12
俺は潜水艦のベッドで目を覚ました。
寝起きの体を一度伸ばしてから、潜水艦に備え付けられた狭いシャワー室へ向かう。
簡単に体を流すだけのつもりだったが、潮の塩気を落とし、ぬるい湯で頭を洗い流すと、それだけでも気分は随分とさっぱりする。
付属のタオルで髪を乾かしながら、少し広くなったキッチンに立ってフライパンを火にかけた。
節約して使ったつもりだったが、シャワー一回で真水のメーターは三分の一近く減っていた。
ヴィソン村で貰った、魚の切り身が入った壺の蓋を開ける。
壺の中には黒っぽい液体に漬かった魚の切り身がぎっしりと詰まっていた。これは生の魚を魚醤などで漬け込んだ保存食で、食べる時には焼いて火を通すらしい。
長期保存には向かないが、一月ほどは持つとウェルが言っていた。
壺から取り出した切り身をフライパンに乗せた瞬間、潜水艦の狭い内部に凄まじく良い香りが充満した。
魚醤の旨味と、表面が焦げ始めることで生まれる香ばしさ。鼻腔の奥まで深く沁み込んでくるような匂いだ。
まだ口にしてもいないのに、唾液が勝手に溜まってくる。
火が通ったタイミングで、壁面に固定された皿の固定具を外して盛り付ける。
ベッドに腰掛け、膝の上に皿を置いて、俺は食事を始めた。
黒く見える切り身を口に運ぶ。
見た目に反して、味は思ったほど濃くなかった。
むしろ控えめな塩気と、香辛料のような鼻に抜ける香りが特徴的だった。魚の脂と、漬け汁の旨味と、わずかな辛味。三つが綺麗に調和している。
「うめぇ」
思わず声が漏れた。
干物の切り身も別途用意していたので、それも齧るように食べる。
こちらは口の中の水分を一気に持っていかれるが、噛むほどに旨味が滲み出る。
一通り満足して食べ終えると、ふと右手首に振動を感じた。
警告音だった。
【警告】
人間が近づいています
その表示を確認した俺は、口を拭ってベッドから立ち上がり、上部ハッチから外へと出た。
* * *
早朝の港に立っていたのは、でっぷりと太ったババ・ロウだった。
昨日と同じく、武装した兵士を数人引き連れている。
ただし、昨日とは違って、その目には明らかな威圧の色が浮かんでいた。
「おはようございます。どうかされましたか?」
俺はできるだけ穏やかな声色で挨拶を返した。
「――金が届いていないが?」
その一言を聞いた瞬間、俺の頭の中で様々な思いが駆け巡った。
昨日の店主の人懐っこい笑顔。代理で支払うという申し出。握手。
それらが全て、別の意味を帯び始める。
しかし、口から出たのは情けないほどに間の抜けた声だけだった。
「えっ」
たったその一音で、ババ・ロウの表情が変わった。
「怪しい奴め。捕えろ」
その合図と共に、兵士たちが一斉に動いた。
既に丸腰で桟橋まで出ていた俺には、なす術がなかった。
両腕を背後に回されて拘束される。
「ご、誤解です! 紹介していただいた店主が、代理で納めると聞いています」
「契約書はどうした? お前は商人なのだろう? 契約書もなしに金を預けたとでも言うつもりか。それに、その店主からは『納めていない』と聞いているのだが?」
――騙された。
いや、違う。
俺が、甘すぎた。
昨日の店主との会話を脳内で反芻する。
考えてみれば、契約書もなく口約束だけで五十万バルの代理支払いを引き受けてもらえる方が、よっぽど不自然だ。
あの店主とババ・ロウは、最初から繋がっていたのは分かっていた事だ。
俺は抵抗する力を抜いた。
ここで暴れたところで状況は悪化するだけだ。これは俺の落ち度だ。
「全て、――没収だな。その乗り物も」
最後に聞こえたその言葉に、俺は顔を上げた。
ババ・ロウが、海面に浮かぶ潜水艦の表面をペタペタと触っていた。
その表情には、商品を吟味する商人のような、あるいは新しい玩具を手に入れた子供のような、楽しげな色が浮かんでいた。
――あぁ。
こいつは、これが狙いか。
俺は引きずられるようにして、兵士たちに連れて行かれた。
幸いだったのは、兵士たちが思いの外乱暴に扱わなかったことだ。
手首は背後で縛られていたが、地面を引きずられるようなことはなく、歩調に合わせて連行してくれた。
恐らく彼らも、内心ではこの仕打ちが正当ではないと知っているのだろう。
町の奥まで連れて行かれ、最後に押し込まれたのは地下牢だった。
石造りの冷たい床と、鉄格子の扉。
窓は天井近くに小さなものが一つあるだけで、薄暗い光が斜めに差し込んでくるだけだった。
空気は湿っており、かすかにカビと汗の臭いがする。
* * *
地下牢には、既に先客がいた。
俺が押し込まれたのと同じ部屋。
奥の影の中に、一つの人影が見える。
兵士たちが鉄格子の扉を閉め、施錠して立ち去っていく。
その足音が完全に遠ざかってから、影が動いた。
影の中から顔を覗かせたのは、力の抜けるようなニヤけた表情だった。
「私の同房にしては、やけに諦めが早いねー」
俺は石の壁に背を預けて座り込みながら、ゆっくりと顔を上げた。
目に入ったのは、銀色の長い髪を後ろで一つに括った、綺麗な顔立ちの少女だった。
歳は俺よりも少し下くらいだろうか。
薄暗い地下牢の中でも、その銀髪は淡い光を反射してきらめいている。
同じ立場のはずなのになぜか彼女が纏う空気はこの陰鬱な場所に馴染んでいなかった。
「もっと、ガツンと生きなさいよね」
声の温度に、不思議と棘がなかった。
むしろ、知らない誰かを励ますようなお節介な気軽さがある。
俺は短く息を吐いた。
全財産を奪われ、潜水艦も没収され、地下牢に放り込まれた。
客観的に見れば、状況は最悪の一言だ。
だが。
――悪いことばかりでは、ないのかもしれない。
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