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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
一節 皇都拐者
17/43

1-6 鳥籠演劇/ルスラ

Δ



 むせ返るような濃い湿気に男は唸った。

 ここは熱部、その辺境も辺境である。


 ラツィオ=メインは額の汗を拭いながら馬の腹を蹴ったが、馬もうんうんと唸るばかりで前に進もうとしない。馬蹄を見ればぬかるみに沈みこんでいた。もうこれ以上は、進むことも戻ることもできなくなってしまうだろう。彼は腰に提げた水筒から弱い酒を喉へと流し込んでしかめ面をした。


 彼が熱部トランティアの谷を越えたのは、皇都を発ってから半日後のことだった。彼は案内人を一人連れて辺境ボダットへ向かっていた。この辺りは比較的湿潤な気候だ。息を吸えば湿った空気が肺に流れ込み、栄養を含んでいる黒い地面には無数の羊歯植物が競うようにして生えていた。この地域は湿部に相当するから当然であるが、ここはまさに悪名高き湿大陸さながらの様子だった。


 エルトリアムから五馬遊ほどしか離れていないとは到底思えない奇妙な環境。いやそもそも皇都とボダットであれば、皇都の方がより湿部に位置している。ここがこれほどまでに、雨季の森の如く成っていることはそれでは説明できなかった。何故、この地域はこれほどまでに美しくて神秘性に溢れているのか。


 その理由をラツィオは知っていた。

 『ボダットの虹』と呼ばれる魔法現象だ。


 見上げれば呪界に鮮やかな虹が掛かっており、それは七色どころか数十の色に分かれているように見えた。この巨虹の下にある全ての草原や平原地帯、森や畑が豊富な栄養と適度な湿度を享受していた。因果関係までは知らないが、この虹のお陰で熱部は豊かな地域なのだという。なんでも、ノーランの穀倉地帯のほとんどが熱部に、このボダット周辺にあるというのだから驚きだ。


 ふと街道から目をやれば、小屋が幾つかと緑色が繁る畑が見えた。老人たちが手に鍬を持ち、鬱蒼と繁る羊歯と作物の中へ分け入っていく。勇ましい彼らの歩みはまるで兵士のようだ。熱部農民の多くは、耕作を一生の仕事とする。


 彼らは霊力も魔法も持たないが、この国の根底を支えている存在だった。同様に、彼らが踏みしめる緑の大地も、この国を支える商品作物を生み出していた。その、羊歯植物と作物の共生が織り成す斑模様が、何処か奇妙な風景であって、ラツィオはそれを今までに一度だけ見たことがあるのを思い出した。


 あれは、二十歳を過ぎたばかりだったろうか。まだ傍付きになったばかりで、世間をほとんど知らなかった。その為に鮮烈とも言えるこの風景をじっくりと味わう余裕などなかった。もちろん、土の泥濘みなど気にも止めなかった。


「駄目だ。馬が沈む」ラツィオが言った。

「諦めて降りろ」淡々と案内人が言う。

「分かってるが、本当に他の路はないのか」

「ここらには沼しかないさ」


 足元の土がいよいよ沼へと変わってしまえばラツィオも馬を止めざるを得なかった。第四都市ベーロで雇った案内人は、馬から降りると、熱部人のよく用いる魔道具を取り出した。虫除けの木具だ。其れをくるくると顔の周囲で振ることで魔獣の嫌がる匂いを放つのだ。灰と柑橘の鮮やかなにおいが漂った。


 一通りこの辺りの虫払いを済ませてから、男は口元を覆っていた布を降ろした。まるでトルポール人のような褐色の肌と彫りの深い顔。しかし何処となく、グレルト人の面影のある怜悧な顔をしている。美形というよりは野生的だ。


「ボダットまではあと半馬刻だな」男が言う。


 ボダットとは国の最熱部に位置する小都市群のことだ。当然、小都市の城塞化はされておらず、術式結界も強力なものは貼られていない為に、周囲の魔獣から街を守っているのは数百の国属兵と剣術士だけである。


 ここのように大都市から離れた地域は国属兵ではなく、その領地の私兵たる主属兵が守るのが普通なのであるが、このボダット都市群には幾つかの理由から皇王支配下の国属兵団が配備されており、その鎧にはノーランを象徴する青い紋章がつけられている、とされていた。少なくとも境域付近はそうだった。


 彼らが守護する小さな砦を二つ程抜ける間に、景色は更に深緑色へと変化していく。この辺りから草木はその背丈を少しずつ伸ばして高い木々となり、森を形作っていた。ラツィオが向かうボダット最奥部の都市、グランフィア・ボダットはこの更に奥地にある。この辺りでは最も富裕な街である。


 グランフィアはアディアラ山脈の麓に位置しており、その周囲を湿地に囲まれている小高い土地だ。そのため、戦略上の要地として古来より重用され、バルニア崩壊以後は、逃げ込んだグレルト人の王族貴族が住まう要塞となった。ボダット全体に広がる湿地帯は数多くの魔獣や深魔を飼っているから、天然の防壁として機能するのだ。もちろんその猛威が都市に向けられることもあるが、魔獣除けの木々が生えているため、その心配はさほど深刻なものではない。


 むしろ厄介なのはこの湿地そのもので、季節によっては地底より染み出した水が大地を水没させ、また強烈な悪臭や、動物をも殺す実体毒を放つことがあった。魔獣は手懐けられても、自然は思い通りにならない。そのため、グランフィアの住人はこのようなぬかるんだ道や、森のなかを歩いては通らなかった。彼らは巨大な魔獣バリルや、転移術式陣を用いて、都市間を行き来するのだ。


 そうした方法をラツィオが取らなかったのは、今回の任務が潜入を目的とするものだったからだ。剣輪を見せずに、そうした移動手段を使うことはできない。


「金をケチらずに魔術でお越しになればよかったのに」案内人が言う。

「いや、熱部の秘境と謳われるグランフィア・ボダットだ。その美しい場所を初めて発見したグレルト祖人の気持ちを味わってみたくてな」ラツィオが言う。

「難所は乗り切った。もうそう遠くはない。すぐに味わえるさ」

「そうか」ラツィオが答える。


 言葉通りに、しばらくの後二人は街に着いた。小都市はまさに森の中に、隠されるようにして建造されていた。エルトリアムのような仰々しい壁も門すらも無く、魔獣除けの木で複雑に、まるである種の芸術品のように編まれた柵が張り巡らされているだけ。まるで魔獣のいない封源素地域のようだった。


 木組みの門を抜けた後、しばらく山道を歩けば質素な、しかし手の込んだ木組みの家々が見えた。都市というよりも街、富裕層の住まう街という様子だ。


「変わった街だな」ラツィオが言う。

「中央とは趣向が違うか」

「石造りの豪華さとは異なる。良質な木々で組まれた家をこれほど多く見たのは初めてだ。街全体が森に馴染んでいるようだし、それに、とても静かだ」


 この街には音がない。家々はほとんどが木造で、まるで音のすべてが木に吸い込まれているかのようだった。家々の中には煉瓦造りの大きなものもあるがそれさえ飲み込む程に木が存在感を放っている。


 そして驚くべきことに、視界を覆い尽くしてもまだ余る程の家々が奥までずっと伸びているのが見えた。これが『静寂の街』グランフィア・ボダットだ。


「落ち着いている」ラツィオが言う。

「田舎者の王都、と揶揄されているそうだ」

「派手さではエルトリアムには勝てんだろう、だが上品さでは凌いでいる」


 ローレン=ノーランに聞いていた通り、街の人間は皇都以上に贅沢な服を着ていた。歩き回る人々が内緒話のような小声で話すために市場にも活気がない様に感じたが、商品はどれも高級品ばかり。見たところ、この街は皇国第四都市ベーロよりも上等な物を扱っているようだった。


「グランフィアはボダット中の富裕層が住む都市だ。魔獣除けのレシードルで造った家々は質素に見えて、馬鹿みたいな値段がする。あんたみたいな余所者には分からないだろうが……俺がしがない剣術士ならグランフィアには近付かない。ここに住む人々、その小童ひとりとっても俺たちより価値があるからな」


 ラツィオは、しがない剣術士という言葉に気を悪くしたが、この案内人の性格は接している間に掴めていたので腹を立てることはなかった。それよりも不思議だったのは、この街には国属兵がひとりもいないことだった。


 ノーラン皇国のあらゆる都市には憲兵が居座っているもので、それは監視と治安維持を同時に果たす、統治機構だった。それが存在しないとなると。


「ここはノーランの国属兵や国選剣術士によって守られていると聞いたが」

「数年前まではそうだったが、今では違う。このグランフィアの守護に当たっているのは領主家に仕える私兵やお抱えの戦錬士連中だよ。まぁ最近じゃそれもあまり見ない。確かにちょっと無防備すぎるかもしれんな」

「そうではない。ノーランの権威は及んでいないのか」ラツィオが問うた。

「当然だろう。ここには、乾部守護がいるんだぞ?」男が答える。


 デルフォイ。

 そう、グランフィアは反都主派の中核、

 乾部守護デルフォイ家の治める街である。



Δ



 深い森の奥、そのさらに先。

 生き物のような蔦のその向こう。


 険しい山道を越えた先、いわば崖上に絡みつくようにしてその邸宅は、存在していると言われている。かつて『死の谷』と呼ばれた崖の上に数百年前のデルフォイ家の当主、あるいは初代デルフォイの当主が建築したのだ。かの家は、その忠誠と引き換えに、時の皇王から熱部の支配権を譲り受けたのだという。


 もちろん、ほとんどの熱部人は、この話がノーラン家の流布した嘘であることを確信していた。何故ならば彼らは、この屋敷に住んでおり熱部ボダットを支配する一族デルフォイ、またの名を『グレオン=ラベストリ』が、ノーラン建国前よりももっと以前から生きていたと信じているからである。


 神話によれば、その来歴は、数千年以上前にも遡るとも言われていた。歴史に残る古代バルニア帝国が栄えていたのがざっと千年前だから、デルフォイも馬鹿に大きく出たものである。とはいえ眼前の森は、数百年の歳月を感じさせる陰鬱さを醸し出していて、眉唾の話にも多少は真実味が感じられた。


 しかしそれほど偉大な熱部の支配者たちは、ここ数日の間、まったく姿を見せなかった。彼がここに来てからすでに二日が経過していた。自然と焦りは大きくなるものの、ラツィオには待つ以外の手立てが思い浮かばなかった。


「今日も熱部に動きはなし。主属兵の姿すら見えんとは奇妙を通り越して異常。あいつの言う通り、ここには何かがあるかもしれんな」ラツィオの呟き。

「またこそこそと調べてるのか」応えた者がいた。


 グランフィア近くの丘の上から隠れるようにして、街の様子を探るラツィオの姿をあの案内人が咎めたのだ。もちろん、ラツィオは何もやましいことをしているわけではない。ただ、都主の右腕が敵地であるボダットを探っているだけだ。見つかればただでは済まないが、咄嗟にうまい言い訳は思いつかなかった。


「ちょっと俺にも見せてくれよ」

「おいやめろ」ラツィオが苛立った声を上げる。


 しかしふざけた男は手に持った端末を覗き込むようにラツィオの後ろに回り込もうとした。やけに素早い。まるで飛蝗のような男だ。ラツィオは彼を滑らかな体裁きでなんとか躱した。そこそこの手練れであろう案内人の男だが、流石に上級剣術士には及ばないらしく、しばらくの後にはため息を吐いた。


「ちょっとくらい良いじゃねぇか」男が言う。

「いや。詮索しない方が身の為だぞ」ラツィオが警告した。

「十界法則で忠告するとはお前も古風な剣術士だな」

「黙っていろ、熱部人」

「ははは」男が豪快に笑った。


 ラツィオがこてこての十界言葉を用いたことで男は笑ったが、それは同時に、それに反応するくらいには『剣の世界』に通じているということを表している。それがラツィオの警戒心を上げた。この隙のない男、得体の知れぬ案内人は何かとラツィオに声を掛けてくる。迷惑だと聞き流していれば、たまに役に立つ情報をぽろりと溢すものだから、ラツィオとしてはたまったものではなかった。相手をすべきなのか無視を決め込むべきか悩みどころだったのだ。


「お前、本当にただの案内人なのか?」ラツィオが問う。

「判断するのはあんただ。だが、デルフォイ一族に会いたいのなら、ここで手を拱いていても無駄だと思うぜ。本気で奴らを調べるつもりならアディアラの麓の屋敷までいかねぇと何も掴めねぇだろうよ。まぁ気長にやればいいが」


 男の言葉にラツィオは眉を顰めた。彼が今まさに狙っているのは、屋敷へと出向くグランフィア人の捜索である。丘の上から眺めることで、街から出る人間の動向を余すところなく観察できる。彼らの一人でもデルフォイの邸宅へと向かってくれれば、それだけで目的の一つは達成できるのだった。


 だが案内人の男は、そんなことはできっこないという。事実、ラツィオは二日間の張り込みでほんのわずかな手掛かりさえも得られていなかった。その為なのだろうか、自然とラツィオの声も大きくなった。


「どうしてそんなことが分かる?」

「ほぉー。んなことも知らねぇでよくも間諜になれたな。こんなこと熱部の奴なら誰だって知ってる。なんてったってデルフォイの奴らは山から降りてくるんだ。招かれなければ登れない、一方通行のアディアラ山脈からな」男が言った。


 ラツィオはそれを聞いて唸った。別に熱部人の迷信に慄いたわけではなく、熱部に精通しているであろう案内人でさえも、デルフォイの屋敷の場所を正確には知らないということが判明したからである。だとすれば、誰ならば場所を知っているのか。この街の管理官に会うことは出来るだろうが、十中八九、中央上がりの人間で、そのうえデルフォイの息がかかった人間だろう。


 となると、最悪の場合、ラツィオの正体が露見する可能性があった。実のところ、もう既にデルフォイの連中に察知されている可能性は多分にあったが、せめて皇貴会議までは正確な証拠をつかませるわけにはいかない。


「あんた、屋敷までの案内は出来ないんだよな」ラツィオが言う。

「当たり前だ。俺はグランフィアを追い出された身だ」


 男は自嘲気味に笑うと、自身が隠れている木の幹を軽く叩いた。こん、と軽い音が響く。この男にどんな来歴があるのかはしれないが、どうやら熱部を愛しているというわけではないらしいとラツィオは思った。


 男からは、どこかやるせなさや苛立ちのようなものが伝わってくるのである。それはどこか戦争が終わったあとの剣術士たちのようでもあった。虚しい戦争が終わったあと、武勲に対する碌な褒賞すら貰えず、名誉だけを手にして兵士たちは国へと帰った。ラツィオでさえも逃れられなかった苦しみだ。


「もしかして乾湿戦争に参じていたか?」

「あぁ。ヴェルトヴァンの傭兵だ。グラディオグラを闘った。その後はずっとトルポールに戻っていたが、色々あってここに来なきゃならなくなった」

「その割にはデルフォイに詳しいな」

「因縁がな」問いに一言で返すと、男は口をすぼめた。

「ほう。そういう話は正直、好物だな」

「まぁなんだ。連中の話を聞きたいなら付いてきな。こういうのは酒場が一番だ。グランフィアの酒場はお高く止まったとこばかりだが、少し出れば腐った麦の屑溜めのような場所もある」男が口の端を歪める。

「おいおい、そんなところで大丈夫なのか」ラツィオが困惑する。

「本気で情報を求めるのなら、何処に行こうが大した意味はない。グランフィア人は余所者を嫌うからな。それよか必要なのは安全な隠れ家だよ。あんた、今のままじゃそう遠くない内に捕まっちまうぞ」


 そう言うと男はにかりと笑って、太い木の幹に繋がれていた馬に跨った。馬の腹を蹴れば勢いよく彼は走りだし、ラツィオもそのすぐ後を追った。熱部の森林は泥濘と羊歯で非常に走りにくい。男の背を見失わないようにするのは難しかったが、幸いにも幾らか走ったところで二人は小道へと出た。


「さぁ馬から降りるんだ」


 男が唐突に馬を止めてそう言った。ラツィオもそれを聞いて手綱を軽く引いた。甲高い鳴き声とともに馬が速度を落とし、そのまま男は飛び降りた。着地の衝撃で地面がべちゃりと音を立てる。それは遠くからの泥音と同じである。


「足音が重い。鎧を着込んでる上に敵は五人」

「熱部には森賊でもいるのか」ラツィオが問う。

「そうじゃない。初日にあんたを追い出したグランフィアの主属兵だろう。どうやら連中はよほど捕えたいようだな。所属でもばれちまったんじゃねぇのか」

「目立つようなことはしていない。俺はまだ怪しまれちゃいないはずだ」

「おうおう。自分が何もしてねぇのに襲われるときってのは、自分の主が何かやらかしてるんだぜ。あんたの主は挑発が趣味だったりしないか?」


 あぁとラツィオは心の中で頷いた。不思議と皇太子がデルフォイ家に喧嘩を売っている光景は自然に思い浮かんだ。彼なら追い込まれれば何らかのことはするだろうし、何なら連中の命すら狙うに違いない。ローレンの頭の中は術式と自己保身でいっぱいなのである。恐らくは、単身敵地に潜り込んだ自分のことなど考えてすらいないだろうとラツィオは思った。


 蹄の音が大きくなるとともに小道の奥から騎馬兵士の姿が見えた。新兵やただの兵士ではない。恐らくはバルニア式剣術を納めている剣術士だと思われた。内に秘めたる靈気は上々。真正面から戦えば、若干の苦戦を強いられるであろう。


 だが。


「主を恨むか?」軽い調子で男が言った。

「まさか。この程度の奴らに狙われたくらいで恨んでいては、己の無能を晒しているようなものだろうが」ラツィオはそう答えた。


 なにもローレンとて、心配をしていないわけではあるまい。だが恐らくは、それ以上に自らの傍付の力を信用しているのだ。そしてそれは誤りではない。ラツィオはたかだか数名の兵に囲まれたところで負けない力を有していた。彼こそ『万能』のラツィオ=メイン、アルネベイクの先陣を駆け抜けた剣術士である。


 男らの馬が十剣長に入ったところでラツィオは背の長バルニュスを抜き、即座に木々の幹を駆け上がって騎馬の頭上を取ると、勢いよく跳ね跳んだ。同時にすれちがった剣術士の首筋から勢いよく鮮血が溢れ出し、頭が傾ぐ。中空でのすれ違いざまに、ラツィオが左肩口を深く斬りつけたのである。


 藍髪壮年の傍付は泥濘に着地しながらぐるりと振り向き、残る四人の鎧と、そのすき間を見て、面倒くさそうに顔を顰めた。剣はすでに仕舞われている。落ち着き払った立ち居振る舞いにはやはり一分の隙もない。


「えらく重装備だな。高温多湿の環境で鎧を着込むのは良くないと思うのだが理由でもあるのか。その薄っぺらな鎧じゃ本気の靈撃は防げん。急所を狙いづらいということだけなら利点にはならんと思うが」ラツィオが言った。

「熱部の呪樹装甲に文句づけられるいわれはない」男たちの一人が言った。


 呪樹装甲。それはなんだとラツィオは思ったが改めて彼らを見ると、なんとなく理解することは出来た。どうやらあの鎧は金属ではなく、硬質の木材で作られているらしい。何とも奇妙な代物であったが、これが熱部の標準装備だというならば、熱部人とは実に面白いことを考えるものである。


「それは悪かったが今のは文句ではなく忠告だ。早死にしたくないなら回れ右して街へ帰れ。貴様らが俺を狙う理由は知らんが、俺が貴様らを狙う理由は特にない。さっきの奴も急所は外しておいた、すぐに治るだろう」

「分かっている。だが、こちらにも用があるのだ。紺髪のノーラン人よ、熱部を詮索するのを止めると言うのならこちらも下がろう」

「詮索? 覚えがないな、何の話だ」ラツィオが眉根を寄せた。

「我が主君より、皇都の間者が嗅ぎまわっていると聞いている。転移術式もバリルも使わずにグランフィアに来たお前を疑わぬわけがない」

「俺はボダットの森を歩いてみたかっただけ、ただの旅行者だよ」

「いきなり抜き打ちを放つ旅行者がどこにいる。少なくとも貴様は五大流派に属する上級剣術士だ。剣はバルニュスだが、動きは海刃、魔力の質はまるで魔剣だ。それほどの剣術士が理由もなく、熱部をうろつくものか」


 真っ黒な光沢を持つ金属質の呪樹装甲を纏った隊長格の男が剣をわずかに上げた。と、そこで案内人の男がぱっと躍りでて、偉そうにラツィオを小突いた。その姿を見るやいなや、騎士たちが驚いたように剣を構え直す。どうやら騎士らと案内人は顔見知りのようだった。それも仲が悪いほうの。


「レグルス!! なぜ貴様がここにいる。貴様はグランフィアを追い出されたはずだ。こんな場所で何をしている。出て行け」隊長と思わしき男が叫んだ。

「なぁに、このレグルス=ローディナス、近頃は旅人相手に案内人の業を始めてしまってね。今回はその仕事の一環として、この男をここまで運んだというわけだ。なんでもこの男は熱部の秘葬『葬送儀礼』を何としてでも見たいらしくてなぁ。それでこの辺りに潜んでたってわけだが」レグルスが言う。

「黙ってろ!! この裏切り者め!!」


 苛立った表情で騎士は剣を軽く振るい、レグルスの頬を浅く斬った。血が流れ落ちるがレグルスは動じた様子もなく、にこりと笑ってお辞儀をした。頭を上げたときには、頬の傷はすでに癒えていた。傷つけられた場所からはじゅうじゅうと白煙が漏れていたが、それもみるみるうちに消えていった。


「化け物が」男の一人がそう言った。

「それは正しい判断だな」


 レグルスは動じる様子もなく答える。私属兵らはそれを聞くと少し怯えたようになって、剣をゆっくりと背中に納めた。どうやらこのレグルスという案内人は熱部では名が通っているらしかった。ラツィオは心の中で感謝して、自らのバルニュスを納める。騎士らは苦々しい表情で馬に跨ると、怪我をした男を庇いながら小道を去っていった。殺さずにすんだのはありがたかった。


「助かった」ラツィオが言う。

「面倒は俺も嫌だったんでね。気にしないでくれ。さぁ改めて自己紹介といこう。俺の名はレグルス……ローディナス。熱部人じゃねぇが、この熱部で案内業をやっている」そう言うと男は傭兵流の礼をした。

「待て。その家名には聞き覚えがある」ラツィオが言った。

「詮索無用。まぁ、トルポールに由来ある名だ」

「やはり砂丘国の生まれか?」

「親父がそうだ」男が苦い顔で言う。


 そういうレグルスの歳は三十前後に見えた。彫りの深い顔立ちは確かにトルポール人のようにも見えたが、肌の色はグレルト人のような宍色に近かった。ラツィオは理由もなくそこにリアトの面影を見て、眉根を寄せる。言葉にはならないが共通する部分があるように思えて、男はわずかに臨戦態勢をとった。


「ところで、お前に似た女を知っている」

「ほう。それは驚いたな」レグルスが言う。

「『捨剣』のリアト。知っているか」ラツィオが眼を細めた。


 それを聞いてレグルスは破顔した。


「それは光栄だな。それは海刃の剣王を下し、熱部戦線を終結させた英雄中の英雄だろう。お前の言うとおり、実は浅からぬ因縁がある。あまり嬉しくはない因縁が。雰囲気やらなんやらが似ているのはそのせいだ」レグルスが言った。


 正直な言葉を聞いてラツィオの肩から力が抜けた。自分とローレンの敵ではないということが分かれば争うつもりはない。彼は、レグルスのいう因縁とやらに踏み込む気はなかった。恨み言にもならないが、あの戦争を生き抜いた者ならば因縁を抱えていないものなどいなかったからだ。


 自分とて、後ろ暗い縁を少なからず有していた。そうしたものをほじくり返せば無用な敵を生んでしまうということを、ラツィオは経験済みだった。


「問題はないさ。昔、少し喧嘩してね」

「そうか、賢明だ。あいつと俺は関係ない」


 そう言うと、レグルスはすかさず懐から『術式端末』を取り出した。この熱部では呪界変動が著しいがそれでも端末くらいは使用できるようで、男の指は軽快に画面を叩いていく。たんたんという音が済むと空中に幾つかの立体地図が出現した。地図の一点が橙色に点滅している。


「ではここへ」重い声でレグルスが言った。

「……何がある場所だ?」


 深刻な顔で尋ねたラツィオを男が鼻で笑った。


「牧場と酒場のある小村、傭兵のたまり場だよ」

「安全なのか」ラツィオが言った。

「はぐれ者だらけの村だ。安全も危険もない」


 そう言うと男は再び馬に跨ると拍車をかけて馬を飛ばした。急いでラツィオもその後を追うことにしたが、泥濘に足を取られて思うようには進めない。


 気付けばレグルスは随分遠くに行ってしまっていた。

 もはやその背中も見えない。


「くそ」悪態を吐いた。



Δ



 ラツィオは馬の蹄を頼りに泥と羊歯のなかを走り抜ける。ようやくそれらしい建物や牧場が見えた頃にはすでに日が落ちていて人気がなくなっていた。


 村の中央には大きな宿屋のような建物があり、ラツィオが馬留めに綱をかけたのちに扉を開くと、そこには二十人ほどの若い傭兵がいた。どうやら一階は酒場になっているらしかった。帯剣している者がほとんどだが、実力のある者はそれほど多くはない。村から逃げてきたような幼顔の青年が大半を占めていた。


 一体どういうわけだろうかと思ったとき、酒場の隅のほうで麦酒を飲んでいるレグルスが眼に入る。小言の一つでも言ってやろうとラツィオは近づいた。


「ひどい泥濘だったぞ」

「ここまで来られるかの試験みたいなもんだ。別にあんたを試したかったってわけじゃないんだが、一応ここは俺の隠れ家なんでな。大手を振って連れてくるわけにはいかないだろう」レグルスが言った。

「あぁ。そして、これからは俺の隠れ家でもある」


 ラツィオはそう言うと、どかりと木製の椅子に腰を下ろした。ぎしぎしと古い家具特有の音が漏れ、なぜだか心が少しばかり安らいだ。


「ここはガキばかりだな」ラツィオが言った。

「理由がある。後で話してやる」


 時を同じくして窓の向こうから騒がしい音がしはじめた。どつどつと大粒の雨が天から落ちてきたのだ。熱部の土は雨が降った後には荒れてしまう。とてもではないが明日は出歩けない。そう思いながらラツィオは酒を頼んだ。


「ここは初めてで?」主人が聞いた。

「あぁ。よく出るのをくれ」ラツィオが言った。

「なら黒麦の蒸留酒だ。あれは間違いない」レグルスが口を挟む。


 不思議そうにラツィオが片眉をあげた。


「ならどうして麦酒なんぞ飲んでいるんだ?」

「そりゃ弱いからだ」主人が笑った。

「黙れ。俺は麦酒の味が好きなんだよ」


 ラツィオは黒麦の蒸留酒を頼んだ。ひとしきり酒を飲み、彼がようやく酔っ払った頃には店の中に若者たちはいなくなっていた。閑散とした酒場のなかでレグルスが机に突っ伏して鼾をかいている。後、の話はずれこみそうだった。


 すると主人が二人の席に近寄ってきて、そのまま空いた椅子に腰を下ろした。男の歳はもう五十を過ぎていると思われたが、腕には真新しい引っかき傷がある。ラツィオにはそれが魔獣との戦いでついたものだと分かった。


「どうだい」主人が言った。

「ここには若い者が多いようだな」

「あぁ」男はしたり顔で頷く。


 ちらつく蝋燭の火の下、ラツィオと主人の距離がわずかに縮まった。二人は顔を突き合わせて内緒話を始めるように口元に手をやった。


「なぁあんた外から来た傭兵だろう。悪いことは言わんから帰った方がいい。ここ最近、森の中で神隠しが起きて、国属兵が何人も殺されてる。それで農兵が討伐隊として森を探し回るのに使われてるんだ」

「神隠し? 魔獣か? 討伐隊は多いのか?」

「いや、それが誰も見ちゃいねぇし、帰っても来ねぇ」


 その情報はラツィオにとって非常に重要であるように思われた。ローレンが言っていたようにデルフォイの兵は確かに動き回っているらしい。だが多くの兵をどこかへと動員して、一体なにをするつもりだというのだろうか。


「鎧の連中ならグランフィアで見かけた。農兵という感じではなかったが」

「そいつらは多分ルスラ様の私兵だな。街を守っている手練れの騎士で、ほとんど貴族様のご子息だよ。小悪党どもを捕まえるだけの連中さ」

「魔獣狩りはしないのか?」ラツィオが問う。

「百にも満たないし、なにより貴族様だからな」


 百という数は正規兵としては明らかに少ない。このボダットは辺境であるがゆえにその領土は広大である。高々それっぽっちの数で深い森のすべてを治めることなど出来ない。だからこその国属兵であり、農兵だったのだ。それが動員されたとすれば事態の予想はつく。もし本当に恐ろしい魔獣が出ているとすれば。


「見捨てられたな」ラツィオはしかめ面で言った。

「分からん。だがもしそうなら困ったことになる。そこのレグルスみたいな傭兵連中やら次男坊どものおかげで何とかはなるかもしれんが、大半はガキだ。若いのは戦盛りで、魔獣狩りにも行きたがるやつばかりだが、おっかぁに泣かれたもんで、ぶー垂れながらこの村で燻ってんのさ」主人が酒を口に運んだ。


 口の端からぽたぽたと濃色の酒がこぼれ落ちるが、男はそれを気にしていないらしかった。どうやらボダットの住民はデルフォイに不満を抱えているらしい。されど、それをどのように活かすかまでは見当もつかない。もしもデルフォイの邸宅を知っている者を味方につけられれば今後楽になるはずではあったが。


「あんた息子はいるのか」ラツィオが問うた。

「死んだ。六歳になる前に魔獣に殺された」

「辛いことだな」

「グリエルに噛まれて身体が痺れていた。目の前で息子は丸呑みにされたのさ。雨季には子どもを狙う魔獣が多く出ることは分かっていたのにな」

「何故連れて行った?」

「それが分からない」主人がそう言った。


 男はまた酒を飲んだ。ラツィオもそれに合わせて杯を傾けた。自身も肉親を失った身であった。弟はそもそも生まれることなく死んだと言うし、乾湿戦争では従兄弟を七人失っていた。また、実の父親も戦後しばらくして病に倒れたのだった。


 眼前の男の苦しみを分かりつくすことなど到底できないが、それでも死の理不尽さと冷たさは分かっているつもりだった。少なくとも喪失感くらいは。


「デルフォイ様は、」主人が口を開く。


 男はラツィオの目を見つめた。


「魔獣狩りに男を狩りだしている。そいつらはまだ帰ってねぇばかりか連絡の一つもねぇ。俺にはどうもそれが気にかかるんだ。それに妙な噂もある」

「教えてくれ」ラツィオが言った。

「子どもらが竜を見たと」


 剣術士の顔色が変わった。その話が事実だとすればローレンの飛竜船の話は俄然信憑性を増すことになる。だがよく考えれば、子どもの証言は考慮するに値しないようにも思われた。というのも、熱部ボダットには竜に比されるような魔獣が多くいるばかりか、竜そのものが生息しているからである。熱部とトルリアを隔てるアディアラ山脈は、古来より竜の住処として有名であった。


「竜は吉兆でも凶兆でもある」

「そうだ。しかし赤い竜は明確な凶兆だ」

「赤い竜か」


 赤い竜の伝承をラツィオは知らないわけではなかった。通常は黒い鱗が怒りによって赤く染まると伝わるその個体は、予言暦にも記されている滅びの予兆。


 だが、竜が飛竜船だという可能性はなくなってしまった。軍事兵器をわざわざ真っ赤に塗り上げるほどトルリアもデルフォイも愚かではないだろう。


「子どもを信じるわけじゃないが、それでも不安は募る。このまま男どもが帰ってこなければ魔獣を待つまでもなく、多くの村が枯れてしまうだろう。パーンリアなど狩っても腹が満たされねば意味がない」


 主人がそう言って眉間に皺をつくった。


「パーンリア? 聞いたことのない魔獣だな」

「ここに古くから伝わる魔獣だ」主人が言った。

「それが現れたのか。竜か?」


 主人は難儀そうに頭を抱えた。


「竜じゃない。猪のような魔獣だ。二月ほど前にデルフォイ様の長女がな、パーンリアが復活したと仰られたのだ。伝説に出てくる魔獣がな」

「デルフォイを信じてないんじゃないのか?」

「それとこれとは別だ。領主様に不満はあるが魔獣が本当にいるなら警戒は必要だからな。訓練も受けてねぇ奴を狩りに出すのが許せねぇだけさ」

「その通りだ」ラツィオは頷いた。


 主人は長くため息を吐くと、少し嬉し気な顔をしてラツィオに向かって親しげに左手を出した。それはやや唐突であるようにも思えたが、気を許した相手には利き手を差し出すという傭兵の作法があることを思い出して、ラツィオは左手を返した。簡単な握手のあとで主人は蒸留酒を注いで、ラツィオへと渡した。


「俺はリオンだ、名は?」主人が言った。

「ラツィオ」正直に答えた。


 と、そのときである。


「ほう。そりゃあ大層な名だな」


 レグルスがそう言いながら立ち上がった。顔は赤く歪んでおり、酒が抜けたようには見えなかったが、彼はラツィオの蒸留酒に手をつけた。主人であるリオンはそれをしかめ面で見ていたが別段止めるつもりはないようだった。


「別に珍しくはなかろう」

「いや、貴族じみてる名だ。貴族は好きじゃない」

「それは悪かったな」ラツィオが顔を顰める。

「お前がもし貴族ならただじゃおかねぇ」

「酔っ払いの相手をする気はないぞ」


 そう笑いながらもラツィオの顔は強張った。この男はやけに勘が良い。これ以上深く関われば正体がばれてしまうかもしれない。立ち去ろうとした彼の腕を誰かが掴む。それは意外なことに酒場の主人だった。


「おっと待ちな」彼が言った。その声にはわずかな警戒の色がある。

「なんだ」ラツィオの声にもわずかな剣気が滲んだ。


 レグルスはここを安全な場所だと言ったがどこまで信用できるかは分からない。もしもこの場所にデルフォイの手先がいれば情報はすべて筒抜けになってしまう。その恐れが無意識的に心中の剣を抜かせたのだ。


 ラツィオが更にゆっくりと息を吐くと、辺りの気配が氷に包まれたかのように冷えていく。それを感じたリオンは怯えたように両手をあげた。


「違う違う、その、酒代をまだ貰ってねぇんだ」

「それはすまん」ラツィオは顔を赤らめた。


 慌てて財布を出そうと張り詰めた剣気が解ける。

 レグルスが机に突っ伏したままで声をあげた。


「いやぁ、悪いのは俺だ」

「そうだ。お前は酔っ払っていて俺は潰れちゃいないし、潰れるつもりもない。これ以上の絡み酒はごめんだぞ。お前の恨みなぞ知ったことじゃない」

「あぁ、お前の剣気で酔いが醒めてきた」


 レグルスはのっそりと立ち上がると、ラツィオを手招きしてそのまま宿の二階へと上がっていった。リオンに詫びてからレールを支払うとラツィオは階段を上った。古い建物だ。この階段はわずかな重みでも軋んだ音を立てた。ひたひたと上がった先に部屋がいくつかあり、その中の一つにレグルスは入った。


 室内は殺風景で寝台の他には大したものがない。隙間風さえないものの、結界術式すら張られていなかった。もちろん、壁はごく薄い合板製である。


「どうだ。お気に召さないか?」

「重要な話をするには些か心もとない」

「良い心がけだが、その心配はいらない」

「何故わかる?」ラツィオが言う。

「聞かれて困るようなことは話さないからだ」

「ほう。じゃあなぜ俺を呼んだ」


 レグルスはその問いに間髪入れず答えた。


「これから数日間おとなしくしててもらうためさ。俺はデルフォイ家の場所を知らないが、そこに入るための方法なら知っている。だがそのためには、お前のような陰秘士にちょろちょろされたくないんだよ」レグルスが嗤う。

「訂正が二つある。まず俺は陰秘士じゃない。次に、俺をおとなしくさせるにはお前では力が足りない。もちろんここにいる全員がかりでも無理だ」

「俺も訂正が二つある。まず俺はお前を力づくで引きとめない。次に、俺はお前の敵じゃない。単刀直入に言うぞ。デルフォイに会うために協力しろ」

 

 男の眼差しは刺すように鋭い。

 この男は間違いなく信頼できる。

 信頼に足る、憎しみを持っている。


「目的はなんだ」ラツィオは問うた。

「それは必要ない。さぁ座れ」


 次の瞬間、レグルスの右掌から魔法が放たれて、狭い部屋全体を覆いつくした。空属の応用技術である、音響制御だ。これで二人の声はどんなに小さな囁き声ですら漏れはしない。その魔法には蟻の巣ほどの穴もなかった。


「目的を聞かずには協力できんな」

「なに、一緒にあいつらを殺しに行こうってんじゃない。あんたもさっき聞いただろう。このボダットで起きている神隠し、それに復活したという魔獣。その原因を調べるのを手伝ってほしいだけさ」レグルスが言う。

「俺に何の利点がある」

「寝床と情報源」レグルスが微笑む。

「お前には何の利点がある」

「あんたは上級剣術士、それも皇都で鍛え上げた凄腕だ。ひょっとするとどこかの貴族のお抱えかもしれねぇ。ラツィオって名に心当たりはねぇが、二つ名を持っててもおかしくはない、それほどの研鑽を感じる」

「だから剣を貸せと?」

「ラツィオ、持ちつ持たれつだぜ。このエビリシアにいる連中は良い奴ばかりだし、みんな護衛を欲してる。あんたみたいな奴をな」


 ラツィオはしかめ面で唸った。


「俺に護衛をさせるために連れてきたのか?」

「勿論そうとも」悪びれもせずにレグルスが言った。


 しかし、その言葉の軽さと、彼の抱える憎しみが、ラツィオのなかではどうにも一致しないのだった。どう考えてもこの男は、熱部の村一つを大事にするような人間ではない。むしろ、目的のためならば手段を択ばない人間だ。


 だとすれば、自分をここへ連れてきたのはなぜか。ラツィオにはその答えがなんとなく分かるような気がしていた。恐らく、このレグルスという男が自分を選んだのは、自分がデルフォイ家に狙われているからだ。彼は、デルフォイ家の飼う狗どもを誘き出すために、自分を仲間に加えたのだ。


「俺は囮か」

「そこまで非道じゃない。ただの一石三鳥だ」レグルスが言った。



Δ



 熱部の雄、アランド=デルフォイの肉親であるレインズ=デルフォイ=シレは安楽椅子で揺れていた。ぎしりぎしりという音に反応して、鳥たちが鳴き声を漏らすが、レインズは身じろぎ一つしないで、夢に浸っていた。彼がいかなる夢を見ているのかは分からないが、その瞼が開くことは当分、なさそうだった。


 その柔らかな表情を眺めてアランドは頬を緩めた。この者は、ノーランがこれほどまでに揺れ、デルフォイがいよいよ最期の時を迎えようとしているこんな時にも居眠りをしている。呑気にも自堕落にも見える。されど、永遠に目覚めないその眠りは本来ならば、アランドこそが与えられるはずのものだった。


 されど、彼はそうならなかった。卑怯にもその地位――熱部では双子の遅い方が通常、高い地位に就く。何故なら、血と出産の穢れを受けたのは先に生まれた兄だからである――を奪い、熱部の真なる王として名を譲り受けたのだ。もっともそれは地獄を背負うということと同義でもあったのだが。


「レインズ……死に方すら決められんとは」


 アランドの言葉に反応するものは室内にはいない。ただ一人、沈痛というしかない表情で、男はレインズの首に手を当てる。自らの皺くれた手と対照的に綺麗なままの肌が目に映り、しかしアランドは止まることなく、圧しこんだ。


 すると、鈍い音と共にレインズの首がゆっくりと傾いていった。瞬く間にその肌が血色を失い、白磁のような色へと変化していく。これは屍体だ。もはや、単なる物体。死ですらない物に、自らの血を分けた存在は、変わってしまった。


 伝統的な魂概念では、死者とは魂の存在者である。つまり、肉体そのものである精神は魂を映す鏡の働きをしていたのだ。故に、肉体の生を失った魂は浮遊する。宙づりの存在となって呪界へと解けていくのだ。


 だが、熱部にあってはそれだけではすまない。熱部人が信仰する古き神の一柱、罰神リゲトーメルクは魂を舐めまわす死の主である。この世に生まれた者は、邪悪な魂も高潔な魂も分け隔てなく、彼の擦りこぎ歯で削られていくのだ。


 もちろん、熱部の神秘をより深く知るアランドは、真実がそうではないことを知っていた。このアディアラに構えられた邸宅、そのはるか底の底には、古き呪術士の遺した神への反逆の証左が残っている。そしてそれこそが、リゲトーメルクよりも悪しき呪いとなって、熱部を蝕んでいるのだ。


 古き神話の全てが真実を語っているわけではないにせよ、この魂は安らかには死ねないだろう、とアランドは思った。それだけは許しがたいことだった。


「あの世ならぬ場所でまた会おう、レインズ。お前の死は無駄にはしない。その肉体、その精神、記憶から血脈、身に受けし呪いに至るまで、この私が余すところなく使ってやる。そうして私を苛み続けるのだ。永遠に。もう決して死なぬ永劫の存在として我が魂のなかで生き続けるがいい。二度と死なぬように」


 男の目が爛々と燃えた。


 誰に向けるともない苦痛と憎悪が、アランドの身の内を焦がしていた。それを復讐と呼ぶことは容易かった。されど、アランドにそのつもりはなかった。あの、許し難き脳子の連中を滅去することは報復でもなければ、等価の償いでもない。それは単なる生存戦略だ。生き残る為に、デルフォイ家の人間は憎悪や苛みという感情

を強く扱える者だけを選別してきたのだから。


 アランドは、怨嗟と呪詛に浸ることによってのみ価値を獲得する。


「たとえこのノーランが果てようとも」


 涙が溢れた。

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