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揺れが収まった後に、まず操縦席の周囲を確認する。
特に変化はなかった。
操縦席は依然として手狭で、人によっては圧迫感を覚えるかもしれない。だが俺はむしろ、この狭さに安心感を感じていた。手を伸ばせばすぐに操縦桿に届き、振り向けば壁がある。全てが手の届く範囲に収まっているという事実が、この訳のわからない状況の中では妙に心強かった。
後ろを振り返る。背もたれのすぐ奥に扉があるのは変わらない。
体をよじるようにして椅子から降り、扉を開けて中へ進んだ。
入った瞬間に、違いがわかった。
広くなっている。
劇的にではない。だが、先ほどまでの窒息しそうな狭さとは明確に異なっていた。
まず、左手に台所があるのは以前と同じだ。一口の電子コンロに狭い水場。上下の収納。その配置は変わっていない。だが、台所と向かいの壁との間に、人が一人分しっかりと通れるだけの通路が確保されていた。先ほどまでは体を捩じ込ませるようにしなければ通れなかったのが嘘のようだ。
奥へ進む。トイレへの小部屋があるのは変わらず。
だが、その前の空間が、先ほどとは完全に異なっていた。
「ベッドだ……」
シングルサイズのベッドが、壁に沿うようにして設置されていた。
金属製のフレームに、薄いが清潔なマットレス。枕は一つ。毛布が一枚、きちんと畳まれてベッドの端に置かれている。
さらに、トイレの小部屋の隣に、もう一つ扉が増えていた。開けると、簡易的なシャワールームが現れた。蛇口とシャワーヘッドが壁に固定されており、足元には排水口がある。浴槽はないが、体を洗うには十分な広さだった。
天井を見上げると、低い天井の一角に折り畳まれた梯子が格納されているのが見えた。ハッチのような構造体と繋がっており、展開すれば潜水艦の外へ出られるのだろう。
ベッドに腰を下ろしてみる。
特上の寝心地とは言えないが、人が寝るのに不足はなかった。マットレスは体重をしっかり受け止め、腰が沈みすぎることもない。少なくとも、操縦席の革張りの椅子で仮眠を取ることを考えれば雲泥の差だ。
そんな時に、腹が鳴った。
今の今まで忘れていたが、何も食べていない。
この場所に気がついてからどれほどの時間が経ったのか正確にはわからないが、体は確実に空腹を訴えていた。
外に飛び出して食料を探す勇気などあるはずもない。
あの海の中に何がいるかは、嫌というほど見てきた。
俺は台所に戻り、コンロの下に設置された小さな冷蔵庫を開けた。
「ラッキー」
思わず声が出た。
冷蔵庫の中には、バナナが一房とチョコレートバーが二本入っていた。
他には何もない。だが、空っぽでなかったことが今は何よりの救いだった。
俺はバナナを一本もぎ取り、チョコレートバーの包装を破いて、その場で立ったまま食べた。味を楽しむ余裕はない。ただ、空腹を埋めるための行為だった。
それでも、口の中に広がるチョコレートの甘さが、乾ききった心に僅かな潤いを与えてくれた気がした。
食べ終えて一息ついた時、足元にあるものが目に入った。
台所の床面に、取っ手のようなものが付いている。冷蔵庫から食べ物を取り出す際に、視界の端で捉えていたものだ。
ベッドの上で食べかすを払い落とし、台所に戻って床の取っ手を手前に引いた。
床板が持ち上がり、その下に空間が広がっていた。
天井は低いが、二畳ほどの広さがある。先ほど難破船から回収した宝箱や木材が、雑然と置かれていた。アームで掴んで潜水艦に格納された物資は、ここに収納されていたのだ。
強化した「収納量」とは、この床下空間のことだったのだろう。
俺は背を屈めて降り、宝箱の前にしゃがみ込んだ。
腐食がかなり進んでいた。元々の劣化に加えて、アームで掴んだ際の圧力で側面が崩れてしまっている。施錠こそされているが、壊れた側面から中のものが取り出せる状態にあった。
硬貨は先ほど全てポイントに変換済みだ。残っているのは、変換対象にならなかった物品だろう。
俺は崩れた隙間から手を突っ込んだ。
最初に引き出したのは、金で出来たように見える装飾品の数々だった。指輪、腕輪、首飾りのような鎖。どれも色が汚れでくすんでおり、往時の輝きは失われている。
金ピカに光り輝くお宝を想像していたわけではないが、薄汚れた金属の塊を前にしても、胸が躍るような感動は特になかった。
あらかた取り出し終えた後、宝箱の底に筒状の物が一つ残っているのに気がついた。
装飾が施された細長い筒だった。
手に取って眺めると、卒業証書の筒のように上下に分かれる構造になっている。蓋を外すと、中から巻かれた紙の書簡が出てきた。
広げてみたが、書かれている文字は一切読み取れなかった。
見たことのない言語。記号なのか文字なのかすら判別できない筆跡が、黄ばんだ紙面に整然と並んでいる。
ただ、封蝋の跡が残っていたことと、大層な印鑑が押されていたことから、相当に重要な書類であったことだけは想像がついた。
読めないものを眺めていても仕方がない。
特に興味を惹かれることもなく、俺はその書簡を筒に戻し、装飾品の山と一緒に保管した。
床下から上がり、背筋を伸ばす。
狭い場所で屈んでいた分、腰と背中に鈍い痛みが走った。
コップを手に取り、蛇口を捻って水を飲む。
横のメーターの針が、また僅かに傾いた。残量は気になるが、水分を取らないわけにもいかない。
疲労が重くのしかかってきていた。
慣れない環境と緊張の連続で、体が限界に近づいている。
俺はベッドに横になった。
毛布を引き寄せ、薄い枕に頭を預ける。天井が近い。手を伸ばせば届きそうだ。
目を閉じると、ディスプレイで見た青い海と、あの三つ目の鮫の顔が瞼の裏に浮かんだ。
それでも、疲れの方が勝った。意識はすぐに暗転した。
喉の渇きで目が覚めた。
次に感じたのは空腹だった。
どれほど眠っていたのかはわからない。体内時計が完全に狂っている。
俺は起き上がると台所へ向かい、水を一杯飲んだ。続けて冷蔵庫を開け、残りのバナナとチョコレートバーを取り出して食べる。
これで冷蔵庫は空になった。
食料の確保を真剣に考える必要がある。
操縦席に移動してディスプレイを確認すると、外の景色は既に日が傾きかけていた。水平線の向こうが橙色に染まり始めている。
この世界にも昼夜のサイクルがあるのだと、今さらのように実感した。
俺は操縦桿を握り、水面すれすれの高度を維持したまま再び前進を始めた。
速度が、明らかに上がっていた。
強化前と比べて、ディスプレイを流れていく水面の景色の速度が段違いだ。波を切る振動も力強くなり、潜水艦全体が前に引っ張られるような推進力を感じる。
相変わらず何もない海だった。水平線が延々と続く景色を、当てもなく進んでいく。
欠伸を噛み殺しながら操縦桿を握り続けること、およそ三十分。
ディスプレイの奥に、水平線とは異なる線が見えた。
俺は身を乗り出した。
目を凝らす。水面の反射と見間違えたかと疑ったが、近づくにつれてその輪郭は明確になっていく。
陸だ。
操作盤のレバーを押し込み、速度をめいっぱい上げた。
潜水艦が加速し、波を蹴立てて陸へ向かっていく。
近づくにつれて全容が見えてきた。
期待していたほど大きな陸地ではなかった。小さな無人島のようだ。砂浜と、低い木々の茂みが見える程度の規模。
同時に、海の色が変わり始めた。
深い青から、透明度の高い浅い青緑へ。海底の砂地がディスプレイ越しにうっすらと見え始めている。浅瀬だ。
俺は速度を落とし、座礁しないよう慎重に距離を詰めていった。
近づけるところまで近づいて、潜水艦を停止させる。
ディスプレイに映る小さな島を、俺はしばらくの間、無言で眺めていた。




