007.悪い夢
意識を取り戻したアリスはゆっくりと目を覚ます。
瞼は少し重たい。視界がぼやけているような気もするが、辺りは闇に包まれており何も見えなかった。
身体を起こしてみる。音の反響具合からして、それなりに広い空間にいることは感じ取ることができた。
ただ、それだけだ。
それだけ分かって、アリスは膝を抱えて縮こまった。背後に何もないと不安に感じたので、壁を手探りで探して、壁に縋った。先ほどの沼に引き込まれたときに濡れたスカートを膝と一緒に抱える。
土の臭い。ジメジメとした肌に纏わりつく空気。静かなせいか、それ以外の音も聞こえる。まるで、そう、土の中を何かが掻き分けて進む音。
あの芋虫だと直感的に思った。あんなのが土の中にうじゃうじゃ住んでいるのだ。
自分が置かれた状況を整理するとか、それどころではなかった。ただひたすらに怖かった。だって今の場所は、あまりにも初めて迷宮で気絶してしまったあの穴にそっくりだから。
一つ違うことがあるとすれば、今回は一人ではないことだろう。
暗闇に慣れてきた目に、一人の人間の姿が映る。シャルルだ。彼も沼に沈んで、この空間に落ちてきたのだろう。
彼の姿がより鮮明に見えるようになると、アリスは彼の元へ寄った。この絶望的な状況で、一人ではないことを感じたかった。シャルルは未だ気を失ったままだ。
人がいることを感じて少しだけ安心した。思考の容量を恐怖から一部分だけ切り取って状況整理に充てるだけの余裕ができた。
こうなってしまった要因を考える。魔物の仕業であることは容易に想像することができる。未知性を考慮すれば幼虫が成長した成虫の可能性が濃厚だが、断定はできない。
次にこの部屋。仮に罠の類だとすれば、この部屋には何らかの仕掛けがあるはずだ。それこそ、どこからともなく魔物が出てくるとか、麻痺性の毒が出てくるとか――。
そこまで考えて、アリスは口元を押さえる。過去の記憶を、おぞましい経験を思い出して呼吸が浅くなる。自然と涙が目に溜まって視界が歪む。
『暴食の石棺』で魔粘体生物を倒したが、それで迷宮に対する恐怖心が消えてなくなったわけではない。それに、状況としてもスライム退治と今では、今の方がトラウマの元凶になった人食い花の巣に近しい。余計に恐怖心を煽るだけだ。
アリスは一度深呼吸を試みる。目を閉じて、何も考えないようにして、呼吸をすることだけを意識する。吸って、吐く。吸って、吐く。
いくらか呼吸が整った。まだ心臓は落ち着きを取り戻していないが、そのうち鎮まるだろう。もう迷宮について考えるのは止めよう。心の毒になってしまう。
そう思って、アリスは傍らで横たわっているシャルルに目を向ける。
暗闇だから正確なことは分からないが、初めて彼の顔を見た。
フードで隠されていたその顔は、鼻が高く、端正な顔立ちで、少し癖のある髪が目元に少しかかるくらいの長さだ。髪色は分からない。歳は――、目測でアリスの二つか三つ上、十七歳か十八歳といったところだろう。
正直なところ、もっと年上だろうとアリス自身思っていた。目を閉じて小さく呼吸する姿はまるで子どもみたいで、同い年だと言われても信じてしまうだろう。
「か――さ――……」
シャルルの口が動く。固く目を瞑り、苦しそうに眉間にしわを寄せている。夢でも見ている。何かに魘されているのだろうか。
アリスはシャルルの頭側に回って星座をすると、彼の頭を持ち上げて自分の腿に乗せた。
小さい頃、悪い夢を見たときに姉がよくやってくれていたものだ。膝枕をしてもらえるとどこか安心してか、悪い夢は遠のいていく。目を覚ますといつも姉の微笑みがアリスを見下ろしていた。
だから、悪夢に魘される人には膝枕をしてやるのがいいのだと、アリスは自分の経験から学んでいた。
スカートが濡れているため寝心地は悪いだろうが、そこは我慢していただこう。
「母、さん」
シャルルの口が再び動く。
「ごめ――なさ、い……。父さ、ん――、ごめん、なさい。殺して――ごめん……さい」
途切れ途切れだったが、そんな寝言が聞こえた。「母さん、ごめんなさい。父さん、ごめんなさい。殺してごめんなさい」アリスには確かにそう聞こえた。
なんて恐ろしい夢だろうと思った。両親を手にかける夢でも見ているということなのだろうか。それとも――。
アリスは膝の上で寝息を立てる青年の前髪を指先で払う。
もしや、これがゲールの言っていたシャルルの「弱い部分」なのだろうか。過去に何らかの理由で両親を手にかけてしまって、それをずっと悔いていて、そんな過去を抱えながら生きているのだとしたら――。
こればかりはアリスにも想像はつかない。姉は病気で亡くしたが、両親は元気だ。それどころか、両親の教育に嫌気がさして家を飛び出した。親と仲違いできるだけ、恵まれている環境だったとも言えよう。
そう考えると――、仮にシャルルが両親をすでに無くしているのだと考えると、彼のことが可哀そうになった。アリスは彼の前髪を払った左手を今度は彼の頭に宛がう。そうしてフードの上から優しく撫でた。まるで、泣いている子どもをあやすように。
苦しそうなシャルルの表情は少しずつ和らぎ、再び穏やかな呼吸を取り戻す。そして、彼の瞼がゆっくりと持ち上がった。
開かれた眼が、アリスを捉える。
その直後、シャルルは跳ねるように飛び起きると、アリスの方を向いて剣を右手で抜いた。そのまま横なぎに腕を振り抜く。
剣の軌道上に、アリスはいた。
アリスにはあまりにも突然のことで、何が起きたのか理解できなかった。魔物が現れたのか。それに気づいてシャルルが剣を抜いたのか。そんなことを考えたが、アリスの頬に少しだけ食い込んで傷を作っている彼の剣が、全ての答えだった。
彼の目はアリスをじっと見ている。その眼光は殺意に満ちていて、ある種の憎悪さえ感じさせた。
その視線で、剣を抜いた理由が「アリスを殺すことだった」ことを一瞬にして理解した。
「なっ……」
何で、何が――、そんな言葉を吐こうとしたアリスの口は震えてしまっていて、何も言えないままだった。
だが、震えていたのはアリスの口だけではなかった。
シャルルの剣が、わずかに震えているのだ。
アリスは剣から逃れるようにして、地べたに座り込んだまま後ずさる。後ずさりながら、剣の切っ先から彼の腕までを目で追った。
振り抜こうとした右腕を、左手で握りしめている。手首の辺りだ。まるで、右腕の動きを静止させようとするかのように、左手に力を込めて、右の手首を掴んでいた。
その力に押し負けるように、右手が開く。剣がカランと乾いた音を立てて、シャルルの手から滑り落ちた。
そして、取りこぼされた剣からシャルルに視線を持ち上げる。
暗闇だから正確なことは分からないが、目を見開いて何かに驚くような表情をしていたようにアリスには見えた。呼吸は荒く、土で覆われた空間に彼の息を吐く音だけが舞っている。
明らかに様子がおかしかった。アリスが今まで見てきたシャルルのそれとはまったく違った。例えるならば、何かにひどく怯えているような。あるいは取り返しのつかないことをしてしまったときの焦りが交じった後悔のような。
またあるいは、親に棄てられてしまった子どものような――。
アリスは眼前のシャルルの様子に、自分の頬に走る切り傷の痛みなどとうに忘れていた。流れる血さえ気にならなかった。ただひたすら、彼を落ち着かせることを考えていた。
こんなとき、姉だったらどうしただろう。どうしていたっけ。少し状況は違うけど、森で迷子になってしまって、呼吸をすることすら忘れて咽び泣いていたのを見つけたとき、姉はどうしてくれていたっけ。どうやって、落ち着かせてくれたんだっけ。
そんな思い出を懐古していたのはほんの一瞬だった。アリスが取った行動はほとんど無意識だった。無意識的に、アリスは自分の腕を伸ばして、彼の後頭部に回して、その胸に抱き寄せようとしていた。
「触ら、ないでくれ」
シャルルの後頭部に腕を回した直後、腕と彼の頭が触れる直前に、彼は未だ整っていない呼吸の中で静かにそれだけの拒絶を吐いた。
「頼む、から。僕に触れないで、くれ」
「でも……」
「頼むから」
念を押すように言うと、頭を抱えるように目元を両手で覆った。
アリスは立ち上がってシャルルから距離を取る。五歩程度離れたところで、シャルルの方を向きながら膝を抱えて座り込む。
拒絶されたこと自体は気にならなかった。彼が人に対して苦手意識を持っているのは知っている。それなのに彼に触れようとしたのはアリスだ。拒絶されたって文句は言えない。
だが、それ以上に彼の内側が、心が、アリスにとっては気がかりだった。
シャルルは頭を抱えたまま、深く息を吸って吐いている。これを二、三度繰り返し、最後に大きく息を吸って天井を仰ぎ見た。
ゆっくりと息を吐く。表情を見られないように顔を深く俯かせる。
「……ごめん。きみを殺したかったわけじゃないんだ」
先ほどの行動とアリスに向けた眼光とは正反対の言葉をシャルルは口にした。その声色はアリスのよく知るシャルルのものだった。取り乱した彼の姿はもうどこにもいない。
一体何が彼の心を乱したのか。今の冷静かつ穏やかな口調からは想像もできない殺意が、彼の剣には籠っていた。アリスにはそんな気がしてならなかった。
「あなたは、どうして人が嫌いなの?」
静かな声でアリスが問う。俯いたままのシャルルをじっと見つめる。顔を上げてはくれない。
「……それを聞いてどうする」
問われ、アリスは考える。彼の内側が、どうなっているのか気になった。たったそれだけと言えばそれだけだ。
彼は人間が嫌いらしい。それは彼の行動を見ていれば嫌でも分かる。でも、それと同時に彼は人間に手を差し伸べてしまう優しさがある。そうやって、アリス自身も命の危機に瀕したところを助けてもらっている。
彼と出会ったとき、「人を助けるのもよくあること」と言っていた。人を嫌っているにもかかわらず、人を助けるのだ。この発言が、アリスを遠ざけるための嘘である可能性は残っているが、アリスは彼に二度救われたのだ。人を選んで助けているわけでもあるまい。きっとこの言葉は真実なのだろう。
つまるところ、彼の存在の矛盾性が、あまりにも危なっかしくて、片方に倒れてしまいそうで、不安定にアリスには見えた。ゲールが言っていたこともこれなのだろう。
支えてあげたいと思った。ゲールに言われたからと言ってしまえばそうなのだが、それ以上にアリスはシャルルに恩を感じている。恩を返す機会を探している。強くて人間が嫌いな彼に、アリスの恩返しなど必要ないのかもしれない。だが、アリスは彼の弱い部分を見た。誰も支えてやれていない部分を知った。それを知って放っておけるほどアリスは冷たくなかったし、何よりもアリスは姉に似てお節介焼きだった。
「あなたを支えたいの」
アリスはそれだけの単純明快な答えを伝える。
「支えたい?」と不思議そうな声が返ってくる。
「きみに支えてもらえるほどの人間じゃないよ、僕は」
「じゃあどうして、そんなに苦しそうなの? どうして、人を避けるの? どうして、ご両親に謝っていたの?」
アリスの言葉の最後を聞いたシャルルの肩が小さく跳ねる。
「僕、寝言を言っていたのか」
「ええ」
アリスが返すと、シャルルは深く長い溜息をついた。
「そっか。僕はどんな寝言を言っていた?」
「……『母さん、父さん、殺してごめんなさい』って」
アリスがシャルルの問いに答えると、少しの間だけ沈黙が続く。そうしてようやく口を開いたシャルルからは、いたって冷静で、過去を懐かしむようにこう絞り出された。
「僕は昔、母さんと父さんを殺したんだ」




