008.蟻と蜘蛛
「きみは道端のアリを踏み潰せる?」
突然、シャルルがアリスに向かってそんなことを口にした。あまりに突拍子のない質問にアリスは戸惑いながらも「そんなことしないわ」と自分が思ったことをそのまま伝える。
「倫理観の話をしているんじゃない。命を奪うことに対する抵抗感の話だよ」
シャルルの言葉に、アリスは再度考え込む。この会話が先刻の「僕は昔、母さんと父さんを殺したんだ」という台詞にどう繋がるのかは分からなかったが、命を奪うことに対する抵抗感の話、と題目を伝えられれば先ほどとは違う回答になる。
「多分、踏みつぶせるわ」
「それなら、犬は殺せるかい?」
「殺せないわ。だって可愛いもの」
「そうだね。僕もそう思う。けれどこれは極端な例だ。じゃあ、アリとイエグモどちらか片方を殺さなければならなくなったら、どちらを殺す?」
「その選択肢だったら、イエグモかしら。私、クモは苦手なの」
「どこが苦手?」
「……脚が多くて気持ち悪いところとか、動きが速いところとか」
「イエグモは害虫を食べてくれる益虫だ。アリよりも人間にとって有用だと思うけど」
「でも、見た目がアリよりも不快よ」
「なるほど。それがきみから見たアリとクモなわけだ」
アリスは黙って頷いた。この問答は何の意味があるのだろうと思いながら、シャルルの次の言葉を待つ。
「僕にとっての人間は、きみにとってのクモと同じなんだ」
「どういうこと?」
アリスは問い返す。「そのままの意味だよ」とシャルルは小さく笑う。
「僕の目には人間がひどく不快に見えるんだ。化け物に見えると言ってもいい。形容するなら、そうだな――。蠅と飛蝗とゴキブリを足して三で割って人間の骨格に当てはめた感じに見えるんだ。それはきみにとってのクモと一緒だ。害はなくてもそれを不快感が上回る。
クモを殺すとき、『気持ち悪い』以外の殺意を持たないだろう? 僕にとっての人間がそうだ。ただひたすらに気持ちが悪い。見た目が不快。言葉を交わせるとしても、それを軽々と越えてしまうほどの嫌悪感と忌避感がある。それは強い殺害衝動になる。台所で見かけたゴキブリ、腕の上で血を吸う蚊、屋内の灯りに誘われて部屋に入ってくる蛾、静かに壁に張り付いている蚰蜒。この並びに、僕の場合は人間が入ってくる。害の有無や大小など関係ない。不快だから殺したくなる。そうして僕は、両親を殺してしまった」
アリスは息を呑んだ。シャルルの言葉が続く。
「……物心がついたときには、僕は生き物を殺すことに対する抵抗感が欠落していた。それと一緒に、硬度を無視した切断を可能にする『権能』を獲得し、人間が化け物に見える呪いにかかっていた」
「女神の寵愛……」
アリスはぽつりと呟いた。
それについて、アリスはよく知っている。
『権能』は、人間が女神に選ばれ寵愛を受けることで授かる特別な力だ。
歴史の転換点には、権能を持った何者かが必ずいる。おとぎ話に出てくる邪竜を倒した英雄ルイスが、権能を持った人物として世間では知られている。
それは現代においても例外ではない。魔王を討ちに旅に出たとされる勇者とやらが権能を持っているともっぱらの噂だ。それはある種、英雄の資質とも言えよう。
そして、シャルルもそれを持っている。
ただし、女神の寵愛が重すぎると、愛は転じて呪いに姿を変えることがある、という風に書物の中では書かれることが多い。
真偽は定かではなかったが、シャルルの状態を見るに、呪いは存在するのだろう。
「僕の目に、きみがどんな風に映っているか教えようか。それはもう、気色の悪い見た目をしているんだ。大きな複眼に、時々蠢く小さな顎、左右に揺れる触覚、草木に紛れるような緑色の外骨格。手の形だって、人間のそれじゃない。指は三本で、先端がかぎ爪のように湾曲している。全身の骨格からは棘や毛が生えていて――。心の底から気持ちが悪いと思う。だから、僕はきみたち人間を避ける。視界に入れたくないんだ。言葉さえ交わしたくない。声は普通に聞こえるさ。でも、きみのその容姿のどこから、そんな可愛らしい声が出ているんだ。その歪さが僕には耐えられない。でも、きみたちは紛れもなく人間だ。だから僕は、こうして我慢して生きている」
シャルルは俯いて言った。
アリスはどんな言葉を返せばいいのか分からず、ふと疑問に思ったことを口にする。
「……どうして、そんな気持ちの悪い化け物が人間だと分かったの?」
「僕が初めて殺したのが両親だった。両親が死んだ瞬間、二人の遺体は化け物ではなく人間に見えた。要は、生きている間だけ化け物に見えるんだ。命が失われて生命でなくなった瞬間、それは本来の姿として僕の前に姿を表す。殺害衝動の一部分に、そういった理由はあるだろうね。殺してしまえば、本当の姿がどんなだったのか分かるから。歪んでいるだろう? 歪んでいるさ。歪んでいるとも。こんな世界で、歪まずにいられるか」
シャルルの声は、まるで怒っているような、悲しんでいるような、諦めているような、そんな静かな声だった。
アリスは何も言えなかった。
「これで満足かい?」
シャルルの言葉に黙って頷くだけだった。
こんなもの、どうにもならないではないか。
彼がアリスを避けるのは至極当然のことだ。無理やりにでも近づいてくるクモが居ようものなら、アリスは全力で逃げる。それと同じことだ。
アリスは膝を抱えて座ったまま、少しだけ後ろに下がる。シャルルから距離を取る。わざとらしく見えてしまうかもしれないが、シャルルにとってもその方がいいはずだ。
「長話が過ぎたね。そろそろここを出る手筈を考えようか」
シャルルが言う。アリスは黙って頷く。
なんとなく、声を出さない方がよいのではと考えた。その方がシャルルも楽だと思った。
「……今更気をつかう必要はないよ。とはいっても、こんな話をしたのは他でもない僕なんだけどね」
「でも……」
「僕には銀階級冒険者として、きみを地上に送り届ける義務がある。仕事だと思えばそれほど辛くないよ。人を助けることはよくあることだ。こういうのは慣れている」
シャルルは立ち上がると、胸の前で左の掌を上に向けて広げる。
「炎を」
短く唱える。すると、彼の掌の上に小さな炎が灯った。
その炎に、フードを被っていないシャルルの顔が照らされる。
暗闇の中で見ても彼の容姿の端麗さは見て取れたが、灯りに照らされると尚のことである。髪は銀に近い白で癖毛。瞳の色は月をはめ込んだような薄い黄金色で、その美しさにアリスの青い瞳は吸い込まれそうになる。
ふと、彼の身に着けているものに目が行く。
「あなた、剣の女神さまの信奉者なの?」
そう言ったアリスの目には、彼の首から提げられている獅子と剣を模した首飾りが映っていた。
「いいや。むしろ嫌いだね」
シャルルはアリスの方に見向きもせず、壁や天井、地面に顔を近づけて観察しながらそう返す。「だから僕は強化魔法が使えないんだ」と付け加える。
魔法を行使するためには、女神に対する信仰心が必要だ。そして呪文とは、女神に対する力の請願だ。
先刻のシャルルが使った炎を出すだけの魔法。あのとき唱えた呪文は、炎の女神サラヴィスに対する請願だ。これは、ただ口にするだけでは意味がない。信仰心が伴っていなければ、魔法は発動しない。つまるところ、シャルルは炎の女神に対しては多少なりと信仰心を持っているのだろう。
それだけではない。魔法を使うには、体内の魔力を消費する。いくら信仰していても、魔力が無ければ魔法は使えない。今のアリスがそれである。
まあそれにしても、「強化魔法が使えない」なんてことを皮肉っぽくシャルルは言っているが、アリスから言わせてみればそんなもの必要ないだろうとなる。何しろ、彼には女神に与えられた権能がある。
ふと、あることに気づく。
「もしかして、あなたの権能って」
「そう、剣の女神リオナの権能。僕は彼女のせいで強くなれたけど、彼女のせいで見える世界を歪められた」
やはりそうなのか、とアリスは思う。
シャルルの権能は『硬度を無視した切断』であるというのは本人が口にした通りだ。さながら、強化魔法のようだ。
魔法には、それぞれを司る女神がいる。
炎の魔法には炎の女神、水の魔法には水の女神――。
強化魔法を司るのが剣の女神リオナであることを考えると、強化魔法にも似た彼の権能が誰の寵愛によって与えられたのかも想像がつく。
「じゃあ」
とすると、一つの疑問が浮かび上がる。
「どうしてあなたは、嫌いな女神さまの象徴を身に着けているの?」
尋ねると、シャルルは相変わらずアリスに背を向けたまま「なんだろう、復讐かな」とだけ答えた。アリスには意味が分からなかった。それ以上は何も聞かなかった。




