第73話 自動販売機の前で
閉会式が終わる頃には、空がすっかり夕方の色になっていた。
『以上をもちまして、本年度の体育祭を終了します』
放送が流れた瞬間、グラウンドのあちこちから拍手と歓声が上がる。
「終わったぁ……」
「もう動けない」
「誰か教室まで運んでくれ」
そんな声が聞こえてくる。
その気持ちはよく分かる。
俺だって朝から走ったり、応援したり、星奈の手を引いて走ったりしたせいで、足がかなり重い。
特に最後のやつが精神的に疲れた。
嫌だったわけじゃない。
むしろ、星奈と一緒に1位でゴールできたのは最高だった。
ただ、借り物競走のカードに書かれていた『好きな人』という文字を、全校生徒の前で読み上げられるとは思っていなかった。
あれは反則だろ。
おかげで女子からはキャーキャー言われるし、男子からは親の敵でも見るような目を向けられるし。
ゴールしたあとも、知らない女子にまで「お幸せに」と言われた。
俺たちは結婚したわけじゃない。
「それじゃあ各クラス、教室へ戻れ。帰りのホームルームをして解散だ。テントの片付けは係の生徒だけ残るように」
先生の声を合図に、グラウンドに集まっていた生徒たちが動き始める。
俺も立ち上がろうとしたところで、隣からタオルが差し出された。
「宗春さん、どうぞ」
「ん?」
「汗、すごいですよ」
「星奈も人のこと言えないだろ」
「私はいいんです」
「よくないだろ」
タオルを受け取り、額の汗を拭く。
朝は綺麗に結ばれていた星奈のポニーテールも、今は少しだけ崩れていた。
赤いハチマキも緩んでいる。
それでも、夕日に照らされた星奈は妙に綺麗に見えた。
「何ですか?」
「いや、別に」
「今、私のこと見ていましたよね?」
「見ちゃ悪いかよ」
「悪くありません。もっと見てください」
「そんな堂々と言われると見づらいんだけど」
「では、気づかないふりをします」
「もう遅い」
星奈が楽しそうに笑う。
朝からずっと体育祭だったのに、こいつはまだ元気らしい。
「俺、自販機に寄ってくる」
「飲み物ですか?」
「ああ。さすがに喉が渇いた」
「では、私も一緒に行きます」
「先に教室へ戻っててもいいぞ」
「嫌です」
「即答だな」
「今日はまだ宗春さんと一緒にいたい気分なんです」
「毎日一緒にいるだろ」
「毎日一緒にいることと、今日一緒にいたいことは別です」
よく分からない理屈だった。
いや、たぶん分かっている。
分かっているけど、まともに受け止めると恥ずかしいから、分からないことにしておいた。
俺たちは人の流れから外れ、校舎裏にある自動販売機へ向かう。
ほとんどの生徒は教室へ戻ったらしく、さっきまであれだけ騒がしかった校内が嘘みたいに静かになっていた。
遠くからテントを片付ける声が聞こえるくらいだ。
「今日の借り物競走の宗春さん、かっこよかったです」
自動販売機の前に着いたところで、星奈がそんなことを言い出した。
「急になんだよ」
「ずっと言いたかったんです」
「ゴールしたあとにも聞いた気がするけど」
「あの時は周りに人がたくさんいましたから。今度は2人きりで言っておこうと思いまして」
俺はポケットから小銭を取り出し、自動販売機へ入れる。
できれば今は商品の一覧を見ていたかった。
星奈の顔を見ると、借り物競走の時を思い出してしまう。
「宗春さん、私を見つけてすぐに走ってきてくれましたよね」
「他を探す必要がなかったからな」
「少しくらい迷いませんでしたか?」
「何を?」
「大勢の前で私の手を引くことです」
「それは……まあ、ちょっと恥ずかしかったけど」
スポーツドリンクのボタンを押す。
ガコンッ、と大きな音を立てて、ペットボトルが落ちてきた。
屈んで取り出そうとすると、星奈も横から顔を覗き込んでくる。
「それでも来てくれたんですね」
「お題が『好きな人』だったからな」
「私以外の女の子を連れていく可能性もありましたよ?」
「あるわけないだろ」
ペットボトルを取り出し、そのまま立ち上がる。
思ったより近くに星奈の顔があった。
「俺が好きなのは星奈だけなんだから」
「…………」
「なんだよ」
「いえ」
星奈が口元を緩める。
「もう1度聞いても、やっぱり嬉しいですね」
「だったら毎日言わせようとするな。こっちは毎回恥ずかしいんだぞ」
「何度聞いても嬉しいので、仕方ありません」
「俺の恥ずかしさは無視かよ」
「はい」
「そこは否定しろ」
星奈の分も買おうと小銭を入れようとすると、手で止められた。
「私は大丈夫です」
「喉渇いてないのか?」
「宗春さんのを少しもらいます」
「最初からそれが目的だろ」
「恋人ですから」
「便利な言葉だな、それ」
スポーツドリンクの蓋を開け、ひと口飲む。
冷たい飲み物が喉を通っただけで、少し生き返った気がした。
「ほら」
「ありがとうございます」
星奈にペットボトルを渡す。
星奈は何の迷いもなく、俺が口をつけたところから飲んだ。
今さら間接キスくらいで動揺する関係でもない。
そう思っていたのに、星奈がわざわざ俺を見つめながら飲むせいで、妙に意識してしまう。
「宗春さん」
「なんだよ」
「今、間接キスだと思いましたか?」
「思ってない」
「嘘ですね」
「早く返せ」
「照れています?」
「返せって」
ペットボトルを取り返す。
星奈は満足そうだ。
絶対、喉が渇いていたわけじゃない。
「もう教室に戻るぞ。帰りのホームルームに遅れる」
「はい」
自動販売機へ背を向け、歩き出そうとする。
けれど、星奈は動かなかった。
「どうした?」
「宗春さん」
「だから、なんだよ」
「ここ、今誰もいませんよね?」
星奈がキョロキョロと辺りを見回す。
校舎の角。
グラウンドへ続く道。
体育館の裏側。
念入りに確認している。
「たぶんいないけど」
「本当に?」
「そんな気になるなら、先に教室へ戻ればいいだろ」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味だよ」
星奈は答えない。
その代わり、俺の横を通り過ぎ、自動販売機の前まで戻っていく。
背中が自動販売機に触れたところで足を止めた。
夕日に照らされた頬が、少しだけ赤い。
「あれしませんか?」
「あれ?」
「はい。あれです」
「指示語だけで伝わると思うなよ」
「宗春さんなら分かると思います」
「全然分からない」
「本当ですか?」
「本当だ」
星奈がじっと俺を見る。
それから、自分の顔の横にある自動販売機へ手をついた。
「こういう場所でする、あれです」
「…………」
「まだ分かりませんか?」
さすがに分かった。
分かってしまった。
「お前、それ……」
「今日、クラスの女子が話していました」
「何を?」
「借り物競走であんなにカッコよく私の手を引いた宗春さんなら、壁ドンも似合いそうだと」
「余計なことを吹き込まれてるな」
「私も見てみたくなりました」
「見る側じゃなくて、される側だろ」
「細かいことは気にしないでください」
星奈が自動販売機に背中を預けたまま、俺を見上げてくる。
さっきまで楽しそうに笑っていたくせに、今は少しだけ緊張した顔をしていた。
だったら言い出さなければいいのに。
「宗春さん」
「なんだよ」
「嫌ですか?」
そんな顔で聞くのはずるい。
「嫌だったら、ここまで付き合ってない」
持っていたペットボトルを自動販売機の横に置く。
星奈との距離を1歩で詰めた。
「わっ……」
星奈の顔の横へ手をつく。
バンッ、と自分で思っていたより大きな音が鳴った。
星奈の肩が小さく跳ねる。
「ご、ごめん。痛くなかったか?」
「私は叩かれていませんから大丈夫です」
「そうだけど」
「宗春さん」
「ん?」
「今は心配する場面ではありません」
星奈が俺の体操服を指先でつまむ。
「もう少し、カッコつけてください」
「注文が多いな」
「今日の宗春さんならできます」
「なんだよ、その無茶な信頼」
星奈の顔が近い。
自動販売機の低い音が、やけに大きく聞こえる。
少し前までグラウンドで走り回っていたはずなのに、今は世界に俺たちしかいないみたいだった。
「これで満足か?」
「まだ壁に手をついただけです」
「壁じゃなくて自動販売機だけどな」
「では、自動販売機ドンです」
「すごく格好悪くなったぞ」
「名前はどうでもいいです」
星奈が俺の体操服をつまんだまま、少しだけ引き寄せる。
「そのあとは、宗春さんにお任せします」
「任せるって……」
「分かっていますよね?」
星奈がゆっくり目を閉じる。
長いまつ毛が夕日に照らされていた。
ここまでされて分からないふりを続けたら、さすがに男としてどうかと思う。
「あとで文句言うなよ」
「言いません」
「本当に?」
「早くしてください」
「はいはい」
「返事が軽いです」
「じゃあ、黙る」
星奈の顎へそっと指を添える。
一瞬だけ、星奈が息を止めた。
そのまま顔を近づけ、唇を重ねる。
「ん……」
触れたのは、ほんの数秒だった。
それなのに、借り物競走で全力疾走した時より心臓がうるさい。
ゆっくり顔を離す。
星奈が目を開いた。
「…………」
「なんだよ」
「短いです」
「感想がそれかよ」
「せっかく誰もいないのに」
「帰りのホームルームがあるだろ」
「少しくらい遅れても大丈夫です」
「普段真面目なくせに、こういう時だけ適当だな」
「宗春さん」
離れようとした俺の体操服を、星奈がもう1度引っ張る。
「もう1回です」
「お前な……」
「今日頑張ったご褒美です」
「頑張ったのは俺の方だろ」
「でしたら、宗春さんへのご褒美でもあります」
「自分で言うか?」
「嫌ならいいですけど」
星奈が少しだけ唇を尖らせる。
こんなの、断れるわけがない。
「嫌とは言ってない」
もう1度、自動販売機へ手をつく。
今度は音を立てないように、静かに。
星奈の頬へ手を添え、さっきより少しだけ長く唇を重ねる。
星奈の指が、俺の体操服をぎゅっとつかんだ。
やがて離れると、星奈は満足そうに笑った。
「やっぱり、今日の宗春さんはカッコいいです」
「今日だけかよ」
「明日からも期待しています」
「壁ドンなんて毎日するもんじゃないだろ」
「では、キスだけでも構いません」
「さらっと要求を増やすな」
その時、校内放送のチャイムが鳴った。
『各クラス、帰りのホームルームを始めてください。まだ教室へ戻っていない生徒は、急いで戻るように』
「…………」
「…………」
俺と星奈は顔を見合わせる。
「星奈」
「はい」
「走るぞ」
「もう体育祭は終わりましたよ?」
「誰のせいで遅れたと思ってるんだ」
「宗春さんが2回もキスするからです」
「2回目を要求したのはお前だろ!」
ペットボトルを拾い、教室へ向かって走り出す。
星奈も笑いながら隣を走る。
「宗春さん」
「今度はなんだよ!」
「来年の借り物競走でも、私を選んでくださいね」
「同じお題が出たらな!」
「出なくても選んでください!」
「それは失格になるだろ!」
体育祭はとっくに終わったはずなのに。
結局、今日1番必死に走ったのは、帰りのホームルームへ向かう今だった。
ただ、隣を走る星奈がずっと嬉しそうに笑っていたから。
まあ、遅れて先生に怒られるくらいは、別にいいかと思った。




