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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
一節 皇都拐者
14/43

1-3 稚獣拙愛/ルハラン

Δ


 目が覚めるとなぜだか涙が出ていた。


 イルファンはそれを人差し指で拭ったが、涙はつぎからつぎへととめどなく溢れだしてきた。どうして私は泣いているのだろうと思っても、夢の中の出来事はほとんど思い出せなかった。ただ、夜の幻のなかで再び赤い炎をみたような気がした。あの燃える城の幻視だ。きっとあれは、悲しい出来事なのだろう。


 少女は再び目を閉じた。

 もう涙は止まっていた。


「どうかしたか」リアトが問うた。

「どうもしません」イルファンが言う。

「ふん。泣いているのを見るのは久しぶりだ」


 そう言うとリアトは少女の傍に座った。


 辺りはまだ暗く、辺りには灯りひとつない。眠る前に焚いた火はもう消えてしまっていたが、季節のためか寒さはまったくなかった。ただ、静かだった。


「悪い夢を見ました」少女が言った。

「夢?」

「街が燃えていく夢です」


 その瞬間、リアトの顔に翳が差したことを少女は見逃さなかった。

 少女は不安げな顔で囁いた。


「何か知ってるんですか」

「あぁ。それはきっと記憶だ」リアトが言う。

「でも幼い頃の記憶はありません。ローレッドで師匠と過ごしたことしか覚えていないので。あとは傭兵とか魔獣と闘ったことくらいしか、思い出せなくて」


 イルファンはリアトがその事実を話してくれるとは思っていなかった。人間が隠し立てをするというのは、特に信頼できる相手がそうするというのは、深い事情がそこにあるということだからだ。何もかも聞くことが幸せとは限らない。


 案の定リアトは言った。


「思い出す必要はない」

「はい」イルファンが頷く。


 女は言い聞かせるように言葉を発した。


「それは、お前にとって良くない記憶だ。ひどく嫌なことを思い出すことになる。だから私は話さないと決めている。だが霧の森でも言ったように、私はお前に答える準備も、しているのだ」リアトがこぼす。


「準備ってどんなことですか」

「お前がどうして私の下に来たか。そのことを知りたいと願ったことはないか」

「それを知ればどうなりますか?」

「私は臆病だ。悪いようには話さない」


 そう言うとリアトは珍しく酒瓶を出した。


 剣術士は酒精を即座に分解してしまうため酩酊しない。だが、意図的に靈気を解いて強い酒(靈酔酒)を飲めば、酔うこともできる。取り出されたのは、数ある靈酔酒の中でもかなり強い酒『ホーボックの蒸留酒』だった。


「私の前で飲むなんて久しぶりですね」

「これから皇都でなにがあるか分からない。最後の酒になるなら飲んでおきたいと思ったのだ。別段おいしいというわけではないが、思い出の酒だからな」

「『華豹団』の思い出ですか」

「そうだ。この酒は上手く酔える」


 リアトは膝を抱えて、まるで子どものように遠くを見つめた。

 その目は既にまどろんでいる。


「もし本当に知りたいなら、いつでも聞いてくれ。私はいつか話さないといけない。親のことも、もっと幼い頃のことも。乾湿戦争の話は長くなる。聞きたくなってからでは遅いかも知れないぞ」

「はい」

「聞きたくないのか」

「はい」

「いつか私を恨むぞ」

「そんなことはないです」


 イルファンは下唇を噛んでいた。


「分かった。先のことは先回しだ。お前にとってすべてが本当に必要になるまで待っていよう。今は目の前のことを、優先することにしよう」


 リアトは疲れていた。

 ため息を長く吐いて、彼女は珍しく眠りについた。


 待たせているのは自分だと、そう思いながら。



Δ



 それから二時間ほどした後に出発した。

 もうすぐ完全にハオンが照りだす。


 今度はもう休まない。首都まで止まらずに駆ける予定であった。疲れが完全に抜けたとは言い切れないが、馬にも霊水を飲ませたのだ。速力はむしろ、増していた。この分だと半日も掛からないと思われた。


 余裕ができるとイルファンは、自身の臭いが気にかかった。ここ数日は水も浴びていないため、少し臭い。どれだけ休んでも臭いだけは変わらないのだ。湖を魔獣が占領していたという事実がイルファンに思いだされる。あの第四湖で水浴びをするのは御免である。だがせめて、服だけでも着替えたかった。


 ところで着替えと言えば、リアトは奇妙な服に着替えていた。彼女は何故か皮鎧も付けておらず、身体には剣帯しか装備していない。どういうわけか、ドピエルで着ていた服は汚れた為に着替えたようだった。新しい服は戦闘に向いていないであろう、可愛げな服だ。薄くて絹のように風に靡いており、美しさも備えている。一体、師匠はこれを何処に持っていたのだろう。


「怪しい」少女が呟く。

「何だ?」リアトが怪訝そうに唸った。

「いや、良い服ですね」


 こうなると、ラフィーが言っていたことが気にかかってしまう。師匠はこうみえて……どうなのだ。注視していたら、射殺すような眼で睨まれる。イルファンは余計な詮索をしないことに決めた。


 黙り込んだまま、のんびりとは到底言えない速度で疾走する内に、辺りの景色が変わってくる。木々がまばらに立ち始め、遠くには小さな家もいくつか見えた。あの家は農民のものだろう。そばには田畑もあった。イルファンはこういう農家で暮らしてみたかった。野菜を作って馬を飼って、働くことは辛そうだけど、のんびりごろごろと生活してみたかった。


 聖邪月には暖炉で暖まって天地月には草を刈って。そういう生き方も将来はできたらいいかもしれない。少女はそう思ったが、即座に頭を横に振った。その夢を叶えるためには師匠の寿命を待つか、正面から打ち倒すかしなければならないが、そんなことができるとは到底思えなかったからだ。


 風のような速さで、ひとつの村が過ぎていった。

 たくさんの子と、大人たちが見えた。


 その中には赤子を木桶で洗っている、汚らしい身なりの母親もいた。近くには年老いた女性が座り込んでおり、皺まみれの顔は優しげに二人をみている。とても長く生きた人間なのだと少女は思った。


「なぁイルファン、私ははるか昔、普通の生活を送りたいと思ったことがある。滑稽に思えるかもしれんが、街の人々や農民たちのように人生のなかで誰の命も奪うことなく、子どもを産み育てたいと思ったことがあるのだ」


 馬上のリアトが言う。


「案外似合うかもしれません」

「鍬を握ったこともある。私はそのとき、お前の親や仲間たちとともに暮らしていた。お前が産まれるころの話だ。大陸熱部の村落に身を置いていた」

「いきなりその話ですか」


 リアトが唐突に両親の話をしようとしたので、イルファンは面食らった。普通そういうのはもっと落ち着いたときに話すものだろう。馬の上ではなく。


「駄目だったか。だがこういうなんでもないときの方が気負わなくていいだろう。それに大した話をするつもりはなかった。お前にも親がいて、農民のように暮らしていたときがあったと言いたかっただけだ」

「師匠のご両親はどんな方だったんですか?」


 そう問われたリアトは、妙な顔つきをした。

 まるで自分に親がいたことを忘れていたかのようだった。


「私とレアーツの親はロクでもなかったな。なにせ私は顔も知らない。気がつけばいなくなっていたからな。必要がなくなって捨てられたのだよ」

「そうなんですか?可哀想です」

「ふむ。お前からみればそうかもしれんが、養父母と兄は良くしてくれた。妙な奴に育てられるくらいならばとっとと捨ててくれた方がいい。まぁ拾われなければ私も兄もそこで死んでいただろうから、あまり軽々しくは言えんがな」

「私の両親はどうでしたか?」


 リアトは少しも考え込まなかった。


「素晴らしい親だった」


 イルファンはそれに答えなかった。答えるべき言葉がまったく出てこなかったからだ。自分が幸せだったということは喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか。少なくとも、両親は無事ではなさそうだった。


 近くのみかん畑で老人や大人たちが土を耕していたが、彼らのなかに両親がいたりするという物語はきっと起こらないのだろうと、そう少女は思った。


「皇都はもうすぐですか?」

「あぁ。じきに着く。農民たちが外で作業しているのに傭兵も国属兵もいないだろう。それはこの近辺に魔獣が近寄らない確信があるからだ」リアトが言う。


 彼らが襲われないのには幾つかの理由があった。


 一つ目は、すぐに感じられた魔獣除けの忌避剤だ。これはいくつかの植物を乾燥させたものを燻した煙であり、ただ単に『獣避け』と呼ばれている。畑のそばでは灰色の煙が高々と立ち昇っていた。この薬の効果は非常に高いとされている。事実、イルファンの愛馬はその臭いを敏感に嗅ぎ取ったらしく、みかん畑の手前で首を嫌そうに振り始めた。仕方なく腹を蹴ると、トルーンはしぶしぶ歩いた。それが示すとおり、この薬だって完全に獣を寄せ付けないというわけではない。興奮した魔獣や知恵のあるものは稀に獣避けの煙を我慢して人を襲うのだ。


 その他にも、隠蔽結界陣があった。小さな農村でもお抱えの魔司士というものは居るもので、彼らはつたないながらもある程度の効力を持つ隠蔽結界を村全体にうすく張るのである。浄眼を開いてみれば、この畑を半透明の膜のような呪体が覆っているのが見えた。これは魔獣にしか効かない魔術であるので、イルファンには効果がない。二人の馬はあっさりと結界を抜けていった。


 ひどい村では木製の柵や浅い堀しかないというから、それに比べれば、この村の二重の防御策はそれなりに備えられたものだと言える。だがしかし何よりも人々を安心させ、そして魔獣を恐れさせていたのは、こうした魔術や道具のたぐいではないのだろうとイルファンは思った。


 ここには普通の農村とは異なるものが満ちている。

 それは、一帯を覆う強力な剣気である。


「これを剣王一人が放っている。いわゆる『守護剣』と呼ばれるもので、皇都の周囲半馬遊ほどを覆う靈力の大結界だ。魔獣一匹通さないと言われている」

「こんなもの、どうやって維持してるんですか」

「レアーツはたぐい稀なる拡気の使い手であり、その特質から『延手剣王』と呼ばれている。私が喉元に剣を当てられる距離よりも遠くから、私を斬れる」


 つまり《速気》でも間に合わないということだ。


 まだ首都エルトリアムからは距離があると言うのに、イルファンはまるで痺れるようにそれを感じていた。圧倒的な剣王の気配は、鋼同士を叩きつけあう時の甲高い音にも似ていて、ひどく鋭利だった。少女はそこに、周期的な意識の介在を感じ取った。自分たちは彼に見られている。この気は恐らくだが探気も兼ねているのだろう。剣王という人物に気を許すのは危ないのかもしれないと少女は思った。


「さぁ大街道が見えたぞ。頭剣布を外すなよ」

「もちろんです」

「琥珀の髪は珍しいからな」


 リアトは剣王の気配を気にも留めずに言った。彼女は遠くの方を、草原が途切れる場所を見つめていた。どうやらそこに湿部全体を繋ぐ巨大な街道があるらしい。あそこからは舗装された美しい道になるのだ。


 皇都には、もうすぐ辿り着ける。

 少女は強めに馬の腹を蹴った。


「いよいよですね」

「あぁ、丁度いい頃だ。朝にもなる」


 闇を司る天獣クァロ=ケイン。

 その力が弱まれば朝が訪れる。


 夜の名残が熱の方角へと溶け込む様にして去ると、輝かしい光が冷から現れた。まばゆい光に照らされるように、熱の方角に城壁の小さな影が見えた。


「あれがエルトリアムだ」

「小さく見えます」

「いいや大きい。だが大声を出すなよ」


 リアトが懇願するように言った。


 街へと近づくにつれて人々の視線が二人へと集まってくる。通行管理の審査を待っている商人や農民の目だ。彼らは列をなして門の前で待機していた。

 

 もちろんリアトはそれらを気にする風もなく、馬を曳いていく。剣を持った少女と女剣術士の組み合わせは、なかなか興味を引くようで、気づけば、どんどんと人の目が集まり、くすくすと笑い声が交わされていた。といっても、ただ女剣術士ということが人々を引き付けたわけではない。そんなものは日常茶飯事で、笑うほどのことではない。都会人にとって面白いのは田舎者だ。


 つまり、注目を集めていたのはイルファンだった。


「なんなのこれ!!」少女が叫んだ。

「黙れ馬鹿」リアトが言う。


 しかしイルファンは首を真上に上げたままで高い高い城壁を隅から隅まで眺めていた。田舎者は大抵これに圧倒されて、朝から晩まで門の前で過ごすのだ。


「頼むから見上げるのをやめろ」

「でも、デカすぎるんですよ」

「それがエルトリアムだ」

「でも、デカくないですか?」


 リアトは頭を抱えた。


「でも、もクソもない。騒ぐのをやめるのだ」

「でもおっきぃぃい!」


 少女は何度も飛び跳ねる。

 リアトにも止められないほどの興奮だった。


「なぁ、そろそろ門に着くのだぞ」

「ほんとに、すごい!」


 もう何度目になるかも分からない驚嘆の声をイルファンは上げていた。そのたびに甲高い少女の声が人々の眼を引き付けるが、この繁華な街道では少女の小さな姿や声など、すぐに人波と騒音に隠れていった。ともすれば、リアトとも逸れてしまいそうになるが、蒼髪の女は不思議なことに、人間を近寄らせない術を身に付けていた。というか、異様な気配を放つリアトは人々に避けられていたのだ。


 それ故にイルファンが迷子になることはなかった。


「街の中はもっとすごいぞ」

「でかそう!」少女がまたも叫ぶ。


 リアトがため息を吐いた。


「まぁ楽しむといい」


 イルファンは大都会エルトリアムの、もはや意味不明な巨大さに圧倒されていた。なにせ街道ときたら、それだけでリアトと住んでいた家がすっぽりと収まるほどの広さがある。だというのに、ただ大きいだけではなく、建造物は、その全てが異常なまでの繊細さと丁寧さで築き上げられていた。


 滑らかな魔石材エレングリオンと御影石の敷かれた街道は美しく伸びているし、正面の大門には細かな彫刻がびっしりと取り付いている。驚くべきことに、それらにはちゃんと、耐魔石ヘルトメランが使用されていた。術式士たちがやるという大規模攻撃魔法にも耐えられるようになっているに違いない。


 眼前の堅固な城壁は、端が見えないほど遠くまで続いていた。これでは数万の軍勢が来たとしても、乗り越えることは適わないだろうし、街を囲んで兵糧攻めを行うことも到底できないだろう。エルトリアムは街自体が要塞なのだ。


 よく見れば、上空は高密度の結界術式陣で覆われているようにも見える。これでは攻城兵器を用いても崩せない。ただの街だというのに、ここが落ちる場面がまったく思い浮かばなかった。この巨大な結界は壁内に埋め込まれた魔晶石で発動しているようだが、一体どれほどの財をつぎ込んで作られた街と結界なのだろうか。確かエルトリアムは古代バルニアの都市だったと記憶していた。


 イルファンはそう思い、古い時代の荘厳さが残る城門を見上げていた。もはや見上げると言うよりも首を垂直に傾けるに近いが、恥ずかしさは少しもない。


「物珍しそうな顔だな」リアトが言う。

「流石に!」少女は興奮を抑えきれずに叫んだ。

「ふむ、しかしもう少し目立たないようにしろ」

「もう目立ってますよ」


 リアトは何も言わなかった。


 それから二人は長い行列に律儀に並んだ。

 入都時の検問である。


 商人連中や数少ない傭兵たちは、懐から立派な金属板や巻物を取り出して門番に見せている。どうやら組合や他の都市で発行されている身分証明書であるらしい。魔獣病の侵入と人口の過剰な増大を防ぐために、こうした取り締まりが課されているのだろう。そして、ここで弾かれた者がドピエルに行くのだ。


 自分たちの番が来ると、リアトとイルファンは通行証代わりに真交流の剣輪を見せて街に入った。これが傭兵ならば術式の刻まれた組合証を見せて通ることになるが、リアトは組合に手配されているらしいので、当然剣輪で入ることになる。


 イルファンもそれに倣って、首にかけた丸い金属板を門番に見せた。門番の男はその金属板が『朱魔鋼』であることを見て取って、ほんの少しだけ驚いた表情を見せたが、面倒を嫌がったのか、何も言わずに少女をそのまま通らせた。


 不思議だったのは、リアトの剣輪に男が何の反応もしなかったことだった。というのも師匠の持つリハントラウスは非常に目立つ虹色の神鋼なのである。リアト自身は気にしていないようであったが、門番たちが驚かなかった理由が分からなかった。師匠が頻繁にこの街に訪れるというわけでもないはずである。


「リハントラウスって皇都では普通なんですか?」


 だとすれば、この街は特級剣術士だらけだということになる。だがリアトは眉間に皺を寄せた。女は胸元に手を突っ込んで剣輪を取り出した。


 意外にも、その色は濃紺。

 これは明らかにリハントラウスではない。


「真交流の上位関係者であることを示す輪だ」

「なるほど」


 イルファンは納得した。


§


 人差し指と親指で小さな輪を作る。剣術士が持つ剣輪とはそれ程の大きさである。この銘板には流派と名前、それと返還術式が刻み込まれているが故に、不届き者によって盗まれることはない。この小さな板は、その命を奪われない限りは銘者に帰属する術式具の一種でもあるのだった。


 輪に用いられる鋼は剣術士の級毎に異なる。初級剣士はダミオス鋼(玉魔鋼)の板であり、ルヴォア鋼(朱魔鋼)の金属板は中級剣士を表す。上級ならばイェロン鋼(緋神鋼)。特級ならば、虹色の不壊神鋼リハントラウス(天鋼)と決められていた。これらの金属板には穴が開いていて、鎖を通せるようになっている。それを首から吊るせば、五大流派全てに共通なこの輪が、武力の証明となるのである。


 そのため貴族の中には、剣輪の収集を趣味とする者も多い。闇社会では、戦で命を落とした幾数人もの剣術士の輪が驚くほどの高値で取引されているという。


§


 都市に入って、まずイルファンが驚いたのは行き交う人々の格好(それに人の異常な多さ)だった。彼らはゆったりとした羽のような服を着ている。どれも色とりどりで赤に黄色に蒼に桃色と綺麗な色ばかりだった。これでは魔獣の目を引いてしまう。そのうえ服のすべてが、フィロレムや辺境の村では到底考えられないような薄い作りである。万が一、魔獣に襲われでもしたら一たまりもないだろう。


「あの服、なんなんですか」


 リアトの服を見ながらイルファンが言う。


「ノーランの特産品、ラチェットだ。イムファ蚕の糸で編まれている。肌触りもよいし軽くて涼しいぞ。欲しければ買うといい。私もついていってやろう」

「や、魔獣に襲われたらどうするんですかね」

「あれでなかなかの魔法耐性があるから問題はない」


 そこでイルファンが注視していることに気付いたのだろう。

 リアトは自身の服の裾をつまんで少しだけ持ち上げた。


 彼女が無表情に言った。


「私も持っている」


 知ってるとイルファンは思った。リアトの顔は無表情を装っているものの、眼は所在なさげに揺れ動いていた。思い返せば、隠れ家の箪笥にも可憐な服がたくさんあったような気もする。いつもより表情も柔らかいような気もする。


 ひょっとして師匠は、


 ちらりと師匠を見たら目が合った。


「どうした。私の服装がそんなに気になるのか」

「いや、ラチェットの事は忘れます」

「これは、正装が汚れたから仕方なく着たのだ」


 絶対、嘘だ。

 と思ったがイルファンは言わなかった。


 好奇心は寿命を縮める。師匠を怒らせるのはまっぴらごめんだった。大都市ではお洒落な服を着たいんですか、なんて誰が言うものか。 ルファンの性格は左程よくないが、ある程度の節度はあった。少なくとも自分の命を守れる程度には。


「命大事ですからね」

「何の話だ?」リアトが問う。

「こっちの話です」と少女が言った。


 ふん、とリアトが鼻を鳴らした。


「なら構わないがあまりきょろきょろするんじゃないぞ。ドピエルのようなことはないが、剣を持った子どもは舐められるものだ。用心しておけ」

「大丈夫です。師匠から離れないかぎりは誰も寄って来ないみたいなんですよ。ほら見ての通りです。何でかは分からないんですけど魔法みたいですね」


 リアトは何も答えなかったが、少女の言葉どおり、リアトとイルファンの周囲には誰も近寄らなかった。だが、そのおかげで街中をゆっくりと、楽に観光することができた。やはり持つべきものは怖い師匠なのかもしれない。


「店が多すぎて何が何か分かりませんね」

「当然だ。その中から掘り出しものを探すのが醍醐味なのだ」

「掘り出し物ってなんですか」

「剣とか鎧とか魔法具とか、いろいろあるだろう」

「ラチェットしか見当たりませんけど」


 初めて見る都会の風景はなかなか刺激的だった。特に人々がひしめく市場などは良い。馬に騎乗して通り過ぎただけだが、商人たちが叫ぶ光景は活気に溢れていて楽しそうだと少女は思った。ローレッドでは無口な行商人が偶にやってくるくらいだったから、イルファンにとって、商人という連中は笑わないものだという印象があったが、大都市の商人は笑顔でいることが基本的な態度であるらしい。


「いらっしゃい、なにか買わんかね、」

 市場の男たちが声を掛ける。

「無視しろ」

「買い物しないんですか?」

「ここで捕まったら半刻は抜け出せん」リアトが言った。

「買ったらいいじゃないですか」

「馬鹿め。奴らの口車に乗せられれば終わりだぞ」


 それはリアトが口下手すぎるだけなのではないかと思うが、少女は言われた通りにした。すると商人たちは異様な気配の二人に臆して、声を掛けなくなる。これはこれで寂しい物なので、隙を見てこちらから声を掛けてみた。少女の眼に止まったのは、透き通るような白さの、柔らかそうな服だった。


「ねぇ、このラチェットっていくら?」

「お、嬢ちゃん、御目が高い。そいつはイムファの最高級品で銀貨一枚。色も選び放題。緑以外なら全色在庫あり。三枚買っていくなら一枚おまけでつける」

「なんで緑がないの?」イルファンが問うた。

「この辺りじゃどこも仕入れねぇのさ。それより嬢ちゃんどうするんだ。お前さんは旅の剣術士、服に縁があるとは見えねぇ。冷やかしなら帰ってくれよ」

「んなわけないでしょ。財布と相談してただけ。えーと、銀貨1枚は駄目ね。私の全財産は地道に貯めた銀貨4枚と30レールだもの。さすがに払えないわ」

「なるほど。だったら20レールで手を打とう」


 銅貨5枚で1レール。

 銅貨100枚で銀貨一枚だ。


「それってちっとも安くなってないじゃん!」

「ははぁ、算術ができるたぁ剣を持った子どもにしては利口だな。よし!こうなりゃ仕方ない、大盤振る舞いの特別価格、18レールでどうだ」

「まだ高いわ!!あと一声!!」

「うーむ。なら17レールだ」

「15!!」

「16だ」商人が勝ち誇ったような顔をした。

「分かったそれでいいわ!!」


 勝ち誇った顔は、次に値切ったらもう売らないつもりだったからだろう。イルファンはここが折れ時だと思った。素直にレール硬貨を16枚支払う。もちろん財布の中にはまだ280レールも残っているが、節約は大切だ。


「どの色にするんだ」商人が言った。

「んー、白いのを一枚ちょーだい」

「まいどあり」


 商人が手際よく服を畳み、これまた薄くてつるつるとした布袋に入れる。見た事のない変わった袋だったが、商人に聞いてみればすぐに答えてくれた。これはロアンという植物を溶かして形成した袋であるらしい。この袋に入れれば服には虫が付かず、嫌な臭いもすぐに消えてしまうのだとか。


「ほら、白のラチェットだ。髪留めはおまけ」

「すごいきれい。でもなんで?」

「次に嬢ちゃんが来たときは財布の中身をちゃんと使ってもらおうと思って」

「それは勿論そうするわ。服が良ければね」

「手厳しいねぇ」


 渡された小さな髪留めは、本当に綺麗なものだった。


 蝶をあしらったものが銀色に塗られていて、色とりどりの細石が丁寧に嵌め込まれている。イルファンはそのようなものを初めて見たので、大変に喜んだ。すぐさま髪につけようとするが、リアトに小言を言われると嫌なのでそれは止めた。


「嬢ちゃんにはこの銀塗りが一番似合う」


 商人がそう言って笑った。


 イルファンは商品を受け取り、屋台を後にする。しばらく歩くと道端にリアトが待っていたが、どういうわけか、特に怒られることはなかった。というか彼女も大きなロアン袋を持っていた。その中には濃緑の外套が入っているように見える。


 イルファンは疑問に思った。


「それって緑ですか?さっきの店では売ってませんでした。てっきり、緑ってこの辺じゃ売ってないのかと。別に緑が欲しいとかじゃないんですけど」


 思わずイルファンは尋ねていた。それにリアトが怪訝な顔で答える。彼女には答えたくない理由があるらしく、きっかり5秒も粘ったほどだった。


「……あまり売れんので普通は置いていないのだ」

「なんで売れないんですか?」イルファンが尋ねた。

「この街で顔の利く男が緑色を過剰に嫌っているからだ」


 顰め面でリアトが言った。


「じゃあなんで買ったんですか?」

「ちょっとした嫌がらせに使えるからな」


 何やら理由がありそうだったが、詮索すると何が出てくるか分からないし、それで死にたくはない。今回の旅ではリアトの知らなかった部分が幾つも見えてきていて、イルファンは楽しさ半分恐れ半分といった気持ちであった。実のところ、楽しさというのもなかなか趣味の悪いものではあるが。


「行くぞ。ここらではスリも多い」リアトが言った。


 賑わう市場を抜けて、静かな雰囲気の裏道に入る。とはいえ山とは違い、誰もが沓を履いているので、辺りにはかっぽかっぽと石畳を歩く音が響いていた。この道を歩く生き物は人だけではない。馬や牛に豚などの魔獣以外の生物もたくさんおり、イルファンは中でも特に猫たちが気に入った。


 リアトにそれを言うと、サリルガルという魔獣をお勧めされた。なんでも魔猫であるそうで、性格は極めて凶暴で爪は鋭く、火炎も吐くらしい。その容貌は豚に似て醜悪、肉には肥溜めの臭いを纏わりつかせているが、自分よりも強い存在には滅法弱く、飼い慣らせば使い勝手の良い魔獣なんだとか。


 絶対にそんな生き物は飼いたくないのだけどやけに薦めてくる。これはもしや、さっきの仕返しか何かだろうか。イルファンはげんなりしながら答えた。


「変な魔獣はいりません」

「そうか。なら、次はこっちへ行くぞ」


 そのまま二人が入ったのは商人街だった。


 ここには大きな店が幾つも立ち並んでいて、武具から服飾に日常の道具類までもが売られていた。庶民には手が出にくいのか、ここに居るのは整った服を着た市民階級ばかりだ。ようよう探せば、貴族の物らしき豪奢な馬車も幾らか見える。


 リアトによれば、この手の大きな街は、外側から庶民街・傭兵街・商人街・市民街・貴族街というような順に作られることが多いらしい。因みに市民というのは、街の中で正式に職を持っている人とその家族のことで、庶民とは下層職や出稼ぎの労働者や一時的な旅客を指すらしい。つまりは下級市民というところだろう。


 また、安心なことに、エルトリアムに傭兵街は存在しなかった。この街では騎士と剣術士の地位が非常に高い為に、傭兵組合は歓迎されなかったらしい。一応、何人かの傭兵は常駐しているのだが、それも数えられる程だという。確かに街中を見回しても、剣術士や兵士らしき者はいるが、傭兵は見当たらない。


 街の人々はほとんどが、身なりの良い市民であるようだった。流石にこの規模の都市になると衛生管理や、治安維持が行われているので貧民は少ない。そもそも貧民街が出来てしまうのは、生活に困窮している人々がたくさん居るからだ。ここではそうならないように、職業から子供の数までが都市内条例で定められていた。


 イルファンは街のあちこちに立てられた札に記載された条項をちらちらと見る。――リアトは周囲を警戒するふりをしながら、服屋をちらちらと見ていた。


「なに見てるんですか」

「防具だ。いついかなる時にでも敵に対応できるように服装についての知識は持っておかねばならない。たとえ会食用の礼服や、舞踏華装でも戦えるようにな」


 流石に正面からそう言われては何も言えない。


「私は都市条例を見てました」

「この街を治める奴はこんなもので治安を守れるつもりか」

「師匠、これそんなに難しい決まりじゃないですよ」

「そうだ。つまり愚か者の気休めだ」


 実際、都市条例というのはかなり簡単なもので、市中で剣を抜いてはならないとか、エルトリアム騎士団への侮辱は皇族への侮辱と見做されるとか、闇刻の三時(二十一時)以降の外出は禁ずるとか、路上生活者は認めないとか、戦錬士と市民が争う場合は戦錬士を市外退去あるいは指斬り落としとするとか、とかとか。


 なかにはそれなりに物騒なものもあるが、おおむね簡単に守ることのできる決まりごとだった。うっかり違反でもしたら都市外退去になるが、条例は余所者には適用されないことが多いので心配することはない。


 とはいえ、実際心配なのはイルファン自身ではなくて、リアトのことであった。彼女は凄まじく自分勝手で短気な人間なのだから何をするか分からない。そう、弟子気取りのランツが笑いながら言っていたことをイルファンは思い出していた。


 なんでもリアトは、乾湿戦争ではひどく傍若無人だったそうなのだ。彼によれば、イルファンに対して短気な面を出すことは少ないが、剣友や親しい傭兵には信じられない程の冷酷さと横暴さを見せるときがあるらしい。


 ラフィーに対しての態度からも伺えるが、リアトは基本的に高圧的に話す。それが長年で固まってしまった彼女の生き方であるし、自然なのだろう。だが目上の人間に対して圧倒的強者のように振る舞うのは利口とは言えない。師匠がどれだけ強くても、貴族を軽んじるのは止めてほしかった。なにせローレッドでの前例も一度ならずあるのだ。大都市とか皇都とかだとそれが命取りになる。


 ほんとに口が悪いだけで悪い人じゃないんだけどなぁ。あ、口だけじゃなくて目つきも悪いか。こういうこと、面と向かっては絶対言えないんだけどね。などと思っていると、少女はリアトから殺気のようなものを向けられて飛び上がった。


「なんですか」

「私から離れるな。考え事は暇なときにしておけ」


 流石に頭の中を読まれたわけではないらしい。


 イルファンは安堵したが、同時に少し不満も覚えた。この辺りは綺麗に舗装された広い道で危険などなさそうだ。過保護に扱うのは止めて欲しかった。そう思いながら道を歩いていると、行き交う人々がちらちらと自分たちを見ているのが分かった。傭兵ならばともかく兵士や剣士は珍しくないはずだけど。


 不思議に思って尋ねると、リアトは答えてくれた。


「穢れの思想がある。普通の兵士や剣士は商人街や市民街は避けて通るものだ。血と死が婦女子に取りつかないようにな。単なる配慮にすぎんが」

「なんで、別の道を行かなかったんですか?」

「大通りを見るのは初めてだろう。遠慮することなど別にない。恐れるのは連中の勝手にすぎないさ。お前はお前がしたいようにここを楽しめばいい」


 あまりにも優しいのでイルファンは目の前にいるのが本物か疑いそうになった。それはまぁ、随分と失礼な疑いであったが、日頃の行いからして当然である。しかし、今の言葉が本当なのだとすれば早朝の街をわざわざゆっくりと歩かせたのは、不器用なリアトなりに観光をさせてくれたということなのだろうか。


 イルファンはそれに気付いてにんまりと笑った。


「ありがとうございます」少女が言う。

「買い物は好きなのだ。観光は好きではないが」


 リアトはぶっきらぼうに答えた。


「なるほど。名所はやっぱり行かないんですね」

「良さが分からん」リアトが嫌そうに答えた。


 やはり師匠は師匠なのだなとイルファンは思った。


 そうこうしている内に大陸に朝が訪れた。

 今まさに、闇の天獣の力が完全に失われたのである。


 空が真っ白に明るくなるとエルトリアムの人通りも増えてくる。街は更にたくさんの市民で溢れかえっており、馬を連れては移動も出来ないほどであった。そこで二人は馬を馬留めに繋いで本道場まで向かうことにした。


 愛馬トルーンとのしばしの別れである。

 

「さっさと馬に別れを告げろ」

「心無い師匠。この子はあたしの相棒なんです」

「馬連れでは移動するのもおぼつかない」

「どーせ、師匠がいたら道なんて勝手にあくじゃないですか。トルーンだけでも連れて行きましょうよ。そんなに難しいことじゃないと思うんですけど」


 とそのとき、イルファンの腹が鳴った。


 思えば昨日からほとんど何も食べていない。靈水は気を充たすけど腹は満ちない。物欲しそうな目で師匠をしばらく見つめると、リアトは苦笑した。


「飯屋に馬は連れ込めん」

「ごめんねトルーン」薄情だった。

「馬を置いたらなにか探してみよう」


 師匠が言ったので少女は頷いた。


 街中を程なく歩いていると飯場街に出た。ここはどこの店からも美味しそうな匂いが漂っている。クレリア風も良いし、乾部風も食べてみたい。あちらこちらの看板が、食べたことのない食べ物だらけだった。だが、それらは市民向けの落ち着いた店でイルファンには入りにくく思えた。結局入った飯場は剣術士、特に真交流門下生向けの大衆食堂だった。


 そこにイルファンらが吸い寄せられるように入ってしまったのは、ここが一番、剣士で賑わっていたからだが、それはある種の運命的な選択だった。


「すごい良い匂いですね」

「ノーラン名物のテチャラの手羽揚げだ。エールとともに流し込めばどれだけ食べてもやめられん」


 店の中は熱気に包まれていて、たくさんの剣術士が騒いでいた。ふと耳を傾ければ、やれ、どの流派の誰が強いだの、どの技が有用だの、まさに剣術馬鹿と言った風であって聞いているだけでも面白い。イルファンはそのまま近くの席に座ろうとしたが、リアトが左手で素早くそれを制した。表情は少し硬くて緊張している、というかなんとなく嫌そうである。


「どうしたんです?」

「テチャラどころではなくなりそうだ」

「もしかして敵ですか?」少女が剣に手をかける。

「イルファン、下がっていろ」リアトが言った。


 何を警戒しているのか分からないが、言われた通りにする。師匠は食堂の奥をじっと見ていた。今まさに店主が注文を受けている辺り、そこの客だ。円卓に着いているのは三名で二人は帯剣している。剣術士か剣士であるらしい。性別は奥から時計回りに、男女男。楽しげに談笑しているが動きに隙はないように見える。


 すると、リアトは気配を消して一歩下がった。


「この店を出るぞ」

「へ?」


 イルファンがそう言うや否や、少女の首根っこをリアトが掴んだ。そのまま空中に勢いよく引き上げ、店を出ようとする。だがその様子は酷く焦っていて挙動不審だったうえに、連携が取れていなかった。思わず暴れてしまった少女の脚が積み上げられた椅子に当たって音を立てる。がきん。とてつもなく嫌な予感がした。


 リアトの動きが止まる。イルファンがおずおずと振り返れば、店内の全ての客が二人を射殺すように見ていた。完璧に目立ってしまっていた。


「何してんだ、おい」


 最も彼女に近かった禿げ頭の男が声を上げる。


 彼には、リアトがか弱い少女を摘み上げる悪人に見えたのだろう。苛立たしげな彼女の眼を見て、些細な事で子どもに腹を立てたのだ、と早合点したのだ。何せリアトは特級剣士で、その眼光の鋭さは常人の物ではない。女の力量を見て取った男はすぐさま剣に手を掛けると、靈力を練り上げようとした。その時。


「マト!やめとけ!」


 飯場の最奥から鋭い声が飛んだ。

 その言葉は何処となく間抜けな古い傭兵訛りだった。


「みんな落ち着くんや。そいつはわしの知り合いじゃ」

「くそ」すかさずリアトが悪態を吐いた。

「ルハラン様、この女は何者なのです」マトが問うた。

「おっと、それも説明しよか」男が言う。

 

 イルファンはリアトの力が抜けたのを感じると手を解いて、すとん、と床に降りた。師匠は店の奥を見つめたままで渋い顔をしている。イルファンが離れても気付かないままだ。傲岸不遜な師匠にはなかなか珍しい表情だった。


「お前には会いたくなかったぞ」リアトが言った。

「そう言うなや。会いたかったで」男が返した。

「ルハラン……元気そうだな」


 ルハラン、と声を掛けられた男は仲間二人、特に女の方に何か声を掛けると、ゆっくりと立ち上がる。彼は人波をさらりと掻き分けてこちらへと歩いてきた。イルファンは、彼が先程の卓で最も手前側に座っていた男であることに気付いた。一緒に食事をしていた仲間らしき二人は、興味深げにリアトを見ている。


 果たして敵なのか、味方なのか。


 男、ルハランの身長はリアトとほぼ同じ。歳も恐らく三十前後であるように思われた。髪はノーラン人に多い蒼髪。身体は細身でありながら鍛えられている。服装はどこか、高貴なところを感じさせる剣術士仕立ての滑らかなラチェット。その姿はどこかの貴族かあるいは、それに仕える騎士を思わせる。


 そして背には、至極一般的な丈のバルニュスが一本差されている。材質は恐らくだが、朱魔鋼と思われた。内なる靈気までは距離があるのではっきりと分からないが、イルファンは彼を真交流の上級剣術士だと見立てた。


「その子どもはなんじゃ。お前の子か?」

「違う。私の弟子だ。イルファンだ」

「イルファン、そうかお前、」男がにやついた。

「もう一度言うが、私の子ではない」


 リアトがほんの少し怒気を滲ませながら言った。


 ルハランはそれを見てにやりと笑った。両手を脚衣に突っ込んだままで隙だらけだが、不思議とその身には如何なる剣も通用しないような雰囲気があった。


「んならまだ独身か」

「殺すぞ」


 そう言いながらもリアトが剣に手をかける様子はない。もう怒気もない。ラフィーと対していた時とは異なり、何故か今の師匠には余裕がないように見えた。


「まぁ、積もる話もあるけどさ」

「なんだ」

「とりあえず俺の隣に座りぃや」


 イルファンの顔がさっと青ざめた。天下の特級剣術士にこの男はなんということを言うのだ、と少女は思った。だがやはりというべきか、リアトは背負いの剣に手をかけることさえしなかった。


 その時だった。

 ルハランと共にいた女が立ち上がって、男の肩にそっと手をかけた。


「ルハラン。その方を紹介して下さらない?」


 女の身長は低く、イルファンよりも少しだけ高いくらいだ。年齢さえもそう変わらないかもしれない。華奢な肉体には筋肉など少しもついていないように見える。一見すると彼女も貴族のようだった。しかし、その背からは極細の長剣レディメの柄が覗いていた。この長剣は五大流派が一つ、魔剣流の使用するものだ。バルニュスの二倍程度の長さを持ち、剣身はしなやかで強靭。斬り合いや打ち合いというよりは、刺突に特化した長剣であり、魔力をよく通すものだ。


「リアトはわしの古馴染みで初恋の人じゃ」

「ルハラン、斬るぞ」


 リアトが歯をかたかた鳴らしながら男を睨みつけたが、ルハランは全く意に介さずに魔剣流の女の紹介を始めた。リアトは彼女を一瞥し、その美しい緑髪を見て一瞬だけ眉を顰めた。どうやら、何かがひっかかったらしかった。


「この子はベルメーラっつうてな。わしの仕事仲間でエズアル人。ほんの少し前にノーランに来てくれたんや。こう見えてめちゃくちゃ強いんやで」

「こう見えてって何よ。私は強いわよ」

「見た目が可愛いってことやで。可愛くて強いのはすごい。そんでめちゃくちゃ強いのはもっとすごい。エズアルにもええ子がようけ居てるんやろなぁ」


 男の言うとおり、女は整った顔立ちをしていた。丁寧に施された化粧と美しい緑の髪がそれをさらに際立たせている。服も華美なラチェットであり、剣士と言うよりは、やはり貴族かなにかの令嬢に見えた。もっとも、イルファンは令嬢がどんなものか、正確には知らないのでただの空想での話ではあったが。


「ま、花でもあり蜂でもあるわけやの」


 ルハランは付け加えて言った。


 首にかかる剣輪を見てもそれは分かる。店内の灯りを受けて輝く、緋神鋼の透明な赤色はイルファンのくすんだ朱魔鋼とは比べるべくもないほど美しい。ベルメーラは少し気の強い女性のようであって、リアトに張り合うように自慢げにそれを見せた。そして挑みかかる様にリアトに話しかける。


「貴女も剣士なのよね、上級剣術士かしら」

「彼女は真交流の特級剣士や。剣輪は隠しとるけど」

「まさか!」


 ルハランがそう言うとベルメーラが急に目の色を変えた。挑戦的な色を失って、何処か尊敬するような眼差しが現われる。どうやら彼女は何かに気付いたようであった。ベルメーラがやや興奮気味に尋ねる。


「特級剣術士ですって?貴女が?だったらまさか、貴女様が『捨剣』のリアトなのですか?冗談じゃないですよね?まさかこんなところでお会いできるなんて」


 それを聞くと、店内の客がリアトから数歩離れようとした。

 特に先程の禿げ頭の男などは失神しそうなほどに驚いている。

 

「乾湿戦争のときはそう呼ばれとったな」ルハランが言った。

「まぁこれは、とんだご無礼を致しました。このベルメーラ、偉大なる剣術士を兼ねてより敬っております。この度は貴女様にお会いできましたこと、」


 だがしかし、その口上の最中でルハランがベルメーラに何かを囁いた。すると女の表情が急に凍りつき、一瞬だけ怒気が漏れる。それから、なぜか仏頂面に変わった。そしてどういうわけか、それ以降ベルメーラは黙り込んでしまった。


「すみません、また後でお話しましょう」彼女が最後に言った。


 ルハランがけたけたと笑った。


「気にせんでええで、リアトは優しいから」

「優しいなどと言うな」苛立たしげに女が呟いた。

「じゃあ怒るんか?」

「劇中の私はまるで違うから、初見の無礼には慣れている。そもそも、そんなことで怒っていれば戦錬士は皆殺しだ。お前も含めて礼儀正しいやつなどいない」

「それはどうも。しかしなんで首都に来たんや?ここは嫌いやったろう。兄上をぶっ殺しに来たんやなかったら、まさかレアーツ様に呼ばれたんか?」


「ああ。まさしく剣王に召喚されたのだ。この子の奥義習得でな」


 そう、リアトは言いながらイルファンの方を見やったが、ルハランは特段に驚いた様子を見せずに軽く顎に手を添えて言う。何かを考えているらしい。


「この子が、奥義習得するいうんか」

「そうだ」

「今は中級剣士か」

「そうだ」


「ほーん、凄いね」


 少しの溜めのあと、ルハランがまた笑った。


 凄いね、ってなんなんだ。イルファンは思ったが言わない。ルハランは大変面白そうにイルファンを見る。と、瞬間、その頭剣布に目を留めた。その眼が何か異質な物でも見るかのようにきゅっと細められる。イルファンはその視線に何故か恐ろしい物を感じて、リアトの後ろにさっと隠れた。


「振られてもうたね」

「じろじろと見るのは不作法だ」

「ごめんやで、よろしくな」


 男はそう言ったが、その声色には何かの含みがあるように思えて、イルファンは怯えた。自分でもどうして怖いのか分からないが、イルファンは怖かった。


 ふるふる、と手足が震える。


「リアト、今からどうすんのや?」

「飯を食って、本道場に向かう予定だ」

「わざわざ今日、行くっちゅうんか?それは、なんやら陰謀めいたもんを感じる日取りやなぁ。せやな。うん。ほんならやっぱわしらの卓に来てくれや」


 ベルメーラは何かを言いたげに顔を上げたが、口を尖らせるだけでやはり何も言わなかった。二人の関係性を気にした様子もなく、リアトは無表情を貫く。


「思わせぶるな。悪いが遠慮する」


 リアトはルハランに対して、嫌そうにそう言った。


 だが恐らく師匠はあんなことを言いながら、一緒にご飯を食べるのだろうとイルファンは思った。でも自分にはルハランと落ち着いて会話出来る自信がない。はっきり言って、絶対に行きたくなかった。


「ほんまに頼むわ。リアトだけに内緒の内緒のええー話も聞かせたるからさ」


 男の顔つきが一瞬変わる。


「それならば仕方ない。期待してみよう」


 もちろんそのわずかな変化を見逃すリアトではなかった。

 しかしながらイルファンはもう限界だった。


「先に出てます」


 なんとか聞こえるか聞こえないかくらいの小声でそう言うと、こっそりと少女は店の外へと向かった。幸い、店内には人が多く居た。面倒事を恐れて、退席する客も多かったので上手く出られたのである。


 リアトもルハランも、追いかけては来ない。店から出たイルファンは止めていた息をようやく吐きだし、話が終わるまでの間、店の前で待つことにした。通りかかるたくさんの市民はそんな少女に気を留めることもない。イルファンはしばらくの間、その場にしゃがみ込んで地面をじっと見つめていた。


 待っていても、リアトもあの男も出ては来ない。放って置かれたのだろうか。なんとなくそう思った。別に誰かを責めたいわけじゃないけど、


 なぜか、二度と会えないような気さえしたのだ。



Δ



「お前、気付いていたな」リアトが言った。


  それを聞いて、ルハランは軽く頷く。


「そばに置いとかんでええんか?」

「大丈夫だ。この距離であればすぐに分かる。イルファンは私が鍛えたのだ。どんな相手でも持ちこたえられるだろう」


 ここは食堂の最奥に設けられた卓であり、席には四人の男女が座っていた。他の卓とは少し距離があるので、何を話しても聞かれることは無い。もちろん熟達した戦錬士ならば聞けるだろうが、その時はリアトがそれを察知できる。気を凝らして何かを聞こうとすれば、その気配は相手に伝わるものだ。そして特級の戦錬士であれば、たとえ眠っていたとしてもそれを感知できるのである。


「あの子が一時期流行った『琥珀髪』の子どもかい」


 ルハランが勿体ぶった古い傭兵訛りで言う。彼は何時頃からか、このような言葉遣いをわざとらしくするようになった。自分隠しの一環だろうと思えたが、本当はなぜなのかというのはリアトも知らなかった。


「剣布で隠していたのによく分かったな」

「眉見たらまぁ、分かるやろ」

「なに」リアトの顔色が変わる。


 当然のことではあるが、頭剣布とて万能ではない。髪は全て隠し込めても、眉は隠せていなかったのだ。愚かにもリアトはそれに気付かなかった。


「抜けとるな」

「しかし、大丈夫だろうか」


 にわかに狼狽えるリアトを見るのが新鮮だったのか、ルハランは笑った。リアトがこういった姿を見せることは少なかった。戦時中の彼女は冷静沈着な一匹狼であり、その判断は多くの場合、勘という範囲を超えるほど正確に働いていた。


「こうも初歩的な失敗をするとは驚きやな」

「ローレッドにいる期間が長かった。人とも会うことがなかったから、他人がどう見るかという視点が抜け落ちているかもしれない。他にはないか?」

「特には。強いて言うなら、話のわりには随分と洒落た服を着てるやないかお前ってことくらいやな」


 はじめてリアトは本気の殺気を飛ばした。というか無意識に飛んでしまっていた。ルハランがぞくりと震えた素振りを見せたが、彼はなんとか平静を装うことに成功したらしく、頬を引きつらせながらにやりと笑った。


「まぁ心配せんでええ。琥珀髪を知っとる奴などそうおらんし、眉だけやと金髪茶髪の熱部人と区別が付かん。わしが分かったんも噂を知っとったからやしな」


「そうか」リアトが安堵した。

「父と兄上がよう話しとったんや、のう、ロビラ」


 そう言うとルハランはおもしろそうに、正面に座る男を見た。男もまたノーラン人である。髪は蒼髪にして異様に長い。歩くのに邪魔に思えるほどであった。彼の体躯は平凡な市民にも劣る程に弱弱しい物であったが、体内には言語を絶するほどの魔力を蓄えている。この壮絶な魔力には覚えがあった。高級位だ。


 リアトの見立てでは、男はノーランでは珍しい魔法士で、それも上級魔法士よりも高位のものである。リアトの表情が戦錬士のものへと変わっていく。その張りつめた空気を捉えたのか、ゆっくりと男が口を開いた。優しげな声色であった。


「ロビラと申す。お初にお目にかかる。リアト殿」

「その属を見るに『土の手』とお見受けする」


 リアトは真剣な目で答えた。


 彼女はいつの間にか浄眼を開き、ロビラと名乗る男の身体を見つめていた。これは呪界を見通す靈的視覚である。靈界から引き出した力で認識を強化して魔法士を見れば、彼の周囲に漂う魔力の質が分かる。もっと正確に言えば、彼が魔力をいかように変質させたのか、その残滓が視覚的に認識できるのだった。


「私を知っておられたか。これは光栄だ」


 ロビラは笑みを浮かべて言った。意外なことにその顔が心底から喜んでいるように見えたので、リアトは彼を試すように鋭く冷えた言葉を掛けた。


「三年前にはクレリア方についたと覚えている」


 女の言葉に、ロビラがわずかに顔色を変えた。


§


 クレリアとトルリアの間にはここ百年でも十六度の戦乱が起こっており、その度ごとに開戦の口上は変わるが、三年前の戦乱の直接的な原因はクレリアが術式兵器を開発したことだった。それこそ術式機械の一種『機両』。これが二国の力の均衡を著しく崩す代物であった為に、トルリアは兵器開発の凍結を求めて軍を動かしたのである。


 この戦乱に際して、傭兵組合の構成員はバレア派と機械派の二つに別れた。


 クレリア人が多くを占める機械推進派は新しく作られた『機両』に乗り込み、トルリア神聖教主国の騎士団長レプロン=リニア率いるバレア派と激突した。だがこの戦いは当初に予想されていた程、機械派に有利なものでは無かった。というのも、新兵器である術式機械がその圧倒的な力を十分には揮えなかったからである。


 機両戦争当時の術式機械技術は、重大な点で未熟だった。『叡智』フィルホルン=ロギオスの復元開発した方式では、魔法呪力によって起こした二次的な実界内力、すなわち単純物理法則を用いて『間接的に』機械を動作させるしかなかった。


 つまり、魔素を無駄なく動力へと変換する技術が無かったのである。その為、必要な魔力消費量は必然的に大きくなった。当初に動力と目されていた畜魔石マズキュランでは補えないほどの魔力喰らいの誕生である。


 故に『機両』に内蔵されたのは溢魔効率の高い魔晶石であったが、これは使い捨てるには、高価すぎる代物であった。仮に小魔晶石を『機両』に用いたならば、クレリアは戦後の余力を失ってしまう。結果、苦肉の策としてフィルホルンが採ったのは、術式兵器『機両』の能力を本来よりも大幅に引き下げることであった。


 その為、クレリア方は折角の兵器を用いながらも、その力を揮うことが出来ず、結局は魔法士と剣術士の入り乱れる激しい争いが起こる事となった。


 これが俗にいう『機両戦争』である。


§


 リアトの言葉は天秤の様に、試す色合いを帯びていた。

 ロビラの顔に浮かんだ色はすぐさまに消え去る。


「ふはは、あの戦いで随分と名が広まったようだ」


 男は不遜にも大上段に言葉を発した。


「まさかトルリアとの戦話がここまで届いていたとはな」

「ローレッドの山奥まで、だ」

「それは遠い。実に。真実が霞むほどに」

「真実は、体験した者にも分からん」

「まぁそうだ。まったく律儀な戦錬士もいたものだ」


 どんな時でも十界法則は働いているという認識。それは幼い頃より刷り込まれている。嘘や曖昧な事柄は自身の弱みとなる可能性があるのだから、どんな些細なものであれ、潰せる内に潰しておかなければならないのである。


「しかし、貴殿のような素晴らしい戦錬士に名を知られているというのは気持ちが良い。凡百の剣士などとは違って、悪いことがあるとすれば回りまわった覚えのない返礼くらいのもの。だがそれもまぁ心配なさそうだ」

「いや、トルリア方なら殺していた」

「それはなぜだ?」

「あの『戦争』では多くの者が名を挙げたのだ。傭兵や剣術士、そして貴族や聖職者を何人も殺してな。その中には私の知己も少なからず含まれていた」


 リアトは冷たい声色を少しも変えずにそう言った。


 彼女はあの戦いで数人の旧友をトルリア方に殺されていた。それ故に、たとえお互い様であるとしても、彼女のトルリア国への恨みは相当なものであった。優秀な戦錬士であるリアトだが、感情までは失われていない。あの戦争を笑い話にするつもりは毛頭なかった。剣を振るった当事者であれば対応も変わったかもしれないが、部外者として眺める分には争い事は『気持ちのよいもの』ではないのである。


「それは配慮が足りず申し訳ない。私たち魔法士が戦場を駆け回ることはそう多くないのだよ。だからこういう場合に気分を害してしまうことは、ままあるのだ」

「そうか」素っ気なく女が言った。

「ふむ、あまりこの話はお好みではなかったかな」


 ロビラ=ケティスはリアトの苛立ちを正面から受けると、その白髪交じりの髪を掻きながら苦笑した。男は壮年。五十を少々過ぎた頃といった様子であり、滲み始めた皺には老人の強かさと若人の野心とが共存しているように見えた。ロビラは何かを思いだすように遠い眼をして言った。


「ではもっと楽しい話をしよう。たとえば琥珀髪の話などどうかな。そう、私が陛下と前線に立っていた頃だった。あのヴォファンという男が出てきたのは」


 彼によって、場の話題は再び琥珀髪に戻っていた。ロビラの考えは分からない。ただの気まぐれであるようにも見えた。それ故にリアトはなるべく自然に聞こえるように答えた。探られるのは好きではなかった。


「十五年前だ」

「虎にも似たヴォファンは凄まじい剣士だった」


 虎にも似たヴォフォン。その名を聞いてリアトの胸が少し痛んだ。あの男は本当に強かったというのに、それでも戦いには負けたのだ。倒すべき敵共は、一個人には余りにも強大すぎた。いや、本当にそうだろうか。ヴォファンは一体誰に負けたのか。もしかすると、彼は己自身に負けたのかもしれない。そう思うこともできなくはなかった。思案に入ったリアトは、迂闊な事を言えずに黙り込む。


 そこへルハランが割り込んできて言った。


「わしの親父よりも強かったらしいやないか」

「えぇ、ラハリオ様よりも私よりも強い、獣のような男でしたよ。忘れもしない『剣獣』は身の丈ほどの剣を縦横に振り回して、大陸中の魔法士を真っ二つにしていましてね。はじめは単なる噂話ですから信じてませんでしたがね」


 そう語るロビラの頬は少し緩んでおり、懐かしい時代を思い出すように瞳は輝いていた。ルハランも大変興味深げに彼の話に耳を傾ける。リアトも時折相槌を打ち、一昔前の英雄たちの話に花を咲かせた。そのまま、三人皆が参加した十五年前の乾湿戦争に話が及ぶと場はさらに盛り上がる。


 特にリアトが特級剣士となった所以、アルフォニアの剣王との一騎打ちの話は、立ち聞きすまい、と心に決めていた近くの剣士たちの耳すら惹きつけた。


 だがただ一人、ベルメーラだけは蚊帳の外にされた為か、それとも別の理由からか不機嫌そうな顔をしていた。柔らかそうな頬を膨らませ、ルハランをじっと睨んでいる。それに気付かないリアトではないが、相手をするのも面倒なので無視していた。と、そこでルハランが女の剥れた顔を見て面白そうに声を掛けた。


「なんやベル。年寄り共の話はおもんないか?」

「えぇと、ルハラン様が全然絡んでくれませんし」


 ベルメーラは頬を膨らませると、柔らかな猫なで声で言った。なんとわざとらしい媚びなのだろう。リアトはそれを見て、思わず眉を顰めてしまった。


「そんなん言うたら絡むやないか」

「あぁほんとですか?」ベルメーラが微笑む。

「当たり前やないか。わしはベルのためなら何でもできる。剣を振ることだけやなく、愛を語ることもな。なんでも遠慮せんと言うてくれたらええねんで」


 ルハランはなおも彼女の機嫌を取ろうとする。その様子はどこか芝居じみてはいたものの、リアトを不愉快にするには十分なものであった。この男が女に目が無いことはしっているが、それでもこの状況で若い女を相手にするとは、なんとなく腹が立つ。特に理由などはなかったが腹が立つのだ。


「機嫌直してや。後で商人街も寄ったるって」

「そうですね。私は今すぐ行きたいですわ」


 柔らかな声を発しながらベルメーラがルハランに擦り寄る。その表情は麗しく、女のリアトが見ても可愛いと思うほどであり、彼女の細身な身体を覆う華衣もまた、ふわふわと春花の花弁のように舞っている。恐らくだがリアトが着たのではああいう風にはならぬだろう。あの可憐さはベルメーラが着ているからこそ生まれるものなのだ。仮にあれを手に入れたとて意味がないということはすぐに分かった。


 あのような可愛さを別の方法で出すとするならば、


 しかしそこまで考えたところで、リアトは自らの本懐を思い出した。自分はルハランやベルメーラのように遊びに来たのではない。そう思うと急に、まるで猫のように目を細めているロビラの横顔が目に入った。そしてそれは、不味い飯を食べたときのような、しかめ面でもあった。この三人の関係がどういったものかは分からないが、親しくは見えないとリアトはふと思った。


「ルハラン。お前らは一体どういう関係なのだ」

「ん、わしとベルとロビラのことか?」


 んー、とルハランはしばらく思案してから答えた。にやりと悪だくみをしているような顔をしていたが、この手の表情にはいささか覚えがあった。


「ベルはわしの恋人で、ロビラは親父から付けられた護衛兼見張り」

「ほう。恋人とは奇妙だな」


 リアトは眉を顰めて答える。ルハランの趣味は知っている。子供じみたいたずらが好きな男。それが第三皇太子であるルハラン=ノーランの悪癖で、昔の自分が飽き飽きしたゆえんだった。それは数年経っても変わってはいないらしい。


「なんや嫉妬か?」男が言う。

「いや。その女の緑髪について考えていただけだ」


 それを聞いて、ルハランが瞬く間に嫌そうな顔をした。痛い所を突かれてしまった、というような表情だ。まったくどうしてすぐにばれるのが分かっていて、このような無用な嘘を吐くのだろうか。リアトは眉間に皺を作って睨む。


「怖いなぁもう」

「私の髪がどうしたと言うのですか」


 ベルメーラがきょとんとした声で言った。


 なるほど。彼女はこの街に来て、本当に日が浅いのだな、とリアトは思った。それでも、観察力があれば気付いたはずだった。だからこれはまぁ仕返しだ。冷たい笑みを浮かべた彼女の目はベルメーラを見つめていた。


 何処か楽しげに。それでいて嫌そうに。


「ルハランという男は緑色が心底嫌いなのだ」リアトが言った。


 沈黙の後、ベルメーラの瞳がどんどん凍り付いていく。先程までの表情はどこへやら、今の彼女は剣士に相応しい冷徹な目をしている。その一方で、ルハランがなにか不味い物を食べたような顔をしていた。


「はぁ?そうなんですか?」ベルメーラの氷のような声。

「特質後遺症だ」申しわけ無さそうに男が言った。


 言い訳ではないが、言い訳と捉えられても仕方ない。塩をかけられたナメクジのように縮こまった男は、伏し目がちにベルメーラを見つめる。小動物然とした彼の姿はとても、あの皇王ラハリオの息子とは思えなかった。


「茶番を終わらせましょう、ルハラン様」

「分かった」


 ベルメーラが声色を急に落として冷ややかに言う。先程までとは打って変わってうんざりとした声だが、これが恐らく彼女の素なのだろう。女は苛々を隠さずに、汚い言葉を口の中から吐き捨てるように言った。


「恥ずかしくも申し上げますが、愚かしくも、ルハラン殿下がリアト様を嫉妬させたいと仰ったのです。偉そうに女心を語っている癖によくもまぁそんな幼稚なことができましたね。話の邪魔をされたときは正直、殺意が沸きました」

「相変わらず餓鬼くさいな。うんざりする」


 リアトは話の流れに合わせて彼を責めたが、その時ベルメーラが少しだけ嬉しそうな顔をした。しかし、それは恐らく自分の気のせいであろう。しばしの沈黙の後、「今回もすまなかった」とルハランはバツが悪そうな顔をして謝った。


 そんな彼をベルメーラが冷やかに睨む。どうやら会った時から多少の演技をしていたらしく、かなりの苛立ちが募っていたらしい。あのロビラも破顔して、ようやく重荷が取れた、という風にため息を吐いた。


「下らぬ茶番でしたな」ロビラが冷ややかに言う。

「こんな早くに気付かれるとは」

「というか、緑が嫌いだと初めて聞きましたよ」


 ベルメーラが責める様にルハランに言う。彼女の声には鋭くとがった棘があり、並みの男ならばそれを聴くだけでぶるぶると震えあがってしまうだろう。今までの人生でこれ程、冷たい声を出す人間は数人しか知らないな、とリアトは思った。その何れもが女だと言うのは面白いことでもあった。


「うんざりする」リアトがしかめ面で言った。

「ベルに言えば傷付くかもしれないと思ってしまった」

「嘘くさいですね」

「この通りだ、許してくれ」


 本当だろうか。


 何か意図があって隠していたのではないか。そもそも緑髪の女を積極的に仲間にするなど、いくらルハランが好色であるとはいえ、奇妙なことだった。ルハランは本当に緑色の存在が駄目だと言うのに。


 と、男の言いわけを聞いて、ベルメーラが言う。


「まぁ私は気にしませんが」


 それを聞いたルハランは下唇を突き出して、少しふざけるように笑った。とても二十代後半の男とは思えない軽さであってリアトは顔を歪めた。


「よし。許してくれてありがとうな」

「その傭兵訛りをやめろ。古臭いし似合っていない。お前は皇族らしく喋っているのが結局はお似合いだと私は思うぞ」

「それはお断りやわ」ルハランが顔をしかめる。

「どっちもお似合いではないと思いますがね」

「確かに。黙っているのが一番でしょう」

「それくらいで勘弁してくれ」



 三人に責められてルハランは流石に落ち込む。それを見たベルメーラがやむなし、といった様子で美しい髪を束ねてイムファ絹の布で覆っていく。髪を隠すと印象がすこしだけ変わる。リアトは眼前の女の顔を、どこかで見たことがあるような気がした。だが彼女とは間違いなく初対面のはずだった。


「あなた方は一体どういう関係なのだ」リアトが問う。

「実のところ、我ら二人は護衛なのだよ。皇王陛下の命でルハラン殿下の身辺をお守りしている。まぁ、実際には殿下に振り回されっぱなしなのだがね」


 『土の手』ロビラ=ケティスが答えた。戦争でも知られる有名な武人であるので、リアトも彼の名前はすぐに分かった。存在位格にもそれは明らかだった。古い記憶では皇王ラハリオの友人である魔法士であったはずである。実際に会うのは初めてではあるが、リアトは強大な魔法士の一人として彼を覚えていた。


 だがその一方で魔剣流の女は記憶になかった。会ったこともないばかりか、武勇を聞いたこともないに違いない。後学の為にどうかと尋ねれば、気難しそうなロビラは顔に似合わず、快く彼女のことを教えてくれた。


 ベルメーラは冷部のベイル大公国の出であり、彼女の父とエルトリアムの剣王との個人的な縁故でノーラン宮廷に召し抱えられるところとなったそうだ。ほんの数日前に遠路はるばる冷部から到着した彼女であるが、その美貌から既に下級貴族や上級商人たちから求愛されているのだとか。確かに、彼女の持つ色白の肌はノーランには少ない美の象徴である。


 余談だが、剣の腕も確かであり、真交流の上級剣士と比較しても遜色ないらしい。縁故ではあるものの、彼女は取り立てられるだけの実力を備えているのだそうだ。とはいえ、ルハランたっての希望からベルメーラは護衛任務だと言うのに、貴族の令嬢が着るような華美な薄絹のラチェットを着せられ、剣などまったく似合わない、貴人のするような化粧まで施されていた。


 その為だろうか、このベルメーラは今日一日中、非常に不機嫌でとりつく島もないらしい。ルハランはそれに関して、「似合うから、つい」などと、悪びれもせず言っていたが、そう言っているうちは反省など程遠いだろう。


「お恥ずかしい話ですわ」ベルメーラが言う。

「いや、似合うのは事実だ。悪いのはルハランだ」リアトが言った。

「殿下の女性への執着は皇都一かもしれませんな」

「おい、ロビラ、また誤解を招くようなことを言うな」

「詳しく聞かせてもらいましょうか」ベルメーラが言った。


 ロビラが何気なく零した話によれば、彼はリアトが知らない間も職業や身分を問わず、あちこちの女に手を出して厄介事を生んでいたようだった。なんと驚いたことに今では六人の私生児を設けていると、巷では噂になっているらしい。


 自業自得どころか、軽い嫌悪感さえも覚える奔放ぷり。ルハランはその噂を事実無根であるとして全力で否定したが、リアトは彼を信じるつもりは無かった。何しろ、この男は根っからの浮気性なのだ。信じるだけ無駄と言うもの。待てば待つだけ裏切られるという類の人間を信じてやる必要はない。


 しかしその一方で、リアトはルハランがただの屑男だとは思っていなかった。今も、女漁りのついでに義侠まがいのことを何度もするものだから、市民には豪放磊落で英雄気質の傭兵皇子として扱われているらしい。その意味では民衆の支持も上の二皇子に勝るとも劣らぬのだとか。何が功を奏すものか分からない。


「というか、それほど女好きのルハラン殿下なら色なんてどれも同じでしょう」

「いや、緑は嫌いとかやないんよ。怖いんよ」


 ベルメーラの隠した言葉に気付かず、顔を歪ませてルハランが言うが、憐みの気持ちは湧いてこない。特質後遺症の中では、恐怖症など軽い類のものだった。事実、とある戦錬士などは特質後遺症で記憶どころか人格や精神までも失ったことがあるのだ。それ故にリアトの言葉は冷たく、かつ厳しい。


「お前はそう言うが、意思次第で抑えられるものだぞ」

「特質後遺症は気持ちどうこうやないの分かっとる癖にそういうこと言うんやなぁ。ひどいなぁ。もちろん恐怖症では死なへんけど、無理は無理なんよね」

 

 そう言うとルハランは可憐な女の頭部をちらりと見て、わざとらしく身震いした。すると、ベルメーラは怪訝な顔で彼を見た。そして自らの頭布を撫でて刃を返す。当て付けのように言ったその言葉はロビラを激しく笑わせた。


「ですが、私も恐怖症なのですよ。怖いのはもちろんルハラン殿下です。この国に来てからというもの、いつ産まされるかと怖くて怖くて毎晩震えていますの」

「いやだからそれは誤解だ」ルハランの傭兵訛りが抜けていた。


 この男でも狼狽すると、飄々としてはいられないらしく、その顔は演技ではないように見えた。「なんです。リアト様の連れの少女も怯えていたではないですか」とベルメーラが勝ち誇ったように続ける。


「いや、しかし」

「先日も庶民の少女を宿場に連れ込んだとか」

「あれはあの子の親がだな……」


 狼狽するルハランと追い詰めるベルメーラ。適当に話を聞き流すかぎり、やはりルハランは老若男女を問わない最悪の好色家であるらしい。が、詳しいことは分からなかった。リアトの意識の大半はイルファンに向いていたからだ。


 琥珀髪の少女の位置は変わらずに店の前にあった。どうやら予想していたような襲撃はないらしい。相当の時間をかけて辺りを探って見たものの、悪意を持った戦錬士たちの気配は、ほんの少しも感じ取れなかった。


 リアトは予想が外れたことを知った。敵の狙いが琥珀の少女であれば、敵は必ずここを襲ってくる。市井のけちな盗賊や平原の狗程度の相手ならば、襲撃の瞬間を捕えれば事足りるはずだった。この皇都で事を起こしたならば拷問にかけられる。上手くいけばリアトは、事の黒幕にまでたどり着けるかもしれなかった。


 そう思ったからこそ、リアトはイルファンを一人にすることにしたのである。だが、敵はそう簡単に尻尾を出すつもりはないらしい。実戦経験を積ませるための良い機会だとも思ったのだが。リアトは落胆しながら、意識を卓に戻す。


 そんな彼女の様子を見て、ルハランが言った。


「リアト。そろそろ、ええー話を聞かせたろか」

「どんな話だ」


 顔を上げれば、そこにはルハランの冷えた顔。いつものにやにやとした顔ではなく、嫌な事を話すときの真面目な顔だ。これから語られることは非常に、彼にとっても自分にとっても悪い事なのだ。 リアトはそう確信して、腹の底で覚悟を決めた。ベルメーラとロビラもそれぞれ表情を引き締める。


 空気が変わり、ルハランが口を開いた。


「平原の狗の話や。お前、ドピエルで殺しとるやろ」

「ほう。つまりそれは、お前も敵だということか?」


 リアトの目がすっと細まった。

 その手の中で、硝子の水入れが粉々に砕けた。

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