第70話 誰もいない教室で
「ちょっと教室入りませんか?」
文化祭で校内をぶらぶらしていると、隣を歩いていた星奈が急にそんなことを言い出した。
「教室?」
「はい。宗春さんのクラスです」
「別にいいけど、何しに?」
「入ってから考えます」
「絶対もう考えてるだろ」
「気のせいです」
そう言いながら、星奈が俺の手を引く。
廊下は生徒と来場客でごった返していた。
お化け屋敷の呼び込み。
どこかの教室から聞こえてくる笑い声。
そんな中を星奈は迷いなく進んでいく。
さっき結び直したばかりのポニーテールが、歩くたびに左右へ揺れていた。
「宗春さん、早くしてください」
「引っ張らなくても逃げないって」
「分かりませんよ。宗春さん、隙があったら別の女の子を見ますから」
「見てない」
「さっき、メイド服の女の子を見ていました」
「あれは呼び込みされたからだろ」
「目が合っていました」
「目くらい合うわ」
「私以外とは合わなくていいです」
「無茶苦茶だな」
そんなことを言っている間に、俺たちの教室へ着いた。
うちのクラスは中庭で店を出している。
そのせいで、教室は荷物置き場みたいになっていた。
星奈が扉へ手をかける。
「入りますよ」
「ああ」
ガラガラと音を立てて扉が開く。
廊下の喧騒が一気に遠くなった。
星奈は教室へ足を踏み入れると、入口で立ち止まった。
「誰もいないですね」
そう言いながら、教室全体をゆっくり見渡す。
黒板の前。
窓際。
机の陰。
最後には廊下まで確認してから、扉を閉めた。
「見れば分かるだろ」
「念のためです」
「何の念だよ」
「これからすることの、です」
「おい」
嫌な予感がする。
いや、星奈の場合は嫌な予感というより、別の意味で心臓に悪い予感だ。
星奈は俺の言葉を無視し、教室の後ろへ向かっていく。
窓から差し込む昼の光が、ポニーテールを淡く照らしていた。
そのまま誰のものか分からない机の前で止まる。
「ここなら色々とやりたい放題ですね」
「言い方」
「間違っていますか?」
「文化祭中の教室で言う台詞じゃない」
「では、宗春さんの部屋ならいいんですか?」
「そういう意味でもない」
「難しいですね」
「星奈が変なことを言うからだろ」
星奈は楽しそうに笑うと、机の上へちょこんと腰を下ろした。
「おい。誰の机か分からないぞ」
「少し借りるだけです」
「勝手に座ったら怒られるって」
「では、宗春さんの机を教えてください」
「俺のなら座っていいみたいに言うな」
「宗春さんのものは私のものですから」
「いつ決まったんだよ」
「私が宗春さんを好きになった日です」
「俺の知らないところで決めるな」
星奈が机の端へ両手をつく。
そのまま、俺の顔をじっと見つめてきた。
「宗春さん」
「なんだよ」
「キスしないですか?」
「おいおい」
思わず入口を見る。
扉は閉まっている。
でも、鍵なんてかけていない。
当たり前だ。
文化祭中の教室へ勝手に鍵をかけたら、そっちの方が怪しい。
「誰か来たらどうするんだよ」
「まだ誰もいませんよ?」
「まだって自分で言ってるだろ。いつ来るか分からないってことじゃん」
「来る前に終わらせれば大丈夫です」
「そういう問題じゃない」
「嫌なんですか?」
星奈が少しだけ首を傾げる。
それに合わせて、ポニーテールが肩からさらりと落ちた。
「嫌とかじゃなくて、場所を考えろって言ってるんだ」
「では、場所が違えばしてくれますか?」
「今はその話をしてない」
「宗春さん、さっきから質問に答えていません」
「答えにくい聞き方をするからだろ」
「簡単ですよ。私とキスしたいか、したくないかです」
「だから……」
言えるわけがない。
したくないは嘘になる。
したいと言ったら、この場でする流れになる。
どちらを選んでも星奈の思いどおりだ。
「ずるい質問するなよ」
「宗春さんが素直じゃないからです」
「ここで素直になったら大変なことになるんだよ」
「何が大変なんですか?」
「誰かに見られる」
「見られたら、私たちが仲良しだと分かってもらえます」
「分かってもらう必要ないだろ」
「あります」
「なんで?」
「宗春さんに近づく女の子が減ります」
「そんな理由かよ」
「私にとっては大切な理由です」
星奈は頬をわずかに膨らませる。
けれど、すぐに何かを思いついたように笑った。
「それとも、宗春さんは私とはしたくないんですか?」
「そんなわけないだろ」
反射的に答えてしまった。
星奈の目が輝く。
「あっ」
「したいんですね?」
「今のは違う」
「何が違うんですか?」
「いや、その……したくないわけではないっていうか」
「では、したいんですね?」
「だから誘導するな!」
星奈はくすくす笑っている。
完全に遊ばれている。
「宗春さん」
「今度はなんだよ」
「もう少し近くへ来てください」
「何もしない?」
「宗春さんが嫌がることはしません」
「その言い方も怪しいんだよな……」
それでも、ここから動かなければずっと見つめられそうだ。
俺は入口をもう1度確認してから、星奈の前まで歩いていった。
「これでいいか?」
「もう少しです」
「近いだろ」
「遠いです」
「手を伸ばせば届く距離だぞ」
「では、伸ばしますね」
星奈の手が俺の制服の袖をつかむ。
「おい」
「捕まえました」
「捕まえるな」
「逃げるからです」
「逃げてない」
「でしたら、もっとこちらへ来られますよね?」
くいっと袖を引かれる。
俺は仕方なく半歩だけ前へ出た。
座っている星奈の顔が、すぐ目の前にある。
星奈は俺の襟元へ手を伸ばすと、軽く整え始めた。
「少し曲がっています」
「さっきまで普通だったぞ」
「私が触るために曲がっていたんです」
「そんな都合のいい曲がり方があるか」
「ありました」
星奈の指先が襟から離れ、今度は俺の頬へ触れる。
ひんやりしていて、思わず肩が跳ねた。
「宗春さん、顔が赤いですよ」
「教室が暑いんだよ」
「冷房、ついていますけど」
「文化祭で歩き回ったからだ」
「私も一緒に歩いていました」
「俺の方が暑がりなんだよ」
「ふふっ。そういうことにしておきます」
星奈の顔が少しだけ近づく。
俺は反射的に上半身を後ろへ引いた。
「あっ、逃げました」
「逃げるだろ」
「私が怖いんですか?」
「今の星奈はちょっと怖い」
「ひどいです」
星奈は悲しそうに目を伏せる。
もちろん演技なのは分かっている。
分かっているのに、罪悪感が湧いてくるから困る。
「今日、ずっと楽しみにしていたんですよ」
「文化祭を?」
「宗春さんと一緒に回ることを、です」
その言い方は反則だろ。
「人がたくさんいましたから、あまりくっつけませんでした」
「ずっと手をつないでただろ」
「あれだけでは足りません」
「俺、何回も引っ張り回されたんだけど」
「あれは移動です」
「移動扱いなんだ」
「はい。ですから、今まで我慢していた分を補充したいです」
「何を?」
「宗春さんを、です」
「俺って補充するものなの?」
「私には必要です」
星奈は俺の袖をつかんだまま、上目遣いで見つめてくる。
「ここなら、誰にも邪魔されません」
「誰か来るかもしれないけどな」
「それなら、早くしてください」
「俺がするの?」
「私からでもいいんですか?」
「待て待て」
「では、宗春さんからお願いします」
「選択肢がおかしいだろ」
廊下から足音が聞こえてきた。
俺たちは同時に入口を見る。
話し声が近づいてくる。
「だから言っただろ」
「静かにしてください」
「星奈が始めたんだろ」
小声で言い合っている間にも、足音は近づいてくる。
教室の前で止まった――かと思ったが、そのまま遠ざかっていった。
俺は思わず息を吐く。
「ほら、危なかった」
「大丈夫でしたね」
「結果論だ」
「今ならしばらく誰も来ません」
「なんで前向きなんだよ」
「宗春さんとキスしたいからです」
今度は、ふざけた調子じゃなかった。
頬を赤くした星奈が、まっすぐ俺を見ている。
「髪型も変えました」
「ああ」
「宗春さんに似合っていると思ってほしくて」
「似合ってるよ」
「それだけですか?」
「可愛い」
「もう1回お願いします」
「可愛いって」
「ありがとうございます」
星奈は嬉しそうに目を細める。
「そんな可愛い彼女からのお願いですよ?」
「自分で言うんだな」
「宗春さんが言ってくれましたから」
「都合よく使うなよ」
「1回だけでも、駄目ですか?」
星奈の声が少しだけ小さくなる。
ここまで言われて断れるほど、俺は強くない。
というか、さっきから断る理由を探しているだけで、本音はとっくに決まっていた。
「……1回だけだからな」
「はい」
「本当に誰か来たらすぐ離れるぞ」
「分かりました」
「あと、星奈から急に来るなよ」
「宗春さんからしてくれるんですか?」
「そうしないと、いつまでも教室から出られそうにないからな」
「楽しみに待っています」
星奈が目を閉じる。
机の上に座ったまま、少しだけ顎を上げている。
長いまつ毛。
赤くなった頬。
耳の横で揺れる髪。
見ているこっちまで恥ずかしくなってくる。
「宗春さん、まだですか?」
「目を閉じたまま喋るな」
「待ちきれません」
「今するから」
俺は星奈の頬へ手を添えた。
触れた瞬間、星奈の肩がわずかに跳ねる。
俺だって緊張してる。
それでも覚悟を決め、ゆっくり顔を近づけた。
唇が重なる。
ほんの一瞬だけ。
廊下の騒がしさも、校庭から聞こえていた音楽も、その時だけ全部遠くなった気がした。
星奈の指が、俺の制服をきゅっとつかむ。
離れようとしたけれど、あと少しだけと思ってしまう。
結局、最初に考えていたより長く唇を重ねてから、ようやく顔を離した。
星奈がゆっくり目を開ける。
「……これで満足したか?」
「いいえ」
「即答かよ」
「もう1回したいです」
「1回だけって言っただろ」
「今のは宗春さんの1回です」
「は?」
「次は私の1回です」
「そんな数え方あるか」
「あります」
言い終わるより早く、星奈が俺の袖を強く引いた。
再び距離がなくなる。
今度は星奈から、俺の唇へ触れてきた。
さっきよりも短い、本当に一瞬だけのキス。
なのに、心臓はさっきより大きく跳ねた。
「お前な……」
「これで1回ずつです」
星奈は満足そうに笑い、机から降りる。
何事もなかったかのように制服の裾を整えると、俺の横を通り過ぎて入口へ向かった。
「宗春さん、次はどこへ行きますか?」
「切り替え早すぎるだろ」
「文化祭は待ってくれませんから」
「誰のせいで時間使ったと思ってるんだ」
「宗春さんがなかなかキスしてくれなかったからです」
「俺のせいなの?」
「はい」
星奈が扉へ手をかける。
その直前、こちらを振り返った。
「顔、まだ赤いですよ?」
「星奈も赤いだろ」
「これは教室が暑いからです」
「冷房ついてるけど」
「文化祭で歩き回りましたから」
「俺と同じ言い訳使うなよ」
星奈は楽しそうに笑う。
そして、廊下に誰もいないことを確かめてから扉を開けた。
「宗春さん」
「なんだよ」
「明日も文化祭、ありますよね?」
「あるけど」
「では、明日もここへ来ましょう」
「もう来ない」
「キスはしなくてもいいので」
「絶対嘘だろ」
「入ってから考えます」
最初と同じことを言いながら、星奈が俺の手を握る。
その頬は、まだ赤いままだった。
たぶん俺も同じだ。
廊下へ出た瞬間、星奈は俺の指へ自分の指を絡めてきた。
「今日は、あと何回補充すれば満足するんだ?」
「何回でも足りません」
「文化祭、終わるぞ」
「それなら、終わったあともお願いします」
「何をだよ」
「さっきの続きを、です」
星奈は俺の手を引き、楽しそうに歩き出した。
結局この日、俺は文化祭の間ずっと、まともに星奈の顔を見ることができなかった。




