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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
一節 皇都拐者
16/43

1-5 不斬屍天/シドニィ

Δ



 エルトリアムの中心、深青宮ラングリア。


 その宮下乾区域にある、混凝土製の崩れかかった建物の中では、まるで鍛治街のように、幾度となく金属音が響いていた。それは壁中を跳ね回る剣戟の音であり、火花の中を荒々しく動く人物、リアトがそれに負けじと叫ぶと同時に、『骸』の構える短剣が揺らぎ消えた。


 背後から現れたそれを、彼女はすんでのところで躱す。躱しきれなかった魔力の余波がお気に入りのラチェットに掠り傷をつけた。だが怒りはない。心地よい痺れが満ちていた。久々の同格、それは望んでも得られるものではない。殺し合いなどくだらないものだが、それでも闘いの高揚感を身体は忘れてはいなかった。


 そして冷えた頭で、『骸』の技を再確認する。手から消えたと同時に現れる剣、瞬間移動とでも言うべき早業。恐らくはなんらかの空間系魔法だろうが、完全には判断しきれなかった。そして、分からないものほど危険なものはない。


「無事か」ロビラが言った。

「無論だ。剣の出現には一瞬のゆらぎがある」 


 言うが早いか、再び現われた短剣をリアトは掴み取った。彼女は『骸』の呼吸を読み、完璧に制したのである。これによって短剣がほんの一瞬だけ動きを止め、隙を突いて、ロビラが∫土弾を『骸』へと放った。


 短剣は未だリアトの掌中にある。大量の法弾が男に直撃して、周囲の建物もろとも彼を混乱へと呑みほした。混凝土の白煙と粉塵が視界を覆うほどに広がり、その瞬間にリアトの手から、剣が吸い込まれるようにして消える。


「当たったか」ロビラが漏らす。

「当たったのは確かだ。これで死なない程度に死んでくれるとありがたい。剣が消えたところから見るに『骸』は無事だろうが、手傷は負っただろう」


 女がその鋭い眼差しを煙の奥へと向けた矢先に伸びるは短剣。予想通りに『骸』は健在だった。轟音と土煙の後にロビラの肩口が切り裂かれ、敵と変幻自在の剣が衰えていないことをリアトは知った。


 すぐさま崩れた壁の向こうから男が走り出る。


 その指先が紫に光って、リアトの頰のすぐそばで、一本の法線が壁へと突き刺さった。驚くべきことに、灰色の壁は貫かれるのではなく激しく弾け飛んだ。男は一瞬で数十本もの魔法射撃を放ったのだ。すかさずリアトはロビラとともに伏せた。あの魔法攻撃の一発一発が即死級の威力を備えている。


「突破口はあるのか」ロビラが言う。


 思考を邪魔するようにまたも現れるバルニュスは頭上。今度もリアトは余裕で弾き上げたが、弾かれたバルニュスはまたも闇に溶けて、次の瞬間には『骸』の手の中にある。そしてさらに∫闇射が放たれた。それは無詠唱とは思えない威力で壁に拳大の穴をあけていく。余波を紙一重で流してからリアトが言った。


「滅多にいない手練れだ。手立てがないわけではないが靈力消費が大きくなるし完全に成功させるためには奴の情報がもっと必要だ。そもそもあれが『骸』であるかどうかも分からん。囮の線もまだ捨てられない」

「何を今さらなことを。魔法を見れば分かる、短期決着を狙っていない」


 ロビラが鼻で笑った。限定魔術士は魔法士とは比べ物にならない程に少ない呪力で魔法を引き出せる為に、その膨大な魔力と相まって、その力は尽きない。ゆえに、生半可な攻撃や遠距離での撃ち合いでは決着がつかない。


「さっさと殺るぞ、リアト殿」

「魔法戦闘は情報戦だと習ったが」リアトが言う。

「うむ、それは弱者の理論だよ」そう言うと彼は物陰から飛び出した。


 ロビラは素早く両手を打ち合わせると土属空の球を大量に出現させる。驚くべきことにその数は二十を超えてもなお増え続けている。魔法で言うところの∫土弾《エダフォス/スヘェラ》の応用であった。男がひたりと揃えた両手の指先を前方の『骸』へと向けると、魔球は標的目掛けて勢いよく飛んだ。


 それと同時にリアトが動く。


 ――《二速》――


 無数の土弾の真後ろに隠れるようにして走る女は、肉眼では捉えられないはず。事実、『骸』は迫りくる魔弾にもリアトにも何の反応も示さなかった。余裕綽々で油断している手合いの命を奪うのは至極容易い。彼女はそう判断すると、ぎりぎりまで接近して『骸』を剣技圏内に捉える。あとは頸を斬り裂くだけ。


 されども、ちらりと視えた男の表情は冷たい無表情ではなく、心底からぞっとするほどに粘ついた笑みであった。その瞬間に、完全な攻撃態勢に入っていた身体を悪寒が奔りぬけて、彼女は無意識的に制動動作を取った。


「ッ――!!」

「見事」目の前の男が言った。


 即座にリアトは《瞬避》での回避行動をとったが、それが正解だったことはすぐに明らかになった。『骸』の身体に近付いたロビラの魔球が見る見るうちに男の左手に吸い込まれたのだ。その左手には黒い靄が纏わりついている。

 

 見たことは無いが闇属魔術の一つだろうとリアトは警戒を強めて、二歩ばかしで後方へと飛びすさった。そこには既にロビラが待っていた。


「あれも魔術か?」リアトが問う。

「恐らく。リアト殿の闘鎧は破れないだろうが、動きを制限されることは間違いない。あるいは奴の短剣術から見るに空間転移の罠かもしれん。だとすれば、術式補正で成り立つような固有魔術の類だろうが、正直よく分からん」

「そうか、時間稼ぎなら潰さなければならんな」


 『骸』の左手に出現した黒雲はみるみるうちに広がり、周囲を飲み込んでいく。リアトは闘気を放って煙の如き雲を跳ね除けるが、如何せん量が多かった。辺りを素早く見回して、黒雲に触れた草木に異常がないのを見て取ると、彼女は闘気を纏いながら『骸』の作った黒雲の中へと飛び込んだ。


 絡みつくような不快な闇が口に入り込んで呼吸を止めようとするも、体内からほとばしる輝く靈気がそれを許さない。黒煙はリアトに近付くも、その皮膚には触れることすら出来ないようであった。


 女は闘気をさらに薄く展開することで周囲の様子を探る。この中ではそれすらままならないが、魔術の薄い部分を上手に通せば、位置関係を把握することができるだろうとリアトは思ったのである。知りたいのは『骸』の位置。


「リアト殿、無事か」ロビラの声がする

「喋るな土の手!気にせずに吹き飛ばせ!!」


 叫びに応えるように、背後から大量の土弾が飛んだ。その土はロビラが実体を操作した物であり、魔法で作られた空体ではない。リアトは魔法を避けながら土の行く先を見定める。すると、右手方向の土が吸われるように消えた。


 リアトはすぐさま奥義《貫》を用いて闇を一直線に払うと、そのまま探気で空間中の靈力濃度を探った。左に極めて薄い靈力。到底生きた人間とは思えないそれがあった。ようやく見つけた。そう思いなすよりも早く、リアトは超高速度の《四速》で接近してそれを滑らかに斬り飛ばしている。だがまったく手ごたえが無いまま女の剣は空を切るに終わり、眼前の闇は空しく霧散しただけであった。


 そこに残るのはただの空っぽの空間のみ。

 困惑するリアトの背後から再び短剣が伸びた。


 《四速》によりその速度は極めて遅く感じられるから、かなりの余裕でもって避けられる。女は同時に男も捕えるつもりであったが、しかしまたもリアトは空を掴む。男の腕が、朝霧が掻き消える様に、さっと消えてしまったのだ。


 女にはその技の心当りがあった。

 すぐさまリアトは飛びすさり、ロビラの元へ戻る。


「あれは、《空化》使いだ」リアトが言った。

「予想はしていたが厄介な相手だな」ロビラが答えた。


 深淵魔術《空化》とは秘匿禁術の一つである。それは数多くいる魔法士や魔術士の中でも、本当に限られたものしか使えぬ秘技であり、あらゆる物理的、実体的攻撃を軒並み無効化してしまう。物理攻撃主体の剣術士には対処法がない。


 とはいえ、リアトのような特級剣術士にとっては厄介程度の技にすぎなかった。《空化》を破る手段はいくつか存在しているのだ。リアトが口の端を歪める。


「攻略できるか?」ロビラが言った。

「任せろ」女が言った。

「私が足止めする。消し飛ばすと良い」


 したり顔でロビラが言った。それを聞いてリアトは顔を顰める。まったく敵がそれ程の相手ならばこちらもそれなりの力を使わねばならないではないか。リアトは煙の内へと飛び込むと、体内で練った靈力を、下腹部から溢れる力の空想を、しなやかに指先まで奔らせた。てのひらから呪界へと、勢いよく放つように。


 その瞬間、莫大な靈気が女から放たれた。ばちりばちりと輝く、靈力の奔流が周囲一帯を呑みつくすと、一瞬で濃色の闇が掻き消えた。技の名は《闘気砲》、チュニスの闘術士が生み出した、その安直な名前とは裏腹に強力な闘気体技である。露わになった『骸』の躰は、しかしそれでも、衣の如き煙に包まれていた。


 リアトは間髪入れずに男を仕留めようとする。

 が、その足は少し動いて止まった。


「ロビラ?」彼女が問う。


 彼女の優れた感知能力は、この場の違和感を訴えていた。戦場から一人の気配が消えて、別の人物の気配が増えている。それもついさっき感知したばかりの気配だった。消えているのはロビラ=ケティス。


 そして、


「彼ならここだよ」


 若い男の声がした。振り返れば地面に倒れ伏していたロビラ。その傍には若い男。あの、アルト=デルフォイが立っている。闇の煙に紛れて『骸』がロビラの封撃を破ったのだろう。あるいはそれが目的だったのかもしれない。


 青年の細い手には一本の鋭利なバルニュスが握られていた。それを見て『骸』が柔らかに笑う。男の歳はそのしわがれ声から察するに老年であると思われた。『骸』とは、もう五十か六十に近い老人なのだ。


「貴様が『骸』か。目的を言え」リアトが問う。

「アルトを連れ戻しに来ただけだ」『骸』が笑った。

「それは奇遇なことだ。実は私もイルファンという弟子を連れ戻しに来たのだ。それもお前の手からな」そう言ってリアトは剣を構え直した。

「ほう。イルファン、あれは何だね?」男が言う。

「二度言わせるな。私の弟子だ」女の声に弱さはない。

「あれがただの子どもであるものか」

「子どもだ」

「お前が本気でそれを信じているというのなら、哀れなことだな」


 呆れたように頭を振ると、『骸』のシドニィは息を吐いた。男を取り巻く黒煙が所在なさげに揺れ動く。女は苛立ちながらさらに語気を荒くして言った。


「だとしてもイルファンはお前達の手には負えない。さっさと私の元へ返せ。何処の手合いかは知らんが、これ以上話をややこしくするつもりならば殺す」

「まぁ待つのだ『捨剣』」シドニィが言う。

「待つ理由もないのにか」リアトが言った。

「いやほら、彼女ならすぐに君に返すさ」アルトが言った。

「黙れ殺すぞ」

「話も聞いてくれないのか?」


 アルトが柔らかな口調で返したが、リアトは当然のことながら聞く耳を持たなかった。こいつらは碌な事を企んでいないと、彼女は思っていたからだ。それに何を企んでいるにせよ、イルファンを扱えるはずがなかった。暴走させて九年前の二の舞になるのが落ちだろう。リアトは半ば怒りながら言った。


「信用ならんからだ、アルト=デルフォイ。目的は『ヴォファンの遺物』だと言ったな。だがそれは、イルファンについて何も知らぬ輩の物言いだ。事情を知る者ならば到底そんなことは言えない。貴様らの計画とやらも失敗するだろう」

「そりゃ大変」アルトがわざとらしく驚いてみせた。

「死にたいなら一人で死ね」女が吐き捨てた。


 こいつには緊張感が微塵もない。どこかおかしいとリアトは直感的に理解した。まるで人間として必要なものがまるきり欠けているような違和感だった。そんな警戒心を知ってか知らずか、アルト=デルフォイがのんびりとした口調で言う。


「そりゃ俺達は何も知らない。でも俺達を動かしてる奴が何も知らないってことにはならないでしょ。計画とかはよく分かんないけど、短絡的に結論を出すのはよくないと思うし、計画どおりなのかもよ?」


 だとしても、剣王レアーツ=ルーミンがあの言葉を口にするはずはない。勿論レアーツが、リアトがそう考えることを見越してそう言った可能性もあるが、それすら罠だったときは大人しく思考を放棄するしかない。考えることなど剣の場では不要なのである。覚悟を決めた女を見て、シドニィが楽しげに言った。


「よし。アルト、捨剣を捕えるぞ」

「分かってる」アルトが陽気に答えた。

「甘く見たことを後悔するだろう」リアトが言う。

「へぇ」


 青年は足下に横たわっている壮年の魔法士へと視線を落とした。完全に気を失っているらしきロビラの命はアルト=デルフォイに握られている。バルニュスの先がするりと男の首へとあてがわれ、青年が笑いながら言った。


「その時は土の手を殺す」

「私より速く動けないくせによくほざく」


 リアトは彼の言葉を、鼻で嗤って返す。


「じゃあさっきみたいに使ってみせてよ、『速気』」

「……ふむ。いいだろう」リアトが目を細める。

「次はちゃんと避けるからさ」


 のうのうと言ってのけたアルト=デルフォイが、心底から面白いと言わんばかりに口角を上げた。これは剣術士特有の第十界を意識した言葉の撃ち合いだ。ここで言い負かされてしまえば事象の傾きは覆せない。


 だから、なんとか今の内に勝利の流れを作ってしまわねばならない。リアトは藍色のバルニュスを右手に持ったままで、靈力をさらに外側へと展開した。


「できるものなら」


 そうしてから世界中に宣告する。


「やってみろ」


 瞬間的に消えるリアト。はシドニィの前方に、まずか半剣長の距離に現れて剣を振るう。無論『骸』のシドニィはそれを知覚すら出来ていなかった。古代バルニアの歴史書『レイマンドの譜』にもある通り、近距離戦での剣術士は圧倒的に強い。何故ならば彼らは、魔法士の認識外を走っていくからである。


 見えていない。

 骸には見えていない。


 藍神鋼の剣先がシドニィの首を切り裂いた。

 だが血の代わりに迸ったのは少量の黒煙だった。


「チ」咄嗟に女は舌打ちした。


 やはり生半可な『空化』ではない。どうやら魔法は常に発動しているらしく、リアトは剣に込める闘気を《純化》させた。これによって耐魔導性が向上する。これは文化膜の外側を疑似的に再現することであらゆる魔法防御を無視する奥義。空化使用者にも問題なく通用するいくつかの技の一つが、これだった。


 そのため返しの剣撃は、シドニィの首筋を疑いなく切り裂いていた。迸る黒は赤黒い血の色。とどめを刺す為にもう一度バルニュスを浅く振りかぶり、


 そして、


 ――「そうでもないね」と男の声がした。


 リアトの一撃は逸れる。


 眼前にいた『骸』のシドニィが、勢いよく後ろに吹き飛んでいた。背後からはアルト=デルフォイの伸びた右脚。驚くべきことに、彼のしなやかな蹴撃がシドニィを射程外へと、強制的に逃れさせたのだ。


 だがリアトよりも先に『骸』を蹴り飛ばすということは、この瞬避速度に反応しているということ。それはつまり、生半可な腕前では到達不可能な領域だ。


「面白い。その若さでいい瞬避だな」女が言う。

「あんたが歳を食っただけじゃないの」

「それだけではない。絡繰があるな」


 と、女は藍剣をひょうっと振り抜いた。


 あまりの速度に空気すらも避けることができないほどの剣速だったが、その鋭剣は見事に躱されてしまっていた。斬ったのは薄皮だけ。これでは血も出まい。反対に、交差して伸びるアルトの拳がリアトの腹を打った。無理な体勢からの拳撃ゆえに傷は無い。だが彼は圧縮された時の中でリアトに向かって笑った。


「一回目。はい死んだね」


 呪界を用いた思念による会話が脳内に流れ込んでくるのをリアトは感じた。この男は予想以上に強い。先程の男と同じとは思えない変貌ぶりである。なるほどこいつの言う通り、今の瞬間に自分は斬られていただろうとリアトは思った。だが女も呪界を通して負け惜しみを語った。


「貴様が剣を抜いていればな」

「まぁそうだね」アルトが不満げに言う。


 その言葉に合わせて、女が《四速》を発動する。この男ならそれを見切る可能性はある。されど。リアトが消えたと同時に、男の喉元に剣が迫る。と同時に頭のなかに青年の飄々とした声が流れ込んだ。十界法則の流れを捕えるための一手。


「でも、剣を抜いてもあんたに俺は殺せない」


 その通りだった。リアト渾身の《四速瞬避》は見事に紙一重で躱されており、アルトの首の薄皮一枚を、ほんのわずかに切り裂いたのみである。先程と同じく、青年は狙ってこの現象を起こしているのだ。


「どういう手品を使っている?」リアトが問うた。

「あんたと同じ」アルトは笑みを以って答える。


 自分と同じ『速気』使い。その言葉が一瞬だけ頭の中を過ぎるが、すぐにリアトはそれを否定した。それにしては明らかに遅すぎる。むしろ今のは女自身の《四速瞬避》に合わせたかのような動きだった。


「なるほど特質か」

「だとすれば?」アルトが言った。


 本気で戦うが殺さない、まるで演武を実践しているかのような違和感。ひょっとすると、こいつは『骸』以上に厄介な相手かもしれなかった。確実に勝つためには、まず、彼の持つ特質を明らかにする必要がある。 その為には、こいつの化けの皮がはがれるまで斬って斬って斬りまくらなければならない。


「あぁ死ね」リアトが無言で語った。


 その言葉は空気をわずかも揺らさなかったが、最も鮮明にアルトに届いた。青年の口の端がぐぐっと持ち上がり、狂人の如き笑みを形作る。その凄まじい戦狂いくさぐるいを前にしても、リアトは全身に沸き立つ靈力を危なげなく制御した。


 その力の全てを肚の中心に集めて。女はまたしても消える。その口の端が歪む。歪んで蕩ける。鋼もだ。鋼の刃さえもひとつの生き物であるかのように火花のなかに溶けていく。ひとつの運動としてリアトとアルトは結ばれはじめていた。


 その隙間には幾千もの斬跡。

 それらの剣撃は一つ一つが死を携えている。


 狙う女の剣は頸部と見せかけて、左足だった。リアトは《四速》から瞬間的に《五速》へと切り替える。今の彼女が出せる事実上の最高速――というよりも、これが人の実界速度の限界であった。アルトが五速に対応出来ないのは分かっていた。神業とも言える全身の連動と力の伝達が可能にする技の極地。アルトが知らなかったその速度は、少なくとも一度は彼を捉えた剣技で、つまりは有効だった。


 リアトは動きの霞むような高速度の中に、さらに海刃流歩法《流舞るぶ》を加える。女の全身、特にその腰が波打つように動くことで上体がぶれた。まともな戦錬士ならばこの動きには対応できない。今のリアトは《瞬避しゅんぴ》も同時に用いていた。二つの流派の歩法を組み合わせた技である、その変則的な軌道は、同じ真交流の剣術士であっても読むことが難しいというものであった。


 真交歩法《失奴しつど》。


 その奇妙な歩法で回り込むと同時に、リアトは男の左足を斬った。いや斬ろうとしたが、リアトは剣をぎりぎりで滑らせて攻撃の手をぎっと止めている。何故か。上方からアルトのバルニュスが迫っていたからである。青年は身を大きく後ろに反らして、背後のリアトを刺そうとしていたのであった。


 見切られている。即座に、獣のような身軽さでリアトは後ろへ跳び退った。呼吸の乱れはない。ないが《五速》でも二度目はないことが分かった。これは一撃で勝負を決めるべき手合いだったのだ、と彼女は理解した。


「へぇ。皇都の連中とは格が違うね」アルトが言う。

「褒め言葉と受け取っておこう。お前も二つ名を持たないにしてはなかなかの剣術士だ。世が世なら、私よりも名声を得ていただろう」リアトが答えた。


 アルト=デルフォイは反り返った上半身をそのまま更に深く反らせていく。ぐるり、と反転した青年の顔がにたにたと笑っているのが見えた。まともなものには見切れない技か。確かにそんなものが効くはずはない。だって彼はまともな戦錬士ではないではないかと、ようやくリアトは気付いた。


 アルトが嬉しそうに唇を歪めながら、微笑む。


「名声なんかいらないけど、自分より弱い奴に褒められたのは初めてだ」


 その暇はない、と分かっていたが考えずにはいられない。今の自分には特級と呼べる程の強さは、もはやないかもしれない。だがそれでも、並の剣士に劣るような速度では無い。アルトが持つ力の正体は、少しずつ形になっていた。そして、この男の力が予想通りのものだとすれば、倒す機会はそう多くないと分かった。


「特質頼みの剣術士は長生きできんぞ」リアトは淡々と言った。

「それも俺の台詞でしょ。もうあんたの動きは見えてんだから。まぁ楽しませてはもらうけどさ。この先、これ以上があるとは正直思えないって感じかな」


 ぎらぎらと輝くリアトの眼と、アルトの虚ろな笑みがぶつかる。まるで獣と道化師だ。彼らが命を交わせば、剣戟の音が舞台上にはげしく鳴り響く。思惑を抱えたままで剣が打ち鳴らされ、その瞬間だけは、その中に一切の偽りも呪いも介在しなかった。女の剣を一度、二度、三度、青年がひらりと躱した。


「やはり器用だな」リアトが言った。

「今のも俺の勝ち」青年が言う。


 五度目の回避だった。


 紙一重でリアトの剣を躱した青年はいまや剣を背にしまっていた。それを見た女が、じっと睨みつける。その眼光には狂気のようなものさえ感じられる。


「『速気』の動きを見切ったか」リアトが言う。

「蠅のように遅く見えるくらいだから、ひょっとしたら見切っちゃったのかもしれないね。気付くこともできないって聞いてたけど、そうでもなかったね」


 たしかに、技はすでに見切られていた。

 それゆえにもはやアルトは躱さない。


 リアトの剣を流し、捌き、弾き、そして彼女の体勢を崩す。流れるような掌打。淀みのないそれがリアトの胸部に寸分の狂いなくねじこまれていく。その一撃では勝負は決まらないが、剣が掠りもしないリアトと攻撃を当てているアルトでは、天秤がどちらに傾くかは自ずと知れたようなものであった。


 リアトは思う。

 最少動作の最大効果。この青年の剣はそれだ、と。


 女が『捨剣』と呼ばれる所以。真交流最高の技にして天技と呼ばれる《捨剣》、その術理も最少動作の最大効果であった。己の力を奮って剣を振るのでなく相手の振る力を貰って返してしまう。自身の動きは、重心移動と、無意識下での靈気操作のみ。それこそが真交流を、対人最強の剣と呼び称すものとしているのだ。


 そしてこの男、アルト=デルフォイはそれら全てを無意識に行なっていた。超人的。まさに神業。特級剣士の誉れすら足りない才能であろう。


 だが、それだけではリアトに勝つことは出来ない。単純な理由であるが、リアトは速すぎて捉えられないのだ。どんなに『貰って返す』ことに長けていても、見えなければ意味がない。貰った事が分からねば返すことなど出来るはずもない。


 ゆえにリアトは強かった。あらゆる天才と呼ばれた剣士は彼女に敗れた。縦横無尽にして認識の外を奔るその剣が見えないのだ。その動きが見えないのだ。アルト=デルフォイには見えているそれが。見る力。深く見る力だ。


 ならば自分はそれを知っている。

 この男の技を知っている。

 そのものではないが、よく似ていた。

 アルトの剣は『彼』に似ていたのだ。


 女はそう思って密かにほほ笑んだ。それは遠い記憶が彼女に与える笑みであり、同時に胸の奥にしこりのように残る悲しみを打ち消すための笑みだった。リアトの脳中に少年の向日葵のような笑顔が浮かび、そしてその死に顔がよぎったのだ。笑みに気付いてか気付かずか、またもアルトが軽口を叩く。


「そろそろ限界じゃないの?」

「戯言は時間の無駄だ」リアトが鼻で笑う。

「次くらいは当ててみなよ」


 それはもはや軽口ではない。これこそ勝者の余裕、強い者が暇つぶしに発する言葉だ。このまま時間をかけたところで、術理を体現するような相手に勝てるはずもない。女の口の端から血が垂れたのは内臓を酷く傷つけたためのようだった。


 だがしかし、リアトの瞳は落ち着いていた。女は逃げるために体勢を整えるでも、命乞いをするでもなく、ひどくゆっくりと言葉を返した。


「安心しろ。次で殺す」


 そんな女の、負け惜しみにも思える言葉にけらけらとアルトは笑った。ご丁寧に腹を抱えて、心底から楽しそうに大声であざ笑った。彼はリアトの強さなど、ほんのこれっぽっちも信じてはいないように見えた。


「いいなぁうん。俺を殺せるわけないのに」


 楽しそうに青年がそう言った次の瞬間だった。


 リアトの殺気が信じられぬほどに膨れ上がって、

 アルト=デルフォイは生まれて初めて――恐怖した。


 そうして男の視界からリアトが消える。

 あるいはすでに消えていた。


 いや世界から消えることなど出来るはずがない。だというのに女は消えた。距離そのものを斬ったかのように。そこにはいない女の、苦々しい声が響いた。


 ――すぐ傍で、響いた 「これが次だ」


 まず初めに痛みが現われた。唐突で強烈な痛みと衝撃が青年を襲った。


 アルト=デルフォイは驚愕とともに自身の腹部を見るが、そこには深々と刺さったバルニュスがあるのみ。それを見て彼はようやく理解した。この一撃は絶対に、視えなかった。それすなわち、初見ということ。辺りを見回せば、無手のリアトはアルトの少し後ろに立って、余裕をもって彼を睨み付けていた。


「もしかして、今のが本気だった?」青年が呟いた。

「油断するまで隠しておくのは面倒だった。そんな力を持っているお前には、ただの一度たりとて見せられなかったからな」

「まさか」アルトが初めて狼狽を見せた。

「型を覚えるのが得意なんだろう?」


 アルトの剣はどこを切り取っても、リアトの古い友人の動きにそっくりだった。もう死んだ彼の剣を学び取れるはずがない。そういう特質でもなければ。


「『覚気』使い、それも覚視だな」女が言った。

「なんだばれてたのか」青年が言った。

「確信を持ったのは今さっきだが、お前の扱う力自体は早々に察しがついた。どんな奴が相手でも、油断させるに越したことはない。大抵の場合はな」


 『覚視』。一度見た技ならば必ず捉えられるという類稀なる闘気特質。アルトの力はそれである。だからリアトは未見の切り札を用いたのだった。古今熱冷の剣術士と闘ってきたリアトでさえも、その能力を有する剣術士は今までに二人しか見たことがなかった。アルトの表情を見て、女が呟いた。


「まったく厄介な特質を持ったものだな」

「眼ってのも気づいてたとはね」アルトが笑う。

「お前の視線を見ればわかる。《速気》を盗み取ろうと私の攻撃を誘い続けていたのだろう。おかげで私は確実に、お前を仕留められる瞬間まで特質を使うことができなかった。その意味では、なかなか嫌な相手だった」


 言葉どおり、リアトはこの戦いで闘気特質など一欠片も使っていなかった。ずっと見せ続けていたのは、ただの闘気と歩法による高速移動に過ぎない。あれは本物の『速気』ではなく単なる体技だった。


 本当に、ただの《瞬避》に過ぎなかったのだ。それで『速気』と見紛うだけの速度を出す女が、闘気特質を使えば一体どうなるだろうか。


 こうなるのだ。

 誇張ではなくて本当に消えるのだ。


 青年は腹部から発せられる痛みをじっくりと、噛みしめるように味わいながら微笑んだ。アルト自身も驚くことに、彼は心中で女に舌を巻いていた。


「それに、生憎だが、眼を持ってる奴と戦うのは初めてではない。お前には悪いが、この手が効くのは実証済みだ。お前がその『特質』を見抜かれたその時点で勝ちの目はなかった。まぁ相手が悪かったな」リアトが笑う。

「『覚視』を油断させるとは狡猾だね」

「それが、長生きの良いところだ。緩急の技術だって一朝一夕には使えない」


 認識はすべての眼を曇らせる。だからあの一瞬だけは、リアトは本当に消えてしまったかのように見えたのだ。本当に。手の届かない速度。恐怖。驚愕。


 青年にとってそれほど喜ばしいものはなかった。


「速くて、重くて、鋭くて、良い剣だった」アルトが言う。

「お前の剣も悪くはなかった」女が言った。

「まさか。誰かさんと比べられるのは嫌いだ」

「ばれたか。それはすまない」


 それから青年がゆっくりと崩れ落ちて、リアトは彼の頸を掻き切ろうと剣を向けたが、その手は少しの逡巡の後で止まった。いやわざわざ殺す必要はない。彼はどうせじきに死ぬ身体だった。リアトの剣はそれほどまでに研ぎ澄まされており、ただの一撃が致命傷になってしまっていた。


 彼女はそう思ってバルニュスを降ろす。


 だがまだ戦いは終わってはいなかった。女の選択は誤りだったのだ。降ろすべきではない手。それを女は降ろしてしまう。これがリアトの敗北だったが、敗北を避けられぬほどに、辺りは静まりかえっていた。


「なんと生温い」


 唐突に男の声が響く――『骸』。


 即座にリアトはその場を退こうとするがそれは失敗した。既に四剣長ほどの距離から呪導が伸びており、それが彼女を何重にも巻き取っていたからだ。闇属魔法の帯∫闇縛《スクーロ/フェレヌス》は極めて薄く構成されており半透過状態に近いものであったために、眼をもってしてもほとんど見えなかった。


 『骸』のシドニィが身動きの取れない女に言う。


「勝鬨に王剣がかかげられれば平民の剣は地に落ち、剣士の剣は胸元に添い、そして傭兵の剣は振るわれる。レイマンド戦法篇にある言葉だ。特級剣術士ともあろうお前が、師に教わらなかったのかね?」


 思わずリアトは言葉にならない悪態を吐いたが、その声は何かを抑えるかのように上ずっている。シドニィはそれを訝しみながらも得意げに言った。


「なんと呆気ないことだろうかな。あの伝説の剣術士が下賎な隠秘士ごときに捕らえられてしまうとは。だがしかし、お前は驚いているのではないか。なぜ、なぜ自分がこんな非力な魔法士に敗北してしまったのかと」


 シドニィは芝居がかった素振りで笑った。


「確かに不思議なことはある」リアトが言う。

「では、種明かしをしよう。

 同じだ。お前がアルトを惑わせたように俺もお前を惑わせたのだ」

「何が言いたい?」リアトが呻く。

「無意識下で俺の靈力や魔力を警戒していただろう」


 リアトはすぐに彼の意図するところを理解した。いくら戦闘後で気を抜いていたとしても、戦錬士が近付けば気付くはずである。ここまで接近されて、第七繋者たるリアトが気付かないはずがない。だというのにリアトは彼が言葉を発するまでその接近に全く気付くことが出来なかった。それはなぜか。


 『骸』は微弱な靈力を発しているという思い込みを持っていたからだ。彼は黒煙の中では靈力を放っていた。リアトはそれを手掛かりにしていたのだ。だが思い出しても見れば、『骸』が最初に現れた時にはその靈力は皆無だった。『自身の靈力を断ち、死人として動ける者』。リアトは伝説を失念していたのだ。


「あの手が、罠だったか」リアトが言った。

「優れた剣術士ほど騙されやすい」シドニィが答える。

「こうまでして私を捕える目的はなんだ」

「うむ。まずは八年前のことについて色々と聞かせてもらおう」

「尋問ならば急いだほうがいい。今の私はお前の期待には沿えないかもしれない」


 リアトが妙に喘ぎながら言った。


「強がりを言っていられるのもいつまでだろうかな」

「強がりではない。親切心だ」

「ではお言葉に甘えて苦しめてみようか」

「やれ。だがもう、私は、手遅れのようだが、」リアトが息も絶え絶えに言う。

「何のつもりかは知らんが、口だけは開いてもらうぞ」シドニィが言った。


 リアトは諦めたようにうなだれてしまって、もはや何も話さない。シドニィが指先をちょいと振ると、めきめきと嫌な音を立ててリアトの腕の骨が折れた。それは魔法帯による強烈な締め上げ、つまりは、よく使われる拷問の手口だった。これでなにか話すだろうと『骸』が思ったその時、リアトが可憐な声で言った。


「――たすけて」それはまるで少女のように。

「なにを言っている!?」


 シドニィは鳥肌が立つのを感じた。


 リアトから発されたその声はまるで幼い子ども。

 女は幼児退行を起こしたかのように命乞いをした。


「何のつもりだ」

「たすけて、誰か! 誰か、たすけて!」


 『骸』は困惑した。この女、気でも狂ったのか。捕われた痛みで正気が飛んだのか。いやそうとは思えない。あの英雄詩歌にも謳われた戦錬士、『捨剣』のリアトがこの程度の技に屈するはずがないのである。


 ゆえにシドニィは締め上げる。喉元、頸動脈を圧迫する。女の顔が苦しみに歪んでいく。されど抵抗らしき抵抗は何もなされない。『骸』は慄いた。


「下らん真似はやめろ。少女のような声を出せば解放すると思ったわけではあるまい。命まで奪うつもりは俺にはない。ただ黙って従えば良いのだぞ」

「……やめて、やめてほしいだけ」リアトはまたも言う。


 異常。


「お前、そうか。これは後遺症か」


 シドニィの背筋に悪寒が走る。正気ではない。

 この段になってやっと彼は気付いた。特質後遺症だ。


 《速気》の後遺症による、性格の著しい変化。捨剣のリアトがぎりぎりまで特質を使わなかったのはアルトを騙す為だけではない。むしろ、この状態に陥るのを恐れて彼女は使わなかったのだと、ようやく分かった。


 だがリアトに後遺症があるなどという話は聞いたことがなかった。仮にあったとしたら、乾湿戦争など戦えたはずがなかった。闘えたとしても戦後は廃人となり、ぼろ屑のようになるだろう。実際、シドニィはそんな戦錬士を数多く見ていた。女は、がたがたと痙攣を起こしながら拘束を逃れようともがく。


「とうの昔から狂っていたわけではなかろうが」

「あ」リアトが呻く。

「脳に過剰靈気が流れているのか、長くは持たんかもしれん」

「たすけて、ラクト、ヴぉふぁん、みゅとす、あにうえ、くルど」

「混濁が始まった。加減が難しくなるな」男が呟く。


 このような戦錬士は哀れな存在ではあるが、この駒はここで抑えておかねばならない。シドニィは意識を集中させ、リアトを縛る空体に魔力を注いだ。


 圧死寸前までに追い込んで、闇属魔法で彼女を送り飛ばすのだ。女の身体が徐々に闇に覆われ、高度な術式技術によって呪体へと変化していく。これは術式陣をほとんど用いずに生み出した闇属魔法の『門』を通すための処置である。これこそシドニィが最も得意とする魔術、『呪穴転移術』であった。


「さらばだ、捨剣」シドニィは言う。

「やめて、ころさないで」

「もちろん。死なずに辿り着くことを祈っているとも」


 穴の先は中継術式へと繋がっている。そしてその先には。これで計画を実行する為のお膳立ては整い、後は少女がくだんの術式を発動させるだけだった。熱部デルフォイが思い通りに動いてくれればおしまいの、楽な仕事だった。


「では。また会おう」シドニィが言った。


 だがしかし、その刹那。


 煙が女を覆い、身体を消し去ろうとした一瞬に、リアトの姿が消えた。穴の先に消えたのではない。煙の中から脱したのだと気付いて、シドニィは舌打をした。リアトが一人で脱するはずはない。あの状態で拘束から抜け出せはしなかった。ならば誰かの邪魔が入ったのだ。時間をかけすぎたのだ。


「邪魔立てとは流れを無視する奴め!」男が叫ぶ。


 すぐさま闖入者を探すと、薄れゆく黒煙の向こうに人影が二つ見えた。


 一つは崩れ落ちた女。

 だが、もう一つは。


「残念。この流れは俺のためにあるのだ」声が響いた。

「まさかお前か……」『骸』が呆然と呟く。

「久しき再会だな」低い声だった。


 『骸』は、その立ち姿をよく知っていた。煙の向こうで立ち昇る殺気を感じて無意識的に全身が震える。シドニィは絶句しながらも最大防御態勢を整えた。幾数もの防御魔法を展開し、更にその上から魔術による障壁を重ねがけしていく。


 しかしそれが何の役にも立たないだろうことを『骸』は頭の片隅で理解していたから、人影のひと振りで身を護る黒煙が瞬く間に霧散したのは当然だった。


「紋章板による誓約を如何にして破った」男が言った。

「言うと思うか」シドニィは答えた。

「なに、それを言わせるのだよ、俺が」


 ようやく『男』の顔が見えた。まだほんの少しだけ若々しさを残した顔は浅黒く、そして彫りが深い。まるで古代の戦士像のように締まった表情であった。男の短い髪は夜のように深い藍色に沈んでいる。


 シドニィは劣勢を悟り、あるいは圧倒的な威圧を身に受けて奥歯を噛み締めた。男がさらに一歩踏み込んだ。その重みだけでシドニィは敗北を確信する。


 ――彼こそが今代の『剣王』、

 レアーツ=ルーミンであったからだ。


「宣告だ。貴様の死は俺がもたらす」男が言う。

「ぬぅ」言葉が圧し掛かり、シドニィは呻いた。

「この『延手剣王』レアーツがな」


 はっ、と男が右手を広げたその瞬間に靈界から力が引き出される。強大無比なその力はまるで嵐。彼の右手を取り巻くように輝く靈気が渦を巻く。


 甲高い、耳を劈くような音と共にレアーツの右手に一振りの長剣が現れた。細かな装飾など一切されていない純白無垢の聖剣を目にして、『骸』のシドニィは初見の形であるにも拘らず、即座に理解した。


「《天剣ハオン=レデュラス》」


 それこそ、剣王が代々受け継ぐ生きた剣。天鋼リハントラウスを術式鍛造して造った代物である。その破壊は事実上不可能。第八界『名界』に於いて定められた古い定義による損壊不能の鋼が、リハントラウスであるからだ。


「出でよ、結ばれし天子の剣」


 レアーツがその剣を空間から引き抜いた、

 と同時にシドニィは闇を顕現する。


 その深い闇は単なる逃げの一手だった。シドニィはここから離れるためだけに、瞬時に穴を繋いだのである。だが開いたと同時に穴は消滅した。見てみれば左手の闇雲が真二つに分かれていた。剣王レアーツが瞬時に遠距離切断したのだ。


「疾く死ね」嘲笑うような声色だった。

「邪魔をするな」シドニィが言った。

「汚い口をつぐめ。まずいいか。邪魔をしたのは貴様だ。俺が考えていた物語を荒したのが貴様ら、裏王剣だ。もっとも裏王剣の『骸』というにはいささか、中身が不足のようにも思われるがね」レアーツはかすかに笑った。


「レアーツ……」男が言った。


 シドニィは死ぬわけにはいかなかった。しかし無策で逃げようとしてもそれは不可能。剣王レアーツ=ルーミンは容易に逃がしてはくれまい。そもそも、アルトの仲間が足止めしていたはずであったというのに、この男は何故ここへ。演算するようにシドニィは思考し、模倣するように言葉を脳に浮かべた。


「俺が来たのがそんなに驚きか。何のことはない。耳だ」


 剣王の傍付きだったアルトが、最も気にしていたのが剣王レアーツの動向である。この男に介入されれば計画は破綻すると青年は言い、それ故にシドニィらは何重もの策を講じた。高弟や情報屋を引き込んでみたり、逆に剣王とリアトを仲違いさせようとしたり。考えられるかぎりの手を時間稼ぎとして用いた。


 だが、彼がここに居るところから考えて、すべて失敗したのだ。剣王のお膝元であるエルトリアムで事を起こすのだから気付かれないわけはない。この都を守る剣気は彼の物なのだから、いずれは探知されると踏んでいた。しかしシドニィが戦闘を始めてまだ数分しか経っていない。いくら何でも早すぎる登場だと言わざるを得なかった。その疑問を払拭する為に男は遠慮がちに尋ねた。


「耳だと。いつの間に紛れ込ませていた」

「違う。単にお前たちの狙いを見切っただけだ」レアーツは言う。

「お前の探気は確かに皇都全体を覆い尽くす。されど、俺を即座に見つけられる程の精度はない。魔力や黒煙に気付いたとしても剣王邸からこの場所までは距離があるはずだ、まさかこれほど早く……まさか、この状況もすべてお膳立てか」

「さぁな。それより、ぺらぺらと喋っている場合か?」


 レアーツは眉根を寄せると剣を振った。


「むっ」一呼吸。


 小気味よい音を立てて、シドニィの左腕が飛んだ。今度は黒雲だけではない。生身の腕が宙を舞う。切断面からは血が一滴も出ない。凄まじき鋭利。これがリハントラウスだった。瞬時に魔法で止血したシドニィは、彼と距離を取った。


 いや、距離など無駄かもしれなかった。リアトに頸の動脈を斬られかけたように、この程度は一歩にも満たない。ましてや『延手剣王』ともなれば。闘うしかない、とシドニィは覚悟を決めた。しかしレアーツはそれすら踏みにじる。


 距離を取るための脚から鮮血が吹き上がった。


「ふむ。時間稼ぎならもういらん。お前に答える義理も義務もない。貴様、べらべらと無駄口を叩きながら呪穴を繋ごうとしていたな。潔く諦めて跪くが良い。骨が斬れた感触すらなく両断してやるとも」


 脚を回復させながら、シドニィは全身に魔力を滾らせる。挑発のような安い手には乗らない。剣王は油断なく剣を構えるが、それはどこか遊戯じみていた。この男には剣を構える必要など、本当はひとつもないからである。


「再度言おう。死ね」剣が振れた。

「断る!」


 剣身がぶれると同時に、シドニィは身体を空化させた。ゆらめく空体を剣王の靈刃が数千に切り裂くが、幾らなんでもこの距離では魂にほとんど影響はない。あそのまま彼は闇煙を発動して周囲半弓飛を闇で覆った。これならしばらくは考える時間が稼げるだろうと思ったのである。上手くすれば、このまま呪穴で逃げられるかもしれなかった。ただしそれには問題が一つ。左手である。


 限定魔術士『骸』の代名詞とも言える転移呪穴だが、その使用にはひとつの条件があった。それが転移先の座標を示す術式陣の発動である。シドニィはこの陣を『左手』に刻んでいた。故に左腕が無ければ、狙い通りに穴を開けないのである。座標がずれる事は転移の暴走を誘発するという事だ。


 無論、空化呪体として穴を抜けることだけは出来る。だがしかし、高確率で転移に失敗し、魂を破損してしまうのだ。ここで死ぬつもりはないシドニィは其れを選ばない。彼はつまるところ手詰まりだった。


「俺を殺すのが目的か」シドニィが問うた。

「まさか。貴様に価値などない」レアーツが言う。

「ならば何が目的だ」

「イルファン=バシリアスだ」


 暫しの沈黙。静寂が空間を支配する。

 それを破る様にレアーツが言う。


「シドニィよ、お前は長い間、皇王陛下に仕えた。乾湿戦争のことは今でも謳われるほどだ。あの主王会談は貴様無しでは成功しなかっただろう。それ故に現剣王として俺も話そう。命までは奪わん。だからアレを利用するのはやめろ」


 命は奪わないという言葉にシドニィは考える。ここでレアーツに協力する利点はあるか。仲間を裏切り、デルフォイを裏切り、『骸』に戻る利点はあるか。彼は天秤にかける。自由と命の重さを量るように思案するように、考える。


 それとて実際には何重にも重ねられた嘘のひとつでしかなかったが、それでもそう思考することが王の手であるシドニィの役割であった。その為だろうか。この一瞬、彼の脳裏には、本当に自分が『骸』でなくなるという夢が見えた。


 シドニィがこの謀反に協力したのは自由の為だった。誓約と術式陣によって結ばれたものを破るのだ。彼らはイルファンを使えば誓約を無効化できると言った。『骸』はその話に乗った。乗ってしまったのだ。


「レアーツ。説得しようとしても無駄だとも。戦後これだけの時間が経っても、ラハリオは俺を自由にしなかった。そう思えば、下らない人生だったな」

「ふむ……そう来たか」レアーツが呟く。


 物心ついた頃より暗殺士として育てられ、天才的な闇属の才能でシドニィは『骸』となった。嫉妬する者も多く、シドニィは成人する前に師匠に殺された。その時、シドニィは空化に触れた。その深淵魔法で彼は逆に師匠を殺した。そこからは転がるようだった。裏切った仲間を殺し、どん底にまで落ちる。


 救ってくれたのは皇王ラハリオだった。そのといシドニィは皇王家に忠誠を誓うことを決めた。そして、裏王剣として誓約術式を結んだのだ。


 まるで仕組まれたように。


 シドニィは知っている。暗殺士と皇族は深く繋がっている。いや、本当は知らない。ラハリオは何もしていないのかもしれない。だが、疑念は常にあった。


「乾湿戦争のあと、表の剣として生きることを、魔術士として地位を得ることを俺は切望した。だがラハリオは『切り札は切らない』と言ったのだ。俺は彼と共には歩めない。剣王レアーツ、貴様のように、共に闘うことはできないのだと」


 誓約を破りたいという願い。

 命などいらないという願い。


 だが、培った技術を殺すことはできず、男は『骸』として生きるしかなかったという真実。それが深みから鎌首をもたげて、シドニィの心を幾重にも縛っていた。夢は、それが現実にならぬことを知っているからこそ悲しいのだ。


「年寄りの感傷は見苦しいぞ」レアーツが言った。

「誓約に縛られた身の辛さを知るまい」


 シドニィが自嘲するように唇を歪めた。


 もちろん、その笑みのどこまでが本心であるかはレアーツには分からない。しかし、これが一つの演劇であるということは剣王にも分かっていた。この奇妙な裏王剣の暗殺者が、本当は誰に従っているのか、それがある意味では問題だった。


「お前、そんなに柔だったか」レアーツが問う。

「人には元来、器というものがある」

「そして役割が?」男が問うた。

「まさしくそうだ」シドニィが無表情で答えた。

「それで次は何を言えばいい?」

「焦るな……「ヴォファンと同じ『絶気』を持つ子どもだ」」


 男の言葉に、レアーツは眼をかすかに見開いたようだった。確かな驚きの表情、が彼の顔に現れているのを見て、シドニィは少し頷いた。そしてさらに続ける。『骸』の老いた顔には純粋な輝きがあった。何かのために自らを捧げるのだという純粋な希望の色が。それだけはレアーツにもはっきりと分かった。


「『絶気』まで知っているか」

「その特質でもって、俺は俺の誓約を斬る」


 デルフォイが仕込んだ術式陣が脳子を騙せるのはわずかに三時間。その時間が過ぎれば男は再び、裏に戻る。それまでに片を付けねばならない。あの剣を第五都市まで運ばねばならない。それで良いはずだった。


 第五都市ティノールでは彼らが待っている。転移穴はそこへ通じている。そこから転移術式陣を用いて移動すれば、デルフォイの街だ。ボダットへ飛ぶのだ。


 シドニィは密かに右手に魔力を込めた。

 ほんの僅かだけ。


「誓約を断つなど不可能だ。騙されるな」

「そういうお前こそが嘘吐きだ。私がなんの確証もなく事を運ぶと思うかね。ちゃんと送り込んだ狗で確かめたのだよ」シドニィは静かに言った。

「なるほど、狗どもを送ったのはその為だったか」

「誓約魔術が破壊されるところを俺はこの眼で見た」

「目先のものに釣られるのが最善とは限らん。それとてデルフォイの仕込みかもしれんではないか。友である俺よりも、奴らを信じるのか」レアーツが言う。

「お前がそんな答え方をするのが何よりの証左だよ。それに、なに、最善など天獣にも分からぬものを探し求めるほど、私は若くはないぞ」


 そう言いながらシドニィは右手の袖口に隠した剣をそっと抜いた。転移穴の座標は目視で定める。レアーツの後方、指一本分の場所。右手に穴が現れると、彼はそこに剣を飛ばして同時に走り出した。欲しいのは左腕。レアーツが動いた。眼の端でちらつくのは青。リアトと同じ藍髪。腕も剣王もすぐそこにある。


 男は脇目も振らずに腕を掴む。

 その右腕が、瞬間、斬り飛ばされる。

 が、それは空化した腕だ。


 一太刀目は躱した。この距離ならば飛刃でも死なない。レアーツは二太刀目を振る。見えない刃がシドニィを斬るが、空体化している彼は動きを止めない。シドニィは左腕の切断面に魔力を流した。ぼんやりと陣が輝いていく。


 そこにレアーツの声が飛び込んだ。


「大層な口を叩いて逃げるだけか」


 では死ね。とレアーツが振った一撃は速かった。一行流《速断》のようにも見えるがそうではない。それは単なる彼の剣。ただただ純粋なつまらぬ一振りだったが、天剣の齎すそれは、闇をも滅する死であった。


 ずっ。左脚が空を飛んだ。右足首も半ばまで断たれた。わずかな腱しか残っていない。しかしシドニィは生きていた。死の一振りを直接に受けたのは、青年。とうに死んだはずのアルト=デルフォイだったからだ。


「あははは!『捨剣』の!再戦だ!」アルトが叫ぶ。


 リアトの一撃でもはや胴体は破裂し、溶け爛れているというのに、半ば死体と化したままでアルトの身体が高く高く高く、跳躍する。こんなものは到底、人間技ではない。レアーツは瞬時に返す剣で青年に相対した。


「小僧が」

「なんだ、剣王様ではないですか」


 着地すると同時に、アルトの腹部から零れ出た腸が落ちた。地面にどす黒い肉塊が広がった。しかしアルトは平然と歩く。まるで操られているかのような軽快な動きは人間というよりは人形に近い。事実驚くべきことに、青年の両手足からは魔術の紐のようなものがすらりと伸びていた。


 そればかりか、青年の姿かたちまでもがもはや人の姿ではない。まるで木組みの木偶人形、まるで継ぎ接ぎの布切れを縒り合わせたかのようであった。


「妹君をよく愛されているようで」


 奇妙に高いその声だけがアルトのもの。それが物体に魂を宿す業、ある種の屍生術であることをレアーツは見抜いた。死後発動する術式陣でも組んでいたのかと眉間に皺を寄せながら、剣王はわずかな間断すらなく、輝剣を掲げた。


「とっとと失せろ、木偶が」


 神々しい虹色の光が剣から溢出する。

 聖属魔法∫聖充《アギオス/シィンプレス》。


 光の奔流が屍を吹き飛ばし、そのままアルトは捨て置いて、レアーツはシドニィを視界に捉える。彼はまだ半分しか消えていなかった。左腕を斬られた為に転移が遅いのだ。レアーツはそれを見ると、余裕をもって彼に近づいていった。


 シドニィが悔しげに顔を歪める。

 しかし、レアーツは笑った。


 剣王はなにも構えていない。それはあまりに無防備であったから、シドニィは眉根を寄せる。呪体ごと消される覚悟は出来ていたのにそうはならない。レアーツは立ち止まると、わずかな靈気を放った。彼の靈気が穴を伝って、向こう側へ伸びる。ゆっくりと広がるそれは、『延手』と呼ばれた彼にだけ可能な妙技。


 シドニィはすぐに気付いた。

 レアーツがまた笑う。


「ティノールか、見つけたぞ」

「謀ったな。俺の力を削いで転移先を、」


 しかし恨みの言葉を最後まで言えずに、シドニィはしゅぽりと消えてしまった。同時に、空中に開いていた黒い穴も跡形もなく消失していった。


 レアーツ=ルーミンは『骸』のシドニィの転移呪穴の核が左腕にあることを知っていた。そして、彼が優秀な暗殺士であるということも知っていた。たとえ尋問しても彼は話さない。それが『骸』の信念であり、演じるべき役割なのだから。


 ならば違う攻め方をすれば良い。わざと泳がせてから捕えるのだ。幸いにもレアーツは探気の達人。あのわずかな接触で敵の拠点の場所を掴んでいた。


「助かったよ。シドニィ」剣王が呟いた。


 と、衣擦れの音が背後で聞こえた。


 レアーツが振り返るとそこにはリアトが立っていた。今にも崩れ落ちそうで弱々しい。レアーツは久々にそんな妹を見た。九年振りになるだろうか。あの時と同じ弱さがあった。著しい性格の変化を伴う特質後遺症。彼女が発症してしまったその病は長い月日を掛けてもやはり治らなかったのだ。


「還れ、天子の剣」


 レアーツは天剣ハオンを送還すると、苦しむリアトの傍へと駆け寄った。


「リアト、」

「あっ、兄さま、」


 幼児退行。

 この状態を見るのは四度目である。


 彼は浄眼を開いて、リアトを見る。特質後遺症の詳しい原理は分かっていない。それでも一つだけ明らかなことがある。特質を使った後は、体内の靈力濃度が急激に増加してしまう。すなわち、大量の靈力が身に溜まってしまうのである。


 現にリアトの身体は、まぶしいほどに強く輝いていた。言うならばこれは靈気の暴走状態だ。彼女の状態にそれほどの余裕があるとは言えなかった。


 そのためレアーツは第四界に魂を繋ぐと、半ば意識を失った妹と唇を重ね合わせた。靈力を吸い上げるなら、口を用いた方法が一番良い。血を分けた兄妹であれば尚のことである。レアーツは膨大な力が弾ける前に、それを送還した。


§


 魂を持つあらゆる実体は十一の違界に干渉することができるが、その内、力を引き出すことができるのは第四界と第五界に満ちる靈力と麼力だけである。


 靈力とは、第四界から引き出される力の総称である。この力は麼力と同じく、第二界である呪界に於いて行使され、その振る舞い自体も麼力のそれとほとんど変わるところがない。麼力が第五界である空界から引き出された際、実界ではそれを観測することができないように、靈力もそれ自体を観測することはできない。


 大氣中に満ちる源素だけがその例外である。麼力と靈力の両方の力に影響されやすい半物質である源素は、呪界に何らかの力が満ちたとき、麼素や靈素と呼ばれる物質に変質する。力を、この源素の形に貶めることによってようやく実界存在は力を物質として扱えるようになり、また観測が可能となる。


 こうした麼素の中で、最も一般的な物は『癒薬』である。これは然属変性麼力を麼素として実体化したものである。靈力の実体としては『靈水』が挙げられる。この水は口から取り込んだ者に靈力を与える働きをする。しかし靈力を与えるとは、靈力そのものを与えるということではなく、やはり靈素を補給するという意味合いである。それゆえ、靈力とはすなわち生命力である、というような認識は誤解である。靈力とは実体化されない力場であって、生命の活動そのものではない。


 魂を持つ物は靈力を常に持つが、それは靈力を必要としているからではない。簡単に言うならばむしろその逆であって、生命が靈力を常に顕現しているのである。このように言えば、靈力について誤解する者はもはやいないだろうし、靈力が生命力だという認識はついぞ為されないであろう。


 とはいえ、それが全て正しいとも限らない。人間は十一の違界を理で解しようとするが、その理でさえも実界に制約されているからである。何処までも理で以って、飛べるような気がする。されど、それは誤りだと学者群は理解している。


 この限りある世界において、理という翼は実という鎖に繋がれている。人々は極めて非合理な世界、それを知覚することを恐れているのである。魔法士には馴染み深い『鎖識帯』は、多くの人間の理を縛った。真なる意味では、人は理によって無限にも到達しえるのであるが、同時に無限には到達しようとしない人がそこにいる。認識矛盾の極地に於いて、人は世界を自ら狭めてしまうからである。


§


 レアーツが再びリアトを揺すった。


 激しく身体を震わしながら彼女はゆっくりと目を開き、数度瞬きした。その焦点が徐々に合うにつれて、女の表情がみるみるうちに後悔に染まっていく。


「お前は無事だ」剣王が言う。

「すまない。『剣子』を攫われた」

「既に話は聞いている」


 レアーツが表情を変えずに言った。その後ろから一人の女が歩いてくる。女の背には特徴的な長剣。魔剣流のレディメである。リアトはその女を知っていた。


 くすんだ緑の髪色は、美貌の剣士ベルメーラ。

 彼女ベルは言った。


「兄上、リアト様のご容体は如何です?」

「問題ない。脳の浸食を浅い所で抑えられた」レアーツが答えた。


 リアトは不思議そうな瞳で二人を見つめている。能動的な感情のほとんどない顔。されど、何かを問いたげであった。それを無視してベルメーラが問う。


「『骸』の転移先は分かりましたか」

「第五都市ティノールだ。詳しい場所は後で教える」

「転移術式でボダットへ逃げている可能性が高いですね。シドニィは簡単に足取りを追わせないでしょう。そうなれば跡を追うのは困難かもしれません」


 レアーツがその懸念に答えた。

 剣王は全ての答えを知りながら言葉を発しているかのようだった。


「なにを我が国には術式狂いの殿下が居るではないか。あの男なら、転移による呪界の歪みを見逃しはせぬ。破壊したとて痕跡までは消し去れんのだから」

「ですが、皇太子ローレンはリアト様がお嫌いです」ベルが言った。


 彼女も剣王の言う事には勿論、同意していたが、それでもただ一つだけ考慮すべき事態がこれだった。ローレンはリアトに協力することができないのだ。もちろんレアーツならばそれくらい知っているはずだった。何せ、皇都に来て日が浅い自分でも知っているのだ、知らないはずがない。


 だが、レアーツはよしきたとばかりに頷き、そして自信満々に言った。


「ルハラン=ノーランがいるだろう」

「彼に何ができると?」ベルメーラが顔をしかめた。


 ルハラン。それは剣王レアーツがベルメーラを送り込んだ相手である。好色な『傭兵皇子』ルハランならば、彼女を容易く受け入れると踏んだのだ。


「私は駒ですか」ベルが言った。

「そうだ。この争いはある種の演劇のようなものでな。王者となるためには盤上により適した人間を操らねばならん。世の中、己の役割を変えられる人間はそうそういないものだからな。お前は替えの効かん有能な駒なのだよ」


 魔剣流である『冷剣』のベルメーラは腕の立つ美しい剣術士で、冷部のベイル大公国では彼女に並ぶ剣士はそう多くいない。それどころか、彼女はあの恐るべき魔女、ラストの血を強く引いていた。つまり、物語に関与する価値がある。


 自分の思い通りに皇国を動かすには手駒がいった。彼女を用いて、ルハランを取り込むことは最初から用意してあった。皇都、それも中央の情勢は極めて不安定である。現在の勢力均衡がそう長くは続かないであろうことは明白だった。


 そしてどこかで、その原因の大元である都主ローレンを自分の流れに巻き込まなくてはならなかった。彼は狡猾で賢く、有能な人間ではある。しかし幾つかの障害から、強者と呼べるほどではなかった。特に、戦錬士としての能力が低いことは致命的だった。皇王や剣王に並べない実力では、軍属連中は付いて来ない。


 もちろん、乾湿戦争時の彼ならば十分だっただろう。

 『雲指』のローレンに刃向う者はいなかった。


 されど、今のローレンはただの頭でっかちの皇族だ。術式士としての能力は強い武器にはなり得ない。彼自身が思っているよりもその地位は低い。ましてや、皇家の威光がどんどん弱まっている現代においては。


 デルフォイが『飛浮機』で情勢を変えたように、上手くやれば術式技術も化ける能力ではあるのだが、ローレンにはそれは出来ない。彼は天性の技術者で、王にならぬ限り負ける。彼に必要なのは、彼自身の位格、そして敵を圧倒出来る剣である。それはつまり、傍付ラツィオ=メイン以上の力が必要だということで、レアーツはそれを与えようとしていた。彼を確実に次代の皇王とする為に。


 レアーツにとっては、なによりも、彼の術式への考え方が必要だった。この湿部全体を『文化膜の蒙昧』から、致命的な滅びから救うためには啓蒙しなければならない。たとえノーラン皇国が現在の繁栄を失ってしまうとしても。


 レアーツは誰よりも湿部の未来を見ていた。

 だから時に、誰よりも非情だった。

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