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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
一節 皇都拐者
15/43

1-4 明敏灰夢/ロビラ

Δ


 恐ろしく凍った視線が向けられていた。一歩間違えば首を刎ねると言わんばかりの冷徹さは言葉を通り越した恐怖となって空間全体に立ち込めていた。その力は彼女が特級剣術士であるという事実を否応なしに、味合わせるほどだった。


 ルハランが思わず唾を飲み込む。


「なにが目的だ」女が言った。

「違う。それは違うぞ」男は答えた。


 女の冷えた眼によって一瞬訪れた沈黙が、男に汗をかかせた。リアトを敵に回すことは本意ではない。だが、話の仕方によっては彼女からの信頼を失ってしまう可能性があることも、ルハラン=ノーランはよく知っていた。それでもルハランは薄っぺらい優位性を演出することを止めようとは思わなかった。


「何から話したらええやろか」勿体ぶった言い方だった。

「なんでも構わんが敵に回るなら早くしろ」


 鼻についたので、女は素っ気なく答えた。

 ルハランは意に介さず、話し続ける。


「お前も知ってのとおり、わしの情報網は広い。裏も表も色んなことが引っかかる。例えば、お前がローレッドを降りてドピエルに着いたことも十日前には分かっとった。もちろん妙ちきりんな子を連れて、ここに向かっとることもな」

「ちっ。都主殿下ローレンから聞いたのか?」


 リアトから怒気があからさまに漏れる。彼女とローレンは信じられないほどに仲が悪かった。だからこそ、リアトはこの街が好きではない。


「兄上は関与しとらんさ。あいつは今、熱部の反勢力を抑え込むのに忙しいみたいやからな。恐らく、リアトやわしにどうのこうのできる状態やないで」

「じゃあ誰だ」

「お前が来る理由を探ろうと思って、真交流の道場に耳を飛ばしたといた」


 すかさず、「そういえばはた迷惑なことに、私も高弟相手の色仕掛けをさせられましたね。ここに来たばかりだったというのに」と溜め息を吐きながらベルメーラが口を挟んだ。どうやら相当な苛立ちが堪っているようだった。


 ルハランはこの際、良いだろうとばかりに彼女を無視して話を続ける。それは悪手だと思ったが、リアトは黙っておくことにした。だが次に述べられた言葉は彼女の口を容易に開かせた。ルハランは言った。


「あぁ、それで分かったことが一つ。剣王レアーツ=ルーミンは平原の狗と繋がっとるな。せやから、あの男に会う時は警戒を緩めへんほうがええやろうな」

「馬鹿なことを」リアトがルハランを睨みつける。

「嘘やない。剣王の傍についとる剣術士が平原の狗に文を飛ばしたのを見つけたんや。そればかりか、その男はフィロレムの方角に転移までしたそうやで」

「ありえん。なにが理由だというのだ」


 吐き捨てるようにリアトが言ったが、その顔は疑念に満ちていた。


 もちろんながらそれは、ルハランへの疑いではなくて兄への疑いだった。あの兄は裏のある人間だった。有能だが正道ではない。だからこそ剣王に選ばれたのだ。確かに、心の底から信用できる相手ではない。


「兄が剣王に選ばれたとき、私は驚きも落胆もしなかった。クルドは最後までレアーツの未熟さを訴えていたが、遂には軟禁された。兄がいつから根回しをしていたのかは知らない。だが政治と深く関わる剣王という立場には、そのような能力も必要なのだろう。私にはちっとも分からん、厄介でおぞましい力がな」


 リアトはそう呟いたが、だからこそ兄がイルファンを狙うとも思い切れないのだった。兄レアーツはイルファンという少女を完全に物として、見ている。彼の戦いの切り札であり、このノーランの切り札となる存在であると。そんな兄が果たして、これ程までに雑で荒っぽい謀を企てるだろうか。


 あの、約束。

 彼にとってそれが利益となりうるのならば。

 それを破るとは思えなかった。



Δ



 一年で最も寒い、聖邪月の初めだった。


 レアーツ=ルーミンが持つ剣の鋭い切っ先は少女を指していた。冷大陸からやってきた雪の上で少女は倒れ伏していた。その手足は筋張り、あちらこちらの骨は剥き出しで、辺りに飛び散った肉は真白い雪を生々しい赤に染め上げている。


 イルファン=バシリアス。

 それが少女の名だった。


 実の父である、ヴォファンはもはや死んだ。この少女は天涯孤独にして、無数の刺客に狙われることとなろう。そう、レアーツ=ルーミンは思う。ではここで殺しておくべきか。動こうとしたレアーツの身体に鋭い殺気が向けられた。それを放ったのは、イルファンのそばにしゃがみ込んでいる女だった。


 少女と同じく血まみれの、獣のような女。

 その眼はまさに狼を彷彿とさせる。

 彼女はレアーツの血を分けた妹で、名をリアトと言った。


 リアトは思った以上に深手だった傷を癒薬で癒しながら、兄を睨む。その眼に浮かぶのは怒りでも憎しみでもない、懇願である。腹の底から絞り出すような声で何度も何度もレアーツを止める。血と共に吐きだした息は白く、溢れる言葉は凍り付いてしまう。男は思った。妹がこれ程までに他者を思う人間だったとは。


 冷徹でこの兄にさえ弱みを見せなかった妹と同じ人物とは思えない。レアーツはリアトの狼のような眼の奥に、怯える少女の姿を見ていた。この少女はもう一人のリアトだ。何が彼女を生んだのだろう。人の心を持たぬとまで言われた剣の使い手に、誰が、怯えるという人の業を与えたのだろう。


 それはヴォファン=バシリアスなのか。

 それとも、肉塊と化している少女なのか。

 あるいは、このリアト自身が自らの根底から見出した存在なのか。


「リアト。その娘を庇うな」

「この子は私が、守る」


 レアーツは意味なく殺しはせぬし、意味なく生かしもしない。この娘が国にとって厄災となりうる。そう思ったならば。殺さぬ理由が無いのなら殺さねばならぬ。たとえ妹が止めたとしても。レアーツはもはや剣王であり、私情はそこにない。


「無駄だ」

「レアーツ!!」

「俺はもう決断したのだ」


 振り上げた剣は天鋼リハントラウス。曇りがかった灰色の日光でさえ虹の輝きに変える。イルファンの戻りつつある顔に、鮮やかな光が写った。すでに頬に空いた穴は再生し、潰れた眼球も形を取り戻している。あと数分もすれば、額から溢れる脳漿も頭蓋の中へと返り、琥珀の獣が目を覚ますだろう。


 だからその前に。レアーツは細首を落とそうとした。


 女に剣を振るう力はない。

 しかし、言葉はあった。


 それゆえ刃先は、首の皮からほんのわずかでぴたりと止まる。彼女の言葉は震えながらもしっかりとしていた。少なくとも、剣王レアーツの心を動かし、かつ合理的にイルファンを殺さぬ利点を語れるくらいには。


「では、ヴォファンの死は誰の所為だと言うのだ」

「誰のせいでもないが、強いていうならばヴォファン自身が招いたことだ」


 リアトが答えた。

 その声はやはり震えていた。


Δ


「やはり私には信じられん。兄がそんなことを命じるとすれば確固たる理由があるはずだがそれが思い浮かばない。お前が嘘つきか、情報が大嘘なのだ」

「確かにお前の言うとおり、レアーツは冷たい男や。無意味なことや理由のないことは、絶対にせんやろうな。正直なところ俺にも答えは分からん」


 兄の関与の理由を尋ねるリアトにルハランは応えた。


 すらすらと淀みなく言葉が出てくることに自分でも驚きながら、ルハランはまことしやかに語った。別に嘘を吐いているわけではないが、全てが本心という訳でもない。リアトは知る由もないが、ルハランにとって最も大事なものを守る為には、レアーツが槍玉に挙げられるのは仕方のないことだったのだ。


「せやけど、あんたの兄の手が狗どもに会っとった。ドピエルでお前に殺された連中も狗やろ。何か関係あると思ったんや。そもそもどうして連中を殺した?」

「狗の狙いはイルファンだった」


 手短にリアトは道中の襲撃について語る。

 それを話しながら、リアトは剣王への疑いを持っていった。


 そもそも。二人がドピエルに現れることを知っていた刺客の存在自体がこの件の黒幕を暗に示しているのではないのか。剣王か、それに準じる立場の人間でなくては、リアトの行動を予測できないのではないか。


 その上さらに敵の狙いはイルファンなのだ。尚更、第三者の介入する余地は少なくなる。理解呪術や運命呪術の使い手でもいるならば、話は別だが。


「あの子の価値を知っとるのは誰や」ルハランが問うた。

「兄と私とクルド、あとは湿部三国の王とラハリオだな。脳子の連中も全て把握しているはずだが、状況に介入できる者で、価値を正確に理解している奴はそう多くない。誰が黒幕かを絞るのはそんなに難しくはないはずだ」


 そう話すと、ルハランは得心したように頷いた。心中の悩みを表すかのように眉間に皺が寄る。最も、実際のところはそれすら本心から出たものではなかったのだが、少なくともそうは見えた。


「ならやっぱりレアーツが絡んどる可能性は大きい。レプロンはトルリアで手一杯やし、他国の介入はヴェルトヴァンくらいやろ。でも、その線は薄いと思うんや。あの国はまだ復興してないし、傭兵組合がお前を狙うにしてももっと堅実なやり方をとるはずや。そんな少女を狙うなんて回りくどいことは多分せんやろ」


 レプロンが手一杯、と聞いた時に、かすかだがリアトは眉を顰めた。ルハランは仮にも皇太子なのだから、自国内の事に詳しいのは分かる。だが、あの閉鎖的なトルリア国内のことがどうして分かるのだろう。


 ましてや、その頂点に君臨するレプロン=リニアの動向をどうして知っているのか。あの男も兄に似て、徹底した秘密主義者であるはずだった。


 そう、わずかな疑念が浮かんだが、リアトは些末な問題としてそれを消し去った。今はイルファンを取り戻すのが先決なのだから、と女は話を再開する。


「琥珀髪ならイルファンでなくとも狙われる」


 女の言葉どおり、琥珀髪には利用価値があった。多くの琥珀髪が人攫いによって攫われていた歴史がある。中には数百人規模の大集団が誘拐された事件もあるという。そうした場合には、かなり、大掛かりな組織が動いているのは間違いなかった。それ故にリアトはイルファンの髪を見られる事を警戒していた。琥珀髪の価値は今では下がっているだろうが、それでも狙われることが無いとは言えない。


「イルファンでなく、琥珀髪を狙っとったと?」

「そうだ。病のことを覚えている人間がいて、虎視眈々と琥珀髪を狙っていた」

「有り得へんわ。価値が出るかも分からんお宝を十年以上も追い続けるわけあらへん。そのうえ、リアトっちゅう壁があるとこをわざわざ襲う奴がおるか」

「ローレッドの傭兵たちの誰かかもしれない」

「それならローレッドで狙うやろ」

「ドピエルでイルファンを見かけたのかも」


 いつしかリアトは熱くなっていた。ルハランと二人で皇都に巣食う敵を見つけ出すことに熱を入れすぎてしまって、この男がどれだけ信用できないかなど、とうの昔に頭の中から消えてしまっていた。


「ドピエルで琥珀髪を誰かに見られたんか?」

「いや、見られていない、と思うが」


 眉毛を除いて、とリアトが言いかけたその時。ベルメーラが何かに気付いた様に目を細め、そして勢いよく立ち上がった。ルハランがすかさず問う。


「どうしたんや?」

「そういえば、お連れの女の子はどこにいらっしゃるのですか。外に出られた後、あの小さな気配がどこにもないようですが。リアト様、今すぐ探気をなさってみて下さいませんか。嫌な予感がいたします」ベルメーラが訝しげに言った。

「俺を避けて遊びに行ったんやろ」ルハランが笑う。


 しかし、リアトの表情は恐ろしいまでに凍り付いていた。彼女は振り返るよりも速く探気を行う。愛弟子の気を探ったのだ。だが欲するものはどこにもない。瞬間的にリアトは悟った。イルファンはこのわずかな瞬間に攫われてしまったのだ。しかし誰に攫われたというのか。敵意も騒音も何もなかったのに。


「イルファンがいない」

「なんやて?」


 リアトが勢いよく立ち上がるもその脚は動かない。


「待て、」

「リアト?」

「こんなことはありえない」

「落ち着くんや」

「できるわけがない」


 私は、ずっと気を付けていたのだ。


 誰かに言い訳をするようにリアトはそう思った。イルファンを囮にするような真似をして、見えぬ敵を誘き出すなどと考えていた自分に腹が立っていた。怒りと焦りでリアトは何か手を打つことすら出来なかった。


 何者かは知らないが、リアトに気取られずにイルファンを忽然と消す相手、そんな戦錬士が出て来るとは思っていなかったのだという言い訳は無意味。


 精々、狗に毛が生えた程度の雑魚が来ると考えていたことが失敗だったのだ。外したな、という平原の狗の言葉が脳中でぐわんぐわんと木霊した。


 肝心なところでいつも致命的な失敗をする。

 私は外したのだ。

 一体、敵の狙いはなんなのか。

 

 殺すつもりはなかろう。

 琥珀髪を手中に収めることでもなかろう。


 狙いはもはや、絞られている。イルファンでなければならないことだ。すなわち、ヴォファン=バシリアスの子に残された技術と術式だ。リアトと、限られた者だけがそれを知っていた。いや万に一つは他の可能性もあるかもしれぬ。狗の言葉で惑わされたが、実際にイルファンが狙いとは限らない。本当の狙いはただ単に自分やルハランであり、イルファンはそのための人質ということが。


 そう、一瞬だけ考えてからリアトは自分を殺したくなった。


 あるわけがないだろう。くだらない現実逃避はやめろ。少女はずっと狙われていたのだ。第一、人質だろうがイルファンが狙いだろうが、彼女が攫われてしまったことには変わりがないのだ。ヴォファンとの約束は破られてしまったのだ。


 そう思うと、リアトの顔から血の気が失せた。


 彼女は信じられないほど狼狽えると、ルハランを見て、あぁと溢した。


「駄目だ。イルファンがどこかに消えたが、呪を探っても見つからないのだ。どうすればいいのかさえ分からない。これは私の失敗だ。私は失敗したのだ」

 

 冷静沈着なリアトがそこにはいない。そう思うと、ルハランは全身に力が漲るのを感じていた。この女性は強いが、たまにこうして弱い時がある。自分の所為で致命的な失敗を起こしてしまった時がそうだ。


 あの乾湿戦争の後、姿を消したのもそういうことだろう。ルハランには見当が付いていた。あの子に関して、リアトは過去に取り返しの付かない失敗をしている。ついぞ分からなかったその秘密は、この件と関わりがあるのかもしれない。


 ルハランが落ち着いて言った。


「お前以上の気断ちがいただけだ。追うぞ」

「だが、網に全くかからんのだ!」


 確かにそれは問題だった。第七繋者であるリアトの靈気網に引っ掛からないということは、リアトの靈気圏内である一馬遊の距離には既に存在していないということだ。そればかりかこのことは、魔法の痕跡すら残さない手練れの関与を指し示している。かなり厄介なことになるかもしれないな、とルハランは思った。


 だがその時「少し静かに。気を乱さないでいただきたい」と、ロビラが冷えた声で言った。男の眼には微塵の動揺もなく、全身を覆いつくす魔力にもわずかな乱れさえない。何かを思い出すかのように眼を閉じると、男は粛々と言った。


「ルハラン殿下、貴方を見ていた者がいると思われます」

「そうか。俺は皇族や。この店を見張っている奴は確かに居るかもしれん。なるほどお前の案はなかなかえぇぞ。そいつらを捕まえてしまえば、」

「隠秘士といえど一流の戦錬士。これほどに使える目玉はありますまい……」

「分かった。やれ」ルハランが言った。


 頷いたロビラは、床に手を着いて魔力を放った。男の細い体を術式円陣が高速で取り巻く、二重、三重、四重。極めて強大な土属魔法の行使。彼は、∫土操《エダフォス/レトルルギア》を無詠唱で放ったのだ。


 とたんに店外から地響きが起こり、いくつもの悲鳴が上がる。呪界を通して、ルハランやベルメーラ、そしてリアトには凄まじい物が見えていた。第二界に映るは土属空体の触手の如きものであり、それがロビラの手から伸びている。触手が土を舐める様に這うと、土は生き物のように彼に操られてしまった。


「捕えた」ロビラが口の端を歪めた。


 急いで通りに出れば、土くれでできた何本もの手がざわざわと蠢いていた。その手の先には手足を掴まれた戦錬士たち。赤髪、黒髪、茶髪、赤人、いずれも他国の密偵であるらしく人種は多様であったが、どれもそれなりの陰秘士のように見えた。少なくともコソ泥や盗賊の類ではなく、本職の連中である。


「驚いた。こんなにいたの」ベルが声を上げる。

「こいつらが敵を視とったらありがたいけどな」

「朝からずっといたのだから、何かは見てるはずだがね」


 飄々とした声でロビラが言った。これには流石のリアトも驚かざるを得なかった。この密偵にロビラは何時から気付いていたのだろうか。下手な悪意が無いために、リアトでさえ探気困難。店内で彼らに気付くことは到底出来ないはずだった。


 特級剣術士のリアトとて、向けられる視線や意識は捉えられても、それが敵かどうかまでは分からない。戦錬士であることを隠す陰秘士ともなれば、その、市井の人間であるかのような振舞いを、余程に注視せねば見破れないものだ。


 兄であるレアーツならば容易いことだと言うだろうが、リアトはそこまでの達人ではない。ある意味、イルファンが攫われた遠因はそれであるとも言えた。彼女にも視えない相手は存在していて、問題はそれほどの相手が出てくるかどうかだった。端的に言えば、彼女が見誤ったのは少女の価値だったのだ。


「隠秘士がこんなに」リアトが呟く。

「リアト殿、しかし彼らは敵ではない。流石の陰秘士とて、人間を一人を攫うのに殺気を出さぬ訳にはいくまい。貴女の敵は本当の意味での化け物だろう」

「殺気もなしにイルファンを攫えるような奴か」


 ロビラの言葉は状況を的確に判断していた。

 この男が戦場にいれば、非常に心強いだろう。

 常に冷静な者は、熱き血をもつ勇者よりもはるかに英雄に近い。


 しかしながら、彼が英雄として扱われることはないだろう、ともリアトは思った。ロビラの風貌が怪しすぎたからである。その長すぎる髪は容姿を隠し、細すぎる手足は人間ではないようにも見える。路地裏の占い師よりも得体が知れなかった。土の手を更に操ろうとするロビラの姿を見て、市民たちは怯えた声を上げる。


「どうも恐れられているらしい」ロビラが苦笑する。


 するとそこにルハランが颯爽と現れた。男は髪をかき上げ、周囲に笑いかけると、「ちょっとこいつらに話を聞きたいだけなんや」そう言って、優雅にロビラに近付いた。彼の動作を見て、市民たちが一様に安心した表情を浮かべる。この楽天家の第三皇子がすることならば、危険はない。そう認識されているのだろう。


 それを見て、リアトは無性に舌打ちをしたくなったが、その時、先に誰かが舌打ちしたのが聞こえた。振り向けば眉根を寄せた女、ベルメーラがいる。もしかしたら、彼女とは気が合うのかもしれないな、とリアトは密かに思った。


「よっしゃ、何見たか聞かせてもらおうかいな」

「また調子に乗り始めた」ベルが小さく言った。


 そんなことを言われているとも知らず、ルハランは張り切って密偵共に問う。捕えられた者たちは皆、土の手に命を握られている状態だ。問えば、何だって答えるかもしれない。リアトは緊張と焦燥が少しずつ緩和されていくのを感じた。


「『捨剣』のリアトの弟子を攫ったのは誰だ?」ルハランが問うた。


 しかし、予想とは裏腹に、問いに答える密偵はいなかった。よくよく考えてもみれば当然のことだ。どれほど些細な情報であっても、その価値を判断するのは密偵自身ではない。彼らが不要と判断して情報を漏らすことは、自国の不利益に繋がる可能性がある。ゆえに答えられない。決断の権限は彼らにはなかった。


「言わないならば、ここで殺す」


 ロビラがぼそりと呟いた。


 その言葉に市井の人間たちがまた恐れを為すが、密偵どもは表情一つ変えなかった。やはり皇都にまで入り込めるような密偵は甘くはないらしい。


「うーむ。となると、金や情報でも動かないか。腹立たしいから吊るしてしまいたいところだが、他国との関係を壊したくはないし、悪評が立つのもごめんだ。仕方あるまい。深青宮の牢獄にぶち込んで様子を見ることにしようか」


 ルハランが嘯いた。


 すると、そのとき黒髪の男がようやく口を開いた。


「それは困ります。ルハラン=ノーラン殿下」

「話す気になったなら、お前を見たことは忘れよう」


 男はルハランの言葉に口の端を歪める。まるで出来の悪い子供を見るかのような顔で密偵は楽しそうに笑った。魔法で完全に縛られているというのに、その姿はまるで、素晴らしい商談を持ちかけてきた商人のようでさえあった。


「いえいえいえ、お忘れにはならないで下さい」

「何故だ?」

「貴方は情報と引き換えに恩を買うのですよ」

「面白い。名は何という」

「トルポール国のレドナ=アンブレオンと申します」


 そう名乗ると、男はするりと拘束から抜け出して地面に降り立った。その身のこなしと自在に関節を外す妙技からして、男は不許流の上級剣術士だ。


 リアトはそれを見て、表情を険しくする。

 視線に気付いたのか、レドナが言った。


「以後お見知りおきを。実のところ私は陰秘士ではありません故、術式陣誓約でも縛られておりません。リアト様、私に聞きたいことがあれば何なりと」

「陰の不許は信用ならん」

「では私からお教えしましょう。敵は『骸』です」冷えた声でレドナは言った。

「馬鹿な」リアトが小さく声をあげた。


 『骸』という言葉に、リアトだけでなくルハランの顔も青くなっていた。その男がどういった男であるか、ノーラン人ならば誰もがそれを知っていた。


「『骸』だという証拠はあるのか」

「乾湿戦争時に当の本人に会っております故」

「嘘は言っておらぬようです」ロビラが言った。


 だとすれば、敵は本当にあの『骸』だということになる。それはリアトにとってもルハランにとっても、いや誰にとっても喜ばしいことではなかった。何しろ、かつてあの男を操っていたと言われるのは、皇王ラハリオだったのだから。


§


 乾湿戦争の英雄は挙げ始めれば切りがない。

 だが、怪雄ということならば『骸』以上の者はいないだろう。


 彼が現れたのは乾湿戦争の中期。未だ、湿部三国が内輪で争っていた頃である。当時、ヴェルトヴァンとクレリアは十数年に及ぶ小競り合いを続けており、乾部の大国である大エズアルによる空略(騎竜侵略)には何の手も打たなかった。


 エズアル帝国と三国の間には険しい龍神山脈があり、帝国が湿部を侵略する為にはノーランを含む冷湿三国をまず第一に征服する必要がある。そして、クレリアもヴェルトヴァンもそれは、不可能であると考えていたのだ。


 そのため、ノーランが乾湿戦争の準備を整え、エレングル王国と同盟を結んだ後も、トルリアを含む湿部三国は大エズアル帝国の脅威を認識していなかった。故にノーラン、エレングル、シュルツからなる、冷部同盟による再三の協力要請と、三国間の緊張状態の緩和要請にも応じず、軍備は湿部内に向けられた。


 その内に、乾湿戦争の最初の火蓋が落とされた。


 エズアル帝国は戦錬士と兵士の割合三対七から成る混成軍でもって、竜神山脈冷端を突破、エレングル王国に属する境域付近の都市、シュフトスを攻撃した。苛烈な攻撃に耐えかね、エレングル王国はこの都市とその住民を放棄。苦肉の策として、大河ポズミナエルを凍らせ、『冷壁』と呼ばれる巨大な隔離壁を作った。


 この壁は数百の魔法士と、数万の魔晶石を用いて完成させた物であり、これにより、エズアル帝国は思わぬ足止めを食らう事となったが、壁はわずか二週間で破られてしまう。遅れて到着したエズアル最強の武人、『竜王』ランストッド=ガラマールの猛撃が、『氷壁』など存在しないかのように打ち砕いたのだ。


 それに対抗して、冷部中の二ツ名持ちたちが氷壁に集まったが、ランストッドが『翼狼王』クルド=ルーミンによって討ち取られるまで、エズアルの進撃は続き、気が付いたときには、冷部は防衛以上の戦略を取れぬまでになっていた。


 この冷部同盟の水際での攻防は一年以上の長きにも及んだが、ついにその均衡が破れる時が訪れた。大陸中の全ての君主を震撼させたエズアルの新兵器、『飛竜船』と『術式圧縮弾』が満を持して投入されたためである。


 これら兵器の攻撃により、エレングルの擁する三大大都市の全てが壊滅的な被害を受け、同国はこれ以上の戦争を続ける力を完全に失ってしまった。こうなれば、エズアルを止めるものはない。大帝国は快進撃を続け、遂にエレングル王都目前まで軍隊を進めた。その数たるや実に三十万である。


 もはや、冷部には打てる手などただの一つも存在しなかった。


 しかしこの、冷部の崩壊間近というこの状況でも湿部三国は互いに争っていた。エズアルによるノーラン侵略の脅威を認識していなかったわけではない。もはや、この段階では三国の主が理性に基づいて行なうべきことを理解していた。


 されど、長きに渡る歴史がこれらの国々を自由にしなかったのである。


 冷部を救えるのはもはや湿部三国しかない。されど、湿部は自縛状態で動けない。湿部を解き放つことが出来るのは冷部のみ。ならば為すべきことは何か。そのときノーランにそのような事を考えた男がいた。


 男の名はラハリオ=ノーラン第一皇太子。

 次期皇王であった。


 或る夜、彼は皇家に仕える密偵の内から、一人の男を選んで湿部へと放つ。その男こそ隠秘士『骸』。俗にシドニィと呼ばれる闇の魔法術士である。


 彼は容貌怪奇にして、使う技も怪奇。骸骨そのものであるかのような身体は動作無くして動き、呼気無くして魔法を放つ。闇属魔法と思わしきその魔法は、人間を幽玄の彼方へ消し去り、神隠しの如く、跡形もなく連れ去ると言われる。


 『骸』は生命力の全てを削いでおり、生と死の狭間に立っていた。すなわち、霊力を極限まで断ち、自らの気を死の領域にまで抑え込むのである。優れた探気使いであっても亡者の気は見えない。男はまさに骸であった。


 ノーランから放たれた数日の後、彼は恐るべき亡者の業でクレリアに潜り込むと、その国王ランスティア=ローディスを一呼吸の内に攫い、次にはヴェルトヴァンのグレン=セン=ヴェルトゥスをも闇へと飲み込んだ。驚くべきはそれらが白昼堂々と行われたということである。数百もの護衛騎士らが居並ぶ中で怪雄『骸』は王に安々と近づき、それを攫った。そして無傷で姿を消したのである。


 王たちが再び現れたとき、彼らは皆すぐに、そこが自国ではないことに気付いた。グレン王はクレリアへ、ランスティア王はトルリアへ、教主はヴェルトヴァンへ。どうしようもない緊迫状態が、ついに彼らを冷静にした。


 その後、三国間では奇妙な人質交換が行われたと言う。二人の王と一人の教主は一通の固く封じられた念書と共に元の場所へ戻った。


 その九日後、ノーラン皇都エルトリアムにて湿部三国と冷部同盟の主王会談が行われ、湿部と冷部は対エズアル帝国湿冷同盟を組むこととなった。自国へと戻った三国の主は国境域に待機させていた軍勢を竜神山脈へと配備し、更に一部を対エズアルの最前線である冷部の壁へと送り込んだ。


 ここに、湿部国家の対帝国戦線がようやく構築されたのである。


 既にエズアル帝国が完成させていた『飛竜船』は脅威であり続けたものの、湿部三国は竜神山脈を挟んで、大エズアルの帝都に圧力をかけることもできた。『術式圧縮弾』の技術も術式機械に長けたクレリアの『叡智』によって真似られ、強大な『越山脈術式弾』となって、エズアルの心臓部に大打撃を与えた。


 結果、エズアル帝国は壁以湿(冷部)への侵略を一旦、中止して、山脈の向こうの湿部を相手どった、新たな戦争を行わざるを得なくなった。


 これが乾湿戦争末期に至る大きな流れである。


§



Δ



 皇都を風が駆け抜ける。舞い上がる土が走る二人の姿を巧妙に隠していた。縦横無尽に走り回る影は深青宮の近くへと近づいていく。彼らは二人だけにしか聞こえぬ言葉で何事かを話していた。


「それにしても、土の手が魔法術士だったとは」

「クレリア風に言えば限定魔術士、という事になる」


 リアトの呟きにロビラがすかさず答えた。


 二人は街中をほぼ全力に近い速度で走っている。壮年の魔術士は病的な痩身でありながら、息も切らさずにリアトにぴたりとついてきていた。なんらかの魔法の力であろうが、リアトは内心で驚嘆していた。それだけの魔法を継続して使えるということがまさに、限定魔術士の証明になるのだ。


「イルファンを攫った男も限定魔術士か」

「『骸』もそうだ。私も本物に会ったことはないがな」

「名だけは聞いた事がある。道理で私が知覚出来んわけだ。七界にも映らぬほどの使い手で、冷湿同盟を結ぶのに三国の王を攫ってしまったと。本当なのか?」

「事実だ。魔力でも探知できぬとも聞いたことがある」


 リアトは『骸』と呼ばれる男に纏わる一つの話を思い出す。記憶では、彼は皇王ラハリオの部下であるはずだった。もっとも、それも数十年前の逸話であるのだから、事実という保証は全くないものだったが。


「まさかこの策謀の裏に居るのはラハリオ陛下なのだろうか?」

「そうとは限らぬ。剣王は皇王に次ぐ。ゆえに『骸』も動かせる。それに裏王剣の連中は縛られてはいるが、国家や王権に忠誠を誓っているわけではない」


 つまり、敵の正体は絞り切れない、ということだ。


 ルハランとベルメーラを置いて、二人が向かっているのはエルトリアム乾区域だった。『骸』のシドニィは使用人という名目で城のすぐ傍であるこの場所に隠れ住んでいる。少なくとも、ルハランが聞いた話ではそういうことになっていた。


 当代の王の剣共に関して、皇族であるルハランや魔法士ロビラでさえも詳しいことは知らなかった。だが、表の剣である真交流と裏の剣である暗殺士、その二つは完全に分かたれているようで表裏一体だ。


 子飼いの暗殺士はまるで表の人間であるかのように偽装されている。普段は皇城の庭の手入れに携わっているような兵士や庭師が、実は『骸』かもしれない。優れた戦錬士は、その身の熟しから敵を見抜くことができると言われる。しかし本当にそうか。誰も兵士や庭師をまじまじと見ない。耳を傾けることもない。それと同じように、呆けている浮浪者や何気なく立っているだけの門番にも気を払わない。彼らこそが王の真なる懐刀であるかもしれないと言うのに。


 見えない人間であること、それが最も優秀な暗殺士が持つ能力だ。そして、見えない者を見る者が王であり、それこそが王の眼なのだ。


 そのように、ラハリオはロビラに語ったことがあると言う。


「やけに詳しいな」リアトが眉を顰める。

「ラハリオ陛下とは乾湿戦争を共に戦った仲なのだ」

「貴方を信用して良いのか分からなくなる」リアトが複雑な表情を浮かべた。

「私は無理でも、ルハランは信じてやってくれ」


 リアトには、その言葉の意味が解らなかった。

 ロビラは少し沈黙を作ると、自らそれを破った。


「あの方は心底、貴女に惚れているのだ」


 面食らったように軽く目を瞑る。リアトは小さく、うむ、と言った。それを見て、ロビラは奴の思いが届かぬこともないのかもしれないと思った。


 特級剣士『捨剣』のリアトは一般的にはほとんど知られていない人間だ。いや、正確に言えば、全くリアトとは異なる人物像が独り歩きしている。ロビラの知る限り、十数年前に突如姿を消した英雄リアトは、冷徹で人の心を知らぬ冷えた鋼のような女剣術士であった。乾湿戦争では十五かそこらで、当時の海刃流剣王を一騎打ちで下し、熱部からの侵略をただ一人で食い止めた、真交流の女傑。


 ルハランに彼女だ、と紹介された時、ロビラは内心で驚いたのだった。それまでに様々な武人から聞いた人間像と眼前の女の姿はどうも一致しなかった。あの、ラハリオ=セン=ノーラン陛下ですら、『捨剣』には悪感情を持っていた。武人として、余りにも完成されすぎており、面白味が欠片もない、と。


 だが、


「リアト殿……」

「何だ」

「いや、何でもない」


 だが今目の前にいるリアトはどうだろう。


 弟子が攫われたことを悲しみ、怒り、ルハランにも感情をぶつけ、剣王やラハリオと繋がっていてもおかしくない自分を信用してくれている。思った以上に気さくで楽しい女性であるようにロビラには思われた。


「ロビラ殿、私に何かあれば後を頼む」

「何か?なにか懸念でもあるのかね」

「私はそれほど長時間戦えるわけではないのだ」リアトが言った。

「ふむ。獣に堕ちなければどうにでもなる」ロビラが答えた。


 ものの数分で『骸』の隠れ家である小家屋に到着する。とはいえ、もちろん廃屋に気配は無い。そもそも、ここには『骸』を追いに来たわけではないのだ。神出鬼没の男など捕えられるはずがない。隠れ家などただの張りぼてだった。


「ロビラ殿、本当に良いのか?」

「構わん。陛下ではない確信がある」


 男はそう言った。

 長い髪が魔力を受けてふわりとなびく。


 すでにロビラは両掌を中空に向けて魔術を使用していた。行使されるのは∫土壊《エダフォス/スィンクロス》。これもやはり無詠唱である。その動作とともにロビラの身体から魔力が引き離されると、家屋の上部に六馬躰はある土属空体が現出した。肉眼には見えぬ強大な魔力の重しがみるみるうちに大きくなる。


「なんという魔力量だ」リアトが言った。

「人一人としてはそれなりだと自負しているよ」


 そう言いながら、ロビラがなにかを操るように両手をゆっくりと降ろすと、空体は急に加速し、そのまま勢いよく落ちた。木と石で組まれた家が破裂するかのように圧潰する。その様はまるで、紙で作られた家を掌で押し潰すかのようだ。

 

 これで何か動いてくれれば良いが、とリアトがそう思った直後、家の残骸が内側から吹き飛ぶ。ロビラの魔術と同威力の衝撃が放たれたのだ。恐らくは敵の魔法を再現するという対魔法術式陣だろう。この時間差で発動するところから見て、殺傷を目的としたもの。遠距離から発動していなければ、死んでいたに違いない。


 と、同時に大量の殺気が周囲から発された。

 リアトとロビラは飛び退り、敵の攻撃に備える。


 周囲には十数の敵気。恐らくは中級以上の戦錬士であるようだった。舞い上がる土煙に紛れて、彼らが長短剣を抜くのが見えた。ロビラが両手を構えた。


「来るぞ」

「こいつらが『骸』などということはあるまいな」

「残念だが違う。だが捕えて損はないだろう」


 リアトはこくりと頷くと、すぐさま《二速》で動いた。刹那、リアトの姿はその場から消える。残像とも付かぬ揺らめきが現れ。凡百の戦錬士共の、すぐそばを空気のかたまりがさっと撫でた。くすんだ蒼のバルニュスと共に。


 めきり、めきりと鈍い音が彼方此方で響く。


 リアトは圧縮され、歪んだように見える空間の中を駆けていた。全身に満たされた闘気を自在に奮って、彼女は跳ぶ様に動いていた。敵に近付けば、ほとんど止まって見える彼の毛穴までもが鮮明に見えた。


 この男は見たところ中級剣士。間違いなく頭ではないだろう。必要なのは、知っている人間だけだ。素早くバルニュスの腹を男に叩き込むと、リアトは鷹のような眼で次の獲物を探す。だが、ここには雑魚ばかりしかいない。


 どうも敵は中級剣士ばかりであり、特級剣士並の実力者と呼べる者はいなかった。まるで道場や組合から寄せ集められたような烏合の衆だ。リアトは俄かに胡散臭さを感じた。こんな雑魚共が王の剣とは到底思えない。裏王剣ならば最低でも上級の戦錬士を揃えているはずなのだから。


 当初のロビラの考えは、ここを襲撃することで裏王剣を引き出し、彼らを捕えて、『骸』との交渉材料を探りだすというものであった。もちろん、有数の戦錬士である彼らを容易く捕えられる保証などなかったが、やってみなければ分からない。『骸』を追えぬ以上、関わりが深いと思われる裏王剣を追うしかないのだ。


 また、もし仮に裏王剣が動いているとするならば、その時はイルファンをさらわせた黒幕の存在まで分かる可能性があった。そもそも裏王剣を動かせるのは、皇王、剣王、そして四人の皇太子くらいのものだ。


 剣王もしくはローレンをリアトは疑っていたが、ルハランさえもベルメーラを連れて何処かへ去ってしまったから、本当には一人も絞れていなかった。


 ここを襲ったのは無駄足だったかと思ったそのとき、リアトは敵の中にただ一人だけ、明らかに格の違う男を見つけた。男は他の戦錬士よりも遥かに速い速度でリアトの方を振り返る。視認されているのか、それとも勘か。驚きながらもリアトは、更に《瞬避》を行う。女の速度が更に一段階、上がった。


 男、いやそれにしては若く見えた。青年だ。


 彼は何気なくバルニュスを後ろに振る。《三速瞬避》で背後に廻り込んだリアトの動きを、正確に捉えた一撃だ。どうも、この男は動きが見えずとも勘だけで自分に対応できるらしい。あるいは、信じられないが彼にはこの動きが見えているのだ。リアトは速度を更に二段階上げてから、青年の鳩尾を蹴り刺した。


 流石の男もこれには反応できず呆気なく昏倒した。


「やれやれ」


 リアトの姿が再び現れた時、周りの戦錬士は皆、意識を失っていた。


 死なない様に手加減された一撃がほぼ同時に全員に与えられた為だ。少なくとも、ロビラにはそれが一瞬のことであるかのようにしか思えなかった。ロビラはリアトが捕えた青年を見ながら、称賛の声を上げる。


「あの『黒豹』よりも速いな」

「彼奴は私の弟子だよ。それより、この男を見てくれ」

「ふむ。何処かで見たことがある気がする」


 ロビラが、リアトに抱え上げられた男に近付いた。顔を頭剣布で隠していた男は完全に意識を失っている。歳は掴みどころがなく、何とも言えない。しかしながらロビラには、男の正体が分かったようだった。


「そうだ。恐らくこの男は剣王レアーツ=ルーミンの側近、アルトであろう。式典で一度だけ、剣王の近くに控えているのを見かけた事がある。やけに若い戦錬士だという印象を受けて素性を調べたので覚えている」


 ロビラは考え込むような口調で言った。


「確か……デルフォイ家の次男だったはずだ。それに、剣王の側近として平原の狗と接触していたのもこの男だった。昨日、ベルメーラがそう言っていた」

「この男が剣王の傍付きだと。このデルフォイの人間が!」

「驚くのも無理はないが、事実だ」

「そんな馬鹿な!」


 剣王レアーツ=ルーミンは気でも狂ったかとリアトは思った。あのデルフォイ家の嫡男を傍に置くとは。あの冷徹な兄は気の置ける相手ではない。だがあの家に対する感情は、自分と同じだと信じていた。


 仮にデルフォイとレアーツが手を組んだのならば、本当に兄が自分の敵である可能性もあった。だとすれば自分は絶対に勝てないだろう、とも女は思った。何しろ、あの男は十界法則を読むことができる。ひょっとすると、そのようにして読んだ流れに従って、レアーツは連中と手を組むことにしたのだろうか。


 あの忌まわしいデルフォイ家と。


 彼らはノーラン皇国熱部に広大な領土を持つ大貴族であり、グレルト王国と接している境域領を持つ家でもある。そのため、熱部守護として扱われていた。もちろん、グレルトと接するということは『左角』アディアラ山脈を挟んで、湿部の大国である神聖トルリア教主国とも地理的に近しい関係にあるということだ。


 あの兄がデルフォイに力を持たせるとは信じられない。

 やはり中央の情勢は複雑怪奇に過ぎるらしかった。


「とはいってもアルト=デルフォイは裏王剣でも暗殺士でもない、ただの上級剣術士だ。類まれなる剣才はあるとしても、ここにいるのは少し解せない」

「誰かが彼らを動かしたということではないのか?」

「分からん。何がどうなっているのやら」ロビラが答える。


 リアトにはもう一つ、気にかかることがあった。それはアルトの弟である、一人の青年ーーランツ=デルフォイーーのことである。リアトは彼から、アルトのことを聞かされていなかった。だとすれば、弟ランツもまた敵ということになるのだろうか。それも含めて、こいつには問わねばならないことがある。


 リアトはアルトの背に靈気を打ち込んで、彼の目をすばやく覚ました。青年は少し唸ってから、目を瞬かせてリアトを視界に捉える。その途端、目が驚愕の色を帯びた。彼は瞬時に靈気を放ち、場から脱しようとする。


 だが当然ながら、その身体は土魔術によって拘束されていた。空体が肉に食い込み、さながらぐるぐる巻きの燻製肉のようにして、青年を地面に転がした。


 リアトが殺気を滲ませた。


「どうやら私を知っているらしいな」

「『捨剣』のリアト……想像以上に速いね」

「黙れ。何が聞きたいかは分かっているな」

「琥珀髪。イルファン=バシリアスの行方だろ」


 アルトが鼻を鳴らしながら言った。


 彼はしばらく身体を捩っていたが、逃げられないとみると、すぐに話し始めた。青年の表情には微かな笑みが浮かんでいて、どこか余裕があるようである。


 アルトが言った。


「貴女が第三皇子に接触して、この場所を突き止めることは分かっていたよ。見事にここまで来てくれた。僕たちの予想通りすぎて呆気なさすぎるほどだ」

「ほう、待ち伏せか。私を殺して何の意味がある」

「貴女にちょっとだけ協力して欲しいことがあったんだ。それで動きを止めるとか首だけ持ち帰るとか上手いことしようと思った。でもちょっと速すぎた」


 その話を聞いてロビラが顔色を変える。


「『捨剣』殿、これは罠かもしれん。すぐここを離れるべきだ」

「分かっている。だが情報が途切れればすべてが終わる」リアトが言った。

「うんうん。二人とも正解に近いから、好きに悩むといいよ」


 にこにことして青年は話す。

 リアトはその姿にひどく嫌悪感を覚えた。


「次に話す言葉次第では、生かしておかん」

「なら黙っていることにしよう」

「貴様、ふざけているのか」ロビラが言った。

「別に。最善の答え方が沈黙であっていけない理由はないし、最悪よりもちょっとだけ良いものを選ぶのは当然でしょ。『土の手』、貴方こそふざけてるね?」


 青年はあまりにも饒舌に話しすぎている。まるで捕われることを事前に想定していたかのような表情には微塵の動揺も無く、声色にも焦りがない。妙な男だとリアトは思った。若者ならあるはずの愚直さが感じられない。強かに、相手を操ろうとしているような話し方をする。まるでラフィーのように。


「もういい」

「黙らないほうがいいかい?そりゃ正解だと思うね。貴方たちは情報が欲しい。僕はお喋りしたい。利害関係は完璧に一致してるし、僕もやぶさかじゃない」

「イルファンの場所を言え」リアトが問うた。

「おっと、でもそれだけはちょっと教えられないんだな。『剣獣』の遺物を奪うまでは自由にしないよ。あの子は少しの間だけ、借りさせてもらう」

「待て、遺物だと言ったか」リアトは彼の言葉に違和感を覚えた。


 ヴォファンの遺物。そのような言い方を兄がすることはない。だとすれば、この男はレアーツ=ルーミンの部下ではない。単独、あるいは別の勢力で動いている、例えば。リアトは真正面から問う事にした。


「デルフォイ、貴様は誰の命令で動いているのだ?」

「命令……」


 その時、アルトは何かを掴んだような顔をした。まるで長いあいだ分からなかったことがようやく分かったのだと言う風に。だがその表情は一瞬で消えてしまって、あとにはなんの痕跡も残らなかった。


「あぁそうだね。皇王ラハリオか剣王レアーツか、それとも、君を嫌うローレンかその辺の小悪党か、脳子エルミスタットか熱部守護アランドか……」

「誰と手を組んでいるのだ?」


 リアトは眉を強くひそめてアルトを睨む。その眼には、何かに対する懐疑の光が色濃く輝いている。先の表情から解かれ、元来の人を食ったような顔に戻ったアルトは、このリアトの問いに何か気の利いた軽口で答えようとした。だがそのとき、彼は何かに気付いたらしく、不意に遠くを見ると言った。


「ん、悪いけどこれ以上は話すつもりないよ。どうやらお迎えも来たようだし。ここからは傍観者に徹するとしよう。それを許してくれるなら、だけどね」

「リアト殿、後ろだ」ロビラがそう言った。


 ロビラとリアトがさっ、と後ろを振り返るとそこには悍ましい気配を纏う人間が、あった。まるで闇そのものが人の形をとったかのような不吉な気配だ。アルトはその奇妙な人間をにこにこと眺めている。


 灰のローブを着た男、いつの間に現れたのだろうか。気配どころか呼気も感じなかった。霊力も身体に満ちていないように思える。まるで死人か幽鬼のような男。それ、の口から、ゆっくりと息が零れる。そこに居るのに、居ると思うことができなかった。ただ薄気味の悪い魔力の塊だけが肉に詰められているような。


 あぁ間違いない。

 こいつが『骸』だとリアトは確信した。


「計画とやらはもういいのかい」アルトが言った。

「もう終わった。仕掛けは上々、お楽しみの時間はそう遠くはないだろう。それにしてもお前、一人で先走ったのか。『捨剣』相手に命知らずなことだな」

「腕試しさ」能天気な声が背後から放たれる。


 アルトと『骸』はやはり協力関係にあるらしい。


 じりじりと距離を詰めながらリアトが背の剣を抜こうとした瞬間、ロビラがそれを制した。理由が分からずにリアトは困惑するが、数瞬後に知れた。なんと、『骸』の手に握られた短剣が現れたり消えたりしていたのである。確かにそこに正面から突っ込むのは愚かしいというものであった。 


「うーん未知のものに臆してる奴の顔を晒してるね。臆病は退屈だよ、大体は足を引っ張るだけ。何も分からなくたって突っ走るのが大正解ってやつ」

「おい小僧。そういう台詞を吐くのは勝ってからにしろ」


 暗い双眸を少しも逸らさずに『骸』が言う。


 その声はリアトが思っていたよりも人間らしい色合いを帯びていた。だがそう思ったとしてもなお、彼女の身体から力が抜けることはなかった

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