第63話 私だけを見ていてください
「ふぅ」
靴を脱いで揃え、そのまま2階へ向かおうと階段へ足を向ける。
「宗春さん」
後ろから小さな声。
振り返るよりも先に、背中へ柔らかな重みがふわっと預けられた。
「……え?」
細い腕がゆっくり俺の腰へ回る。
ぎゅっと力を入れて抱き締めるわけでもない。
逃がさないように。
でも壊れ物を抱えるみたいに。
そんな遠慮がちな力だった。
背中越しに伝わる体温が、いつもより少しだけ熱い。
肩へ触れる頬も、小さく震えている気がした。
普段の甘える抱きつき方とは違う。
どこか必死で。
どこか寂しそうで。
俺は何も考えず、そのまま首だけ後ろへ向ける。
「星奈、どうした?」
軽く聞いただけだった。
本当に何気なく。
まさかそんなに深刻な理由があるなんて、この時の俺は全然分かっていなかった。
「……宗春さん」
「ん?」
「堺さんばっかり……見ないで欲しいです」
消えてしまいそうな声だった。
言葉の最後なんて、息に混ざって聞こえなくなりそうなくらい小さい。
俺の服を掴む手だけが、少しだけ強くなる。
「そんなに見てないよ」
「見てました!」
食い気味だった。
俺が最後まで言い終わる前に重なるくらい早い。
その声だけ少し大きくなって、またすぐ小さくなる。
「何回も見てました……」
「いや、それは」
「見てました」
きっぱり。
でも怒っているわけじゃない。
泣くのを我慢している子どもみたいな声だった。
「私……分かるんです」
星奈は俺の背中へさらに身体を預ける。
まるで立っているのも辛いみたいに。
「宗春さんが誰を見てるか」
ぽつり。
「宗春さんが誰を気にしてるか」
ぽつり。
「だから……」
少しだけ間が空く。
俺のシャツを握る指先が小さく震えた。
「私だけを見て欲しいです」
その1言だけだった。
たったそれだけなのに。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
今日の帰り道。
堺さんと話すたびに、星奈は何度も俺を見ていた。
あの時は気付かなかった。
いや。
気付いていたのに、大丈夫だろうって勝手に思っていた。
「……ごめん」
俺は星奈の手へそっと触れる。
細くて、温かい手。
優しく指をほどいていくと、星奈は抵抗せず離してくれた。
そのまま振り返る。
俺たちは向かい合った。
星奈は少し俯いていた。
長い前髪が揺れて、その向こうにある瞳だけが少し潤んで見える。
「不安にさせてごめん」
そう言うと、星奈はゆっくり顔を上げた。
「……宗春さん」
「……星奈」
自然と名前を呼び合う。
それだけで会話は止まる。
でも、不思議と沈黙は苦しくなかった。
見つめる。
星奈も見つめ返してくる。
琥珀色の瞳が真っすぐ俺だけを映していた。
逸らさない。
逃げない。
もっと近くに来てほしい。
そんな気持ちが、その瞳からそのまま伝わってくる。
俺も目を離せなかった。
気付けば1歩。
また1歩。
どちらからともなく距離が縮まる。
呼吸が触れそうなくらい近い。
星奈の睫毛が少し震える。
俺も自然と目を閉じた。
そして――。
柔らかな温もりが、一瞬だけ重なった。
ほんの少し。
時間にすれば本当に一瞬だった。
それなのに胸の鼓動だけは、いつまでも落ち着いてくれない。
ゆっくり離れる。
目を開けると、星奈は少し照れたように笑っていた。
「宗春さん」
「ん?」
「大好きです」
言った瞬間だった。
星奈は勢いよく胸へ飛び込んでくる。
「お、おっと」
ぎゅううっと両腕が俺の背中へ回る。
さっきまでの遠慮がちな抱きつき方じゃない。
嬉しくて。
安心して。
もう離れたくない。
そんな気持ち全部をぶつけるみたいに、思い切り身体を預けてくる。
「本当に大好きです」
「そんな何回も言わなくても分かるって」
「言います」
即答だった。
「毎日でも言います」
「そうなのか」
「何回でも言います」
顔を俺の胸へすり寄せながら、小さく笑う。
「宗春さんは私だけの宗春さんです」
「はいはい」
「はい、じゃないです」
「じゃあ、うん」
「うん、です」
ようやく笑った。
その笑顔を見て、さっきまでの不安そうな表情が嘘みたいに消えている。
「しょうがないな」
俺は星奈の頭へ手を乗せる。
さらさらの髪が指の間を滑っていく。
ゆっくり。
優しく。
子どもを安心させるみたいに、何度も何度も撫でる。
「よしよし」
指先を動かすたび、星奈は気持ち良さそうに目を細めた。
「えへへ……」
猫みたいに頭を押し付けてくる。
「もっと」
「まだ撫でるのか?」
「はい」
「甘えん坊だな」
「宗春さん限定です」
その返事があまりにも嬉しそうで、思わず笑ってしまう。
「はいはい」
もう1度頭を撫でる。
星奈は嬉しそうに頬を緩めながら、安心しきったように俺へ身体を預けていた。
その温もりを感じながら、俺は心の中で小さく誓う。
今度はちゃんと気付こう。
この子が少しでも寂しそうな顔をしたら、その前に手を伸ばこう。
そう思うと、俺の胸へ寄り添う星奈は、幸せそうに小さく笑っていた。




