論、それは演技であるが非常に真に迫ったものであったから、ルディオは少し驚いたように眉を顰めてローレンを諭した。


「お召し物ですよ。ラチェットを三枚も日の当たる時間に着る者などおりますまい」


「それはお前の偏見だ、ルディオ」

「しかし偶然にもこの辺りでローレン様を見たと仰る者もおりましてね」


 尚も食い下がろうとするルディオの眼には嫌らしい光が輝いているように見えた。恐らく、その証言者とやらは彼があらかじめ息をかけておいた者に違いない。仮にその者を皇太子への不敬の罪で告発してもルディオは何も失わないのだ。何日も前から準備していたのかとローレンは勝手に思ったが、実のところはルディオにしか分からなかった。


 嫌な緊張が走り、不気味な沈黙が地下を静かに流れる。一体、自分はこいつにどのように対処すればよいのだろうか。この分では午後から行われる皇貴会議を乗り切れるかも怪しい。そうだ、少なくとも今の自分には少しでも多くの味方が要るのだ。ローレンは何とか殊勝な顔を作り上げると、懇願するように沈黙を破った。


「その、実は悩んでいた術式の新たな描き方を思いついたのだ。今日は偶然にも早く目が覚めたからな。いけないとは思いつつも地下室へ足を運んでしまった」


 この場面でこれ以上、口論をすることは不味いとローレンは考えた。ただでさえ、デルフォイに剣王レアーツと厄介な手合いに勝たねばならぬのに、ルディオ=ペンドランまでも明確に敵に回すわけにはいかないだろう。綴界的にも呪的にもこの流れを禍根として残すのは良い選択ではないと思われた。ルディオは弁解の言葉を聞くと、何とも言えぬ顔つきをしながらもローレンに謝った。


「そうなのですか。そんなこととは露知らず、責め立てるような真似をしてしまい、本当に申し訳御座いません。それでは、オラン=ハオンもお怒りにはならぬでしょう」


 ルディオは思っていたよりもあっさりと引き下がった。ローレンは少しそれに拍子抜けしたが、すぐに思い直す。引き下がるとは、自分に恩を売っておくということだ。図らずしもメイン家の手先の筆頭のような男に借りを作ってしまうとは。しかしそんなことは表情に出さず、ローレンは笑みを作る。


「私こそ声を荒げてしまって悪かったな」

「滅相もございません。しかしローレン殿下、御用心下さいませ。ケインの時間は魔獣とは言わずとも怪しげな輩が、彼方此方を飛び回っておりますからな」


 形ばかりの謝意を互いに示して、その場はおしまいとなった。緊張感は即座に消えていき、心の中でローレンは安堵した。嫌味な顧問官は目も合わせずにゆっくりと彼から離れていく。ローレンは去っていくルディオの背を見ながら嫌な汗をかいている自分に気付いた。



 と、そこでルディオがくるりと振り返って、何かを言いそうな素振りをした。ローレンは少しどきりとして、男の口に意識をやる。すると彼のとぼけたような声が一瞬の後にやってきた。男は懐から端末を取り出すと、そこに書かれた文章を二度ほど確認してから口を開いた。


「失念しておりました。皇王陛下がお呼びです。八時に謁見の予定が入っておりますのでお忘れなきよう。後で端末にも情報を送っておくことにいたします。なんでも火急の要件とか……ではこれで失礼致します」


 ローレンは驚いて、言葉を返すことも出来なかった。陛下だと。父君は皇都の治政に関わらないと明言されたはずだった。それが今頃、それも皇貴会議の当日に自分に何を言おうというのか。正直なところ、それほどの余裕がこちらにはないというのに。ローレンは苦虫を噛み潰したような顔で端末を開くと、急いでルディオに追いついてその肩を掴んだ。


「ま、待て。詳しく話さんか」


 まったく勝手な父を持つと、苦労する。

 とローレンは思った。



Δ



 早朝とは呼べぬにしても十分に早い時間である。


 時はまだ八時になったばかりだというのに、銀箔張りの『青宮 謁見の間』の玉座には一人の男が座っていた。傍らには十人の傍付きと一人の顧問官が壁のように控えている。護衛はいずれも筋骨隆々の類稀なる騎士であった。彼らこそ『十二王剣』と呼ばれる皇国最強の護衛集団である。もっとも、使える者でラツィオ=メインと同格かそれよりも少し腕が立つ程度である。その実力は剣王レアーツには遠く及ばないものであった。


 それゆえに彼らが、玉座に座る男の前で霞んで見えるのは当然のことであったといえる。ラハリオ=セン=ノーランというあの男――御年五十四歳の特級剣術士にして皇王――の武人として鍛え上げられた肉体はまだまだ現役であるばかりか、他を圧倒している。ラツィオ=メインと比べても明らかに異常な身体。流石に乾湿戦争を前線で闘い抜いた特級剣士である。皇太子は謁見の間の外で、呼ばれるのを待ちながらそう思った。水晶で作られた扉の向こうに歪んでみえる皇王ラハリオの姿がいつもと特段変わらないのを見て、彼は安心する。


 ラハリオが皇王になったのは、乾湿戦争終結以前の二十年前の付滅月、『グルディオグラの戦い』で『翼狼王』クルドが『老竜王』を下した年のことであった。前皇王ロルメア=セン=ノーランを半ば引きずり下ろして父は即位した。それと同時に当時十歳だったローレン=ノーランは魔法士部隊の隊長となった。忘れもしないあの日、父は強烈な闘気の一撃でローレンを殴りつけると今のが着任祝いだと戯けたことを抜かして大笑いした。


 あの時の自分は今ほどに歪んだ人間ではなかったし、父との関係もそれほど険悪なものではなかった。思い返してみれば、どんなに腹が立っても汚い言葉を吐いた記憶は無いし、父と食事をしても震えが止まらなくなるなどということはなかった。それが今ではくそったれの連発である。


 すべては都主という仕事の所為であった。子ども時代、あるいは青年時代の趣味に感けていられた時代にもう一度戻りたいと願いながらも、それが叶わぬことを知っているのでローレンは隙を見て地下へ行くのだ。別に地下の研究室に行く事を『くそったれ野郎ども』に明確に禁止されているわけではない。むしろ、『雲指』のローレンによる術式研究は国内のどの魔司士にも期待されていた。自分で言うのもなんだが、ノーランの有象無象の魔司士連中が束になるよりも、自分が一人居る方が確実に役に立つのだ。宮廷魔司士よりもローレンは優れているという自負を持っていた。


 なにしろ戦時中や戦後しばらくの間は、父ラハリオすらもローレンの趣味を認めていたのである。流れが変わったのは『機両』の噂が出だした頃だろうか。あの兵器は父すらも変えた。何を吹き込まれたのか、父は唐突に国内での兵器開発を極秘裏な物としたのである。すでに都主であるから、ローレンは父に談判して開発への参加を嘆願したがラハリオの決意は固く、術式の天才ローレンは術式から遠ざけられたのである。官吏や貴族の中にはこれを怪しむ者も多くいたものの文句づけられる者はいなかった。


 ローレンはしばらくの間こそ不貞腐れていたが、少しするとすぐに復活した。ラツィオ=メインをして不屈と言わせる男は簡単には諦めない。彼は機両戦争の後、噂に聞いた『飛浮機』を自分で試作すると親友ラツィオとともに実験を始めたのである。こういえば、青年の試行錯誤するような微笑ましい何かを想起するかもしれないが、実際には三十手前の男たちが肉体と精神に鞭打って行うような酷いものであった。その上、残念ながら試作品がトルリアの技術に追いつくことは無かった。


 無論、その努力がまったくの無駄になったわけではない。そう、何の役にも立たなかったわけではないのだ。むしろ、国内の魔司士たちが彼の執念と試作品の能力に感銘を受けた。そして彼らはラハリオに改めてローレンの助力を願ったのである。エルミスタット=ロギオスにまで示されればラハリオも認めざるを得なかった。凍結は解除され、ローレンは再び『術式狂い』となることを認められた……。


「殿下、もうすぐです」ルディオが耳元で囁いた。

「ん、ああそうか」ローレンが答える。


 しかしその頭の中は術式にまつわることで占められていた。それは状況が決定的に変わった瞬間のこと。その現物がやって来たのは半年前のことだった。トルリアの術式兵器を『青宮』にアランド=デルフォイが持ち込んだのだ。魔法を使ったことがないというのに凄まじい速さで空を駆ける剣術士。試作品とは比べ物にならない本物の力がそこに顕現していた。ラハリオは装着したアルト=デルフォイが空を自在に飛ぶ姿を見て、呟いた。


 「脅威」と。


 何が恐ろしいのかは分からなかったが、気付けばローレンの術式研究はまたしても封じられた。どうして、皇王陛下はそんなに簡単に靡いてしまうのか。阿呆なのか。ともかく術式兵器に関する研究はまたもローレンを外して行われるようになり、ふざけたことにその研究の中心地さえも熱部ボダットに移されたのである。もはや皇都には『飛浮機』の現物すら存在しないという。


 現物無しでどうやって研究しろと言うのか。ローレンは密偵を送り込むのだと考えた。何人もの暗殺士を送り込んでデルフォイの連中を……。そう画策まではしたが、実行する前に傍付き連中に止められた。ローレンもすぐに考え直した。それでは流石にすぐに露見するだろうと思ったのである。


 今では、私は何をどうすればいいのだとローレンは自問する始末。今では術式研究を個人的に行うだけで、父から書簡が届くのだ。都主としての公務を優先せよという許し難い内容のものだったが、公務を優先すれば術式を触る時間など無くなってしまう。あのルディオ=ペンドランはどうやらそれを望んでいるようだが、まったく。メイン家は自分で墓穴を掘ってどうするつもりなのだろうか。このままでは術式研究によるデルフォイの台頭は止められなくなってしまうというのに。とそのとき、ルディオが厳かな声で言った。


「第一皇太子ローレン=ノーラン殿下、お入りくださいませ。」


 ローレンは表情を殊更変えることなく従った。透明な、まるで水晶の一枚板のような扉が魔術によって開く。これは遥か昔の宮廷工匠が作った術式具であり、原理としては単純な物だが、幼少時はこんなものにも感動したものだった、とローレンは思った。今の自分には片手間で造れるものなのだから何の魅力も感じなかったが。


「どうしたのです、お入りください」


 立ち尽くすローレンに業を煮やして、ルディオが言った。仕方なしに足を進める。どうも進みが悪いのは別に水晶扉に心を奪われていたからではない、それは偏に父の所為であった。特級剣士ラハリオの放つ存在位格の強大さにローレンはいつも竦んでしまう。この男はただ居るだけで場を完全に掌握することが出来るのだ。


 段差ひとつなく敷かれた耐魔石ヘルトメランの床の上をゆっくりと進んでいく。この硬度十二を誇る石材は大抵の小規模魔術に耐えうる力を持っている。いやそんなことはどうでもいい。とりとめのない思考は現実逃避の表れだった。実のところローレンは緊張していた。足音がやけに響き、父をまともに見る事すら出来ない。昔から自分はラハリオの前ではいつも萎縮していたが、それは自分だけではない。弟も母もそうだった。その力を無意味に振るいはしない父。しかしその影にはいつも力がちらついている。圧倒的な強者としての漲る自信。それ自体が物言わぬ暴力であった。


 ぬぐ。負けてどうする。


 ローレンは自らを奮い立たせた。あまりにも唐突なことで心の準備が出来ていなかったなどと、そんな青年のような事はこの歳では通用しない。都主として、自分は皇王ラハリオに対峙しなければならない。とはいえ、そんなことができた例など無い。魔法士であった『雲指』のローレンの頃で半分。今では抵抗すらも満足に出来ないだろう。だがそれでもしなければならない。


 玉座の手前で膝をつくと、ローレンは深々と頭を垂れた。ひんやりとしたヘルトメランの冷たさが皇太子の肝を冷やしていく。もう既に指先がこまかく震えはじめていたが意志の力でそれを押しとどめ、ローレンはなんとか拝謁の態度を示した。


「面を上げよ」


 皇王ラハリオ=セン=ノーランが静かに言った。

 都主ローレン=ノーランがその眼を上げた。


「遥か古き時代より勇ましく輝く偉大なる天獣オラン=ハオン=ノーランの加護により皇王陛下に拝謁できましたことを……」

「私とお前は血の繋がった親子であろうに下らぬ台詞など聞きたくはない。よし、椅子に掛けろ」


 ラハリオは冷ややかに笑い飛ばしてそう言った。彼が手を叩くと召使らが滑る様に現れる。彼らはローレンの傍らに熱部製の豪奢な竜革の椅子を置いた。これは客人用に仕立てた物であろう。一見したところ術式具ではないが、相当な職人の手によるものと見えた。


「かしこまりました」


 そう答えてローレンは座ろうとする。が、出来ない。座れと言われたものの、どういう訳かその椅子に座ることが出来なかった。地面に跪いたままで立ち上がることが出来ないのである。冷や汗が流れた。いつもこうなるのだが、やはり今回も先手を打たれている。この父の、特級剣士の圧はあまりにも卑怯だった。卑怯者め。こんなもの、立ち向かえるはずがないではないか。老いてしまえ。早く老いてしまえ。ローレンは心の中で呪詛を唱えた。一方、口からは宮廷挨拶が流れる。


「このローレン、此度も心より」

「立てぬのか」父が不満そうに鼻を鳴らした。


 立てると思っているのか。一瞬、全てを見透かされたような気がして、ローレンの身は強張った。だが落ち着いて考えてもみれば、気付かれるのは当然のことである。何と言っても父に謁見する客人のほとんどが最後まで立てぬまま、謁見を終えるのだから。自分のように醜態を隠そうとする人間を、父は何度も見てきたのであろう。


 恥の為、身が熱くなる。ローレンは少し身じろぎして、父の威圧を躱そうとした。向けられている圧を逸らしさえすれば、自分でもなんとか。しかしラハリオが冷やかに言った。


「動くなローレン。そのまま話せ」


 一体、何を話せというのか。思考が上手く纏まらない。呼び出された理由には心当たりがあり過ぎて、特定出来なかった。術式兵器の開発に携われという話ならば大歓迎なのだが、熱部の台頭を抑えよという話なら文句の一つも言ってやろう。


 困るのは想定もしていないような話の場合だろうか。この歳で父の説教は心に堪える。威圧を押しのけようと体に力を込めるも、その全てが手足の震えに変わった。くそ。ラツィオ=メインと二人で訓練した事もあったがそれも無意味だったらしい。上級剣士と特級剣士に埋めがたい差があるのは知っているが、どうも今日の圧は一味違う。


 数ヶ月ぶりにまともに浴びる父の其れはやはり強大であった。怪物に立ち向かえた『雲指』のローレンはもはやいないのだということを彼は痛感する。皇太子ローレンとしての弱い自分に苛立ちさえ覚えた。それを知ってか知らずか、ラハリオが言う。


「お前を呼び立てたのは醜態を見る為ではないぞ」

「勿論にございます」


 そんなことは知っているわ。回らない頭で、ローレンは応じた。一体、このくそ親父は俺を何のために呼んだのか。考えていたが答えは見つからなかったし、本当の答えらしきものを言い当てるつもりもなかった。嫌な話ではないと良いのだが、父は術式を嫌っているようだから出方が分からない。取り敢えず、ローレンは適当なことを言ってみることにした。


「術式か魔法教育のことかと思い、参じたのですが」

「術式。術式のことだけは私にも臆せず話せるのだな。だがお前を呼び立てたのは、そのことではない。エレングルの第一王女、ペルデ=エレングルとの婚姻の件である」


 その言葉を聞いた途端にローレンはげんなりとした。まさかその話だったとは。てっきり、熱部の台頭による皇国の云々を説かれるのかと思って勝手に焦っていたのに。ペルデ=エレングルの話であれば、この父にそこまで責めたてられる事もなかろう。とはいえ、ローレンの腹づもりからして、父を怒らせるのは必至だったが。いや、逆にそれを分かっているから今日の父は本気なのだろうか。


「その事ならば、何度も辞退しているはず」

「何度となく、お前は女の話を拒否してきた」


 ラハリオは無感情な声で返す。


「なんと信じられぬことにお前が二十二の時から言い続け、ペルデ姫は二十になってしまわれた。ローレン、お前に至ってはもう三十をも過ぎておる。そのまま子を作らぬ心算であると言うのか」


 別にそのような心算はないとローレンは思った。ただ、自分にはそういった生き方は未だ考えられないのだ。もう三十を過ぎて本来ならば子を成していてもおかしくはない年頃。だと言うのに、妻さえ娶らないのは恥ずべきことなのだろう。それは分かっていたが、ローレンは自身の内奥にそう出来ぬ何かを感じていた。単に興味がないというだけの話ではない。


「ペルデ姫が気に入らぬのか」

「決して」


 ペルデ=エレングル。エレングル王国の第二王女にして自身の許嫁である。この婚姻はペルデがまだ十歳ほどの頃に両家の間に結ばれた。ラハリオ=ノーランの画策した、見え透いた政略結婚の一つである。ローレンは乾湿戦争後、強く結婚を勧める父を押し切って術式に没頭した。当時は国も安定していなかった為にその要望も通すことが出来たが、今やラハリオを止めておくのは限界に近い。彼は無理矢理にでもペルデとローレンを結婚させるだろう。


 何度も思ったことだが、それが苦痛である訳ではなかった。ペルデは美しい。美しく聡明な女を娶りたいと思わぬ男が何処にいようか。ローレンはペルデに惹かれていた。だが、それこそがまた彼が彼女を遠ざけようとする理由でもあった。


 彼女を、ペルデを己の妻とした時、その時こそ真に『雲指』は死ぬのではないか。皇国の最大都市を治める都主。その器が自らの望むものではなかったとしたら。漠然と、だが確かにローレンは自身のあり方に酷い偽りを感じていた。ローレンはしばらく思案した後、大した考えもなく言った。


「ラハリオ陛下、ペルデ姫はどのように思われているのです」

「何たる愚問か」


 即座に、まるで決まっているかのように父は答える。面持ちが冷えた父の、機械的で感情のない声は『鋼』の二ツ名に相応しい。同時にラハリオの威圧の度合いはさらに増した。もはや面も上げられんとローレンは思わず顔を伏せる。


「ペルデ姫はお前との婚姻を望んでいる」


 ローレンはそれを聞いて歯ぎしりした。何を言ってるんだ。望みとは何なんだ。ペルデ=エレングルは幼少より自分の許嫁として育てられた。その彼女に、ノーラン家に嫁ぐ事以外の選択がある筈がないではないか。彼女は自分の人生を選択できなかったのだ。そしておそらくはローレン自身も。


 自らの人生で、彼自身が何かを選択出来たのは『雲指』の間だけだった。その期間が自分にとって、最も自分らしい物であり、それこそが全ての中で唯一色あせない本物だと思えた。ラツィオ=メインは今でも自分を褒め称えてくれるが、それは虚しいものだった。恐らく、彼はとうの昔にそのことに気付いているだろう。気付いていて目を伏せている。今のローレンは生きた屍だ。時折、本物らしく振る舞うがその中身は腐っている。


 だが、もう一度、生きられるとすれば?

 いや、そんなことは無いのだ。

 失われた物は戻らないのだ。


「受け入れるのだ」ラハリオが厳かに言う。


 まるで避けられない死刑宣告だった。かつてのローレンは既に死んだと言わんばかりの。だと言うのにローレンは何かが戻りうるような気がしていた。それは『雲指』の自分が戻るということではない。むしろ違う自分。新たな自分として、自己を取り戻す方法が何処かにあるのではないか。あるとすれば、それは過去と決別したその先にある。そうではないのか。


 ならば、自分はやはりペルデと契りを交わして都主に生きるべきなのか。だが自分にそんな生き方が出来るとは到底思えなかった。くそったれ。ローレン=ノーランとはなんと厄介な人間だ。どうしようもない。どうしようもないが、それだけにやはり曲げられん。


「どうしたのだ? ローレン」


 父の声が遠い。ペルデ=エレングル、皇貴会議、熱部デルフォイ。みんなみんな些末な出来事だ。自分に必要なのは術式と魔導だ。ローレンは父の前で、唐突に全てをぶちまけたくなった。だが、それは出来なかった。それをするにはローレンは賢過ぎた。故に語られた言葉は本心の上澄みでしかなく、偽物だった。それでも偽りの心から出た物よりは数倍ましなものだった。


 瞬間、威圧をものともせずにローレンは面を上げる。


「陛下、私は自由に、自分自身に生きたいのだ」


 気付けばローレンはそう言っていた。居並ぶ騎士たちはその言葉に何も返さない。ルディオを始めとした顧問官も一言も発しなかった。それでも、微かな驚きが広がるのをローレンは感じた。途端、威圧が弱まった。父がにこりともせずに言う。


「ならば、ペルデ=エレングルにそう告げよ」

「よろしい、彼女にお会いしましょう」


 ローレンの本心はペルデを尚も拒絶していたが、言葉はそうでは無かった。ラハリオ=セン=ノーランはそれを聞いて、微かに笑った。


「では二月後、天地月の一週目にペルデ姫を宮廷にお招きしよう」



Δ



 ローレンはルディオを連れて執務室へと繋がる廊下を歩いていたが、その顔面に血の気はなく、蒼白も蒼白、真っ白に近い。


「殿下、御加減が優れぬようですが」

「ルディオ、貴様、私を愚弄しているのか?」


 顧問官の言い口に苛立って、ローレンは力なく声を荒げた。加減が優れぬのは当たり前だった。あの、父の威圧を真正面から浴びたのだ。その上で、叛意とも取れる無遠慮な一言を放ってしまった。若い頃のローレンのような浅慮で軽薄な一手だった。


 失敗した。ローレンは思う。


 この調子ではこの後に控える皇貴会議は壊滅的であろう。どうせ、愚にもつかない失言をして、貶められるに違いない。と、始まる前から終わりを考えてしまう程、ローレンは落ち込んでいた。父にどう取られたか。会議よりも、その後のことが怖くて仕方がない。それに、ペルデだ。あの美しい女が二月後に青宮に来る。自分は彼女に対して、どのように接するべきなのか。拒絶するべきか、それとも、真摯に対するべきか。半ば、父に決められたように彼女と会う事も心の重石。日程も全てラハリオが決めた事。


 やはり、自分の意志など存在しないように思ってしまう。何かから抜け出せたようで、未だ父の掌の上なのだろうか。なんとか自己を立て直さなければ。こういう時にラツィオと話せれば気が楽なのだが。隣を歩くルディオ=ペンドランを思いながら、ローレンは考えた。


 いや、待て。


 そもそも、二月もくそもない。それまでに自分が退主させられている可能性すらあるではないか。とにもかくにも、皇貴会議を何とかやり過ごさねばなるまい。ローレンは気が進まないながらも、ルディオに声を掛けた。


「皇貴会議の資料に変更はないか」


 ルディオはにこりともせずに言う。


「ええ。此度の議題は三つです。皇都運営における殿下の手腕。熱部での術式兵器の独占的研究の是非。最後に、形骸化している物ですが格差の是正問題です。いずれも重要な課題でしょう」

「あぁそうだな。どれも独力ではどうにもならんがな」


 ローレンはそれに加えて、どれも形骸化しているではないか、と思ったが言わなかった。何が議題だ。よってたかって俺を苛めたいだけだろうが。そもそも一つ目の議題からして下らないものだった。自分自身の手腕に関して何を問われるかは分かっている。詰まる所、相応しいか相応しくないか、だ。そしてこの答えは最初から決まっている。俺は都主には相応しくない人間だ。だから、宮中には多くの反都主派が存在しているのである。


 彼らとローレン、その主張に大きな食い違いがある訳ではない。政策にも殆ど違いは無かった。なのに何故に糾弾されるのか。皇都の財政がここ数年の間ずっと赤字だからだ。ローレンが都主となってから、十数年が経つが経済が回復する見込みはない。


 だが、それも当然の事であった。乾湿戦争の影響が高々十数年で抜けるはずがない。あちこちに伸びる街道は戦後、未だに復興されずに途切れたままであるし、放棄された幾つかの小都市も廃墟から復活する見通しは全く無い。機両戦争がそれに拍車を掛けた。湿部三国の不和は、ノーランにも影響を与える。特に大街道が封鎖された事で、トルポールなどの熱部と交易が出来ないのは痛かった。お陰でエルトリアムにも活気がなくなり、ドピエルはさらに勢いづくこととなった。


「新たな問題としましては、三ヶ月前のトルリアの件も未解決ですが……こちらはいかがなさいますか」ルディオが言った。

「その話はするな。国外のことは都主の仕事ではない」


 ローレンはそう言ったが、実際にはこれによって、ローレンの進退はいよいよ窮まり、皇都の財政も修復不可能なまでの打撃を受けてしまった。忌々しいのは、レプロン=リニアのくそ野郎である。こうなれば、皇都の運営に回す財を軍備に回さなくてはならない。そんな余裕はどこにもないと言うのに。


「また、再び流行の兆しを見せている『若い魔獣病』に対抗するための新型結界も要請されております。結界術式陣を維持し続けるには莫大な魔晶と金がかかりますから短期間では不可能ではありましょうが、一部の貴族はそれらを王都付近に縮小して設置すべきだと主張していまして。これは国内の話なのですが……」ルディオがしかめ面で言った。

「仮にそんなことをしてみろ。暴動で国内から皇国が解体されてしまうぞ。あの阿呆貴族どもはどこまでいっても阿呆だ。いっそのこと連中を追い出してやれば縮小しても釣りがくるだろう」ローレンは吐き捨てた。


「まさか皇貴会議でそう仰るつもりではありますまい」ルディオがため息を吐く。

「当たり前だ」ローレンが言った。 

「手腕を問われても返せるように心づもりを」

「……分かっている!」ローレンが怒鳴った。


 手腕がどうのこうのだと。

 ここ二十年の湿部は滅茶苦茶だ。

 これが本当に俺の所為だと?

 まったく、よく言えたものだ。

 誰がやってもこんなもの同じだろうに。


 誰が仕組んだのかしらないが、面倒事が積み重なり過ぎている。ほんの五十年前は湿部は大陸で一番安全な場所であったらしいのだが。出来る事なら、その時代の都主になりたかったものである。男は溜め息を吐いた。


「はぁ」

「殿下……」


 しかし、溜息はオラン=ハオンを苛む闇獣の武器の一つ。ルディオが顰め面をして彼を見る。この男は本当に神経質というか、病的な気に掛かり屋だった。そんなにオラン=ハオンが好きなら冷大陸まで行けば良い物を。そう思いながら、ローレン=ノーランは執務室の扉を開けた。ルディオ=ペンドランも締め出されぬように滑り込む。


 午後からは皇貴会議。忌まわしい其れのことを思いながら、ローレンは最高級の桃花心木の椅子に腰を下ろした。すかさず、ルディオが大量の資料を机上に置く。全く持って忌々しい紙の束である。こんなものを幾ら読んだ所で、会議が円滑に進むなどと言う事は無い。円滑に進むとしたら喚き散らし熱部人どもの首が落ちたときか、自分の首が斬られたときしかないだろう。


 資料や書簡をこれ見よがしに床に置き、ローレンは机に突っ伏した。その耳には最高級のゴムで作られた耳栓が嵌められている。こんなことをしなくても、都主の間には音など入ってこないのであるが、彼はいつもこの体勢で考え事をするのが好きだった。


「あぁ。くだらん」


 今、彼が思っていたのは隣国の美しい王女、ペルデ=エレングルのこと、ではなく、各地の都市で未だ発症報告が上がる、恐ろしい『若い魔獣病』のことでもなく、中央政治に巣食っている熱部勢力と剣王関係の一連の問題のことであった。必要なのは、先まで見通すことの出来る眼だ。

 

 そして俺にはそれがない。


 先ず、自分の目指すべき終着地点を定めるべきだ。そうローレンは思った。ローレンの一番の望みは、術式研究の中心地がこの皇都エルトリアムに戻ることだった。熱部に研究を奪われたままでは、術式技術の発展は恐らく見込めないであろう。何故なら、彼らデルフォイの連中は実際、トルリア教主国と繋がっているからだ。


 彼らがアディアラ山で『飛浮機』を装着しトルリア兵の死体を見つけた時も、多くの貴族や皇族はデルフォイ家とトルリア国の内通を強く疑ったものだった。都合よく、最新兵器を持った死体が山を越えて来るものか。ローレンは嗤った。そこで都主として、皇都騎士団に徹底的なデルフォイ家の調査を命じたのである。


 だがこの時、調べられたのは皇都にあるデルフォイの公邸のみであった。本邸、つまりボダットにある屋敷を調べるには父である、皇王の権限が必要になる。故にローレンは開発への参加と同時に、デルフォイの調査を陳情したのであるが、どういう訳だろうか、ラハリオ=セン=ノーランはその要求を拒み、素気無く却下したのだった。


「うーむ。父は術式が嫌いなのだろうか」

「は?」ルディオが不思議そうに言った。


「そうとは到底思えない。何と言っても、私に魔法士を与えたのは父ラハリオであるし、乾湿戦争の際も、術士による大規模術式魔導に子どものように喜んでいた。確かに根は剣術士であるが、だからといって術式を嫌うような男ではない」

「殿下、術式の話をしている場合ではございませんぞ」


「重要なことだ。黙って聞け」ローレンがぼやく。


 何はともあれ、術式研究を戻す為にはデルフォイを退けねば。ローレンは机にうつ伏せになりながらも決意を新たにした。デルフォイには『飛竜船』の疑惑もある。独自に開発したものではない。これも恐らく神聖トルリア教主国から何らかの理由で渡されたものだろう。この兵器が当家にあることは、既にリディアもメインも、ノーランも知っていた。


 知っていたとは言っても、確定的な事実ではないのが厄介なところだ。困ったことに、その情報の出所を何処の家も正確には知らないのである。四大名家の内の三家が、自らの懇意にする『隠秘士』からそれを知ったのであった。ルディオですらそれを知らない。その、馬鹿な男が問うた。


「何に気を向けておられるのですか」

「デルフォイと皇国の関係だ」ローレンが言う。


「臣下と皇王の関係だと思いますが、違うのですか?」

「忠実な臣下は王も国民も裏切らぬぞ」

「ふむ。デルフォイに何か疚しい噂が立っているというのは耳にしたことがございます。そう詳しく聞いたわけではありませんが。貴族の間では流言など日常茶飯事ですからね」


 実のところ、その噂――『飛竜船』の情報はローレン自身が三家に流したものであった。目的はそう大したものではなく、ただ単にデルフォイに対する風当たりを強めて、皇貴会議の流れを作る為である。実際、この噂を流した二ヶ月前には多くの貴族がデルフォイに書簡を送った。その内容の多くが軍事兵器を手元に置こうとする彼らへの強い非難である。元より国家機密を独占するデルフォイの評判は中央ではすこぶる悪い。そこへ、兵器の極秘裏な所有が拍車をかける。家名は時間とともに下がる。


「デルフォイを叩くおつもりなのですか?」

「これ以上に家名を上げられては敵わんからな」


 流言で下がるのは勿論、存在位格だ。守護としての本質や定義を失えば、デルフォイは自然と消滅する。だが、それが難しいのであった。将に二律背反。兵器を持っていることは守護性にも繋がる。兵器の独占が、守護性を貶めると同時に、暴力による守護性を強調する。すなわち、兵器がノーランに向けて放たれないうちは争いは膠着状態なのだ。


 上手くいけばデルフォイ家が何らかのぼろを出してくれるかもしれない。『飛竜船』の実在は真実の事なのである。だが、その可能性は先ず無いだろう、とローレンは踏んでいた。彼らとて青宮の人間である以上はそれ程愚かではあるまい。ローレンは決して相手を軽んじない。それどころか今回は半ば恐れていた。


 デルフォイの頭脳は当主アランド=デルフォイだ。あの食えぬ男はそう簡単に落とせないであろう。俺は一体、何をどう仕掛けるべきか。ローレンは机の美しい木目を眺めながら考える。


 恐ろしいと父は言ったが、本当に恐ろしいのはデルフォイ家なのだ。アランド=デルフォイが何処から兵器を入手したのかは分からないが、あのたった一つの兵器で彼らは中央政治に大きく食い込んだ。次の皇国を預かる者としては看過出来ない事態である。既にリディア家やメイン家からもデルフォイに対する不満の声が噴出していた。それは今まで軽視していた家が台頭することへの苛立ちだけではない。あの、激しい裏表のある家にこの国を任せることなど出来ないからだ。仮にもノーランの貴族として、彼らは皇国の未来を本気で案じているように見えた。


 デルフォイの手に『飛浮機』がある現状は余りにも危険だった。何故、父はそれを食い止めなかったのだろうか。あの、鋭い男が連中の野心をあっさりと見逃したと言うのか。だとすれば、父上は既に耄碌爺ということになる。いやはやそれならばどれだけ楽か。あの父が早く老いてさえくれれば。ローレンは冷めた頭でそんなことを思いながら小さなため息を吐く。


「父とアランドはどういう関係なのだ? 皇王陛下は何故デルフォイを味方するのだ?」

「古くからのご友人であると把握しておりますが」

「知っている」呆れ声でローレンが言った。


 相も変わらず、こういう時のルディオの情報は何の役にも立たないものだった。友人であることなど既に承知のことである。問題は友人関係の裏に隠されている事柄なのである。


 と、その時、皇太子の耳元で何かが音を立てた。


 階下から人が近付いてくることを、ローレンの机上術式板が知らせたのだ。この術式板は彼自身が作り上げた物で、最新技術を詰め込んだ代物である。いわゆる『副脳』技術を部分的に取り込んだこの板は、外界検知能を有していた。


「どなたが?」ルディオが問うた。

「弟だ」ローレンが短く言う。


 宮廷内に複数設置された検知機から情報を得て、この板はその人物を照会する。それによれば、近付いてくる男はルハラン=ノーランであった。ローレンは心の中で舌打ちする。この男何のつもりだ。皇貴会議が僅か数時間後に控えているというのに謁見だろうか。それも何の事前連絡もなしに。


 ローレンには理由が分からなかった。


 ルハランは破天荒で自由な男だが愚鈍な人間ではない。むしろ頭もよく切れるし、上手く使えば便利な男だった。ある一点を除けばローレンとの間に大きな不和もない。いや、とローレンは思った。


 ある一点。それではないのか。

 『捨剣』のリアト。

 あれがフィロレムを出たのが何日前だったか。


 ローレンの頭に天啓のように一つの考えが浮かんだ。リアトらはもう既に都に入っていてもおかしくはない。まさかそれが皇貴会議のこの日に重なったと言うのか。運の悪いことだ。ローレンはリアトを失念していた自分を呪った。


「色情狂め」彼が呟く。


 あの弟は一体どんな厄介事を持ち込んでくるのだろう。リアトに関して皇都騎士団には何の命令も下していない。幾つかの問題に手一杯でリアトに構っている暇が無かったのだ。だから、弟に責め立てられても困ることはない。だがまぁ何であってもあの男なら剣は抜くだろうと予想は立った。


「下がっておけば斬られはしまい」

「ルハラン殿下に?」


 ローレンが警告し、ルディオがそれを聞いて驚くと同時に、扉の前で激しい戦闘音が響いた。数度の剣戟の後に扉がゆっくりと開き、第三皇太子――ルハラン=ノーランが姿を現す。全身の装いはまさに下民。戦錬士崩れの傭兵と言った出で立ちである。右手には、血の付いた抜身のバルニュスがやんわりと握られていた。それは尋常な様子ではない。冷たい無表情が何よりの証拠。さらに距離が縮む。剣の間合いにて迸るは、殺気。


 しまった。

 どうやら何かを失敗したらしい。とローレンは思った。


「兄上、説明していただきたい」


 ルハラン=ノーランが静かに言ったが、その声は怒りで震えている。この怒り方は間違いなく、リアト関係の事だ。何があったのかは知らないが自分は疑われているらしかった。ローレンは不味いことになったと思った。予想していた数倍の怒気であった。


「何を怒っているのかは知らんが、私は何もしていないぞ」


 ルハランはバルニュスを背中に納めることもせずに近づいてくる。その眼は軽蔑するかのように自分を見ており、ローレンは唇を噛む。この馬鹿弟は何を勘違いしているのかしらないが、俺を殺す気らしい。軽蔑しきったような眼はぞわりとするような輝きを放っている。こんな眼をされるような心当たりは欠片もないのだったが。


「そうとは言わせません。兄上は執拗にリアトを嫌っている」

「馬鹿。先ずは事情を説明しろ、意味が分からん」


 はぁ、とわざとらしく溜息を吐いてルハランは言った。


「白を切るつもりですかならば、私もその気で話させていただきます」

「好きにしろ」ローレンが投げやりに言った。


 投げやりに言ったつもりではあったものの、その声は多少上ずっていた。まさか皇貴会議が始まる前に自分の弟に殺されることになるとは思っていなかったのだ。こんなことになるならば『捨剣』のリアトなどルハランの好きにさせておけば良かったな、とローレンは命の危険に晒されて、ようやく思った。掛け時計が鳴る。時間は刻一刻と過ぎ去っていた。


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