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五月に走る恋


「早瀬君!『お散歩サークル』入ったん?」


四月、入学して間もないある日。

――顔を上げると、予備校の頃から同級生の木島と付き合っている安田さんがいた。


「おー、まあ。木島は?」


「茶道部入るって。」


「木島が茶道部?」


入学式のときに、「インカレのサークルに入る」と意気込む平野に引っ張られ、

街歩きや近くの山を登るサークルを覗いた。


サークルは面倒くせェと思っていたが、

『街の地理や歴史に詳しくなる』

『案内のプロになる』

といった話を説明されてハッとした。


ぼんやりと……

来年、小楠さんを

「ここは実はコレコレの跡だ」

「ここの大福が美味い」

などと言って、俺が案内する画が瞼に浮かぶ……


スムーズに案内したらサマになるんじゃネェの?

今度の休みはあの寺、

次はあの食いもん屋とか……

細い道で手を繋いで……


気付けば俺は、「入ります」と答えていた。


***

今日は新入生歓迎の街歩きイベントということで、新入生全員参加だ。


その中に、木島と付き合っている安田さんがいて、

話しかけられたわけだ。


「小川先生が、早瀬君によろしくって言ってたで。」


「小川?なんで?」


「一昨日、小楠ちゃんに会いに行って、そのとき、小川先生にも会ってん。」


思いがけず耳にする名前に、目が白黒する思いだ。


「よ…予備校?」


「そう!小楠ちゃん、元気かなって。」


元気なわけねェだろ。


俺は白い目で安田さんを見た。

テメェの優位を見せたいだけじゃねェの?


浪人の覚悟を決めた線路沿いの姿、

参考書を見上げる小さな背中――


きっと、安田さんを笑顔で迎え、

笑わせたりもしただろう、小楠さんのことを思うと、妙に胸騒ぎがした。


安田さんには腹が立つが、どんな様子だったのか聞きたい。


「で、元気だった感じ?小川……と、小楠さん。」


小楠さんの名前を、自然に言えただろうか?


「うん、二人とも。小楠ちゃんとはマクド行ったし。」


「……」


「ほぼ毎日、あそこの自習室を使ってるんやって。」


俺は安田さんが目の前にいることをほとんど忘れた。


――予備校に行けば会えるかもしれない。

――マックくらいは誘っても……


「今度、早瀬君も一緒に行こうよ。

小川先生と小楠ちゃんに会いに。」


「え?俺?」


「戸塚っちも誘うわ。

――MINE交換せぇへん?」


俺は、出発の声を上げる先輩の方を見て、

リュックを背負い直した。


「あー、俺はいい。木島と行ってきて。」


俺は安田さんから離れると、

新入生の間に埋もれるように、ぞろぞろと歩き始めた。


***

俺は家に帰ると、早速、受験に使った参考書や問題集を整理し始めた。


平野のおすすめと被らず、

必ず、小楠さんの役に立ちそうなもの……


そういう良質の本に限って、

俺が使い込んでヨレヨレになっている。

――しかし、そういう使い込まれた、書き込みのある本が中古品で出回ることもあると聞く……


俺は、三冊選んで、携帯を睨む。

睨むだけで、何もしない。


招き猫に「落ちない」願いを掛けたあの日――

俺は、平野のおすすめ本を書店で確認してから、

厳選した本を小楠さんにメールした。


初めてもらった小楠さんからの返信は、丁寧で優しくて、

俺はむやみにくすぐったかった。


その次の日、早速「買い」をした、というメールが来て、

今度はにやけ笑いがとまらず、電車の中でひどく苦労した。


「買い」という言葉が、小楠さんと二人だけの合言葉のような気がしたのだ。


――が、それっきりだ。


それ以上、メールをする理由がなかった。

俺は、平野のおすすめ本を、小分けにして伝えなかった自分の鈍くささを恨んでいた。


平野のおすすめ本がなくなった今となっては、

「小楠さんが好きです。」という言葉以外に、メールの理由なんかない。


でも、安田さんが、大した理由もなく会いに行ったなら、

何か、役に立つ――渡せるものでもあれば、

俺も会いに行っても――いいんじゃねェか?


***

事前に連絡はしなかった。

小楠さんの負担になったら困るし、

偶然会えたらいいと思ったのだ。


それでも――会えるかもしれない、という期待は、

四月の怒涛の新生活とは全く別の感情軸のようだった。


――「帰ってきた」という感覚。

俺自身を取り戻した、というような懐かしい感覚だった。


***


大学の授業がない、五月の平日の昼下がり。


俺は予備校最寄り駅の改札を出た。 


リュックには、受験前に俺が使っていた問題集が三冊、紙袋に入ってカサカサと音を立てている。


改札口に近い自販機でリンゴジュースを買って、階段を降りる。


五月と言っても半袖でちょうどいい。

俺は、あまり日陰のない線路沿いの道を予備校に向かって歩き始めた。


***


予備校の校舎が見えると、思わず唾を飲み込む。


考えてみれば、小楠さんが予備校に来ていたとしても、

どこの教室にいるか分からないし、

予備校生じゃなくなった今、勝手に入れない気がする。


俺は北側の裏門に立って、途方に暮れた。


***

――と、トコトコと駐車場の脇を歩いて、北側の裏門から外に出て行く人影。


以前と変わらず、周りを見ずに、

俺が端っこに立っていることに気付きもしない。


俺は思わず大きな声を上げた。


「小楠さん!!」


小楠さんはワァという声を上げて飛び上がった。


「――早瀬君!?お久しぶり!

――小川先生と会うの?」


小楠さんの自然な質問に俺は困惑した。

「好きです」と伝えない限り、言い訳の苦しさから逃げられない。


「あー、いや……あ、俺の使ってた本、

小楠さんに見せようと思って……」


「あ、ごめん!連絡くれてた?」


小楠さんは慌てて携帯を探そうとする。


「あー、いや……帰る途中だから……

寄った方が早いし……」


「そうなんだ!エー、ありがとう!」


自分のために俺が来るとは、

思いもよらないらしい小楠さん。

俺の苦しい言い訳でも、特に疑問にも思わない風だ。


俺は急いでリュックを降ろして、紙袋を引っ張り出す。


「あ、この二冊、私も持ってる!」


俺は三分の二が無意味だったことに打ちのめされそうだったが、

パラパラとめくりながら、小楠さんは弾んだ声を出した。


「すごい!二冊とも、難しくて使いこなせなかったんだけど……早瀬君、すごいねぇ。」


「いや、すごくねェし……

ていうか、ごめん、持って帰る……」


五月の日差しが俺たちに降り注ぎ、

ジリジリと汗がにじむ。


「小楠さん、なんか用事があって出てきた?」


「コンビニに行こうと思って……お昼ご飯とか。」


俺はリュックの脇ポケットに入ったリンゴジュースを思い出した。


「あー、これ、はい。」


「エェ!いいよ!暑いし、早瀬君、飲んで!

私は自分で買うから!」


「これ、あー、小楠さんに買った。

前、無糖コーヒー渡したから……」


「ハハハハハハハハ!!!合格コーヒー!!!」


小楠さんが思い切り笑い出した。


私服の半袖から見える細い二の腕に、

割と大きなほくろがある。

笑うたびに上下に動くそのほくろが目に入ると、

たまらなくむず痒くなった。


「ちゃんと飲んだよ!」


「マジか。苦手じゃねェの……

あー、とりあえずコンビニ行く?」


俺たちは歩き出した。


「マックとかは行かねェの?」


「行かないなぁ……お腹いっぱいになると眠くなるし……」


俺は、安田さんに連れ出され、

マックで安田さんの大学生活を聞いている、

地味で素直な小楠さんを目に浮かべた。


――自分がマックに誘わなかったことに、ホッとする。


コンビニに着くと、小楠さんはおにぎりを選ぶ。

俺は近くのバナナクレープを手に取る。


「これ好きなの?早瀬君。」


「あー……懐かしいと思って……

最近食べてねェけど……


……すげェ好きだから……」


当然ながら、

「美味しいよねぇ」

「定期的に食べたくなるよねぇ」

と、自然な会話を続ける小楠さん。


俺は、バナナクレープから目を離さず、

何も伝わらない――伝えられない現実に、

ただ唇を噛みしめた。


「買うの?」


既に小楠さんはレジに並ぼうとしているようだ。


俺も、バナナクレープを持って小楠さんの後ろに並んだ。


「久しぶりに、買うわ。

――おにぎり食べるなら、フリールームで一緒に食っていい?」


言った瞬間に、しまったと思った。

しかし、小楠さんはすぐにまともな返答をする。


「一緒に食べよう、食べよう!」


嬉しさと情けなさが胸の上を行き交う。


それでも俺は、小楠さんの後ろでレジを待つ間、

彼女のTシャツの肩口に浮き出るインナーの細い紐だけは、目から離さずにいた――


***


小楠さんは、縁起がいいから三冊全部もらう、と言う。


(――分かんねェとこあったら、いつでも聞いて。)

(――昼飯くらい、マックとかでたまに食べねェ?)

(――MINE交換しねェ?)

(――合格したら、街案内するわ。)

(――合格したら……)


全ての言葉は、

口から出る前に立ち止まり、

喉の奥に帰っていった。


俺は、小楠さんを前に、

味が分からないバナナクレープを食べ終わる。


――これ以上、邪魔はできない。


「俺、帰るわ。」


俺がリュックを持って立ち上がると、

一人の浪人生らしい男が小楠さんに声を掛けた。


「おーす。今日は授業?」


「今日は自習だけ。」


真っ赤に焼けた鉄の棒で、

肋骨辺りがえぐられるようだ。


俺はうつむいて前髪の隙間からそいつを見る。


――が、次の瞬間、

言葉が、

唇の扉を蹴破って転がり出た。


「ボロボロので良ければ、

またいいのがあったら渡しに来る。」


小楠さんが、俺の顔を見た。


――初めて、目が合った気がする。


「縁起よさそう!」


すぐに目を逸らした小楠さんは、

ちょっと慌てたような笑顔で言った。


「全部、【貰(もら)い】だね!」


俺は、「じゃあ」と、何とか言葉を絞り出すと、

逃げるようにフリールームを出た。


***


校舎を離れ、線路沿いの道まで来ると、

俺は、走り始めた。


挿絵(By みてみん)


五月の日差しが降り注ぐ線路沿いの道を、

俺は、


一度も立ち止まらずに


――駅まで


 ――全速力で走った。


***


ちょうど来た電車に乗ると、

やけに弾力のある緑の座席に、俺はドッと腰を下ろした。


加速する電車の窓の外で、

古いビル、新しい家、神社の新緑やらが、

後ろに走り去っていく。


頬までせり上がって来るような胸の動悸が、

全速力で走ったためかどうか、

俺には分からない。


手癖のように携帯を取り出す。

クラスのコンパ、

サークルの例会、

木島からの誘い、

平野の相談……

機械的に上から開いていく。


――急に俺の心臓がガチンと鳴った。


小楠さんからメールだ。


本のお礼だろうと思いつつ、

さっさとメールを読んでしまうことが惜しくて、どうでもいい天気の通知を開く。


ちょうど家の最寄り駅に着き、

ドアを飛び出た俺は、ホームに立ったままメールを開く。


やはり、本のお礼……

気立ての良さとひょうきんさがにじむ二、三行。

小楠さんらしい。


が、それに続く二行は、余りにも予想外だった。



――今度もし来てくれるなら、連絡をくれると嬉しい


――その時間には、予備校にいるようにしたいから



俺は、人もまばらな階段を二段飛ばしで駆け上がった。

家までの急な上り坂をチャリで一気に走る。


やべェ ――また会える

 やべェ ――確実に会える


  やべェ ――やべェ!


***

部屋の片隅の段ボールを開いて、

一つずつ宝物のように取り出して確認する。


前は、なるべくきれいなものと思っていたが、

手垢のついたものでいいんだ。


それに一冊全部、必ず役に立つものじゃなくてもいい。

必要なところをコピーしたり、

ちょっと説明するだけでもいいかもしれない。


会うんだから…


俺は、滴る汗を半袖の袖口でゴシゴシ拭くと、

携帯を手に取ってゴロリと横になった。


――今度もし来てくれるなら、連絡をくれると嬉しい


――その時間には、予備校にいるようにしたいから


火照った顔に笑いが込み上げて止まらない。

俺はしゃんと座り直した。


――俺のおすすめはまだある


――次に行くときは連絡します


送信しようとして、悩む。

もっと――立ち止まるべきか?


トトトト……一度全部消す。


――了解です


四文字だけの、白い画面を見る。


俺は唇を噛みしめる。


――28点を晒されて頭を掻き、そっと答案用紙を内側に折って

――人の恋を応援し、

――自分の恋と受験は失敗し、

――合格した友人にマックに連れ出される。


視界にすら入っていなかった俺にも、気を遣って、

こんな……最高に嬉しいメールを送ってくれた。


その返信が「了解です」?


小楠さんの受験勉強のために立ち止まった方がいい……

と言うなら、会いに行かなければよかったんだ。


それを唐突に会いに行って、

優しいメールをもらって、

急に立ち止まって、

「了解です」?


こんな四文字――


こんな四文字――


今日、ハッとして俺を見た、

素朴な瞳が目に浮かぶ。


俺くらい、小楠さんを振り回さなくたっていい。

邪魔はしないけど、

絶対に振り回さない。

俺が、小楠さんを想って、勝手に振り回されて、

――勝手に走り続ける。


それで、いい。


俺は指を動かした。


――俺のおすすめはまだ結構あるよ


――小楠さんの都合のいいときに持って行きたいけど


――いつがいいかな


――今日渡した本の質問とかあれば、教えられるかも



送信ボタンを押した俺は、枕の下に携帯を突っ込んで、

また段ボールの本を整理し始めた。

――が、一分も経たずに携帯を見る。


そんなことを何度か繰り返して、

本を散らかしたままベッドに転がった。


仰向けになって携帯を見ようとすると、やたらと髪の毛が邪魔をする。

何か月も、床屋に行くのが面倒で、

伸びると自分でハサミで切っていたんだった。


(次に会うときまでに――髪、切るか。)


小楠さんからの返信は、まだ、来ない。


でも、


二の腕のほくろ、

Tシャツの肩に浮かぶ紐、

俺の視線とかち合った目――


今、このベッドに転がる俺には、


  ――これだけで、十分だった。



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