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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
序節 忌地出立
11/43

小人閑宴/ナロケ

Δ


 白い光に眼が痛んだ。

 最初はそれがなにか分からなかった。

 だがすぐにハオンの光だと気付いた。


 長く暗闇にいたせいか、かすかな光さえもやけに眩しく感じられる。視覚を調節しながら洞窟を出れば、ここは小高い丘の上であるらしい。まだ凍溶月も三日目なので植物はまだまだ元気で、下方には色濃い緑が広がっていた。


 大きく伸びをすれば、からりとした風が髪をはためかせる。やっぱり外の空気は気持ち良い。ここまで歩いてきた洞窟の中は湿っぽくて仕方がなかった。あそこだと話も湿っぽくなるし、気分も滅入る。


 そんなのはごめんだ。どうせ歩くなら緑の中が良い。

 それにその方が旅っぽい。


「国土の半分を占めるノーラン平原だ」女が言った。

「端が見えないですね」イルファンが答える。


 なるほど、見渡すかぎりの緑だった。

 途轍もなく広いその中央、つまり国の中央がイムファの森だ。


 皇国の都市は森を囲むようにして築かれている。理由は単純で、イムファの森深奥部はあまりにも魔獣が多く、都市など作れないのである。平原地帯も安全とは言えないが性質の悪い魔獣はまだ少ない。城塞都市という形ではあれど巨大な街を建造できるほどには人の住める地域だった。


 もちろん小都市や村も国内には数多く存在するが、それらは安住の地とは言い難い。旅人や傭兵の拠点として用いられるか、大都市からあぶれた人々が仕方なく住むか。そのどちらかでしか用いられない。安全性からしても文化膜の点からしても、営みの中心はノーラン国内に六つ存在する大都市だった。


「ここからだと湖もかすかに見えるだろう」

「本当ですね」


 それは『五大皇湖』のうちのひとつだった。ノーランには要所に湖があり、それが重要な水源となっている。今、イルファンの目にかすかに映っているのはノーランの第四湖。平原の向こうに小さく霞がかった青がぼんやりと見えていた。


 はるか遠くにあるあの湖を越えたところに、皇都エルトリアムはあるという。


「追手はいない」


 周囲の探気を済ませてリアトが言った。リアトのような七界繋者の放つ《探気》であれば、地上や地下、そして、上空までもが一度で把握できる。だから彼女が追手はいない、と言えば本当に敵がいないのだ。多分だけど。洞窟で手出ししなかったように教えてくれない可能性はあったし、リアトはたまに、抜けている。


「やっとのんびり出来ますね」イルファンが言った。

「首都までは休まずに真っ直ぐ進んでも二馬遊だ。警戒しながら進めばもっと時間がかかる。今ここでのんびりなどしている暇などない」


 リアトがぴしゃりと返す。

 イルファンはそれを聞いてげんなりとした。

 二馬遊の距離を歩くなど、もう御免だった。

 あの洞窟ですら半馬遊だったのだ。


「げぇ。馬借りましょうよ」イルファンが面倒くさげに言う。

「既に手配している」そう言うとリアトは少女から目を逸らした。


 あれから互いに、あの洞窟でのことには触れなかった。


 なんだかあの柔なそれを明らかにしてしまえば、何もかもが壊れてしまうような気がしたのだ。だからイルファンは努めて冷静に、普段通りに振る舞ったし、リアトもできる限りは心を揺らさないように努力していた。


 もちろんその上手さで少女に軍配があがったことは言うまでもない。


 しばらくのち、二人は丘を下って平原まで移動した。


 そこには小さな小さな小屋があった。何年も放置されていたらしく、薄汚れて穴だらけだった。中には小さな椅子が二つ置いてあり、それ以外には何も無かったが、不思議なことに魔獣がこの辺りには見当たらない。なので、何かが張られてはいるのだろう。イルファンは椅子で寛ぎながら、そんな事を考えた。


 半刻ほどすると、たかったかっと聞き慣れた馬の蹄の音が聞こえた。

 少女は飛び上がった。


「暴れるな」リアトが言う。

「うそでしょ!」イルファンは思わず叫んだ。

「嘘の音などあるわけなかろう」


 もちろん、愛馬である『トルーン』の足音を聞き違えるはずはなかった。実際、小屋の外に出てみれば、愛馬がリアトの馬に括り付けられていた。


 馬の背には知らない男が乗っている。ラフィーではないが、ラフィーの手の者なのだろう。草臥れた様子が彼によく似ていて、服もフード付きの黒いぼろだ。体格は華奢という言葉が適切であるほどに細身で、折れてしまいそうだった。


 かたちばかりの帯剣はしているが、あの体格で扱えるのかは疑問である。

 顔や髪は真っ黒の布切れに隠れてしまってよく見えなかった。


「届け物です」男が甲高い声で言った。

「ありがとう。情報は漏らすなよ」

「わが主とこれからも懇意にしていただければ」

「それは知らん。金貨で払おう」


 リアトが男に金貨を投げると、男はからからと笑ったのち、風のように走り去った。そのときの彼は、ほとんど目が追いつかないくらいに速かった。馬で走るよりもきっと自分で走った方が速いのだろう。おそらくは闘気特質だ。


「『飛脚』だ。字しか知らんがな」

「二ツ名通りの速さですね」


 イルファンが言う。

 それを聞いたリアトは少し考えてから言った。


「おそらく奴も、私と同じ闘気特質を顕している」

「まさか《速気》ですか」

「程度は劣るがな」女がすこし笑った。


§


 闘気顕能。靈気能。呪能。特殊靈気。

 そして闘気特質。


 様々に呼称されるこの力は、闘気術に長けた者だけが扱える異能であり、その能力のほとんどが、自身に魔力武装か、あるいはそれ以上の力を付与する。


 例えば、《速気》では、天属魔力武装以上の速度を保持者に与える。これは通常の術をどれほど極めても、到達できない速度である。他にも、限界を超えた硬度を保持者に与える《鋼気》や、《陰気》、《放気》、《真気》など、その数は人それぞれにあり、いずれも戦錬士として高みに至るためには不可欠の力である。


 ただし、この異能は、しばしば使用者に悪い呪を掛ける。

 それが特質後遺症と呼ばれるものである。


 『身体欠損、壊死』『部分的な記憶喪失』『体質変化』『靈力の制御不能』『特定の事物に対する異常な拒絶反応』『感情の欠落』『性格の一時的な変化』、


 これらは一度発現すれば、日常生活すら困難にするほどの病であり、多くの特質発現者はこの後遺症によって戦錬士をやめてしまう。発動を抑えればある程度の回復は見込めるからだ。だがそれでもこの病気が完治した例は、ない。


 にもかかわらず、戦錬士は数千年前よりずっと、この力を用い続けている。その特別性を失うことを死よりも恐れたからである。事実、靈気特質でもって、王となったものも数多くおり、歴史上の英雄はそのほとんどが力を有していた。


 かつて、バルニアで暴政を敷いた最後の皇帝、暴君グディア=バルニスも、《鋼気》と《狂気》と《骸気》を保持した。その為に帝国最後の動乱の際に四肢を落とされても、頸だけになっても、終には髑髏だけになっても高々と哄笑を続けていたと言われている。彼の姿を直接見てしまった英雄ハランディオスは、そのおぞましさに耐えられず、自らの目玉を自らの手で刳り抜いたのだという。


§


 イルファンは目を輝かせていた。


「《速気》はありふれた力だ」女が言う。

「普通なら鳥よりは遅いって聞きますよ」

「そしてお前よりも遅いだろう」


 だが、真に鍛えられた《速気》持ちの敵と相対したら、知覚する間もなく頸をすぱんと刎ねられるのだ。この眼前の女が簡単にできるように。


「あたしも特質が欲しいです」


 眼を輝かせたイルファンの声は期待に溢れていた。

 リアトは絞り出すような声で答えた。


「じきに発現する」

「しなかったらどうします?」

「発現するまで修業をつけてやる」


 冗談なのか本気なのか分からない顔で女が言った。


「修行なしが良いです」

「ならば《重気》がよかろう」

「それって強いんですか」イルファンが聞く。

「大芋虫よりも弱い」リアトが即答した。



Δ



 馬に跨って、平原を駆ける。

 琥珀の髪を揺らす風はとても気持ちが良かった。


 時折、土蜘蛛や鷹蜂などの魔虫に針兎や黒魔鼠といった小魔獣がなにも考えずに飛び掛かってくるが、イルファンの闘気を纏った馬には傷一つない。むしろ魔獣の方が馬脚に跳ね飛ばされて絶命するほどであった。


 これは真交流など多くの流派で用いられている靈気馬術《闘鎧馬》のせいだった。この術は、天獣の乱よりも世界を狭くしてしまったと言われるほどの発明で、一馬遊の距離を半日で走破できる。つまり、倍の速度で移動できるということだ。


 現在では、帆船や馬車にも同様の術が応用されている。なかでも熱部の海王国では、闘鎧を用いた船による貿易が盛んであるらしい。最もその地域では可動結界が重点的に使用されてきた為、闘鎧がとって代わるという事はないそうだが。


「おい、肩は大丈夫か」


 前方のリアトがいきなり問うた。


 両手を手綱から放して後ろに向き直るが、馬は気にも留めない。闘気による馬体の制御がしっかりと行われている為だ。その背上に跨るリアトの身体も揺れていない。ほとんどぶれることなく安定していた。


「ん、癒薬で傷一つありません」


リアトはそれを聞くといつもの顰め面で言った。


「癒薬は、」

「毒なんですよね」


 イルファンは女の言葉を待たずに返した。


 大陸全土で採れる上質な然属魔力を保有する魔蛙。その体液をカラドの粉とともに精製した物が癒薬だ。この魔蛙が毎年、馬鹿みたいに大量発生するお蔭で、この大陸においては癒薬ほど安価な薬はなく、おそらくラフィーに頼んでいたのだろうこの薬を、リアトはイルファンに渡していた。


 それを用いて、少女は肩の傷を治した。

 薬を塗って患部が熱くなるやいなや、傷は瞬く間に塞がった。

 跡形も残らなかった。


「魔力を取り込むという行為は呪体にとって良くないのだ。自分の生命力で抑えられない分量は決して使ってはいけない。それだけは絶対に忘れるな」


「当たり前ですし」イルファンが口を尖らせる。

「なるべく呪導で治せ」リアトが言った。


 ここ最近の師匠はやけに過保護だ、とイルファンはふと思った。傷を靈気の集中で治すことなど、戦錬士にとっては常識中の常識である。それをわざわざ癒薬で治癒させたのは、単にその方が速いというだけの理由からである。


「なんか過保護ですね」イルファンは口に出した。

「先んじて言っておくがな、今のお前は成長期ということもあって実体と呪体の両方が不安定になっているのだ。もしも靈魔の中立が破れてしまえばお前の存在そのものに影響が及ぶ。用心しておけ。なにせもうすぐ、誕生日なのだから」


「誕生日?!」


 その言葉に少女は目を白黒させて驚いた。


「覚えてるんですか!?」

「忘れはせん」リアトはただ呟いた。

「師匠らしくないです」

「忘れられぬこともあるのだ。ほら行くぞ」


 イルファンはその声に何かを感じたためにそれ以上の反応を避けた。


 そして、師匠が自分の誕生日を知っているというその喜ばしいはずのことは、少女の心になぜか影を落とした。そもそも拾った少女の産まれた日付をどうして知っているのだ。恐らく、リアトは自分の両親をよく知っているのだ。そればかりか、彼女は自分が産まれたその瞬間にさえ立ち会ったのではないだろうか。


 それは単なる勘だった。

 だが少女には事実であるように思われた。


 しかしイルファンはその疑念を振り払って馬にまたがることに専念した。リアトを信じているというのもあるが、それ以上に長丁場の乗馬で股がずきずきと痛んだのである。ローレッドではこれほどまでに長い時間、馬に乗り続けたことはなかったし、靈力で強化されている馬の鞍は、あまりにも硬すぎたのだった。


 どこかで休憩をしたい。

 そう、少女が思ったとき、遠くのほうに小さな村が見えた。


 ハオンの光は少しずつ陰ってきている。

 リアトが振り返って、ひどいしかめ面を見せた。


 近づいてみればやはり大きな村ではなかった。小さな家が4つと宿屋が1つ。それに少し大きめの家というか寄り合い所のようなものがあった。住んでいるのはせいぜい十人程度だろう。村の周囲にはまだ何も植わっていない畑があり、数人の農民がこちらを興味深げに眺めていた。その中には子どもたちもいた。


「宿か?」村の男が問うた。

「いいか?」リアトが言った。


 その身に纏うのは今や剣布ではない。それでもというべきか、だからこそというべきか、村長も二人を泊めることを快諾した。簡単な金銭を払い、リアトは品定めするように村の人々を眺めやった。


「今日はここに泊まる」

「蟻街よりは安心ですね」イルファンが言う。

「この村の結界はかなり古いものだがな」

「魔獣より人間のほうが私は怖いんですよ」


 馬を小屋に留めさせてもらい、二人は宿へと入った。

 しかしまさか野宿ではなく、宿屋で休憩を取るなんて。

 急いでいるはずなのになぜだろうか、と思ったが謎はすぐに解けた。 


「この先の荒れ地は『アルビシュル古戦場』だ。古代バルニアの時代に狂ったような規模の殺し合いがあった。そのせいで今でも深魔が現れる。大した連中でなければよいが、傭兵どもの話では厄介な『夜深魔』が出るらしい。急いではいるが、それで取り殺されては敵わん」リアトが言った。


「夜深魔?」少女が問う。

「ローレッドに出たのもそうだ」


 イルファンは最初に出会った『深魔』のことを鮮明に覚えていた。


 それはまだ少女が傭兵たちと出会う前のこと、まだ剣が重いと感じていたころのことだ。普段からリアトは深魔の危険性について語っていて、日が暮れてからは絶対に一人で外に出るなと言っていた。


 だがその日は稀にある『光砂降り』の日で、明るいうちからその予兆が出ていた。イルファンは言いつけを破って窓から夜闇のなかへと飛び出した。自分が知っている最も高い場所で光砂を見たいと思ったのだ。山頂近くには古い観測塔があり、そこからはきっと最高の景色が見られるはずだった。


 もちろんそれは上手くいかなかった。

 イルファンがやることはいつもひどい結果を招いた。


 観測塔はローレッドのなかでもとびきりの忌地とされていて、ずっと昔にそこで殺された兵士の怨念が残っているのだという。案の定、塔のてっぺんで少女はそれに出会った。といっても本当に兵士の幽霊が出たわけではない。むしろもっと悍ましいもの、深魔『窃視ノゾキミ』が出たのである。


 この深魔の見た目はそれほど強そうではない。深夜の家中に出現する珍しい悪異で、覗き見るための顔上部と戸を開ける為の4本の指、それと針金のような脚と胴体をもっていた。背丈は少女より少しだけ高かったが、上質な紙のように薄い肉体は、凪いだ風のなかでもひらひらとはためいていた。


 だがイルファンは直感的にその相手の危険性を感じ取った。


 全身に震えが走り、気が付いたときには塔を駆け下っていた。慌てて塔から出ると、その扉をしっかりと閉めた。それでも恐怖心は消えず、もしやあれが紙のように舞うのではないかと上空に目を移したがその危険はなかった。


 安心して一息吐こうとしたとき、ノゾキミの指と目が、閉めたはずの扉の隙間からするすると出てくるのがぞくりと見えた。剣を抜くことも忘れて、少女は一目散に逃げだした。ノゾキミが完全に姿を現したときには、慌ててきたリアトがイルファンを抱きかかえて走っていた。わずかな余裕もなかった。


 師匠がそれほど焦るのを見たのは後にも先にもそれが最後だった。


「ノゾキミのことは今でも覚えてます」少女が言う。

「あぁ、あれは本当に恐ろしい類の悪異だ。もしも捕われれば身体を丁寧に開かれてしまうし、体内に入られたら殺しきる術がない。あのときは幸運だった」

「この辺りにもそれがいるんですか」

「さぁ。深魔の種類はその時々で様々だ。殺せるのもいれば殺せないのもいる。『飛孤トビコ』のように無害な獣魔であることが大半だが、こうした村落では『屍食鬼ルビドゥ』や『屍人カバネビト』が出ることが多いな」


 リアトがそう言ったとき、男が一人、イルファンに近づいた。


「ローレッドから来たのか」

「そうよ。でも安心して。私たちは剣術士だから魔獣病じゃない」

「いや、そうじゃない。病気じゃないのは見れば分かる」

「そう」イルファンが不思議そうに首を傾げる。

「今の山脈は安全か」

「そうでもない。これから雪熊の季節だし、雪狗は少なくなってきているけどそのせいで小さい魔獣が増えている。病気のことを考えるなら行くべきじゃない。ローレッドはまだまだ危険な山よ」

「そうか、ありがとう」男は言った。


 彼が去ってからイルファンが問うた。


「何を聞きたかったんですかね」

「察するに、縁者がローレッドへ向かうか、戻ってくるのだ」

「安全確認ですか」イルファンが得心する。

「あるいは、死亡確認だな」リアトが言った。


 その視線の先では一人の女が目を腫らしていた。



Δ



 宿は驚いたことに個室だった。

 リアトは二人分の部屋を取ったのだ。

 

 確かに自分はもう随分と大きくなったが、これまで何年間もリアトと一緒の寝台で眠ってきたのだ。そうでなくともすぐ近くで、はっきりいって、寝息が聞こえるくらいに近くで寝ていた。それがいきなりの個室。別に寂しいというわけではないが、まぁ寂しくないというわけでもない。寂しかった。


 だが、宛がわれた手前、拒否するというわけにもいかない。

 寂しがっていると思われるのも癪だった。


 ひとしきり寝台で体を休める。


 だが休めていても、隣の部屋のリアトのことが気にかかる。まさか置いて行かれるということはないだろうが、師匠は一人でいるとき何をするのだろう。正直なところ、剣を研いでいるか鍛錬しているかの二択しか空想できない。


 少女はこっそりと寝台から降りると、壁に耳を当てた。

 するとほんのかすかに話し声が聞こえた。

 転言だ。


「……あぁ端末を使うのは控える。分かっている。夜は出歩かないようにしている。イルファンなら今のところ異変はない。誕生日を迎えるまでは大丈夫なはずだ。うむ。ヴォファンと約束したことだ、あの剣をいつか渡さねばならんからな」

 

 少女の耳がぴくりと動く。


 これは、あの琥珀色の剣に関する話だ。

 注意深く言葉を聞き取ろうと、少女は靈気を集中させようとした。

 そのとき、部屋の扉がとんとんと叩かれた。


「ひゃっ」


 イルファンは思わず飛び上がる。

 それからゆっくりと近づいて、扉を開いた。


「なに?」

「あ、あの、私、ナロケっていうの」少女がいた。

「誰なの」イルファンが固まったままで問う。


 少女の眼前には少女が、つまりイルファンはナロケに相対していた。

 ナロケは見たところ、剣術士でも傭兵でもない普通の少女だった。


「私、あなたの話が聞きたいの」ナロケが言った。

「あなたいくつなの?」イルファンが問う。

「あなたと同じ。11歳になったところ」少女が笑った。

「そう。私は13歳になるところよ。じゃあおやすみなさい」


 イルファンはそう言って素早く扉を閉めた。

 彼女がナロケを冷たくあしらったのには二つの理由があった。


 一つは、この一連の間抜けな会話をリアトに聞かれたくなかったから。もう一つは、ナロケという少女がいかにも農民然としていて剣術士たる自分が話すような相手ではないと思ったからである。農民に対するある種の偏見と、剣術士である自身への偏見が絡み合って、少女の心は閉じたのであった。


 それに、ナロケは農民の娘でありながら美しかった。魔獣の血を浴びて育ってきた自分とは、おそらく根っこの部分で違う。自分は初対面の人間に対して、これほど綺麗に笑えないだろう、とイルファンは思った。


 そのことでなぜだか、たまらなく腹が立ったのだ。


「ねぇ! 名前教えて!」ナロケの声が扉越しに聞こえる。

「黙って」イルファンが唸る。

「わたしはナロケ、山に咲いてるお花の名前よ」

「静かにしてよ」

「ただのお花じゃなくて、薬草なのよ」笑い声がする。

「馬鹿じゃないの」


 しばらくは無視していたが、しまいにイルファンは戸を開けた。

 これではリアトに聞かれてしまうと思ったからだった。

 そうなると、何か非常にめんどくさくなる気がする。

 

「分かったわ。じゃあ下で話しましょう」

「うん。あなたの名前は?」少女が言った。

「イルファン。意味は知らないわ」

「意味がない名前なの? 変なの」また笑った。

「薬草の名前も十分すぎるくらい変だと思うけど」


 ナロケはそれにも笑った。

 

 階段を降りると数人の大人たちが酒を飲んでいるのが見えた。

 どこの村でもそうらしいが、宿屋は夜の溜まり場になるそうだ。

 中央の火が揺らめいて、怪しげな様子にさえ見える。


「暴れまわってないだけましね」イルファンが言う。

「そうね」少女が答えた。


 ナロケはイルファンの前に出ると、そっと台所へと入る。


「話したいんじゃないの?」

「お母さんに見つかりたくないの」

「ああ、あれがそうなの」


 男らと火を囲う女性のなかに、ひときわ整った顔立ちの女がいた。よくよく見ればどこかナロケに似ている。若い頃はさぞかし美しかっただろうと思えた。彼女はひどく酔っぱらっていたわけでも、しなを作っていたわけでもなかったが、ナロケがそれを避けたのはなんとなく理解できた。


 さきほど、イルファンの話を聞いて、泣いていたのはあの女だ。


「去年の冬に出ていったきりお父さんが帰ってこないの」

「それで毎日、宴会騒ぎってわけ?」椅子に腰かけながら問う。

「もうすぐ一年経つから忘れたいのかも」

「どこから戻らないのよ?」

「エレングルよ。毛皮を売りにローレッドを越えたの」


 ローレッドを越えられずに死んだのだろうとイルファンは思ったが、それを口には出さなかった。ナロケの父親に限らず、あの山では毎日のように人が死んでいる。その数多くに埋もれてしまったものの死は、決して家族の元まで届かない。


 もちろんナロケの父がエレングルで長期の仕事を見つけたという、本当にかすかな可能性は残されていたが、それを言う気にもならなかった。


「ねぇイルファン」ナロケが言った。

「なによ。私は明日が早いからすぐにでも寝たいわ」

「一緒に外に出てみない?」

「命知らずね。悪いけど遠慮するわ。外は深魔がうようよいるかもしれないし、魔獣だって絶対に来ないとは言えない。私ならほんの少しでもここから出ようとは思わないけど。もしかして夜の怖さを知らないの?」


「えへへ。でも夜の草原ってすごく綺麗なのよ。それにイルファンは強いんでしょ。伯父さんが言ってたわ、あの子は剣術士で魔獣にだって負けないって。だからきっと大丈夫だと思ったのよ」ナロケが微笑む。


 イルファンはいい加減に苛立っていた。ナロケは無謀な冒険に自分を連れ出そうとしている。そればかりか、自分に守らせようとしている。こういった自己中心的な考えは好きではなかった。ずうずうしいったりゃありゃしない。


「私はいかない」

「そう」ナロケが悲しそうに笑った。

「どうして外に出たいの?」

「歌を……歌いたくて」


 彼女は台所の小さな椅子に飛び乗ると、窓から外を見た。何が見えているのかは分からないが、その瞳はほんのわずかに濡れているように見えた。なぜ彼女が泣いているのか。その理由は一つしか思い当たらなかった。彼女は、自分の父親が死んでいることを今日、ようやく知らされたのだ。


「聞いてたのね。お父さんのこと」

「もう帰ってこないって、山を越えられなかったって」

「ローレッドを生きて越えるには護衛がいるわ」

「一人じゃなかったもん!」ナロケが小さく叫んだ。

「傭兵を雇ってたの?」

 

 その問いにナロケは答えなかった。

 答えられなかったのだ。


「分かったわ」イルファンは言った。



 しばらくの後、イルファンは気を引き締めて扉を叩いていた。一度目、出ない。二度目、出ない。三度目に叩いたとき、ようやく中からリアトが出てきた。片手には丁寧に編まれた白羊糸の服を握っている。隙間から、ちらりとみえた室内には大量の衣類が散らばっていた。どうやらお楽しみ中だったらしい。


「なんだお前か」女が言った。

「なんだじゃないです。ちょっとお願いごとがあって」

「面倒は勘弁しろ。これは、村人に頼まれたことが手に負えないから、私に頼みに来たとかそういう類のことだ。悲しいが時間がない。貸せる手はないと伝えろ」


 リアトは眉間にかすかな皺を寄せて、少女を睨んだ。


「聞こえてたんですか」イルファンが顔をしかめた。

「いや。だが予想はつく。一体なんだ」

「ローレッドに向かって歌を歌いたいそうなんです」

 

 それを聞いたリアトはやれやれとばかりにため息を吐く。


 正直、イルファンだって同じ気分だった。どんな断り文句を握らされるのかは分からないが、ナロケがまた泣くことは確かで、それはとても困ったことになる。そう思っていると、リアトが思案気に片頬を膨らませた。


「わざわざ夜に歌うのは鎮魂の儀を兼ねているからか」

「彼女はそのつもりです」

「うむ。まぁそうだな、村から出なければ大した危険はない」

「いや、その、でも深魔が出ますよ」イルファンが更に顔をしかめる。

「この時間帯ならまだお前で十分だろう。危ない奴だと思ったら全力で戻ってこい。魔獣に遅れはとらんだろうし、これも修行になるかもしれん。剣術士である以上は、夜を恐れてばかりもいられないからな」リアトが獣のように微笑んだ。

「えぇ……」

「ちゃんと探気はしておく。絶対に村からは出るんじゃないぞ」


 リアトはそう言うと扉を閉めた。


 探気はするかもしれないが、意識を向けるかは怪しい。あの服の量では、晴れ着が決まるのにもう少しかかりそうだった。そればかりか、そもそもリアトが助けにくるかどうかも怪しいところだった。洞窟内でのことをまた思い出す。リアトは、自分に修行を与えたいのだ。だとすれば、深魔など格好の敵だろう。


 イルファンはげんなりと階段を降りると、台所のナロケに声をかけた。


 だが何度呼んでも返事がない。嫌な予感がしたとき、ナロケの覗いていた小さな窓が半分だけ開いているのが目に入った。彼女はおそらくこれを開けた。しかしこの窓から外に出るのは無理だ。そもそもどうして窓を開けたのだろう。


 イルファンには理由が分からなかった。

 そもそも彼女の姿はどこにもない。


「ナロケ!どこよ!」イルファンが呼ぶ。

 

 しかし返答はなく、広間を見れば村人たちはすでに眠りこけていた。ナロケの母親もだ。そして宿の扉がかすかに開いている。先ほどは閉じられていたはずのそれが。誰かが外に出たのか。イルファンが扉をあけると、外の暗闇に、わずかについた足跡が見えた。小さい子どもの足跡だ。ナロケはここから出たのだ。


 その足跡は、村の木柵のむこうへと続いていた。


 奇妙なことが二つあった。

 一つはナロケが一人で外へ出ていったこと。

 もう一つは大人たちがこの短時間で眠ってしまったということ。


 イルファンはその二つの疑問に、一瞬で答えを出していた。

 これはおそらく深魔か人攫いの仕業だ。


 ナロケは窓の外になんらかの惹かれるものを見て、そして外へと出た。敵はそれを邪魔立てさせないために大人たちを眠らせたのだ。リアトは気付いているだろうか。分からない。だが、気付いていないとしても自分の行動はしっかりと感知しているはずだった。ならば、知らせる必要はない。その時間もない。


 イルファンが判断を急いだのは、ナロケの足跡が森の中へと続いていたからだった。彼女をもしも仮に助けるとするならば、もはや一刻の猶予もない。


 そればかりか手遅れかもしれない。


 イルファンは外に出ると、わずかな靈力をこぼしてリアトに合図を送った。そして、競争馬に匹敵するほどの速度で夜を駆けた。ナロケが連れていかれてからまだ時間は経っていない。どんな深魔でもまだ痕跡を残しているはずだった。


「ナロケ!!」少女は叫んだ。


 この大陸の夜に朝の明かりはまったく存在しない。

 ほんのわずかなハオンの光も大地を照らすことはない。


 イルファンは走り始めてすぐに、カンテラを持ち出さなかったことを後悔していた。ケインの夜の光によってナロケの足跡を見失うことはないが、深魔は光を嫌う。ある種の簡易結界として光源は有用なのである。


「ナロケ!!」イルファンはまた呼んだ。


 返答があることを期待したのではない。

 どこかに現れているであろう深魔に己の居場所を晒したのだ。


 それは非常に危険な賭けであったが、それで自分の身がどうなろうとどうでもよかった。なぜそんな気持ちになったのか。あの少女はそれほど大事ではなかったはずだ。頭の片隅ではそう思いつつも、体と喉は勝手に動いてしまっていた。


 減速することなく森のなかへと滑り込む。森は夜深魔がよく現れると言われていて、リアトからも避けろと言われ続けていた。木の根の隙間を縫うように踏み込み、ナロケの消えそうな足跡を追いつづけた。


 自分は一体どうしてここまで彼女を探しているのか。やはりそれさえも分からないまま、イルファンは唐突に足を止めた。少女が目の端に映ったのだ。


 彼女は何もない森のなかで立ち尽くしていた。

 その傍には一人の男がいる。

 イルファンにはそれが誰だかすぐに分かった。


 そっと剣に手をかける。


「ナロケ、それはあなたの父さんじゃないわ」

「帰ってきたの」少女が言った。

「残念だけどそうは見えない」


 イルファンはうつろに呟く少女に素早く駆け寄ると、怪しげに立つ男から引き離した。意外なことに何の抵抗もなかった。ふらふらと尻もちをついたナロケは、そのままゆっくりと地面に横たわる。まるで眠り込んでいるようだ。


 イルファンは油断なく、男へと視線を送った。


「何者」

「父親だ。ずっとそうだった」やけに透き通った声だった。

「いいえ。まともな奴なら子どもを森に連れていかない。父親なら尚更ね。あんたはたぶん人魔だわ。でも人魔ならきっと私をここまで近づけたりしないわね」

「返せ」まるで頭のなかに直接響いているような。

「断るわ。きっとあんたは深魔。霊体かあるいはもっと良くないものね」


 イルファンの言葉を聞いた男の輪郭が少しずつぼやけていく。

 ケインの薄光に照らされるその姿が崩れていく。


「死んでなど、いるものか」

「どうやら本当に幽霊みたいね」

「ナロケ、会いたい」

「カバネビトなら喋らないはずだし」


 イルファンは幽霊という深魔の存在をリアトから聞いたことはなかった。それにもっとも近しいのは伝説が形をなしたもの、すなわち怪魔であるが、ナロケの父親がそのような存在位格を有していたとは思えない。


 そんな伝説があるような人物ならナロケもそのように話したはずで、平凡な男がその姿のままに現れるなど聞いたこともない。そんな深魔がいるのだろうか。


 イルファンの疑念は徐々に寒気へと変わっていった。


「あんたは一体何なのよ」

「そういう君こそ、誰、だ」男は言った。

「なに?」イルファンは思わず問う。

「お前は、誰だ?」


 男は尋ねていた。

 自分の名前を尋ねていた。


「誰だ」

「名前を知ってどうするつもり」イルファンが言う。

「誰だ」その声にもはや心はない。

「私の名前は、」偽名を言おうとしたそのとき。

「誰だ。ナロケ、その子の名を教えてくれ」


 男がそう言った。

 イルファンの脳みそがぐるりと回った。

 無駄な二回転、三回転。

 その間に放心していたナロケが口を開く。

 四回転。これは危険な状況だ。


 しかし危機を理解したときにはもう遅かった。


「その子はイルファン。友達なの」

「イルファン。イルファン。イルファン」


 背筋が泡立つのを感じた。

 これはあの時と同じ、ノゾキミの時と同じ感触だ。

 たぶん自分はいま、深魔の標的となったのだ。


「イルファン、イルファン、イルファン」

「私の名前を掴んだってわけね」

「イルファン、イルファン」

「でも私の名前の全てじゃない。あんたは名前の意味も知らない」

「イルファン」

「まさか、それで充分なんて言わないよね?」


 男の身体は霧のように解けていき、瞬く間に一人の子どもの姿を取った。


 イルファンは最初、それはナロケの姿に変じたのだと思ったが、形が定まるにつれて、眼前の深魔が己の姿をしていることに気付いた。骨格から肌の色まで寸分違わない。どうして敵は自分自身の姿に変わったのか。名を知られたためか。いや、だとすればなぜ最初はナロケの姿をしていなかったのか。


「今行くよ」抑揚のない声で鏡像が言った。

「来るな!!!」少女が叫んだ。


 考えるのも束の間、イルファンはほとんど無意識のうちに剣を振りぬいていた。見たこともない深魔であるから逃げるのが定石ではある。しかし、もし逃げる相手を捕らえる力を持っていたとすれば、自殺行為も良いところだ。


 幸いにも相手は自分自身。正面から立ち向かえば、勝てはしなくとも負けはない。不意打ちが決まれば勝ちの目もある。その思考が後から追いつく。これは正しい動き方だったと自分で分かる。だから剣は靈力で満ちている。


「しっ」


 その無心のバルニュスを鏡映しの己はかろうじて躱した。

 身体能力に差はなし。反射神経もよし。

 たぶんこいつは、かなり良い状態の自分自身だ。


 ということは足手まといを連れて逃げることはできない。


 イルファンは地面を蹴りつけて砂塵を飛ばすと、すかさずナロケを木陰に押しやった。もちろんその隙を見逃す深魔ではないが、イルファンは自身のものによく似た突きを何食わぬ顔で避けた。自分の攻撃は読みやすかったのだ。


 イルファンの剣が空振った。鏡像の剣がしなるように下から伸びる。すかさず左側面への入身、後ろ手に振られた伸剣を弾き、そのために崩れた体勢を狙って軸足に刃が飛んでくる、しかしそれを読んでいるイルファンは、すかさず飛び上がって深魔の顔を蹴りつけた。苦しげな顔一つせずに少女は額の血を拭う。


 無論、それを待たずにイルファンは剣を振りぬいた。これがまともに深魔の頭部に食い込んだ。頭蓋が割れるめしりという感触ののち、剣から滴る血が手首を、そして上腕までも濡らす。だくだくと溢れる鮮血にまみれながら、しかし深魔は顔色ひとつ変えずにイルファンの喉をすばやく掴んだ。


 だがそれは顎を折り砕くような力が込められたものではない。

 むしろ愛撫のようですらあった。


「がっ……何のつもりよ」イルファンが言う。

「貴女は私が誰か分かっていないのね」

「喋れるの?」少女が目を剥いた。

「貴女が喋らせてるのよ」深魔が言う。


 見れば見るほど、その姿は己にそっくりであった。違うのは瞳だけ。

 瞳には暗闇があり、なんの光も宿してはいない。


「こんな深魔もいるのね。でも、あなたは怖くない。前に会った奴とは違う。鳥肌も立たないし、首を絞めてもこの程度。私の最高の状態を真似たところで、靈力の使い方がずさんなら意味がないわ」イルファンが薄く笑みを浮かべて言う。


 そうすると、眼前の少女もよく似た笑みを浮かべた。


「貴女は大人ぶるのが好きみたいね。でもそれは幼子の強がり。あなたのほうがよほど、誰かの真似事が上手いんじゃないかしら」もう一人の自分が言う。

「なんとでも言いなさい。次は心臓を貫いてやる」

「いつかも、そうやったように?」彼女が微笑んだ。


 その姿が一瞬にして溶け、そして、一人の男になる。


 筋骨たくましい、まるで怪物のような男だ。

 髪は茶色、いや、ケインの光の下でも分かる。

 それは、琥珀色をしていた。


「誰」投げ出された少女が喘ぐ。

「イルファン、なぜここにいる」男が言った。


 まさか。

 声を聴いた瞬間に鳥肌が立った。


 その声を確かに知っていた。

 記憶にない記憶のなかで、それを聞いたことがあった。


 そしてあの腕。

 自分を抱きしめたあの腕を、忘れることはない。


「父さん……?」


 その姿を見たことはなかったが、それが自分の父親だということを、イルファンは瞬時に理解した。その色のない瞳以外の、すべてが愛おしく感じられてしまったからだ。獣のような骨、刃さえ弾きそうな皮、針のようになった琥珀の髪、


 しかしその手つきの細部に宿るのは獣ではなく、人間の心なのだ。


 震える手指がイルファンのほうへと伸ばされる。

 少女はあっさりと、自身の頭のうえに掌が乗せられることを許した。


「分かる」イルファンが言った。

「お前がなぜ。そんなはずはない」


 瞳が見えずとも、男が困惑しているのが分かった。いやそれはただの混乱ではなく、恐れ。父親であろう男は、その巨躯に似合わぬほどに少女におびえていた。その理由はイルファンにも分からなかった。


 だが、がらんどうで空っぽなその瞳を見た瞬間に、イルファンの呆然となっていた頭が再び動き始めた。違う。これは父親ではない。ただの夢まぼろし。ナロケの父親と同じ。単なる心のない幽霊だ。騙されてはいけないのだ。


 頭ではそう分かっていても、心は、眼前の男を受け入れていた。


「ずるい。こんな深魔……」

「お前こそ、お前こそ深魔じゃないのか」男が唸り声をあげる。

「深魔じゃない……私は違う」少女が言った。


 その言葉を聞いた男は、怒気を剥き出しにする。

 もはや恐れはない。その殺気は研ぎ澄まされていた。


「いや。なぜか俺には分かるのだ、お前が何者か」

「分かるわけない。覚えてもないのに」

「いいや。お前は違う。お前は、まがい物だ」

「ずっと、いなかったくせに分かるわけないじゃん!」

「黙れ。お前は娘ではない!」


 娘ではない。父親がそう言うのなら、私は何なの。


 もちろん眼前のものが本物でないことは分かっている。

 だがそれでも、心のどこかで信じていた。

 自分を、欲してくれると。


「それならもういい」

「ああ。もう十分だ」

「どうせ期待なんかしてなかった」


 言うが早いか、イルファンのバルニュスがひぃっと鳴ったが、一瞬の心の迷いが剣を鈍らせる。男は、その刃を容易く受け止めた。手には何も握られていない。掴み止めたのだ。無手、それがこの男の戦い方なのか。


 いやそうではなかった。男の背には剣とは思えないほどに長く分厚い鉄の塊があった。その鋼の質は見たところ冥神鋼《ハルト》。魔力も靈力も通さない、鋼のなかの鋼。少女の一太刀を防いだ無傷の右手が背に伸びる。


 と、その動作が見えた次の瞬間、死を感じたイルファンは全力で靈力を開放し、男の正面から飛びすさって逃れていた。ほんの足先でなにかが弾け、一瞬ののちに、落ち葉だらけの地面がぱっくりと割れた。


 男の振り下ろした鉄塊が、とんでもない速度で振り切られたのだ。

 大地を半弓飛も裂くほどに。

 

 イルファンの額から汗が落ちた。本来ならば自分は涙を流すべきなのだろう、そう思いながらも悲しみはもう湧いてこなかった。感情よりも戦いの本能が勝るように訓練されたからだ。一瞬の感情が失敗を生む、涙を流すよりも手を動かすほうが早い、身体が、そのことを覚えているのだ。


 少女は、無意識的に男の背後に回り込んでいた。無防備な背中に一撃。しかしその剣は、薄皮一枚切り裂いて弾かれた。男の強靭な靈力と分厚い表皮は、少女の軽い剣など通しもしなかった。何のことはない。たとえ自分が最初から全力で斬りかかっていたとしても、肉を破ることさえできなかったのだ。


「とんでもな、」呟き。

「シィィっ」男の口から息が漏れる。


 剛脚が組むように捻られると、全身に張り巡らされた発条のような筋肉が弾けた。少女の身の丈ほどもある鉄塊が、風車のように廻る。ねじれるようにして放たれた一撃が、まず少女の鼻先を掠め、それから周囲の木々を瞬く間に寸断した。


 鼻血を拭いながら跳び上がった少女は上空にケインの闇を見る。とっさに跳んでしまった。跳んでしまえばもう身動きは取れない。そして眼下の長剣に込められた靈力は、山さえ斬るほどに重い。少女が落下を始めた瞬間、それが放たれた。


 無策。真っ二つの骸を晒す。

 そうなる瞬間に、少女は空を蹴った。

 それは《空歩》、

 不許流の靈気歩法である。


 少女の足先から爆発的に靈気が放たれて、その身体は加速する。

 豹のように。火のように。

 空を縦横無尽に跳ね回るその動きを、琥珀髪の男が捉えることはない。


 十分に加速をつけた少女は天高くへと昇ると、勢いそのままに大地へ向かって更なる加速を試みた。剣が軽く、靈力も軽く、刃が通らないというならば、それを速度で補えば良いのだ。リアトが極稀に用いる自己流の剣、その奥義がひとつ《竜打ち》。着地を考えない加速によって可能となる、全身全霊の斬り落とし。


 空歩によって少女が垂直に走り落ちる。

 目の前のすべてを、分かつために。


「あああああっ!!」


 だがその瞬間、男の両太腿に靈気が収束する。

 何をするかが視えた。


 ひょうっ。

 視界が男で染まり、

 少女は技の出鼻を潰されたことを知った。

 獣のような跳躍が、少女を吹き飛ばしたのだ。


 人形のように宙を舞うイルファンの身体は、騒がしい音とともに木々に吸い込まれた。琥珀髪の男はすぐさま追撃を試みるが、その左腕は土のうえに落ちている。少女の渾身の剣をまともに受けたためだ。


 しかしそれでも男は右手一本で大剣を握り、支障などないとばかりに構えた、

 その次の瞬間、

 ふたたび少女が空中を駆け下りた。


「くっそっ!! もう一回っ!!」

「あんたが、なんでも知ってるみたいな顔して、」

「ただのくそ深魔のくせにっ!!」


 姿を消した直後から二度目の《竜打ち》を試みていたのだ。


「父さんのわけないのにっ!!」

「騙された自分が馬鹿すぎて嫌になる!!」

「とっととっ!! 死んでっ!!」


 雄たけびはもはや声にもならない。

 心のなかだけで放たれた、怒り。

 実際には無音のまま、少女は剣を振るった。


 みしり。その一撃は、琥珀髪の完全な油断を突き、左首筋からはらわたまでを袈裟懸けに切り裂いた。深くまで刺さった剣はもはや抜けないだろう。


 少女は手を放し、よろよろと男から離れた。その身体は、二度にわたる加速と落下の衝撃で火傷をしたように爛れており、いたるところに酷い切り傷があった。体内の細かな骨や筋も限界を超えて、壊れていた。


「殺った?」少女がへたり込んで言った。


 いや駄目だ。


 ぶわり、男の巨体が翻った。

 色のない瞳はイルファンを静かに、見ている。


「最低」


 交わす言葉ひとつないまま、眼前で巨剣が振りかぶられて、熊のように太い右腕がそれを思い切り、振り下ろした。身体は金縛りにあったように動かない。


 あぁ殺られた。


 そう思った少女のすぐそばを、何度も感じたことのある独特の気配が走り抜け、鋭い藍剣がぴぃっと奔った。視界に広がるのはケインに照らされた藍色の髪。冷えた瞳に虎のごとき笑みを浮かべて、大剣を弾き上げる剣。


「おい。何を呆けている」

「リアト、私、たぶんあれ父さんで」

「深魔だ。厄介なものを読み取られたな」


 間一髪のところで、リアトが間に合ったのだ。


 女は、琥珀髪の目から少女を隠すように立ちはだかった。すると驚くべきことに、琥珀髪の姿がぐにゃぐにゃと歪んで掻き消えていく。代わりにそこに現れたのは、どういうわけか、宍色の肌をもった美しい女性であった。


「あれは本物だったんですか」

「いや、お前の心から引きずり出された『畏オソレ』だ」

「これも、そう?」上ずった声で少女が問う。

「あれは私のオソレだ」冷えた声で女が言った。

「誰なんですか」

「さぁ、それはまたいずれにしよう」


 リアトは剣を構える。しかしその切っ先は女を真っすぐに指してはいなかった。イルファンにはその動きだけで、師匠が対峙する女を殺すつもりがないことが分かった。これは守りの構え。先手必勝を是とするリアト本来の構えではない。


「下がっていろ」

「戦う気ですか」イルファンが問うた。

「お前がどう思っているかは分からんが、ああ見えて彼女は強い。殺すことならできるだろうが、それはしたくない。だから少しのあいだ時間を稼ぐ」


 その言葉に呼応するように深魔は、どこからか長杖を取り出した。


 たくさんの鋼輪と魔晶が取り付けられた杖の先端には、奇妙なことに槍の穂先のようなものもついている。ただでさえ長く、靈気を通しづらそうだというのに、あれでは取り回しも難しそうだ。とても実戦向きの道具とは思えない。 

 

「あれは槍ですか」少女が問う。

「魔杖槍。さぁ、行け。来るぞ」


 と、深魔は、その奇妙な杖を上手に掌で滑らせて、瞬時に構えを取った。それは隙一つない槍使いの構え。見る者すべての時が一瞬だけ止まり。ちゃり、と金属の擦れる音がして、そう思った次の瞬間には、女の手から魔槍が伸びていた。


 リアトの正面が鋼の穂先で埋め尽くされる。それは槍というよりももはや生物。数十本の鋼の蛇だ。槍使いの女は一歩たりとも動いてはいない。ほんのわずかな重心制御によって、槍は縦横無尽に視界を埋め尽くしたのだ。


 鋼と鋼がぶつかる音が響く。

 数度の攻防の末、リアトがようやく剣を下ろした。


「魔力を込めた突き、魔剣流の技と同じだが、自前の槍術と相まってその槍は必中。射程も自由自在で、近づくほどに勝機がなくなる。嫌になるほど昔見たものと同じだ。ちっ。イルファン、私はどうやら甘かったようだ」


 そうぼやくリアトの左太腿には刺創。

 血がじわじわと滲んでいた。

 捌ききれていなかったのだ。


「師匠……」

「動けば追われ、弾けば絡めとられる。押し負けずに流すしかないが、それができるような手数でもない。覚えておけ、これが真に鍛えられたバルニア式槍術だ。お前ならこういう相手をどうやって無力化する?」リアトが問う。

「そういうこと言ってる場合じゃないです」少女が微妙な顔をした。


 リアトが不思議そうな顔をすると同時に、再び魔槍が伸びる。


 物理的実体である槍に可能な動きではない。変幻自在にして伸縮自在、曲芸のようにしなる鞭のような槍がリアトの剣を絡めとり、そしてそのまま、がら空きの胸へと吸い込まれていく。イルファンはすかさず動こうとしたが、ふと見たリアトがにたりと嗤っていたので、助太刀を止めた。


 心配する必要などない。

 師匠にとってこれはただの修行なのだ。

 

「答えは、こうするんだ」


 そう言いながらリアトはしなる槍の穂先を掴み止めた。なぜかそれ以上、槍は動かない。あれほど自在に動いていた穂先が、ぴたりと動きを止めていた。


「これは鋼属魔力を実体化させたものにすぎない。靈力で穂先を包み込めばそれ以上は展開できんのだ。無論、魔力の先端部を消滅させて再構成することもできるが、何度やっても同じこと。これしきの魔力では私の靈力を破れない」


「あ、えと、あの人を抑え込んだ方が良いですか?」

「必要ない。それに、次の手を使ってくるからもう保たん」

「え?」イルファンが素っ頓狂な声をあげる。


 その目の前で、リアトの身体が勢いよく吹き飛んだ。

 魔力の穂先がいきなり爆発したのだ。


「リアト!!」

「無事だ! 私より後ろに来い!! 跳べ!!」女が叫んだ。


 イルファンは反射的にリアトの方へと跳んだ。見事に四つ足で着地するリアトの、すぐ真横に並ぶ。意外なことに、深魔からの追撃はなかった。不思議に思って目を凝らすと、すぐに謎は解けた。深魔は木陰に眠り込むナロケの前でゆらめいていたからだ。その姿が見る間に、父親へと変わっていく。


 だが奇妙なことにそれはもう、何もしなかった。


「終わったんですか」

「寝ている者は畏れん」リアトが言った。

「……あれは、一番近い相手を読むんですね」

「そうだ。とっとと離れても良かったが時間稼ぎがしたかった」

「時間稼ぎ?」

「あぁ。あれの正体は霧だ。火に弱い」


 そう言いながら、リアトは森の入り口に目を向けた。

 いくつもの火の玉が近づいてくる。松明だ。


「村の人たちを起こしたんですね」 

「物分かりがいいな。それに時間がかかった」

「死にかけました」

「よくやった。だがまぁ一応言っておいてやると、オソレは誰も殺さない。殺されたように思っても精々気を失うくらいのものだ。あれに想像の源を消し去るような力はないのだ。傷だって瞬く間に治ってしまう。お前の身体も、あのヴォファンと闘った後にしては滑らかに動いているだろう」


 自分の身体を見てみれば、あれほどあった傷が跡形もなく消えていた。


「とはいえ、あれは生命力や気力を吸い取る。魂にも干渉する。あの少女を囮にするにしても、そう長い時間は保たないかもしれん。火の準備ができるまでは引き付けておきたかったのだ。万が一があると困るからな」

「師匠、囮にする時点でなんかもう台無しです」


 イルファンが疲れた声で言った。



Δ



 眼を覚ましたナロケの頭にイルファンは手を置いた。


「やっと起きたのね」

「お父さんが来たの……」

「私にも来たわ。自慢じゃないけど遊んでもらった」

「私も。一緒に空を見て、なにか歌ったの」

「ふうん。いいわね」


 あの夜のことをナロケはちゃんと覚えていた。

 そしてあの父親ではないものを、それでもお父さんと呼んだ。


 自分にとってはどうだっただろう。娘ではないと怒鳴られ、震えるような殺気を浴びせられた。こんな奴は父親じゃないと思った。だが、だがそれでも掌を頭に置かれたとき、どうしようもないくらいに嬉しくなった。


 そしてその感情はどれだけ殺し合いをしても、たぶん消えない。


「お父さんはきっと生きてるわ」

「もしかしたらね」ナロケがくすりと笑う。

「なんでそこで笑うのよ」

「だってイルファンの言う通りだもん。傭兵も連れないでローレッドなんて越えられるわけない。たぶん他の子たちが言うみたいに、雪狼に襲われて死んじゃったんだと思う」ナロケはおどろくほど優しく、大人びた瞳でそう言った。


 イルファンは面食らった。


 そりゃそうだが、まさかそれをナロケ自身が言うとは思わなかったのだ。どちらかといえば彼女は夢見がちで、希望に縋ってしまう性格だと思っていた。


「意外とちゃんと分かってるのね」

「イルファンって失礼ね」ナロケが頬を膨らませる。

「農民の子と話したことなんてないもの。私よりあなたは年下だし、夜には歌いたがるし、薬草の名前だとか私の名前だとか。そんなこと考えたこともなかった。だから父親のことも受け止められないと勝手に思ってた」

「ああいう深魔はお話にもなってるもの」

「そういうの、私はもっと知るべきだわ」イルファンが言う。


 二人は寝台から降りると、手早く服を着替える。先ほどから階下でナロケの母親が呼んでいた。どうやら朝ご飯ができているようだった。きっと今までに食べたことのないくらい美味しい朝ご飯だろう。ローレッドではまともな朝食は出なかった。腕利きの傭兵が作るものはゲテモノ料理ばかりと決まっているのだ。


「イルファン、また会える?」少女が問うた。

「さぁね。この世界は厳しいし。私は戦錬士だし」

「またいつか帰ってきたら、色んな話を聞かせて欲しいの」

「分かったわ。昨日の夜の話も続きをしてあげる」

「私も美味しいご飯の作り方なら教えてあげられるかも」

 

 ナロケが悪戯っ子のような顔で笑った。

 イルファンは、ほんの少し鼻を鳴らして、


「ねぇナロケ、」

「なに?」

「私の名前にも意味があるのかな」

「たぶんあるよ」と少女が言った。


 自然とイルファンの口角が緩む。


 その時、二人がいる部屋の扉が叩かれた。静かに開いたその向こうには、ナロケの母親がいた。なぜかその後ろにはリアトも立っている。二人は同じように呆れた顔をしながら、さっさと降りてきて朝ご飯を食べろ、と言った。


 リアトはいつものように少し苛立ったような眼でイルファンを見ている。


 だが、本当に苛立っているわけではない。

 こうして呼びに来るのが照れ臭かったのだ。

 それが分かるということが、イルファンにはなぜだかとても嬉しかった。

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