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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
一節 皇都拐者
13/43

1-2 狗爪信今/ドルゲイル

Δ


 村を出てから馬を走らせること半日。

 ナロケの母親から貰った昼飯はすでに食べ終えていた。


 くちた腹で馬を走らせるが空腹がなくなると次に襲ってくるのは、退屈だ。変わり映えのしない草原地帯と、ろくに話もしないかたわらの女に、イルファンはついに飽きた。もうお尻の感覚がなくなるほどに長く、草叢を走り続けている。


周囲には草しか見えない。街道ではないので人も居らず、家も田畑すらもない。葉先が腰まであるような背高草が風に揺られながら、生え茂っているのみである。時折、原種動物が平穏に暮らしていて、それが唯一の楽しみだった。


 ある街道に差しかかった辺りから、急に原種動物が増えた。鹿や馬に牛に兎。魔獣でしか見たことが無いような生物が闊歩している。湿部とはいえ、やけに長閑な風景だ。こうした光景は非常に珍しく思われた。なにしろ、魔獣病と乾湿戦争の影響で大陸全土が荒廃したと聞かされていたからだ。


 中央大陸のその中央に位置しており、靈魔の安定地帯に当たるチュニス連邦共和国にはこのように原種動物ばかりが集う楽園が存在するらしいが、そうでない地域はほとんどがひどい有様なのだと傭兵たちはよく話した。


「どうして魔獣が出ないんでしょう」少女が言った。

「第四湖の近くは源素が少ないのだ。そのためこの辺りにはまったく居ない。この環境に留まるような骨のある魔獣はいなかったのだろう。まぁいたとしても魔獣は動物を食うわけではないし、すぐに餓死しただろうがな」


 言われてみれば、確かに空気がまずい。


 源素が少ないせいか、わずかな息苦しさがあった。身体にも何とも言えない疲労感がある。体内の闘気や魔力の源である源素がない地域というのは意外に厄介であるようだ。安全ではあるが、ここには半日もいられないだろう。


 聞いた話では、大陸中にそういう地域はいくつかあり、環境に適応した人々が暮らしているそうだ。少々の息苦しさよりも魔獣を避けることを選んだのだろう。それが良いことなのかは少女には分からなかったが、詩人が歌うような『演義者』と同じようなものだとすれば、どこか歪なあり方にも思われた。


「空気がどことなくうすいです。動物はよくこんなので元気に走れますね。私たちとは全然違う生き物だってのが分かります。私なんてもう意識が飛びそう」

「疲れるのは無意識に靈素を吸収しようとするからだ。湖の近くでは力の備蓄をやめておけ。そうすれば靈力は使えんが苦しさは減る。この状況に身体を慣らさなければいつまで経っても治らんし、辛くなっていくぞ」


 リアトはそう言うと、手本とばかりに靈力を身に纏わせる。

 纏った靈気はそれ以上、放出も吸収もされなかった。


「分かってますけど、癖で源素を使っちゃうんです」

「低源素下での修行をすべきだったな」

「今がその修行です」少女が即座に返した。

「残念だが私は本気だぞ」


 イルファンは震え上がったが、女は鼻で笑った。


「まぁ魂乱症でも死にはせんさ」


 それにしても、と少女は思った。どうしてここはこんなに源素が少ないのだろうか。以前に聞いた話では、源素が少ない地域には何らかの理由があるらしい。古代に大規模源素術が使われたとか、封魔術式陣があるとか、とんでもない魔術厄災が起きたとか天獣がどうやらとか。


 どれも話が大きすぎて、いまいち荒唐無稽に聞こえる物ばかりである。ここも何か真実味の無い原因があるのか。冗談のつもりで少女は尋ねた。


「もしかして四湖に何かあるんですか。魔法がかかってるとか化け物が住んでいるとか、前に師匠が言ってたじゃないですか。天獣がどうのこうのって」

「あぁ。ここにもいるぞ」リアトが言った。

「え、本当に?」少女が驚きの声を上げる。

「魔力喰いのドルゲイルだ」リアトが静かに答えた。

「舌を噛みそうな名前ですね」

「命名規則はバルニア崩壊とともに崩れた。ドルゲイルは比較的おもかげを残しているほうだ。有名な魔獣だから聞いたことくらいはあるだろう」


 ドルゲイルの名を聞くのは初めてだったが、周りの魔力を吸収するというのが本当ならば、強力な魔獣だと思われた。皇都の近辺にそんな化物を飼っていて、果たして大丈夫なのだろうか。もし暴れたら剣術士がどれだけ必要になるのだろうか。イルファンはまだ見ぬ怪物に対して、言いようのない不安を感じた。


 心を読んだようにリアトが言う。


「そろそろ第四湖だ。恐れるほどではないさ」

「魔獣も見えますか」びくびくと少女が言った。

「湖が見えれば同じことだ。距離はあるが、気を抜くな」


 リアトは右手の小規模な山岳地帯に馬を進めながら鋭く言った。

 木々に結ばれた赤い紐をいくつも切ったが師匠は気にも留めなかった。


「今の赤いのって」イルファンが言った。

「この辺りに棲んでいる下らない連中の縄張りを示す物だが、特別に気にするほどのものではない。有象無象の山賊など傭兵でも相手にはしないさ」


 リアトの馬は、通常では考えられない速度で斜面を駆け上る。イルファンもなんとかそのあとに続き、大地に蹄を突き刺すようにして丘を登りきった。


 湖が見えた。今朝方、ぼんやりとその影を見ていたのとは違う。黒々とした暗い青が視界一面を覆っている。辺りがやや薄暗くなってきているので、これは藍に近い色のように見えた。イルファンは丘上で馬の手綱を引くと軽やかに降りた。薄い帳の向こう側を覗き込むようにして、暗い湖を見ればそこには、


「あれだ」リアトが言う。

「でか」思わず声が出ていた。


 『ドルゲイル』がまさに、視界一面に広がっていた。

 恐ろしく深い、夜色の水中にそれは居た。


 ぶわりと広げたその躰でぷかぷかと湖中を漂っているぶよぶよの肉体。というか液体のようなもの。ドルゲイルは分類上では液躰系の魔獣であるようだった。


 弾力のなさそうな魔獣の肉躰は大量の流水を薄膜に閉じ込めたかのように波打って、湖の半分以上を巨大な傘のような物で覆っていた。それは生理的嫌悪を催す邪悪な輝きを発しながら湖面に広がっていた。ひどく大きいが、それゆえに脅威は感じない。あまりにも鈍重で、ちっとも動きそうにもなかった。


「あの光ってる大きいのがドルゲイルですよね」

「そうだ。近寄れば触手で魔力を吸い上げられるから誰も近づかないが、訓練された剣術士ならば触れることもできるそうだ。私はあんなものごめんだがな」

「私もその勇気はないです」

「蛮勇だ」リアトが言った。


 眼を凝らしてみると、湖中には無数の管のようなものが伸びている。あれが触手なのだろう。時折、湖上を飛ぶ鳥を素早く捕えて水中に引きずり込んでいる。試しに小石を投げてみたが反応はなく、水底に沈んでいった。ひょっとすると生物にしか反応しないのだろうか。それを見たリアトが言った。


「あやつは魔力に反応するのだ。あの気味の悪い管を使って、大気中からも大量の源素を吸い上げている。お蔭でここいらの空気は薄いのだと昔に教わった。もっともそれだけが理由ではないが、一因であることは間違いないだろう」

「低源素地域になっちゃうほど吸えるものですか」

「こいつ自体が尋常でなく巨大だからな」リアトが眉根を寄せる。

「剣王様なら勝てますか?」イルファンが言った。

「無理だな。致命傷を与えられん」


 基本的に巨獣というのは保有魔力も多く、肉躰も強靭になるので危険度も高くなる。実際、天獣はいわずもがな、特級魔獣の大半が巨獣であった。このような生物に対して、剣でつけた極小の傷など致命傷になり得ないに違いない。


 このドルゲイルにしても、皮膚を裂き、体液を迸らせることは容易いが、その程度で絶命するはずがない。それゆえ、真交流上級剣術士でも特級魔獣と斬り合うことはできない。流派の相性も良くなかった。これが靈気で広範囲を斬り伏せるという、熱部の海刃流ならば万に一つは勝機があっただろう。


「師匠ならどうやって闘います?」


 その問いに、リアトは機械的に答えた。


「この手の魔獣は大規模攻撃を行える魔法士や魔術師と相性がいい。ゆえに剣術士の仕事ではないと答えるのが最良の解答になる。つまり私なら闘わん」

「なんですかその身も蓋もない答え」

「分相応に闘って、愚かな死を避けるのが戦士だ」

「それ何十回も聞いてます」


 口を尖らせてイルファンが言った。

 リアトは少し、思案してから言い直した。


「まぁ強いて言うなら、やはり海刃流だろう」

「ふふん。そうくると思ってましたよ。私は真交流でも勝てる見込みはあると思いますけど。すごい作戦があるんです。聞きたいですか?」

「稚拙な作戦だろうが、聞いてやる」


 イルファンは満足げに口角をあげた。


「どれだけでかくても心臓はあるはずです」

「良い着眼点だ。脳みそもあるぞ」リアトがまた鼻を鳴らす。

「だからそれを《貫》で吹き飛ばすんです」

「素晴らしい。奴の脳みそと心臓はさぞ小さいのだろうな。あの巨体と不釣り合いな、鼠のような心臓ならば、お前の靈力でも粉みじんに吹き飛ばすことができるだろう。どうやらこれは私の負けのようだな」リアトが言った。

「あーはいはい。どうせ私が馬鹿でしたよ」イルファンが言った。


 それからしばらく、リアトと兵法について語り合いながら、湖横の峠を並足で越えた。湖を離れるにしたがって、息苦しさは治まっていった。枯れ木が水を吸い上げる様に源素が身体に取り込まれていくのが感じられた。


 しかしそれでも体のだるさは抜けない。相当量の魔力を抜き取られているのだ。ただでさえ強行軍だ。低源素地域で溜まった疲労は簡単には抜けなかった。重たい腕を無理やりに引っ張り上げて、手綱をなんとか引いている。そんなイルファンを見て、リアトは少しばかり休憩することにした。


 もちろん、ただ休むつもりなどなかった。

 その時間はある意味で好機だったのである。



Δ



「殿下」


 とんとん、

 扉を叩く音でローレン=ノーランは目覚めた。


 ラツィオは既に発ったらしく、部屋には彼の気配の残滓すらない。この扉の向こうにいるのは彼ではなく、自らに仕える『耳』の一人であろう。


 ローレンが入室を許可すると、音もなく扉が開いて太った男が現れた。二ツ名は持っていないが、優秀な密偵である。ローレンは彼を『兎』と呼んでいた。『兎うさぎ』は静かに室内に滑り込むと、胸元から小さな木板を出した。それは転言用術式板のなかでも超遠距離、十馬遊まで転言可能な代物である。


 兎が術式板を机上にそっと置いた。


「報告致します。フィロレム下ドピエルに特級剣士『捨剣』のリアト殿が御出でになられたそうです。連れには剣布を被った少女が一人。『陰迷』のラフィーと接触の後、ドピエルの地下へと潜って行かれた、とのことです」

「ようやくローレッドから動いたか」ローレンがぼやいた。

「ラツィオ閣下はご存知だったかもしれません」

「構わん。あいつは私の身を慮ったのだ。それよりもあの女の目的が気になる。今さら政治にも剣王にも用などないはずだが、一体なんのつもりなのだ」

「おそらく行先はエルトリアムかと」兎が言う。 


 皇太子は悩ましげに麗しい眉根を寄せた。乾湿戦争の英雄『捨剣』のリアトは、戦後しばらくしてその姿を消した。噂では一人の少女を連れて、忌み地ローレッドへと引き籠ったのだという。もはや二度と目にする事はないと思っていた女だ。それだけにローレンは、その対処に悩んでいた。


 彼女とはそれ程知らぬ仲ではない。とは言っても、仲が良いという訳ではなく、むしろ逆である。ローレンもリアトも互いに互いを嫌っていた。人を人とも思わぬ作戦を立てて、それを戦場で完璧に実行する女。あの女の所為で死んだ兵士がどれだけいるか。そのことを考えるとローレンは彼女を許せない。


 彼はその眉間に皺を寄せたままで問うた。


「リアトが皇都に何をしに来るか、分かるか」

「剣王閣下に確認致しましたところ、リアト殿の弟子の奥義習得のためとのことです。優れた剣術士であるため、正式の免許を与える必要ができたのだと」

「それは嘘だな。ありえぬ」ローレンはわざとらしく鼻を鳴らした。


 奥義習得というのはあまりにも馬鹿げた話だった。というのも、真交流の奥義に対する考え方は極めて厳格であり、まず第一に皇都エルトリアムの本道場で修業を重ねている事が条件であるはずだった。その時点でリアトの弟子とやらは門前払いである。何かの試験を受ける資格すらないことは明白だった。


 思い出せば、ラツィオ=メインが上級剣士と成る時も彼は大変な苦労をしていた。生まれつき、剣の才の無い自分とは違い、彼は天才的な剣術士としての片鱗を幼い頃より見せていた。しかしそのラツィオですら正式に上級剣術士と認められたのは戦後しばらくすぎた二十二歳の頃である。


 リアトの弟子は少女。それもローレッドに入った八年前に幼児であった子だ。忌地で修業を行い、当時より成長しているとは言っても、精々十二やそこらの子どもでしかないだろう。彼にはリアトと剣王の意図が分からなかった。


「レアーツが妹に甘すぎるということはないか」

「いえ、剣王様の仰るところでは、それは実力からしてまったく妥当である、とのことで御座います。私にもその真意は図りかねますが」


 剣王の言葉はどうにも怪しいと思われた。少女に奥義伝授を行うなど、何かの建前に違いない。だがたとえそんな少女を無理やり連れてきたとしても、実力がなければ、そう長居はさせられまい。レアーツが、その少女が追い出されるまでの短期間で何をするつもりなのか、それが問題だった。


「その子どもの血縁に秘密でもあるのか。四名家の誰かの隠し子かあるいは他国の皇族の血でも引いているのか。もしくは、リアトをここに呼びつけるための人質や囮という線もある。調べようにも、情報が少なすぎて動けんがな」

「申し訳ありません」兎が頭を下げた。

「謝るな。お前の仕事は申し分ない。トルリアの件と重なっているせいで苛ついているだけだ。気に障ったなら許せ、他意はない」ローレンが言う。


 剣王に政治的思惑がないことは辛うじて分かった。彼女が皇都に来ても何の力にもならない。むしろ、恥にも等しいあの女を道場に迎えるなど、弱みにさえなりうる。いや、だが、それをも引っくり返す陰謀策略がレアーツにあるとすればどうか。ただでさえデルフォイの台頭により、宮廷は混乱していると言うのに、剣王まで権力を揺るがすつもりなのだろうか。ローレンは苦々しく思う。


「平和が続いている内に王座に就きたかったものだが、陛下はその件ではお会いにもなってくれんし、国では剥き出しの敵意が散乱しすぎている。いや、剥き出しならばどれだけ良いだろう。これだけ動きが読めない者が多すぎてはな」

「そのようなことを仰るものではありません」

「ふん。私にとっては、都主をやめて術式士に戻るか、この国の王になるかのどちらかで、それ以外の選択に意味がないのは明白なのだよ。しかし何をするにせよ、情報と味方がもっと必要になる。それとまぁ実績がな。リアトなど捕えても大局は変わらんが、弱みを握れば有用な剣にはなる」ローレンがうそぶいた。


 もう少し早く情報を得ておれば、リアトをフィロレムに入城させられた。そうなれば戦争時に起こした数十の犯罪で彼女を糾弾することができただろう。投獄する事は特権からして到底不可能だが、責めてさえしまえば、彼女の位格は落ちる。


 それがローレン=ノーランの思う後腐れのない最良の復讐だ。リアトの位格が下がるだけではなく、兄であるレアーツの権威もその余波を受ける、そんな一石二鳥の妙手は、今となってはもはや叶わぬ夢であった。


 最高の一手を打ちたかったものだとローレンは悔やんだが、そこで気付いた。そうすると弟に恨まれてしまうという問題があることに。第三皇太子ルハラン=ノーランは、リアト関連では少々、厄介な男だった。


「それにしても今か……」

「いかがなされましょうか、ローレン殿下。情報ではリアト様は未だドピエルにいらっしゃるとのことですが、私の見立てでは河蝕洞を通って平原地帯へと抜け出しているはずです。その後の動きはまだ分かりませんが」

「あぁもうおらぬよ。あの女がまだ戦錬士ならば一所には落ち着けん」


 ローレンは間髪入れずに答えた。ある意味で付き合いの長い彼にはその行動が読めていたのだ。なにせあの女は、感心するほどに徹底した戦錬士なのだから。冷徹でそして残酷だ。もしも剣王が彼女を何らかの理由で呼び出したのだから、如何なる手段を用いても彼女は来るだろう。その歩みを止めることは恐らく出来ぬであろうし、ローレンがそれを止める意味も、もはや無かった。


 なにせ、このエルトリアムはローレンの庭なのだ。いくら真交流勢力が強いとは言っても、リアトを糾弾できないことはない。もちろん、剣王を始めとして、宮廷内に入り込んでいる軍派貴族の反発はあるだろうがそれも皇太子としての力で抑え込めるだろう、とローレンは踏んでいた。


 厄介なのは都市内に居るとされるリアトの協力者たちだった。乾湿戦争でリアトの強さを間近で見た者がこの街には数えきれぬ程に居る。そして、その強さと美貌に惚れ込んだ阿呆共も、ローレンには信じられぬくらいに多い。その筆頭が自分の身内であることを思い出して、彼はげんなりとした。ルハランの大馬鹿者が、この件でなるべく静かにしていてくれることを祈るしかなかった。


「では、リアト様に関しては放置で構いませんね」

「それよりもデルフォイを抑えたい。皇貴会議を控えた今、流石に奴らを放っては置けん。電光石火のごとく動くとは思われんが、会議となれば私を非難する材料が多すぎる。連中はトルリアを食い止める役割を買って出るだろうし、その過程で私の責を問うに違いない。それまでに何としても尻尾を掴むのだ」


 ローレンの目下の敵はリアトではない。アランド=デルフォイを始めとした反都主派の動きは大きな潮流となっており、特に熱部の守護はその政治手腕で以って、貴族議会の一派を築いていた。ローレン率いる都主派に対して、反都主派の数はまだまだ少ないのではあるが、デルフォイの今後のさらなる台頭を考えると放置できぬ脅威である。それどころか、トルリア内乱の次第によってはまさに喉に迫った問題になりえた。会議を乗り切ることができるかどうかも疑わしかった。


 最後の頼みの綱である皇王ラハリオが政治には関与しないと明言した今、ローレンは持てる力の全てでもって、デルフォイ家を叩き潰さねばならない。親友ラツィオを熱部へと送り込んだのは、その布石の一つであった。


 彼に託した任務が成功しさえすれば、ローレンは熱部の力を大きく削ぐことができる。いや、それどころか流れを上手く運べば、デルフォイを潰すことも可能だった。ローレンの切り札はそれ程の力を持っている物だったのである。


「正直に申し上げてデルフォイ家に謀反の兆しはまだ見られません。ですが、デルフォイ家ご子息、アルト殿は先日も剣王邸を離れて第五都市ティノールへお出掛けになりました。撒かれてしまったらしく、目的までは分かりません」

「ただの文官に撒かれるとは不甲斐ない」

「それが、彼もなかなかの手練れのようです」

「面白い。お前の見立てでは目的はなんだ」ローレンが不敵に笑った。

「転移かと思われます。皇都の結界は抜けられずともティノールの旧式結界ならば、鍵の無い無認可術式陣でも転移可能でしょう。そしておそらくはそこから更に転移を行い、トルリア国境域か、グレルト王国へ行かれたのではないでしょうか。かなり、我々にとって都合の良い推測にはなりますが」兎が答える。

「なるほど。それでは移動網の罠にもかからんな」


 『兎』の読みは鋭い。問題は転移先だった。術式陣での転移可能距離は二馬遊。ノーラン皇国内の大都市間の距離とほぼ同じ。当然の事ではあるが、術式陣の乗り継ぎを行なえば何処へだって行ける。長距離転移を何度も行うことによる呪体の損傷を気にしなければ、大陸の端から端まで一月とかからない。


 「奴の行先が熱部ボダットという事はあるまい。デルフォイの人間があそこへ行くのに隠れる必要はない。警戒しているとすれば、むしろ内部の密偵だな。アルトの行動は国内の人間を意識したもの。そうなると」


 第六都市ティノールから第四都市ベーロ。そこから二馬遊から三馬遊の距離。ローレンは脳内で地図を開いて、円を描く。ぴたり。丁度当てはまる都市があった。グレルト王国の小都市メルンディアスである。


§


 メルンディアスはグレルト王国最後の砦である。


 都主戦争末期、千五百年もの戦いの末に、グレルト人達はついに国を得た。集結した各地の部族長が都主戦争に紛れて、ノーランの領土を奪ったのだ。実際は奪ったと言うよりも、掠め取ったと言う方がお似合いではあるかもしれないが、何にせよ、グレルト人は悲願の大地を自らの手に取り戻した。


 とはいえ、その領土が永遠にグレルトの物である保証は無かった。当時のノーランの力はまだまだ弱かったがグレルトを潰すくらいはできた。なぜならばノーランには、真交流初代剣王である『破砕王』ラエスが居たからだ。


 触れるものをみな壊し、すべての外敵を叩き潰すという剣の覇王。彼の前ではあらゆる城壁が、柔な土くれに過ぎなかった。ノーラン都主王はその懐剣への自信ゆえに、グレルト地域を長きにわたって捨て置き、束の間の平和が訪れた。


 グレルトが領土を得てから二十年後、ようやくノーランは侵攻を始める。王国は必死に抵抗したものの、王無き国に勝ちの目などなく、領土はノーランに削り取られるように減っていった。されどこの時、王国に一人の王が誕生した。名はメルンディアス。彼こそ、王となるべく生まれた男『英雄』であった。


 バルニア式剣術を巧みに用いる彼は大陸熱部から戻るやいなや、戦争に加わる。その卓越した剣術と指揮官としての能力は、あのラエスをも唸らせた。


 メルンディアスは幾度かの戦いに辛うじて勝利した後、導かれるようにして王座に就いた。それからのグレルトの攻撃は凄まじいものであり、戦争は両国の人々に疎まれていった。多くのノーラン兵が死に、グレルトの大地に夥しい血が流れたところで、都主王グレン=セン=ノーランは停戦条約を彼らに提示した。メルンディアスはそれを呑み、グレルトには再び、平和が齎された。


 ただしその頃には、二つの都市しか残っていなかった。王都ハーディットと一つの小都市だけである。メルンディアスはその復興に力を注いだが、その矢先、国内の反ノーラン派によって、彼は殺害された。停戦条約を呑んだことを許せない者たちが命を奪ったのだ。幸いにして、ノーランはその後に都市国家クローディナとの戦争に入った。その為、またしてもグレルトは放置されることとなった。


 幸運なことにその後、ノーラン王が代替わりし、大規模な侵攻はなくなった。グレルトにも新たな都市が次々と生まれ、王たる者も次々と生まれた。しかし人々は王国最初の王のことを何百年経とうとも決して忘れることは無く、乾部に残った一つの小都市には、メルンディアス王の名がつけられた。


§


「メルンディアスから神聖トルリア教主国までは十馬遊もない。つまりここはトルリアの密偵か連絡士の手の内にある。グレルト王との密約だってできる」


 ローレンは呟いた。熱部のデルフォイが本当にメルンディアスに行ったという保証は当然無いのだが、ローレンの優れた脳が何かを告げていた。メルンディアスはそう遠くない。境域を超えるとはいえど二馬遊だ。ローレンは並行してそちらも調べるように命じたが、『兎』はそれに難色を示した。


「しかしグレルト王国の情勢は大変に安定しています。残念ですが、あのハルコン卿が血迷いでもしないかぎり、戦はないでしょう」兎が言った。

「そうだろうか。デルフォイ家の人間はグレルトの末裔の血を継いでいる。あの王国がノーランへ野心を持ったとき、最初に接触するのはデルフォイ家だ。だとすればこれは間違いなく予兆だろう。私は間違ったことを言っているか?」


 男の言葉を聞いた『兎』は、悩ましげに顎鬚を撫でる。

 そして愚かな少年を見るような目つきでローレンを見つめた。


「なぜ私をそんな目で見るのだ」ローレンが言った。

「殿下はデルフォイ家を過剰に恐れていらっしゃる」

「それの何が悪いのだ。自分の地位を脅かそうとする狼どもの筆頭で、こっちは子狼を一度殺しているときた。どんな馬鹿でも受けた屈辱は忘れない。誰がそれを与えたか知っていれば尚更だ。あの連中の呪術がもしもこちらへ向けられれば、皇都は狂ってしまうだろう。それは何よりも避けるべきことだ」


 デルフォイは由緒正しい王家の血を、真っ当な手段では一度も受け入れたことがないが、それ以上にグレルトの古き血を継ぐ呪術士の一族だった。すなわち古き神々を信仰する熱部人の長である。ノーラン建国の際に、古き信仰は表面上は捨てられたが、魔獣病の拡大による天獣教の衰えとともに熱部の旧神勢力が活気づいているという事実はあった。仮に国体が古き神々を信仰する者どもに奪われた場合、君主として祭り上げられるのは間違いなくデルフォイの人間たちだろう。


 それゆえにローレンの憂いはそう空想めいたものではない。現実になる為には、十や二十では済まない予備段階が必要な難事であるということを除けば。


「ふむ。殿下の恐れが、真に皇国を憂うがゆえのものであれば良いのですが」

「私が、この国を憂いておかしいか?」首を傾げてローレンが問うた。

「殿下の場合、民や国家以上に御身を大事にしておられるように見えます。僭越ながら申し上げますが、ローレン殿下がデルフォイの脅威をことさらに盛り立てるのは、彼らの術式技術に興味がおありだからではないですか」


 『兎』がそう告げた時、ローレンが怒りださなかったのは、普段から傍にいるルディオに嫌というほど同じことを言われていたからだった。都合の悪い話を嫌味だとして聞き流す術を彼は心得ていた。それに『兎』の内面も読めなかった。


「それもないとは言わないがそれだけではない。術式はおろそかには出来ないし、熱部を放っておくわけにもいかない。確かに私には国家よりも優先するものがあるが、そのどれもが最終的には国を豊かにするのだから心配は無用だ」

「左様ですか。でしたらば、私から一つの提言がございます。デルフォイ家の者たちを本気で敵と見做すのならば、貴方様自身が動くことです。この国で、ただ頭だけで事態を動かすことができるのは、我らが皇王陛下だけですよ」


 ラハリオ=セン=ノーランには十界を視る才があり、自らにはない。そのことをローレンは誰よりもよく知っていた。それ故に、彼は自分が為すべきことについては何も分からずとも、自分が為したいと思ったことならば、為すことができた。


 とはいえ、それだけでは王は務まらない。


「分かっている。会うさ」

「ええ勿論、吹いた風が木の葉を運ぶように」

「なんだそれは」

「殿下のお嫌いな十界法則のたとえですよ」


 『兎』が笑った。



Δ



 空は既に暗い。

 夕暮れはまたたく間に過ぎ去っていった。


 イルファンは知っていた。夜とは、光を司る四原天獣オラン=ハオンの力が去り、大陸中で闇の力が強まっていることを指すのだ。ほんのりと冷の方角に見えていた最後の光が失せると、暗闇が平原に訪れた。見通しの良い岩場を簡易の休憩場所として、二人はついに歩みを止めた。


 馬を休ませ、天幕を張り、火を焚く。夜は光を嫌う魔獣が多いので、これだけでも魔獣除けになる。干し肉をほんの少し食べ、靈水を飲み、イルファンは呼吸を整えた。失われた源素が体中に満たされていった。


「もう随分と平原を走りましたね」少女が言った。

「そうだな、あと半日も掛からんだろう。並足で行くか」

「そうして頂けたら嬉しいです」少女が言った。

「落ち着いたら少し、稽古をつけてやる」


 稽古という言葉にイルファンの顔が歪んだが、リアトはそんなことを気にしない。

 残念ながら半刻後、二人は木剣を手に対峙していた。


「休憩するんじゃなかったんですか」

「なんだ? 遠慮せずに来い」女が言う。

「いや遠慮なんてしてません」

「感心だ」と、そのとき、皮膚がちりりと騒いだ。


 リアトが手にしているのは木を削った木剣だ。蒼剣と同じくバルニュスの形状をとっている。来る、と思った瞬間、それがまるで長槍のように伸びてきた。槍状の靈気。剣に纏った闘気を自在に操る技法、真交流の奥義の一つだった。


 まだイルファンは習っていないが、見たことは何度もある。ゆえに槍状の闘気をすぐさま弾き、剣身を絡めとるように手首を廻したが、瞬時に気付いた。これでは逆にリアトに《海巻》で返されてしまう。


 だが時既に遅し、木剣はイルファンの手を離れて舞い飛んでゆく。いや、そうはさせない。脚部に靈気を集中させて、少女は後方に跳ぶ。空中でくるくると回る剣を掴んで、着地と同時に前方に《瞬避》で斬り上げれば、前。しかしそれは避けられるだろう。と少女は考えている。それは正しい。


 予想通り、紙一重で躱したリアトの顎部は正面。即座に柄から右手を離して、その手で流れるように裏拳を叩き込んだ。だが、左中指と人差し指の二本でイルファンの拳は止められている。だが身体は止まっていない。少女は身を屈め、弾けるようにリアトの足を払う。だが蹴り抜けない。重く鈍い音がしただけだ。同時にリアトの足先が少女の鳩尾に突き刺さる。いや、突き刺さっていた。イルファンは一撃で、四十歩離れた所まで飛ばされ、嗚咽と咳をあふれ出させた。


「馬鹿め。剣を使え」リアトが木剣を拾い上げた。


 彼女は一切の優しさを見せない。まだ動けない弟子を気遣うことなく、木剣をイルファン目掛けて投げる。しっかりと靈気の込められたそれは、木製と言えども革鎧を貫くだろう。少女はそれを、ぎりぎりまで視て躱す。躱しながら柄を掴む。距離は十分ある。だから発動できる。と判断している。破砕剣を。


「あぁぁぁぁぁ!!」


 ぐっと握ると同時に、イルファンは剣身に渾身の靈力と呪を流し込んだ。真交流秘技。超速で振動する木剣が唸りを上げて震える。これこそ一撃必殺と名高い破砕剣である。少女はその圧縮された力の中から、靈気を引き上げ、剣先に纏わせると同時に、伸ばす。伸ばしきる。見よう見まねではあるが、奥義《貫》。


 イルファンの持つ剣の前方に槍状に気が放出された。


 届け。少女は歯を食いしばって全力で技を使った。リアトは無表情のままで剣も構えずに立っている。一瞬の間もなく、靈気が放たれ、ほんのわずかにリアトの瞳を揺らした。全力の攻撃は地面を鋭く抉っただけだった。外れたのだ。


「五月蠅い技だな」リアトが言う。


 当たっていない。

 掠ってもいない。

 直後に木剣が内側から破裂する。


「その技を教えた覚えはない」

「ただの真似事です」

「真似事にしては良かったが、制御と溜めが荒い」

「そりゃどうも」イルファンは答える。

「奥義もどきを使わずとも剣を当てれるはずだぞ」


 リアトが無感情に言い放って、鼻を鳴らした。くそ腹が立つ。折角、休んだのにまた疲れてしまった。そう思いながら、イルファンは息を切らして土に倒れ込む。全身に凄まじい虚脱感があるために立ち上がることも出来ない。


「疲れました」少女が言った。

「もう少し休むか」リアトが答える。

「はい」声はか細い。

「イルファン……」リアトが少女の名を呼んだ。


 返事はない。イルファンはすでに眠っている。崩れるように眠っている。その両手はどういうわけか、小刻みに震えていた。いや、震えているのはもう一つ。リアトの馬に提げられている鞘付きの剣もまた、かたかたと鳴っていた。


 女は剣に近づくと握力で剣鳴りを封じ込める。そしてイルファンの傍に座った。彼女の指先も何故か震えていたが、実のところ、それは恐怖からだった。


「起きるなよ」


 女は懐から一枚の術式板と砕かれた何かの破片を取り出した。その両方が透明の袋に包まれており、慎重に呪界から切り離されている代物である。見るものが見れば、それが呪具であると分かる類の独特の雰囲気を、道具たちは有していた。女はそれらをゆっくりと地面に並べると、続いて取り出した水筒の栓を開いた。


 靈水が少女の額に落ちていく。


 戦いの度に、少女の靈気が研ぎ澄まされていくのをリアトは感じていた。愚直で年相応な剣が少しずつ熟練の剣術士のものへと変化している。つまりそれは少女に封じられたる『剣子』としての力が再び顕れはじめているということ。


 もしも自分やレアーツがそれを制御できなければ、そのときは、ヴォファンとの約束を破ることになる。リアトはそう思って身震いした。


 自分にとって最も重要なこと、それは他人の賭した命が無駄になることだ。そして自分の生きてきた道のりが無意味になってしまうことだ。その恐怖はリアトが眠っていても付き纏う。あの乾湿戦争が終わってから、本当の意味で彼女が眠りについたことは数えるほどしかなかった。イルファンと共に暮らしていたあの日々のなかでも、リアトはいつも夜を怯えて過ごしていたのだ。


 なぜ、なぜ、ほんの些細な幸せというものがこれほど難しく思われるのだろう。戦友の子どもを育て、まともな生活を送らせ、死んだ二人にイルファンの立派になった姿を見せる、それだけのことが恐ろしいほど難しかった。きっとそれは、ヴォファンが心の底から望んでいたことに違いないのに。


 結局、リアトは、その思いを叶えてやる気にはならなかったのだ。

 だから少女に剣を与えたのだ。


 術式板に魔力を籠めると、少女の身体が仄かに光る。

 そうすると、全身にあまたの模様が浮かんだ。

 術式陣のような、恐ろしい幾何学模様が。 



Δ



 備えあれば憂いなしという言葉を苛立ちと共に思い出しながら、ローレンは隣に控えるルディオ=ペンドランを一瞥した。これから為すことに関わらず、男の顔はいつも通りの無表情であった。つまらないにも程がある。


 実につまらない男だとローレンは思った。これが恐れのひとつでも浮かべていてくれれば、自分が毅然とした姿を示してみせるものを。現状ではローレンよりもルディオのほうが、王らしい無礼さと傲岸さに満ちているように見えた。


「来ます」冷たい声で男が言った。

「分かっている」


 白宮は伝統的なノーラン様式で造られた儀礼用宮殿である。尖塔は人が住むにはあまりにも狭すぎ、あちらこちらに聳え立つ曲門はもはや景観としての役割しか果たしていないように見えた。かつては呪術的に意味を有していたであろう幾つもの遺物が、今では仰々しいだけの単なる白理石の塊として空間資源を占めている。それは外観に限ったことだけではなく、白宮内部にまでも及んでいた。


 例えば、ローレン=ノーランが今まさに通ろうとしている、青宮に通じる一つの廊下には、無数の巨大な柱と天獣や勇者を模した彫刻が所狭しと飾られており、それが彼の進路を阻害している。これでは人が二人並ぶこともできない。


 だがそもそも、ローレンに進む気などこれっぽっちもなかった。柔和な表情を浮かべた青年官吏が、配下の剣術士を連れて廊下の向こうから歩いてきているのを見ると、ローレンの頬がわずかに緩む。青年が目の前までやってくると、ルディオとローレンは路の中ほどで、ぴたりと立ち止まった。青年官吏は面倒くさげな顔ひとつせずに、わずかに頭を下げて通路の脇に退こうとした。


 しかし、ローレンがそれを認めなかった。ただ冷ややかな一瞥をくれただけで、皇太子は先へと進もうとはしなかったのだ。


「いかがなされましたか、殿下」


 頭を軽く上げて、青年が言う。


「軍管理官がどうして白宮に?」

「古き民がここで何をしているのか」

「白宮への謁見要請ならば出しているはずですよ」


 恐ろしげな顔でローレンとルディオが問うたが、その言葉に対して、眼の前の青年ルスラ=デルフォイは冷ややかに答えた。されど、その顔は声とは裏腹に明るい。それはまるで、真面目な忠臣のようですらあった。


「誰に会うのだ」ローレンが問う。

「第二管理官ミアド=ベリフェス様に」


 第一管理官が皇王ラハリオを指すのであるから、第二管理官とは実質上の国属軍最高権力者である。その男ミアドは前剣王クルドの叔父に当たり、無天皇族の中では最も強い力を持つベリフェス家の当主でもあった。


「ベリフェス家当主と密談か。穏やかではないな。そもそも、四名家といえども貴族が白宮に入るなど余程の事態でなければ認められぬはずだが」


 ローレンの言葉に、ルスラは落ち着いて返した。


「なに、トルリア内乱の影響は未だ収まっておりません。今朝の鳥報ではトルポール共和国が湿部三国に使者を送ったとか。二国ではありません、三国です。もしかの国がバレア聖教と事を構えるのを恐れれば、天獣教徒の脱出は困難となります。だとすれば、アディアラやリディア峡谷を越える民も増えるはずです。彼らを救出する為にはノーランも国属兵を万単位で動かさねばならないでしょう」

「なるほど。それで白宮に入る理由はなんだ」ローレンが問う。

「高齢のミアド様は三日に一度しか青宮にお出にならないのです。こちらから出向かなくては。この話をお伝えして、指示を仰がなくてはなりません。私は皇王陛下より国属軍の第三管理官を任されておりますので」ルスラが言った。


 そんなことはローレンも知っていたが、非難の材料は少しでもあれば良いと思ったが故に問い詰めたのであった。皇宮典範は今ではその力のほとんどを失った呪則ではあるが、それでもわずかに残った規則は強大な力を持っている。


「皇室典範を知らないわけではあるまい」

「事は一刻を争う事態。申し訳ありませんが、青宮で手を拱いては居られませんでした。何もやましいことなどありませんよ」ルスラが言った。

「他の手段はいくらでもあるだろうに、わざわざこの細道を通って宮殿に向かおうとはなんらかの策謀があると疑われても仕方がなかろう」


 ローレンが食い下がると、ルスラの目が妖しく光る。彼は蛇のように目を細めると、今までの慇懃な態度を崩して、口元に微笑を浮かべた。あぁこれは拙い流れだ、とルディオは思ったが、青年が口を開く方がほんの少しだけ早かった。


「失礼ですが殿下、『いくらでも』の話をするのはまたの機会にして頂けませんでしょうか。術式や学問に夢中の殿下とは違って、暗愚不敏な私は王者の余裕というものを持ち合わせておりませんので」

「それはどういう意味だ」ローレンが問う。

「なに、私がこの通路を選んだ理由をお聞きになられたのでお答えしたまでですよ。私には時間がなく、謁見の正式な手順を踏む時間などありません。転言で済む話でもないので、裏道を抜けたまでです。なにせ余裕がありませんのでね」

「その口を閉じろ」ルディオが低い声で警告する。


 ルスラはそれを無視して冷徹な声を溢し続けた。


「それとトルポールの情報がまだ届いていないのでしたら、情報網を見直された方が良いでしょう。それこそ『いくらでも』改善の余地はあるはずですから」


 ローレンは自らの傍に置いている者のことを、このように嘲笑われるのをひどく嫌った。無論、ルスラもそれを分かっていて挑発しているのだ。ルディオはその程度のこと承知していたが、売り言葉には買い言葉を返すしかなかった。


 だが、ルディオが口を開く前に皇太子から隙だらけの言葉が躍りだしていた。


「私の部下について口出しされる筋合いはないぞ」

「なに、ぴょんぴょん遊びをするだけの『兎』にも等しい者ならば捨てられた方が良いと言ったまでです。たしか太った兎をお持ちなんでしたか? そんなことをするのならば、飼っている馬を鍛えて強くした方がよいかと存じますよ」


 その言葉にローレンはにわかに気色ばんだ。


「私の陰秘――――」

「黙れ!」皇太子の言葉を掻き消してルディオが叫んだ。

 

 ローレンが驚いた様子で彼を見たが、そのとき心臓は早鐘を打っていた。


 今、この皇太子は何と言いかけた? 

 陰秘士だと? 


 それだけは言質を取られてはならない事柄だった。もしもルスラが『端末』を用いて会話情報を保存していればどうなるか、『兎』という男が誰の所属であるかは公然の秘密にしておかなければならないのだ。


「熱部人が熱部の情報をいち早く入手するのは当然のこと。殿下にもお傍付の者にも落ち度はない。むしろ、情報を先んじて都主に伝えぬ貴殿ら、熱部人の態度こそが悪しき問題であろうと思えるが、それはどうか」ルディオが言う。

「これはこれは」ルスラがやんわりと返す。

「忠言も度を過ぎれば侮言になると弁えておけ」

「まさしく」


 ルスラが口の端に笑みを浮かべて、慇懃に言ったが、その声は、表情とはやはり異なって無感情であり、どこか空恐ろしいものを感じさせた。


「どうやら私は差し出がましいことを申し上げたようでした」

「別に気分を害してはいないが、悪いと思うのならば、私の話も聞いていけ」

「ああそれはとても残念です。お聞きしたい気持ちは真正至極なのですが、何分時間がないものでまたの機会にさせていただきたく存じます」

「ならんぞ。なにせ私にもそう長く時間はないのだからな」


 凍った水のような声がローレンの要求をあっさりと断るが、皇太子に引くつもりはないらしかった。人の心を感じ取る眼を持つ彼にとって、この対峙は単なる出会い以上の意味を持っているのだろう、とルディオは考えていた。


「時間は取らん。ただ、熱部の兵を何処へ動かしたのかを問いたいだけだ。ありえないとは思うが、仮に熱部に不穏な動きが見られれば都主として動議を出さねばならんのでな。実際そのほうが私は助かる」ローレンが言った。


 その言葉を聞くと、ルスラは顎に手をかけて思案気に微笑んだ。当然ながら青年の表情や目の色が変わることはない。彼は現状を意にも介していないように答えた。むしろ楽しんでいるようですらあった。


「その話を今、なされるのですか?」

「臣下の行動を把握しておくのが皇家の務めだ」

「なるほど。本家のことは当主アランドに任せておりますが、ならばお答えしましょう。彼らは森の中へ。近頃ボダットを騒がせている魔獣の討伐に向かっているのですよ。デルフォイ領民の総力を挙げて」ルスラが薄ら笑いを浮かべる。


 その事実があることはローレンらも掴んでいた。


 熱部を蠢く得体の知れない魔獣は、数度の襲撃で数百の国属兵を屠っている。この件にもデルフォイが関与しているのだろうが確証はなかった。なにしろ呪術筋である。格の低い操獣士が使う獣ならばすぐに見破れるが、上位の呪術士が魔獣を使役しているとするならば、その痕跡どころか操獣法さえ分からない。


「討伐隊か。だが千単位の兵を痕跡もなしに動かすとは驚いた。素人に毛が生えたも同然の兵を、どうやって鍛え上げたのだ? そして、アディアラ山へと登って行った兵を、どのように森のなかへ送り込んだのだ?」ローレンが問う。

「それは上手に動かしたのです。熱部は我らの庭でございますから。もし機会がお有りでしたらグランフィアへお越しください。有事には鋭き皇国の剣ともなる、熟練の兵士たちの技を殿下にお見せいたしましょう。お気の済むまでね」


 男は柔らかく微笑むが、瞳は凍りついている。


「どうかされましたか、ローレン殿下――――」

「いや。敵を見るような瞳だと思ったのだ。これでは熱部の鋭き剣とやらも何処へ向けられるか分かったものではないな」ローレンが笑む。

「ご訪問に足るほどの信頼をいただけず残念です」ルスラが言う。

「とはいえ、熱部の剣が折られる光景は是非とも見てみたいものだ。塗られた銀の内から何が出てくるかを直々に見て、笑ってやろうか……」


 ルディオが神経質そうに口を挟む前に、ローレンはルスラをあざ笑った。


「それでは禍忌魔術になりましょう」青年も、その言葉で面白そうに笑う。


 二人が笑ったのは塗られた銀のくだりだった。熱部には鉄鋼業を営む者がほとんどいない。その所為で熱部の農民たちが粗悪な農具を使っていたというのは有名な古い話であった。だがこれが争いの為の武具ともなれば笑い話ではすまない。


 鉄を打てない熱部人は剣をもっぱら儀礼の道具として使った。祭具として生贄の血を吸い上げた、粗雑ながらも美しい王剣は、綺麗な銀色の被膜の下に呪術的な力を隠して、彼らの古き国を外敵から守護したという。それを折るというのは、熱部に配備されている国属兵を踏まえてのことだ。


 いかに熱部が暗黒地帯だからと言って、彼らが反乱を起こすことは不可能だった。熱部の勢力を抑える為にボダット周辺の小都市群に置かれている兵団は、デルフォイが兵を集める前に彼ら一族を三回処刑出来るだろう。もちろんそれは、兵団が魔獣やらなにやらに全滅させられていなければの話だが。


「禍忌。それがお前たちの得意技だからな」ローレンがやんわりと睨む。

「冗談がお上手ですね。しかし今の熱部にもしも来られるのでしたら、呪に慣れておられぬご友人はどうかお連れにならないように。案内人なしでは如何に近しい方とて無事ではすまないでしょう」ルスラがあざ笑うように言った。

「ほう」


 その言葉がラツィオ=メインについてのものだと気付いて、ローレンはわずかに怒気を漏らしたようだったが、彼とて、流石に二度もルディオに助けられるような愚は犯さなかった。ルスラは相手の弱みを的確に突いてくる男だ、ということは今やローレンにも明白に分かっていた。


 彼はアランド=デルフォイと同様に、非常に有能な、『会話の十界法則』の使い手なのだ。『十界法則』は世界の根本を流れているという最も強く、そして最も脆い力だ。ローレンはそれを操り視る術を持っていなかったが、その力を持つ者ならば何人か心当たりがあり、ルスラは彼らによく似ていた。


「ルスラ=デルフォイ。貴公も気を付けることだ。この皇都が熱部の森と同等に危険な場所だということをゆめゆめ忘れぬようにな。人の皮を被った魔獣がどれだけこの一角にいるか、知らぬわけではあるまい」

「もちろん。そうなると殿下は、聖騎士ラオネスといったところでしょうか」


 そう言うと、ルスラは更に深々と頭を下げた。

 宮廷挨拶をしたのだ。


「では失礼。何事もなければ、二日後の皇貴会議でお会いいたしましょう」


 すくりと身体を起こした青年は、ローレンとルディオの脇を悠々とすり抜ける。もはやその瞳には何の毒もなく、表情は爽やかで好青年そのものであった。されど、口元だけは隠しきれない愉悦がこぼれ出しているかのように歪んでいる。


 青年の姿が完全に消えてからローレンは口を開いた。


「トルポールからの鳥報を知らなかったと装うことで、私は陰秘士の無能を晒すことになってしまった。だが、それを的確に突くというのは、私への挑発でしかない。つまり、奴にはまだ余裕があるということだ。私をあしらえるほどにはな」

「あの男は、殿下をからかっていたということですか?」


 ルディオは時折、このように分かり切った会話をわざと演じるようなところがあった。それがローレンにとって鼻につくのであるし、また無能の顕れのようにも思えるのであるが、ルディオが流れを作ることに注力するのは、彼が十界法則の繰り手である男から学んだ方法の一つであった。


「あぁ。ルスラは、私がこの『小路』をどうして通ったのかと尋ねることもできたし、そのまま、私が熱部を詮索しないように脅しを掛けることもできた。私の目的はあっけなく露見していたのだから、あの男なら剣が抜かれる寸前まで私を追い詰められたに違いない。だがそれをしなかったのだ」

「それは殿下を刺激したくなかったか、あるいは」ルディオが息巻く。

「無実の人間ならば悪戯に刺激はしまいし、」ローレンが継ぐ。

「また、後ろめたい人間であれば、大人しくやり過ごそうとするでしょう」


 極めて芝居がかった言い回しだ。

 だが、それはローレンを語らせた。


「あの余裕のわけ。どうも奴は、探られても怖くはないようだ」

「挑発が彼の真の目的だった可能性もあります。我々が獲物だったと」

「探らせて鼻を突っ込ませるのが目的だと? 酔狂すぎる」

「殿下の剣に気付いていた可能性もあるかもしれませんね。この大陸の誰だって、命を惜しむ者は無意味な挑発をしないでしょう。すなわち」


 ルディオがすかさず言葉を継ぐ。


 綴ること。そうすることで彼は場に満ちているものを使おうと画策していた。弱い流れの中では言葉を補う必要があるのだ。たとえば、主人公がローレンであるような時は、特に注意しなくてはいけないことをルディオは知っていた。


「すなわちビビった。シャミィ、こっちへ来い」


 ローレンが周囲に置かれた石膏像の一つに声を掛けた。その瞬間、像を飛び越えて、短躰の男が空を舞った。彼はまるで軽業師のような身軽さで地面に降り立つと、宮廷挨拶でローレンに応えた。身長は低く、二剣長程度しかないようであったが、男の顔はルディオと同程度の年月を感じさせる。一瞬、ルディオは彼を炭鉱族か奇人であると思ったが、よくよく見れば男の腰からは細い尻尾が伸びていた。


 彼は獣人族(脊椎動物亜門哺乳網の霊長目ヒト科ヒト魔族ヒト齧歯属のポディキアン種)であった。シャミィと呼ばれた男はそのまま、長い髭をローレンの爪先にわずかに触れさせるようにして、頭を下げた。


「気取られたか?」ローレンが尋ねた。

「殿下、先程の熱部人の後ろにいた男は大した使い手ではありません。単なる護衛であって、恐らく、私の存在にすら気付いていないでしょう。ですが、あの熱部人は侮れません。殿下と言葉を交わしている間中、ほんのわずかな隙も見せませんでした。それも恐らくは私に対しての隙を殺していたのです!」


 深刻そうな口調でシャミィが言ったのでルディオは眉を上げた。ローレンが面白そうに、鼠族の男に詳細を尋ねる。もしも、もしも仮に、彼の話が本当だとすると、デルフォイ家は真に化け物揃いということになる。


「まさか、お前の存在を意識していたとでも言うのか」

「ええそのまさか。殿下のわずかな身振り手振りから位置を推測したんでしょう。殿下すら信じがたいと思うでしょうが、彼は完全に私を捉えていました。あれならばたとえ殺そうとしても仕損じていたでしょうな!」


 不死の一族と言うのは伊達ではないのか、とルディオは思った。


 デルフォイは死なない、というのが宮廷では語り草となっている。なんでも、十五年前の処刑に際して、叛逆者リィアドが∫聖炎に呑まれながらそう叫んだのだそうだ。まさかそれが戦錬士としての能力を指していると考えたことはなかったが、戦士としても強いのならば、彼らはローレンにとって厄介な敵となるであろう。なにしろ、この皇太子は魔法士としての能力を失っているのだ。


「アランドが強大な魔法士だというのは聞き知っていたが、その息子まで手練れとは驚いたな。まぁ知っていると言えば知っていたし、予想できていたと言えばできていたのだが。やりにくくなったのは違いない」ローレンがそう呟いた。


 呪われた血を持つといわれながらも守護名家に位置し続けるデルフォイ家。その力の源が何処にあるのかをルディオは知らなかったが、デルフォイの現当主、グランフィア伯アランドの底知れなさを垣間見た気がした。彼らは想像も出来ないような奇特な力を有しているのだ。熱部の秘境に隠された蠢く神秘を。


 長男にして国属軍第三管理官ルスラ。

 次男にして三男のアルト。四男のランツ。

 そして長女ロンティエル。


 彼らがアランドの手として仮に動くのならば、皇太子はただの貴族を相手にするのとは違って、ある種の魔物を相手にしなくてはならなくなるだろう。特に近頃、デルフォイの奥地で進む術式研究は、皇都を凌いでいるとも言われる。


 それを率いているらしきデルフォイの子らの力、それと皇太子をぶつけてみたい、とルディオは思った。この魔法狂いの男は都主の地位に就いたことで、今や腑抜けと化している。彼にかつての力を取り戻させるためには、ローレン自身が再び、命のやり取りの中へと足を踏み入れる覚悟を持たねばならない。


「熱部との争いは避けられぬようですね」

「そうだ。くれぐれも私の邪魔をするなよ」


 ローレンが剣呑な声で言った。もちろん彼は、ルディオ=ペンドランを少しも信用していなかったし、ルディオ自身もそのことをよく知っていた。ならば何故、男は顧問官として皇太子の傍に居続けるのか。


 それは思慕でも畏敬でもなく、ただ一つの小さな感情から来ていた。


「お互い様だ」

「何か言ったか?」


 皇太子が呟いたが、彼には何も聞こえてはいなかった。風の音よりも小さな囁きを聞いたのは鼠の剣士だけだったが、彼は余計なことをぺらぺらと話す趣味を持ち合わせてはいなかった。だから、あらゆる者の心は未だ穏やかだった。



Δ



 魔獣も寝静まった深夜、平原を寝床とする狗たちは、ひっそりと鬼人に忍び寄っていた。人でありながら生来の獣のように歩くその姿は、彼らが並の戦錬士でないことを伺わせる。だがそんな彼らでさえも恐怖で息をし忘れていた。


 剣を抜けば首を落とせる距離に入った時、喉元に刃を突き当てられたような冷たさを感じて、思わず男たちから殺気が漏れた。空気が冷部のように凍りつき、草を踏みしめる音がわずかな余韻を残して消える。


 男たちにとっての、その時が来たのだ。


「狗が。何の用か」


 殺気を向けられた女はもちろんながら眠ってはいない。


 リアトは少女の傍に片膝をついて座っており、その瞳はふらふらと揺れ動いたのち、最も強い気配を放つ男で止まった。イルファンは仕込んだ眠り薬によって数刻は目覚めない。それを分かっているからリアトは何も恐れていない。彼女は研ぎ澄まされていて、その背のバルニュスが微動だにせず輝いている。


「良い剣だ。一流の品だ。その使い手も、美しく凶暴に見える」

「御託はいらん。用を簡潔に言え」リアトが吐き捨てる。

「用か。では命を貰う」男の一人が言った。


 意味のないやり取りだ。

 リアトはだが、それに応じた。


「違う。暗殺士くずれの山賊ごときが何の用だと聞いている」

「それは挑発のつもりか」男が笑いをかすかに漏らした。

「違う。質問に答えなければ今すぐに殺す」

「分かった。縄張りを侵したから殺すのだ」微笑みながら男が言う。

「違う。それだけで動くはずがない。つまらん茶番はよせ。悪いが私はそれほど暇ではない。無理やり聞きだす方法を試してみれば早く済むのか?」


 リアトの苛立ちに、空気がぴん、と音を立てる。


「だが仕事を受けたと白状して、誰が喜ぶ?」男は素気なく返した。

「私だ。敵の正体くらいは知っておきたい」

「我々に伝わる昔話によれば、魂は土産を持てない」

「ならば生きている内にここに置いていけ」


 女はそう言うと、冷たい笑みを浮かべながら剣を抜いた。


「ふむ。剣はともかく、侮辱の腕前は二流だな」男が笑った。


 それを合図に、狗達が一斉に短剣を懐から出す。彼らの持つ剣は長短剣のバルニュスではない。五大流派の一、暗殺剣の不許流が用いる軟質の薄短剣である。


 その剣身はアラント鋼(黒神鋼)と呼ばれる漆黒の鋼で打たれており、薄いながらも斬り合いによって損壊することがない。もっとも、集団の中で黒神鋼の短剣を持つのは頭の男だけであったから、腕のほどは自然と知れた。


「誰に頼まれた」リアトが問う。

「さぁ」頭が飄々と言った。


 少し考えて、さらに問う。


「私を狙う者など、多すぎて分からん」

「だろうな」男はにんまりと笑った。


 心の底から楽しいといった様子である。どうもこの男は戦狂あるいは殺狂のように見えた。だが二ツ名が無いということは、つまり雑魚であるはずだった。でなければ、字を忘れられるほどに人を殺してきたか。リアトは冷えた声で言う。


「お前たちの殺気はイルファンにも向けられていた」

「『捨剣』よく考えろ」男は笑い続けている。


 頭の男は口笛を吹きながら手の中で短剣を転がす。

 ぱとんぱとんと小気味よい音が暗闇に響く。


「おい。お前に師はいないのか」リアトが唐突に聞いた。

「師?なんの話だ」

「殺しは独学でやってきたのか。それとも傭兵くずれに教わったのか。誰か優れた師の技を盗んでみようとしたことはないのか。それを聞いているのだ」

「そういう奴らを殺してきたんだ」男はそう言って得意げに剣を舐めた。

「なんだそれは下らなすぎる。道理で剣を子どものように弄ぶわけだ」


 リアトはわざと目を丸くした。案ずることはない。この男の恐怖のなさは玄人のものではなかった。それは今までに、本当の命の取り合いを経験してこなかったものの驕りと甘えであった。警戒して損したリアトは、呆れ顔で言った。


「もう殺して構わんか。それから話を聞こう」

「あ?」狗たちが言った。


 下らない問い。下らないやり取り。既に使い古されたもの。

 だが、剣士や暗殺士は十界法則的にそれを好んだ。


 訝しげに男のひとりが問う。


「馬鹿が。殺しては聞けんだろうに」その問いには、

「舌は一本あればいい」これが常套句だ。


 言うが早いかバルニュスを返して、リアトは前方の男四人の首を落とした。その剣先から不可視の刃が飛び、無警戒の頸部を靈気で切断したのである。同時に左手で背後の男の頸骨を掴み、瞬時に破砕した。


 一瞬の出来事に眼を丸くしながら、男たちはリアトから三歩程飛び退ると、順手で短剣の先を向ける。即座に不許流の突きであると見て取れた。包囲しての突き。よく訓練された集団から繰り出されるそれは避けがたいとも言われている。この狗どもはこのようにして格上を何度も仕留めてきたのかもしれない。


 黒神鋼の男は苦々しい顔を向けながら、リアトに声をかけた。


「動くな。不許の突きは逸らせんぞ」


 安っぽい言葉とは裏腹に、靈力はそれなりに強くあるように感じられた。脚が痺れるほどの力が第四界を通してリアトにも伝わった。男の薄短剣がくっきりと輝いている。だがそれを意にも介さず、彼女は服についた血肉を払った。


「五人でか? 纏めてここで死んだ方が後々のためにも良いだろう」


 そう言って女が剣を振るう刹那に、五人の男が飛び掛かる。秘技《曲刺》。ごきりごきりと関節を外しながら、蛇のようにしなる剣がリアトに伸びる。


 だが意外なことに、蒼髪の女は自身の剣を軽く投げ上げた。視線がぶれた、と思うやいなや、突き出された剣の全てが素手で捌かれる。男たちは自らの体勢が崩されたことを知るも、身体が意識に追いつかない。


 即座にリアトは右斜方の首を捻じ折り、側面の男を背後に投げ飛ばすとすぐさま前方、鳩尾を蹴り飛ばし、勢いそのままに残りの一人を手刀で刺し殺した。


 そこへ自らの蒼剣がまるで図ったように落ちてくる。リアトはそれを掴むと、先程投げた男と下敷きになった男の二人を一呼吸で刺し貫いた。真白な服に鮮血が飛び散る。雑に殺し過ぎたな、と彼女は思った。


 リアトは、無様に転がっている男の首を掴んだ。


「話せるよな」

「死にぞこないが」すかさず、男が言う。


 もちろん彼の吐いた唾がリアトに届くことはない。女の、頚骨を掴む手に力が篭る。彼女は静かに、されど殺意を感じさせる口調で男に雇い主を尋ねた。男は苦渋の表情でリアトを睨みつけるが、その後ろ頸はしっかりと掴まれていて、身を捩るだけで骨が軋む音がする。三度目に軋音が鳴ったとき男は口を開いた。


「ヴェルトヴァンだ」


 苦悶の声。

 だがこれは偽物の苦悶だった。


「黙れ。あの国と貴様らに私の暗殺を依頼出来るほどの繋がりはない。安い嘘はつまらん。つまらん言葉を吐く奴はつまらんことしか知らんと教わった」


 女が吐き捨てる。この男の嘘に付き合っている暇などなかった。下らないやり取りはここでおしまい。ここからではもはや展開は覆らないのだから、いんちきな十界法則をわざわざ演じてやる必要などないのである。


「そもそも、一挙一投足を見張るほどの価値は私にない」

「いい着眼点だな」なぜか男が笑みを浮かべる。

「イルファンにはその価値がある」


 あぁ、と男は少女を横目で見ると少し嗤った。リアトの手に力が入り、首筋から一筋の血が流れる。男は強がりを見せるかのように、噛み締めるように言葉を発した。その息は絶え絶えではあったが含まれた愉悦には変化が無かった。


「琥珀髪に興味を持つ者は、少なくないと聞いている」

「その言い口はレプロン=リニアか」


 辿り着いたとばかりにリアトが噛み付く。だが男の言葉はそれをあっさりと否定した。トルリアの権力者の名前に動揺を少しも見せずに男は笑った。


「外したな」

「何を外した」


 眉を顰めて、リアトが言う。

 私は何を外したのだ。


「自分で考えろ」


 男は死の間際に余裕を取り戻したらしく、にやにやと笑いながら、そう言った。さっぱり分からん。リアトは思った。こいつらの狙いは十中八九イルファンだが、その裏で糸を引いているのは一体誰であるのか。


 イルファンは確かに数多くの勢力から狙われる立場にある。琥珀髪であるし、あの男の血を継ぐ一人娘でもあるからだ。『正剣』レプロンならば、ノーランにまで目を光らせていてもおかしくはない。


 だがそれ以上に。


 あらゆる目を掻い潜るためにローレッドに引き籠っていたとはいえ、敵の動きを探っておくべきだった。手の中で男の首がぎしぎしと軋んだ。呻き声をあげながら、頭の男がリアトの方へと視線を向けた。


「今からでも取引しないか」男が言う。

「いや、いい」

「そうか。変わらん女だな」

「私の記憶にお前の姿はない。悪いな」


 リアトは力を込めて男の頸椎を捻った。それで生き絶えた。


 女の眼は既に熱の方角を見ていた。そこにあの街がある。このノーランの中枢部。その名も皇都エルトリアム。その姿は未だ影さえも見えず、まだまだその街は遠い。であるというのに、既にその熱気が感じられるような気がしていた。





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