第72話 借り物競走
「次の競技は、2年生男子による借り物競走です。出場する選手は、入場門へ集合してください」
グラウンドに放送が流れた。
「ほら、宗春さん。呼ばれていますよ」
「聞こえてる」
立ち上がると、隣に座っていた星奈が俺の赤いハチマキへ手を伸ばしてきた。
亜麻色の髪を高い位置で結んだ星奈の頭にも、俺と同じ赤いハチマキが巻かれている。
「ちょっと緩んでいます」
「このくらい大丈夫だろ」
「駄目です。走っている途中で取れたら、格好悪いですから」
「借り物競走に、そこまで格好よさ求める?」
「もちろんです。私の彼氏が出るんですよ?」
そう言いながら、星奈が俺の頭の後ろでハチマキを結び直す。
近い。
ただでさえ体操服姿の星奈が目の前にいるだけで落ち着かないのに、結び終わっても離れようとしない。
「宗春さん」
「ん?」
「絶対に1位を取ってくださいね」
「借り物次第だろ。校長先生とか引いたら無理だからな」
「大丈夫です。宗春さんなら、すぐに見つけられます」
「お題も知らないのに、よく言えるな」
「もし見つからなかったら、私を連れていけばいいです」
「何のお題でも?」
「はい。可愛い人でも、美しい人でも、大切な人でも、将来のお嫁さんでも、全部私ですから」
「最後のは絶対入ってないだろ」
「分かりませんよ。体育祭の実行委員に、気の利く方がいるかもしれません」
星奈は満足そうに笑うと、俺の背中を軽く押した。
「いってらっしゃい、宗春さん」
「はいはい。行ってくる」
入場門へ向かいながら、もう1度だけ振り返る。
星奈はテントの前に立ったまま、胸の前で小さく手を振っていた。
あんな顔で見送られたら、手を抜くわけにもいかない。
借り物競走なんて、適当に走って終わるつもりだったんだけどな。
「位置について」
スタートラインへ並ぶ。
少し離れたテーブルの上には、折り畳まれた紙がいくつも置かれていた。
隣の男子が腰を落としながら、小声で呟く。
「眼鏡とか赤い靴とか、簡単なの来い……」
「俺はタオルがいい」
「それ、借り物っていうか、もう全員持ってるだろ」
「だからいいんだよ」
くだらない話をしている間にも、先生がピストルを空へ向ける。
パンッ、と乾いた音が鳴った。
同時に地面を蹴る。
「宗春さーん! 頑張ってくださーい!」
すぐに星奈の声が聞こえた。
他にも大勢が叫んでいるのに、なぜかあいつの声だけは分かる。
テーブルには2番目で着いた。
目の前にある紙を1枚つかみ、その場で開く。
「……は?」
そこに書かれていたのは、たった4文字だった。
『好きな人』
いやいやいや。
誰だ、こんなお題を入れた奴。
体育祭のど真ん中で、全校生徒に公開告白でもさせる気か?
「早く探せー!」
「止まってたら負けるぞー!」
観客席から声が飛んでくる。
俺より少し先に紙を引いた奴は、もう眼鏡をかけた先生の腕をつかんで走り出していた。
後から来た奴も、お題を見るなり自分のクラスのテントへ向かっていく。
このまま突っ立っていたら、本当に最下位だ。
だけど、不思議と迷いはなかった。
顔を上げる。
赤組のテント。
大勢の生徒が並ぶ中から、亜麻色の髪がすぐに見つかった。
星奈も俺を見ている。
どうしたんだろう、と言いたげに首を傾げていた。
「……いた」
紙を握りしめ、そのまま星奈へ向かって走る。
俺が近づくにつれて、赤組の連中がざわつき始めた。
「えっ、こっち来る」
「誰? 誰を探してるの?」
「もしかして……」
女子たちの声が妙に弾んでいる。
嫌な予感しかしない。
それでも足を止めず、星奈の前まで走った。
「星奈!」
「はいっ」
名前を呼んだだけなのに、星奈は待っていましたとばかりに立ち上がった。
「俺と来てくれ」
「もちろんです。お題は何ですか?」
「それは……」
「見せてください」
「ゴールしてからでいいだろ」
「今、知りたいです」
星奈が俺の手にある紙を覗き込む。
書かれた文字を読んだ瞬間、その大きな瞳がさらに開いた。
「宗春さん……」
「言っておくけど、時間ないからな」
「私でいいんですか?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「きゃあああああっ!」
俺が答えた瞬間、周りにいた女子たちから、とんでもない歓声が上がった。
「うわ、本当に好きな人だ!」
「星奈ちゃん連れていくの、やばい!」
「今の聞いた!? お前以外に誰がいるって!」
「ちょっ、誰か動画撮ってないの!?」
「撮ってる! 最初から撮ってる!」
勘弁してくれ。
今すぐ紙を引く前まで時間を戻したい。
「くそっ、乾さんかよ!」
「お題考えた奴、絶対許さねぇ!」
「公開でいちゃつくな!」
女子の歓声に混ざり、男子から嫉妬丸出しの声まで飛んでくる。
視線が痛い。
ものすごく痛い。
だけど、隣の星奈だけは嬉しそうだった。
頬を赤くしながら、俺へ右手を差し出してくる。
「宗春さん、連れていってください」
「そのために来たんだよ」
差し出された手をつかむ。
星奈の指が、すぐに俺の指へ絡んできた。
「普通につなげ。走りにくい」
「嫌です。この方が恋人らしいですから」
「今は恋人らしさを競う競技じゃない」
「好きな人を連れて走る競技でしょう?」
「言い方!」
星奈の手を引き、ゴールへ向かって走り出す。
さっきまで俺より前にいた奴は、借りてきた先生の足が遅くて苦戦していた。
別の奴は、お題に合う物が見つからないのか、まだテントの周りをうろついている。
これなら追いつける。
「星奈、もう少し速く走れるか?」
「はい。宗春さんが手を離さなければ」
「離すわけないだろ」
また歓声が上がった。
「宗春さん」
「今度は何だよ」
「今日の宗春さん、すごく格好いいです」
「走ってる最中に言うな!」
「今、言いたかったんです」
星奈は本当に楽しそうに笑っている。
俺は恥ずかしくて仕方ないのに、その笑顔を見たら、まあいいかと思えてしまった。
前を走っていた2人組を抜く。
残るのは、眼鏡の先生を連れた奴だけだ。
ゴールまでは、あと少し。
「先生、もうちょっと速く!」
「無茶言うな! 先生は朝からずっと立ちっぱなしなんだぞ!」
前からそんな声が聞こえる。
悪いけど、こっちも負けるわけにはいかない。
「星奈、行くぞ」
「はいっ!」
つないだ手に力を込め、最後の直線を駆ける。
横に並んだ。
先生が俺たちを見て、ぎょっとする。
「お前ら速すぎるだろ!」
「こっちは現役なので!」
「私たち、両思いですから!」
「それは速さに関係ない!」
先生のもっともなツッコミを置き去りにする。
星奈と同時に、ゴールテープを切った。
「1着、赤組!」
係の声が響く。
その瞬間、赤組のテントから大歓声が上がった。
「やった!」
「1位だ!」
「それよりお題! 早く見せて!」
どうやら順位より、俺たちのお題の方が気になるらしい。
息を整えていると、ゴール係の女子が俺の手から紙を受け取った。
「ええっと、1着のお題は……」
「待って。それ、読み上げる必要ある?」
「不正がないか確認しないといけないので」
「先生が見れば十分だろ」
「皆さんにも聞こえるように読み上げますね」
「話聞いてた?」
女子は笑顔のまま、近くのマイクをつかんだ。
「1着、赤組のお題は――『好きな人』です!」
「きゃああああああっ!」
本日最大なんじゃないかと思うほどの歓声が、グラウンド中に響き渡った。
もう嫌だ。
いっそ今からもう1周走って逃げたい。
「確認します。こちらの方が、好きな人で間違いありませんか?」
係の女子が、にやにやしながら星奈を指す。
俺が答える前に、星奈がぴたりと身体を寄せてきた。
「間違いありません。私は宗春さんの彼女です」
「星奈、お前に聞いてない」
「ですが、私も宗春さんが大好きなので、間違いなく条件を満たしています」
「そこまで言わなくていい!」
「では、宗春君からもお願いします」
係の女子が逃がしてくれない。
テントからは「言えー!」という声まで飛んでくる。
男子の声も混ざっている気がする。さっきまで嫉妬していたくせに、こういうときだけ楽しみやがって。
隣を見る。
星奈は期待を隠そうともせず、俺を見上げていた。
そんな顔をされたら、答えなんて1つしかない。
「……好きな人で合ってます。俺の彼女です」
また歓声が上がる。
星奈は誰よりも嬉しそうに、俺の手を握り直した。
「宗春さん、もう1度言ってください」
「嫌だ」
「聞こえませんでした」
「絶対聞こえてただろ」
「一生分、録音しておきたいです」
「さっき動画撮ってる奴いたぞ。そいつにもらえ」
「もちろん、いただきます」
「もらうんだ……」
係から返されたお題の紙を、星奈が大事そうに受け取る。
「これも私がもらいますね」
「好きにしろ」
「部屋に飾ります」
「それはやめろ」
「では、写真立てに入れて机へ置きます」
「もっとやめろ」
ゴールから退こうとしても、星奈は手を離さない。
「もう競技は終わったぞ」
「まだです」
「何が?」
「借りたものは、元の場所へ返さないといけません」
「じゃあ、テントまで送ればいいのか?」
「いいえ。私は宗春さんの彼女なので、返却する必要はありません」
「自分で言い出したんだろ」
「そもそも、私は借り物ではありませんから」
星奈は絡めた指へ、ぎゅっと力を込めた。
「私はずっと、宗春さんのものです」
「人を物みたいに言うな」
「では、宗春さんが私のものです」
「もっと駄目だろ」
「駄目ではありません。恋人ですから」
当然のように言い切り、星奈が俺の肩へ寄りかかってくる。
周りからは、まだ女子の黄色い声と、男子の恨めしそうな視線が飛んでいた。
恥ずかしい。
今すぐテントの裏にでも隠れたい。
それでも、星奈の手を離そうとは思わなかった。
借り物競走で連れてきたけど、借りたつもりなんてない。
こいつは俺の好きな人で――これからも、ずっと隣にいてほしい彼女なのだから。




