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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
二十四膳目【明治四十三年五月】

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ハリー彗星と神戸のハイシライス・下

 汽車は無事に、昼前の十一時に神戸に着いた。

 ただ、本当に乗っている時間が大変だった。リクライニングシートならもう少しましだったと思うけど、背中と腰が痛む。もっと大変だったのは、杉谷中尉と昭少尉だろうな。並んで座った俺と平塚曹長は小柄だけど、杉谷中尉と昭少尉は背が高くて大きな体つきだ。並んで座ると窮屈そうだけど、軍隊のしきたりの席順で座ったから仕方ない。でも、申し訳ないなって思ったよ。


 神戸に向かう途中、何回か体をほぐせる程度の時間、汽車は停車していた。俺たちは駅に降りて外の空気を吸ったり、見慣れた東京とは違う景色を楽しんだりした。

 お弁当を食べる時、平塚曹長が停車駅でお茶を買ってきてくれた。汽車土瓶(きしゃどびん)って呼ばれる、コップになる蓋が付いている熱い緑茶だ。多分、二銭くらいだったのかな? 平塚曹長が買ってきてくれたので正確な価格は分からないけど、そう高くないみたいだ。この時代でも、自動販売機みたいに気軽にお茶が飲める。折角だから土瓶を持って帰ろうと思ったけど「割れるから危ない」と、杉谷中尉に止められた。残念だな。

 二等車から食堂車まで歩いて行って、洋食を作っている料理人やお酒を提供している給仕の姿を見た。俺以外にも洋食文化を広めている人たちがいるんだなと感じて、本当に刺激的な汽車の旅だった。  


「さて、着いてすぐだが急ごう。もう昼近くになるから、彼女の時間が勿体ない」

 こわばった体をほぐしてから、杉谷中尉と昭少尉が先頭に立って歩き始める。平塚曹長に促されて、俺はその後に付いて行く。

 大きな門。そしてその向こうには、レンガ造りの工場と大きな煙突、土蔵造りの事務所みたいな和洋折衷の建物が広がっていた。『葺合(ふきあい)織物工場』と、門に看板が掛けられていた。手紙に書いてあった工場の名前と同じだ。

 「ここで待ってろ」と俺と平塚曹長を残して、杉谷中尉と昭少尉は門を開けさせて事務所の方へと向かっていった。工場の女工さんたちの何人かがその様子を見て「きゃあきゃあ」と声を上げて、顔を赤くしている。まあ、確かに杉谷中尉も昭少尉も、いい男だしね。

「ふみさんが来たら、中尉と少尉は大阪に向かいます。自分は、ふみさんが分からないようにお二人の後に付いて行きます」

 平塚曹長はそう言って、小さく笑った。少し、楽しそうだ。

「え? どうしてですか? 一緒に神戸を巡りましょうよ」

 俺はその言葉に、びっくりした。でも、高藤さんや辰子さんが言っていた言葉を思い出した。

「ふみに気を遣って、ですか?」

「はい。犬に蹴られたくはありません」

 平塚曹長の言葉遣いは、最近軍人らしくなってきたような気がする。初めて会った時みたいに、もっと砕けていて欲しいのにな。

「今日は、ハリー彗星がよく見えるでしょう。門限を少し過ぎるかもしれませんが、ふみさんに見せてあげて下さい。帰らないといけない時刻になったら、ちゃんとお二人の前に姿を見せます。そうそう、カフェーに入っても大丈夫ですよ。少佐から、観光もしていいとお駄賃を頂いています」

 俺は、そこまで考えてくれている尊さんと平塚曹長に感謝して、思わず「ありがとうございます」と、頭を下げた。


「待たせたな、恭介」

 昭少尉の声に顔を上げると、杉谷中尉に連れられたふみと、昭少尉がそばに立っていた。さっきまで一緒にいたはずの平塚曹長の姿は、見えない。ふみに見られないように、隠れてくれたんだろうな。中尉と少尉の仕事の合間に俺を守ってくれるために、平塚曹長が今回来てくれたんだ。

 ふみは、送ってくれた写真と随分印象が違った。まず、ずいぶん痩せていた。荒れた手を袖で隠そうとしている。それに、肌の調子も悪そうだ。髪も傷んでいるようで、少しパサついた印象だった。髪の痛みを隠すためなのか仕事の邪魔になるのか、尋常小学校の時のように三つ編みにしている。でも、栗皮(くりかわ)色地に鬱金(うこん)色と浅葱(あさぎ)色の滝縞(たきじま)模様の木綿の着物に、京紫の帯だ。ふみは、やっぱり紫色が好きなようだ。


「恭介君!? 本当に来てくれたの!?」


 杉谷中尉と歩いている時は、怪訝そうな顔をしていた。だが、俺を見た途端ふみの顔がパッと明るくなった。

「私の上官の大切な友人である蕗谷恭介が、初めて神戸に来ることになった。我々は仕事があり案内が出来ない。そこで、彼の級友である鈴木ふみに依頼したい。葺合織物工場には、許可を得ている。これにより、鈴木ふみは十九日の午後から半日休みを取ることになった。しかしこの半日分の給金は、私の上官が補填する。さあ、蕗谷恭介に神戸の街を案内してやってくれ」

 いつもの杉谷中尉らしくない形式ばった言葉に俺は不思議そうに首を傾げたが、ふみが俺の手をぎゅっと握ってきた。

「ありがとうございます」

 俺はふみに手を握られたまま、二人に頭を下げた。ふみは俺と杉谷中尉たちを見比べてから、ぺこりと頭を下げた。杉谷中尉と昭少尉は、ふみに笑いかけると駅に向かっていった。


「恭介君、ありがとう。神戸までは遠かったでしょ? 元気だった? 食堂をやっているんでしょう? お仕事はどう?」

 二人になると、ふみは矢継ぎ早に質問をしてきた。尋常小学校時代、おしゃべりだったのはしのとかよだ。ふみは話を振られるまで大人しく二人の会話を聞いていた印象があるので、俺は少し驚いた。

「聞きたい話と聞いて欲しい話が、ふみにはたくさんあると思う。でもまずは、昼飯でも食わないか?」

 もう、昼だ。俺は関西のご飯が気になって、ふみの言葉を遮った。それに、ふみが疲労している様子に気が付いていた。なにか食べさせないと、と思ったんだ。

「そうだね、あたしもまだ食べてなかったんだ。そうだね、恭介君。よかったら、少し町の方に出ようよ。最近出来た洋食屋さんが人気みたいなんだ」

 俺の言葉に、ふみは一瞬黙った。しかしすぐに、にっこりと笑って俺の手を握った。

 吉蔵さんや俺たちみたいに荒れた手だ。でも――ふみの手は、もっと痛々しい。化学染料とかを使って、荒れてしまったんだろうか? 奉公先でひどい扱いを受けていた吉蔵さんの言葉も思い出して、俺は少し苦しくなった。

 でも、今の俺はふみを助けてあげられない。今一緒にいるこの時間を、ふみにとって楽しくすることしかできない。


「ハイシライス?」

 ふみが連れて来てくれたのは、神戸らしい煉瓦作りの店だった。『西洋料理・六甲軒』と、看板がかかっている。古くからの店ではないようだ。店の外まで、腹が鳴りそうないい香りが流れてきている。

「うん。このお店で、一番人気の料理なんだって。ごめんね、あたしはまだ食べたことがないから、美味しいかどうか分からないの」

 ふみは、手にした巾着袋を強く握って下に視線を落として謝った。

「謝ることないよ。じゃあ、それを食べようか」

「でも、やっぱり……高くないかな」

 ハイシライスは、この店では六銭。確かに少し高いけど、まだ珍しい洋食の外食だ。尊さんの言葉で、ふみが余裕のある生活を送っていないことは理解できていた。今日俺と遊ぶ間は、俺がふみの分も出すつもりで多めにお金は持って来た。お金を心配して楽しめなかったら、俺が行く意味ないもんな。

 なにより、この時代の洋食を食べて勉強したいからね!

「今日は、お金のことは心配しなくていいから! 俺も、少しは自分で稼いでいるからね」

 躊躇しているふみの手を引いて、俺は六甲軒に入った。すぐに、女給さんが声をかけてくれた。


「ハイシライスって、ハヤシライスのことだったんだな」

 ハイシライスを二つ頼むと、料理はすぐに運ばれてきた。明るいブラウンで、光の加減で赤みのあるオレンジにも見える。ドロッとしたソースではなく、さらさらとしたスープカレーのようなソースが、横長に盛られた白米の横にかけられている。そこに真っ赤な福神漬けと青豆が乗せられていて、丸形スープスプーンがテーブルに置かれた。

「すごい、見たことがない。これが洋食なんだ」

 ふみは、不思議そうにハイシライスの乗った皿を見ている。

「ハヤシライスと同じものですよ。神戸では、ハイシライスと呼ばれています。どうぞ、お召し上がりください」

 俺の言葉が聞こえたのか、料理人の一人がそう声をかけてくれた。そうか。地域で呼び方が違ったりするもんな。

「ふみ、冷めないうちに食べよう。いただきます」

「うん、いただきます」

 俺が手を合わせると、ふみも慌てて手を合わせた。

「あれ? 意外と酸っぱいんだね。あたし、カレーうどんなら食べたことはあるんだ。それと同じような味を想像してた。でも、見た目より味が深くてご飯に合うね」

 俺も一口食べて、現代のハヤシライスとの違いを感じた。

 まず、牛肉の強い味。それから、赤茄子とウスターソースの酸っぱさと爽やかさ。あとは、玉葱の甘さ。コクは、バタかな。現代の甘味が強いものとは違って、大人の味を感じさせるものだった。昔はグリーンピースをカレーとかに乗せていたとばあちゃんに聞いていたから、それを実際に見られて少し感激した。

 最初は確かに酸っぱく感じたけど、慣れると美味い!

「美味しいな」

 俺が嬉しそうにパクパクと食べてからふみに視線を送ると、ふみは少し赤くなって「うん」と頷いた。


 俺の店で出すハヤシライスの味を考えながら、嬉しそうなふみを眺めて昼飯を食べ終わった。

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