第66話 距離を取るために
その日の帰り道。
俺は星奈と堺さんに挟まれ、3人並んで歩いていた。
「…………」
「…………」
「…………」
誰も喋らない。
聞こえてくるのは、アスファルトを踏む3人分の足音だけ。
いや、なんだよ、この空気。
いつもなら堺さんが学校であったことを話して、星奈がそれに答える。
俺はその間に挟まって、たまに相槌を打つ。
今日もそうなるはずだった。
なのに、誰も口を開こうとしない。
俺の左を歩く星奈に目を向ける。
歩くたび、2つに結ばれた髪が小さく揺れていた。
朝、わざわざ俺の部屋まで見せに来てくれたツインテール。
『私、今日からこの髪型で学校に行きます!』
『宗春さんに堺さんを少しでも意識させないためです』
『宗春さん、私だけを見ていてください』
今朝の言葉が、ずっと頭に残っている。
学校でも何度か星奈を見た。
教室が違うのに、廊下ですれ違うたびに、つい目で追ってしまった。
そのたびに星奈は嬉しそうに笑ってくれた。
俺が見ていることに気づいていたらしい。
「星奈ちゃん」
不意に堺さんが口を開いた。
「はい」
「その髪型、似合ってるね」
「あ、ありがとうございます」
星奈が自分の髪へ触れる。
「今日はずっと言おうと思ってたんだけど、なかなか話す機会がなくて」
「そうだったんですね」
「里見君にも褒めてもらった?」
「はい。朝、1番に見てもらいました」
「そっか」
堺さんが小さく笑う。
普通の笑顔に見えた。
だけど、ほんの少しだけ無理をしているようにも見えた。
「里見君は、どっちが好き?」
「え?」
「星奈ちゃんの髪型。いつもの髪型と、今日の髪型」
「どっちって……」
横を見ると、星奈がじっと俺を見上げていた。
なんでそんな真剣な顔をしてるんだよ。
「今日のほうが好きですか?」
「星奈まで聞くのかよ」
「大切なことです」
「どっちも似合ってるよ」
「そういう答えが一番ずるいんだよね」
堺さんがクスッと笑った。
胸の奥がズキッと痛む。
分かってる。
俺はずっと、こうやって逃げてきた。
どっちも。
2人とも。
はっきり選ばず、誰も傷つけない答えを探していた。
でも、そんな便利な答えがあるわけない。
俺が何も決めなければ、今の関係がずっと続く。
勝手にそう思い込んでいただけだ。
実際は違う。
俺が曖昧な態度を取るたび、星奈は不安になる。
堺さんだって、もしかしたらと期待してしまう。
このまま3人で歩き続けるほうが、よっぽど残酷だ。
「あのさ、堺さん」
「ん?」
「ちょっといいかな」
立ち止まる。
俺が止まったことに気づき、二人も足を止めた。
「なに?」
堺さんが振り返る。
ちょうど交差点の手前だった。
まっすぐ進めば、俺と星奈の家。
右へ曲がれば、堺さんの家へ続く道だ。
いつもならここで別れる。
だから、言うなら今しかない。
「俺……堺さんに話しておきたいことがある」
「ずいぶん改まってるね」
堺さんは笑っている。
でも、その手は鞄の持ち手を強く握っていた。
何を言われるのか、もう分かっているのかもしれない。
「宗春さん……」
星奈が俺の制服の袖をつまむ。
不安そうな声だった。
「大丈夫」
星奈へそう告げてから、堺さんを見る。
逃げるな。
ここでまた曖昧にしたら、朝の言葉まで嘘になる。
「俺、もう堺さんとは一緒に帰れない」
口にした瞬間、胸の奥が重くなった。
堺さんの笑顔が止まる。
「それって……今日だけ?」
「違う」
「じゃあ、明日からも?」
「ああ」
「どうして?」
声は穏やかだった。
責めるような言い方でもない。
それが余計につらかった。
「星奈ちゃんに、そうしてって言われたの?」
「違う」
そこだけは、すぐに否定した。
「星奈は悪くない。俺が決めた」
「宗春さん、私は……」
「星奈も今は何も言わなくていい」
俺の袖をつまんでいた指が離れる。
星奈に言わせちゃ駄目だ。
これは俺が始めたことだ。
堺さんと一緒に帰ることを受け入れたのも俺。
そのくせ星奈には、不安になるなと言い続けたのも俺だ。
「俺が中途半端だったんだ」
「中途半端?」
「堺さんと一緒にいるのは楽しかった。話してると落ち着くし、頼ってもらえたら嬉しかった」
「…………」
「だから、ちゃんと線を引けなかった」
「それなら、今までどおりでもいいんじゃない?」
「よくない」
今度は迷わなかった。
「このままだと、俺はまた堺さんの優しさに甘える。星奈が傷ついてることにも、気づかないふりをする」
「私は傷ついてなんか……」
「ごめん。堺さんにも期待させたと思う」
堺さんの唇がわずかに震えた。
それでも、笑顔だけは崩さない。
「自意識過剰じゃない?」
「そうかもしれない」
「里見君を好きだって、言ったことあった?」
「ない」
「なら、期待なんてしてなかったかもしれないよ?」
「ああ」
「ただ帰る方向が一緒だったから、3人で帰っていただけかもしれない」
「それでも、もう一緒には帰れない」
「どうしても?」
「うん」
堺さんが黙り込む。
夏の終わりを知らせるような風が、俺たちの間を通り抜けた。
堺さんの銀色の髪が揺れ、表情を隠す。
俺は隣に立つ星奈へ手を伸ばした。
「きゃっ」
肩を抱き、そのまま自分のほうへ引き寄せる。
星奈の身体が俺の胸へぶつかった。
「む、宗春さん?」
驚いた顔で俺を見上げてくる。
頬が一気に赤くなっていた。
朝は部屋の中だった。
今は外だ。
しかも堺さんが目の前にいる。
恥ずかしくないわけがない。
それでも、腕を離すつもりはなかった。
「俺は星奈だけが大好きだから」
「…………っ」
星奈が目を見開く。
「もう星奈を不安にさせたくない。堺さんに期待を持たせるようなこともしたくない」
「里見君……」
「だから、これからは星奈と2人で帰る」
言い切った。
もう戻せない。
でも、不思議と後悔はなかった。
俺の胸へ身を預けた星奈が、制服をギュッとつかむ。
「宗春さん……」
「なんだ?」
「もう1度、言ってください」
「今?」
「はい」
「堺さんの前だぞ」
「だからこそです」
星奈が俺から離れないまま、まっすぐに見上げてくる。
こいつ、こういうときだけは本当に強いな。
「俺は星奈だけが大好きだよ」
「はい……」
星奈の顔が嬉しそうに緩む。
「私も宗春さんだけが大好きです」
「そっか」
「ずっと、ずっと大好きです」
「分かったから」
「一生離しません」
「それはちょっと重くないか?」
「離してほしいんですか?」
「いや、そうは言ってないけど」
「では、問題ありません」
俺の胸へ頬を寄せ、星奈が腕を背中へ回す。
こんな状況なのに、幸せそうな顔をしていた。
「2人とも」
堺さんの声が聞こえる。
顔を向けると、もう笑ってはいなかった。
視線が俺と星奈を行き来する。
やがて堺さんは小さく息を吐いた。
「そこまで見せつけなくてもよくない?」
「ご、ごめん」
「謝られると、もっと惨めになるんだけど」
「……ごめん」
「また謝った」
堺さんが困ったように笑う。
その目は、少しだけ潤んでいた。
「堺さん」
「そんな顔しないでよ。振られたみたいじゃん」
「みたいって……」
「告白してないから」
「うん」
「だから、振られてもないからね」
「ああ」
「ただ……」
堺さんの声が途切れる。
鞄を握る手に、さらに力が入った。
「明日から一緒に帰れなくなるだけ」
「…………」
「それだけだから」
何か言わなきゃいけない。
そう思うのに、言葉が出てこなかった。
優しい言葉をかければ、また期待させるかもしれない。
かといって、突き放すような言葉も言いたくない。
結局、黙っていることしかできなかった。
「里見君」
「なに?」
「嫌だって言ったら、困る?」
「困る」
「少しくらい悩んでよ」
「ごめん。でも、答えは変えられない」
「……そっか」
堺さんが目を伏せる。
「本当に星奈ちゃんを選ぶんだね」
「ああ」
「絶対に? 」
「星奈を選ぶ」
「迷わないんだ」
「別に迷ってない」
しばらく沈黙が続いた。
やがて堺さんが顔を上げる。
まだ悲しそうだったけど、さっきよりも自然な笑顔に見えた。
「分かった」
「堺さん……」
「もう一緒には帰らない」
「うん」
「学校では普通に話してもいい?」
「もちろん」
「無視したら怒るからね」
「しないよ」
「星奈ちゃんも、それくらいは許してくれる?」
堺さんが星奈へ目を向ける。
星奈は俺の胸から顔を上げた。
「はい。多少ですが学校でお話しすることまで止めたりはしません」
「よかった」
「ただし」
「ただし?」
「宗春さんと2人きりで帰るのは駄目です」
「分かってるよ」
「2人きりで遊びに行くのも駄目です」
「星奈」
「連絡先を交換して、夜中までやり取りするのも――」
「してないから」
「今後の話です」
「先回りしすぎだろ」
「宗春さんは油断するとすぐに女性へ優しくしますから」
堺さんが吹き出す。
「ふふっ。里見君、全然信用されてないね」
「笑い事じゃないよ」
「星奈ちゃん」
「はい」
「この人、ちゃんと捕まえておいたほうがいいよ」
「もちろんです」
「優しい顔して、すぐ曖昧な態度を取るから」
「よく知っています」
「おい」
2人が同時に笑う。
ほんの少しだけ、いつもの帰り道に戻った気がした。
でも、それも今日で終わりだ。
「じゃあ、行くね」
堺さんが片手を上げる。
「うん。また明日」
「また明日、学校で」
「はい。また明日です」
堺さんが俺たちに背を向ける。
けれど、右へは曲がらなかった。
来た道を戻るように、反対側へ歩き出す。
「堺さん」
「なに?」
「そっち、家と逆方向じゃない?」
足を止めず、堺さんが顔だけこちらへ向ける。
「知ってる」
「じゃあ、なんで」
「今日はちょっと遠回りしたい気分なの」
笑顔でそう言うと、堺さんは再び前を向いた。
呼び止めることはできなかった。
今、俺が追いかけたら、言ったことが全部嘘になる。
星奈も何も言わない。
ただ、俺の制服を強く握っていた。
夕日に照らされた銀色の髪が、少しずつ遠ざかっていく。
堺さんは1度も振り返らない。
そのまま踵を返し、トボトボと俺たちとは逆の道を進むのだった。




