006.幼虫②
「嬢ちゃん、気ぃしっかり持て」
ゲールのその声を皮切りに、視界が明瞭になる。
「いっ、今のは……?」
「安心しろ。あの芋虫の攻撃じゃあねぇ。翼腕種が使えるっちゅうカーリィの『才技』だ。叫んで気絶させるだけの単純なやつだ」
「なるほど」とアリスは納得する。
翼腕種という種は、その声に強い特徴がある。古くは綺麗な歌声で人間を騙し、物を奪って生活していたらしいが、人間との関わりあいが深く密になったことで、その特徴的な声が原因で騙す側から騙される側へ、奪う側から奪われる側へと変わっていた。
雌雄比率が女性の方が多く、人間より優れた膂力を持ち、歌声という一芸があることで、歴史の中で彼女たちは人間の奴隷売買の犠牲者となった。
ただ、彼女たちを用心棒として使った事例は少ない。その理由が、件の『才技』にあるのだろう。あんな風に叫ばれて気絶してしまえば、彼女たちを縛り付ける鎖など容易に引き千切って逃げてしまう。
かつて家庭教師に教えられた歴史の授業を思い出しながら、アリスは視線を叫ばれた魔物――つまりは巨大な芋虫の方に向けた。
ゲールの話であれば、芋虫も気絶して倒れているはずなのだが――。
「気絶してないじゃない!」
アリスはゲールに向かって叫ぶ。
「実力差があり過ぎるんだ。カーリィは冒険者になってまだ三か月だ。成長速度は比較的速いが、この迷宮で戦うには実力不足なんだよ。ただ、効果はゼロじゃねぇ。大将にとっちゃそれで十分だ」
確かに、ゲールが言った通り効果がないわけではないというのは事実だろう。アリスの視線の先で揺らめいている芋虫は、勢いよく出てきたわりには攻撃を仕掛けてくる気配がない。それどころか、何かに苦しむように身を捩じらせているようにも見える。
そんな観察の最中、突如一匹の芋虫が緑色の体液を炸裂させながら倒れた。いや、崩壊したと言うべきだろう。
一匹、また一匹と、瞬く間に芋虫たちが単なる肉片へと化けていく。
事の原因がシャルルであることはアリスにもすぐに分かった。ただ、彼の芋虫に対する攻撃どころか、その姿さえも目で追うことはできない。
一匹目が崩れてからわずか四秒足らずで事態は収束した。
切り刻まれた肉片の山の前にシャルルが着地したのが見えた。空でも飛んでいたのだろうか。はたまた跳躍していたのかはアリスには判別がつかなかったが。
シャルルは剣に纏わりついた緑色の芋虫の体液を、剣を振って払った。外套の内側に左手を突っ込んで布切れを取り出すと、残りの汚れを丁寧に拭き取る。
「みんな無事だね?」
振り向きざまにシャルルが言う。彼のところに一番に駆け寄ったのはカーリィだった。
「無事! すごい元気! ねえ、私の『才技』どうだったどうだった?」
カーリィはまるで子どものようにシャルルに抱きつくと、視線をフードで隠れた顔元に向ける。
「うん、前よりも声量が大きくなったね。初めてこの迷宮に入ったときはあの芋虫にカーリィの叫びは届かなかったけど、今は足止めができる。すごい成長スピードだよ」
萌黄色の頭にぽん、と手を置く。それが嬉しいのか、カーリィは「えへへ」と顔を綻ばせている。
「カーリィ殿はシャルル殿を好いておられるのですよ」
そんな補足情報をシャッテンがアリスに伝える。まあ、それは教えられるまでもなく眼前の光景を見れば分かることではあるのだが。
「全員無事だぜ。嬢ちゃんも無事だ」
ゲールがシャルルの方に足を向かわせながら叫ぶ。シャルルはアリスを一瞥し「そうか」と返事をするだけだった。
シャッテンがゲールに続いて歩き出す。アリスも後に続いた。
「しかし不思議ですな。彼奴らの攻撃は糸を吐き出して吾輩どもに絡めること、その顎で噛みついてくるのみ。この迷宮はシャルル殿が出張るほどのものではないのかもしれませぬ」
シャッテンの言葉に、シャルルは「うーん」と唸り声を上げながら口元を押さえる。
「いや、まだそこは判別できないね。あの芋虫たちはいわば幼虫だ。ともすれば、きっとこの迷宮にはアレの成虫が生息しているはずだ。そっちの脅威度を測るまでは分からないよ」
なるほど確かにその通りだとアリスは思う。
先ほどの芋虫は、シャルルの前では刻まれるだけの肉塊でしかなかったが、それはあくまで、強者だから適用される話だ。これが仮に、アリスだったとしよう。その場合はきっと、一太刀浴びせられるかどうかも怪しいものだ。アリスの剣が届いたとして、彼のように切り刻むことも難しい。できて表皮の薄皮一枚に切れ目を入れることぐらいだろう。
それに、この芋虫たちが幼虫だと言うのであれば、成虫は更に強い。甲虫なのか蝶なのか蠅なのか蜂なのかは分からないが、確実に脅威になる。
「成虫にはまだ出会っていないの?」
シャルルはおそらく返事をしてくれないので、アリスはあえてゲールに尋ねる。
「ああ。まだ見てねぇな。しかし今はそんなモンを探してる場合じゃねぇ。嬢ちゃんを送り届けて事態を組合に報告するのが先だ。調査はその後だってできるからよ」
それを聞いてアリスは少しだけ申し訳なくなった。彼らの調査を中断させたのは他でもないアリスだ。調査を続けてもらいたい気持ちはあるが、魔物が出てきたってアリスは大して戦力にならないし、きっと足を引っ張ってしまう。
今だって、足が動かない。
――足が動かない?
アリスは視線を足元に落とす。アリスの目下、ちょうど人間一人分ぐらいの水溜まりのようなものができている。色は汚い緑色で、そこに膝まで浸かっている。いや、嵌まっている。
抜け出そうにもすでに手遅れのようで、底なし沼に嵌まってしまったように自重で徐々に沈んでいく。
助けを呼ぼうと顔を上げる。視線の奥、ゲールとシャッテン、それからカーリィが歩いて行くのが見える。
「誰か助けて!」
アリスは叫んだ。
しかし、誰一人として振り返らない。まるでアリスの声が届いていないかのように。そしてなぜか、視界がブレ始める。焦点が定まらず、置いて行く三人の姿が複数重なってみている。
沼は徐々にアリスの体を飲み込んでいき、既に胸のあたりまで沈んでしまっている。
「ねえ、誰か! 聞こえないの!?」
もう一度叫ぶ。体に力を入れて叫んでいるせいか、体が引っ張られるように沈んでいく。
「聞こえているよ。僕にはね」
その声に後ろを振り向くと、シャルルもアリス同様、沼に沈み込んでいた。アリスほどではないが、彼もすでに腰のあたりまで沼に嵌まっている状態だった。
「ねえ、これはどういうことなの!?」
アリスがシャルルに叫ぶ。アリスの頭の中は既に混乱していた。体の自由が利かない状態で、沈んでいく体を見るしかできないで正気を保っていられるものか。
「おそらくは魔物の仕業だ。この沼も、僕らの声がゲールたちに届かないのも。精神や感覚に作用する『才技』かな。それに、体に力が入らない。この沼自体がそういう毒だかなんだかなんだろう。僕も、意識が持たない」
そんなシャルルの説明も、既にアリスの耳には届いていなかった。彼の言った通り、弱体化の効果が現れているのだ。アリスの意識は既に微睡みの中へと指をかけていた。それと同時に体が全部、頭の先まで沼に飲み込まれ、落ちていく。
沼はどうやら魔法の類だったらしく、アリスを飲み込んだ後には初めから何もなかったかのように姿を消した。その光景が、シャルルが見た最後の光景だった。成す術もないまま、沼に沈んでいく。シャルルは霞が掛かった思考の中で、瞼を閉じることを選んでから沼に落ちていった。
§
シャルルとアリスがいなくなったことにゲールが気付いたのは、迷宮第五階層まで戻ったときだった。いついなくなったのかも分からない。気がついたときには彼らの姿が消えていたのだ。つい数秒前までいたはずなのに。
シャッテンの見解によると、才技で幻を見させられていたとのことだ。その間に、本物のシャルルとアリスはどこかに姿を消したのだと。
「ねえ、追いかけようよ!」
カーリィが目に涙を溜めながら訴える。
「大将が心配か?」
「当たり前だよ! 大好きなんだもん! それだけじゃない、アリスちゃんをシャルルと二人きりにするわけにはいかないの、ゲールだって分かるでしょ!?」
それは、確かにカーリィの言う通りだった。
シャルルをアリスと二人きりにさせることが良くないことであることは、シャッテンを含めた三人の共通認識でもある。
ゲールは情に厚かった。仲間が行方不明とあれば助けに行きたいに決まっている。だが――。
「ダメだ。俺たちは地上に向かう」
「なんでさ!」
カーリィがその手の鋭い爪を食い込ませながら、ゲールの胸倉を掴んだ。
「カーリィ殿、吾輩どもが全滅すれば、そちらの方が損害は大きいのです。それに、シャルル殿が策に嵌められてしまった時点で、吾輩どもが敵う相手ではないことは明白でしょう。銀階級の冒険者がしてやられているのです。金階級、下手をすれば白金階級の冒険者でなければ対処できないかもしれないのですよ」
シャッテンの説得にカーリィは下を向いて黙り込む。ゲールの胸倉を掴む手から少しずつ力が抜ける。ゲールは首の下を摩りながら一つ咳払いをすると、
「俺たちの仕事は魔物の壊滅じゃねぇ。迷宮の調査だ。今は情報を組合に持ち帰るのが先決だ。それに、大将なら同じ判断を下す。嬢ちゃんのことは心配だが、きっと上手くやる」
そう言って、「だから心配すんな」と最後に付け加えた。
「……ごめん。私、シャルルと離れちゃって冷静じゃなかった」
「問題ありませぬ。恋に狂えない者は、何事も真剣に成せぬのですから」
そんな冗談をシャッテンが言う。
「それ、誰の言葉だよ」
「吾輩の言葉です。今考えました」
鼻を鳴らす。だが、彼の冗談のおかげでカーリィの表情も幾分か柔らかくなった。
「さて、ともかく急いで地上に戻るぞ。大将がいねぇ今は俺が仮大将だ。しっかりついて来いよ!」
ゲールは盗賊頭領をやっていた頃を思い出しながら仲間に声を掛ける。
そうして三人は迷宮の出口を目指す。




