第四章 予測不能なエラー値
立てた仮説を証明するには、さならるデータが必要だった。
しかし、運命という名のプログラムは、僕が観測を始める前に強制的なイベントを発生させた。
五月半ば。中間テストを目前に控えた放課後、僕たちの通う中学校では「学習支援ボランティア」という名の、教え合い学習が開かれていた。数学が得意な僕は、図書室の特設コーナーで、他のクラスの生徒からも質問攻めに遭っていた。
「新海、ここ、どうしても分からないんだけど……」
声をかけてきたのは、他クラスの女子だった。僕は「効率が悪いな」と思いながらも、図解を交えて丁寧に数式を解き明かしていく。
「あ、なるほど!新海くんって、教えるのすごく上手だね。ちょっと感動しちゃった」
彼女が少し身を乗り出し、僕の顔を覗き込む。その距離が少しばかり「標準的な対人距離」を逸脱した、その時だった。
「……ちょっと。そこ、勉強に関係ない話してるなら場所開けてくれる?」
背後から、凍てつくような、けれどどこか震える声が響いた。
一ノ瀬澪だった。彼女は参考書を胸に抱え、般若のような……いや、今にも泣きだしそうな顔で僕たちを見下ろしていた。
「あ、一ノ瀬さん。ごめん、今終わるところで……」
「新海、アンタも。そんな鼻の下伸ばしてないで、さっさと自分の課題終わらせなさいよ。馬鹿に見えるわ」
言い放つなり、彼女は踵を返して図書室を飛び出していった。
他クラスの女子が呆気にとられる中、僕は自分の内側の論理が激しく火花を散らすのを感じていた。
今の反応は、明らかに異常だ。
嫌いな相手が他の女子と話していようが、彼女の不快指数には影響しないはずだ。むしろ「面倒な奴がいなくなった」と喜ぶのが論理的な帰結だ。それなのに、あの怒りと、一瞬だけ見えた悲しみの混ざった表情は何だ?
僕は彼女の後を追った。
夕焼けの渡り廊下。オレンジ色の光が、全力で走る彼女の背中を追いかけている。
「一ノ瀬、待ってくれ!」
「来ないで!アンタなんて、あの子にずっと数学教えてればいいじゃない!」
階段の踊り場で、ようやく彼女の腕を掴んだ。
振り返った澪の瞳には、大粒の涙が溜まっていた。
「計算が、合わないんだ」
「……は?」
「君が僕を嫌っているなら、今の怒りは論理的に説明がつかない。僕が誰と話そうが、君の人生の変数には何の影響もないはずだ。それなのに、どうしてそんなに苦しそうな顔をする?」
澪は目を見開き、掴まれた腕を振り払おうともせず、掠れた声で言った。
「……アンタ、本当に、最低のバカね」
「バカかもしれない。でも、このエラーを無視して先に進むことはできない。一ノ瀬、君にとって僕は、一体どういう存在なんだ?」
一分、一秒。
廊下の時計の刻む音が、やけに大きく響く。
澪の震える唇が、ついに隠し続けてきた「真のコード」を吐き出そうとしていた。
「……ずっと、アンタの隣でいるために、私がどれだけ計算を間違え続けてきたと思ってるのよ……!」
それは、僕のシミュレーターが一生かかっても導きだせなかった、あまりにも非効率で、切実な叫びだった。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
第四章は、書いていて僕自身も少し胸が苦しくなるようなシーンでした。
自分の気持ちに蓋をして、理屈で納得しようとしてきた蓮くん。そして、素直になりたいのに、どうしても言葉がトゲになってしまう澪ちゃん。
二人はずっと、相手のことを大切に想っているはずなのに、どうしてこんなにも遠回りをしてしまうんだろう。そう思いながら、キーボードで入力していました。
でも、きっと一生懸命なときほど、人って上手く振舞えなくなるものですよね。
効率が悪くても、計算が合わなくても、ただ「好き」という気持ちだけで動いてしまう。そんな、どうしようもなく人間らしいエラーを、僕は愛おしいなって感じています。
ようやく、自分の心と向き合い始めた二人が、夕暮れの廊下でどんな答えを見つけるのか。
あともう少しだけ、二人の物語にお付き合いいただけたら嬉しいです。
次は、いよいよ最後のお話。
二人の心が、一番いい形で重なりますように。
ーーなお




