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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
二十四膳目【明治四十三年五月】

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72/73

ハリー彗星と神戸のハイシライス・中

※この時代の新橋駅は、のちの汐留駅です

「うわ! すごく大きい!」

 あまりの大きさに、俺は驚いて目の前の黒煙と白い蒸気を上げる汽車を見つめた。

 夜の九時前の駅は、汽車の窓からの明かり、線路を照らす照明、街灯の光で眩しかった。

 以前海外に行く尊さんを見送りに横浜まで行った時に乗った汽車より、ずっと大きくて俺はびっくりしたんだ。驚いている俺の様子に、軍服姿の杉谷中尉と昭少尉が笑っている。


 そんな俺たちの横を、たくさんの人が通り過ぎていく。客の荷物を運ぶ駅員。汽車に乗るのだろう、着物姿や洋装の男女たち。見送りに来ている人たちもいる。明治時代の東京も、夜までずいぶん賑やかになってきている。

 そんな人々は暗い空を見上げて「大丈夫かなぁ」「心配だねぇ」など、口々に不安そうに話し合っていた。

 明日には、ハリー彗星が地球に一番近づくそうだ。ハリー彗星が不吉だと信じている人たちは、彗星が遠くなるまで不安なんだろう。そんな心配を口にする人が多くて、新橋駅はいつも以上に賑やかなんだ。何故か、自転車のタイヤにあるチューブ? みたいなものを持っている人もいた。何に使うんだろう?

 不思議に思って首を傾げる俺の横で、杉谷中尉と昭少尉の話が聞こえてきた。


「料理を作っている時以外は、まだまだ子供らしいな」

「杉谷中尉、恭介はもう十四歳ですよ。もう、立派な帝国男子です。袴姿も、よく似合ってるじゃないですか」

 手に汽車の切符を持った昭少尉が、改めて俺の姿を見て頷いてそう言ってくれた。その言葉に我に返った俺は、少し恥ずかしくなったが、昭少尉に笑い返した。杉谷中尉も昭少尉もハリー彗星を怖がっていないようで、俺はほっとした。怖がっている人がそばに居ると、落ち着かないもんな。


 俺はこの日、袴デビューした。もちろん今年の俺の誕生日に尊さんがくれた、新品の海老茶のズボン袴だ。たて襟のシャツに着物を重ねて着ると、通りを歩いている学生みたいで、少し照れくさい。シャツなんて洋装は明治時代に来てから初めてで、洋装というものに戸惑ってしまった。

 袴を穿いたことがない俺を手伝ってくれたのは、おっかさんだ。十四歳にもなって着付けを手伝ってもらうことに申し訳ない気持ちだったが、おっかさんは上機嫌で手伝ってくれた。おかげで、これからは一人でも着替えられる。

「うん、やっぱりいい男だねぇ」

「本当だ、やっぱり恭介君は洋装が良く似合うよ」

 昼定食が終わった後、俺は蕗谷亭でおっかさんに着替えを手伝ってもらった。その様子を見ていたりんさんと勝吉さんが、顔を見合わせて楽しそうにそう言ってくれた。

「なんでわざわざ、袴姿で行くの? 変なの」

 なんとなく不機嫌そうに言うしのに、隣にいた吉蔵さんが肩をすくめた。

「移動が多いから、着物の裾を気にせず動ける方がいいんだろう。恭介に似合ってるんだし、しのちゃんも褒めてあげなよ」

 しのは少し頬を膨らませて俺を見ていたけど、褒めてくれる様子はない。そんなに似合わないかな、と俺は少し寂しく感じながらも、黙って神戸に行く荷物をまとめていた。しのはまだ、尊さんに貰った帯は使っていない。

「せっかく上方へ行けるんだ、楽しんでおいで。この店は、りんさんに吉蔵、しのとあたしが守っておくからね」

 おっかさんがそう言ってくれたのが、一番うれしかった。


「すみません、お待たせしました!」

 そろそろ発車が近い時間になって、大きな荷物を背負った平塚曹長が慌てて俺たちの所に走って来た。余程必死に走って来たのか、ゼイゼイと息を大きく荒げていた。

「間に合ったから、大丈夫だ。片付いたのか?」

 杉谷中尉がそう聞くと、平塚曹長は大きく首を縦に振った。最初尊さんから、「杉谷中尉と昭少尉と一緒に行け」と言われていた。だけど駅に来ると、何故か平塚曹長も付き添うことを聞かされた。

「よし、では乗ろう。神戸まで、十四時間ほどの旅路だ」

 杉谷中尉の言葉に、俺は高校最後の年に乗って後悔した夜行バスを思い出した。友人との卒業旅行で、博多まで行ったんだ。狭いバスで十五時間乗ったことがトラウマになって、大学への交通手段はバスではなく自転車にしたくらいだ。そう長い距離じゃなかったら大丈夫なんだけどね。

 暗い気持ちのまま、俺は荷物を持って汽車に乗り込んだ。

「軍の規律では、本来なら俺は同席できないですよね。すみません」

 指定席を見つけてさっそく並んで座る杉谷中尉と昭少尉に、平塚曹長は頭を下げる。杉谷中尉は、唇の端だけで笑ってみせた。本当に、男前だよね。近くに座っているご婦人が、頬染めてじっと彼を見ている。

「仕事でもあるけど、今回は恭介の護衛もあるからね。平塚と恭介が三等車に乗ってしまっては、意味がない。それに、旅費は少佐の懐から出ている」

「ええ!? 二等!?」

 昭少尉の言葉に、俺は驚いて声を上げてから慌てて口を押さえた。周りの人が一斉に俺を見たからだ。

「俺、往復の汽車の料金八円二十銭を尊さんに渡したんです。もしかして、もっと高いんですか?」

 俺は給料を少しずつ貯めた中から、汽車の代金を尊さんに聞いて支払っている。旅館代金は一緒の部屋を取るから要らないとは言われていたけど、全てを尊さんに出して貰う気持ちはなかった。あまりにも、尊さんに甘え過ぎだからね。

「二等は片道、基本乗車券と急行料金を合わせると七円四十銭ほどだ。差額は、少佐が出してくれたんだろう」

 杉谷中尉がそう教えてくれた。そうなると、二等車は往復十四円八十銭ほどか。結構高いな……確かに俺が出すには、躊躇う金額だ。

 俺のわがままで神戸に行く事になったのに、結局今回も尊さんに甘えてしまっている。本当に、申し訳ない気持ちになった。

「それだけ恭介を可愛がっているってことさ。そう言えば、少佐は末っ子だったよな。弟みたいな存在で、構いたいんだろう」

 実際に弟がいる昭少尉に言われると、そうなんだろうかって気持ちになった。黙ってしまった俺に、杉谷中尉が俺と平塚曹長に向かいに座るように手招きをした――そうだ。いつまでも通路に立っていたら、邪魔になる。平塚曹長に窓際に座るよう言われて、通路側の俺の隣に平塚曹長が座った。

 背もたれが垂直で、二人が座れる木製のボックス席だ。勿論リクライニングなんてない。背もたれと座席には青い絨毯みたいな布が貼ってあって、その下はクッションみたいにふかふかしている。二人で座るには少し狭いけど、板張りの床に比べて座った感じは現代のシートを思い出す。もしかして、三等にはこのふかふかはないのかな?

 汽車の中は白熱電灯のランプが等間隔で吊り下がっていて、家より明るい。新しく建てる様式の店も白熱電灯を設置する予定だから、俺は興味深げに眺めていた。壁も木目が綺麗な彫刻が施されていて、薬研氏に招待された牛鍋屋を思い出した。


「そう言えば、飯はどうした?」

 汽車が走り出してしばらくしてから、俺の正面に座っている杉谷中尉が懐から煙草を取り出してそう昭少尉に尋ねた。

 尊さんは煙草を吸わないけど、この時代は吸う人が多い。おっかさんも、煙管に刻み煙草を入れて吸っている。長屋の住人で言うと、源三さん、松吉さん、まつさん、高藤さん、辰子さん、勝吉さんが吸っている。吉蔵さんは、最近高藤さんに煙草を勧められているみたいだ。

 なんて考えていたら、隣に座っていた平塚曹長がマッチを取り出して火を杉谷中尉に差し出した。軽く片手を上げて応じた杉谷中尉が煙草に火をつけると、横で同じように煙草を手にしていた昭少尉に火を譲った。昭少尉が火を点け終わると、平塚曹長は軽くマッチを振って火を消す。そうして少し身を乗り出して、窓の下側に取り付けてある真鍮(しんちゅう)で作られたお椀みたいな形の灰皿に、マッチを捨てた。

 マッチの火を見ると、どうしても蕗谷亭の竈を思い出す。

「俺は、食べられませんでした。平塚もだろ? どこかの駅で、駅弁でも買います」

 ふぅと煙草の煙を吐いて、昭少尉が平塚曹長の顔を見てそう言った。

「あの、俺弁当を持って来たんです。よかったら、食べませんか?」

 俺は、膝の上に置いたままの風呂敷を持ち上げた。蕗谷亭で袴姿になった後、動きやすさを確かめるために四人分の弁当を作ったんだ。しのが機嫌悪そうだったから、一緒に食べるのは難しいかもって思ってさ。

「本当か? それはありがたい! 最近は、蕗谷亭の飯を食べてないからな」

「はい! 次に停まる駅で、お茶を買ってきます」

 昭少尉が明るい声を上げると、平塚曹長も嬉しそうにそう続けた。汽車でのお茶って――もしかして、陶器でできた使い捨ての小さな急須に入ったお茶のことか? 話には聞いていたけど、まだ見たことがない俺は平塚曹長に嬉しそうに頷いた。

「そうだな、弁当には茶がいるな。恭介、平塚ありがとう」

 杉谷中尉がそう言って、煙草を口に咥えたまま俺と平塚曹長の頭をガシガシと撫でた。

 杉谷中尉だって、お兄ちゃん気質だな。そう思って俺が笑うと、平塚曹長も小さく笑った。


 汽車の窓から時折舞う煤(すす)と、煙草の煙。暗い空に明るく見えるハリー彗星。怖がる人々に比べて明るく笑う俺たち。そんな中、汽車は神戸へと向かっていく。

参考:復刻版明治大正鐵道省列車時刻表2巻

参考:東京ー大阪間の最速列車返還(時刻表倉庫):https://jikokusouko.pages.dev/tokyoosaka.htm

参考:初期のボギー客車内部(国鉄四国総局):https://kokutetu.michikusa.jp/newpage461.html

参考:明治期における木製客車製造と外国人鉄道技術者の指導(国立国会図書館):https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I11180353

参考:乗り物ニュース「明治時代のグリーン車」:https://trafficnews.jp/post/120242#google_vignette

参考:駅弁入門2駅弁のはじまり(駅弁資料館):https://kfm.sakura.ne.jp/ekiben/ebbasic02.htm

参考:近代ビール産業の確立(4)食堂車にもビールが登場(キリンホールディングス):https://museum.kirinholdings.com/history/kaisetsu/bk_03d.html

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