ハリー彗星と神戸のハイシライス・上
「なかなか難しいぞ。だが、それでも会いに行くなら、俺の部下を連れていけ」
俺がふみのことを相談すると、尊さんは少し曇った表情でそう言った。隣にいた陸奥さんも、小さく頷く。
「難しいというのは、どういう意味なのでしょう」
「お前の学友は、鐘紡の工場で働いているわけではないんだよな? あの会社なら女工にも教育を受けさせる仕組みがあるそうだな。待遇も他の工場と違い、かなりいいと父から聞いている。しかし他の一般的な工場なら――本来なら忙しない毎日を過ごす女工が、級友に会いたいと言い出せるような環境ではないからだ」
ふみの手紙を持って、赤坂の駐屯地まで尊さんに会いに来た。誰に相談すればいいのか三日ほど悩んで、俺は尊さんに助けを求めることにした。赤坂の駐屯地では、俺はすぐに尊さんに会うことが出来るんだ。これって、特別な事なのかな?
「この写真だが」
言葉を続けながら、尊さんは机に並べられたふみの手紙に入っていた写真を指差した。
「女学生の装いで、肌を白く見えるように写真も修正されている。十四歳ごろの女工が、神戸で着物を借りて写真を撮る。少ない給金の中、かなりの金を使っただろう。俺は、この写真をお前に見てもらうだけで彼女は満足していると思う。身綺麗にするためだけに、そう金を使える立場でもないだろう」
俺は、尊さんの言葉を聞いて改めて写真を見直した。
三つ編みにしていた髪は長く伸ばしたままで、大きなリボンが頭の上で結ばれていた。矢絣の着物に袴。足元はブーツで、手には日傘かな? を持っている。元々大人びた雰囲気の子だったが、今はしのよりずっと年上に見えた。
確かに、奉公に行っているのにお金持ちの子みたいな写真だよな。無理してお金をかけて撮った写真を、わざわざ俺に送ってきたのか? 何故だ? それに、仕事の合間に俺に会えないってどういうこと? 会いに来て欲しいと言ったのは、ふみなのに。
「尊さまの鈍さで慣れたつもりでしたが、恭介くんもなかなかですね」
首を横に傾げている俺の姿に、陸奥さんは笑うのを隠すように手を口元に当ててそう言った。いや、笑っているの見えてるんだけど。
「――恭介は、違う土地を見てもっと料理や風習を勉強してもいいだろう。陸奥、杉谷中尉と昭少尉を呼んできてくれ」
ため息を零した尊さんは、軍服のポケットから手帳を出して何かを確認してから陸奥さんにそう言った。陸奥さんは敬礼をして部屋を出て行く。
「杉谷と昭には、近々大阪に行く仕事がある。彼らと一緒に、神戸に行くといい。日程については、俺が改めてお前に連絡をする。恭介は神戸に行く日の店の経営を、しのたちに任せる準備をしろ」
「ええ、そんな! お二人に迷惑をかけるわけにはいかないです!」
尊さんの指示に、俺はびっくりして少し大きな声を上げてしまった。その声で俺が来ていることに気がついたのか、ノックと共に見慣れた大柄な岸田大尉が姿を見せた。
「恭介じゃないか。珍しいな、朝からお前が駐屯地に来るのは。よひら殿は今日も元気にしているのか?」
にこにこと笑いながら俺の側に来て、大きな手で俺の頭を撫でた。相変わらず、おっかさんに夢中みたいだ。
「最近は、お座敷の仕事を減らして蕗谷亭を手伝ってくれてますよ」
まだ、蕗谷亭を洋食屋にする話をしていない。陸軍で知っているのは、尊さんと陸奥さんだけだ。
おっかさんには、「洋食屋を開いたら夜の配膳の手伝いをして欲しい」と俺が頼んだんだ。芸者の仕事を、早く辞めて欲しかったからさ。
理由を聞かないおっかさんは「分かったよ」と言ってくれて、仕事を休んで店に顔を出すようにしてくれているんだ。
おっかさんは、俺がどうやって洋食屋を開く資金を用意したかを聞かない。信頼してくれている、とは分かっている。けど、俺はおっかさんの優しさを利用しているんじゃないかって、不安になる時がある。
ただ、おっかさんを夜遅くまで芸者として働かせたくないだけなんだ。
「そうか。では、また店に行かないとな。最近は少し忙しくて、昼の営業時間に昼休みにならないんだ」
おっかさんの話をすると、岸田大尉は本当に嬉しそうな顔をするんだ。
「岸田大尉。実は、恭介が一日神戸に行く用事が出来たんだ。杉谷と昭が大阪に行くときに、一緒に行かせようと思うのだが」
俺たちの様子を見ていた尊さんがそう言うと、岸田大尉は大きく頷いた。
「そうか。そうだな、薬研少佐の言う通りにした方がいい。いくら大人顔負けの料理人といえど、お前はまだ子供だからな。俺は、その日はよひら殿の護衛をするから安心しろ」
以前破落戸が店で暴れた時に居合わせて退治してくれてから、岸田大尉は蕗谷亭の用心棒のような存在になっていた。吉蔵さんが働きだしてくれるようになってから少なくはなったけど、やっぱりおっかさんとしののことが心配だったから俺は少し安心した。
俺は改めて尊さんに頭を下げて、蕗谷亭に戻った。
俺が神戸に行くから店のことを頼むって話をしていると、辰子さんと高藤さんが蕗谷亭に入ってきた。二人とも仕事が忙しいみたいで、最近ご飯の時間が遅くなっているんだ。朝は、夜遅くまで起きているから寝坊しているみたいだ。
「なんで神戸に行くんだ?」
納豆をご飯にかけながら、高藤さんが俺に聞いてきた。二人は「玉子焼きが食べたい」と俺に二銭渡してくれたので、玉子焼きも付けている。この時代の玉子焼きは砂糖が多くて硬いのが一般的だったんだけど、体力仕事をしている人は長屋にいなかったから蕗谷亭の長屋のご飯は出汁を強くした玉子焼きにしている。
二人はこの味を気に入っているし、たまごは精がつくって仕事が忙しい時は好んで食べているんだ。
「尋常小学校の時の級友が神戸に行っていて、ハリー彗星が怖いから会いに来て欲しいって言ってたんです」
「なんだ、女の子かい」
辰子さんはお茶を飲んでから、少し驚いたように俺としのを見た。
「ハリーが接近するからみんな死ぬ。って話は、最近よく聞くねぇ。陳腐すぎて、小説の種にもなんねぇよ」
笑いながら納豆ご飯を口に入れようとした高藤さんの肩を、辰子さんが叩いた。
「まだ十四歳の、親元を離れた女の子が怖がっているんだよ。馬鹿にしちゃだめだよ、高藤さん」
りんさんも、辰子さんの側で頷いてそう援護した。しのは、ふみの手紙を届けたときに見せた怪訝そうな表情を浮かべている。
「長いこと会ってないなら、旅行ついでに会ってやりなよ。ただねぇ、恭ちゃん。対応を間違えちゃいけないよ?」
辰子さんは玉子焼きを一口かじって、俺に視線を向けた。
「対応って?」
「そのお嬢さんは、恭ちゃんのことが好きだってことだよ。恭ちゃんもその子を好きならいいが、その気がないなら期待を持たせちゃいけないってことさ」
高藤さんがにやにや笑ってそう言うから、俺は絶句してしまった。しのは頭を抱えているし、吉蔵さんはきょとんとした顔になっている。楽しそうなのは、高藤さんと辰子さんとりんさんだ。
「いやいや! ただの同級生だよ?」
「もし死ぬなら、最後は恋しい人に会いたいって思うのが乙女心だよ。恭ちゃんは、本当に料理以外のことは鈍いねぇ」
俺も、しののように頭を抱えてしまった。
この時代の神戸を見たいと楽しみに思っていたのに、俺はとんでもない事実を教えられて困ってしまった。
その夜、陸奥さんが長屋に来てくれた。日程について、連絡してくれたんだ。
神戸には、五月十九日のまさにハリー彗星が近づく日に向かうことになってしまった。
参考:「おもちゃ映画ミュージアム」https://toyfilm-museum.jp/blog/column/30531.html
参考:「製麻女工」https://adeac.jp/sapporo-lib/text-list/d100030/ht773310
参考:「銀座もとじ」https://www.motoji.co.jp/blogs/reading/trend202108
参考:「日本のファッションの歴史」https://www.itsyo.org/posts/japanese-fashion-through-the-years




