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【システムメッセージ】
2型Ω逃走成功
* * *
ハルは、右手首から浮かび上がったホログラムを指先で振り払うように消すと、静かに目を瞑った。
水中だった。
頭上でゆらゆらと揺れる光が、水面の在り処を示している。
その光が届くか届かないかという深さで、ハルは兵士の男に背後からがっちりとホールドされていた。
兵士は軽装とはいえ、金属の鎧を着込んでいる。
何もしなければ、その重量で二人ともずるずると川底へ沈んでいくだけだ。
* * *
兵士の男は、こう考えていた。
『水の中では、鎧を着込んだ自分の方が沈んでいき、不利になる。だから道連れに水へ飛び込んだのだ――と』
だが、それは誤算だ。
男は今でこそ汚職に手を染め、随分と訓練をサボっている身ではあるが、腐ってもこの町の兵士。
体に染み込んだ過去の鍛錬は、そう簡単には裏切らない。
鎧を着たまま、人一人を抱えて泳ぐことくらい、造作もなかった。
男は水中で、ハルを掴んだまま力強く水を蹴り、上昇を始めた。
もちろん、ハルへの拘束を緩めることは一切しない。
男が上昇しようとした、その時。
その腕に抱えられたハルは、逆に川底へ向かって潜ろうとした。
男の動揺を無視して、ハルは水を足で掻く。
胸から上を抱え込まれ、両腕の自由は奪われている。
だが、水中では足は地面に縛られない。下半身さえ動けば、人は泳げる。
ハルは、泳ぐのは得意な方だった。
それでも訓練を積んだ兵士に真正面から敵うとは思っていない。
だが、鎧という重りを背負った男と、丸腰のハル。その重量差が、両者の力を水中で拮抗させた。
空気を求めて浮上したい男。
川底へ向かって潜ろうとするハル。
ぐ、と互いの力がぶつかり合い、二人の体は水中で奇妙な静止状態に陥った。
息の、我慢比べだった。
これが陸の上ならば、殴ってしまえば終わりだ。
しかし水中では、拳の一撃も水の抵抗に殺されて、有効打になり得ない。
男は、ふと思い出した。
水に飛び込む直前、ハルが口にした言葉を。
『お前は、どこまでついて来れるんだ? ――海まで、来れるか?』
あの言葉は、ただの強がりではなかった。
川には、水流がある。
今この瞬間も、男とハルは絡み合ったまま、その流れに乗せられて運ばれ続けている。
両者の息が尽きるのは、どちらが先だろうか。
息の続く時間は、運動量によって左右される。
何も動かなければ、男は長時間、息を止めていられただろう。
だが今はどうだ。腕の中で執拗に逆らい続けるハルを押さえ込みながら浮上するために男は絶えず力を使い続けている。
拘束する側と、される側。
酸素を多く消費しているのは、どちらだ。
そこまで考えたところで、男は己の敗北を悟った。
今は一度、拘束を解いて浮上するしかない。
水面で息を吸い、再び潜って、改めてこの男を捕まえ直す。
それしか、ない。
男が、腕の力を抜こうとした。
その瞬間、異変に気づいた。
ハルの体から、黒い影のようなモヤが滲み出ていた。
水に溶けて広がっていくそのモヤは、朧げながらも、次第に人の手のような実体を伴っていく。
幾本もの黒い手が、水中でゆらりとうねり、ハルと男の体にまとわりついていった。
ほぼ同時に、ハルもまた異変を察知していた。
突然、男の腕の力が完全に緩んだ。
次の瞬間、男は大量の気泡を口から吐き出しながら、慌てて水面へと浮上していく。
その横顔は、これまでの余裕が嘘のように、明確な動揺と焦りに歪んでいた。
そんなに息がギリギリだったのか。
ハルは訝しんだ。
この我慢比べ、思ったよりもあっさり解放されたせいで、ハルの方にはまだ息に余裕が残っていた。
拘束が解けたなら、好都合だ。
ハルは川の流れに沿って泳ぎ出そうとしたがその瞬間、ハルの体が、ぐん、と大きく引っ張られた。
* * *
明らかに、水中を進む速度がおかしい。
自分が泳いでいる速度ではない。
手足を動かす量に対して、進む距離が異常に大きい。
――違う、これは。
引き込まれている。
ハルは自分の体を見下ろした。
黒い手のような影が、依然としてハルの胴体にまとわりついていた。
そしてその影が、ハルの体を川の流れに沿って、強引に引きずっているのだ。
何が起きているのか、まるで理解が追いつかない。
影は勢いを緩めるどころか、進むほどに数を増し、力を増していく。
まとわりつく黒い手の感触は、冷たくも熱くもなく、ただ「無い」。触れられているはずなのに、何の温度も伝わってこない。
猛烈な速度で、視界が後方へ流れていく。
水の抵抗が顔を叩き、目を開けているのもやっとだった。
――息が、もう……持たない。
肺が、燃えるように酸素を求めていた。
胸の奥が締めつけられ、視界の端から徐々に暗くなっていく。
意識が朦朧としかけた、その時。
ハルの霞む視界に、見慣れた影が飛び込んできた。
潜水艦だった。
それはまるでハルの進路を読んでいたかのように、真正面に立ち塞がるようにして現れた。
影に引きずられて突っ込んでいくハルの体を、潜水艦の硬い船体が、正面から確かに受け止める。
ハルは、その船体に張り付いたまま、最後の力を振り絞ってよじ登った。
潜水艦も浮上していたのか、ほとんど這い上がると同時に、体は水面を突き破った。
「ぷはァッ」
外気に触れた安堵で、ハルは大きく息を吸い込んだ。
何度も、何度も胸を上下させ、酸素を貪るようにして呼吸を繰り返す。
燃えていた肺に空気が満ち、暗くなっていた視界が少しずつ明るさを取り戻していった。
あの黒い影は、海面より上には登ってこられないらしい。
潜水艦の周囲の水中で、溶けたインクのように、ゆらゆらと佇んでいるだけだった。
「ハァ……ハァ……なんなんだ、この影は――」
まだ気持ちが落ち着ききらないまま、ハルは周囲を見渡した。
港町バババからはそう遠くない距離だ。
だが、ここはもう川ではなく、紛れもない海だった。
川の流れに乗せられ、あの影に引きずられて、一気に海まで運ばれていたということだ。
右手首が振動した。
2型の位置を示す表示を確認し、その方角へ目を向ける。
少し離れた水面に、こちらに向かって大きく手を振っているミースの姿があった。
ハルは、ようやく息を整えると、力なくその手に振り返した。
* * *
【バニクジラ】
ヴィソン村近海に現れる、白いクジラのような魔物。
魔物ではあるが攻撃性は低く、全長は二十メートルほど。
脂肪が多く、その肉は美味で、油は燃料にもなる。
主に海面付近にしか現れないが、バニクジラを狙って深海の魔物が海面付近まで上がってくることがあるので注意が必要。
バニクジラの生態は謎が多い。
他の魔物に狙われる立場でありながら、その体躯は大きく、戦闘能力はほぼ皆無。
数が減っていく一方に思えるが、定期的に現れるため絶滅はしていない、謎の多い魔物である。
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