段落談義
作文思考の可視化的な
ストーリー性や文章の流れを意識しているだけで、実態は殆どエッセイ
文章の焦点というのは思いの外アレコレ切り替わる。小さな話題がいくつも並んでいるのだ。
だからこそ、その話題が飛びすぎていないか、状況や場面は同じ空間にあるのか、時折不安になる。
男は水を飲んだ。
例えばこんな風に突然書いたとすると、突然違うシーンが浮かび上がって私なら少しびっくりする。
緊張して乾いた口を水が潤す。
とでも書けば、状況とリンクし出す。まあ説明を付け加えて可読性を上げるといったところだろう。
迂遠ではあるが隠喩とは大抵そういうものだ。話題に絡みつく表現ばかりがいい物ではない。時に芸術の真意は何よりも慎ましく、孤独なものなのである。結果として片想いのまま胸中に想いを秘めただけの陰気なロマンチストになっている事もしばしばあるが。
芸術表現における真意の飾り方……それはともかく、文章としての面白さを見る限り今のところこの文章の中には、動きがない。男が水を飲んだ動作と私のボヤキしかないわけだ。それではこの文章は物語にはならないし、心理描写の比喩を足した程度の歩みの見えない退屈なエッセイでしかない。
「それは困る。僕の人生を退屈なものにしないでくれ」
男はそう嘆いた。そうだろうそうだろう。もしもシナリオがあるのならばシナリオに合わせて出来事を起こしたり、登場人物を増やしたりして、男が動かざるをえない状況を作る。あるいは男にそもそもの動機を持たせる。
そういった方法があるだろうか。だから……。
おっと、その前に色々と不明瞭な事があるではないか。必須というわけではないが多くの場合において、心理描写ではなく世界そのものやキャラクターが主体となるのだ。
つまり、男の容姿や居る場所など物語を進める準備をしなくてはならない。自然な流れで明らかにしていく方法もあるが、物語の導入を知らせたり、主要人物を知らせたりといった、舞台で言うところの“幕が上がる”だとか“暗転する”だとかの、鑑賞者に簡易的にお知らせをする意味としては多少のわざとらしさは有効だ。
本当は男とは概念の存在で姿形もないし、男の居る場所も場所という概念以外にはないのだが……。どうしよう? シナリオがないのだから世界観もない。とりあえず……。
男は目が覚めた。自分の今までの記憶がごっそりと抜け落ちていることに気付く。だがしかし焦る様子はない。焦るだけの不安や喪失感の為の記憶さえないからだ。
今まで生きていた事の漠然とした記憶と身に染み付いた一般的な社会的教養はあるようで、今男のいる場所、東京と思われる見覚えのあるビル群に囲まれた何処かの屋上から移動するべきだと考えた。
何故なら遠くの方から轟轟と雷鳴を響かせながら黒く重たい雨雲が迫ってきている。このままでは右も左もわからない中でずぶ濡れになってしまう。
いつどのようにして、こんな場所に居るのかもわからないが幸いにしてクタクタではあるがグレーのスウェット生地の衣服を身にまとい、足に馴染むスニーカーも履いていた。
探してみたが、鞄や免許証はない。財布も携帯もない状況だ。自分の容姿も思い出せないが、視認できる限りでは中肉といった具合であり年齢も二十五から三十くらいだろう。特徴らしい点でいえば鼻先を撫でるくらいには髪が伸び切っている事だった。
恐らくは今までそうしていたのだろう、殆ど無意識に近い動作で髪を束ね、手首につけていたヘアゴムで結んだ。
自分が何者なのか、ここはどこなのか、これからどうすればいいのか……厄介な状況であることにぐるぐると頭を悩ませながら、扉へ向かう。
──ああ、何分陳腐な事は申し訳ない。私は文章がまだまだ苦手なんだ。だからこうして習作として書いているわけではあるが、どうだ少しは導入として物語が動き始めただろう。
さてはてどうしたものか、ここから……いや、違う違う。シナリオではなく私は文章の段落における焦点を意識しようという話だったのだ。
と、モノローグは語る。携帯端末を指で弾くようにして筆者は物語の世界を俯瞰的に感じながら、モノローグによって世界を掬い上げる。
時には登場人物によって、時には事象や歴史によって、より主観的に世界の物事に触れたり関係をもたせたりたりすることで世界の存在を示唆しようと考える。
段落ごとに含まれる表現には焦点があり、その連続によって描写がされていくのだ。
文脈の体系を感じ取って文体というのであれば、文脈はデッサンで言うところの稜線やバルールのような意味合いだろう。ならばそれらを作る段落とはドローイングとも言えるだろう。
チグハグにならない一貫した整合性の取れた文体を創ることができれば、詩にしても小説にしても、一つの作品として完成できるに違いない。
全体の完成や流れ、空気感を意識しつつ、私は一つ一つモチーフを描写していく。
無論、絵とは違って示唆ではなく、明らかな時間の描写や概念の具象があるわけだから、何もかもが絵と同義なわけではない。そうだったら文章表現の意義はないのだから当然だ。
しかし、文章表現による美しさを考慮する上では描写という意識は必要不可欠に思えるのである。
と、こうして段落ごとに思考の焦点を意識して、思考の談義を進めるというのもまた段落の存在の面白さである。
疲れから筆者は顔を上げて、世界観のモノローグを振り払う。
水中から顔を上げたように、五感が現実に繋がって意識の世界から帰ってきたなと思うわけではあるが、いつとはなく現実に目を向けながらも再び胸中のモノローグを作っていた。どうともし難い。思考と言語化はもはや呼吸のように行ってしまうのだ。
とはいえ勘違いをしないでいただきたいのだが、ただ呼吸のようにするだけでは塵ほども積もらない泡沫の経験値である。準備運動になるかならないかくらいで、やはりこうして意識で照らして習作を心がけねば技能は低迷するばかりなのである。
よくわからん奴は、歩いたり呼吸をしたりすることに意識を向けて、なるべく上等な、あるいは多種多様なそれを行おうとしてみるといい。出来ないことの方がずっと多いだろう。
しかし呼吸のようにしてしまうとは言っても、意識した活動の名残なのか、普段よりも少し思考の運動量が多い。
思考の運動は徐々に収まるだろうが、せめて身体ばかりは先に休ませようと、筆者は職場の休憩室でソファに背中を思い切り預けて座り、天井を仰ぐ。
空調設備の太いパイプに断熱材が巻かれ、円柱のひだを作りながらうねり何やら大きな四角い設備と、壁の向こうに繋がっている。
この工業感のあるけったいな天井が好きでもっと眺めて居たかったが、短い休憩がもう終わるのでこの文章ともども終えることにした。
段落によって描かれた物事が次の段落における焦点の起点になる。
俯瞰のカメラの映像が、誰かの視点になったり物事の特定箇所に集中したりと切り替わりながら文章は流れてゆく。物語の飛び石のように描く先を考えるというのも文章表現の大きな特徴な気がします。
全身鎧を纏った大男はまるで剣の形をした鉄塊のような武器を使う。鉱夫たちが三人がかりでやっと抱えたそれは大男にとっては矢張り剣だった。大剣が片手で薙ぐように振られ太郎の胴を真っ二つに裂いた。
①→大男は大剣の血を払い背中のさやに戻す。
②→太郎は大男の攻撃を避けるつもりでいた。しかし大剣は太郎の予想を超えて速く、鋭く、受け流す間もなく太郎の構えた盾もろとも切り裂いた。
走馬灯のように時が遅くなる中、兜の隙間から太郎には大男の顔が見えた。
(──お前は!!)
それが太郎の最後の意識だった。
③→咄嗟に盾を構えられた事で大男の手には微かに痺れが残った。鎧や盾を打つ事など戦場ならば当然起こる事には違いがなかったが、太郎の盾は名工が一級品を用いて作った魔法盾である。
剣などの打ち据えた相手の武器に通常より強い衝撃を返す作用を付与されていた。
太郎が意図した事ではなかったが、極僅かに大男の剣速を鈍らせることになる。
※①→②→③でもいいし、どれか一つでもいいし、男の心情描写や太郎の心情描写や、あるいは太郎の斬られる瞬間を見る何者かへと移ろってもよいでしょうね。
場面の中だけでも物語を描くってのは中々出来ることが多くて複雑だなと思います。
頑張りたい……。




