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ここは王国領でも殊更に珍しい村だった。
辺境の開拓村、ヴィソン。
忘れられた村、と呼ぶ者もいる。
人口はおよそ百人弱。決して少なくはない数字だが、この王国において「海」は危険視され、忌むべきものとして扱われている。その海に面した村が存続しているという事実そのものが、異端だった。
ヴィソンの歴史は古い。
先先代の王の治世から存在する、王国領唯一の海辺の集落。海に寄り添い、海と共に生きるという在り方は、内陸に栄える王国の常識とは真っ向から相反するものだった。
近隣の村や町からは疎まれている。
仲間外れにされている、と言った方が正確かもしれない。
だが、ヴィソンから産出される塩と海産物は安価でありながら品質が高く、内陸部で採掘される岩塩と比べても特段に質が良かった。どれほど忌み嫌われようとも、ヴィソンの塩がなければ困る家庭は少なくない。
疎みながらも依存する。その矛盾した関係が、この村を細々と、しかし確実に生き延びさせていた。
王国の人々がヴィソンを毛嫌いする理由は、単なる偏見だけではない。
先代の王の死因は「海の呪い」であった為だ。
詳細を知る者は少ないが、先代の王が海に関わる何かによって命を落としたという事実だけが、王国中に広く語り継がれていた。海は死をもたらすもの。海に近づく者は呪われる。そんな迷信じみた恐怖が、王国全体の空気として根づいている。
その海のすぐ傍で暮らすヴィソンの民は、王国の人間にとっては理解の及ばない存在だった。
だが、当のヴィソンの住人たちは、海の危険を誰よりもよく知っていた。
知った上で、ここに留まり続けている。
恐れていないのではない。恐れた上で、それでも海と共にある道を選んでいるのだ。
だからこそ、この村の警戒は厳しかった。
王国領唯一の海の村は、海に面している以上、夜であっても明かりを絶やさない。
「魔光蝋」と呼ばれる決して安くない物を、村には幾つも並べられ、淡い光を放ち続けている。通常の火とは異なり、風にも潮にも消えることがない灯火だ。
その光が夜の海を薄く照らし出し、異変を素早く察知するための目印となっていた。
そして、常に海に見張りを置く。
これは、ヴィソンにおいて最も重要な役割の一つだった。
その夜、見張りの任に就いていたのは、ウェルという名の青年だった。
村の外れに建てられた櫓の上。海風に晒される高台の見張り台に、ウェルはもう一人の同年代の青年と共に座っていた。
櫓には五角形の水晶が設置されている。
遠くを見通すことができる特殊な水晶で、これを通して夜の海面を監視するのが見張りの仕事だった。
ウェルは水晶に額を近づけ、暗い海面を凝視していた。
魔光蝋の青白い光が届く範囲では、波の動きまではっきりと見える。その向こう、光の届かない暗闇の中も、この水晶を通せばある程度の輪郭を捉えることができた。
不自然な水飛沫が上がったのを確認したのは、夜半を過ぎた頃だった。
大きな飛沫ではない。
海面がわずかに盛り上がり、波紋を残して沈む。その直後に、何かが浮き上がってくるのが水晶越しに見えた。
ウェルの目が細くなった。
浮かび上がった影は、生物のようにも見えるし、そうでないようにも見える。
大きさは中途半端だ。この海域で見かける大型の海獣に比べれば小さいが、人間や小舟と呼ぶには大きい。
ウェルは水晶から目を離さず、即座に村の規則に沿った通達の手順を踏んだ。
櫓に備え付けられた鐘を三度鳴らす。短く、鋭く。
海上に未確認の存在を確認した、という合図だ。
「中途半端なデカさだな。バニクジラだと思うか?」
交代で入っていた同年代のもう一人の見張りが、水晶を覗き込みながら問うてきた。
「バニクジラならもっとデカいだろ。ここら辺じゃ見ないような魔物だろうな。迷い込んできたからここまで来たんだろう。いずれにしても警戒だ」
ウェルは端的に答えた後、小さく舌打ちを漏らした。
「宝海日まで近いってのに……」
その準備に追われている最中に、海からの厄介事は勘弁して欲しかった。
鐘の音は既に村全体に届いている。
夜だというのに、家々の窓に次々と灯りが点っていく。村は瞬く間に警戒態勢へと移行していた。
海からの魔物は、そのまま陸に上がってくることも珍しくはない。
この村は何度もそれを経験してきた。海の恵みを受ける代償として、海の脅威も引き受ける。それがヴィソンという村の在り方だ。
油断は、しない。
ウェルは水晶を通してその影を追い続けた。
影は海面上をゆっくりと移動していた。
村に向かって真っ直ぐ来るのかと緊張が走ったが、そうはならなかった。影は村の手前で大きく迂回するように進路を変え、村から離れた方角の浜辺付近で停止した。
この動きは、魔物のそれとは異なっていた。
魔物ならば本能に従って最短距離で陸を目指すか、あるいは興味を失って沖へ戻る。
だが、この影は明らかに村を避けるようにして迂回した。それは、知性ある存在の行動だった。
ウェル含め、村の自警団の数人が集まり始めていた。
その中心に立つのは、白髪交じりの痩せた老人。村長のオーランドだ。
オーランドは櫓に登り、水晶を自ら覗き込んだ。
浜辺付近で停止した影の上部から、何かが開いた。
そして、中から人間が一人、這い出るようにして外に出てきた。
間違いなく、人間だった。
手に何か丸いものを抱えている以外は、身一つのように見える。
その人間は浅瀬を渡り、浜辺に上がると、迷うことなく村の方角へと歩き始めた。
自警団の面々に緊張が走った。
オーランドは黙ったまま水晶を見つめ続けている。その目は、長年の経験に裏打ちされた冷静さを湛えていた。
やがて、その人間は村の門の前に辿り着き、門を叩いた。
この王国において、夜に門を叩く訪問者は罪人だけだと言われているにも関わらず一切の迷いがない。
闇に紛れて逃げる者。追手から身を隠す者。真っ当な人間であれば、夜に他人の門を叩くことは決してしない。それが王国の常識だ。
その人間はしっかりと門を叩き、声を発した。
「――すみません、旅の商人です。夜分に失礼します。言葉は通じますかー?」
門の内側で控えていた自警団の面々は、互いに顔を見合わせた。
その人間が吐いた言葉は、全てが嘘だった。
水晶で見ていたのだから当然だろう。
あの影の中から出てきたのを、最初から最後まで確認している。
旅の商人は海から来ない。
少ない荷に、馬車も連れず、得体の知れない影から這い出してきた人間が、旅の商人であるはずがなかった。
村長のオーランドは、櫓の上から門の前に立つ人間の姿を見下ろしていた。
――海から人間が来る。
この村の歴史において、それが意味することは一つしかない。




