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場面練習的な  作者: No.9
18/23

Episode No.null

※創作ではなく思索。芸術や創造性に関する思想です。

●正しい表現とは


・「表現」という行為とは


表現という行為とは現実であれ架空(空想)であれ、自らの意識あるいは無意識が観測した物事を象る行為である。

表現というニュアンスに近づけるべく「象る」という言葉を用いたが、無味乾燥な言い回しをすれば「情報の入出力」であると思う。

「出力」という点だけに焦点を当てれば、表現に正解も不正解もない。単に技量の精緻さの優劣だけである。「基礎技術」とも言ってしまえるだろう。

私はこれを文章表現であれ、その他の表現であれ、デッサン(描画)の技術だと考えている。


・「入力」とは何か

表現物の意図だと私は考える。(正確には意図を想像させる事だ)

この点は創作物と向き合うに当たって、少なからず問われる。『テーマ(主題)コンセプト(考え)は何?』と。

人によって意識が変わるとは思うのだが、個人的にはこの「テーマ」「コンセプト」とやらを重視しすぎる事によって、表現からコミュニケーションになってしまった創作物があまり好きではない。

事象の表現でもなく、概念の(コンセプチュアル)表現(アート)でもなく、自分の気持ちや思想を示すだけの用途になった創作物である。

 「林檎が好きだから描きました」「争いは悲しいことだから、悲しい争いを描きました」といったもの。動機としては大切だが、これ自体は自己表現というより、自己主張であって、主体が観測された物事ではなく自分自身なのである。

 では、なにが良いのかというと少し触れたが「観測した物事を想像し、意図を持って表現する」という事。自己主張の例として上げたものと似ているが、主体が観測した物事なのである。

 「林檎とは何か?」「争いの悲しさとは何か?」単純に言えば、そう問いかけることである。これは哲学に近いだろうが哲学ではないし、もちろん科学でもない。正しさや普遍性、原理の追求ではなく、あくまで芸術的な想像力だ。自分が見て、感じて、想像したり考えたりする世界を追求する事だ。

 言葉にすると簡単なようではあるが、実際に表現と向き合ってみるとわかる。自分が観ている印象や思考等は決して鮮明ではないと言う事が。ただデッサンをするだけでも観測し認知した物事とはかなり単純で粗っぽい事に幾度となく躓くのだ。

 「入力」とは観測した世界を鑑賞者に想像させる(・・・)事だと言える。



・表現の安易さと難儀

 さて、この話を踏まえてだが、単に林檎を出力するのは難しいことではない。極端な話、赤い丸を描けば抽象的に林檎を完成させることができる。窪みをつけたり、果梗(枝のような部分)でも描けばぐっと鮮明になる。

 描画技術とは見ている物事の見たままを認知していく行為であり、より精緻になってゆけばようやく観ている物事への印象や意識が出てくるだろうが、少なくとも基礎的な行いにおいては見えている実物との対話の要素が強い。(決して簡単なことではない)

 「入力」というテーマやコンセプトを乗せる行いとは少し遠いのではないかと思う。

 ここで私が言いたいことの一つは「出力の技量がどれほど向上しても、入力への意識が甘いと技量への関心以上の価値を生まない」という事。

 結局のところ、入力への意識がない創作物なんてものは、実物のものと大差がない。何事も示唆はせず、鑑賞者は鑑賞者の想像力のみでそれと向き合うしかないからだ。また入力の意図があったとしても自己主張であれば、鑑賞者は作者の主張を想像するだけでありモチーフへの想像にはなり難い。

 コミュニケーションやパフォーマンスの用途としては充分だろうが、創造性や芸術性という意味において表現としての価値は低いだろうと思う。



・正しい表現とは


そんなもんはない。

しかし「なんでもいい」という意味ではない。正しい表現とは「鑑賞者へ出来る限り劣化しない情報を入力する事」だと私が思うだけだ。

だから、こうしなくてはならない。これではいけない。などといった事はないという話。

正しい表現を知るには、自分の観測している物事と向き合い、テーマやコンセプトを見つけ、想像をする必要がある。

強いて言えば「可読性の高い表現」こそ正しい表現だと言えるだろう。


・可読性高い表現とは何か

正直、可読性の高低についても創作物をどんなターゲットに展開するのかによって必要量は変わるわけだが、少なくとも創作物の主体を壊さない程度であれば出来る限り高めるべきと言ってもいいと思う。

 そのバランス感覚は矢張り作品の体系(作風や文体など)を意識することや、作品の主体(作者やキャプションの代弁にならない事に注意が要る)に気を使う事で良い塩梅を探すものだ。

 意味としてはそのまま、読解のしやすさに当たるのだが、行動の為の意識としては「ナビゲートする」と考えるのが良いだろう。示唆によって鑑賞者へ想像のキッカケを与えるだけでなく、説明を加えたり表現を解りやすくしたりする事で理解へと誘導するのである。


 説明的であることは作者()にとってはどうにもむず痒く感じるものだが、必要以上に恐れてもいいことはない。観測した物事の出力でなく、入力をしてこそなのであれば考慮しなければならないのだ。

 だからその説明の手法も様々ある。キャプションやタイトル。解説役や前書き、描写を強調する場合もあるし、ルビ(・・)なんかをつける方法がある。もしくは挿絵やBGM、連なる作品で明かされたり示唆をされたりすることもある。

 


 ここでも誤解が生じるのは、コミュニケーションによる説得力を表現の力と思う事である。観測した物事への想像や誘導よりも、解りきった社会的価値観を示した方が納得してもらえるからだ。

 あるいは此方から他人に共感をしていったり他人に共感をさせる話題をつけたりする事で、自己投影をさせて納得させる方法で表現力があるとされる場合もあるだろう。

 恐らくは心理学などにおいて当事者意識を高めさせるような共感性や、バーナム効果のような説得力について語られているのではないかと思うが、こういった社会的価値観や自己投影による作品の評価は個人的には創造性の評価には値しないと思う。

 やはり、主体が観測されている物事ではないと思うからだ。ビジネスやコミュニケーションの価値であって、創造性ではないと考える。(あくまでその評価の指数が作品の創造性の価値を表すものではないという意味であり、作品そのものの創造性を否定はしない)


 

・観測の対象は現実ではない


「出力」について描画の技量と言ったが、あくまでモチーフを目の前に用意をして描画をする場合の話である。

多くの場合において、出力の対象となる情報は意識の世界である。(厳密には実物を用意したところで、意識の世界でしかないだろうが、照合する形態があるかないかの意味なので便宜上無視をする)

よって「入力」という意図を持たずとも、観測している物事を想像することは必要となる。


ここが最も「入力の意図」(テーマやコンセプト)を意識することが重要であると考える点である。

入力を考えないと焦点を絞れないから、観測している意識の正解が多すぎるためだ。表現の対象を見つめて出来るだけ意識の通りに描こうとしても、表現をしたいこととズレてしまっては良くないからだ。


例えば「料理(cooking)」を文章表現として描く場合、工程(レシビ)でもいいし、料理中の映像でもいいし、どちらも掛け合わせた点描表現でもいい。あるいは心情描写もまた出力として正解だし、完成された料理を食べて解説が始まることもある。

なんでも正解だから、単純な描画さえできれば出来たつもりになる。出来たつもりになるから、ここで完成する(止まる)。一つの表現作品としておしまいなので次にはまた別の出力がされて、単純な描画が繰り返される。


最低限の描画力は上がるだろうが、観察力やそれに伴う表現力の伸び代も悪くなると思う。

観測した物事を想像し、出力した物事を想像し、それぞれ照合する事で「イメージに合うかどうか」と向き合うのに、「入力の意図」を意識しない事で単純で粗っぽい出力で満足してしまうのだ。

二次創作や様式美(テンプレート)を求めるのであれば、共通認識によって埋め合わせが効きやすいから良いだろうが、創造性において魅力は数段落ちるだろう。(とはいえ共通認識で楽しめる事自体は軽快な楽しみ方になるので娯楽としての重要度は高いとも思う)

 少なくとも「自分が何を描いているのかを鮮明に意識する事」これは物事の出力、特に意識の世界の出力において重要だという事だ。



・表現の目標とは

表現の目標には様々あるだろうが、表現者として創造性を追求するのであれば「観測した物事、意識の世界を再現すること」であり、鑑賞者としての創造性とは「作家の観測した物事、意識の世界を追体験する(垣間見る)こと」だと思う。


だからこそ、「自分が何を描いているのかを鮮明に意識する事」が物事の出力、特に意識の世界の出力(表現)において重要だという事であり、「出力された表現物の可読性(ナビゲート)」が入力(創造性)に重要だという事だ。



★これらは、表現という行為に対する姿勢と思想の話。

決して全てにおいて言語化をするという意味ではなく、あくまで「意識をする」という話です。

つまり意識さえ出来れば感覚のままでもいいと思います。むしろその方がいいでしょう。

意識には外側から見ることのできる形はなく、あくまで感覚を認知したものに過ぎないと思いますから、具象的になるほど嘘や言い訳になってしまう。

だから感覚的な方が新鮮で生っぽい意識と言えると考えます。


「テーマ」や「コンセプト」というと、どうしても小難しく論理的に考えそうになりますが、そうでなくともいいという話です。

『スピード感がほしい!』『シリアスな雰囲気がいい!』『忌避感を無視した酷い味わいが欲しい』『華やかなで艷やかで色っぽい感じ』とか。


また、一部で二次創作や様式美への批判的な話を入れたけれども、個人的に好き嫌いという話でなく、あくまで意識の世界の追求に欠けやすいという話です。

パブロフの犬の話のように、単に意味が刷り込まれているだけで記号的な表現だと思うからです。

もちろん、その記号的な表現を上手く取り入れて可読性の高い表現に仕立て上げてる物も多いし、何より私自身が一部の様式美を好む面はあるので決して否定的というわけではありません。

二次創作や様式美の共通認識による可読性に頼りすぎていると、自己表現の入出力の成功率に差異(ギャップ)が出そうだなと思うだけで、自身の理解を改めるという自戒の一つでもあるのです。

自分自身の表現への考え方や反省をまとめました。

創作における至らなさを自己批評するためにも、この理想論を忘れないようにしたいです。


自分のためのエッセイのようなものです。



蛇足

・引き込まれる作品(強い印象や深い没入感のある作品)は須く可読性が高い

 「作品の世界観を体感する」そんな状態は、自身の読解力のみならず、作品の演出によって引き込まれている場合が常だ。

 だからこそ、引き込まれる作品の可読性について批評的に見ることで、メタ的に演出の効果を思考することができる。感じている事を感じる事ができる。

 そして「可読性」にとどまらず、「何を感じているのか」を読み解くポイントにもなるので大切な批評の姿勢であると思う。また創造物の批評だけでなく、現実の事象においても「面白いと感じた事」の分別に繋がるのだ。

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