1-1 悠々怯懦/ローレン
一節 皇都エルトリアム/拐者 [ 第一部 琥珀の剣 ]
Δ
世界は誰の財産でもないが、誰もが手に入るだけのものを、あわよくば世界をも、懐に収めたいと欲する。名声あるいは金品、何も欲さぬ者にとっては無為か眠りか。心中にあるだけのものでは誰も満たされず、回転木馬のごとき苦悶は繰り返され、暴君が束の間の悦びに涎を垂らせば、被虐者は復讐心に身を焦がす。それは鋼の物語。肉に食い入りて骨を断つ者の語り。語りには際限がなく、法則の赴くまま常しえの流転を彷徨う。それこそが、汝らの定めである。と言った。
Δ
宮殿は見た目と裏腹に陰鬱さに包まれていた。
舞踏のための大広間では煌びやかな衣装の女たちが舞い、七色の仮面を付けた道化師たちが滑稽な仕草で踊る。されど注意深く見れば、道化師も女たちも笑ってはおらず、何かを恐れているようだった。そんな道化師の一人であるアルデナも、ほかの皆とおなじく、正面に座る人物に注意を向けていた。
男は、銀と宝石のあしらわれた豪奢な椅子に座り、腕組みをしながら眠っている。服装は優美な伝統衣装ラチェット。イムファの森の最高級品だろう。胸元には術式陣を模した金糸の刺繍が施されていた。『雲指』を表す紋章だった。
眠りこけた主人を前に道化師たちは踊る。笛と太鼓の混ざり合った狂騒、それに合わせるように女たちが音もなく優雅に飛び跳ねては脚を降ろし、周囲の宮廷官吏や貴族の眼は全て彼女らにくぎ付けとなる。だがそれでも男は眠りから目覚めなかった。見るところ、その眼の下には深い隈が出来ていた。ひょっとすると連日の公務で眠れていないのだろうか。いや、そうではなさそうだった。
よく見れば、男の異常は眼の下の隈だけではない。その爪は渇き、靈気の色も薄い。普段は整えられている着衣にも乱れがあるばかりか、いつもは美しい唇にも少しばかり血の気がないように見えた。落ち着いて耳を澄ましてみれば、狂騒の中だというのに男の引き締められた口から毀れる歯ぎしりの音までもが聞こえた。男が退屈そうにしているのは常であるが、それでもいつもの彼はそれを隠しておくことができるはずだった。少なくとも、気分よく踊れる程度には。
これはただの疲れによるものではない。これは心労だ。
おそらく彼は、何事かに悩んでいるのだ。
「動きが乱れているぞ」
思考の最中に男がゆっくりと目を開いて、道化師に声を掛けた。男の深い青眸に見つめられて、アルデナは思わず眼を逸らしてしまう。起きた瞬間に舞踊の迷いを見て取る彼に恐怖を感じたからだった。
「失礼致しました殿下」アルデナが言った。
「なに、誰にでも不調はある。どうかしたのか」
「いいえ、ローレン殿下。お気になさらないで下さい」
眼前の麗人の名はローレン=ノーラン。湿部に位置するノーラン皇国の、美しき第一皇太子であった。誰もに、己は無価値なのだと思わせてしまうような、力ある瞳を持った男。彼は、その容姿に似合わず大魔法士でもあり、乾湿戦争では数千の軍勢を雷撃魔法にて焼き尽くした。人呼んで『魔法狂のローレン』である。その男の目が狐のように細まって、オルデナを見つめた。
「足でも捻ったか。いや違うな」
射竦める様に視られて、アルデナは身体を強張らせた。自分のような一介の道化師が言葉を交わせるような相手ではない。アルデナはしかし、話さないわけにはいかなかった。問われたからには答えぬも無礼だと思ったからである。アルデナはしばし逡巡したものの、結局は頭を下げて跪いた。
「殿下がお疲れのご様子でしたので」道化師が言った。
「そう見えたか」ローレン=ノーランが答える。
「私は疲労を回復する術には長けております」
「然属魔法士だったな」男の眼が、奇妙にアルデナを捕えた。
冷ややかで疲れたような瞳は、しかしわずかな狂気を孕んでいる。魔法という言葉を口にしただけで、男には熱が籠り始めていた。『魔法狂』という呼び名は正しい。なるほど、この男は確かに狂人じみたものを有していた。
そもそも、戦功を挙げる人間というのは何処か尋常ではないものだ。有象無象の多くの皇族貴族たちも名を上げる為に戦に出るが、大抵が碌に戦えずに戦死してしまう。アルデナは自身の経験から、強大な敵よりも弱い味方の方が煩わしいということを知っていた。だから、戦争に行きたがる貴族は嫌いだった。彼らは結局は単なる名誉欲に駆られた凡人だったからだ。
しかし、ローレンは違った。
彼に限らず、ノーラン王家の人間は本当の意味で化け物揃いだった。名誉など彼らには二の次、真に求めているものは殺戮なのではないか。そう思われるほどの強さが故に、ノーラン家は今もこの地位にいる。過ぎ去った昔の話であるとはいえ、彼らは殺すことにおいて、間違いなく王に相応しい力を有していた。
「かつてはアデスベル子爵の治癒士部隊で三番隊長を務めておりました。差し出がましいことを申し上げまするが、もし宜しければこの私めが、」
「おい道化師、口を慎め」氷のような声が背後から響いた。
一人の男が広間の後方から、お得意の通りの良い声を放ったのだ。男は、足元まであるローブに身を包み、大量の書類を小脇に抱えている。厳めしく表情を感じさせない男は、アルデナを一瞥して小馬鹿にしたように言った。
「身分を弁えろ。お前たちは踊るのが仕事だぞ」
アルデナは氷のようなその瞳に打たれて怯んだ。そして、すごすごと『宴の間』の隅へと下がった。この男に睨まれるのは得策ではない。彼は皇太子とは別の意味で恐ろしい人物であったから、敵対したくはなかった。
「殿下、このような者を近づけてはなりません!」
「ルディオ、お前はすぐに人を委縮させるな」皇太子が言う。
「それが務めですので」ルディオが言った。
冷ややかな目と撫でつけられた紺色の髪の持ち主。彼こそがルディオ=ペンドラン第一都主顧問官である。男は足早に、ローレンの方へと歩み寄った。贅沢にもティリアン(白雪羊)の毛を使用した絨毯のせいか足音はない。
貴族らは彼の姿を見るやいなや、下品な内緒話を止めて背筋を正した。広間の女と道化師が針で刺されたように動きを止める。楽団の宮廷音楽だけは響くままであったが、今やそれは明らかに場違いだった。
「演奏は終わりだ」
その空気に気付いたルディオが片手を上げながらそう言うと、道化師たちが瞬時に脇へと下がった。広間には気味が悪いほどの静寂が広がり、誰もが自らの周囲を見回す。見えない霜が張っていた。幾人かの貴族は召使に命じて、顔を隠した。だがルディオはそれを全く意に介さず、ローレンに言葉をかけた。
「殿下、そろそろご退室のお時間で御座います。どうぞご挨拶を」
「そうだな。みな、下がって良い」
ローレンは眼を閉じ、そのままぞんざいに答える。皇太子は大変に疲れていた。本音では眼前の貴族連中などどうでも良かった。視界の端でアルデナが退室するのが見える。その後ろを幾人もの道化師連中と舞い手の女が続く。楽隊も去り、静まり返った広間でルディオだけがいきいきとしていた。
いよいよ自身も重い腰を上げねばなるまい。自らの執務室がある『青宮』までルディオ=ペンドランとともに戻るというのは少々気が重かった。
ルディオは有能な男だが、ローレンは彼が嫌いだった。無論、好き嫌いで顧問官を選ぶ訳にはいかないので、彼を一応の側近とはしているものの、彼と話していて気怠さが取れるとは思えなかった。本当は別の人間に替えたいが、そうもいかない理由がある。彼は、守護四家が一つ、メイン家の要望で付けられているのだ。ローレンの実母を生んだメインの権力は、宮廷事に関しては非常に大きい。残念ながら、ルディオを遠ざけることはできない。
「くそったれめ」思わずローレンはそう呟いた。
ペンドラン家は顧問官を通じて、皇都政策に干渉しようとしている。それを血の繋がった家が後押ししているという事実は耐えがたかった。恐らく、ペンドラン家はメイン家に相当の見返りを約束しているのだろう。でなければ、業突く張りの祖父アリィン=メインが手を貸すはずが無い。
ではその見返りはどのような物か。想像したところでどうしようもない事態だった。いくら、己が魔導に長けていても政治の世界では無力。心の乱れを感じたらしく、ルディオがわずかに身を傾けて皇太子の顔を覗き込んだ。
「殿下、いかがなさいました」
「何でもない」
この無力感。まるで巨大な歯車になっているような感覚はしばしばローレンを蝕んだ。忌々しいルディオ=ペンドランの顔を見る度に腹が立つ、陰謀という荒んだ言葉が脳を駆け巡る。もはや、複雑で美麗な魔導の直感行使のできぬ、無能で役立たずの脳みそだというのに、どうして下らない単語たちは踊るのか。
今は雑事に惑わされている場合ではないというのに。なかば苛立ちながら、寝不足の頭でローレンは立ち上がった。いや、立てない。足元がふらついた。
「何でもないのだ」
「しかし、」
支えようとしたルディオ=ペンドランを片手で制する。
まるで二日酔いの傭兵崩れのような足取りで男は歩きはじめた。
大丈夫。今日はあの男が帰ってくる。
心強いことだ。そう思いながら。
Δ
沈黙を破ったのはローレンだった。
「久しぶりだな」疲れた声が響く。
「三ヶ月ばかりのことだぞ」柔らかな声が返した。
「しかしそんな気がしない」ローレンがそう言う。
桃花芯木の机を挟んで二人の男が向き合っていた。
奥に座る男はローレン。
手前に座る男はラツィオ=メインといった。
ラツィオは背中の剣帯に未だにバルニュスを差したままだった。服装も整えてはいるものの単なる旅装である。明らかに皇族に謁見するときの格好ではなかったが、二人はそれを全く気にせずに談笑していた。
実のところそれは、ラツィオ=メインが、皇后の兄の次男であり、ローレンの従兄に当たり、また傍付剣術士だからだったが、仮にそうでないとしてもローレンは彼に帯剣を許しただろう。それほどに幼少期を皇后フラノイと過ごした二人は仲が良かった。皇太子ローレンが都主となってからもその親交は続いており、ラツィオ=メインは彼の最良の友人であり続けた。
ローレンが十八でエルトリアムを任される際、ローレン自身の要請により、ラツィオ=メインもまた第一皇太子の傍付となったが、それさえも友人関係の延長線上のようなものだったから、ラツィオは喜んでその職務に就いた。そこには野心ひとつないように見えたが、思惑がないというわけではなかった。
この『白宮』では公的な地位が大きな意味を持つ。この、賢く、そして野心にあふれた皇太子の為に働くには、貴族や皇族、そして皇王に地位を認められるのが一番であるとラツィオは考えたのだった。
この際、彼はかねてより話のあった騎士団幹部への推薦を蹴った。ローレンはそのとき既に皇王になることを危ぶまれていたから、騎士団を統括する立場となる方が出世に繋がっただろう。しかしラツィオは出世を選ばなかった。だからローレンは彼を見ると安心する。二人ともがそのことをよく理解していた。
「どうした。やけに疲れた様子だな」ラツィオが親しげに問うた。
「調べ物をしていた」ローレンがぼんやりと言う。
「お前が術式以外の事に精を出すなんて珍しい」冗談交じりに男は言った。
ラツィオはここ最近のローレンの動向を知らない。彼はこの数ヶ月にわたってフィロレムと『蟻街』に滞在していた為、ローレン=ノーランの元から一時的に離れていたのである。傍付は自分の他にも腕が立つ者が居るのだから、安全面での問題は無かった。自分など居なくとも、別にローレンが死なないことは分かっていた。だが政治的な事柄や精神の健康はただの剣では守りえない。
数日前、辞令が出たわけではないが、皇貴会議の開催を理由にラツィオはようやく戻った。皇都エルトリアムは何も変わっていなかった。少なくとも『深青宮』の外観に大きな変化はなかった。相変わらず見上げる程に巨大な建物であり、その中は伺い知れない。政治の渦巻くここは、フィロレムとは別の意味で淀みの中枢である。空気の感じられぬ重さを浴びながら、ラツィオは『青宮』に向かった。まずは、無事に戻ったということをしかと伝えねばならないからであった。
だがしかし、都主執務室のローレンは、何時にない疲れ顔で彼を待っていた。これほどに疲れた様子は見たことがない。そこで旅装のまま話をすることにしたのだった。一体、彼は自分のいない間に何をしていたのだろう。どうせ術式だろうと思っていたが、疲れ具合を見るに、それはどうも違うらしかった。
「どこで油を売っていた?」ラツィオが問う。
「公務に忙殺されていたこの俺がどこへ行けると?」
「ならその忙しい合間を縫って、何を探らせていた」
「よし。ラツィオ、これを見ろ」
眼の下にひどい隈を作っている男ローレン=ノーランはラツィオに紙を手渡す。紙面は整然と並ぶ文字と数字でびっしりと埋まっていた。他には何処かの地名らしきものが所々に書かれている。ラツィオが見た所、それは帳簿のようであった。これは国属軍に関連する何かだろう。もう一枚の方は、調査の報告書であるらしい。そちらはどうやら、トルリアに関係する書類のようだった。
「トルリア教主国か。内乱の最中だと聞いたが」
「そうだ。数週間前から不穏な動きを感じたので、レプロン=リニアのついでに調査させていたのだが、内乱と同時に熱部にも奇妙な人のやりとりがあった」
その声は一言発するのも面倒だというように重い。話の内容が重い事だからなのか、それとも彼が単にあらゆる宮廷ごとに疲れてしまっているからなのか。なんとなくだがラツィオにはその両方であるように思われた。
「熱部といえば呪術筋だな」ラツィオが言う。
「うむ。トルリア内乱はどうも呪術筋が相当に暗躍したものだったようだ。機両戦争のときと同じく、熱部の家々がトルリア正教勢力に手を貸している」
「尻尾は掴めたのか」ラツィオが問うた。
それに答える様にローレンは溜息を吐いた。そして長細い指先で紙上を指した。そこには大量の数字に潰されるようにして、ひとつの家名が書いてあった。それは皇国四名家、すなわち四大守護の一家とも称される大貴族の名であった。
「デルフォイ家か」
「分かるのか」ローレンが深刻そうな顔をする。
「俺には剣しか分からんな」ラツィオは言った。
ラツィオは両手を肩のところに上げて、お手上げの姿勢を取った。政治的な問題に関してラツィオは全くの門外漢である。彼は文官ではなく武官、剣の流派は言うまでもなく真交流で、その上級剣術士だった。真交流は広し、皇領もまた広し、大陸もまた広し。とはいえども彼よりも優れた剣士はそう多くは無い。
それ故にローレンはラツィオを気兼ねなく、護衛として傍に置くことができたのだとも言える。その眼光は常に鋭く、柔和で気の抜けた顔つきだというのに見る者をはっとさせる恐ろしさがある。リアトやレアーツといった特級剣術士には及ばないとしても、常人とは隔絶された力の持ち主である。
「だが、貴族などどこも野心を持つものだ。他家ならまだしもデルフォイが野心を持ったところで問題はないだろう。なにせあの家はとっくの昔に没落してしまっている。今更恐れることなどあるか?」ラツィオは不思議そうに問うた。
ローレンが眉間に三本の指を当てた。
「これだからお前は馬鹿にされるのだ。試してやろう。守護の四角、『冷部のメイン』『乾部のリディア』『湿部のノーラン』そして『熱部のデルフォイ』。この中で最も力を持っているのは、どこだと思う?」
「ノーラン家に決まっている」ラツィオは即答する。
ゆっくりと頷いてローレンは次の質問をした。
「ではその次は」
「リディア家かメイン家かだな。この国の要部を完全に抑えているばかりか、私兵も名高い。もしも彼らが内乱を起こせば食い止めるのは困難だ」男が答える。
「お前の見立てはそう悪くない。だがやはり、時流を読めておらん。今となってはな、我がノーラン家の次にはデルフォイ家が挙げられるのだよ」
「あ? もしや有力貴族がみな死んだのか?」ラツィオは眉を顰めた。
ラツィオがそう思うのも無理はない。デルフォイ家は魔獣病の蔓延から乾湿戦争にかけて、最も愚かな家だった。リディア家やメイン家ならば力を持っているのも理解できる。メイン家がエレングル王国との同盟を結ぶ際に重要な役割を果たしたことは彼も知っていた。乾部のリディア家の重要性も把握していた。
リディア家は乾部のリディア鉱山の採掘権を握っている上、ヴェルトヴァン、トルリア両国と境域を接している。もしも仮にリディア家を蔑ろにしてしまえば、この国は湿部三国による皇領への侵入を許すだろうし、メインを忘れれば冷部への守りを失う。そうなればノーラン家も瓦解してしまうだろう。
だから、警戒するならばリディア家、次点でメイン家なのだ。ラツィオがかつて、実家で受けた帝王学でも四家の力関係に関してはそう習っていた。
そして、それら二家に比べれば、デルフォイは弱い家のはずだった。何しろ産業基盤は農耕業なのだ。それらは鉱山と異なって一つの家で管理するにはあまりにも広すぎ、完全に掌握することはできない。
「あの領地には穀物くらいしかないだろう」ラツィオが言う。
「それも国を支える柱の一つだが」
「確かに柱ではあるが、あの領地ではな」
トルリアとの境域のことだった。
デルフォイ家は龍神ポシュケートランの『左角』、熱部境域に聳えるアディアラ山脈の麓に広がる山林と平野を含んだ莫大な領地を持つ名家であり、無論のこと守護の一角ではあるが、その地位は他の三家程には高くない。険しく越えがたい山脈向こうのトルリア国は遠かったからだ。
それ故に宮廷内ではデルフォイ家は他家よりも一段ばかし低い守護名家だと見做されていた。この国が熱部に抱える問題など、ここ数年では、うっかり潰し損ねたグレルト王国くらいのものだったからだ。
「使える手札がないとみるか」ローレンが渋い顔をする。
「それどころじゃない。デルフォイ家には乾湿戦争の一件による没落もあるだろう。戦争最中の反逆は許されることじゃない」とラツィオは言った。
畳み掛けるようにラツィオは、かの家の悪事を列挙した。デルフォイ家はかつて謀反を起こしたのだ。そしてそれに敢え無く失敗したのだ。国家の危機を好機と見て皇都を乗っ取る算段を立てたはいいが、身内に裏切られたのである。
それが公に露見することはなかったが、宮廷内では公然の秘密だった。戦争終結時の皇貴会議でデルフォイの反逆を皇王ラハリオ=セン=ノーランが暴き、王はその戒めとしてデルフォイ家の者をほとんど皆殺しにしたからだ。
その際、宮廷内ではデルフォイ家を取り潰すという案まで出たが、乾湿戦争後の国内の混乱を避けるために、病気による錯乱が反逆の原因であったと理由づけて、家自体は存続されることとなった。この内乱では、謀反に反対し、自ら家族を討ち取った長男アランドとその弟だけが生き残った。なんでも彼らは自分たちの親を糾弾し、ノーラン家に服従を誓ったのだという。どうやら熱部では親子の情などないらしいと、ラツィオは話を聞いた時に思ったものだった。
しかし二人生き残ったとはいえ、彼らの力が大きく削がれたことには変わりがなく、デルフォイの武力のほとんどは、グレルト王国境域とアディアラ山脈の防衛線へと送られた。そして、二度と反逆出来ぬように、アランドの子らは人質として皇都に囚われた。今では風当たりも随分と弱まったものの、当時の貴族らのデルフォイに対する態度は凄まじいものだった。皇都にいながら、アランドの子たちは嬲り殺されるのではないかと噂されたものである。
「奴らは謀反で力を失った」ラツィオが言う。
「確かにデルフォイの血族は軟禁状態になっていた。だがな、十五年あればあんなデルフォイ家といえど、ある程度の力は取り戻すさ。ノーランの食糧庫を握っているこの家がいつまでも死に体であるはずがないだろう?」
「領地を奪えばよかっただろうに」
「陛下がデルフォイの地位を奪おうとはしなかったのだ」ローレンが言った。
ローレンが溢したそれは、聞いたことがある噂だった。デルフォイとラハリオは乾湿戦争を共に戦い抜いたのだという。特に、現当主であるアランドとは旧友であったらしい。それ故にデルフォイはすんでの処で没落を免れた、というのが通説だ。もちろんそれでも、彼らの失ったものは小さくなかったが。
「どうだ、納得できそうか?」ローレンが言った。
「いや皇国を守護する四大名家様なんだからそこらの有象無象に収まらないのは確かだが、連中を誰が本気で必要とするのだ」ラツィオが言う。
熱部に残る唯一の問題は、グレルト王国だが、それも弱小国家であった。乾湿戦争時に小規模な反乱が起こっただけ。境域に配備されている駐留兵団でも鎮圧できる。グレルトが反旗を翻すことは、無いとは言えないが、断崖のように広がる国力差をひっくり返すことは不可能だった。そのため、デルフォイ家が動かずとも問題はない。ラツィオはいよいよ、ローレンの言葉の真意を測りかねていた。
「連中の台頭など信じられん」男が言った。
「お前は宮廷沙汰に疎すぎるな。『機両戦争』の時には、既にその流れは変わってきていたのだが……ひょっとして忘れたのか?たかだか三年前のことだからそれはないと思ったが……」ローレンが呆れる。
ラツィオは少しムキになったように声を張り上げて反論した。
「ふん。『叡智』が何を復元したところで変わらんさ。術式兵器は強力だが、アディアラ山脈は越えられんし越える意味もない。情勢に影響はない」
もちろんあれが、ようやく落ち着いた湿部の新たな火種となったのだから、フィルホルン=ロギオスの甦らせた術式兵器が恐ろしいことは確かだった。民草の声が魔司士連中に届かないわけではないだろうが、新型兵器という奴は次々と生み出され、混乱と破壊を引き起こす。この国でも術式兵器はいくつか開発されたが、その何れもが戦局を変える力を持っていた。
だが、あくまでもそれらは戦術兵器であって戦略兵器ではない。争いのなかでは所詮、小さな火でしかないのだ。兵器であるのだから火が盛ることもあるが、少なくとも湿部三国を飛び越えてまでノーランに影響を与える話ではない。
「お前の言うことは正しい。復元された『機両』は確かに戦乱を巻き起こしたが、我らの予想を裏切ってそれほどの脅威にはならなかった。だがその後に各国が独自に開発した新型術式兵器群は、とうてい看過できるものではない」
ローレンはラツィオの言葉に頷いて言った。
その言葉でラツィオの脳裏にある名前が浮かんだ。そして同時に、ある驚異的な光景がよみがえった。空を舞う青白い翼と縦横無尽に放たれる魔法、そして信じられぬほどの移動速度で振るわれる剣と魔法の舞い。
忘れたくても忘れられるはずがなかった。
ラツィオは呟いていた。
「それは『飛浮機』のことか?」
「そうだ」ローレンは頷いた。
§
三年前の機両戦争が終結した後、湿部三国はしばしの沈黙を選択する。この戦争で三国が失った物は大きかったが、得た物はそれを上回っていた。フィルホルンを所有するクレリアは『機両』の実戦情報を。ヴェルトヴァンとトルリアは『機両』そのものを獲得し、どの国々もその大きさを計るのに夢中となったのだ。
『機両』そのものは脅威ではなかった。革新的だったのは、これに使用された術式である。それこそ、馬車や牛車に匹敵する規模の可動機械を環境に合わせて動かす為の術式。魔司士のあいだで『最適化術式』と呼ばれるものだ。それは入力された外界情報を内部条件に照らして、最適動作を自動判断する装置だった。
最適化術式は、本来、攻城兵器の為に古代バルニアの時代に作られたと言われる。たとえば、巨大な鋼製の筒に風と火の術式を書き込んだだけの他愛ない代物を恐るべき攻撃兵器となす為に用いられた。
バルニア人が悩んだのは、この鉄棒をいかに当てるかだった。従来のように、魔法で強引に叩き込む戦術では命中率が上がらず、また超遠距離からこの巨槍を飛ばしても、ほんのわずかな風嵐魔法で逸らされてしまう。発射した後に兵器の進路を調整することが必要だったが、高速で飛ぶ槍など人間には制御しえない。確実に命中させる為には、人以上にその動きを修正できる装置が必要だった。超高速の車両兵器も同様に、人間以上の乗り手を必要とした。
それ故に彼らは、環境や状況に合わせて、機械の動作を補助するための術式を開発した。魔法を単に発動するためではなく、人の魔法を補助するための複雑な術式陣。それこそが原初の『最適化術式』である。
この術式が素晴らしかったのは、それが入力した諸条件を満たすかぎりで自由に働くという点にあった。大人を狙うように設定すればそのように働き、王の心臓を狙うように教えこめばその通りに、そして柔軟に働く。まるで、よくできた奴隷か機械人形のように。無人の兵器たちが、人よりも上手く敵を殺して回るのだ。これほど不気味なことはなく、軍人ですらこれを恐れた。
偉大なる皇帝アスランの治世、すなわちバルニア最盛期には術式機械の発展は絶頂に達した。もはや有人兵器と術式機械の区別はつかぬほどであり、隣都市との戦争すらも術式機械の玩具兵が行うようになっていた。もはや、剣術士も魔法士もお払い箱となってしまうほどだった。
しかし時代が下り、術式兵器が各都市に普及すると、その弱点もまた浮かび上がった。機械を動かすために必要な膨大な魔力は、いくつもの魔晶石から供給されていたが、その埋蔵量には限界があったのである。
そのため、その後の術式機械技術、そしてまた『最適化術式』は人間を強化する方向に発展した。特に恩恵を受けたのが剣術士であった。
元来、魔法とは用いるために多大な素質が必要になるものである。剣術と魔法を兼ね備えているものは数少なく、仮にいたとしてもどちらも二流であるのが常だった。特級と呼ばれるまでに強大な剣術士ともなればその肉体は根底から魔力に抗しており、魔法を攻撃を用いることなど、ほとんど不可能だった。
だが、最適化術式は、彼らの魔法行使を代行することができた。術式魔術――脳で行う魔法構築を幾何学図形式によって代行するもの――は、その代償に厳密性と時間を要したが、最適化術式は、即時制御を可能とすることで、術式魔術を戦法とできるまでに高速化したのである。
この時代から最適化術式は『副脳』と呼ばれるようになり、あらゆる人々がこれを使って争った。あの誇り高きバレア剣術士でさえも魔法を用い、縦横無尽の肉体と強大なかしりを駆使して闘ったという。
現代では、神聖トルリアの開発した『飛浮機』がその顕著な例にあたる。
通常、人間が魔法で自在に空を飛ぶことは難しい。これは上級魔法士にも不可能に近い高等技能とされていたが、その理由はひとえに、空中での姿勢制御の難であった。人間単独の術式処理能力では、飛翔という複雑な動作を、文言だけで制御できないのである。いくつもの補完術式が開発され、それを肉に刻んだ魔法士が飛翔に挑戦したものの、その多くが空中での挙動を完全には制御できず、墜落によって死亡した。成功したのは風属の数少ない限定魔術士だけであった。
これらを踏まえ、魔法士たちは修練を積んでおくことを考えた。クレリアなどで行われていた水中での姿勢制御訓練はそれほど悪い物ではなかった。非常に不恰好ではあったが、水の中で三次元挙動を習得したごく一部の者は空を飛翔することができたという。これこそが翼竜兵ということになるのだが、彼らが適応に要した期間は約七年であった。練兵としては長すぎたうえ、魔法の素養が全く無い者たちは勿論のことながら飛ばすことができず、効率は良くなかった。
であるから、機両戦争で『機両』と共に『最適化術式』と呼ばれるものの原形が現れた時にも多くの魔司士がその潜在能力には気付いていても、空を飛ぶことは考えもしなかった。翼竜兵などという考えはすでに消え去っていたのである。
§
ラツィオの身がぶるりと震えた。
「『飛浮機』は確かに恐ろしいな」彼が言う。
「かの兵器は褒める訳ではないがよく出来ている。私にもエルミスタットにも、あんなに調和した術式は書けんだろう」ローレンが目を細めながら呟いた。
「おいおい、諦めるのか」ラツィオは思わず言った。上級術式士であるローレンのお手上げ宣言に驚かされたのだ。この男は傲岸不遜という言葉の似あう男で、たとえ不可能でも屈することはまず無かった。どんなに高度で難解な術式であろうとも、彼は必ず解けるまでそれに力を注いでいたし、巷では不可能とまで言われた術式も彼が若い頃に構築してしまった。天才的な才能の持ち主だったのだ。
その才が日の目を見たのは、まったくその父たるラハリオの慧眼あってのものだった。ノーラン皇国の皇族は、古来より真交流の剣技を幼少期に習わせられるものだが、もっとも早く才に気づいた皇王は、息子に数人の魔法士を与えた。その時はペンドラン家を始めとして多くの者がラハリオ陛下を咎めたが、今ではむしろこの国きっての英断だった、と王を口々に褒め称える始末だった。
気付けば、第一皇太子ローレンは齢十にしてノーラン魔法士隊に所属し、筆頭魔法士『雲指』となっていた。その鮮烈な活躍はラツィオには許し難くもあり憧れでもあった。彼が幼い頃はむしろローレンが彼を羨んでいたからだ。剣ではラツィオが教える立場であった。まるで兄と弟のように。
その関係が逆転したのはいつだったろうか。魔導と剣、異なる戦錬に進んだ二人だが、活躍の度合いだけで言うのならば、いつしかローレンの方が上になっていた。あの日。乾湿戦争において、彼が致命的な脳障害を負ってしまうまでは。
「もう二度と諦めないと聞いたが」ラツィオが問う。
「ふむ……古い話だな」ローレンが言葉を濁した。
ラツィオは当時のことを思い出す。あれは変属魔法を複雑に編み込んだ高位魔導だった。敵は圧倒的な剣術士勢。其れを食い止める為に彼は大きな犠牲を払ったのだ。乾部から迫りくる『竜子』とその部下達は『雲指』のローレンでも手に余ったという。烈火の如く強大な闘気の怪物の一撃は、皇太子を吹き飛ばして瀕死の重傷にまで追い込んだが、それでも、彼は大規模魔導攻撃を発動させたのだった。その代償として彼は直感的術式行使の能力を失った。
この障害によってローランは魔法士では無くなり、前線から離脱せざるを得なくなった。乾湿戦争からしばらくの間、彼はまさに生ける屍だった。しかしラツィオは、この男が廃人では居られないということも知っていた。
「お前は幼い頃から負けず嫌いだっただろう。剣術で俺に敵わなかったときなど、きっかり七日の休みをとってから万全の準備でやってきたではないか。そのくせ決闘を挑むのでもなく、お前は……」
そのときひどく感心したことを覚えている。もう一度だけこの少年を打ちのめしてくれよう。そう思ってにやにやしながら剣を取ったラツィオに、ローレンは「弟子にしてくれ」と言ったのだ。二人は当時、騎士団の剣術士達を師匠としていたが、それでもローレンはラツィオの弟子となった。
それは剣を学ぶ為ではなく、強い者がどうして強いのかを知る為の修行だったのだろう。ラツィオはその時、彼の中に燃え盛る強さを見出した。ならば、魔法が使えないくらいのことが何だというのだ。ラツィオとその剣が壁ならば『識能』を失う事もまた壁。ラツィオは、ローレンが必ず戻ってくると信じていた。
いや、実際にはそれほど単純な感情では無かったのだろうが、ラツィオにはその気持ちをもはや説明できない。とにかく、彼に対する信頼感というか尊敬の念というか、奇妙な安心感のようなものがただあったのだ。
案の定、ローレンは特殊術式士としてすぐに復活した。彼の才能は皇国内のあらゆる技術者を凌いでおり、あの『脳子』にも届くものだったという。傲岸不遜の魔法の天才であるローレン=ノーランは潰れるやいなや、見事に甦ったのである。不屈とはまさにこいつの事だ、とラツィオは見せつけられた気がして、そのとき、ローレンに付くことを決めた。単なる友人としてではなく彼を支える傍付として。そう思わせるだけの力強さがあの頃の彼には宿っていたのである。
今とは違って。ラツィオは顔をしかめた。
「期待を押し付けるな」ローレンが言う。
「お前がこうも簡単に諦めるとは信じがたい。あの術式兵器の現物はノーランにあるんだから、一年前だかの手酷い失敗の後も諦めずに開発を続けているものだと俺は思っていたんだが」ラツィオが子どものように口をすぼめる。
「ふむ、しかしあれは、」ローレンが眉根を寄せた。
「弱音を吐くとはな。不屈のローレン、傲岸不遜の天才魔司士にも出来ないことがあったか。もしかしてやる前から挫折してるんじゃないだろうな」
ラツィオが発破をかけると、ローレンの口の端が歪んだ。
「門外漢はなんとでも言うが良いさ。脳子たる『叡智』だって、あんなものはまだ描けないだろう。しかしそうだな、まだ断念したつもりはないと付け加えておこうか。私だってそりゃまだ諦めたくはない。気持ちとしては……」
ほんの少しだけ、ローレンの眼が輝く。こうなると話が長くなることをラツィオは知っている。彼はわざとらしく何度か咳払いをして、ローレンから溢れ出ようとしていた術式講義を止めた。彼の魔法狂いを呼び覚ましてしまったかもしれないが、諦めたわけではなさそうで何よりだと思った。彼はまだ『飛浮機』に興味を持っている。恐らくは別の方法で近付こうとしているのだ。
「今、考えている方法としては三つあってな」
「ちょっと待て。俺には術式は分からんぞ」ラツィオは言う。
「少しは術式を齧らんと、脳が腐ってしまうぞ」ローレンがぼやく。
「脳ならとっくの昔に『呪界』に溶け込んでる」
「はぁ。剣術士って奴は本当に、」呆れ声が響く。
「さっさと続きを話せ。帰るぞ」
「仕方ないな」皇太子は面倒くさげに溜め息を吐いた。
自分から呼びつけておいて、酷い態度である。彼が自分を呼んだ本当の理由は分かっているので、ラツィオは敢えて昔のような口調を使った。これが彼が望んでいる事のなかで自分に出来る唯一の事だからである。
ローレンはすっと立ち上がって服を直した。
「では話す…まずは、おい、嫌な顔をするな。『飛浮機』の話だ。これはお前も知っている通り、着用した人間を空に飛ばす術式機械で、基幹術式はベダニットの三角方円とバルニア式六角陣の組み合わせからなる平面構造。基本的には石魔素で構築した∫嵐装《カティギラ/キャリプティス》で体を覆い、∫嵐放《カティギラ/ティフォ》を術式で最適化させることで自由推進力とするものだ」
ローレンは顔をきりりと引き締めると、いきなり早口で捲くし立てた。神聖トルリアの兵器に関する、彼お得意の薀蓄だった。一体、それがデルフォイ家にどう関係するのかは分からなかったが、ラツィオはとりあえず聞くことにした。
「おい待て、目を瞑るな。お前、聞く気がないだろう」
「頭が痛くなってきたんでな」ラツィオが言う。
「嘘をつけ」ローレンが吐き捨てるように言った。
「本当だ。少しも分からんからな」ラツィオは再び目を瞑った。
§
記号化された幾何学魔導たる魔術式陣は無限に近い組み合わせの自由度の反面、魔術式の敷居を上げている要因、再現性と一体となった厳密性を持っている。ある精密な幾何学模様が、他の模様と組まれて魔術式化される際には、魔術式理論に則った上で破綻の無い陣形になっていなければならない。わずかでも形や角度、組み合わせが歪んでしまえば終わりだ。それは正しく発動せずに暴走するのだ。その傾向は高度な術式陣になるほど上がり、術者には常軌を逸した、高い厳密性が要求された。特に魔法陣に要求される正円は術式の難易度を跳ね上げた。
そこでバルニア帝国の時代には、魔司士たちは魔法陣を戦闘で用いることを止めていた。代わりに三つの連繋円と二つの連続的な三角陣を描き、それらを魔導空間幾何学に則って非接触結合させることで、魔司士たちは概念的に正円の構造を作り上げる方式に移行したのである。
そして今では、魔導回路と呼ばれるような複雑な術式回路すらも用いられない。特に軍用としては、既存魔法を二十四の定式に基づいて簡易発動させるものが多くを占めるようになっていた。魔導回路が魔導的な構造省略を多分に用いている為に魔導幾何学に精通した魔司士にしか描けないのに対して、こちらの二十四魔法定式は知識と道具さえあれば誰でも手軽に描くことが可能だった。
§
ラツィオは寝たふりをしながらも、ローレンに話させた。実を言えば、ローレンの語ったことがちっとも分からないというのは本当ではない。正直なところ、もう空でも文言を思い出せるくらいには知っていた。
ーーベダニットの三角法円と六角陣。それは平面術式陣の基幹構造であり、その起源は古代バルニア帝国にまで遡る。だが歴史全体としてみれば比較的新しいものだった。それより以前の術式では魔法陣が使われていたが、正円の描き辛さから衰退していったーーこのような術式の基礎はラツィオがまだ少年の頃に魔法士時代のローレンに強制的に覚えさせられた。当時はまだ彼のことを何処かで馬鹿にしていた。剣を振れないもやし野郎だと思っていたのだ。
だが教わった術式の知識は役に立った。二十年ほど前だろうか。乾湿戦争最中のヴェルトヴァン王国との小競り合いでラツィオはそれを思い知ったのである。あれは幼少時代のラツィオが、最初に経験した戦争であったが、彼の予想と期待を裏切って、その中心は魔法士や術式士だった。
前線に弾かれたように飛び出す兵士、の頭が飛ぶ跳ぶ飛ぶ跳ぶ。多くの剣術士や騎士達が遠距離法撃で首を飛ばされていった。大規模術式で生成された巨大な岩や炎は兵士を押し潰し、燃やし尽くした。上空から。天が落ちてくるように影が大地を覆い、上を見上げたまま兵士たちが虫のように潰れていく。あるはずのないところに川が生まれ、海が生まれ、岩盤だけを残していく嵐のなかで骨すらも残っていない粉微塵の残骸が世界中に散っていく。そんな光景だった。
個人の闘気や靈力などに左右されない圧倒的な力。新設されたノーランの術式士部隊はあきれるほど強かった。術式後進国であるヴェルトヴァンの敗北はすぐに明らかになったが、凄惨な敗戦国の様子は勝者であるはずの少年ラツィオの心にまで暗い影を落とした。やはり、戦争は魔法なのか。剣は時代遅れなのか。
復元されて二十年足らずだったが、術式技術は圧倒的であった。未だ既存の技術とも統合されていない、まるで赤子のような生まれたての魔法技術が、何百年と研鑽を重ねた剣術士達の努力の結晶を打ち砕いていった。
特に強力なのは複数人によって行使される協力型の魔法術と呼ばれるものだった。術式士たちは複数人の脳を用いることで、既存魔法の威力を比べ物にならないほど上昇させたのだ。これがいわゆる『大規模魔法術式』である。これにより戦争は大きく変わってしまった。大量破壊魔術とも呼べるこの戦略攻撃が多くの剣術士や兵士、そして民を、塵芥のごとくほふっていったのである。
いや、人の命ばかりではない。大規模魔法や魔術は環境をも汚染した。大量の呪が周囲に、無差別にまき散らされ、呪界は混沌へと叩き込まれた。バルニア帝国はとんだ遺産を残してくれたものだし、それを復元開発してしまった『脳子』という存在も、大概、この世界と自然にとっては害悪なのだろう。
ラツィオは多くの剣術士と同じく『脳子』という存在を嫌っていた。ローレンは、彼らに対して畏敬の念を持っているらしいが、実際の彼らにあってしまってなおもそう思えることは奇跡だと言えた。あの連中と来たら、延々恨み言を言ってくる気狂いとしか思えない。ラツィオは職務上、三度ほど謁見の機会を持っていたが、その何れもが不愉快な経験として、彼の記憶のうちに残っていた。
『脳子』、
それは人間とは相容れぬものたちだった。
§
エズアルと冷湿部の第二次乾湿戦争は、術式後進国の大敗を踏まえて、術式士への対抗策が徹底的に練られたものだったといわれている。この戦争では各国の戦術級剣術士、つまり切り札ともいえる特級剣術士が多く参戦した。
それゆえに多くの剣術士や兵士たちが危惧していた様な魔法士による一方的な虐殺は起こる事はなかった。むしろ、驚異的な治癒能力と硬度、更には人智を超えた速度を有する彼らが虐殺者となった。単騎で多くの魔法士や術式士を葬り去る怪物。その剣はまさに血に飢えた獣のようですらあったと語られる。
彼らが取った手段は主に二つ。一つは魔法を回避して、接近戦で命を奪う事。もう一つは魔化源素を斬り裂く純化靈気攻撃でもって、術式自体を破壊する事だった。発動する最中がよく狙われた。当時はまだ高度な術式技術が復活して年月が浅く、術式自体を保護する結界定式も実戦配備されていなかった。その為、剣術士達はほんのわずかな傷を靈気斬撃で与えてしまえば良かったのだ。
§
「話に付いてきているか、ラツィオ」
はっ、とする。
ローレンのその言葉が、ラツィオの意識を瞬間的に引き戻した。どうやら彼は、自分が物思いに耽っている間も、長々と術式講義を一人で続けていたらしい。別に彼の話に興味がない訳ではないが、あまりに専門的な事柄は面白くもないし、聞いてみても分からない。結果として、まったく関係の無い事に意識が移ろってしまうのだが、まぁそれは仕方なかろうと思った。
ラツィオは少し不機嫌なローレンに向かって言う。
「もっと噛み砕いて説明してくれればな」
「これ以上、噛み砕くとなると赤子言葉になる」
「赤ん坊にも分かる様に説明するのが達人というものだ」
それを聞いて、ローレンは小馬鹿にしたように高笑いをした。本当にふざけた性格の男だとラツィオは思った。こちらが理解しているのを承知の上で茶番を行う。このふざけた会話は、だが真実、ローレンの為に必要だった。彼はきっと、本気で相談を持ち掛けたのではない、ただ気心の知れた友人と飽くまで話をしたいだけなのだ。その事をラツィオは分かっていた。この男はやはり少年のままだ。ラツィオの顔色を窺うように、またにやりと笑ってローレンが言った。
「この術式具を用いれば飛びたいと思ったところへ自在に飛べる」
「知っている。さっさと核心を放せ」ラツィオは苦笑した。
多忙で疲労している彼の気持ちも分かるが、全く本題に入らない旧友には困ったものである。そもそも『飛浮機』についてなら彼は体験として知っていた。何と言ってもこの友人によって、半ば強制的に装着されたのだから。
「トルリアを真似て作った試作機を俺に使わせたのを忘れたのか。あれは驚きの遅さだったな。あのときは死ぬかと思った。駆動方法はまったく違うし、暴走の危険性は高いし、そもそもまともに操作できないようなものを作るなと思ったぞ」
現物がノーラン皇国に持ち込まれる一年前に、既にローレンは試作機を作り上げていた。噂から推測した兵器の術式を描き、自己流の副脳を埋め込んだのだ。その兵器は確かに空を飛び、そして浮いたのであったが、本物にはほど遠い出来だった。半年前に持ち込まれた現物が動くのを見て、二人はそう思った。
「あれの話は止めてくれ」
男は赤面して言った。ローレン=ノーランは三十を少し過ぎている。そんな壮年の男の恥じらい顔など率直に言って、まったく見たいものでは無い。とはいえ、ラツィオに見せる彼の顔はいつも無邪気な少年のそれだ。公務に奔走する皇太子としての彼をラツィオはどうしても想像出来なかった。
「ふん。その様子だとまだ歳は食ってないらしいな」
「精神の話か。ああ、私はいつまでも若いとも」
「自分で言うな」ラツィオが言う。
そもそもローレン=ノーランはその実年齢よりも遥かに若く見られる男であった。骨格はしっかりとしているが、体躯は細身である。髪はもちろん蒼髪であり、言われなければ、二十二、三程度にしか見えない若顔であるが、胆は十分。少年のように顎は鋭くとがり、細い眉と挑戦的な眼は冷たさを感じさせる。ここ数年は眼尻に細かな皴が現れているものの、未だに白髪がない。
その事をラツィオは内心で羨ましく思っていた。彼は歳相応の老け方をしており、髪はもう白髪混じりだ。武には磨きがかかったものの肉体の衰えは隠せない。先日のフィロレムでは衛兵たちに武術の指南を行ったのであるが、靈力が思ったように出なかった。そのために比武では際どい戦いとなった。冷部独特の靈力変動もその一要因ではあるが、靈界への接続がもう苦しいのである。客人の強さを除いても、ラツィオは自身の限界を感じてしまっていた。
「お前もまだ剣を振るくらいの若さはあるだろう」
「つい先日、挫折しそうになったところだ」
「一度で挫折しないくらいの若さは残しておけ」皇太子が言った。
「ほう。なら諦めずに作ってみせるんだな」ラツィオが笑う。
「まぁ私のためにも、国のためにも必要なことだからな」
「造れるとは思わんが……」ラツィオがまた嬉しそうに笑う。
「私の技術は常に進化しているのだ」ローレンもついに破顔した。
かつて、エルミスタットを超える日もそう遠くはないかもしれないなどと、術式士たちは嘯いていた。だが今は、そんな話はとんと聞かない。ローレンが術式研究を行えなくなったからだ。実のところ、この男は様々な方面から研究を妨害されていた。たとえば、熱部の貴族勢力からも。
ラツィオはいよいよ切り込むことにした。
「国といえば……デルフォイはもういいのか。あの家が陰謀でも企てているのなら早い内に聞いておきたい。最初から本題が見えない話だが、あるいはデルフォイすらも本題ではなかったのか。俺に相談して行動意欲を上げようという魂胆は分かっているつもりだが、こうも慎重に話をされると穿ってしまうぞ。他にも何か隠していることがあるのではないかとな。それなら言わなくていいぞ」
それに対して、しかめ面でローレンがぼやいた。
「うむ。なら言ってやろう。実は、今の話は、デルフォイにも無関係ではない。全て繋がっているのだ。飛びたいところへ飛べる事がどれだけ恐ろしいことか本当に分かるか。『飛浮機』が人間だけを自在に飛ばせるとは限らない。これはすぐに思いつくことだが、トルリアはいつでもノーランを攻め込める状況にある」
少しだけ投げやりな口調であった。
「なんだと」ラツィオがあおざめた。
「お前も空から攻撃された経験はあるだろう」
はっ、と男は唾を呑んだ。
その言葉がある兵器の存在を思いださせたからである。十数年前に冷部同盟を恐怖に追い込んだ生体兵器。それはあらゆる都市の上空に出現し、空爆を行なえる移動要塞だった。その生体兵器によって多くの都市が壊滅させられたのである。竜をその内側に内包するといわれる強大な武器はあのとき猛威をふるった。
「乾湿戦争の『飛竜船』か」ラツィオは言った。
その兵器の名は『飛竜船』。
甚大な破壊の為の獣兵器。
「そうだ」ローレンがうなずく。
「それはまずい。何故、周知しなかった?」
「証拠もないのに不安を煽れば反トルリア派の思惑通りだ。脅威には備えねばならんが、いたずらに火薬を放り込むことはない、と思ってな」
「だが、尋常の脅威ではないぞ」
かつて、たった数十隻のエズアル『飛竜船団』にすら、ノーラン皇国は苦戦させられたのだ。もしもあれ以上に滑らかに飛び、さらに飛行兵士の集団を搭乗させた『船』が出来たらどうするのか。アディアラ山脈を越えて、トルリア兵たちが攻めてくれば。そうなればデルフォイの守る熱部境域の重要性は増すだろう。
なるほど、ラツィオは自身の頭の悪さを呪いたくなった。
皇太子は嫌そうな顔で言葉を続ける。
「そもそもだ、術式研究の中心はデルフォイであって、この私ではない。ランツ=デルフォイに術式研究を掻っ攫われたのでな。くそったれにも程があるんだが、ぼやいてもどうしようもないから自分の研究と公務に専念するしかない」
「馬鹿な。どんな理由があればそんな横暴が利く」ラツィオが言った。
友人の苦難を知らされて、怒りからそう言うと、心底から呆れたという風にローレンがため息を吐いた。どうやら自分はまたしても頓珍漢なことを言ってしまったらしいと思って、ラツィオは顔をゆがめた。宮廷沙汰に疎いというのは悪いことばかりでもないのだが、今回ばかりはそうもいかないらしかった。
「いやまぁそれはな。むぅ、あぁ道理で不思議そうな顔をしておるわけだ。忘れているんだろうが、トルリアの『飛浮機』を鹵獲したのはデルフォイだ。奴らが境域での小競り合いで持ち帰ったのだ。こういうことを忘れるのがお前の術式への興味のなさの露呈だな。まぁこんな皮肉も通じないような気がするが」
「やっと分かったぞ。それで流れを得たのだな」ラツィオは額を叩いて言った。
つまり、術式兵器の研究が活発になった原因の一つである『飛浮機』はそもそも、デルフォイ家によってノーランにもたらされたのだ。だとすれば、彼らが兵器の正当な所有権や研究の権利を要求することは何もおかしなことではない。むしろ逆に、本分を忘れて術式に精を出すローレンの方が糾弾される事態なのである、とどこか友人である男を非難するような考えが頭にすっと浮かんだ。
「なんだか、お前が悪いような気がしてきたぞ」
「私とデルフォイは対立関係にある」ローレンが言う。
「そりゃ術式に狂ってるお前が引かんのだものな」
「どういう意味だそれは」ローレンの目がぎらりと光った。
ラツィオは深刻な話も忘れて、またも笑い出した。
「デルフォイが権利を主張するのは当然だろう。連中が術式技術を研究してくれるというならば、好きにやらせりゃ良いじゃないか。どうせ皇王陛下はお前には好きにやらせてくれんのだぞ。お前はもう皇太子でしかもエルトリアムを預かる都主だ。気ままな研究者じゃない。まぁデルフォイは確かに信用ならんがな」
「辛らつだな」ローレンの瞳に影が落ちる。
「それが俺だろう」まったく何の茶番なのだ。
拍子抜けだった。これではデルフォイが謀反を企てているという話にはならない。話を理解するにつれて、ローレンの心配は杞憂ではないのかとラツィオは思い始めていた。権力を握っておるならば、デルフォイが策を弄する必要はない。ただでさえローレンは政治的手腕の点で責められているのだ。そのせいもあるのだろうか、どうやら自分の幼馴染は疲れてしまっているらしい。
「正直なところ、お前の恐れが分からなくなったよ」
呆れた顔でラツィオが言ったが、眼前のローレンの表情は、単なる冗談や杞憂であるとは思えないほどに深刻なものであった。男はただ一人の親友に対して、じっくりと言い含めるように言葉を紡いでいく。
「いいや。私が恐れているのではない。本当のところでは恐れているのは連中なのだ。何に怯えているのかは知らんが、私は、その隙を突いていかねばならんのだ。連中が反乱を起こすつもりならば私は手段を択ばないだろう」
これには意味が分からず、頭を捻るしかなかった。
「術式研究の中心地であるグランフィアでは様々な噂が飛び交っている。あの呪術士の住処のことだから表立って軍隊は動いていないようだが、それ以上に怪しい男があちこちを飛び回っている。その動きがなんのためなのかは分からんが、こそこそと隠れて動いている奴は経験からして反逆者だ」ローレンがぼやく。
「誰のことだ。お前の傲慢の犠牲になっているのは」
怪しい男。哀れにもローレンにそう称されるほどの男とは誰だろうかとラツィオは思った。熱部には危険な連中が山のようにいるが、本当の脅威となるほどの男は数えるほどしかいない。というか、ローレンが敵視しそうな人間はほんのわずかしかいなかった。そしてそのほとんどがデルフォイ家に関わりのある人物なのであった。これならば見当がつきそうだった。
「アランドか、ルスラだな」
「違う。私が言うのはランツ=デルフォイだ」
デルフォイであることは違わなかったが、それはかなり意外な答えであった。ランツとはデルフォイ家の四男坊である。確か皇都に軟禁されていたはずだったが、恐らくは家の位格上昇とともに状況が変化したのだろう。だが、少なくともラツィオの知るかぎり、彼はしがない中級剣術士にすぎなかった。
「あの平凡な青年の何が危険なのだ?」ラツィオはもはや笑いもしない。
「おかしなことに『術式士』としてのランツは『飛浮機』の構造を解明しているように思える。それゆえ私としては最も恐ろしい相手なのだ。何せ、奴の背後に何がいるかが分からんのだから」憂鬱そうにローレンが答えた。
どうやら相当に参っているらしいがラツィオにはどうにもそれが実感を伴わなかった。一体この男は何をそんなに悩んでいるのだろうか。正直なところ、このデルフォイ関連の話に意味があるのかどうかすらも怪しいところであった。
「術式士? よく分からんがそれが父親だろう」ラツィオが言った。
「私もそう思ったが、アランドは術式に精を出すタマじゃない。奴を操っているのは間違いなく、私と同格の術式士だろう。その操り人形であるランツが皇都と熱部を行き来しているともなれば、敵が何か企てているとも思うものなのだが」
要するに思い込みなのではないかとラツィオは疑ったが、ローレンが言葉を濁して説明しているということは、話していないことがあるのかもしれない。まさか皇太子が術式研究を奪いたいなどという私怨めいた理由で動くはずもない。いや、そうも言い切れないのがローレンの怖い所なのだが。疑念はちょっとした勘にすぎないものだったが、ラツィオはそれを信じて切り込んでみることにした。
「――なぁお前、この期に及んで何を隠しているんだ」ラツィオが問うた。
「なぜだ?なぜそんなことを聞く?」
「与太話にしては長すぎるし、お前の顔は真剣そのものだ。お前の言葉と態度があまりにもかみ合わない。何か隠してるみたいにな。正直こんなつまらん話はとっとと切り上げて欲しいが、もしも事実だというのなら聞かせてくれ」
ふむ、と少し思案気にローレンは顎に手を当てて考え込んだ。どうやら自分に話しても良いものかを考えているらしい。それはつまり、ラツィオには内容が理解できないだろうと端から考えていたということだ。聡い相手だと思っていれば、詳しい説明を悩むような話をするはずがない。
ラツィオは顔をしかめて皇太子の顔を見た。
ばつが悪そうに彼は口を開く。
「ここからが核心になる。危険だが、」
「お前なら止めても話すだろう」
それを聞いてローレンは笑った。
「その通り。すべては先程見せた紙にある。あれは、熱部で最近頻発している魔獣被害と軍備についての報告書だ。魔獣被害の多さと魔術物資の不審な流れもそれなりに問題だろうが、一番奇妙なのは観測できる兵員があまりにも少なすぎることだと、私は考えている。兵士の数が増えるとなればそれは謀反の兆しだ。だが減っているとなれば、それはどうしてなのだろうか」
「戦時下なら別動隊だ。裏に回して伏兵として用いるためのな」
ノーラン皇国は各領主に預けられた国属兵に加え、契約傭兵と誓約剣術士を擁しており、合計で最高十万の兵を動員可能な大国であった。貴族、それも守護名家ともなれば六千程度の兵を持つのが普通である。武に聞こえしメイン家やノーラン家などは優に一万程度の兵を持っていた。
「まさしく。デルフォイの兵は一万程度と言われているが、今や実態は五千にも満たない。国属兵が熱部を守っている間に、アディアラ山やグレルト境域を抑えていた兵士たちが消えていたのだ。お前の言うとおり、伏兵とされたのだろう。しかし、森にはその痕跡がまったくなかった。五千を森に隠すことはできん。どれほど静かに動こうとも痕跡は残る。ゆえに、兵士らは森を通っていない」
ローレンの目が爛々と光る。
「それをどうやって知った? デルフォイの近況を」ラツィオが問う。
「密偵だ……ということにしておけ」ローレンが言った。
「そういう含みを持たせるのをやめろ」ラツィオがあきれ顔で言った。
「ラツィオ。熱部ボダットは森林に囲まれた、というか森の深奥にある地域だ。森を通らずに抜けるなどということは転移術式陣でもなければ不可能なのだ。しかし、長距離転移の魔術は多量の魔力を必要とする。数人ならば容易いが、数千人を飛ばすことなど私にも魔術士にも不可能だ。ならば彼らは何処に消えたのか」
男の目は奇妙に、ラツィオを引きずり込もうとする。
まるで魔力を帯びているだった。
「全員死体にでもなっているのか?」ラツィオが抵抗するように軽口をたたく。
「空だ。船で運ばれたのだ」ローレンが冷えた声で言った。
「ローレン。本気でそんなことを信じてるのなら、頭を冷やした方がいいぞ。いなくなった嫁が鳥獣に攫われたと言いはる馬鹿貴族みたいに聞こえる」
その言葉にローレンが机を拳で叩いた。
「くそラツィオ。今までの話を思い出せ。お前にも信じてもらう為に『飛浮機』の話をしたのだぞ。わざわざ私はお前の身の安全まで考えてこういう話のもっていき方をしたというのに! 私の配慮は全部無駄だったのか!」
なんだその怒り方は。
「なんだその怒り方は」
「演出だ」ローレンが言った。
彼が、この少々突飛な推測をどのように立てたのかはともかく、ラツィオ=メインとてようやく彼がやろうとしていることに気付いた。力を持ったデルフォイ。親友にも明かせない敵国兵器の危険性。それらはここで繋がるらしい。当然ながら疑念は残るが、彼にとって重要なのはローレン=ノーランの関心であり、その真偽や裏の思惑にかかわらず、言われたことを受諾するだけであった。
「分かった分かった。まさかとは思うが、デルフォイ家に『飛竜船』があると言いたいのか。このノーランの一貴族であるデルフォイがトルリアと関係を持っていて、自らの領地の兵をどういうわけか五千も移動させたと。どういう理屈でそれがありそうな仮説になったんだ。本当のところ、どんな情報源を隠してるんだ」
兵士たちは消えたわけではない。何処かへと輸送されたのだ。恐らくは、痕跡を残さない空を通って。そうでなければ、この奇妙な事態に説明がつかないと親友が言っている。ラツィオにはやはりまだ、ローレンの思考が飛躍しているようにも思えたが、ローレンには彼なりの確信があることは分かった。
恐らくだが皇太子には何よりも信頼できる最高の情報源があるのだ。そして、それが自分にも秘密だということは理由あってのことだろう。
「勘が良いな。情報源に食いついたところなんかはラツィオとは思えないほどだよ。そして疑いながらも私を信じてくれるところなんかはお前らしい。そういう奴だから私は信頼できるんだ。それ故に――情報源については沈黙を貫こう」
その言い方に妙なところを感じ取ったので、ラツィオは情報の出所を追求しないことに決めた。ローレンは自分を厄介ごとに巻き込まないためにそれを言わないことにしているらしい。もっともそれは、追い詰められてはいない現状だからこその余裕なのかもしれなかったが。
ラツィオは呟いた。
「信頼はありがたいがデルフォイの熱部に、」
「トルリア製の新兵器があるなど?」
「あぁ、馬鹿げている」
冗談めかした言葉にも皇太子は重々しく頷いた。ローレンは本気らしかった。だとすれば、その兵器が正確には何処からやってきたのか。あるいは誰がどのように作ったのかを調べなくてはならない。ラツィオは新しい仕事が増えた事を理解した。もっとも、ある意味では皇都に戻ったときからすでに、仕事が増えることは覚悟していた。頭を使う仕事だというのが想定外だっただけだ。
「……しかしまぁそういうことなら、それに注力すべきだろうな。くれぐれも皇貴会議のことを忘れないようにな。俺がもし戻らなかったらオルンドラを頼れ。それかルディオに任せろ。絶対に何もかも一人でやろうとするんじゃないぞ」
皇太子がかすかに笑った。
「少なくともお前には頼るさ。ほら、任せたぞ」
「なら良いんだ。熱部を調べてみるとするよ」
ラツィオはそう言うとすぐに立ち上がり、身支度をするために部屋へと戻ることにした。何となく、この件の猶予はそれほどないような気がしていたから、ラツィオは皇太子ローレンに告げるべきある情報を秘匿することに決めた。そう、傍付が片付けるような余計な気迷い事、余計な女剣術士は、不必要なのだ。
ふと、フィロレムの腐った空気が思い起こされた。
ラツィオは早く皇都に戻ることを望んでいたが『血飢城クスタファルビア』の主はしつこいことで有名な男だったから、結局、公務がずるずると延びることとなってしまった。そのおかげで彼は、会いたくもない女に会うことになった。
フィロレムの、あの夜の邂逅。特級剣術士リアトの帰還。その情報を扱うには、今のローレンは手一杯であるように見えた。仇敵である彼女とその弟子が皇都へ現われることは波乱を招くだろうが、ローレンにとって致命的な事態ではないと判断したラツィオ、彼の思考は誤ってはいなかったが正しくもなかった。




