第74話 お風呂上がり
家に帰って自分の部屋へ入った瞬間、俺は鞄を床に置き、そのままベッドへ倒れ込んだ。
「疲れた……」
今日は朝からずっと体育祭だった。
借り物競走で全力疾走させられ、閉会式では立ったまま長い話を聞かされ、その後は教室に戻ってホームルーム。
しかも、帰る前には星奈とあんなことまでしてしまった。
「…………」
柔剣道場の近く。
人気のない自動販売機の前。
唇が触れた瞬間のことを思い出し、俺は枕へ顔を埋めた。
「忘れろ。今は忘れろ」
同じ家に帰ってきたというのに、星奈とは玄関で別れてからまだ顔を合わせていない。
星奈は「先にお風呂へ入ってきます」と言っていた。
俺は俺で、自分の部屋に逃げ込むように戻ってきた。
顔を合わせたら、絶対に思い出す。
星奈は平然としていそうだけど、俺は無理だ。
しばらくスマホを眺めていたものの、内容はまったく頭に入ってこなかった。
気づけば同じ画面を何度も上下に動かしている。
「何してんだ、俺」
スマホを枕元へ放り投げ、仰向けになる。
そのまま目を閉じた。
少しだけ寝よう。
そう思ったのに、顔のべたつきが気になった。
汗はタオルで拭いたけど、なんとなくまだ気持ち悪い。
風呂は後でいい。
とりあえず顔だけ洗いたい。
「面倒くさいけど、行くか」
ベッドから起き上がり、部屋を出た。
階段を下りる。
家の中は静かだった。
母さんはまだ帰っていない。
星奈も風呂へ入っているなら、誰とも顔を合わせずに済む。
今のうちに顔を洗って、さっさと部屋へ戻ろう。
そんなことを考えながら、1階の洗面所へ向かった。
「あれ?」
洗面所の引き戸が閉まっている。
いつもは開けっ放しになっていることが多い。
星奈が風呂に入るときは、洗面所の奥にある浴室へ続く扉も閉める。
たぶん、洗面所の引き戸まで閉めたまま風呂へ入ったのだろう。
だったら、中には誰もいない。
星奈は浴室だ。
そう思った俺は、ノックもせずに引き戸へ手をかけた。
「顔だけ――」
ガラッと戸を開ける。
直後。
「えっ?」
「…………」
時間が止まった。
少なくとも、俺にはそう感じた。
風呂上がりらしく、星奈の亜麻色の髪はしっとりと濡れていた。
頬も普段より赤い。
身体には大きなバスタオルを巻き、今まさに部屋着へ着替えようとしているところだった。
星奈の右手には服が握られている。
俺は引き戸へ手をかけたまま固まった。
星奈も固まっている。
目が合った。
「…………」
「…………」
たぶん、実際には1秒も経っていない。
それなのに、やけに長く感じた。
「ご、ごめん!」
俺は反射的に引き戸を閉めた。
勢いが強すぎて、バンッと大きな音が鳴る。
閉めてから、自分が何をしたのか理解した。
「ごめん! 本当にごめん!」
引き戸の向こうへ向かって、もう1度謝る。
返事はない。
「星奈?」
「…………」
「いや、違うんだ。洗面所には誰もいないと思って……」
「…………」
「風呂に入ってると思ったんだよ」
「もう上がっています」
ようやく返ってきた声は、普段より少し低かった。
「はい。今、分かりました」
「分かるのが遅いです」
「おっしゃるとおりです」
何も言い返せない。
完全に俺が悪い。
いくら家の中でも、閉まっている扉を開けるならノックくらいするべきだった。
「見ましたか?」
引き戸越しに、星奈が尋ねてくる。
「見てない」
「宗春さん」
「……少しだけ見えた」
「どこまでですか?」
「どこまでって言われても」
「正直に答えてください」
答えにくすぎる。
「バスタオルを巻いてたところ」
「それだけですか?」
「それだけ」
「本当ですか?」
「本当だよ。開けてすぐ閉めただろ」
「少し固まっていませんでしたか?」
「固まってない」
「目が合いました」
「目が合ったから固まったんだよ」
「私の顔しか見ていないということですか?」
「…………」
「どうして黙るんですか?」
どんどん逃げ道を塞がれている。
「人間って、急に予想外のものが目の前に現れたら、全体を見るだろ」
「全体」
「言葉の綾だ」
「私の全体を見たんですか?」
「そういう意味じゃない!」
思わず声が大きくなった。
直後、また洗面所の中が静かになる。
「……ごめん」
「何に対する謝罪ですか?」
「勝手に開けたことと、見たことと、大きな声を出したこと」
「全部ですね」
「全部です」
廊下に立ったまま、俺は頭を抱えた。
今すぐ自分の部屋へ戻りたい。
でも、このまま逃げたら余計に怒られそうだ。
「とりあえず、着替えが終わるまで離れてます」
「そこにいてください」
「え?」
「逃げないでください」
「逃げないよ」
「さっきから足音が少しずつ遠ざかっています」
ばれていた。
俺は洗面所から3歩ほど離れた場所で立ち止まる。
「ここにいる」
「本当ですか?」
「本当」
「返事をしてくださいね」
「はい」
引き戸の向こうから、衣擦れの音が聞こえてくる。
聞こうとしているわけじゃない。
でも、静かな廊下だから嫌でも耳に入る。
俺はできるだけ何も考えないように、天井を見上げた。
何も考えるな。
さっきの光景も思い出すな。
そう思えば思うほど、頭から離れなくなる。
「宗春さん」
「はい!」
「どうしてそんなに元気な返事なんですか?」
「ここにいるって伝えようと思って」
「……今、何を考えています?」
「何も考えてない」
「嘘ですね」
「なんで分かるんだよ」
「宗春さんは嘘をつくと返事が早くなります」
「初めて知った」
「私は前から知っています」
少しして、引き戸がゆっくり開いた。
俺は反射的に背筋を伸ばす。
洗面所から出てきた星奈は、淡い色の部屋着に着替えていた。
濡れた髪が肩へ張りついている。
頬はまだ赤い。
風呂上がりだからなのか、さっきのことが原因なのかは分からない。
「…………」
「…………」
また目が合った。
俺はすぐに視線を逸らす。
「どうして逸らすんですか?」
「見ない方がいいと思って」
「今は服を着ています」
「分かってる」
「では、こっちを見てください」
「無理」
「どうしてですか?」
「気まずいからだよ」
「私も気まずいです」
「だったら無理に目を合わせなくていいだろ」
「宗春さんだけ逃げるのはずるいです」
仕方なく星奈へ顔を向ける。
星奈は唇をきゅっと結び、じっと俺を見上げていた。
普段なら、ここで何か言ってくる。
怒るか、からかうか、そのどちらかだ。
でも、今日の星奈は何も言わない。
「……本当にごめん」
俺は頭を下げた。
「次からは絶対にノックする」
「洗面所だけですか?」
「閉まってる扉は全部ノックする」
「私の部屋も?」
「星奈の部屋は前からしてるだろ」
「たまに忘れます」
「それは星奈が返事をする前に開けるからだ」
「宗春さんが来ると思って、先に開けています」
「それ、俺のせいじゃないよな?」
「今は宗春さんが悪いです」
「はい」
また会話が途切れた。
星奈が濡れた髪の先を指で触る。
俺は洗面所の床を見つめる。
シャンプーの甘い香りが漂ってきた。
いつもなら気にも留めないのに、今日は妙に意識してしまう。
「宗春さん」
「何?」
「もし、私ではなく別の女の子だったら、どうしていました?」
「別の女の子がうちの洗面所で着替えてたら、まずそっちに驚く」
「そういう話ではありません」
「じゃあ、どういう話だよ」
「誰が着替えていても、同じくらい固まったのかなと思っただけです」
「固まるだろ。普通は」
「私だからではないんですね」
星奈が小さく呟く。
なぜか少しだけ不満そうだ。
「いや、星奈だから余計に固まったんだよ」
口にしてから、しまったと思った。
星奈の指が止まる。
「それは、どういう意味ですか?」
「そのままの意味」
「分かりません」
「分かってるだろ」
「きちんと言ってもらわないと分かりません」
星奈が1歩近づいてくる。
俺は1歩下がった。
「どうして下がるんですか?」
「近いから」
「今日、もっと近いことをしましたよね?」
柔剣道場の近くで交わしたキスを思い出す。
ただでさえ熱かった顔が、さらに熱くなった。
「今、その話を出すなよ」
「宗春さんが私を避けるからです」
「避けてない」
「では、こちらを見てください」
また言われた。
仕方なく星奈の顔を見る。
星奈も真っ赤になっていた。
「俺の彼女が着替えてたんだぞ。驚くし、気まずくもなるし、意識もする。それでいいだろ」
「意識したんですか?」
「そこだけ拾うな」
「大事なところです」
「俺にとっては全部大事なんだよ」
「では、もう1度言ってください」
「絶対に嫌だ」
「宗春さん」
「言わない」
「私のどこを見て意識したんですか?」
「もう勘弁してくれ!」
俺は星奈の横を通り抜け、洗面所へ入った。
今度こそ顔を洗おうと蛇口をひねる。
冷たい水を両手ですくい、熱くなった顔へ浴びせた。
「冷たっ……」
少しは落ち着くかと思ったのに、鏡を見ると耳まで赤くなっていた。
しかも、洗面所にはさっきまで星奈がいた。
置かれたドライヤー。
開いたままの化粧水。
脱衣籠の上に畳まれたタオル。
何を見ても、さっきのことを思い出す。
「最悪だ……」
「何が最悪なんですか?」
「うわっ!」
振り返ると、洗面所の入口から星奈がこちらを覗いていた。
「まだいたのかよ」
「いました」
「部屋に戻ったと思った」
「宗春さんが逃げないように見張っています」
「もう謝っただろ」
「まだ話は終わっていません」
「俺の中では終わった」
「私の中では終わっていません」
星奈はそう言うと、濡れた髪を揺らしながら洗面所へ入ってきた。
俺のすぐ隣に立ち、鏡越しにこちらを見る。
「……近いって」
「私を意識しているからですか?」
「だから、その質問をやめろ」
「答えてくれたらやめます」
「意識してるよ。これで満足か?」
「はい」
星奈の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「怒ってたんじゃないのか?」
「怒っています」
「笑ってるだろ」
「気のせいです」
「絶対笑った」
「では、私の顔をじっと見て確かめますか?」
「見ない」
俺が再び視線を逸らすと、星奈は小さく笑った。
やっぱり笑ってる。
怒っているのか、照れているのか、それとも俺をからかって楽しんでいるのか。
たぶん、全部だ。
「宗春さん」
「今度は何?」
「次からは、ちゃんとノックしてくださいね」
「分かってる」
「私が『入っていいです』と言うまで開けてはいけません」
「はい」
「それから、今日見たことは忘れてください」
「努力します」
「今すぐ忘れてください」
「無理だろ」
思わず本音が出た。
鏡越しに、また星奈と目が合う。
「……無理なんですか?」
「今のは言葉の綾だ」
「今日は言葉の綾が多いですね」
「忘れる。絶対に忘れるから」
「本当に?」
「本当」
「では、私がどんな格好をしていたか言えませんよね?」
「バスタオルを――」
そこまで口にして、止まる。
星奈の顔が一気に赤くなった。
俺の顔も、たぶん同じくらい赤くなっている。
「…………」
「…………」
洗面所に、また気まずい沈黙が落ちた。
蛇口から流れ続ける水の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「宗春さん」
「何?」
「まだ、覚えているじゃないですか」
「今すぐ忘れろっていう方が無理なんだよ」
「……しばらく、私の方を見ないでください」
「さっきは見ろって言っただろ」
「今は見ないでください」
「分かった」
俺は星奈に背中を向け、蛇口を閉めた。
星奈も俺に背中を向けたらしい。
鏡の端に、そっぽを向く星奈の赤い横顔が映っている。
顔を洗いに来ただけだった。
本当に、それだけだったのに。
俺たちはしばらく、狭い洗面所の中で背中を向け合ったまま、どちらから出ていくとも言い出せなかった。




