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語る脳子と、綴るは我子  作者: 木ノ倉ラ
序節 忌地出立
10/43

虚偽命窃/カラグリム



Δ



 イルファンは饐えた臭いの部屋で夜を明かした。

 

 あれ以来、獣による襲撃はなかったので三時間ほど仮眠を取ったのだ。寝室から出ると、見張りをしていたリアトがいなかった。地上に出たのだろうか。そう思ったときかすかに水音がした。浴室からだ。どうやら水を浴びているらしい。


 自分も昨晩入ったが、ここの魔道具はなかなか上等な物だった。なんと水だけでなく熱湯まで出たのである。水を湯に変える為の火魔法、転属型の術式陣はとても高いという。リアトがそういう嗜好品に近い物を持つとは驚きだった。


「なんか意外だったな」イルファンが呟く。


 この旅では今まで知らなかったリアトのいろんな一面が垣間見える。


 七年だが八年だが一緒にいたのに、自分は師匠のことはまったく何も知らなかったようだった。それはうれしくもあり、悲しくもあった。だが少なくとも、自分をしごこうとしている相手に人間らしいところがある、というのはこれ以上ない朗報だ。いつかは二人で普通に暮らすこともできるかもしれない。

 

 と、そのとき、少女のお腹がぐぐぅと鳴る。


 リアトが備蓄していた食糧は軒並み腐っていたので、昨晩は干肉と麦菓子を固めた物しか食べていなかった。お腹と背中がくっついてしまいそうで、食物について考えると涎がじわりと溢れてきた。修行が待っているのにこれではいけない。


 少女は、気を紛らわせる為にバルニュスを手に取る。それはリアトの物よりも少し短い。まだまだ少ない自身の靈気に合わせたのだ。剣術士にとって、力を剣先まで満たすことは何よりも重要だ。充たせなければ、魔獣に剣は通らない。


 そのため、中央大陸では余裕を持って扱える長短剣『バルニュス』が好んで使用される。このバルニア生まれの剣は今や、大陸の標準仕様となっていた。反対に、剣先まで気を満たし辛い長剣や槍は大抵の剣術士に嫌がられた。


 バルニア式短槍だけは大陸でも一般的であるが、靈気を流しやすい呪化素材を用いる為、剣に比べて使用者は少ない。ローレッドでも槍使いは数人しか見なかった。長剣使いならばちらほらと見るが、彼らは大抵、生まれながらの才能持ち。海刃流などは極端なもので、そのほとんどが親戚筋だった。だからイルファンはそうした剣術にはあこがれを持つものの、積極的に習いたいとは思わなかった。


 その点で魅力的なのは傭兵だ。彼らは武器を選ばないで戦える訓練をしている。たんなる魔鉄の槍に無理やり靈気を流す方法も彼らは知っていた。魔獣の血液を槍全体にぶちまけるのだ。そうすれば、血を媒介として靈気が満ちるらしい。


 いやこれは、眉唾話かもしれない。いくらイルファンでも槍に血を纏わせたことはなかった。それどころか、剣を血で濡らしたこともほとんどなかった。少女は血曇りひとつないバルニュスをぐっと握る。そしてゆっくりと立ち上がって構えた。その構えには隙一つないが、少女はそれを無意識にやってのけていた。


「やるか」そう呟くと、


 闘気を込めて振る。


 この部屋は剣を振るのに十分な広さを有していた。それでも、爪先に力みを乗せれば部屋の端から端まで二歩とかからない。これがリアトに習った真交流の第一歩法《瞬避しゅんぴ》である。この歩法を用いれば、間合いとは無きに等しい。靈気で滑るように距離を詰め、あるいは紙一重まで離すのである。


 リアトによれば、これは一行流の歩法であるらしかった。なんでも、開祖ラエスの教えである、「技を交えて真と為す」を玉条とする真交流は、独自の剣技をあまり持っていないのだという。つまり、五大流派に数えられる内の三剣派『一行流』『海刃流』『魔剣流』を掛け合わせた剣技がノーランの真交流だった。


 ゆえにその術理には他流派の物も多い。特に秘技とされる幾つかの技はそうなのだという。《破砕剣はさいぎ》を除いて、ほとんどの技が他流からの流用。それらは《一行九剣》や《海刃十剣》と呼ばれる。


 イルファンは中級ながら、それらの秘技を完璧に使用することができた。


 たとえば、

 瞬飛を使いながら斬る。斬り流す。

 一行九剣《流斬ながれきり》。

 すれ違いざまに。躱しながら。

 様々な状況を想定しながら、振る。


 いつしか目は閉じている。正面から合わせられた一撃、《延避えんぴ》に足指が地を跳ねる、側面に延びるように躱す、その左肩口を仮想の刀が擦る、


 だが致命傷は避けている、相手の背後を取るとすかさず、一行九剣の四《貫刀ぬきがたな》。心の臓を貫き、抉る、その間にも一太刀もらっている、


 それを自覚したままで、あと一人。


 海刃十剣の十《海巻からめ》。想像の相手のバルニュスを絡めとり、そして。《海下うなおり》。全身を躍動させた全力の斬り下ろしが、落ちる。


 斬る。斬り伏せる。

 いつかの、あの、夜を。

 赤く立ち昇る、炎を。

 

 火を斬り伏せるのだ。


 その思いに呼応するがごとく、

 イルファンの足が虚空をさまよい、

 小さな身体が熱を帯びていく。

 獣のような唸り声が口の端から漏れ出して、

 剣を握る白い手に赤みが差した。


 激しい殺気が溢れだして、

 それをーー少女自身は知らない速度で、

 鋼の刃が、恐るべき速度で落ちていく。


 その時、かちゃりと音がした。


 同時に斬り下ろした剣が止まった。眼に見えない壁に刺さったかのように、剣の流れが喰われたのである。瞼を開くと、そこにはリアトが立っていた。刃先を両掌で包み込んで完全に止めている。まさに妙技だった。


「稽古がしたいか」リアトが言った。

「すみません、師匠」イルファンは小さくなった。

「壊した壁と床の分だけ遊んでやろうか」


 見れば、部屋中に闘気の擦れた跡が奔っていた。


 自分でも気付かない間にズタボロにしていたらしく、絨毯やら箪笥やらをめちゃくちゃに傷つけていた。いや、もっと言えばリアトまで斬りかけたのだ。まぁ斬れはしないだろうけど。もちろん遊ばれるだけなんだろうけど。


 リアトがあきれ顔で言った。


「出る準備を始めておけ」

「はい」

「早く服を着てみせろ」


 湯気がのぼる傷だらけの肉体を拭きながらリアトが微笑む。

 肩、胸、太もも、滑らかなそれらには一切の無駄がない。


 視線に気付いた女は、昨晩選んだ服を纏い始めた。鍛え上げられた肉体が上等な衣にどんどん覆われていく。勿体ないとイルファンは思った。リアトが最後に皮鎧を付けると、格式高い特級剣士に相応しい姿が現れる。まるで騎士のようだ。年季の入った皮鎧がちょっとだけ浮いていたがイルファンは言わなかった。


「お前も、着ろ」リアトが言った。

「ほんとにこの服を着るんですか」少女が言う。

「構わん、皇都までの路で魔獣は少ない」

「魔獣っていうか、恥ずかしいというか」

「なにがだ。私には分からん」


 リアトが真顔でそう言うので、イルファンも観念して着替えることにした。


 選んだ服は着心地がよかった。雲のように柔らかな衣は身体にぴったりで気持ちがいい。初めて着る普通の服は、とても優しく思えた。まるで自分まで優しくなってしまうようなのだ。なんだか無骨な鎧を付けるのが躊躇われてしまう。


「恥ずかしい……」

「似合っている。市民の娘のようだぞ」


 げ、褒められた。


「いつかそういう服をもっと着ろ」

「要りませんよ」

「たまには剣も振れ」リアトが無表情に言った。

「だから着ませんって」

「本当に似合っているのだ。勿体ないな」


 褒められ慣れていないので少女は赤くなった。そしてその後、すぐに青くなった。だが流石に、似合っているから修業しろなどと言うことはなかった。だから、ここは素直に喜んでおこうとイルファンは思うことにしたのだった。


 その間もリアトは着々と身支度を済ませていく。もうすぐ出発の用意が整うらしかった。師匠の顔は何処か嬉しそうで軽く笑っているように見えた。一体何をそんなに喜んでいるのかはしらないがこの時の師匠は優しい目をしていた。


「すぐ出発ですか?」名残惜しそうに少女が言う。

「時間がないからな。皇都に着くのが早いに越したことはない。レアーツを待たせると面倒だし、まぁ色々と……厄介な事情があるのだ。きっとどこかの時点で話してやるから……おい、拗ねられても予定は変えられん。いつか見に来い、クスタファルビアを。別に大した距離ではないのだから」

「はぁそうですね」イルファンが言った。

「そんなに観光がしたかったとは思っていなかった」


 そういうことじゃない。

 何も言わないことに腹が立ったのだ。


 詳しい説明を端折られるのはこれがはじめてではない。リアトはすぐに言葉を濁す癖があった。それはよく分かっている。だから別に拗ねたわけではない。だが完全に納得したわけでもない、というところだった。なにせ奥義習得という話自体を疑っていた。隠し事も度をすぎると面白く、なくなってくるものだ。


「早くしろ、行くぞ」リアトが急かす。

「分かりましたけど」

「置いていくぞ」


 もう少しいじけていたい気分だったが、仕方なく、少女はリアトの部屋を後にした。今度は寝室に隠されていた小さな扉からだった。その扉にも幾何学模様が彫ってあったのでイルファンは少し気を使った。ここなんかで死んでは堪らない。


 リアトも窮屈そうに出口を抜けた。その先は真っ暗で、前が見えない。何処へ続いているのだろう。イルファンは警戒しつつもほのかに明るい方へと歩いた。身を屈めて進むと、すぐに開けた空間に出た。そこは自然に生まれた洞穴らしかった。ここが緊急脱出路なのだろうか。道はどんどん奥まで続いている。


「身を隠したい時はここを使う」


 しかめ面で穴から這い出してきたリアトが言う。


「このままドピエルから出るんですか?」イルファンが問うた。

「どうも嫌な気配なのだ。面倒は避ける」

 

 女は周囲を神経質そうに見渡してから言った。


「あ、馬!」咄嗟に少女が言った。

「置いていくが悪いようにはしない」


 それでもイルファンは嫌そうな顔をした。少女は馬に名前を付けていたからだ。『トルーン』と言うのがそれだった。ノーラン文化膜において名前は呪的な力を持つが、これはいつの時代も変わらぬ認識である。


 もちろんながら少女の愛馬も名によって力を得ていた。名付け、すなわち存在を縛る力。彼がイルファンの馬であると定めること。これが定義の力である。


 そのように決められているかぎり、トルーンはイルファン以外の人間には懐かない。ただしその存在定義の期限は十二ヶ月なのであるから、長期間の放置は好ましい事ではない。一年間も放置すればトルーンは名を失う。飼い馬としての定義を失ってしまう。それまでに少女は馬に触れて宣刻をしなければならない。


 だが奥義習得の修業が一年間で済む保証はない。

 修業が行われない可能性を考えてもトルーンの事はやはり気がかりだった。


 彼は馴染みの傭兵に貰った雪走馬で、広い蹄は深雪にも沈み込むことが無かった。トルーンと共に過ごした数年はイルファンにとって大事な思い出なのだ。馬を思うと、少女は哀しくなった。のんびりと話していたい気持ちではなかった。


 そのため、しばらくは無言で細道を進んだ。

 

「ここからは広い。少し気をつけろ」


 リアトの言葉どおり、幾つかの穴を抜けると急に空間が広がった。端に手も届かない。完全な暗闇がイルファンを焦らせた。視覚を調整しながら壁を探す。


 そうしているとリアトにぶつかった。

 筋肉が堅くて緩衝材にもならない。普通に痛かった。


「視覚調節には慣れておけ」リアトが言った。

  

 そんな事は分かっているという気持ちを抑えてイルファンは靈気の量を多めに調節していく。眼が暗闇に徐々に慣れていった。そうすると思いもよらぬ光景が目に飛び込んできた。イルファンははっと息を呑む。


 この洞穴はなんと、小さな丘ほどに広かったのだ。

 すかさずリアトが言った。


「河蝕洞だ。フィロレムから少し行けば大海だろう。そこへと通じる地下水脈が昔、ここを通っていたらしい。だがイルファン。上を見てみたらもっと驚くぞ」


 そう言いながら女は、魔獣油の松明に火をつける。折角の小奇麗でかっこいい服が既に泥まみれなのが見えた。リアトはにこりともせずに松明で上方を指し示す。そこには、増築を繰り返したらしき巨大な建造物が浮かび上がっていた。


 少女にはすぐに分かった。


 これはドピエルだ。


 人造迷宮とも呼ばれる地下貧民街。

 其れは広大な洞穴に築かれていたらしい。


 城とも街とも形容しがたい異形の建物はなぜか浮いている。洞穴の壁中に、まるで根を張るように浮遊している。あちこちに足場を突き刺しながら闇の底にぎしりぎしりと浮かんでいるのだ。まるで空に浮かぶ城か、なにかのように。


 目を凝らして、巨大な人造迷宮を眺めれば、修復や解体を行っている豆粒のような人間たちが見えた。木造の城の隙間中から光が漏れて、仄かに輝いていた。なんとも恐ろしいほどに幻想的な光景だった。


 あの灯には無数の人間が暮らしているのだ。

 数千もの餓人や狂人が。


 そう思ったとき、なぜか胸が騒いだ。

 既視感に近しい何かだ。

 美しいけれど。恐ろしいほどの暗闇。

 浮かぶ無数の灯。燃える城壁。怒号。


 そして、光に包まれる小さなお城。


 思いだした。

 紅い城だ。



Δ



「イルファン、ここよ」


白い手が伸びて、

誰もそれを掴めない。



Δ



 気付けば指先が震えていて、思わず目を背けた。

 少女は自分の中の言い知れぬ恐怖にこそ恐怖した。


 あれだ。また、あの光景だ。自身の中に巣食う恐怖の幻影。これは一体いつの記憶で、何の過去なのだ。自分の心に湧き上がってくる悲しみと恐怖、そして怒りの感情はどこからやってくるのか。わからぬままにイルファンは頭を抱えた。


「どうした、イルファン」リアトが声をかける。


 その声には抑揚がなく、いつも通りの冷徹さだった。

 師匠は気付くくせに暖かくはしてくれない。

 冷たいけれど、とても優しい。


 イルファンは眼を閉じる。


 そうして、ドピエルの光景を頭から消し去った。数瞬後にはイルファンは紅い城の事を忘れた。それが彼女に課せられた呪いであった。こうしている限り、イルファンが思いだすことはない。彼女が望めばそれは永遠に。永遠に深みに沈められるのだから。たとえ目の前で肉親が死のうとも、己が死のうとも。


 そして大事なものがすべて失われようとも。

 忘れればいつでも幸せになれる。


「なんでもないです」少女が言う。

「まったく。いい加減に機嫌を直せ」

「はい……」力のない声であった。

「何か怖いものでも見えたのか」

「いいえ」

「ならば良い」リアトがそう言った。


 そう言ったが、とてもそうは見えなかった。


 それから半刻程の間、二人は延々と続く洞窟を歩いた。


 ここに現れる魔獣はすべてカラグリム(洞窟蝙蝠)だ。口から強酸を吐き、超高音の音波攻撃をする。感覚強化とは相性が悪い相手だった。もちろん、剣術士は感覚を意識的に遮断できる。だが、イルファンは聴覚遮断が苦手なのだ。


 耳障りな洞窟魔蜂の羽音。魔蝙蝠の音波。それらが頭部を締め付けるように何重にもなって鳴り響く。こういう音はダメだ。リアトの『剣鳴』が苦手なのはそのせいであった。イルファンは千切った布を湿らせ、耳に差し入れた。


 これで多少はマシになったが、だからといって蝙蝠が減るわけではない。闘気を込めた小石で蝙蝠を射ち殺しながら進んでいたが、一定の間隔で飛んでくる魔獣たちは、まるで何かを測るように、付かず離れずで少女に攻撃を加えていた。


 イルファンはついに痺れを切らした。


「うざい。こいつら、厄介ですね」

「厄介。気付かないか」


 リアトがかすかに鼻を鳴らして言った。

 おかしなことに、自分をいじめる時の余裕が見て取れる。

 イルファンは思わず尋ねていた。


「えっと、何にですか?」

「こいつらは操られている。行動に人の意志が加わっているのだ。お粗末な手際だが、右上方から次は左上方。ほら飛んでくるぞ。殺気でも分かるだろうが、操獣の動きというのは不自然に規則的なものなのだ」


 リアトが大変な小声で言うので、少女は耳栓代わりの布を外した。


 なるほど、ということは、すでに敵は襲ってきていたらしい。師匠も早く言ってくれれば良かった。それじゃ修業にならないけど、この鬱陶しさからは解放されていたはず。敵がいるなら話は速い。イルファンはすかさず敵に応じていた。剣帯からバルニュスをすばやく抜き、それを正面に構える。


 ギリべスにカラグリム。リアトの敵は相当に趣味の悪い連中だ。あの蝙蝠が操獣だったとすると、今までの攻撃はおそらく布石なのだろう。それは聴覚を遮断させる為か、それとも別に何らかの策があるのか。


 考えればきりがなく、また別の罠に陥る恐れすらある。

 取り敢えずは敵を見つけるべきだ。


「来るぞ」リアトが呟いた。


 とその瞬間。

 辺りが闇に包まれた。

 敵。だが襲撃はない。


 なぜ襲ってこない。何かを待っているのか。考えると同時に靈気を展開する。ただし肉の中だけに満たす。暗闇で光を放つのは自殺行為だ。もちろん、リアト級の戦錬士に対して隠し通すことは困難だが、先の襲撃から推測するに敵は大した手練れではない。ならば内奥の靈力を見る事などできないに違いなかった。


 イルファンは精神を集中させ、五感を……

 強化しようとして気付いた。


 意識的な感覚操作には、わずかだが集中する時間が必要だ。この敵が盲目で無かったら。闇の中でも居場所を知る方法があるなら。それを考えれば危険すぎる。そもそもこの闇は相手が作り出した物なのだ。自分が刺客ならばこの隙をみすみす逃すだろうか。いや。イルファンはその瞬間にひらりと身を翻した。


 それは少女にしては珍しく、大正解だった。

 前方から粘ついた殺気が放たれると同時に魔法の詠唱が響く。


 見えないが恐らくは魔法射撃。素早く身を屈めて躱す。

 頭上を通り過ぎた法線はかすかに紫色をしていた。


 久々にみる魔法の痕跡だ。これが∫闇射|《スクーロ/アクティ》。やはり、この暗闇は敵が作り出した物。使用された魔法から見て、刺客は五界繋の『闇属』魔法士だ。幸いなことにイルファンには、傭兵譲りの断片的な知識があった。


 ――闇属魔法とは、闇の天獣『スクーロ』の力を引き出す魔術を魔法化したものの一つ。射撃魔法《アクティ》などの魔法に付与することもできる。そのとき、付与される属の存在顕示として、闇属は暗闇をもたらす。その暗闇は術者の力量いかんでは靈気をも遮るのだという。現にこの暗闇は浄眼でも完全には見通せない。きっと微量の魔力によって阻害されているのだろう――


 聴覚遮断をしていないが故に、敵の位置はおおまかに分かる。仮に耳を切っていたら劣勢だった。この暗闇で殺気だけを頼りに闘わねばならなかったのだから。危なかった、とイルファンは少しだけぞくりとした。


 そしてそのときになってようやく、驚くべき事実にも気付いた。

 リアトの存在だ。いない。どこにもいない。

 闘気も魔力も放たれていない。


 何故動かないのか。一瞬、脳裏を過ったのはリアトが既に死んでいるという可能性だったがそれはありえない。あの人が負ける光景は浮かばない。師匠は蝙蝠の段階で刺客の取る手段に見当が付いていたはずだった。


 それを自分に言わず、今も動かない理由は一つ。

 腹立たしいことに、意図的に隠れているのだ。


 修業のつもりだろうが、もし死んだらどうするつもりだ。いや、それはいつものことだった。苛々しながら、法射を躱していく。敵の手札が分かれば怖くはない。足音や衣擦れ、闘気の揺らぎ。それらから刺客の位置を逆算できる。

 

 ここ、だった。


 男の見えない動きが見えた瞬間、イルファンは無造作に剣を出した。


 ただその場所に置くようにふんわりと。

 またしても大正解。確かな感触があった。

 当たったのだと分かった。


 その直後、魔法によって作られた闇が消失し、視覚が帰ってきた。剣先は艶やかな血に染まっている。濃紺の暗殺衣を着た初老の男を、イルファンが袈裟斬りにしたのだ。衣が吸いきれなかった血液がどす黒く地面にしたたり落ちる。


 地面には二つの染みができていた。イルファンと、敵の血だ。少女の肩からそれは滴っていた。最後の最後に、魔法攻撃を受けたのだ。無詠唱だった為に威力は低く、闘鎧は貫通していない。数秒で血も止まる。無傷に等しかった。


 だが、それでもこれは油断。

 イルファンは悔しげに顔をしかめた。


 斬る瞬間にこちらの殺気を読んだのだろうか。ならばこの男は予想に反して相当の手練れだったのかもしれない。でもまぁ、そっちは致命傷でこっちは軽傷だ。少女はどこか誇らしげに肩の血を手で払って、獣のような笑みを浮かべた。



Δ



 リアトは深い闇の中で気配を断ち、周囲の音を探っていた。


 心音が四つ響いている。洞窟の反響のせいで正確な場所はしれないが、間違いなく敵がいる。闇の魔法士とは比べ物にならない手練れが暗闇に隠れていた。


 前方に一人。身をひそめている男を素早く短剣で殺した。

 男の手から小さな銀色の笛と小瓶が落ちる。


 掴み止めるのは容易だ。だがそれでも、かすかな音が鳴るだろう。気付かれるだろうか。分からない。この機を逃すつもりはなかったが、敵は少なくない。全員を暗殺するのはリアトといえども難しい。だから即座に『探気』を放つ。


 敵の位置が知れるとほぼ同時に、彼女は暗器を彼ら全員向けて放った。先の尖った小さな鉄棒が風切り音もせずに迫る。しかし『探気』や空気のゆらぎを気付かぬ程度の者ではなかったらしい。刺客共はあっさりと暗器を躱した。


 一人はその姿を消失させ、もう一人はゆらりと消えた。そして最後の一人は暗器を軽々と、わざとらしく、掴んで見せる。そしてそのまま、素早く身を翻して敵は退いた。この程度の闇には慣れているらしく、刺客は軽やかに消えた。


 イルファンの安全を考えると深追いはできない。

 リアトは敵の後背を見送った。


 足元には、カラグリムを操っていた操獣士の死体がある。ギリべス使いの男と同じく犬の入墨が彫られていた。やはり平原の狗。持ち物もそれを裏付けるものばかりだ。だが、狗如きが自分の暗器を避けられるはずがない。


 逃げた連中は『人狩士』に匹敵する手練れだ。

 だとすれば、おそらく自分は一番の外れを狩ったのだ。

 

 「狗を使う連中か」リアトが呟いた。


 平原の狗はノーラン平原を縄張りとする小さな勢力で、国外の人間が使うような連中ではない。トルリアを始めとして外敵も多かったが、奴らならばもっと手軽な暗殺者を使うだろう。ヴェルトヴァンならば国内にごまんと手練れがいる。


 だがそうしなかった。足がつくのを恐れたのだろう。国外の暗殺士に依頼しようとすれば、必然的に目立つ動きを取ることになる。敵は目立ちたくはなかったのだ。だとすれば、中央の誰かが裏で手を引いているのかもしれない。


 兄の力が弱まっているのだろうか、とリアトは思った。あるいは、レアーツ自身が糸を引いているのか。残念ながら、それも考えられない線ではなかった。あの兄ならば殺しは躊躇わない。信じてもいるが、信じきれないのが本音だった。


 イルファンを殺すこと。

 それが剣王の目的になりうることを、リアトは知っていた。


 八年以上が経過し、イルファンの術式にも限界が来ているのだ。あのドピエルの光景で、少女は間違いなく、ティルミシアでの狂乱を想起していた。あのとき、自分の行動が弟子に思わぬ衝撃を与えたことにリアトは驚いていた。


 似ても似つかぬ蟻の街でさえ、あれを誘発したのだ。

 エルトリアムに行けば、完全に彼女は目覚めるかもしれなかった。


 動揺を隠す術を持っているから平静を装えたが、その実、リアトの胸の内は騒いでいた。イルファンはやはり、あの記憶を思い出してきている。ローレッド以前の記憶が残っているとなると、それは少女自身にとっての脅威となる。


 いずれまた、封じられなければならないのか。

 それとも。


 リアトは思案に耽った。



Δ



「終わったか」

 

 物陰から現れたリアトがいつもと変わらぬ語調で言う。

 イルファンは素気なく答えた。


「一応。なんか聞いたりします?」

「やめておけ。この手合いは自らを『誓いの術式』で縛っているからな。それを破る手段がなければ暗殺士は情報を持っていないのと同じだ。さっさと殺してやるか、あるいは縛り上げておくのが賢いだろう」リアトが淡々と言った。


 仰向けに倒れる男の肌はすでに白い。

 死が近いことは明白だった。

 時折漏れるうめき声が洞窟に響いては消えていく。


「縛りあげますか?」少女が問うた。

「この傷は自力では治せん。じきに死ぬ」

「うわ、後味悪いやつだ」少女は嫌そうに言った。

「お前を殺しに来たやつだぞ」

「ええと違いますけど」


 少し棘のある口調は不機嫌さを示していた。元はと言えばリアトを襲ってきたはずなのに、なんであたしが肩を撃たれたうえにトドメを刺さなきゃいけないんだ、とでも言いたげな顔で、イルファンは頬を膨らませた。


「後はお任せします」

「おい」リアトが眉根を寄せる。


 しかし少女は立ち止まることなく血を拭った剣を背に仕舞い、さっさと歩いていった。リアトは、困るとも不満げともつかない表情で、敢えて言うならば思案気な顔をしながら、男に刃を向けた。滑らかな刃先が音もなく男へと落ちる。


 その直前。男が言葉を発した。


 封じられていたはずの口だ。そこから言葉が漏れ出たのだ。

 頸動脈のほんの少し手前で「イル」と、吐かれる名前。

 ごぼりと赤い泡が立ち、リアトの眉がぴくりと動くが剣は振り下ろされる。


 男は死ぬ。


「これがあの子の運命か」リアトが呟いた。


 その真意を知る者はいない。

 洞窟に響き渡ることもない呟き。

 それはわずかに少女が聞いただけだった。


「なんか言いましたか?」

「言った」哀しげにリアトが言う。


 前方にいるイルファンには分からないが、その表情はひどいものだった。


 もしも少女がリアトの顔を見ていたならば、下らない戯言を言うつもりではないことが、容易に伺えただろう。ほんの少しだけ、リアトから殺気にも似た気配が漏れ出す。だが少女はそれに気付かないままで、能天気に返事をした。


「なんですか? なにを言ったんですか?」

「イルファン、人は殺せるか?」


 女の言葉に少女は振り返る。

 が、そこに見たのはいつもと変わらぬ、無表情の女であった。


「好き勝手に殺そうとは思わないかも」イルファンが答えた。

「そうか」リアトが何かを思案するように顔を伏せた。


 師匠にとって、この質問がどんな意味を持つのか分からず、イルファンは不安そうに女の顔を覗き込んだ。気のせいかもしれないが、その顔はいつもよりも暗かったように思われた。師匠を怒らせてしまっただろうかと記憶を探る。


 役に立つような記憶は思い出せなかった。

 しかし一つだけ、奇妙な引っ掛かりを少女は掴んだ。


 この質問を、前にもされたような気がする。


「それ前にも聞かれたような」イルファンが問う。

「お前」リアトの声が上ずる。

「えーと、あれはすごく寒い時で」

「寒い時?」

「ローレッドが一番寒かったとき」


 イルファンの脳内に閃光が走った。

 彼女はようやく思い出したのだ。

 殺しの話を自分にした人物などそう多くはない。


 あの傭兵の師匠と、もう一人は兄弟子気取りの、


「ランツ=デルフォイだ」少女が呟いた。

「なんだ、ランツの野郎か」


 リアトは嘆息しながら答えていた。


 少女は、師匠が冷や汗を流していたことに気が付いた。その手は危険なものを相手にするかのように背中へと回され、剣をいつでも抜けるようにしている。何を恐れているのかは分からなかったが、イルファンは師匠の奇行には慣れっこだったからあまり気にしないことにした。それにもう、殺気は消えていた。


「師匠の弟子のね」イルファンが言う。

「あの男は私の弟子ではない」

「分かりました」


 もちろん分かってはいない。

 ランツはどう見たって、リアトの弟子だった。


「あいつにそんなことを?」リアトが問う。

「はい。『剣を持てば人殺しもするだろうけど、それでも剣を持つのなら覚悟しておけ』みたいな。あの人ちょっとだけ説教くさいとこあるというか、面倒くさい感じがあるというか。うまく説明できないですけど、分かってくれます?」

 

 イルファンは男のことを思い出しながら言った。


 ランツ=デルフォイ、彼は数か月ごとに山の道場にやってくる青年だ。少女にとって彼は、気ままな友人の内の一人だった。なんでも真交流の現中級剣士であるらしく、何度も未熟な剣を交わしたものだった。悪い男ではないが、それほど剣は上手くはなく、最後に会った時には自分が勝ち越していたはずだった。


 そんな大した剣術士でもない男だというのに、彼はなぜかリアトを慕っていた。ランツとリアトは互いに、なにか特別な感情を抱いているように見えることさえあった。傭兵たちはそれを見て、年の離れた恋人だなどと言っていた。


 だがイルファンにはそうは見えなかった。

 むしろ二人は、互いを怖れているように見えた。


 ときたまランツは、氷のように冷えた瞳を見せるところがあった。リアトが極稀に見せるものと同じもの。深い悲しみと、凍えるような怒りを含んだ瞳だ。一体彼がなにを抱えているのかを尋ねる勇気はイルファンにはなかった。


「ここ最近はローレッドにも来ませんね」少女が言う。

「中央でなにかあったのかもしれん」

「エルトリアムで会ったらまた説教されるかも」

「あれは繊細な男なのだ」


 リアトが毒虫を食ったような顔で呟いた。


「なんか暗い感じがするんですよね」

「乾湿戦争中に親戚筋を亡くしている」

「ぎぇっ! それはよくないやつですよ!」

「歳の近い兄弟もな」


 それを聞いて、少女はすまなさそうな顔をした。この場にいない人物とはいえど、配慮のないことを言ってしまったものだ。それに、それなりの付き合いがあったのに家族のことも知らなかった。デルフォイという家のことも知らなかった。


 だからもちろん、イルファンは、ランツから乾湿戦争に纏わる話を聞いたことも一度もなかった。いやそればかりか、目の前のリアトからもあの戦争の話を聞いたことがなかった。少女にその話をしてくれたのは傭兵だけだった。


 だがそのことについて詮索する気にはあまりなれなかった。

 誰に聞いても、あの戦争はひどかったと言うからだ。


「それ聞いたら気分が落ちました」

「ならばここらで休憩とするか」リアトが言った。


 しかし真正面には男と魔蝙蝠の死体が無造作に転がっている。


 流石にこんなところで休む気にはなれない。イルファンはリアトの提案を丁重に断った。結局そこから半刻ほど歩いたところに暗やみ蛍の住む洞穴があったので、そこで二人は少しばかりの休憩を取ることにした。


 そこで休むことを主張したのはなんとも意外なことにリアトであった。



Δ



「イルファン、気がかりなことがある」


 リアトが言った。


「なんですか師匠」

「む、その師匠というのは気恥ずかしい」


 少女は顔をわずかにしかめた。


 そこに文句を言われることなど想定もしていなかったので、まさしくどう反応して良いのか分からない。そもそも師匠と呼ぶことは何もおかしなことではない。むしろそう呼ばなかったときにリアトがしそうな反応のほうが怖い。


「ほんなほとひわえへも……!」


 乾飯に手を伸ばしながらイルファンは何かを言おうとしたが、その口の中にはすでに干肉がいっぱいに詰められていたので言葉にならなかった。


「考えてもみればお前とまともに話をしたことはなかった。それどころか、まともに何かを教えたこともない気がする。それなのに師匠と呼ばれることに違和感を覚えていた。私はもっとお前と正面から向き合うべきだったのだろう」


 真面目な顔をしてリアトが言った。


 急に師匠がそんなことを言い出したことにイルファンは戸惑いを隠せなかった。なにせ、何を考えているのかまったく分からない人だったのだ。今になって後悔されても何も言えない。はいそうでしたね、と答えるわけにもいかない。


 しかしまぁ、それでも思うところがないわけではない。

 急いで飯を呑み込んでから少女は口を開いた。


「そんなことないんじゃないですか」

「そうか?」リアトが嫌そうに言う。


「だって師匠は何も教えなかったかもしれないけど、私は色々学びましたもん。別に言葉とかがすべてじゃないんじゃないですか? ほらあれです、向き合い方なんて実際些細なことじゃないですか。そばにずっといたら、何だって慣れるし覚えていきますって」イルファンが歳に似合わぬことを言った。


 その言葉を聞きながら、リアトは、べそを掻く子どものように俯きながら足元の小さな『暗やみ蛍』を撫でていた。なぞるたびに背の模様が光っていく。求愛のために身体を輝かせる蛍はまるで自分の命を燃やしているようにもみえた。


 事実、この種の昆虫は自らの小さな魔晶を、輝くために使い切ってしまう。

 そこまでして求めるものにどれだけの価値があるのか、

 その価値が本当にあるのか。それは分からない。


「師匠が何を悩んでるのか分からないけど、私は別に恨んだりしてませんし」


 違う、違うのだ。

 そうリアトは言いかけた。

 だがそれは今ではない。

 まだ、まだなのだ。


 イルファンはまだ子どもだった。

 しかしその純粋さと優しさが女の心にはとても温かく感じられた。

 自分は疲れ果てている。どうしようもない人間だとリアトは不意に思った。

 あの日から15年、ようやくここまで来た。

 しかし何の為に来たのかはいまだに分かっていなかった。


 ヴォファン。

 ラクト。

 多くの旧友たち。

  

 その言葉にならない言葉に気付いたのか、少女はリアトの顔を覗き込んだ。


「私が良いこと言い過ぎたから泣いたのかと思って」

「そうじゃない」

「じゃあなんで泣いてるんですか」


 リアトはそう言われてようやく自分が泣いていることに気付いた。だがその理由は自分でも分かっていなかった。ひょっとすると、自分はイルファンという少女を育てることに何らかの重さを感じていたのかもしれなかった。その責務にようやく終止符を打てると思い、自分の心は涙を流したのだろうか。


 いやそうではないとも知っていた。自分のこの涙は喜びではなく、もっと心を苦しめるものだ。後悔と憎しみと自責が入り混じったものだ。だがそんなものを流す理由は自分でも分からなかった。今までもずっと分からなかったのだ。


 指先を登っていた暗やみ蛍が光るのをやめた。


「分からない」リアトは言った。

「自分のことなのに?」

「お前には自分のことが分かるのか」


 何気なく投げたつもりであったが、イルファンはその言葉にひどく傷ついた表情を見せた。少女の口元と目が奇妙に歪んで、それを堪えるのもつかの間、気が付けば潤んだ瞳から涙がぽろぽろ落ちていた。


 リアトは己が取り返しの利かない言葉を放ってしまったことに気付いて失言を取り繕おうとしたが、そのときには既にイルファンは走り去っていた。


 それから数刻は少女は師匠のもとに戻らなかった。

 ようやく帰ったときには、二人の距離はまたしても離れてしまっていた。


 とはいえ、最初に声をかけたのは少女の方だった。


「あの、何で泣いてたんですか?」

「まだ聞くのか」リアトが軽く目を瞑った。

「だってなんだか気になって」

「さっきはすまなかった」

「別に大丈夫ですよ」イルファンが言う。


 年端もいかない少女に、このように気丈に振舞わせてしまっていることにリアトはまたしても情けなさを覚えた。自分はヴォファンと約束を交わしたはずだった。彼が死んだあとは責任を持ってイルファンを育てあげると。


 だが実際はどうだ。


 剣術だけを教え込んでそれ以外のことはひた隠しにしてきた。

 そればかりか、年頃の子どもがするような遊びも勉学もさせてこなかった。 


 親になれるとどこかで思っていた頃があった。


 子どものいない自分だが、イルファンの親になれると。ヴォファンやミュトスに成り代わって人並みの幸せを手にできると心のどこかで喜んだこともあった。


 愚かだった。

 だからこの様なのだ。


「リアト……?」


 黙り込む女の名を、イルファンが呼んだ。


 少女が自分の名を口にすることは滅多になかった。師弟関係のために師匠としか呼ばれなかったからだ。名は、寝ている際に寝言で呼ばれるくらいのものだった。それもごくたまに、少女が心身ともに疲れきったときだけのことだった。


 狭い小屋でまだ幼い少女が身を寄せてきたり、名を呼んだりするときに、リアトは今までの人生で一度も感じたことのない感情を抱くのだった。


 それが剣よりも命よりも大事なものだと感じるのだった。


 少女が不安げにリアトの目を覗く。


「すこしだけ感傷的になっていたのだ。悪かった」

「どうしたのかと思いましたよ」

「お前がここまで大きく育ったことになぜか感動してしまったのだ。自分でも本当のところはよく分からないのだが、それで勝手に涙が出ていたのだ」

「絶対ウソですよねそれ」少女が頬を膨らませる。


 だが嘘ではなかった。

 この子を幸せにしてやりたい。

 そう、リアトは思っていた。





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