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六月に滴る恋

五月の終わりは、

「おすすめの参考書を渡す」ことを主な理由として、小楠さんに会いに行った。


本当は、この「参考書」を理由に、何度も会いたいと思ったが、

出し惜しみは小楠さんの勉強に悪影響だと思い直して、

結局、全部持って行った。


早く着き過ぎて、Mt.Bookで時間を潰してから予備校に向かう。

フリールームの奥に、あの小さな背中が見えたときには、心臓の音が耳まで聞こえた。


「小楠さん」

と呼びかけながら隣に座ると、

小楠さんは、ワァとかお疲れ様とか言いながら俺を見て、

「髪切ったんだ!」

と愛想よく言ってくれる。


「あー、久しぶりに床屋行った。2年ぶりくらいかも。」

「えー!これまでは、まさか自分で?」

「机のハサミとかで……」


俺が前髪をプツンと切る仕草をすると、小楠さんは弾けるように笑う。

一瞬、フリールームの視線が俺たちに集まり、小楠さんは肩をすくめて小さくなった。

それを見た俺が、少し肩をすくめてみせると、

小楠さんは顔を隠すようにして必死に笑いをこらえる。

俺は――

――二人で罪悪感を共有したことが嬉しくて、ただただ、くすぐったい気持ちだった。

この勢いを借りて、俺は聞いてみる。


「前に渡した問題集とか、分からないところあった?」


「あった!――聞いてもいい?」


――髪を切って良かった。

小楠さんに笑ってもらえて、自然に会話を続けられる。


「おー、どこ?」


小楠さんは、質問したいページにきちんと付箋を貼っていた。


俺はリュックからサークルのチラシを引っ張り出して、

その裏に式や図形を書いて説明する。

授業前のフリールームはざわついていたが、

――俺はこの場所に、小楠さんと二人きりのような気がした。


紙をよく見せるという体で小楠さんに少し身体を寄せる。

小楠さんも覗き込む――


「小楠さん!」


女子の声。


「これから生物だよね?」


俺はそちらを見ない。

が、視線が痛い。


「――彼氏さん?」


「あ、ううん。YNで一緒だったけど、Y大合格してて……教えてもらってて……」


その会話は、俺の喉の辺りに引っ掛かっている小骨を何度も動かす。

さっきまで、ほとんど有頂天の俺だったが、今は灰色の海に沈みかけている。


「いいなあ!今度私も教えてもらいたい!」


俺はようやく顔を上げて、その女子をチラリと見て、小楠さんに聞く。


「もう授業始まる?」


「あ、うん……」


――その女子はまだ立っている。


俺は言葉に詰まったが、「じゃあ帰るわ。」と、机に出したものをリュックに片づける。


「あ、その紙はもらっていい?」


小楠さんは遠慮がちに、俺が説明に使ったサークルの紙に手を伸ばす。


――その女子はまだ立っている。


すると、俺に聞こえるか聞こえないかの、小楠さんの小さな声がする。


「残ったのは今度聞きたい……」


俺は小楠さんをチラリと見た。

小楠さんが申し訳なさそうにうつむいている。

――灰色の海は、一瞬でマリンブルーの海になる。


俺は、やけに大きな動作でリュックを背負い、

一瞬、その女子の視界から小楠さんを隠すようにすると、

素早くささやいた。


「後で連絡する。」


小楠さんはうつむいたまま、クシャクシャッと笑ったが、

すぐに、まだ立っているその女子に言った。


「今日は3A教室だよねぇ?」


「今から行く?一緒に行こう。」


しつけェな、一人で行けよ……と俺は思ったが、これ以上は留まれない。

俺はそれ以上話し掛けられないまま、フリールームを出た。


***


北側の裏門から出て、線路沿いの道まで来ると、

後ろから「早瀬君」と息せき切った声がする。


「これ……渡し忘れた!」


小楠さんがコンビニの小さな袋を差し出す。


「バナナクレープなかったけど…マスカットクレープがあったから……

本もらったり、教えてくれるお礼!」


張り付くような六月の日差しの中、

小楠さんがいたずらっぽく笑っている。



「いや、お礼とかいらねェし……」


「お礼というか、供物だよ。合格早瀬君だし。」


「それ、招き猫だろ?」


俺は吹き出した。

暑いし、小楠さんには授業があるし、もう迷えない。

――俺は受け取った。


「じゃあ……

――あ、授業大丈夫?」


「全然、大丈夫じゃない!」


小楠さんはまたクシャクシャッと笑うと、

「今日は本当にありがとう!」と言いながら走って戻っていく。


その小さな背中が曲がり角で見えなくなると、

俺は日陰のない線路沿いの道を、

遠慮のない日差しに首元を焼かれながら、

駅まで歩いた。


溶けそうなマスカットクレープを手に、

俺も、

「ありがとう」の一言を言えれば良かった、

と思いながら。


俺はバイトを始めた。


パンとか倉庫とかの夜勤だ。

短時間で金額もいいし、好きな時に入れて、昼の時間を邪魔しない。


周りは塾講師、家庭教師といったバイトを始めていたが、

自宅通学で、特に趣味もない俺は、

それほどバイトの必要性を感じていなかった。


しかし、家に帰ってから、部屋でマスカットクレープを食い、

次は何か俺が――と胸を高鳴らせた瞬間、

親の金で買っていくのが微妙だと思ったのだ。


その次に小楠さんに会うことになった六月下旬――

バイト代を手に、

駅のコンビニで、集中力が上がるとかいうチョコレートを一袋、手に取った。


それ以上は負担かと迷ったが、

消しゴムくらいなら……と、文房具が並ぶ棚の前に立つ。


と、ノートが目についた。

――そういえば、前は、サークルのチラシの裏に計算を書いたんだった。

俺は無地のノートとチョコレートを買って、

蒸し蒸しと霧雨がまとわりつく中を、予備校に急いだ。


***

フリールームで、前と同じ場所に小楠さんの小さな背中が見えると、

自然と笑いが浮かんで来る。


俺が狭い通路を人をよけながら近づくと、

呼び掛ける前に小楠さんはパッと振り向いた。


時間を有効に使えるように、俺は早速質問を聞く。

小楠さんは付箋を貼った問題集を手に取る。


俺はリュックからさっき買ったノートを取り出そうとした。


と、小楠さんが新品のノートを俺に広げて渡す。


「じゃあ、このノートで……」


チラリと見えたその表紙に「質問用」と手書きしてあるのを見た瞬間、

俺の心臓が跳ね上がる。


小楠さんは質問を始める。

その真っすぐな質問に、俺の脳裏をよぎった考えはあっという間に退いていく。

――「俺とのこの時間のために、新しいノートを作ってくれた」、という考えは。


それでも、


真新しいノートに描かれる、俺の直線、曲線、文字、記号……


小楠さんの絶妙な相槌に乗せられながら、

またも俺は、この場所に小楠さんと二人きりの気がして、

いい気持ちで、次々と質問に答えていく。


「――とりあえず、質問はこれでおしまいかな!」


小楠さんが言うと、俺は目が覚めたような気がした。


「合格早瀬様、供物でございます。」


おどけたように小楠さんが、トロルチョコを3個俺に渡す。


「だから、俺、招き猫じゃねェし!」


以前にあったときの連続性のある笑いの根っこ。

くすぐったい。本当に――くすぐったい。


俺も思い出して、リュックからコンビニの袋を引っ張り出す。


「これ……」


「え?えーと……」


俺は困った。


「あ……前、クレープもらったから……」


「えー!いいのに……」


と笑いながら、袋を受け取って覗き込む。


「あ!これ、すごい好き!

――ノートは早瀬君の?」


「いや、あー、前はチラシの裏に書いたから……要るかなと思って……」


「えー!いいの?」


「おー……バイトの金で買ったし……」


男として格好をつけたかったのだが、

まともな会話ができているか、自分でも疑わしい。


「バイト?なんのバイト?」


「パンとか倉庫とか……」


「えー!楽しそう過ぎる!!」


「徹夜で仕分けして、そのまま大学に行く。」


小楠さんは顔をクシャクシャにして笑っている。


――バイトをして良かった。

小楠さんにチョコとノートを買って、

笑ってもらえて、

自然に会話を続けられる。


「小楠さん!

また教えてもらってるん?」


前にも来た女子だ。


「うん、そう……」


「あ、私も隣で聞いてていいですか?」


明確に声を掛けられて、思わずその女子の顔を見た。

その女子は、俺を見ている。


「さっき終わったから。」


「残念……次は私も聞きたいです!小楠さん、いい?」


小楠さんは俺を見ない。が、その子に向かって「うん、また……」と答えている。


俺は、折角の二人の場所に、土足で踏み入られたような思いだ。

小楠さんは悪くない。

――まあ、誰も悪くないんだろう。


しかし、存在すら知ってもらえなかった高三のときから、

この場所を得るまでの苦しさを思うと、どうも、気持ちに行き場がなかった。

また次に会うときが、いつかも分からないのに。


でも、小楠さんの立場を悪くするわけにはいかない。


俺は立ち上がって、リュックを背負いながら、

真っすぐ小楠さんの目を見た。


「じゃあ……また。」


小楠さんは、少し慌てたように笑って目を逸らし、

でも、何でもないように、

「ありがとうね!じゃあ、先生、またお願いします!」

とおどけて言う。


小楠さんとの間の線が――切れずに済んだ。


俺はその女子の横をすり抜けると、フリールームを出て、

霧雨の中を、傘を差さずに、駅に向かって歩く。


――線路沿いの道の途中、

俺は立ち止まって、携帯を取り出した。



挿絵(By みてみん)



メールを開いて、唇を噛む。

何度かトトトと指を動かしては、

トトトと消す。


結局、


「小楠さんが好きです。」


ということ以外、

何もないのだ。


その他全ての言動は、

「どの程度自然に見えるか」という苦しい問いの中を、

行ったり来たりしているだけだ。


いや、俺が苦しいのはどうでも良くて、

今一番大事なのは、

小楠さんの受験勉強を邪魔せずに、

成績を上げるサポートを――


サポート?

俺のサポート?

いつ、小楠さんが求めた?


――雨の雫が、髪や顔を伝って、携帯の画面に滴(したた)り落ちる。


「あ―――――……クソ……!」


俺は携帯を手にしたまま髪を搔きむしった。


深呼吸をすると、

携帯の画面をTシャツでゴシゴシと拭き、トトトと指を動かす。


――――トロルチョコありがとう

――――良ければ、次は、駅の反対側のマックで教えるよ

――――太田数学ⅡBひと回しした辺りが、質問会が充実しそう


入力した瞬間に送信ボタンを押す。


俺はブルリと犬のように身体を振ると、大股で歩き始める。

改札に向かうエスカレーターで、Tシャツを引っ張って顔を拭いていると、

携帯がブルリとする。


エスカレーターからつんのめるように降りると、携帯を見る。

――小楠さんだ!!


俺は唇を噛みしめ、固く目を瞑ってからメールを開く。


――――マックの質問会、ぜひお願いします!

――――直接マックで待ち合わせでいいよね?

――――質問会は七月◎日くらいがいいかな……

――――その日までに太田数学ⅡBひと回しする目標ができた

――――合格早瀬様、ありがとう!


俺の細胞の全てが、雨上がりの澄んだ鐘を鳴らしているようだ。

俺は、駅の改札口ということも忘れて笑顔になって、急いで顔を手で隠す。


やべェ……

――やべェ……やべェ!


二人でマック?

また七月に会える?

しかも、俺がしていること、小楠さんのサポートになってる?


駅のホームに立った俺は、急いで返信した。


――――七月◎日、午後ならいつでも大丈夫

――――太田ⅡBひと回し、応援しています


携帯をポケットに押し込むと、晴れやかな気持ちでホームから空を見る。

しかし、俺を濡らしていた霧雨は、

気付けば大きな雨粒に変わって、激しく降り始めている。


駅に自転車を置いているが、

家まで濡れて、漕いで帰ればいい。



家まで


濡れて


帰ればいい――――



別作品も書いています。

長めのお話がお好きでしたら、こちらもどうぞ。

■『神鼠の大王は猫を愛せない―美貌すぎる少年王は天敵の猫族少女を絶対に手放しません 』

https://ncode.syosetu.com/n9295ms/

 ※完結まで執筆済み。

■『BL終局の悪魔―俺を利用するはずの白髪高官が、なぜか俺の目を美しいと言ってくる―』

https://ncode.syosetu.com/n4565ml/

 ▶終局の悪魔はR18版があります。R18描写が大丈夫な方は是非二人の到達地点をご覧ください 

  https://novel18.syosetu.com/n2839mt/


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